第14診『反発』
不意に遠い日の声が聞こえた。
何故、今なのか。
疑問が形を結ぶより早く、記憶は途中の意識を呑み込んでいく。
何度蓋をしても折に触れて浮かび上がる。流れた年月など知らぬと駄々を捏ねるように、声も姿も決して色褪せない記憶。
「ねぇねぇ、ハッちゃ〜ん! こんなのどぉ〜う? 可愛いでしょぉ〜」
遠く、遠く。
光の届かない記憶の底で、その人だけが在りし日のまま笑っている。
『今は見えちゃいけないんだ』
『今は……ダメなんだ……』
「コッチを見ろォォォ!!!」
腹の底まで震わせる怒号が記憶の暗闇を粉々に打ち砕く。
途中の意識は引き摺られるように現実へと舞い戻り、隙を最小限に抑えようとフリチルへと視界を瞬時に戻した。
「危ない危ない。おかげで戻ってこれたよぉ」
「ウルサイッ! 立っテるダケのヤツ! 怖くナい!」
二人の視線が真正面からぶつかり合う。
怒号が途絶え、荒れていた呼吸が静まっていく。
それとは裏腹に、途中の周囲では大気が微かに軋み、フリチルの足元ではアスファルトの破片がカタカタと音を立てながら跳ね踊る。
言葉はもう必要ない。
幾度も死線を潜り抜けた者だけが踏み込める至高の領域。
数秒の静止を経て、途中は両の掌を下ろす。
ほぼ同時に、フリチルも構えていた巨拳をゆっくりと下ろした。
そして、二人は同時に一歩、また一歩と距離を詰め始める。
気づけば、二人は互いの拳が届く間合いまで近づいていた。
残るのは何方が先に引き金を引くか。
さながら、荒野で向かい合うガンマン同士の決闘。
両者、指一本動かさない。
その時だった。
先ほどフリチルが崩した壁から、小さな瓦礫が一つ零れ落ちた。
カランッ——。
フリチルの巨拳が、最短、最速、最重量の軌道で撃ち放たれる。
同時に、途中の掌が跳ね上がる。
拳が顔面を撃ち抜く寸前、二人の間にある大気が凝固する。
バギィィィインッ!!!
鉄拳と見えざる盾が激突し、押し潰された空気が周囲へ弾け飛んだ。
両者とも相手の動きを見てから反応したわけではない。
視認ではなく、完全なる経験則。
幾度も死線を潜り抜けた者だけが辿り着ける、思考すら置き去りにした境地。
研ぎ澄まされた予測と予測が、拳と盾の形を借りて衝突していた。
ドッ! バギィィンッ! ドッ!
フリチルの巨拳が、絶え間なく途中の命へ迫る。
一撃、二撃、三撃——。
上下左右から降り注ぐ連撃は、天を覆い尽くす流星群そのものだった。
対する途中は拳そのものを目で追わない。最小限に動かした両の掌で、拳が到達する位置へ先回りするように大気を固めていく。さながら千手観音を彷彿させる。
一枚が砕かれれば、その破片が散るより先に次の盾が生まれる。
ドッ! バギィンッ! ドドッ! バギィィンッ!
