第18診『傲慢』
荒れ果てた執務室に、二人の強者が対峙する。
片や、静寂の底に佇む少女。
片や、その静寂を咆哮で打ち砕く男。
互いの身体には未だ一条の傷すら刻まれていない。
傍目には完全な均衡。
しかし、リコリスの呼吸は次第に浅くなり、上下する肩も隠せなくなりつつあった。
掌に宿る紅光も先ほどまでの輝きを失い、頼りなく明滅を繰り返している。
傷なき均衡の裏側で、彼女に残された力だけが静かに底へ近づいていた。
「クハハハッ! しかし強いな、貴様の異能はッ! 俺以外にしては、なかなかの使い手だッ!」
「ピンピンしてるくせに……。ほんとにムカつく……」
リコリスの腕に力が籠る。
抱きかかえられたテディベアの顔が、みるみるうちにクシャクシャになってゆく。
だが、先に表情を崩したのは塙原だった。
吊り上がっていた口角が下がり、眉間に深い皺が刻まれる。
「なんだ? まだ俺の異能が分からんのか。やはり、俺以外ではこの程度か……」
塙原は大げさに息を吐き、ゆっくりと首を左右に振った。
そして再び両腕を組むと顎を高々と持ち上げ、眼下のリコリスを睥睨する。
「私の手は……。何でも握り潰すの……。おかしいのはアナタ……」
「なに……? 可笑しい……だと……?」
塙原の眉がぴくりと跳ねる。
「今、この俺を──可笑しいと言ったのか?」
剥き出しになった肩が震える。
組まれた腕の下で胸筋が隆起し、腹部に刻まれた筋肉が深く収縮してゆく。
そして、次の瞬間──。
「俺は可笑しくなどなァァいッ!!!」
腹の底から解き放たれた咆哮が、執務室をびりびりと震わせる。
床が軋み、天井が唸り、窓枠に残っていた硝子の破片が夜空へ弾き飛ばされた。
もはやそれは反論ではない。
世界そのものが誤認しているその全てを、声量だけで塗り替えんとする傲慢なる宣言であった。
なお、その余波で舞い上がるはずの書類は机上に一枚たりとも残されていない。
「いいか小娘ッ! 万象万物、この俺こそが秩序であり、混沌であるッ! そこへ疑義を差し挟むなど片腹痛いッ!」
塙原は砕けた硝子を踏み鳴らしながら、リコリスへズカズカと歩み寄ってゆく。
一歩ごとに、二人の距離が削られる。
リコリスの背中は既に壁へ触れている。紅光を宿していた掌は動きを止め、紅い瞳だけが迫り来る威厳を追って上がってゆく。
やがて塙原の影が、その小さな身体をすっぽりと覆い尽くす。
「良いだろうッ! 元より隠すつもりなどなかったが、特別に教授してやるッ! 我が感情をッ! 我が異能をッ! そして、この俺という存在の真髄をなァッ!」
塙原は大きく後方へ跳び退くと、両脚を広げて床を踏み締めた。
剥き出しの両腕を天高く掲げ、全身で巨大なVの字を描く。
鍛え上げられた胸板を限界まで反らし、顎は斜め上へ。砕けた窓の向こうに広がる中央都市の夜景を背負い、その紅髪が吹き込む風を受けて激しく逆巻いた。
隙だらけ。
慢心に溢れている。
だのに本人だけは一片の疑いもなく、その姿勢の全てが黄金比を奏でていた。
「我が感情は『傲慢』ッ! そして我が異能は『我在故世有』ッ!」
掲げられた両腕の筋肉が隆起する。
塙原は天を抱き込むように両手を大きく広げた。
「俺が超絶惚々姿勢を取っている間ッ! 俺が望む相手から、俺が望む権利を奪還するッ!」
「奪還……? 強奪じゃなくて……?」
「戯言をッ!」
塙原は完成させていたV字の姿勢を勢いよく解く。
掲げていた右腕を大きく振り下ろし、その人差し指をリコリスへと突きつけた。
ビシッと伸びきったその指先は、寸分違わず彼女の眉間を捉えていた。
「万象万物、元より全て俺のものだッ! 今この手にないモノは、あくまで貸し与えているに過ぎんッ! ならばッ! それを取り戻すことの何が強奪だというのかッ!」
塙原は再び両腕を組む。そして、上半身を勢いよく捻じると全身の筋肉が一斉に軋み、溜められた力が脚の方へと到達する。
次の瞬間、その脚が空を切り裂きながら、リコリスの小さな身体を横薙ぎに吹き飛ばさんと迫った。
リコリスは床を蹴り飛ばしながら優雅に真上へ跳び上がる。
ドレスの裾を翻しながら身体を縦に一回転させ、塙原の頭上すれすれを通過した。
空を薙いだ蹴りが遅れて轟音を生む。
リコリスは塙原の背後へ音もなく着地すると、塙原が振り向くよりも早く、どこからともなく一本の氷柱を取り出した。そして、その切っ先を無防備な背中へ定め──。
弾丸の如き氷柱が一直線に塙原の背を刺し穿たんと放たれた。
パァンッ!
