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第四話 |皇の厄災《すめらぎのやくさい》


 八岐大蛇(やまたのおろち)が崩れ落ちたあとも、C区画の空は晴れなかった。


 黒い血が地面に広がり、割れたアスファルトの隙間から毒の煙が細く上がっている。

 トライオーの炎で焼かれた肉片は、まだ小さく鳴っていた。

 生きているのか、死んでいるのか。

 アートクリーチャーの残骸は、最後まで分かりにくい。


 トライオーは大きく息を吐いた。


 虎の縞を持つ巨体に、いくつもの傷が走っている。

 獅子のたてがみはまだ燃えていたが、その火は先ほどより少し弱い。


「白玖よ。避難は、終わっておるな」


 低い声が、空気を震わせた。


 司令室にいる神谷白玖(かみや・はく)は、モニターに映る避難完了表示を確認する。


「大丈夫。C区画、周辺住民の退避は完了。負傷者の搬送も始まってる」


「ならば、よい」


 トライオーは、そこで初めて肩を落とした。


 その横で、マルス・アインリグラストが剣を下ろす。


 青い鎧の表面には、毒霧を受けた黒い染みが残っていた。

 彼自身は平然として見える。

 けれど白玖の端末には、魔力消費量と損耗率が赤に近い黄色で表示されていた。


「マルス、魔力残量は?」


『まだ戦える』


「答えになってない」


『なら、四割ほどだ』


「それで、まだ戦えるって言ったの?」


『民が残っているなら、戦える』


 白玖は一瞬だけ目を閉じた。


 これがマルスだった。

 正しすぎる。

 そして、危うすぎる。


 司令室では、誰もまだ勝利を祝っていなかった。


 八岐大蛇を倒した。

 それは確かに大きな成果だった。

 だが、その直後に誰もが次の反応を探していた。


 もう、この世界では勝った直後が一番危ない。


「トライオー、外傷多数。マルス、魔力消費四一%。戦闘継続は可能ですが、長期戦は危険です」


 司令室の右奥で、綺堂(きどう)ナナが端末に指を走らせていた。


 黒光鋼作品データベースの照合担当。

 白玖とは学生時代からの親友で、今は司令室で彼女の補佐をしている。


 仕事中のナナは、白玖を「白玖さん」と呼ぶ。

 けれど、本当に危ない時だけ、昔のように「白玖」と呼ぶ。


 その声を聞くたびに、白玖はほんの少しだけ、自分がまだ人間でいられる気がした。


「分かってる。二体を無理に動かすつもりはない」


「本当ですか」


「本当」


「分かってる顔じゃないです」


 ナナは画面から目を離さずに言った。


 白玖は言い返せなかった。


 その時だった。


 ナナの指が止まった。


「白玖さん」


「何?」


「京都に、高密度ファイロン反応」


 司令室の空気が変わった。


「通常個体?」


「違います。反応値、上昇中。波形が……黒光鋼作品データベースと照合を開始します」


 白玖は息を呑んだ。


 京都。

 C区画から遠い。

 だが、距離はもう安全の意味を持たない。


 ファイロンは距離を折り畳む。

 黒光鋼の絵も、世界のどこにでもキャンバスを置く。


「トライオーとマルスは連戦です」


 ナナが低く言った。


「分かってる」


「分かってる顔じゃないです。白玖さん、今、次を考えてます」


「考えないと、京都が落ちる」


 ナナは、そこで初めて白玖を見た。


 仕事用の顔ではなかった。

 親友の顔だった。


「白玖」


 その呼び方に、白玖の胸が少しだけ詰まる。


「無茶しないで」


「……無茶しないと、間に合わない」


 ナナは唇を噛んだ。

 けれど、それ以上は止めなかった。


 止めたところで、白玖が止まらないことを知っていた。


 次の瞬間、司令室の主モニターに黒い波が走った。


 映像ではない。

 ノイズでもない。


 紙に墨を落としたような揺らぎが、画面の奥から広がっていく。


 黒い波は円を描き、滲み、何かの形を作り始めた。

 そこに文字が浮かぶ。


 ナナの声が震えた。


「絵題、確認……」


 誰も動かなかった。


「作品NO.一七。『皇の厄災』」


 表示された解説文を見て、ナナは息を呑んだ。


「京を焼き尽くす崇徳上皇の怨霊が、怨念を宿した目で冷たく都を見渡している。

 その瞳には絶望と怨みが沈み、なお全てを焼き尽くそうとする皇の厄が宿っていた」


