第二話 |逆召喚《ぎゃくしょうかん》
◇
C区画での戦闘後、隔離医療ドックは静まり返っていた。
勝利のあととは思えない静けさだった。
トライオーの巨体は、ドック中央の強化床に横たえられている。
十五メートルの体躯は、召喚室で初めて現れた時よりも大きく、重く、そして今は痛々しかった。
炎のたてがみはまだ燃えている。
だが、戦場で見たような赤ではない。
火の奥に、黒い煤のようなものが混じっていた。
八岐大蛇の毒が残した痕だった。
医療班が見ているのは、裂傷ではない。
骨折でもない。
血液反応でもない。
存在安定率。
逆召喚体にだけ表示される、命に似た数字だった。
トライオー損耗率、二八%。
神谷白玖はその数字を、しばらく見つめていた。
勝った。
だが、勝利はトライオーを削った。
別区画では、マルス・アインリグラストが治療を受けている。
彼は何事もないように起き上がろうとした。
医療班に止められても、困ったように笑った。
「勇者が寝たままでは、示しがつかないだろう」
白玖は、笑えなかった。
マルスの指先には、白いひびのようなファイロン反応が浮いている。
毒霧を吸った喉は、何度も咳を押し殺していた。
体内魔力消費、四一%。
存在安定率も低下している。
人間なら倒れている。
だが彼は、人間ではない。
だからといって、兵器でもなかった。
逆召喚体は、映像ではない。
幻でもない。
傷つき、疲れ、削れる。
限界を超えれば、消える。
白玖はそれを知っていた。
それでも、C区画でマルスを止めなかった。
止めればトライオーが死んだ。
進ませれば、マルスが削れた。
どちらを選んでも、自分の手は汚れる。
それでも白玖は、マルスを止めなかった。
「私が止めていれば、あなたはここまで削れなかった」
治療室のガラス越しに、白玖は言った。
マルスは少しだけ目を細める。
「止められていたら、私は君に怒っていた」
「怒ってくれた方が、まだ楽だった」
「なら、次も怒らせてくれ」
マルスは、かすれた息で笑った。
「私はまた走る」
白玖は返事ができなかった。
その時、思念リンクの奥で、低い声が響いた。
『白玖よ』
トライオーの声だった。
白玖はドックの方へ目を向ける。
「トライオー?」
『あの幼き声は、我の名を呼んだ』
白玖は一瞬、息を止めた。
『ママ……あれ、トライオーだよね。そう言っておった』
「聞こえていたの?」
『聞こえた。だから、立った』
白玖の胸の奥が、痛んだ。
『我は兵器ではない。だが、人を守るために呼ばれたなら、それに応える』
「あなたも削れるのよ」
『知っておる』
「消えるかもしれない」
『それでも、名を呼ばれた』
トライオーの炎が、かすかに揺れた。
『名を呼ばれたなら、応えねばならぬ』
白玖は目を伏せた。
希望は、あった。
けれど希望は、無限ではない。
そのことを、彼女は数字で見ていた。
トライオー。
マルス・アインリグラスト。
ツルギ。
人類が手に入れた三つの希望。
そして、今はもう、この三体しかいない。
白玖は、モニターに並ぶ三つの名前を見つめた。
すべては、あの日に始まった。
人類が、世界を壊した禁忌をもう一度使うと決めた日。
◆◆
その反撃が始まったのも、八十二日目のことだった。
人類は、まだ負け続けていた。
救助ではなく、放棄する場所を決める会議が日課になっていた。
どの区画を捨てるか。
何人を逃がせるか。
どの防壁が、あと何時間もつか。
そんな数字ばかりが並ぶ会議室で、白玖は立っていた。
第一の反撃は、勝利の宣言ではなかった。
世界を壊した禁忌を、もう一度、人類の手で開くことだった。
「逆召喚を行います」
会議室の空気が止まった。
白玖の声だけが、冷たい照明の下に残る。
「世界を壊した方法を、もう一度使うのか」
軍服の男が言った。
「はい」
白玖は否定しなかった。
