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第二話 |禁忌の門《きんきのもん》



 C区画での戦闘終了から、三時間が過ぎていた。


 司令室には、まだ端末の駆動音が残っている。


 負傷者搬送の報告。

 避難民の受け入れ状況。

 トライオーの損耗率。

 マルスの魔力消費量。


 人はまだ動いていた。

 動いていなければ、次に誰かが死ぬ。


 けれど、声は少しずつ減っていた。


 勝ったからではない。

 休めるからでもない。


 ただ、全員が疲れ切っていた。


 その中で、神谷白玖(かみや・はく)だけがモニターの前を離れなかった。


『……は……く……』


 ノイズ混じりの声が、短く再生される。


 白玖は停止し、波形を拡大した。


 通常の音声ではない。

 通信回線を通った声でもない。

 ファイロン反応の奥に、かすかに混じった思念(しねん)波。


 聞こえたのは、白玖だけだった。


 だから、誰にも証明できない。


 けれど、白玖には分かった。


 これは父の声だ。


 神谷雅樹(かみや・まさき)


 ファイロン研究の第一人者。

 ファイロン・ゲートの開発者。

 そして、白玖の父。


 モニターの端には、未分類の白い波形が残っている。


 通常のアートクリーチャーとは違う。

 毒でも、獣でも、霊でもない。

 翼のように広がり、一瞬だけ人型に近い反応を示した。


 白玖は、机の端に置いた古い研究端末を見る。


 父が残したものだ。


 開けないフォルダ。

 途中で破損する解析ファイル。

 読み取れない画像データ。

 そして、ノイズの奥に残った、意味の分からない数値。


 父は、巻き込まれただけではない。


 いちばん近い場所に、自分で立っていた。


 白玖は、もうそれを認めている。


 父は何かを知っていた。

 黒光鋼に近づいていた。

 あの門の奥を見ていた。


 それでも、あの日、門を開いた。


 白玖は、もう一度ノイズを再生する。


『……は……く……』


 耳ではない。


 脳の奥。

 ファイロンの思念波に焼きついた場所で、声が震える。


 白玖は目を閉じた。


 あの日を思い出す。


 すべてが始まった日。


 人類が、脳をほんの少しだけ開こうとした日を。


◆◆


 その日、人類は、脳をほんの少しだけ開くつもりだった。


 頭蓋を大きく切る必要はない。

 器具を深く差し込んで、脳を引き裂く必要もない。

 二ミリにも満たない孔を、精密に空間へ穿つだけでよかった。


 そこから届く光は、これまで手の届かなかった場所へ届くはずだった。


 腫瘍の芯へ。

 心臓の裏へ。

 人を救うための、最小の侵入。


 だが、人類が開いたのは、脳ではなかった。


 世界だった。


 ファイロン・ゲート。


 正式には、量子加速器をベースに改良したファイロン局所空間接続装置。


 A地点とB地点の座標を固定し、その二点の空間を二ミリだけ接続する。


 人は通れない。

 物資も運べない。

 兵器にも通信にも、まだ不完全な装置だった。


 だが、医療においては違った。


 二ミリあれば、届く。


 届けば、救える。


 雅樹はそう信じていた。


 ファイロンという新しい素粒子を手に、彼は人の届かなかった場所へ手を伸ばした。


 それは、量子加速器の空間ゆらぎ実験中に偶然観測された未知の粒子だった。


 質量は、ほぼゼロ。


 最初は、光の素粒子であるフォトンに近いものだと考えられた。


 だが、ファイロンはフォトンのように飛び続けなかった。


 自由粒子として振る舞わず、空間のゆらぎに張りつくように、その場へ留まる。


 研究員の一人は、冗談めかして言った。


「グルーオンみたいですね。何かと何かを、くっつけようとしているのかもしれない」


 誰も、その言葉を本気にはしなかった。


 けれど、その冗談は半分だけ当たっていた。


 ファイロンは、空間だけでなく、人間の記憶や感情、夢に近い脳波にも異常に反応した。


 恐怖。

 祈り。

 繰り返された思念。


 それらに触れると、反応が乱れる。


 研究者たちは冗談めかして、それを「思念の素粒子」と呼んだ。

 世間はもっと雑に、「霊の素粒子」と囁いた。


 誰も本気ではなかった。


 少なくとも、その日までは。


 黒光鋼(こくこう・はがね)は、怪物を描く画家だった。


 額縁の中に、いるはずのないものを閉じ込める男。


 濡れた皮膚。

 欠けた牙。

 古い祈りの奥に棲む影。

 子ども向けのおとぎ話を、ひどく正しく腐らせたような狼や魔女や悪魔。


