第15診『任務』
「逃したんですね?」
「はい、逃したんですぅ」
「逃げられちゃったんですね?」
「はい、逃げられちゃったんですぅ」
地面へ大の字に寝転がったまま答える途中を、長江が無言で見下ろす。
やがて胸元が大きく持ち上がり、その口から長い息が吐き出された。
「はぁ……まったく。とりあえず、被害が出たのはどの区域ですか?」
途中の上半身が、ばね仕掛けのように跳ね起きる。
叱責はない。
水弾も飛んでこない。
長江は既に端末へ視線を落とし、被害状況を確認し始めていた。
「あのぉ、隊長ぉ? 怒らないんですかぁ?」
画面をなぞっていた長江の指が、ぴたりと止まる。
「当たり前じゃない! 私をなんだと思ってるのよ!」
「うわっ! やっぱ怒ったぁ! 怒りん坊星人!」
——数分後。
頭に大小様々なたんこぶを生やした途中が、地面の上で正座させられていた。
「すみませんでした。ふざけすぎました」
「分かればいいのよ」
長江は長い髪を片手で掻き上げると、「ふんっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
途中はその横顔を窺いながら、正座したまま少しずつ頭を持ち上げる。
「それにしてもぉ、敬語やめたんですねぇ? あっちはあっちで良かったのにぃ」
「まぁ、社長の前で敬語をやめるつもりはないけど、水無瀬が『こっちもいい』って言ってくれたからね。ちょっとだけ試してるのよ」
「水無瀬ちゃんには甘いなぁ、隊長はぁ」
途中は痺れた脚を擦りながら立ち上がると、制服に付着した埃を両手でぱっぱと払い落とした。
「そういえば、なんで怒らなかったんですかぁ?」
「……気づいてないの? もぅ、目を開けなさい」
長江は手にしていた端末を数回操作し、カメラを起動する。
インカメラへ切り替えると、その画面を途中の顔へ突きつけた。
途中が重い瞼を持ち上げ、画面の中に映った自分と視線を合わせた。
するとそこには本来なら白いはずの部分は漆黒に侵され、その中心に浮かぶ瞳だけが毒々しい黄色へ染まりきった姿が映し出されていた。
制服を払っていた途中の両手がぴたりと止まる。
「使い過ぎ。一体どんな相手と戦えば貴方がそこまでなるのよ。制服の汚れに、この辺りの壊れ方──相当な接戦だったみたいね?」
「あぁ〜……まぁ、すんごく強かったのは確かですねぇ」
途中が頬を掻きながら視線を逸らす。
長江はポケットから小さな目薬を取り出すと、無造作にそれを放り投げた。
パシッ。
途中は片手で受け取り、親指だけで蓋を開ける。慣れた手つきで顔を上げ、両目へ一滴ずつ落とした。
「相手は誰? 名の通った指名手配犯か何かでしょ?」
「ヴァプル&フリチル兄弟でしたねぇ」
「兄弟?! それはまた、とんでもなく変なのに出会したわね!」
端末を操作していた長江の指が、ぴたりと止まる。
画面から周囲の民家へ視線を移し、僅かに首を傾けた。俯いた拍子に、掻き上げたばかりの長い髪が再び頬へ落ちる。
数秒の沈黙を置いて長江は口を開いた。
「私の記憶が正しければ、ヴァプル兄弟はこれまで民家を襲ったことがないわよね? それが、どうしてこんな場所に居たのかしら?」
「あぁ〜、そういえばそうでしたねぇ」
途中は徐ろに崩れた住宅街へ目を向ける。
「義賊ってやつでしたっけぇ? 確か、暴力団とか悪徳政治家からしか金を奪わないとかなんとかぁ……」
長江も改めて辺りを見渡す。
陥没した屋根、砕けた瓦、地面に穿たれた幾つもの穴。その一つひとつを辿っていた視線が、やがて一軒の民家で止まる。
周囲と比べても一際損壊が激しい。
しかし、その民家は途中達が争っていた場所から数軒分も離れていた。
さらに、瓦礫や割れた窓ガラスは家の内側から外へ吐き出されたように散らばっている。先ほどの攻防によって生じたものとは、明らかに破壊の流れが異なっていた。
「ねぇ、貴方。あそこで戦った?」
「——? あぁ〜、ううん。あそこでは戦ってないですよぉ」
長江の唇が真一文字に結ばれる。
途中の顔からも、気の抜けた笑みが消えていた。
二人は足音を忍ばせながらその民家へと近づく。長江がインターフォンを押したものの、呼び出し音は鳴らない。ランプすら点灯せず、ひび割れたボタンだけが虚しく沈み込んだ。
玄関の取っ手へ手を掛けるが鍵は固く閉ざされている。
二人は短く視線を交わすと建物脇の狭い通路から裏庭へ回り込んでいく。
そして、庭へ足を踏み入れた瞬間──。
長江の周囲へ水滴が浮かび、途中の掌が正面へ翳された。
誰かの姿を見たわけではない。
ただ、風に混じった鉄錆の臭いが二人の身体を先に動かしていた。
裏庭の奥。