「ただし、黒光鋼の時とは違います。対象者を選び、開口を二ミリ以下に固定し、想像領域全体ではなく、特定の存在だけを抽出します」
「次に出てくるものが怪物ではない保証は?」
「ありません」
ざわめきが走った。
白玖は、そのざわめきが収まるのを待たなかった。
「でも、他に方法もありません」
モニターには、アートクリーチャーの解析結果が映っている。
体組織ではない。
遺伝子でもない。
化学反応でもない。
形を作っているのは、思念データだった。
怪物としての情報。
恐怖としての情報。
物語としての情報。
「アートクリーチャーは、黒光鋼の想像から生まれています。ならば、物理兵器だけで対応するには限界があります。必要なのは、同じ層で干渉できる存在です」
「つまり、怪物に対抗するために、別の想像を呼ぶというのか」
「はい」
「それは科学ではない」
「科学だけでは、もう八十二日負け続けています」
静かだった。
怒鳴ったわけではない。
責めたわけでもない。
ただ、その事実だけで、部屋の全員が黙った。
白玖は、モニターの横に表示された数値を見る。
ファイロン濃縮量。
安定化に成功した粒子密度。
再使用可能予測。
「ただし、何度も試せる方法ではありません」
白玖は言った。
「現在、安定化して保管できているファイロン量は、逆召喚三回分です」
その数字に、誰かが息を呑んだ。
「三回……」
「はい。三回失敗すれば、次の召喚は最短でも三ヶ月後。条件が悪ければ六ヶ月後です」
「その間、人類がもつ保証は?」
「ありません」
白玖は即答した。
残酷なほど早かった。
「だから、選ばなければなりません」
「何を」
「どの頭脳を使うかです」
◇
最初に候補に挙がったのは、軍人だった。
戦場を知る者。
武器を知る者。
人間の殺し方と守り方を知る者。
当然の選択に思えた。
だが、白玖は首を振った。
「軍人の脳から出るのは、戦術や武器のイメージです。もちろん価値はあります。でも、アートクリーチャーと同じ階層には届かない可能性が高い」
「では兵器開発者は」
「兵器が出ます。それも、現実の延長線上にある兵器です」
白玖はモニターに、戦闘記録を映した。
焼き尽くしたはずの壁の影から、別の怪物が生まれている映像。
爆撃後の跡地が、翌朝には森に変わっていた衛星写真。
重火器を受けた個体が、傷口から別の形を増殖させている記録。
「アートクリーチャーは、単に硬い敵ではありません。場所の法則そのものを書き換えます。火が通じない場所、水が逆流する場所、死者が死なない場所。そこでは、威力だけでは足りません」
「科学者は」
「装置か理論が出るでしょう」
白玖は、少しだけ目を伏せた。
自分が、その科学者の側にいることを理解していた。
「ですが、理論は現場で人をかばいません。装置は、使う者がいなければ動きません。今必要なのは、出現した瞬間に自分で判断し、人を守る側へ動く存在です」
白玖は、自分の言葉がどれだけ奇妙か分かっていた。
科学者である彼女が、科学者を退けている。
だが、もう綺麗な理屈だけで世界は保たなかった。
「必要なのは、すでに頭の中に完成された存在を持っている者です」
白玖は言った。
「ただの知識ではなく、人格を持ち、役割を持ち、戦う理由を持った存在。長い時間をかけて、何度も何度も想像され、組み上げられたもの」
「創作者か」
誰かがつぶやいた。
白玖はうなずいた。
「はい。ただし、誰でもいいわけではありません」
候補は、理論上ならもっといた。
神話を研究する者。
最強の魔王を描いた漫画家。
巨大ロボットを設計するように物語を書いた作家。
誰も倒せない神を空想し続けた者。
だが、理論上の候補と、実際に使える候補は違った。
生きていること。
居場所が分かること。
連絡が取れること。
本人が同意すること。
海馬のファイロン適性が基準値を超えること。