 読み終えたあと、司令室から音が消えた。


 白玖は、京都上空に広がる黒いファイロン反応を見つめた。


「ボスクラス……」


 ナナが小さくうなずく。


「はい。黒光鋼の完成作品です」


 完成作品。


 その言葉は、司令室の誰にとっても最悪の響きだった。


 黒光鋼が額縁の中に閉じ込めていた怪物。

 描かれた時点で、一つの世界を持っていた作品。

 ただ出てきただけの残響ではない。

 意志も形も意味も完成している。


「崇徳上皇の怨霊……」


 白玖が呟くと、ナナはすでに別画面を開いていた。


「関連災厄を照合します。三件、強く一致」


 画面に古い文字列と現代の解析波形が並ぶ。


「安元の大火。鹿ケ谷の陰謀。治承の辻風」


「火災、政変、竜巻……」


「はい。作品解説とファイロン波形が一致しています。炎、幻聴、風圧。少なくとも三系統の攻撃が来ます」


 白玖は短く息を吸った。


 トライオーは炎に強い。

 マルスは勇者魔法を使える。

 だが、霊体。怨霊。災厄。

 ただ殴って倒せる相手ではない。


「トライオー、マルス。聞こえる?」


『聞こえておる、白玖』


『問題ない。次の敵か?』


 マルスの返事は早かった。


 白玖は、ほんの少しだけ言葉を止めた。


「京都にボスクラス反応。絵題は、皇の厄災」


『京都……距離があるな』


 マルスが言った。


『だが、民がいるなら行く』


「マルス、あなたは消耗してる」


『それでも行く』


「でしょうね」


 白玖は小さく息を吐いた。


 トライオーも答える。


『我も向かおう。民を焼かせはせぬ』


「トライオー、毒の影響が残ってる」


『炎は残っておる』


 白玖は額に手を当てた。


 三体とも、どうしてこうなのか。

 強い。

 けれど、全員どこか危なっかしい。


 三体を失えば、代わりはいない。


 トライオーを描いた轟銀河も、マルスの元となった渡響也も、ツルギを生んだ鷹村剣も、逆召喚の後、一度も意識を取り戻していなかった。


 死んではいない。


 けれど、眠り続けている。


 彼らの海馬に開いた小さな門は、英雄をこちら側へ引きずり出した代わりに、元の人間たちを深い眠りの底へ沈めていた。


 そして、世界を壊した張本人である黒光鋼は、あの日以来、行方不明のままだ。


 新しい候補を探せばいい。


 そう簡単に言える状況ではなかった。


 この三体は、今の人類が持っているすべてだった。


 その時、別の声が割り込んだ。


『じゃあ、迎えに行ってきます』


 ツルギだった。


「迎えに、って――」


 白玖が言い切る前に、ツルギの足元へ光の円が開いた。


 火、水、風、土、雷。

 五つの紋様が一瞬だけ床を走る。


 司令室のセンサーが遅れて鳴った。


「転移反応!?」


 ナナが叫ぶ。


 次の瞬間、ツルギの姿は司令室から消えていた。



 C区画の戦場では、八岐大蛇の黒い血がまだ地面で煙を上げていた。


 トライオーは大きく息を吐き、マルスは剣を下ろしている。

 周囲では兵士たちが残骸処理と負傷者搬送を進めていた。


 その二体の前に、突然、光の円が開いた。


「何だ」


 マルスが剣を構える。


 光の中から出てきたのは、ツルギだった。


 黒髪の少年は、少し申し訳なさそうに頭を下げる。


「すみません。迎えに来ました」


 トライオーが目を細めた。


「おぬし、今どこから来た」


「司令室の近くです。たぶん」


「たぶん?」


 マルスが眉をひそめる。


 ツルギは困ったように笑った。


「座標を合わせたつもりなんですけど、まだこの世界の空間がちょっと変で。ズレたらすみません」


「ズレたら、どうなる」


「壁の中とかに出るかもしれません」


 マルスは無言になった。


 トライオーも無言になった。


 ツルギは慌てて手を振る。


「あ、でもたぶん大丈夫です。たぶん」


「その『たぶん』は信用してよいのか」


「えっと……七割くらいは」


 マルスが白玖へ通信を飛ばした。


『白玖。本当にこれで行くのか』


「今の人類に、京都へすぐ到達できる手段は他にない」


『そうか』


 マルスは剣を納めた。


「分かった。頼む、ツルギ」


「はい」


 ツルギは二人を見上げた。


 トライオーは巨大で、マルスは勇者そのものだった。