激しい破裂音が鳴り響く。
だが、塙原の肌には白い跡すら見られない。
それどころか氷柱は見えない壁に叩きつけられたかのように爆ぜ、無数の氷片となって宙を舞った。
「クハッ! 狙いは悪くないッ! だが、貴様から奪還したものは『攻撃』の権利ッ! 権利なき一撃で、この俺に無礼を働ける訳がないだろうッ!」
「ポーズ……。もう解いてるのに……。ずっと攻撃通らない……。嘘つき……」
その一言を聞いた途端、塙原の口角が大きく吊り上がった。
組んだ腕を揺らすほど肩を震わせ、世界に轟かさんとするかのように高らかな笑い声を解き放つ。
「クハハハハッ!!! 戯言をッ!」
塙原は腕を組んだまま、大袈裟に胸板を大きく反らす。
顎を高々と掲げ、己こそが世界の中心であるかのように堂々たる仁王立ちをしてみせる。
「立てば完璧ッ! 歩いても完璧ッ! 腕を組めば、即ちッ! 超ッ!絶ッ!俺ッ!様ッ!」
白い歯を輝かせる塙原。
眉を思いっきり顰めるリコリス。
「分かったか、小娘ッ! この俺の一挙手一投足ッ! その悉くが超絶惚々姿勢というわけだッ!」
ヴゥゥンッ──!
重いエンジンの駆動にも似た低音が、執務室の空気を震わせる。
その振動に呼応し、塙原の引き締まった筋肉が内側から黄金の光を放ち始めた。
隆起した筋肉の一つひとつを眩い光が縁取ってゆく。
奥に控えた中央都市の夜景さえ、今も尚、彼を彩る背景として存分に存在し続けている。
王冠も無ければ、玉座も無い。
それでも黄金を纏い歩く塙原の姿が、荒れ果てた執務室を玉座の間へと塗り替えてゆく。
「さァ! 貴様に『攻撃』の権利を再び貸し与えてやったぞッ! 存分に打ち込んでくるがいいッ!」
リコリスはその機を逃さない。
抱えていたテディベアを片腕へ寄せ、空いた掌を直ちに塙原へ向けた。
その指先に、再び鈍い紅光が灯る。
対する塙原は、両腕を組んだまま歩みを止めない。
黄金の光を引き連れ、リコリスが掲げる死の掌へ自ら踏み込んでゆく。
「潰れちゃえ……!」
言い終えると同時にリコリスは五指を一気に閉じた。
固く握り締めた拳の隙間から鈍い紅光が溢れ出す。
──その時がいよいよ訪れる。
メキャメキャ……。
硬いものが軋み、ひしゃげ、なおも無理やり押し潰されてゆく。
耳の奥に絡みつくようなその音が、荒れ果てた執務室に響き渡る。
「おぉ、流石はレディベアの団長といったところだな」
塙原の左肩から上腕にかけては、見えざる巨大な万力に挟み込まれたかのように、肉も骨もろとも無惨にひしゃげていた。
鋼を思わせた筋肉も、内に通る骨も、今や等しく薄くひしゃげ曲がり、かつての威容を失っている。
その先に続く肘も前腕も、組まれた右腕に支えられているに過ぎない。ひとたび腕を解けば、自らの重みだけで千切れ落ちてしまいそうな有様だった。
しかし、それでも塙原は顔を歪めない。
眉ひとつ動かさず、口元には今なお悠然と笑みを湛えている。
黄金を纏うその姿には、未だ一片の陰りも見られなかった。