 評論家は鬼才と呼んだ。

 収集家は彼の絵の前で長く立ち尽くし、帰宅後に悪夢を見ることを、価値の一部のように語った。


 黒光鋼自身は、多くを語らなかった。


 なぜ怪物を描くのか。


 そう問われた時、彼はしばらく黙った。


 迷っていたのではない。

 言えば、何かが伝わってしまうことを恐れているような沈黙だった。


 そして一度だけ、短く答えた。


「出さないためです」


 その言葉の意味を、当時の誰も深く考えなかった。


 だが、彼の海馬には腫瘍があった。


 記憶に関わる深い領域に、通常の手術では後遺症の危険が高すぎる腫瘍があった。


 だからこそ、ファイロン・ゲートの初臨床例に選ばれた。


 人類初の非開頭型海馬腫瘍処置。


 成功すれば、脳外科の歴史が変わる。

 人は、脳をほとんど傷つけずに奥へ触れられるようになる。



 白玖は手術室の前室で、父の背中を見ていた。


 前室は妙に静かだった。


 笑いはないが、絶望もない。

 緊張と期待が、白い壁に薄く塗られているようだった。


 白玖は、モニターに映る黒光鋼の脳画像を見つめる。


 腫瘍は確かにそこにある。


 だが、見れば見るほど、それはただの腫瘍には見えなかった。


 黒い染みのように、画像の中で異質に浮いている。


「まだ、全部分かってない」


 白玖が言うと、雅樹は手袋をはめる手を止めた。


「ファイロンのことか」


「うん。空間接続は成功している。A点とB点の固定も安定している。でも、ファイロンが脳波に反応する理由は説明できない」


 雅樹は薄く息を吐いた。


 白玖は、父を責めるつもりはなかった。


 研究者としてなら、止めるべきだった。

 娘としてなら、父に失敗してほしくなかった。


 その二つが、同じ言葉になった。


「本当に、今日やるの?」


 雅樹は怒らなかった。


 彼の顔は、白玖が子どもの頃から知る父の顔だった。

 天才の顔ではない。

 失敗を怖がりながら、それでも手を伸ばす人間の顔だった。


「全部分かるまで待てば、救えない人もいる」


 雅樹は言った。


「私は怖い。だから手順を守る。想定外を想定する。失敗した時の停止手順も、外部遮断も、三重に組んである」


 白玖はその言葉を覚えている。


 あの日から何度も思い出した。

 思い出すたびに、少しだけ父を憎み、少しだけ父を信じた。



 手術は予定通り始まった。


 黒光鋼は麻酔下にあり、頭部は固定されている。

 脳波、心拍、血圧、ファイロン濃度。

 すべての数値が、同時に監視されていた。


 A点は処置器具の先端。

 B点は海馬腫瘍付近。


 二つの座標が固定され、開口径は二ミリ以下。


 器具は孔を通り、腫瘍の中心へ到達する。


 はずだった。


「A-B接続、安定」


「ファイロン濃度、許容範囲内」


「開口径、一・八ミリ」


 装置が低く鳴る。


 空気がわずかに歪み、照明が一瞬遅れて瞬く。

 メスの影が、光源とは違う方向へ細く伸びた。


 二つの座標が重なり、小さな孔が開く。


 目に見える穴ではない。


 だが、そこに空間の継ぎ目が生まれたことを、手術室の全員が理解した。


 最初の処置器具が孔を通過し、腫瘍組織に到達した。


 反応は正常。

 出血なし。

 脳波、安定。


 成功する。


 その瞬間、誰もがそう思った。


 だからこそ、最初の異常を誰もすぐには異常だと認識できなかった。


「ファイロン濃度、上昇」


「どこで?」


「B点周辺です。いや……違う。もっと奥」


 海馬の奥。


 白玖は息を止めた。


 脳画像にわずかなノイズが走る。


 黒光鋼の脳波が跳ね、心拍も血圧も麻酔下とは思えないほど乱れ始める。


「A-B接続を切れ」


 雅樹が言った。


「切断信号、入ります」


 だが孔は閉じない。


 いや、閉じないのではない。


 広がっていた。


「開口径、二・〇ミリを超過」


「ありえない。制限がかかっている」


「数値上は二ミリです。でも、反応深度が……」


「深度?」


 モニターの前の研究員が青ざめた顔で言った。


「座標では説明できない深度が出ています」


 白玖はその言葉の意味を理解できなかった。


 脳の中に、深度。


 海馬の奥に、座標では測れない距離がある。


 そんなことはありえない。


 だが、モニターの黒い染みは広がっていた。


 腫瘍だと思われていたものが、孔の向こうで違う形を取り始めている。


 黒い点ではない。


 扉の形でもなかった。


 ただ、そこには向こう側があった。


 脳の中にあるはずのない、奥行きがあった。


 穴。

 渦。

 通路。


