第13診『守護』
屋根の向こうから歩み寄る青年を前に、ヴァプルの片足が瓦一枚分だけ後ろへ滑った。
ごくり────喉が鳴る。
「こいつァ……マズいな……」
「ヴァプ兄? どうシタんだ?」
その間にも、青年は両手をポケットへ突っ込んだまま、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「ボク、途中っていうんだけどさぁ。確か君達は『ヴァプル&フリチル兄弟』でいいんだよねぇ?」
「俺達を知ってる様だな……。俺のブロマイドはどうだったよ? 決まってたかァ?」
ヴァプルはいつもの笑みを崩さない。
途中から視線を外すことなく背後へ右手を回す。そして、その中指だけをスッと立てる。
ザリッ──。
フリチルの長靴が瓦を擦る。
左足を前へ、右足を半歩後ろへ──。
膝を深く曲げて巨体を沈め、開いた両手を顔と胸の前へ掲げる。
重心が定まった瞬間、足元の屋根がミシリと低く軋んだ。
「ふぅ〜ん。パンクラチオンだねぇ? それぇ。でっかい奴ってさぁ、構えないっていうのが相場じゃなかったっけぇ?」
「ほォ、この構えをよく知ってんじゃねぇか。俺の弟は脳筋の中の脳筋だが、実は類を見ねぇほどの格闘技ファンでなァ……。そーゆーことだけは覚えちまうわけよ──」
ドッ——!
踏み切った瓦が、内側から弾けたように爆ぜ飛ぶ。
構えていた巨体が一瞬で掻き消える。
次の瞬間、途中の頭上が巨大な影に覆われた。
遥か上空で身体を丸めたフリチルが、握り固めた巨拳を大きく振りかぶっていた。
「完全になァ!」
ドゴオォォォオン!!!
屋根が大きく陥没し、衝撃が辺り一帯を駆け抜ける。
砕けた無数の瓦が遥か上空へ舞い上がり、遅れて噴き上がった砂煙が、途中の立っていた場所を丸ごと覆い隠した。
その際、振り下ろされたその巨拳は、さながら天を覆い隠す流星の如き一撃であった。
「凄いねぇ。聞いた話じゃ隊長と同じ『恐怖』ってことだったけどぉ……これじゃあ『憤怒』とかと遜色ないように見えちゃうよねぇ」
砂煙の中ではなく、遥か頭上から声が降ってくる。
瞬間、ヴァプルの視線が鋭く跳ね上がる。
フリチルの頭上。途中は両腕を高く伸ばし、まるで頭上に鉄棒でも渡されているかのような体勢で、何もない宙へぶら下がっていた。
ぶらりと揺れる両脚と風にはためく上着。先ほどの巨拳を受けた痕跡はどこにも見当たらない。
ヴァプルのこめかみを一筋の汗が伝う。
吊り上がった口角がほんの一瞬だけ痙攣する。それでも顔に張りつけた笑みを剥がすことなく、瞳だけが途中の一挙手一投足を絶えず追い続けていた。
「俺たち発現者は鍛えようによっちゃ身体能力だって常人を超える。テメェがそれを知らねぇわけねぇよな?」
「まぁねぇ。にしても君の弟くんはちょっとデカくなり過ぎてるけどねぇ」
「よっ——」
途中が屋根へ降り立った、その瞬間だった。
チュンッ────。
殺意を運ぶには、あまりにも軽い音だった。
それが兄弟の間を通り抜けた途端、一瞬だけ世界から音が抜け落ちた。
フリチルの頬へ生温かな雫が一滴だけ飛んでくる。
太い指で拭った朱を視界に映すのと同時に、フリチルは勢いよく背後を振り返った。
そこには、肩へぽっかりと孔を穿たれたヴァプルが立っていた。
口元には先ほどまでと同じ笑みが残っている。途中を捉えていた瞳もまだ微動だにしていない。
一拍遅れて、孔の縁から鮮血が溢れ出した。
