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第二話 |逆召喚《ぎゃくしょうかん》



 C区画での戦闘後、隔離医療ドックは静まり返っていた。


 勝利のあととは思えない静けさだった。


 トライオーの巨体は、ドック中央の強化床に横たえられている。


 十五メートルの体躯は、召喚室で初めて現れた時よりも大きく、重く、そして今は痛々しかった。


 炎のたてがみはまだ燃えている。

 だが、戦場で見たような赤ではない。

 火の奥に、黒い煤のようなものが混じっていた。


 八岐大蛇の毒が残した痕だった。


 医療班が見ているのは、裂傷ではない。

 骨折でもない。

 血液反応でもない。


 存在安定率。


 逆召喚体にだけ表示される、命に似た数字だった。


 トライオー損耗率、二八%。


 神谷白玖(かみや・はく)はその数字を、しばらく見つめていた。


 勝った。


 だが、勝利はトライオーを削った。


 別区画では、マルス・アインリグラストが治療を受けている。


 彼は何事もないように起き上がろうとした。

 医療班に止められても、困ったように笑った。


「勇者が寝たままでは、示しがつかないだろう」


 白玖は、笑えなかった。


 マルスの指先には、白いひびのようなファイロン反応が浮いている。

 毒霧を吸った喉は、何度も咳を押し殺していた。

 体内魔力消費、四一%。

 存在安定率も低下している。


 人間なら倒れている。


 だが彼は、人間ではない。


 だからといって、兵器でもなかった。


 逆召喚体は、映像ではない。

 幻でもない。


 傷つき、疲れ、削れる。

 限界を超えれば、消える。


 白玖はそれを知っていた。


 それでも、C区画でマルスを止めなかった。


 止めればトライオーが死んだ。

 進ませれば、マルスが削れた。


 どちらを選んでも、自分の手は汚れる。


 それでも白玖は、マルスを止めなかった。


「私が止めていれば、あなたはここまで削れなかった」


 治療室のガラス越しに、白玖は言った。


 マルスは少しだけ目を細める。


「止められていたら、私は君に怒っていた」


「怒ってくれた方が、まだ楽だった」


「なら、次も怒らせてくれ」


 マルスは、かすれた息で笑った。


「私はまた走る」


 白玖は返事ができなかった。


 その時、思念リンクの奥で、低い声が響いた。


『白玖よ』


 トライオーの声だった。


 白玖はドックの方へ目を向ける。


「トライオー?」


『あの幼き声は、我の名を呼んだ』


 白玖は一瞬、息を止めた。


『ママ……あれ、トライオーだよね。そう言っておった』


「聞こえていたの?」


『聞こえた。だから、立った』


 白玖の胸の奥が、痛んだ。


『我は兵器ではない。だが、人を守るために呼ばれたなら、それに応える』


「あなたも削れるのよ」


『知っておる』


「消えるかもしれない」


『それでも、名を呼ばれた』


 トライオーの炎が、かすかに揺れた。


『名を呼ばれたなら、応えねばならぬ』


 白玖は目を伏せた。


 希望は、あった。


 けれど希望は、無限ではない。


 そのことを、彼女は数字で見ていた。


 トライオー。

 マルス・アインリグラスト。

 ツルギ。


 人類が手に入れた三つの希望。


 そして、今はもう、この三体しかいない。


 白玖は、モニターに並ぶ三つの名前を見つめた。


 すべては、あの日に始まった。


