第98話 悍ましいスキル
そこは、何もない部屋だった。
ただの石の壁。ただの石の床。ただの石の天井。
触らなくとも分かる、分厚すぎる石たち。
全てが灰色に包まれた空間だ。
どこにも窓がない。
扉は金庫のように分厚く、魔法でも爆弾でも壊れそうもない。
だから、音は何も聞こえない。
外で何が起きているか、全く分からない。
「……どうして……アタシが」
如月栞は膝を抱えて、部屋の隅に座っていた。
オーバーサイズの白いセーターが、体を包んでいた。
青い髪の一束。うっすらと黒いメッシュが顔の横に垂れている。
彼女の顔は真っ青だった。
思い出したくないのに、思い出す。
「なんで……牢獄に……」
最初は、ここではない場所に連れられた。
豪奢な机の前に座っていた。
椅子もふかふかだった。
『──アレら、明らかに君に興味がある。直ぐには殺されないよ』
ある男の言葉だった。
栞もその時はそう思った。
ずっと前から、あの吟遊詩人は王の懐に潜り込んでいた。
帝国はスキルを集めるのを、貴族の嗜みにしている。
それは間違いではなかった。
ハイリゲンクロイツ家、マリアの別邸に通されたのだから。
「アタシは……間違えた……」
◇
ハイリゲンクロイツ家の豪奢な扉、重い扉が開いた。
煌びやかなドレス。
入ってきたのは、マリアだった。
彼女はとても、穏やかな顔だった。
聖母のように笑っていた。
見られている、とも気付いていた。
鏡ばかりの部屋で、全てが鏡かも怪しかった。
その向こうに人影があった気がしたからだ。
「如月栞様……。今日は面白いモノを持ってきました」
ハイリゲンクロイツ・フォン・マリア
女でも、見惚れる美女。
彼女は本を持ってきていた。
それは、分厚い本だった。
表紙に金の装飾が施されていた。
どこかで見たことがありそうな気配
宝石が散りばめられた大きな本。
マリアは、栞の目の前で、それをペラペラとめくった。
そして栞の目は、無意識に文字を追った。
一枚、二枚。三枚目。
——まずい。
頭の中で激しい警告が鳴った。
でも目が止まらなかった。
『読み解くが吉』
栞のスキルが、無意識に、そして勝手に機能してしまった。
ページがめくられるたびに、古代の暗号のような文字が、勝手に言の葉を結び、直接頭の中に流れ込んでくる。
記録。記録。記録。
これは過去に召喚された、異邦人の記録だった。
絵が描かれたページ、文字だらけのページ。
この国の数字もふられている。
数百ページに及ぶ、巨大で豪華で優美な宝石本。
頭の中が警鐘を鳴らす。
——これは、絶対に読んではダメだ。
栞は必死に視線を逸らした。
「すてきな話でしょう?」
マリアが、優しく聞いた。
「見た目は凄い。でも内容は読めないので分からない」
「見た目も豪華よね。イラストは当時の画家が描いたものなの」
「それが、何?」
「隣の文字は、分かるでしょう?」
「何かは……分からない。でも、何が言いたいの? さっき話した。読めないから」
マリアはよく通る、澄んだ声で言った。
「では、どうかしら」
いつの間にか、重いドアが開いていた。
そこに、立っていた。
「ルカ。どうでした?」
薄い金色の髪。桃色の瞳。中性的な見た目。
扉の外の人影が、淡々と答えた。
「彼女は読めてます」
声だけで、多分男だと分かる。
栞は内心でひどく焦った。
「アタシは読めてない」
「目線で分かります」
ルカと呼ばれた男は言った。
「私が気になるページをめくった瞬間、アナタの瞳が無意識に文字列を正確に追っていた。……同類なら、分かります」
そこで、栞は黙った。
マリアが、ふふっと笑った。
「あら、嘘はいけませんよ、栞さん」
マリアは分厚い本をパタンと閉じ、栞の耳元に顔を寄せた。
甘く、冷たい声だった。
「三百人の記録。彼らがこの帝国でどうやって尽くし、どんな最期を遂げたか。貴女のその優秀な頭脳は、もう一瞬で『理解』してしまったのでしょう?」
「……っ!」
「いえ。全部じゃなさそうね」
「っ」
「過去の異邦人たちは皆、この国の礎となりました」
妖艶な笑みを浮かべる。
そしてマリアは悍ましいことを言った。
彼女のスキルの名前は——
「汝、結婚せよ。汝、産むが吉。安心して。私が祈れば、確実に子供を産めるから」
宝物の本が片付けられ、複数の肖像画が並べられる。
若い者から、年寄りまで。
どれも、高そうな服。どれも、高そうな絵具。
カードをドローしろと言わんばかりに積まれた額縁。
「結婚して、子供を産め……ってこと」
「そう。次々に」
栞の顔が土気色に染まる。
選ぶのではなく、順番だった。