未だ何が起こったのか兄弟は分からずにいた。
痛みさえ、穿たれた肉体へ辿り着いていない。
「バカ……な……」
ヴァプルの膝から、ふっと力が抜ける。
「ヴァプ兄ィィィイイイイ!!!」
その身体が屋根へ崩れ落ちるより早く、フリチルの巨体が掻き消えた。
予備動作など何一つない。次の瞬間にはヴァプルを両腕へ抱え込み、屋根から屋根へ、壁から壁へと縦横無尽に駆け抜けていた。
そこに加速も減速も存在しない。
初速から最高速。曲がり角でも一切勢いを殺さず疾走する姿は、光から逃げ回る巨大な蜚蠊そのものであった。
途中の視線が右へ走る。
瓦が砕けたのは左。
慌ててそちらへ向けた時には兄弟の影は既に三つ先の屋根を飛び越えていた。
──数区画離れた民家の裏庭。
後方から追ってくる足音がないことを確かめると、フリチルはヴァプルの身体を庭の土へそっと横たえた。
「ヴァプ兄! 見エた?! 何サレた?!」
「すまんな、フリチル。珍しく俺にもサッパリだ。俺はテメェのための頭脳担当なのになァ……」
いつも吊り上がっていた口角は、既に力なく落ちている。
ヴァプルは穿たれた肩を片手で押さえ続けていたが、指の隙間から溢れる血は一向に止まろうとしない。
フリチルの太い両手が傷口へ伸びる。
だが、触れる寸前で止まり、行き場を失ったまま何度も宙を彷徨った。
人の壊し方なら幾らでも知っている。
しかし、兄の身体から溢れる血を止める術は、その掌には刻まれていなかった。
行き場を失って宙をさまよう両手を見上げ、ヴァプルは落ちていた片方の口角を再び吊り上げた。
力の入らない拳を持ち上げ、フリチルの頬へコツンと当てる。
「案じてんじゃねぇよ愚弟。テメェの短所はなんだッ!」
「脳筋なコと!」
「じゃあ、長所はなんだッ!」
「脳筋なコと!」
フリチルの目がハッと見開かれる。
宙を彷徨っていた両手の震えが、そこでぴたりと止まった。
「ケヒッ……覚えてんじゃねぇか」
ヴァプルは傷口から血を零しながらも腕を伸ばし、大きな頭をワシャワシャと撫で回す。
「流石は自慢の賢弟だ。じゃあ、今テメェがやるべきことは——もう分かってんな?」
フリチルは迷いを叩き潰すように大きな頭を深く縦へ振った。
「この辺かなぁ?」
気の抜けた声が民家の向こうから降ってくる。
チュンッ──。
ヴァプルのすぐ傍で土が弾けた。
舞い上がった土煙の下には底も見通せないほど深く、細い穴が穿たれている。
「ヴァプ兄……。虐メル……。許さナイ……。」
フリチルの両拳が握り締められる。
「ヴァプ兄! イジメル! ユルサナイ!!!」
ドパァァアンッ!!!
裏庭が爆ぜた時には、フリチルの姿は既にそこから消えていた。
次の瞬間、途中の視界いっぱいに巨体が現れる。
一拍遅れて、フリチルの真横にあった民家の壁が内側から崩れ散った。
速さに置き去りにされた暴力が、今になって現実へ追いついたのだ。
「君さぁ、相変わらず速いねぇ。一体どんな能力なのぉ?」
「ヴァプ兄! イジメル! ユルサナイ!!!」
見開かれた両目からは大粒の涙が止めどなく溢れている。
涙は砂埃にまみれた頬を裂き、深く刻まれた皺の溝に沿って幾筋もの隈取を描いていく。
子供のように泣きじゃくりながらも、憤怒に染まった阿修羅が宿す。
相反する二つの顔が、フリチルの形相の中で歪に重なっていた。
「仏壊死磓殺ッ!!!」
パァァンッ!!!