 人類が、世界を壊した禁忌をもう一度使うと決めた日。


◆◆


 その反撃が始まったのも、八十二日目のことだった。


 人類は、まだ負け続けていた。


 救助ではなく、放棄する場所を決める会議が日課になっていた。

 どの区画を捨てるか。

 何人を逃がせるか。

 どの防壁が、あと何時間もつか。


 そんな数字ばかりが並ぶ会議室で、白玖は立っていた。


 第一の反撃は、勝利の宣言ではなかった。


 世界を壊した禁忌を、もう一度、人類の手で開くことだった。


「逆召喚を行います」


 会議室の空気が止まった。


 白玖の声だけが、冷たい照明の下に残る。


「世界を壊した方法を、もう一度使うのか」


 軍服の男が言った。


「はい」


 白玖は否定しなかった。


「ただし、黒光鋼の時とは違います。対象者を選び、開口を二ミリ以下に固定し、想像領域全体ではなく、特定の存在だけを抽出します」


「次に出てくるものが怪物ではない保証は?」


「ありません」


 ざわめきが走った。


 白玖は、そのざわめきが収まるのを待たなかった。


「でも、他に方法もありません」


 モニターには、アートクリーチャーの解析結果が映っている。


 体組織ではない。

 遺伝子でもない。

 化学反応でもない。


 形を作っているのは、思念データだった。


 怪物としての情報。

 恐怖としての情報。

 物語としての情報。


「アートクリーチャーは、黒光鋼の想像から生まれています。ならば、物理兵器だけで対応するには限界があります。必要なのは、同じ層で干渉できる存在です」


「つまり、怪物に対抗するために、別の想像を呼ぶというのか」


「はい」


「それは科学ではない」


「科学だけでは、もう八十二日負け続けています」


 静かだった。


 怒鳴ったわけではない。

 責めたわけでもない。


 ただ、その事実だけで、部屋の全員が黙った。


 白玖は、モニターの横に表示された数値を見る。


 ファイロン濃縮量。

 安定化に成功した粒子密度。

 再使用可能予測。


「ただし、何度も試せる方法ではありません」


 白玖は言った。


「現在、安定化して保管できているファイロン量は、逆召喚三回分です」


 その数字に、誰かが息を呑んだ。


「三回……」


「はい。三回失敗すれば、次の召喚は最短でも三ヶ月後。条件が悪ければ六ヶ月後です」


「その間、人類がもつ保証は?」


「ありません」


 白玖は即答した。


 残酷なほど早かった。


「だから、選ばなければなりません」


「何を」


「どの頭脳を使うかです」



 最初に候補に挙がったのは、軍人だった。


 戦場を知る者。

 武器を知る者。

 人間の殺し方と守り方を知る者。


 当然の選択に思えた。


 だが、白玖は首を振った。


「軍人の脳から出るのは、戦術や武器のイメージです。もちろん価値はあります。でも、アートクリーチャーと同じ階層には届かない可能性が高い」


「では兵器開発者は」


「兵器が出ます。それも、現実の延長線上にある兵器です」


 白玖はモニターに、戦闘記録を映した。


 焼き尽くしたはずの壁の影から、別の怪物が生まれている映像。

 爆撃後の跡地が、翌朝には森に変わっていた衛星写真。

 重火器を受けた個体が、傷口から別の形を増殖させている記録。


「アートクリーチャーは、単に硬い敵ではありません。場所の法則そのものを書き換えます。火が通じない場所、水が逆流する場所、死者が死なない場所。そこでは、威力だけでは足りません」