一秒ごとに、打撃音と破砕音の間隔が狭まっていく。
やがて二つの音は互いの境目を喰らい尽くし、一つの絶え間ない轟音へと変わってゆく。
先に終わりの見えない攻防を断ち切ったのは途中だった。
フリチルの腹部辺りの大気を突如として凝固させ、その見えない足場を強く蹴り上げる。
反動に押し出された身体が後方へ一直線に飛び退いた。
同時に轟音の嵐が途切れ、耳鳴りだけが残る静寂が訪れる。
だが、その静寂は途中に一呼吸の間すら与えることはなかった。
空中で腰を捻った途中が、後方へ腕を伸ばす。指先が大気を掴み、見えざる槍を形作ろうとした、その瞬間——。
ぬうっ、と巨大な影が視界いっぱいに現れた。
『速すぎるッ!』
途中の目が、限界まで見開かれる。
既にフリチルの巨拳は眼前。
その巨大な影が、思考もろとも途中の視界を塗り潰す——寸前。
途中の指先がそっと巨体の胸部を撫でた。
「はい、チェックメイト────」
パキッ……パキパキパキッ。
巨拳が途中の顔まで僅か数センチの位置で止まる。
乾いた音がフリチルの輪郭をなぞり、胴体から四肢に至るまで隅々へ走り抜ける。
盛り上がった筋肉が何度も見えない拘束を軋ませる。それでも指一本すら微動だにしない。
フリチルの巨体は見えない拘束によって空中へ縫い留められていた。
「いやぁ、危なかったよぉ。身体触れられるタイミング全く無かったしぃ、何度も冷や汗掻かされたよぉ」
途中は額に浮かんだ汗を袖で拭い、そのまま指先で軽く弾き飛ばす。
フリチルの喉が大きく上下した。首筋には太い血管が浮かび、閉ざされた唇の奥で歯が軋む。
それでも口は開かない。
吐き出されるはずだった絶叫だけが、固められた口腔で押し殺されていた。
「君の能力さぁ、『反発』だよねぇ?」
途中は返事を待たず、宙に固定されたフリチルの周囲をゆっくりと歩き始める。
盛り上がった腕。
地面を抉った長靴。
そして、砕かれた壁の向こうへ真っ直ぐ続く足跡。
一つ一つを確かめながら、背後まで回り込んでいく。
「あのゴキブリみたいな、加速も減速もない違和感だらけの動き──ボクの『固定』とは正反対だねぇ」
フリチルの背後で足を止め、肩越しにその横顔を覗き込む。
「触れた物との間に反発を起こして、踏み出した瞬間から最高速度を叩き出す。自分自身を生ける弾丸みたいにしてさぁ」
ぐるりと一周した途中は再びフリチルの正面へ戻った。そして、地面に腰を下ろし、両脚を気怠げに投げ出した。
「ハァ……疲れたぁ……。んじゃぁ、お話聞かせてもらおうかなぁ?」
指を一度鳴らす。
パチンッ。
フリチルの口元を塞いでいた拘束が僅かに緩む。
息を吸い込むより先に、その名が飛び出した。
「ヴァプ兄ッ! ヴァプ兄ッ! ヴァプ兄ッ!」
返ってきたのは、問いへの答えではなかった。
巨体から発せられたとは思えないほど掠れ、潰れた叫びが崩れた住宅街を駆け巡る。
「ヴァプ兄ッ! ヴァプ兄ィィィッ!」
一声ごとに喉が裂け、目から溢れた涙が頬の隈取をさらに濃くしていく。それでも、フリチルは我を忘れたように兄の名を叫び続けた。
「どうしたの急にぃ、そんな取って食うようなことはしないってぇ。ただ少しお話したいだけなんだけどぉ」
「ヴァプ兄ィィィ──」
兄の名を呼び続けていた声が、あまりにも不自然なところで途切れた。
途中の呼吸が止まる。
目の前にフリチルの姿がない。
人ひとりを空中へ縫い留めていたはずの大気だけが、形を崩さず残されている。亀裂もなければ、破壊された痕跡すら見当たらない。
『固めたはず! 指一本動かせないはず! 一体何処に?!』
いくつもの可能性が途中の脳裏を駆け抜けては、答えへ辿り着く前に崩れ去っていく。
どの仮説も目の前に残された空白を埋めるピースになり得ない。
しかし、その場にはどう足掻いても埋めようのない空白だけが、確かな現実として残されていた。
「あ゛ぁ゛〜! もうっ! これじゃあ隊長に怒られちゃうってぇ……! どこ行ったんだよぉぉぉ!!!」
途中は先ほどまで腰掛けていた地面にそのまま仰向けに寝転がり、駄々をこねる子供のように両手両足をばたばたと振り回す。
先ほどまで張り詰めていた死闘の余韻は、見る影もなく砕け散っていた。
——X区の外れ。
「ったく……テメェ、役割分かってるって言ったじゃねぇかよォ……。ぜんっぜん違うことしやがって、この愚弟!」
フリチルは巨体を折り曲げ、ヴァプルの小さな背中へ力無く全体重を預けていた。
だらりと垂れた両腕がヴァプルの肩を挟み、引き摺られる長靴が地面へ二本の跡を刻んでいく。
ずる……ずる……。
ヴァプルは穿たれた肩を庇うことなく、弟の為に両手を背中へ回し、一歩ずつ前へ進んでいた。足を踏み出すたびに膝が震え、歩みは今にも止まりそうなほど遅い。
先ほどまで目にも止まらぬ速さで街を駆けていた兄弟の面影は、もはやどこにもなかった。
「俺の『醜き我に乾杯』がなきゃ、テメェは今頃豚箱入りだぜェ? おい、聞いてんのかよフリチル」
ヴァプルが背中を揺すっても、フリチルの巨体から力は戻らない。
しばらくして、頭上から掠れた声だけが零れ落ちてきた。
「兄ちゃん……ごメンよォ……。アイツ、殺せナカった……」
ヴァプルの足が僅かに止まりかける。やがて肩を深く落とし、肺の底から大きな溜息を吐き出した。
「おいおい。テメェにゃ逃げるための時間を稼げって伝えたはずだぜェ? いっつもやらなくていいことまでやりやがってよォ……」
ガッ!