咆哮と同時に空気が揺れる。
目にも止まらぬ速さで撃ち抜かれた巨拳が、途中の顔面まであと僅かというところで停止している。
止めたのは途中の手ではない。
拳と顔の間に存在する何もない空間だった。
「こんなの食らったら、ひとたまりもないねぇ。怖い怖い……」
拳圧に髪を揺らしながら、途中は軽く地面を蹴って後方へ滑る。
着地と同時に腰を捻り、右腕を大きく後ろへ引いた。握られた手の中には何もない。それでもその体勢は巨大な槍を担いでいるかのような奇妙なものであった。
途中がさらに地面を蹴る。
そして、距離を取りながら空の右手を鋭く振り抜いた。
何も見えない。
だが、フリチルの今まで経験が針のように肌を刺した。
巨体を咄嗟に半身へ捻る。
直後、見えない何かが頬を掠め、薄皮の上へ細い赤線を刻んで通り過ぎた。
「それがボクの異能、『願わくば君と』。今、君に投げたのは大気。これ何でも固められるんだよねぇ──」
語尾が伸び切るより先に、フリチルが地面を蹴り砕いた。
一瞬で懐へ潜り込み、途中の顔面を目掛けて巨拳を撃ち放つ。
途中が片手を翳すと、次の瞬間には二人の間にある大気が凝固する。
ガギィィンッ!!!
巨拳と見えない盾が激突し、衝撃が周囲の空気を大きく波打たせる。
今度は何も存在しないはずの空間へ、拳を中心とした亀裂が走った。
次の瞬間——。
バギィィンッ!!!
砕けた大気が一斉に弾け、圧縮されていた風が二人の間で爆発した。
フリチルと途中の身体が互いに引き剥がされるように宙へ吹き上がる。
フリチルは空中で身を捻り、血走った目を途中へ据えたまま、次なる拳を引き絞る。
対する途中は身体の周囲へ両の掌を巡らせた。その動きを追うように、何もない空間が薄く歪み、全身を包む見えざる砦を形作っていく。
「オ前。ヴァプ兄虐メタッ! 絶対ニ許サナイ!!」
涙で描かれた隈取。固く食い縛られた歯。そして、傷ついた兄への恨みを晴らさんと握り締められた拳。
そんなフリチルを見つめていた途中の眉間で、深く刻まれていた皺がふっと解けた。
口元には浅い笑みが浮かんでいる。だが、僅かに持ち上がった瞼の奥だけが、その笑みから取り残されていた。
「やっぱり、護るべきものがあると人は強くなれるんだな」
その瞳に何を見たのか、フリチル自身にも分からない。
ただ一瞬、視界の片隅でそこにあるはずのない水色の裾が揺れた。
汚れた鉈を抱き締める細い腕。
涙に濡れた頬。
何かを伝えようとして、声を結べずにいた唇。
瞬きをすれば、それらは既に陽炎のように消え去り、目の前には途中の細い瞳だけが残されていた。
発現事象統制機構《E.G.O.》
【公開調査記録 No.010】
-登録名称:A.C.E.
-組織分類:中央都市直轄特別執行機関
-代表者:非公開
-公開区分:一部制限
異能による大規模犯罪および、通常の治安組織では対処困難と判断された高脅威対象の制圧を目的とする特別執行機関。主な任務は異能犯の制圧と、対象に確定した処罰の執行である。
A.C.E.は原則として、事件の捜査や立件を担当しない。規定上の執行対象に指定された異能犯に対しては、通常必要とされる複数の手続きや判断を省略し、現場へ直接介入する権限を有する。対象の危険度によっては、拘束を経ずに致死的措置を執行することも認められている。
所属隊員には高い戦闘能力と即時判断力が求められ、少人数での制圧任務を前提とした編成が多い。作戦前の情報収集は行われるものの、それは犯罪の立証を目的とした捜査ではなく、対象をいかに無力化するかを決定するためのものである。
TEO財団が住民の避難や救護、被害の封鎖を優先するのに対し、A.C.E.は事件の元凶となる異能犯の排除を最優先とする。大規模事件では両組織が同時に出動する場合もあるが、その任務と指揮系統は明確に分離されている。
司法手続きの一部を飛び越える強大な権限から、その活動には批判も多い。しかし、一瞬の判断の遅れが甚大な被害へ直結する異能犯罪において、A.C.E.は「処罰を決定する組織」ではなく、「決定された処罰を確実に遂行する組織」として存在している。