「科学者は」


「装置か理論が出るでしょう」


 白玖は、少しだけ目を伏せた。


 自分が、その科学者の側にいることを理解していた。


「ですが、理論は現場で人をかばいません。装置は、使う者がいなければ動きません。今必要なのは、出現した瞬間に自分で判断し、人を守る側へ動く存在です」


 白玖は、自分の言葉がどれだけ奇妙か分かっていた。


 科学者である彼女が、科学者を退けている。


 だが、もう綺麗な理屈だけで世界は保たなかった。


「必要なのは、すでに頭の中に完成された存在を持っている者です」


 白玖は言った。


「ただの知識ではなく、人格を持ち、役割を持ち、戦う理由を持った存在。長い時間をかけて、何度も何度も想像され、組み上げられたもの」


「創作者か」


 誰かがつぶやいた。


 白玖はうなずいた。


「はい。ただし、誰でもいいわけではありません」


 候補は、理論上ならもっといた。


 神話を研究する者。

 最強の魔王を描いた漫画家。

 巨大ロボットを設計するように物語を書いた作家。

 誰も倒せない神を空想し続けた者。


 だが、理論上の候補と、実際に使える候補は違った。


 生きていること。

 居場所が分かること。

 連絡が取れること。

 本人が同意すること。

 海馬のファイロン適性が基準値を超えること。

 そして、その頭の中にある存在が、人類を守る側へ向く可能性が高いこと。


 その条件をすべて満たす者は、あまりにも少なかった。


 選ばれたのは、最強の三人ではない。


 今、呼べる三人だった。

 そして、今、呼ばなければ間に合わない三人だった。


「同意?」


 軍人が眉を動かした。


「対象者の海馬に門を開きます。脳への負荷は避けられません。逆召喚体が消滅した場合、対象者に後遺症が出る可能性もあります」


「どの程度の」


「記憶欠損、創造性の喪失、人格変容。最悪の場合、脳機能停止」


 誰も、すぐには話さなかった。


 世界を救うために、人間の頭の中から英雄を引きずり出す。


 言葉にすれば希望のようで、実際には人体実験に近かった。


 それでも、外では人が死んでいる。


 今この瞬間にも、どこかの防壁が破られているかもしれない。


「候補者リストを」


 政府残存機関の女が言った。


 白玖は、三つのファイルを開いた。



 一人目は、正義の怪獣を描き続けてきた漫画家だった。


 その作品は、長く続いた。


 漫画として始まり、アニメになり、実写作品にもなった。

 流行の中心に居続けたわけではない。


 けれど、子どもたちはその名を知っていた。

 大人たちも、かつてその姿に胸を躍らせた記憶を持っていた。


 人間の味方をする怪物。


 炎を吐き、爪で戦い、それでも必ず人を守る巨獣。


 名前は、トライオー。


 虎の縞を持ち、獅子のたてがみをなびかせる、十五メートルの守護怪獣。


「最初に必要なのは、人間が見ても逃げない怪物です」


 白玖は言った。


「それも、ただ強いだけでは駄目です。人々が名前を知っていて、味方だと信じられる存在でなければならない」


 白玖は、少しだけ言葉を切った。


「子どもが名前を呼べる存在でなければならない」


 会議室の誰も、笑わなかった。


 笑える世界では、もうなかった。


「絶望の中で、その名を呼んだ時、逃げるのではなく見上げられる存在が必要です」


 だから、トライオーだった。


「戦力としては」


「物理戦なら、現候補の中で最上位です。巨大アートクリーチャーへの初手にも向いています」


「弱点は」


「寒冷環境に弱い可能性があります。原作設定上、熱量を基盤にした怪獣です」


「原作設定、か」


 誰かが疲れたように笑った。


 もう世界は、そういう言葉を笑っていられる場所ではなかった。



 八十二日目の夜。


 研究拠点の最深部に、ファイロン・ゲートが再起動された。


 白玖の手は震えていた。


 隠そうとしても、指先がわずかに揺れる。


 仕方がない。


 これから彼女は、世界を壊した禁忌を、もう一度使う。


 父が開いた門。

 黒光鋼の中から怪物を解き放った孔。

 その再現。


 ただし、今度は管理する。

 制御する。

 対象を絞る。


 そう言い聞かせても、恐怖は消えなかった。


 対象者の漫画家轟銀河(とどろき・ぎんが)は、処置台に横たわっていた。