そして、その頭の中にある存在が、人類を守る側へ向く可能性が高いこと。
その条件をすべて満たす者は、あまりにも少なかった。
選ばれたのは、最強の三人ではない。
今、呼べる三人だった。
そして、今、呼ばなければ間に合わない三人だった。
「同意?」
軍人が眉を動かした。
「対象者の海馬に門を開きます。脳への負荷は避けられません。逆召喚体が消滅した場合、対象者に後遺症が出る可能性もあります」
「どの程度の」
「記憶欠損、創造性の喪失、人格変容。最悪の場合、脳機能停止」
誰も、すぐには話さなかった。
世界を救うために、人間の頭の中から英雄を引きずり出す。
言葉にすれば希望のようで、実際には人体実験に近かった。
それでも、外では人が死んでいる。
今この瞬間にも、どこかの防壁が破られているかもしれない。
「候補者リストを」
政府残存機関の女が言った。
白玖は、三つのファイルを開いた。
◇
一人目は、正義の怪獣を描き続けてきた漫画家だった。
その作品は、長く続いた。
漫画として始まり、アニメになり、実写作品にもなった。
流行の中心に居続けたわけではない。
けれど、子どもたちはその名を知っていた。
大人たちも、かつてその姿に胸を躍らせた記憶を持っていた。
人間の味方をする怪物。
炎を吐き、爪で戦い、それでも必ず人を守る巨獣。
名前は、トライオー。
虎の縞を持ち、獅子のたてがみをなびかせる、十五メートルの守護怪獣。
「最初に必要なのは、人間が見ても逃げない怪物です」
白玖は言った。
「それも、ただ強いだけでは駄目です。人々が名前を知っていて、味方だと信じられる存在でなければならない」
白玖は、少しだけ言葉を切った。
「子どもが名前を呼べる存在でなければならない」
会議室の誰も、笑わなかった。
笑える世界では、もうなかった。
「絶望の中で、その名を呼んだ時、逃げるのではなく見上げられる存在が必要です」
だから、トライオーだった。
「戦力としては」
「物理戦なら、現候補の中で最上位です。巨大アートクリーチャーへの初手にも向いています」
「弱点は」
「寒冷環境に弱い可能性があります。原作設定上、熱量を基盤にした怪獣です」
「原作設定、か」
誰かが疲れたように笑った。
もう世界は、そういう言葉を笑っていられる場所ではなかった。
◇
八十二日目の夜。
研究拠点の最深部に、ファイロン・ゲートが再起動された。
白玖の手は震えていた。
隠そうとしても、指先がわずかに揺れる。
仕方がない。
これから彼女は、世界を壊した禁忌を、もう一度使う。
父が開いた門。
黒光鋼の中から怪物を解き放った孔。
その再現。
ただし、今度は管理する。
制御する。
対象を絞る。
そう言い聞かせても、恐怖は消えなかった。
対象者の漫画家轟銀河は、処置台に横たわっていた。
年老いてはいない。
けれど、この八十二日で一気に老けたように見えた。
彼は、手術前に白玖へ言った。
「もし、あいつが本当に出てくるなら」
声はかすれていた。
「伝えてください。遅くなって、ごめんなって」
白玖は、何と返せばいいか分からなかった。
彼が言う「あいつ」とは、自分の描いた怪獣のことだ。
存在しないはずのもの。
紙の上にしかいなかったもの。
けれど、漫画で描かれ、アニメで動き、実写で立ち上がり、子どもたちの記憶の中で何度も名前を呼ばれた存在だった。
それでも彼にとっては、長い時間を一緒に生きてきた存在だった。
「必ず、伝えます」
白玖はそう答えた。
処置が始まる。
対象者の海馬座標を固定。
ファイロン濃度、上昇。
A-B接続、準備完了。
開くのは、二ミリ以下の門。
ただし、今度の門は病巣へ向かうものではない。
人間の想像の奥へ向かう。
「逆召喚、開始」
白玖が言った。
ファイロン・ゲートが低く鳴る。
空気が歪む。
白い粒子が舞った。