「貴女のその類まれなる解読のスキルも、帝国の至宝になり得ます。これからの人生、私達のためにその頭脳を捧げてくださるわよね?」
マリアは栞の青い髪を、愛しげに撫でた。
「……もし、断ったら?」
「断るなんて、おかしいでしょう? でも、もし断ったら」
「断ったら?」
「他の動物でも試してみましょう。ハツカネズミなんて如何?」
「なに……言ってる……の」
「だって、出産は早い方が良いでしょう?」
悍ましいスキル。
ある意味、暴力だった。
なぜ、そんな能力があるのか、どんな趣味の異邦人が居たのか。
「もし貴女が狂ってしまって、その知性が壊れて失われたとしても……肉体だけでも、ヴコルが大切に『再利用』してくれますから。……ですから、良い返事を期待しておりますわ」
◇
回想が、途切れた。
冷たい石の壁が目の前にある。
膝を抱えた栞の手が、微かに、だが止まることなく震えていた。
——帝国にも、『読み解くが吉』がいた。
つい、目で文字を追ってしまった。
痛恨のミスだった。取り返しのつかないミスだった。
「特に……アタシの力は……」
ヴコルのことを思った。
ソスピロ山で見た、あの奇妙なキメラのアンデッドたち。
あれはただの魔物を後からくっつけたのか。
それとも——過去の『帰れなかった異邦人たち』の成れの果てだったのか。
考えるのをやめた。吐き気がした。
ここはあの都市ベラードではない。
読み解くが吉の力は、確かに凄い。
魔法も使えるが、最強かと言われるとそうではない。
魔法の威力は、唱えるが吉の方が強い。
剣も盾も使えない、足も……
今はまだレベル4だから、曖昧でしかない。
けれど、何となく分かる。
この力は極めると、人の心が読めてしまうほど、強い。
何となくしか分からないけれど、ここは山の奥深く。
何となく伝わったのは、普通なら助けが来ない場所、という心。
「何が……大丈夫……よ」
この部屋は異邦人専用の監禁部屋だ。
あの呪われた本を読んでしまった。
帝国がなぜ自分をこんな厳重に監禁するのか。
そのおぞましい理由も、なんとなく分かってしまった。
「アタシの力じゃ、逃げられない」
ポツリと弱音が出た。
乾いた音は、冷たい石の壁に吸い込まれて消えた。
「……逃げるが吉を持っていたとしても、この部屋からは——」
絶望的な沈黙が続いた。
どれくらい経ったか、分からない。
太陽の光がないため、時間の感覚すら狂い始めていた。
カチ……カチ……
カサッ、と音がした。
分厚い扉の下にある、食事用の小さな窓。
殆ど食べずに、そのまま返している。
何日、食べていないのか。
その前に利用されるのか、死んでから体を乗っ取られるのか。
「どう……して……」
窓が開く。パタパタと何度も。
そこから、何かが這い入ってきた。
小さかった。灰色だった。
栞は目をひん剥いた。
ネズミだ。
「う……」
——汝、産むが吉
次の瞬間、一匹だけではなかった。
二匹、四匹、八匹。大量の影が、小窓から溢れるように雪崩れ込んできた。
「うそ、なんで……。いや……」
ただの齧歯類じゃない。
目が異常に赤く濁り、飢えたように牙を鳴らしている。
無数の齧歯類が、石の床を黒く染め上げながら栞へ向かって真っ直ぐに押し寄せてくる。
精神を削るための拷問か。
それとも、ヴコルの差し金か。
マリアの顔が浮かんだ。あの、狂気を孕んだ聖母の笑顔が浮かんだ。
栞は悲鳴を飲み込み、部屋の隅まで後退した。恐怖で歯の根が合わなかった。
迫り来る無数の群れに向けて、震える両手を翳した。
淡いブルーの魔法陣が空中に展開した。
「凍れッ!」
冷気が広がり、先頭の数十匹が瞬時に氷漬けになった。
だが、群れは止まらない。
凍った仲間の死骸を踏み越え、隙間を縫って、また来る。
また来る。
波のように押し寄せてくる。
「くっ——」
栞の強みは、あくまで知力と分析の『読み解くが吉』だ。
尖った力ゆえに純粋な魔力は決して高くなかった。
この無尽蔵に湧く群れを、一気に処理し切るだけのリソースがない。
じりじりと後退し、ついに冷たい石壁に背中がついた。
もう下がれない。
オーバーサイズのセーターの裾に、ネズミの爪が引っかかった。
手が震えた。
空中の魔法陣が、魔力不足で明滅して揺れた。
ハツカネズミにされる。
いや、あの女の力で、ソレが人間として生まれる。
ずっと、この中で繰り返される。
それだけは、絶対に嫌だ。
——なら、いっそ。
栞は、明滅する赤色の魔法陣を、群れから逸らした。
そして、頭上に向けた。
アタシは失敗した! アタシは失敗した! アタシは失敗した! アタシは失敗した! アタシは失敗した! アタシは——