 年老いてはいない。

 けれど、この八十二日で一気に老けたように見えた。


 彼は、手術前に白玖へ言った。


「もし、あいつが本当に出てくるなら」


 声はかすれていた。


「伝えてください。遅くなって、ごめんなって」


 白玖は、何と返せばいいか分からなかった。


 彼が言う「あいつ」とは、自分の描いた怪獣のことだ。


 存在しないはずのもの。

 紙の上にしかいなかったもの。


 けれど、漫画で描かれ、アニメで動き、実写で立ち上がり、子どもたちの記憶の中で何度も名前を呼ばれた存在だった。


 それでも彼にとっては、長い時間を一緒に生きてきた存在だった。


「必ず、伝えます」


 白玖はそう答えた。


 処置が始まる。


 対象者の海馬座標を固定。

 ファイロン濃度、上昇。

 A-B接続、準備完了。


 開くのは、二ミリ以下の門。


 ただし、今度の門は病巣へ向かうものではない。


 人間の想像の奥へ向かう。


「逆召喚、開始」


 白玖が言った。


 ファイロン・ゲートが低く鳴る。


 空気が歪む。


 白い粒子が舞った。


 モニターに、対象者の脳内イメージが映し出される。


 最初は線だった。


 荒い鉛筆の線。

 何度も描き直された爪。

 少年漫画のコマ割り。

 瓦礫の街。

 泣いている子ども。

 その前に立つ、巨大な影。


 影に、縞が走る。


 虎の縞。


 背中に、たてがみが生える。


 獅子のたてがみ。


 次に色が乗った。


 アニメの炎。

 変身バンクのように走る光。

 子どもたちがテレビの前で叫んだ名前。


 さらに重さが加わる。


 実写の巨体が地面を踏み鳴らした時の重量。

 特撮の火薬。

 瓦礫の匂い。

 低い咆哮。


 漫画の線。

 アニメの色。

 実写の重量。

 子どもたちの記憶の中で何度も叫ばれた名前。


 それらが一つになって、巨獣が立ち上がった。


 誰かがモニターの前で息を呑んだ。


 白玖は、喉の奥が焼けるように乾いていくのを感じた。


 開いている。


 門が開いている。


 けれど、黒いものは出てこない。


 出てきたのは、熱だった。


 恐怖ではない。

 怒りでもない。


 誰かを守るために前へ出る、馬鹿みたいに真っ直ぐな熱。


 実験室の床が軋んだ。


 白い粒子の中で、巨大な前脚が現れる。


 続いて、爪。

 肩。

 燃えるたてがみ。

 虎の縞を持つ巨体。


 十五メートルには届かない。


 召喚室の限界に合わせて、体は縮小されていた。


 それでも、その場にいた人間のほとんどが、一歩後ずさった。


 怪物だった。


 どう見ても怪物だった。


 だが、その怪物は目を開けると、最初に周囲の人間を見た。


 そして、低い声で言った。


「人は、まだ生きておるか」


 いや。


 その声は、耳だけに届いたのではなかった。


 白玖の頭の奥に、直接響いた。


『人は、まだ生きておるか』


 口は動いていた。

 空気も震えていた。


 だが、それだけではない。


 思念が、白玖の内側へ届いていた。


 白玖は、胸の奥を押さえた。


「聞こえる……」


 周囲の研究員たちが振り返る。


「神谷さん?」


 白玖は巨獣を見上げた。


 恐怖はあった。

 だが、それより先に、信じがたい確信があった。


 この存在と、自分はつながっている。


「生きています」


 白玖は答えた。


 巨獣は、彼女を見た。


「ならば、我は戦う」


 その瞬間、会議室でも研究室でもない、もっと古い場所で何かが決まったような気がした。


 兵器ではなかった。


 実験体でもなかった。


 彼は、彼自身の意思で、人間の味方になると決めた。


 白玖は、その時初めて理解した。


 逆召喚で呼び出されるものは、ただの想像ではない。


 人格を持つ。

 意志を持つ。

 傷つき、恐れ、戦い、死ぬ可能性がある。


 命に近いものだった。



 最初の防衛戦は、その三時間後に起きた。


 それまでの三時間で、人類はようやく、トライオーと会話する方法を探った。


 声は聞こえる。

 だが、すべての人間に届くわけではない。


 研究員が話しかけても、返事はあった。

 だが、深い部分では通じなかった。


 トライオーの思念がはっきり届くのは、白玖だけだった。