モニターに、対象者の脳内イメージが映し出される。
最初は線だった。
荒い鉛筆の線。
何度も描き直された爪。
少年漫画のコマ割り。
瓦礫の街。
泣いている子ども。
その前に立つ、巨大な影。
影に、縞が走る。
虎の縞。
背中に、たてがみが生える。
獅子のたてがみ。
次に色が乗った。
アニメの炎。
変身バンクのように走る光。
子どもたちがテレビの前で叫んだ名前。
さらに重さが加わる。
実写の巨体が地面を踏み鳴らした時の重量。
特撮の火薬。
瓦礫の匂い。
低い咆哮。
漫画の線。
アニメの色。
実写の重量。
子どもたちの記憶の中で何度も叫ばれた名前。
それらが一つになって、巨獣が立ち上がった。
誰かがモニターの前で息を呑んだ。
白玖は、喉の奥が焼けるように乾いていくのを感じた。
開いている。
門が開いている。
けれど、黒いものは出てこない。
出てきたのは、熱だった。
恐怖ではない。
怒りでもない。
誰かを守るために前へ出る、馬鹿みたいに真っ直ぐな熱。
実験室の床が軋んだ。
白い粒子の中で、巨大な前脚が現れる。
続いて、爪。
肩。
燃えるたてがみ。
虎の縞を持つ巨体。
十五メートルには届かない。
召喚室の限界に合わせて、体は縮小されていた。
それでも、その場にいた人間のほとんどが、一歩後ずさった。
怪物だった。
どう見ても怪物だった。
だが、その怪物は目を開けると、最初に周囲の人間を見た。
そして、低い声で言った。
「人は、まだ生きておるか」
いや。
その声は、耳だけに届いたのではなかった。
白玖の頭の奥に、直接響いた。
『人は、まだ生きておるか』
口は動いていた。
空気も震えていた。
だが、それだけではない。
思念が、白玖の内側へ届いていた。
白玖は、胸の奥を押さえた。
「聞こえる……」
周囲の研究員たちが振り返る。
「神谷さん?」
白玖は巨獣を見上げた。
恐怖はあった。
だが、それより先に、信じがたい確信があった。
この存在と、自分はつながっている。
「生きています」
白玖は答えた。
巨獣は、彼女を見た。
「ならば、我は戦う」
その瞬間、会議室でも研究室でもない、もっと古い場所で何かが決まったような気がした。
兵器ではなかった。
実験体でもなかった。
彼は、彼自身の意思で、人間の味方になると決めた。
白玖は、その時初めて理解した。
逆召喚で呼び出されるものは、ただの想像ではない。
人格を持つ。
意志を持つ。
傷つき、恐れ、戦い、死ぬ可能性がある。
命に近いものだった。
◇
最初の防衛戦は、その三時間後に起きた。
それまでの三時間で、人類はようやく、トライオーと会話する方法を探った。
声は聞こえる。
だが、すべての人間に届くわけではない。
研究員が話しかけても、返事はあった。
だが、深い部分では通じなかった。
トライオーの思念がはっきり届くのは、白玖だけだった。
白玖が言えば、トライオーは理解する。
トライオーが問えば、白玖だけがその奥の意味まで受け取れる。
理由は分からなかった。
白玖が最初の禁忌の門に近づきすぎたからなのか。
父の研究データを受け継いだからなのか。
それとも、ファイロン粒子に神経を焼かれたせいなのか。
分からない。
けれど、その三時間で一つだけ決まった。
白玖が、トライオーの声を聞く。
白玖が、トライオーへ戦場を伝える。
それが、人類と勇者候補をつなぐ最初の方法だった。
その直後、研究拠点の外縁に、中型アートクリーチャーが接近した。
黒い犬のようなものだった。
ただし、犬ではなかった。
頭が三つあり、腹の下から人間の腕のようなものが何本も垂れていた。
背中には、閉じた目がびっしり並んでいる。
その目は、銃声がするたびに一つずつ開いた。
兵士たちは射撃した。
弾は当たった。
当たった場所が裂けた。
だが、裂け目の奥に肉はなかった。
小さな口が並んでいた。