「痩せ我慢……。次で終わらせる……!」
「終わらせる……? 戯けたことを……」
リコリスは再び、塙原の胸元へ掌を向ける。
しかし、その声が耳に届いた時には──既に眼前の傲慢男は消え失せていた。
一体、どこへ。
リコリスは即座に背後を振り返る。
そこにも黄金なる存在はない。
瞬間、その身体を視界を染める程の威光が覆った。
弾かれるように頭上を仰ぐ。
常人ならば降り注ぐ光に気づくことすら叶わぬ刹那に、リコリスはその正体を捉えていた。
だというのに、見上げるまでの僅かな時間が、今は永遠にも等しく引き延ばされてゆく。
視界を埋め尽くすは、揃えられた二枚の靴底。
その向こうには、膝ひとつ曲げず、真っ直ぐに落下してくる黄金の体躯。
まるで天そのものがこの男を以て地を踏み伏せんとするかのように。
リコリスは咄嗟に床を蹴った。
ドレスの裾が翻る。そして、次にリコリスが感じ取ったものは──。
『死』
ドゴォォンッ!!!
床が砕け、破片が噴き上がる。
轟音と粉塵が二人の姿を一瞬にして呑み込んだ。
「クハハハハハッ!!! どうよッ! 直立踏み付けだッ! 俺にしか出来まいッ!」
高笑いと共に粉塵の向こうから紅髪が現れる。
伸ばしきった両脚は床を貫き、腰から下は階下へと突き抜けていた。
残る上半身だけが、砕けた床から堂々と生えている。
天より地へ降り立った覇者は今、自社の床に植わっていた。
そのすぐ前で、リコリスが塙原を見下ろしている。
テディベアを抱く腕は固く締まり、肩は小刻みに上下していた。
開いた唇から短い息が漏れる。吸い直そうとしても次の息がすぐに喉を擦った。
目の前の男の滑稽な姿を笑うことなど、出来るはずもなかった。
発現事象統制機構《E.G.O.》
【公開調査記録 No.012】
-登録名称:発現兆候
-現象分類:異能行使に伴う身体変異
-発生条件:異能の過剰使用
-公開区分:一部制限
異能者が自身の許容量を超えて能力を行使した際、眼球に特有の変異が現れることが確認されている。
最初に強膜──俗に「白目」と呼ばれる部分が、墨を流し込まれたかのように黒く変色する。続いて瞳が、発現者の根源に宿る感情に応じた色彩へと染め上げられる。
確認されている感情と色彩の関係は、以下の通り。
憤怒:赤
嫉妬:緑
色欲:桃
怠惰:黄
強欲:鶸
暴食:茶
虚飾:空
傲慢:橙
憂鬱:紫
恐怖:青
この変異は個人の体質によるものではなく、異能の根源となる感情によって決定される。そのため、眼球の色彩から発現者の感情分類を特定することが可能である。
黒く染まった眼球の奥で、感情の色だけが異様な輝きを放つその姿は、内側に封じられていた根源感情が肉体の表層にまで溢れ出した状態と推測されている。
本現象は異能者が既に限界域へ踏み込んでいることを示す明確な兆候である。
変異発生後も能力の行使は可能とみられるが、継続使用によって生じる影響の全容は判明していない。