 白玖が言えば、トライオーは理解する。

 トライオーが問えば、白玖だけがその奥の意味まで受け取れる。


 理由は分からなかった。


 白玖が最初の禁忌の門に近づきすぎたからなのか。

 父の研究データを受け継いだからなのか。

 それとも、ファイロン粒子に神経を焼かれたせいなのか。


 分からない。


 けれど、その三時間で一つだけ決まった。


 白玖が、トライオーの声を聞く。


 白玖が、トライオーへ戦場を伝える。


 それが、人類と勇者候補をつなぐ最初の方法だった。


 その直後、研究拠点の外縁に、中型アートクリーチャーが接近した。


 黒い犬のようなものだった。


 ただし、犬ではなかった。


 頭が三つあり、腹の下から人間の腕のようなものが何本も垂れていた。

 背中には、閉じた目がびっしり並んでいる。


 その目は、銃声がするたびに一つずつ開いた。


 兵士たちは射撃した。


 弾は当たった。

 当たった場所が裂けた。


 だが、裂け目の奥に肉はなかった。


 小さな口が並んでいた。


 その口が一斉に笑い、傷口からさらに細い脚が何本も伸びてきた。


 倒すほど、形が増える。

 傷つけるほど、怪物に近づく。


 それが、アートクリーチャーだった。


 防衛線が下がる。


 避難警報が鳴る。


 その時、隔壁が開いた。


 巨獣が出た。


 虎の縞。

 獅子のたてがみ。

 燃える息。


 まだ誰も、その名を呼び慣れていなかった。


 それでも、誰かが叫んだ。


「トライオー!」


 その名を聞いた巨獣は、振り返らなかった。


 ただ前へ出た。


 黒い犬のようなものが飛びかかる。


 トライオーは吠えた。


 その咆哮だけで、開きかけていた無数の目が潰れた。


 爪が振るわれる。

 黒い肉が裂ける。

 傷口から伸びようとした細い脚を、炎が焼いた。


 増える前に焼く。

 分裂する前に潰す。

 形を持つ前に消す。


 白玖の声が、トライオーの意識へ飛ぶ。


『右。背中の目が全部開く前に』


「承知!」


 炎が走った。


 戦闘は、七分で終わった。


 七分。


 八十二日間、何をしても押し返せなかった怪物を、たった七分で退けた。


 防壁の内側で、誰かが泣いた。


 最初は一人だった。


 それから、別の誰かが膝をついた。

 兵士が銃を握ったまま、空を見上げた。

 医師が、声にならない声で笑った。


 歓声は遅れて来た。


 人類はあまりに長く負け続けていたから、勝った時の声の出し方を忘れていた。


 けれど、やがて誰かが叫んだ。


「勝った……!」


 その言葉をきっかけに、研究拠点は初めて揺れた。


 恐怖ではなく、歓声で。


 八十二日目。


 人類は、ようやく反撃の形を手に入れた。



 トライオーの成功により、残る二回の逆召喚が実行された。


 二回目に呼び出されたのは、渡響也(わたり・きょうや)が何千時間も操作し、勝たせ、死なせ、また立ち上がらせてきた理想の勇者だった。


 マルス・アインリグラスト。


 白い粒子の中に、まず骨格が現れた。


 それは人間の骨ではなかった。


 ポリゴンだった。


 三角形の面がいくつも組み合わさり、頭、肩、腕、脚の形を作る。


 その上に、粗いドットが浮かんだ。


 最初は荒い。


 古いゲーム画面のように、輪郭も色もまだ粗かった。


 だが、ドットはすぐに細かくなっていく。


 髪に陰影が生まれ、鎧に傷が入り、瞳に光が宿る。

 銀の剣が解像度を上げ、青い外套が風を受けた。


 最後に、画面の奥にいたはずの勇者が、現実の床を踏んだ。


 銀の剣を持ち、勇者専用魔法ゆうしゃせんようまほうを扱う、人型の勇者候補。


 彼は召喚直後、白玖に尋ねた。


「守るべき民は、どこにいる」


 その問いで、彼がどういう存在かは十分だった。


 白玖は、この時すでに理解していた。


 マルスは正しい。

 正しすぎるほど、正しい。


 だからこそ、危うい。


 敵がいれば前へ出る。

 人が泣いていれば振り返る。

 助けられる可能性があるなら、危険を理由に止まらない。


 それは勇者の資質だった。


 同時に、戦場では死に近い癖でもあった。



 三回目の逆召喚は、最も危険だった。


 対象者、鷹村剣(たかむら・つるぎ)


