第四話 |皇の厄災《すめらぎのやくさい》
◇
八岐大蛇が崩れ落ちたあとも、C区画の空は晴れなかった。
黒い血が地面に広がり、割れたアスファルトの隙間から毒の煙が細く上がっている。
トライオーの炎で焼かれた肉片は、まだ小さく鳴っていた。
生きているのか、死んでいるのか。
アートクリーチャーの残骸は、最後まで分かりにくい。
トライオーは大きく息を吐いた。
虎の縞を持つ巨体に、いくつもの傷が走っている。
獅子のたてがみはまだ燃えていたが、その火は先ほどより少し弱い。
「白玖よ。避難は、終わっておるな」
低い声が、空気を震わせた。
司令室にいる神谷白玖は、モニターに映る避難完了表示を確認する。
「大丈夫。C区画、周辺住民の退避は完了。負傷者の搬送も始まってる」
「ならば、よい」
トライオーは、そこで初めて肩を落とした。
その横で、マルス・アインリグラストが剣を下ろす。
青い鎧の表面には、毒霧を受けた黒い染みが残っていた。
彼自身は平然として見える。
けれど白玖の端末には、魔力消費量と損耗率が赤に近い黄色で表示されていた。
「マルス、魔力残量は?」
『まだ戦える』
「答えになってない」
『なら、四割ほどだ』
「それで、まだ戦えるって言ったの?」
『民が残っているなら、戦える』
白玖は一瞬だけ目を閉じた。
これがマルスだった。
正しすぎる。
そして、危うすぎる。
司令室では、誰もまだ勝利を祝っていなかった。
八岐大蛇を倒した。
それは確かに大きな成果だった。
だが、その直後に誰もが次の反応を探していた。
もう、この世界では勝った直後が一番危ない。
「トライオー、外傷多数。マルス、魔力消費四一%。戦闘継続は可能ですが、長期戦は危険です」
司令室の右奥で、綺堂ナナが端末に指を走らせていた。
黒光鋼作品データベースの照合担当。
白玖とは学生時代からの親友で、今は司令室で彼女の補佐をしている。
仕事中のナナは、白玖を「白玖さん」と呼ぶ。
けれど、本当に危ない時だけ、昔のように「白玖」と呼ぶ。
その声を聞くたびに、白玖はほんの少しだけ、自分がまだ人間でいられる気がした。
「分かってる。二体を無理に動かすつもりはない」
「本当ですか」
「本当」
「分かってる顔じゃないです」
ナナは画面から目を離さずに言った。
白玖は言い返せなかった。
その時だった。
ナナの指が止まった。
「白玖さん」
「何?」
「京都に、高密度ファイロン反応」
司令室の空気が変わった。
「通常個体?」
「違います。反応値、上昇中。波形が……黒光鋼作品データベースと照合を開始します」
白玖は息を呑んだ。
京都。
C区画から遠い。
だが、距離はもう安全の意味を持たない。
ファイロンは距離を折り畳む。
黒光鋼の絵も、世界のどこにでもキャンバスを置く。
「トライオーとマルスは連戦です」
ナナが低く言った。
「分かってる」
「分かってる顔じゃないです。白玖さん、今、次を考えてます」
「考えないと、京都が落ちる」
ナナは、そこで初めて白玖を見た。
仕事用の顔ではなかった。
親友の顔だった。
「白玖」
その呼び方に、白玖の胸が少しだけ詰まる。
「無茶しないで」
「……無茶しないと、間に合わない」
ナナは唇を噛んだ。
けれど、それ以上は止めなかった。
止めたところで、白玖が止まらないことを知っていた。
次の瞬間、司令室の主モニターに黒い波が走った。
映像ではない。
ノイズでもない。
紙に墨を落としたような揺らぎが、画面の奥から広がっていく。
黒い波は円を描き、滲み、何かの形を作り始めた。
そこに文字が浮かぶ。
ナナの声が震えた。
「絵題、確認……」
誰も動かなかった。
「作品NO.一七。『皇の厄災』」
表示された解説文を見て、ナナは息を呑んだ。
「京を焼き尽くす崇徳上皇の怨霊が、怨念を宿した目で冷たく都を見渡している。
その瞳には絶望と怨みが沈み、なお全てを焼き尽くそうとする皇の厄が宿っていた」