ヴァプルのつま先が地面に転がっていた瓦礫へ引っ掛かる。
「おっ──」
小さな身体が、つんのめるように地面へ倒れ込む。
当然、その背中へ全体重を預けていたフリチルも止まれるはずがない。
傾いた巨体が、崩れ落ちる建物のようにヴァプルへ覆い被さった。
ズシィィンッ!
砂埃が舞い上がり、フリチルの下からヴァプルの両脚だけが飛び出す。
「カァーッ! 重ぇなァ、テメェはよォ! 何食ったらこんなデカくなれんだ、畜生ッ!」
ヴァプルは地面に両手を押し当て、残った力を一息に注ぎ込む。
「ぬ……ぐぐぐッ! 退きやがれェ!」
肩を傾けるとようやく巨体がゆっくりと傾き、地響きを立てながら横へ転がった。
ようやく重圧から解放されたヴァプルも、起き上がることなく地面へ大の字に倒れ込む。
そのまま兄弟は肩を並べ、仰向けになって空を見上げていた。
荒い呼吸に合わせて胸だけが上下する。指先一つとして動かそうとはしない。
ただ、時間だけは止まってくれなかった。
心臓が脈打つたび、ヴァプルの穿たれた肩から赤い水溜まりが広がっていく。
刻一刻と、命だけがその身体から流れ出ていた。
「あぁ、こりゃヤベェなァ……。死ぬかァ……?」
視界の輪郭が、水に溶かした絵具のようにゆっくりと滲んでいく。
ザッ、ザッ、ザッ──。
ぼやけていく意識の中へ、一定の間隔を刻む足音だけが妙に鮮明に届いた。
重くもなければ、急いでもいない。瓦礫を踏み越えながら、ゆっくりとこちらへ真っ直ぐ近づいてくる。
『いよいよ、ここまで追ってきやがったか……』
ヴァプルは鉛のように重くなった首を動かし、足音のする方へ顔を傾ける。
そこには白いジャケットを羽織った金髪の青年が立っていた。
両腕を気負いなく下ろし、血溜まりの手前から静かに兄弟を見下ろしている。
敵意も、悪意もない。
殺気など欠片ほども纏っていない。
それなのに──。
傷一つない万全の状態でフリチルと二人掛かりで挑んだとしても、決して届かない。
すべてが霞んでいく視界の中で、その確信だけが不自然なほど鮮明だった。
「殺すか? 俺らを……」
金髪の青年は血溜まりの傍へ膝をつき、ヴァプルと視線を合わせた。
「まさか。助けに来たんだよ」
「…………そうか」
ヴァプルの口元に残っていた力が、ふっと抜ける。
それ以上、疑いの言葉は続かなかった。
青年の白い姿を最後に、ヴァプルの視界は静かに暗転した。
《PSYCHO RECORD》
氏名:橘 遥歩
年齢:35歳
性別:M
身長:182cm
体重:113kg
所属:A.C.E.
発現分類:衝動型
根源感情:憤怒
固有異能:NO DATA
身体所見:全身に多数の戦闘負傷歴あり/深紅の髪/オールバック/強面/筋骨隆々の身体
精神所見:粗暴かつ易怒性あり。他者に関する事案では顕著な自己犠牲傾向を示す
脅威度:★★★★★
特記事項:
・A.C.E.所属部隊の隊長。高脅威指定を受けた異能犯の制圧および処罰執行を担当している。
・荒々しい言動と過剰なまでの攻撃性が目立つ一方、一般人や部下の被害を避けるためであれば、自身の負傷を一切考慮せず行動する傾向がある。
・任務中の負傷率は極めて高く、過去には全身へ重傷を負った状態で帰還した記録も存在する。本人からは「死んでねェなら無傷も同意だ」との回答あり。
・部下に対する態度は厳しいが、その実、危険な任務ほど自ら先頭へ立つ。このため、規律上の問題行動に反して隊員からの信頼は厚い。
・好物は極辛ラーメン。バナナ。