 異世界最強を書く小説家。


 彼の脳内には、魔法体系があった。


 火。

 水。

 風。

 土。

 雷。


 五つの元素を統合し、世界の法則そのものへ干渉する勇者。


 そして、その応用は元素そのものを超え、重力や空間の扱いにまで踏み込んでいた。


 三回目の逆召喚では、ポリゴンも線も現れなかった。


 代わりに、空間へ記述が始まった。


 床に。

 壁に。

 空中に。


 黒いインクのような文字列が、猛烈な速度で書き連ねられていく。


 火は燃える。

 水は逆巻く。

 風は裂く。

 土は隆起する。

 雷は落ちる。


 書かれた言葉が、そのまま現実の条件へ変換されていく。


 それは、魔法陣というより、世界への命令文だった。


 文字列は光へ変わり、床に円を描いた。


 火、水、風、土、雷。


 五つの元素を示す紋様が、円の内側で順に灯った。


 その瞬間、召喚室の空気が変わった。


 火が燃えた。

 水が逆巻いた。

 風が壁を裂いた。

 土が床を盛り上げた。

 雷が照明を焼き切った。


 制御不能。


 警告表示が、白玖の視界を赤く染める。


「ファイロン濃度、上限突破!」


「防護結界、一枚目消失!」


「二枚目、もちません!」


 白玖は、リンクを無理やり繋いだ。


 まだ相手が誰なのかも分からない。

 声が届く保証もない。


 けれど、届かなければ召喚室ごと吹き飛ぶ。


『止まって! ここは敵地じゃない!』


 白玖の思念が、赤い警告の中を突き抜ける。


 その声が届いた瞬間、五つの魔法陣がぴたりと止まった。


 火が空中で固まり、水が床に落ちる直前で静止する。

 風は壁を裂いたまま止まり、土の柱は白玖の足元で止まり、雷は照明の残骸の中で細く震えた。


 光が柱のように立ち上がる。


 その中心に、一人の少年が現れた。


 黒髪。

 抜けた表情。

 右手には、まだ世界を焼けるほどの魔力が残っている。


 少年は周囲を見回した。


 割れた壁。

 焦げた床。

 停止した五つの魔法陣。

 青ざめた研究員たち。

 赤く点滅する警告表示。


 そして、最初にこう言った。


「……ここ、日本?」


 白玖は、返事をする前にモニターを見た。


 召喚室の壁は三ヶ所割れていた。

 防護結界は二枚焼き切れていた。

 ファイロン濃度は、危険域ぎりぎりで踏みとどまっている。


 それでも本人は、自分が何をしたのか分かっていない顔をしていた。


「あなたが、ツルギ?」


 白玖が問う。


 少年は少し困った顔をした。


「たぶん。いや、ツルギっていうか……鷹村剣なんだけど。え、俺また召喚された?」


 彼は自分の足元に残る魔法陣を見て、ようやく少しだけ眉をひそめた。


「……これ、俺がやったの?」


 その場にいた全員が、何も言えなかった。


 強い。


 間違いなく強い。


 だが本人だけが、その強さを一番信じていなかった。



 こうして、人類は三つの希望を手に入れた。


 人間の味方をする怪物、トライオー。


 正義を信じる剣士、マルス・アインリグラスト。


 自分の強さを知らない最強勇者、ツルギ。


 だが、同時にファイロンの残量は尽きた。


 次の逆召喚が可能になるのは、最短でも三ヶ月後。

 条件が悪ければ、六ヶ月後。


 今はもう、この三体しかいない。


 倒されれば、終わる。

 失えば、次は間に合わないかもしれない。


 そして、その三体の声を聞けるのは、神谷白玖だけだった。



 現在。


 白玖は、三つの反応が並ぶモニターを見つめていた。


 トライオー。

 マルス・アインリグラスト。

 ツルギ。


 世界を壊したのは、人の想像だった。


 ならば。


 世界を救うのも、きっと人の想像でなければならない。


 白玖はそう思った。


 そう思わなければ、もう前を向けなかった。


 だが、希望は無限ではない。


 トライオーは二八%削れた。

 マルスは毒霧の中で魔力を四一%失った。

 ツルギは出力だけなら三体中最大だが、安定性に不安が残る。


 勝てる。


 けれど、勝つたびに削れる。


 守れる。


 けれど、守るたびに何かを失う。


 白玖は、モニターの端に残った八岐大蛇型の解析結果を開いた。


 作品NO.なし。

 流出個体。


 黒光鋼が完成させた作品ではない。

 題名も、額縁も、構図も持たない、漏れ出した悪夢。


 それでも、C区画とF区画を壊滅寸前まで追い込んだ。


「流出個体で、あれ……」


 技術班の一人が呟いた。


 誰も答えなかった。


 答えなくても、全員が分かっていた。


 黒光鋼が完成させ、題名を与え、額縁の中へ閉じ込めた作品。


 作品NO.付き。


 それが動けば、区画単位では済まない。


 その時、警告音が鳴った。


 司令室の壁面モニターに、新しい地図が開く。


 日本列島。


 C区画とは別の地点で、ファイロン濃度が跳ね上がっている。


 ただの流出個体ではない。


 波形が、八岐大蛇型とは違っていた。


 漏れ出した悪夢ではない。


 額縁のように、閉じている。


 オペレーターの声が震えた。


「作品NO.付き反応の可能性あり」


 白玖は息を止めた。


 画面の端に、古い怨念のような黒い線が走る。


 次の怪物は、流出個体ではない。


 完成された悪夢だった。

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