読み終えたあと、司令室から音が消えた。
白玖は、京都上空に広がる黒いファイロン反応を見つめた。
「ボスクラス……」
ナナが小さくうなずく。
「はい。黒光鋼の完成作品です」
完成作品。
その言葉は、司令室の誰にとっても最悪の響きだった。
黒光鋼が額縁の中に閉じ込めていた怪物。
描かれた時点で、一つの世界を持っていた作品。
ただ出てきただけの残響ではない。
意志も形も意味も完成している。
「崇徳上皇の怨霊……」
白玖が呟くと、ナナはすでに別画面を開いていた。
「関連災厄を照合します。三件、強く一致」
画面に古い文字列と現代の解析波形が並ぶ。
「安元の大火。鹿ケ谷の陰謀。治承の辻風」
「火災、政変、竜巻……」
「はい。作品解説とファイロン波形が一致しています。炎、幻聴、風圧。少なくとも三系統の攻撃が来ます」
白玖は短く息を吸った。
トライオーは炎に強い。
マルスは勇者魔法を使える。
だが、霊体。怨霊。災厄。
ただ殴って倒せる相手ではない。
「トライオー、マルス。聞こえる?」
『聞こえておる、白玖』
『問題ない。次の敵か?』
マルスの返事は早かった。
白玖は、ほんの少しだけ言葉を止めた。
「京都にボスクラス反応。絵題は、皇の厄災」
『京都……距離があるな』
マルスが言った。
『だが、民がいるなら行く』
「マルス、あなたは消耗してる」
『それでも行く』
「でしょうね」
白玖は小さく息を吐いた。
トライオーも答える。
『我も向かおう。民を焼かせはせぬ』
「トライオー、毒の影響が残ってる」
『炎は残っておる』
白玖は額に手を当てた。
三体とも、どうしてこうなのか。
強い。
けれど、全員どこか危なっかしい。
三体を失えば、代わりはいない。
トライオーを描いた轟銀河も、マルスの元となった渡響也も、ツルギを生んだ鷹村剣も、逆召喚の後、一度も意識を取り戻していなかった。
死んではいない。
けれど、眠り続けている。
彼らの海馬に開いた小さな門は、英雄をこちら側へ引きずり出した代わりに、元の人間たちを深い眠りの底へ沈めていた。
そして、世界を壊した張本人である黒光鋼は、あの日以来、行方不明のままだ。
新しい候補を探せばいい。
そう簡単に言える状況ではなかった。
この三体は、今の人類が持っているすべてだった。
その時、別の声が割り込んだ。
『じゃあ、迎えに行ってきます』
ツルギだった。
「迎えに、って――」
白玖が言い切る前に、ツルギの足元へ光の円が開いた。
火、水、風、土、雷。
五つの紋様が一瞬だけ床を走る。
司令室のセンサーが遅れて鳴った。
「転移反応!?」
ナナが叫ぶ。
次の瞬間、ツルギの姿は司令室から消えていた。
◇
C区画の戦場では、八岐大蛇の黒い血がまだ地面で煙を上げていた。
トライオーは大きく息を吐き、マルスは剣を下ろしている。
周囲では兵士たちが残骸処理と負傷者搬送を進めていた。
その二体の前に、突然、光の円が開いた。
「何だ」
マルスが剣を構える。
光の中から出てきたのは、ツルギだった。
黒髪の少年は、少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。迎えに来ました」
トライオーが目を細めた。
「おぬし、今どこから来た」
「司令室の近くです。たぶん」
「たぶん?」
マルスが眉をひそめる。
ツルギは困ったように笑った。
「座標を合わせたつもりなんですけど、まだこの世界の空間がちょっと変で。ズレたらすみません」
「ズレたら、どうなる」
「壁の中とかに出るかもしれません」
マルスは無言になった。
トライオーも無言になった。
ツルギは慌てて手を振る。
「あ、でもたぶん大丈夫です。たぶん」
「その『たぶん』は信用してよいのか」
「えっと……七割くらいは」
マルスが白玖へ通信を飛ばした。
『白玖。本当にこれで行くのか』
「今の人類に、京都へすぐ到達できる手段は他にない」
『そうか』
マルスは剣を納めた。