その口が一斉に笑い、傷口からさらに細い脚が何本も伸びてきた。
倒すほど、形が増える。
傷つけるほど、怪物に近づく。
それが、アートクリーチャーだった。
防衛線が下がる。
避難警報が鳴る。
その時、隔壁が開いた。
巨獣が出た。
虎の縞。
獅子のたてがみ。
燃える息。
まだ誰も、その名を呼び慣れていなかった。
それでも、誰かが叫んだ。
「トライオー!」
その名を聞いた巨獣は、振り返らなかった。
ただ前へ出た。
黒い犬のようなものが飛びかかる。
トライオーは吠えた。
その咆哮だけで、開きかけていた無数の目が潰れた。
爪が振るわれる。
黒い肉が裂ける。
傷口から伸びようとした細い脚を、炎が焼いた。
増える前に焼く。
分裂する前に潰す。
形を持つ前に消す。
白玖の声が、トライオーの意識へ飛ぶ。
『右。背中の目が全部開く前に』
「承知!」
炎が走った。
戦闘は、七分で終わった。
七分。
八十二日間、何をしても押し返せなかった怪物を、たった七分で退けた。
防壁の内側で、誰かが泣いた。
最初は一人だった。
それから、別の誰かが膝をついた。
兵士が銃を握ったまま、空を見上げた。
医師が、声にならない声で笑った。
歓声は遅れて来た。
人類はあまりに長く負け続けていたから、勝った時の声の出し方を忘れていた。
けれど、やがて誰かが叫んだ。
「勝った……!」
その言葉をきっかけに、研究拠点は初めて揺れた。
恐怖ではなく、歓声で。
八十二日目。
人類は、ようやく反撃の形を手に入れた。
◇
トライオーの成功により、残る二回の逆召喚が実行された。
二回目に呼び出されたのは、渡響也が何千時間も操作し、勝たせ、死なせ、また立ち上がらせてきた理想の勇者だった。
マルス・アインリグラスト。
白い粒子の中に、まず骨格が現れた。
それは人間の骨ではなかった。
ポリゴンだった。
三角形の面がいくつも組み合わさり、頭、肩、腕、脚の形を作る。
その上に、粗いドットが浮かんだ。
最初は荒い。
古いゲーム画面のように、輪郭も色もまだ粗かった。
だが、ドットはすぐに細かくなっていく。
髪に陰影が生まれ、鎧に傷が入り、瞳に光が宿る。
銀の剣が解像度を上げ、青い外套が風を受けた。
最後に、画面の奥にいたはずの勇者が、現実の床を踏んだ。
銀の剣を持ち、勇者専用魔法を扱う、人型の勇者候補。
彼は召喚直後、白玖に尋ねた。
「守るべき民は、どこにいる」
その問いで、彼がどういう存在かは十分だった。
白玖は、この時すでに理解していた。
マルスは正しい。
正しすぎるほど、正しい。
だからこそ、危うい。
敵がいれば前へ出る。
人が泣いていれば振り返る。
助けられる可能性があるなら、危険を理由に止まらない。
それは勇者の資質だった。
同時に、戦場では死に近い癖でもあった。
◇
三回目の逆召喚は、最も危険だった。
対象者、鷹村剣。
異世界最強を書く小説家。
彼の脳内には、魔法体系があった。
火。
水。
風。
土。
雷。
五つの元素を統合し、世界の法則そのものへ干渉する勇者。
そして、その応用は元素そのものを超え、重力や空間の扱いにまで踏み込んでいた。
三回目の逆召喚では、ポリゴンも線も現れなかった。
代わりに、空間へ記述が始まった。
床に。
壁に。
空中に。
黒いインクのような文字列が、猛烈な速度で書き連ねられていく。
火は燃える。
水は逆巻く。
風は裂く。
土は隆起する。
雷は落ちる。
書かれた言葉が、そのまま現実の条件へ変換されていく。
それは、魔法陣というより、世界への命令文だった。
文字列は光へ変わり、床に円を描いた。
火、水、風、土、雷。
五つの元素を示す紋様が、円の内側で順に灯った。
その瞬間、召喚室の空気が変わった。
火が燃えた。
水が逆巻いた。
風が壁を裂いた。
土が床を盛り上げた。
雷が照明を焼き切った。
制御不能。
警告表示が、白玖の視界を赤く染める。