 その二体の前で、ツルギだけが少し自信なさそうに見えた。


「僕じゃ役に立たないかもしれないけど、お二人の邪魔にならないように頑張りますね」


 マルスは黙った。


 トライオーも黙った。


 距離も防壁も、戦場の混乱も関係なく、一瞬でここに現れた少年だけが、自分のしたことを大したことだと思っていなかった。


 白玖の声が三体へ届く。


『京都反応、継続中。座標を送るわ』


「分かりました。じゃあ、飛びます」


「待て、飛ぶとはどういう――」


 マルスが言い終える前に、足元の景色が消えた。



 次に足が地面を踏んだ時、空気の匂いが変わっていた。


 焦げた木。

 濡れた灰。

 古い土。

 血の混じった風。


 そこは京都だった。


 だが、白玖が地図で知る京都ではなかった。


 現代のビルの間に、焼け落ちた御所の柱が立っている。

 アスファルトの上を、平安の白砂が薄く覆っている。

 電線には破れた御簾が絡み、信号機の赤い光は提灯の火のように滲んでいた。


 空から灰が降っている。


 雪のように静かで、血のように重い灰だった。


 遠くで、風が鳴った。


 ただの風ではない。

 人の声に似ていた。

 誰かを呪う声。

 誰かを責める声。

 誰かの名を、何度も呼び続ける声。


 マルスが剣を抜く。


「ここは……街なのか」


 トライオーが鼻を鳴らした。


「街であり、墓でもある」


「テリトリー内の法則、強く歪んでる」


 白玖の声が三体へ届いた。


「気をつけて。現代の京都と、焼けた京の記憶が重なってる」


「記憶って、街にもあるんですかね」


 ツルギが小さく言った。


 誰も答えなかった。


 答えが出る前に、灰の向こうから声がした。


「都が焼けた」


 低く、冷たい声だった。


 三体が同時に前を見る。


「ならば、人もまた焼かれて当然であろう」


 灰の中に、人影が立っていた。


 焼け焦げた装束。

 長く乱れた黒髪。

 白く冷たい顔。

 その瞳だけが、異様に澄んでいた。


 怒り狂っているのではない。

 憎しみが、長い時間をかけて冷え固まった目だった。


 背後に、焼け落ちた御所の幻影が揺れている。

 炎。灰。風。

 そのすべてをまといながら、その怨霊は静かに都を見渡していた。


 崇徳上皇の怨霊。


 黒光鋼作品NO.一七。

 皇の厄災。


 トライオーが前へ出た。


「人を焼かせはせぬ」


 巨大な爪が振るわれる。


 だが、爪は怨霊の体をすり抜けた。


 手応えはなかった。


 トライオーの目がわずかに見開かれる。


「霊体か」


 マルスが踏み込んだ。


 銀の剣に淡い光が宿る。

 勇者専用魔法の光だ。


「ならば、魔を斬る」


 剣が走る。


 今度は完全にはすり抜けなかった。

 怨霊の袖がわずかに裂け、黒い煙が散る。


 だが浅い。


 怨霊は、ゆっくりとマルスを見た。


「正しき者よ」


 その声に、マルスの動きが止まる。


「守った民は、いずれお前を忘れる」


 空気が冷えた。


「救った者は、次にお前を裁くであろう」


 マルスの瞳が揺れる。


 白玖が叫ぶ。


『マルス、聞かないで! 幻聴よ!』


 その瞬間、ツルギが片手を上げた。


「えっと……霊体なら、光ですかね?」


 白い光が走った。


 それは火でも雷でもなかった。

 ただ、まっすぐに伸びる光だった。


 怨霊の袖をかすめる。


 黒い装束が、明らかに削れた。


 崇徳上皇の怨霊が初めて動きを止める。


 冷たい瞳が、ツルギへ向いた。


「え」


 ツルギの顔が引きつった。


「い、今の効いたんですか?」


 白玖はモニターを見た。


 ファイロン波形が大きく乱れている。

 トライオーの物理攻撃では変わらなかった反応が、ツルギの光で確かに削れていた。


「効いてる。ツルギ、その光は届いてる」


「えぇ……でも、こっち見てます」


「見るわよ。効いたんだから」


「それはそうなんですけど……」


 怨霊が片手を上げた。


 京都の空が赤く染まる。



 最初に来たのは、火だった。


 アスファルトが裂け、そこから古い木の床が現れる。

 木は一瞬で燃えた。

 ビルの窓に炎が映る。

 信号機の赤が膨らみ、提灯の火のように揺れ、次の瞬間、街路樹が燃え上がった。