「分かった。頼む、ツルギ」
「はい」
ツルギは二人を見上げた。
トライオーは巨大で、マルスは勇者そのものだった。
その二体の前で、ツルギだけが少し自信なさそうに見えた。
「僕じゃ役に立たないかもしれないけど、お二人の邪魔にならないように頑張りますね」
マルスは黙った。
トライオーも黙った。
距離も防壁も、戦場の混乱も関係なく、一瞬でここに現れた少年だけが、自分のしたことを大したことだと思っていなかった。
白玖の声が三体へ届く。
『京都反応、継続中。座標を送るわ』
「分かりました。じゃあ、飛びます」
「待て、飛ぶとはどういう――」
マルスが言い終える前に、足元の景色が消えた。
◇
次に足が地面を踏んだ時、空気の匂いが変わっていた。
焦げた木。
濡れた灰。
古い土。
血の混じった風。
そこは京都だった。
だが、白玖が地図で知る京都ではなかった。
現代のビルの間に、焼け落ちた御所の柱が立っている。
アスファルトの上を、平安の白砂が薄く覆っている。
電線には破れた御簾が絡み、信号機の赤い光は提灯の火のように滲んでいた。
空から灰が降っている。
雪のように静かで、血のように重い灰だった。
遠くで、風が鳴った。
ただの風ではない。
人の声に似ていた。
誰かを呪う声。
誰かを責める声。
誰かの名を、何度も呼び続ける声。
マルスが剣を抜く。
「ここは……街なのか」
トライオーが鼻を鳴らした。
「街であり、墓でもある」
「テリトリー内の法則、強く歪んでる」
白玖の声が三体へ届いた。
「気をつけて。現代の京都と、焼けた京の記憶が重なってる」
「記憶って、街にもあるんですかね」
ツルギが小さく言った。
誰も答えなかった。
答えが出る前に、灰の向こうから声がした。
「都が焼けた」
低く、冷たい声だった。
三体が同時に前を見る。
「ならば、人もまた焼かれて当然であろう」
灰の中に、人影が立っていた。
焼け焦げた装束。
長く乱れた黒髪。
白く冷たい顔。
その瞳だけが、異様に澄んでいた。
怒り狂っているのではない。
憎しみが、長い時間をかけて冷え固まった目だった。
背後に、焼け落ちた御所の幻影が揺れている。
炎。灰。風。
そのすべてをまといながら、その怨霊は静かに都を見渡していた。
崇徳上皇の怨霊。
黒光鋼作品NO.一七。
皇の厄災。
トライオーが前へ出た。
「人を焼かせはせぬ」
巨大な爪が振るわれる。
だが、爪は怨霊の体をすり抜けた。
手応えはなかった。
トライオーの目がわずかに見開かれる。
「霊体か」
マルスが踏み込んだ。
銀の剣に淡い光が宿る。
勇者専用魔法の光だ。
「ならば、魔を斬る」
剣が走る。
今度は完全にはすり抜けなかった。
怨霊の袖がわずかに裂け、黒い煙が散る。
だが浅い。
怨霊は、ゆっくりとマルスを見た。
「正しき者よ」
その声に、マルスの動きが止まる。
「守った民は、いずれお前を忘れる」
空気が冷えた。
「救った者は、次にお前を裁くであろう」
マルスの瞳が揺れる。
白玖が叫ぶ。
『マルス、聞かないで! 幻聴よ!』
その瞬間、ツルギが片手を上げた。
「えっと……霊体なら、光ですかね?」
白い光が走った。
それは火でも雷でもなかった。
ただ、まっすぐに伸びる光だった。
怨霊の袖をかすめる。
黒い装束が、明らかに削れた。
崇徳上皇の怨霊が初めて動きを止める。
冷たい瞳が、ツルギへ向いた。
「え」
ツルギの顔が引きつった。
「い、今の効いたんですか?」
白玖はモニターを見た。
ファイロン波形が大きく乱れている。
トライオーの物理攻撃では変わらなかった反応が、ツルギの光で確かに削れていた。
「効いてる。ツルギ、その光は届いてる」
「えぇ……でも、こっち見てます」
「見るわよ。効いたんだから」
「それはそうなんですけど……」
怨霊が片手を上げた。
京都の空が赤く染まる。
◇
最初に来たのは、火だった。
アスファルトが裂け、そこから古い木の床が現れる。
木は一瞬で燃えた。