「ファイロン濃度、上限突破!」
「防護結界、一枚目消失!」
「二枚目、もちません!」
白玖は、リンクを無理やり繋いだ。
まだ相手が誰なのかも分からない。
声が届く保証もない。
けれど、届かなければ召喚室ごと吹き飛ぶ。
『止まって! ここは敵地じゃない!』
白玖の思念が、赤い警告の中を突き抜ける。
その声が届いた瞬間、五つの魔法陣がぴたりと止まった。
火が空中で固まり、水が床に落ちる直前で静止する。
風は壁を裂いたまま止まり、土の柱は白玖の足元で止まり、雷は照明の残骸の中で細く震えた。
光が柱のように立ち上がる。
その中心に、一人の少年が現れた。
黒髪。
抜けた表情。
右手には、まだ世界を焼けるほどの魔力が残っている。
少年は周囲を見回した。
割れた壁。
焦げた床。
停止した五つの魔法陣。
青ざめた研究員たち。
赤く点滅する警告表示。
そして、最初にこう言った。
「……ここ、日本?」
白玖は、返事をする前にモニターを見た。
召喚室の壁は三ヶ所割れていた。
防護結界は二枚焼き切れていた。
ファイロン濃度は、危険域ぎりぎりで踏みとどまっている。
それでも本人は、自分が何をしたのか分かっていない顔をしていた。
「あなたが、ツルギ?」
白玖が問う。
少年は少し困った顔をした。
「たぶん。いや、ツルギっていうか……鷹村剣なんだけど。え、俺また召喚された?」
彼は自分の足元に残る魔法陣を見て、ようやく少しだけ眉をひそめた。
「……これ、俺がやったの?」
その場にいた全員が、何も言えなかった。
強い。
間違いなく強い。
だが本人だけが、その強さを一番信じていなかった。
◇
こうして、人類は三つの希望を手に入れた。
人間の味方をする怪物、トライオー。
正義を信じる剣士、マルス・アインリグラスト。
自分の強さを知らない最強勇者、ツルギ。
だが、同時にファイロンの残量は尽きた。
次の逆召喚が可能になるのは、最短でも三ヶ月後。
条件が悪ければ、六ヶ月後。
今はもう、この三体しかいない。
倒されれば、終わる。
失えば、次は間に合わないかもしれない。
そして、その三体の声を聞けるのは、神谷白玖だけだった。
◇
現在。
白玖は、三つの反応が並ぶモニターを見つめていた。
トライオー。
マルス・アインリグラスト。
ツルギ。
世界を壊したのは、人の想像だった。
ならば。
世界を救うのも、きっと人の想像でなければならない。
白玖はそう思った。
そう思わなければ、もう前を向けなかった。
だが、希望は無限ではない。
トライオーは二八%削れた。
マルスは毒霧の中で魔力を四一%失った。
ツルギは出力だけなら三体中最大だが、安定性に不安が残る。
勝てる。
けれど、勝つたびに削れる。
守れる。
けれど、守るたびに何かを失う。
白玖は、モニターの端に残った八岐大蛇型の解析結果を開いた。
作品NO.なし。
流出個体。
黒光鋼が完成させた作品ではない。
題名も、額縁も、構図も持たない、漏れ出した悪夢。
それでも、C区画とF区画を壊滅寸前まで追い込んだ。
「流出個体で、あれ……」
技術班の一人が呟いた。
誰も答えなかった。
答えなくても、全員が分かっていた。
黒光鋼が完成させ、題名を与え、額縁の中へ閉じ込めた作品。
作品NO.付き。
それが動けば、区画単位では済まない。
その時、警告音が鳴った。
司令室の壁面モニターに、新しい地図が開く。
日本列島。
C区画とは別の地点で、ファイロン濃度が跳ね上がっている。
ただの流出個体ではない。
波形が、八岐大蛇型とは違っていた。
漏れ出した悪夢ではない。
額縁のように、閉じている。
オペレーターの声が震えた。
「作品NO.付き反応の可能性あり」
白玖は息を止めた。
画面の端に、古い怨念のような黒い線が走る。
次の怪物は、流出個体ではない。
完成された悪夢だった。