「安元の大火……!」


 ナナが司令室で叫んだ。


 白玖はすぐに指示を飛ばす。


『トライオー、火を押さえて! 広げないで!』


「承知!」


 トライオーのたてがみが燃え上がる。


 炎と炎がぶつかった。


 トライオーの火は、命を守るための火だった。

 皇の火は、すべてを焼き尽くすための火だった。


 赤と金の炎が激突し、京都の空に火の壁が立つ。


 トライオーは踏みとどまった。

 だが、怨霊そのものには届かない。


 次に来たのは、声だった。


『守った者は、いずれお前を裏切る』


 マルスの耳元で、誰かが囁いた。


『救った民は、お前の死を忘れる』


 声は一つではなかった。


 男。

 女。

 老人。

 子ども。

 助けを求める声。

 責める声。

 笑う声。


 鹿ケ谷の陰謀。


 裏切りの気配が、マルスの足を止める。


「違う」


 マルスは剣を握り直した。


「忘れられるから救わないのではない。救うべきだから救うのだ」


 けれど、その声は彼の奥を確かに揺らしていた。


 最後に、風が来た。


 空の灰が渦を巻く。

 折れた電柱が浮き上がる。

 御簾の切れ端が刃のように舞い、ビルのガラスが一斉に砕けた。


「治承の辻風、来ます!」


 ナナの声。


 巨大な風が、三体の隊列を引き裂いた。


 トライオーの巨体が押される。

 マルスが片膝をつく。

 ツルギの足元の転移陣が乱れ、火、水、風、土、雷の紋様がばらばらに散る。


「えっと、風ごと止めればいいんですよね?」


 ツルギが頼りない声で言った。


 次の瞬間、吹き荒れていた辻風の一部が、空中で固まった。


 灰も、破片も、風も、止まっている。


 司令室でナナが息を呑んだ。


「今の、空間固定……?」


「ツルギ、出力は?」


 白玖が聞く。


『え、軽めです。たぶん』


「軽めで辻風が止まったんだけど」


『でも全部は止められてないので、やっぱり僕あまり役に立ってないかも……』


 白玖は目を閉じた。


「立ってる。かなり立ってる」


 だが、状況は悪かった。


 トライオーは守れている。

 マルスの勇者魔法は届く。

 ツルギの光魔法は削れる。


 しかし、崇徳上皇の怨霊は倒れない。


 削った箇所が、黒い煙で再生していく。


 ナナが解析結果を読み上げる。


「白玖さん、物理干渉率、ほぼゼロ。勇者魔法と光属性だけ反応しています。でも……」


「でも?」


「削った分が、怨念反応で再生しています」


 白玖は、モニターに表示された絵題解説をもう一度見た。


 怨念。

 絶望。

 怨み。

 焼き尽くす皇の厄。


「壊しても戻る……」


「はい」


 ナナが別画面を開く。


「怨霊伝承は、恐れられた存在を祀ることで鎮める思想と結びついています」


「鎮める……」


「破壊ではなく、鎮魂。浄化に近い」


 白玖の中で、散らばっていた情報がつながった。


 これは、怪物ではない。


 怪物の形にされた怨みだ。

 災厄として描かれ、作品として完成させられた、怒りの残骸だ。


 ならば、斬っても燃やしても終わらない。


「倒すんじゃない」


 白玖は言った。


 ナナが彼女を見る。


「浄化する」


 白玖は三体へ思念を飛ばした。


『トライオー、怨火を広げないで。街を守る壁になって』


『承知』


『マルス、勇者魔法を剣に乗せて。斬るんじゃない。怨霊の核を固定して』


『やってみる』


『ツルギ』


『はい』


『光魔法を重ねて。焼くんじゃない。浄化するの』


 沈黙があった。


 灰が降る。

 風が鳴る。

 怨霊の冷たい瞳が、三体を見ている。


 ツルギが小さく息を吸った。


「……浄化なら、たぶんできます」


 いつものように、自信なさげな声だった。


 だが、その掌に集まった光を見て、司令室の誰も笑えなかった。


 京都の空で、黒い雲が割れた。


 灰の中に、初めて白い光が差し込む。


 崇徳上皇の怨霊が、ゆっくりと顔を上げた。


 冷たい瞳が、ツルギを見ていた。


 目が合った。


「ひぃぃ……」


 ツルギの肩が震える。


「なんか、こっち見てるんですけどぉ……」


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