ビルの窓に炎が映る。
信号機の赤が膨らみ、提灯の火のように揺れ、次の瞬間、街路樹が燃え上がった。
「安元の大火……!」
ナナが司令室で叫んだ。
白玖はすぐに指示を飛ばす。
『トライオー、火を押さえて! 広げないで!』
「承知!」
トライオーのたてがみが燃え上がる。
炎と炎がぶつかった。
トライオーの火は、命を守るための火だった。
皇の火は、すべてを焼き尽くすための火だった。
赤と金の炎が激突し、京都の空に火の壁が立つ。
トライオーは踏みとどまった。
だが、怨霊そのものには届かない。
次に来たのは、声だった。
『守った者は、いずれお前を裏切る』
マルスの耳元で、誰かが囁いた。
『救った民は、お前の死を忘れる』
声は一つではなかった。
男。
女。
老人。
子ども。
助けを求める声。
責める声。
笑う声。
鹿ケ谷の陰謀。
裏切りの気配が、マルスの足を止める。
「違う」
マルスは剣を握り直した。
「忘れられるから救わないのではない。救うべきだから救うのだ」
けれど、その声は彼の奥を確かに揺らしていた。
最後に、風が来た。
空の灰が渦を巻く。
折れた電柱が浮き上がる。
御簾の切れ端が刃のように舞い、ビルのガラスが一斉に砕けた。
「治承の辻風、来ます!」
ナナの声。
巨大な風が、三体の隊列を引き裂いた。
トライオーの巨体が押される。
マルスが片膝をつく。
ツルギの足元の転移陣が乱れ、火、水、風、土、雷の紋様がばらばらに散る。
「えっと、風ごと止めればいいんですよね?」
ツルギが頼りない声で言った。
次の瞬間、吹き荒れていた辻風の一部が、空中で固まった。
灰も、破片も、風も、止まっている。
司令室でナナが息を呑んだ。
「今の、空間固定……?」
「ツルギ、出力は?」
白玖が聞く。
『え、軽めです。たぶん』
「軽めで辻風が止まったんだけど」
『でも全部は止められてないので、やっぱり僕あまり役に立ってないかも……』
白玖は目を閉じた。
「立ってる。かなり立ってる」
だが、状況は悪かった。
トライオーは守れている。
マルスの勇者魔法は届く。
ツルギの光魔法は削れる。
しかし、崇徳上皇の怨霊は倒れない。
削った箇所が、黒い煙で再生していく。
ナナが解析結果を読み上げる。
「白玖さん、物理干渉率、ほぼゼロ。勇者魔法と光属性だけ反応しています。でも……」
「でも?」
「削った分が、怨念反応で再生しています」
白玖は、モニターに表示された絵題解説をもう一度見た。
怨念。
絶望。
怨み。
焼き尽くす皇の厄。
「壊しても戻る……」
「はい」
ナナが別画面を開く。
「怨霊伝承は、恐れられた存在を祀ることで鎮める思想と結びついています」
「鎮める……」
「破壊ではなく、鎮魂。浄化に近い」
白玖の中で、散らばっていた情報がつながった。
これは、怪物ではない。
怪物の形にされた怨みだ。
災厄として描かれ、作品として完成させられた、怒りの残骸だ。
ならば、斬っても燃やしても終わらない。
「倒すんじゃない」
白玖は言った。
ナナが彼女を見る。
「浄化する」
白玖は三体へ思念を飛ばした。
『トライオー、怨火を広げないで。街を守る壁になって』
『承知』
『マルス、勇者魔法を剣に乗せて。斬るんじゃない。怨霊の核を固定して』
『やってみる』
『ツルギ』
『はい』
『光魔法を重ねて。焼くんじゃない。浄化するの』
沈黙があった。
灰が降る。
風が鳴る。
怨霊の冷たい瞳が、三体を見ている。
ツルギが小さく息を吸った。
「……浄化なら、たぶんできます」
いつものように、自信なさげな声だった。
だが、その掌に集まった光を見て、司令室の誰も笑えなかった。
京都の空で、黒い雲が割れた。
灰の中に、初めて白い光が差し込む。
崇徳上皇の怨霊が、ゆっくりと顔を上げた。
冷たい瞳が、ツルギを見ていた。
目が合った。
「ひぃぃ……」
ツルギの肩が震える。
「なんか、こっち見てるんですけどぉ……」