人間だったものが縦方向から押し潰され、蛇腹のように幾重にも折り重なっている。
首は胴体へ深く沈み、行き場を失った四肢は互いに絡み合っていた。
原形を奪われた死体が異様な肉塊となって庭の中央へ鎮座している。
「隊長ぉ、人ってあんなアコーディオンみたいになるものでしたっけぇ……?」
「残念だけど、あんな悪趣味な芸術作品は見たことないわ……」
長江の眉間に深い皺が刻まれる。
二人は左右へ分かれ、肉塊を挟み込むようにじりじりと距離を詰めてゆく。
折り重なった肉の隙間から深紅に染まったローブが覗いている。
爆発で吹き飛ばされたわけでも刃物で切り刻まれたわけでもない。頭上からとてつもない一撃が叩き込まれた──そんな姿であった。
ありふれた兵器はおろか、常人の腕力で成し得るはずもない。
人の形を奪った一撃の輪郭だけが、その死体には生々しく刻み込まれていた。
「こんなことをあの場でできるのはぁ、フリチルしかいないと思いますぅ」
「フリチル……。あぁ、例の兄弟の弟の方ね。それにしても、凄まじい光景ね……」
ペタ、ペタ——。
肉塊を前に、二人の会話が途切れた。
民家の奥から裸足で床を踏む湿った音が近づいてくる。
長江と途中は同時に振り返り、眼光が民家の中を刺した。
割れた掃き出し窓。その暗がりから覚束無い足取りで何者かが姿を現す。
しかし、そこにいたのは異能犯などではなかった。
色褪せた水色の寝間着に身を包んだ華奢な少女だった。余った袖の先では、五枚の花弁を持つ薄紅色の花が大切そうに握り締められていた。
長江が民家のほうへ、わずかに顎をしゃくる。
意図を汲み取った途中は少女の横を迷いなく通り抜け、そのまま民家の奥へと滑り込んでいった。
長江は少女から二歩ほど離れた場所で足を止める。両手を見える位置に置いたまま膝を折り、少女と視線の高さを合わせた。
眉間に刻まれていた皺が、ゆっくりと解ける。先ほどまで警戒を帯びていた声も、少女へ届く頃にはすっかり角を失っていた。
「大丈夫? どこか怪我してない?」
少女からの返事はない。
唇は小刻みに震え、隙間から浅い息だけが漏れている。喉が何度も上下するものの、それが声へ変わることはなかった。
長江は問いを重ねなかった。
両手を見せたまま、少女を急かさぬようにゆっくりと腕を広げる。眼鏡の奥では目尻がほんのわずかに下がっていた。
「……おいで」
その眼差しは少女の姿を捉えながら、更に遠い何かを見詰めているかのようであった。
いつか同じように立ち尽くし、声もなく泣いていた遠い日の自分を。
少女が恐る恐る一歩を踏み出す。
一歩。また一歩。
覚束ない足取りは二人の間が狭まるほどに速くなっていく。
そして、最後の一歩で地面を蹴り、長江の胸元へ飛び込んだ。
長江はその小さな身体を受け止めると広げていた両腕を静かに閉じ、細い背中をそっと撫で下ろした。
しばらくして少女の顔がくしゃりと歪む。
大粒の涙が次から次へと溢れ、頬を伝っては長江の服へ吸い込まれていく。
顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるその姿に、先程までの声もなく立ち尽くしていた少女の面影はなかった。
長江は何も問いかけず、ただ一定の速さでその背中を撫で続けた。
《PSYCHO RECORD》
氏名:ヴァプル
年齢:推定30代
性別:M
身長:162cm
体重:43kg
所属:無所属
発現分類:逃避型
根源感情:強欲
固有異能:『醜き我に乾杯』
《自身より優れてるモノを獲得する》
身体所見:小柄/痩身/長い鼻/不揃いな歯/鋭い目つき
精神所見:挑発的かつ極めて饒舌。高い自己肯定傾向を示す
脅威度:★★★★☆
特記事項:
・実弟フリチルと共に「世紀の大盗賊・ヴァプル&フリチル兄弟」を自称する指名手配犯。主に暴力団や悪徳政治家などを標的としており、一般家庭から金品を強奪した記録は現在まで確認されていない。
・固有異能『醜き我に乾杯』は、本人が「自身より優れている」と認識した物体を瞬時に獲得する。武器の強奪や飛来物の回収だけでなく、人間も対象に含まれると推測される。ただし、発動前に両手が空いていないと発動できない。
・戦闘では敵の装備や周辺の物品を即座に利用し、状況に応じて戦法を組み替える。単純な身体能力よりも、判断速度と異能の応用力を警戒すべき対象である。
・実弟フリチルを「愚弟」と罵倒する一方、その能力には絶対的な信頼を置いている。両名の間では視線を交わさないまま意思疎通が成立する場合もあり、二人が揃った際の脅威度は一段階引き上げることが推奨される。
・好物:この世の全て