 名づけるなら、それは門だった。


 後に人類は、それを禁忌の門と呼んだ。



 その瞬間、手術室の白い壁に黒い染みが走った。


 墨を垂らしたような色だった。


 だが、それは下へ流れない。


 壁の中を這うように広がり、枝分かれし、まるで血管のように脈打った。


 モニターが乱れる。


 脳画像の上に、見たことのない線が重なった。


 牙。

 角。

 長い指。

 濡れた羽。

 誰かの顔に似ているのに、誰でもない顔。


 額縁の中にいるはずのものたち。


 黒光鋼が描いた怪物たちだった。


 手術台の黒光鋼の指が、ぴくりと動いた。


 麻酔下のはずだった。


 閉じていた瞼が、わずかに震える。

 唇が開く。


「……出る」


 白玖は聞き取った。


「出るな……」


 それが黒光鋼自身の声だったのか。


 それとも、彼の中の何かの声だったのか。


 今でも分からない。


 直後、孔の奥から闇があふれた。


 それは煙ではなかった。

 影でもなかった。


 黒いキャンバスだった。


 何もない空間に、闇が一枚、置かれたように広がる。


 空気に、乾ききっていない油絵具と亜麻仁油の、甘く重い臭いが混じった。


 手術室に、絵具などあるはずがなかった。


 その黒いキャンバスの上に、線が走った。


 速い。


 人間の手ではありえない速さで、黒い線が空中を走る。


 骨格が描かれる。

 皮膚が塗られる。

 濡れた鱗に光が乗る。

 牙が生え、爪が伸び、瞳の奥に濁った命が灯る。


 それは絵だった。


 だが、平面ではなかった。


 奥行きを持ち、熱を持ち、臭いを持ち、呼吸を持っていた。


 手術室にいた者たちは、最初、それを見ていた。


 恐怖よりも先に、理解が遅れた。


 あまりに美しく、あまりに精密で、あまりに異様だったからだ。


 何かの映像。

 何かの立体投影。

 何かのパフォーマンス。


 そう思おうとした。


 完成するまでは。


 最後の一筆のように、闇が瞳を塗った。


 その瞬間、絵だったものが、こちらを見た。


 誰かが息を呑んだ。


 そして、怪物が瞬きをした。


 完成したのだ。


 黒光鋼の頭の中で、長い間、出されずにいたものが。


 次の瞬間、一枚では足りなくなった。


 闇のキャンバスが二枚、三枚、十枚、百枚と空間に開く。

 そこに次々と線が走り、怪物が描かれ、立体になり、呼吸を始める。


 霊。

 獣。

 悪魔。

 蛇。

 童話の狼。

 名前のない神。


 額縁の中に完成された怪物もいた。

 図録にも、展覧会にも、誰の目にも触れなかった怪物もいた。


 描かれなかったから存在しなかったのではない。


 黒光鋼の頭の中で、そいつらはずっと生きていた。


 彼は、それらを描いていたのではない。


 出さないために、閉じ込めていた。


 その怪物たちが、解き放たれた。


 彼らは一体ずつ歩いて出てきたのではない。


 絵が完成する速度で、世界へ成立していった。


 手術室だけではない。


 施設の外へ。

 都市へ。

 世界へ。


 ファイロンは空間の距離を折り畳む。


 そしてその日、折り畳まれた距離の上に、黒光鋼のキャンバスが同時に開いた。


 東京。

 上海。

 ニューヨーク。

 パリ。

 カイロ。

 ロンドン。


 世界中の空間に、闇が置かれた。


 そこへ絵が描かれた。


 完成した瞬間、絵は怪物になった。


 そして、その奥に一瞬だけ、白い翼が見えた。


 堕天使の長(だてんしのおさ)


 ルシファー。


 黒光鋼が完成させた、最も美しく、最も危険な作品。


 それはまだ、完全にはこちらへ出てこなかった。


 ただ、門の奥から、世界を見ていた。


 禁忌の門が開いた。



「お父さん……」


 白玖が声を漏らす。


 雅樹は答えなかった。


 ただ、モニターを見ていた。


 禁忌の門が閉じた後に残った、白いノイズのような反応を。


「閉じていない」


 雅樹が言った。


「え?」


「現実側の孔は閉じた。だが、奥に残っている。これは残響じゃない。通路だ」


 白玖の背筋が冷えた。


 怪物はもう出た。


 世界へ飛び散った。


 それで終わりではないのか。


 雅樹はゆっくりと白玖を見た。


 その顔は、白玖の知る父よりもずっと遠くを見ていた。


「原因を知らなければ、止められない」


 白玖は職員の手を振りほどき、手術室へ駆け込もうとした。


 だが、熱のない風が彼女の体を押し戻した。


 ファイロン粒子が空気の中で白く光っている。


 雪のようでもあり、灰のようでもあり、羽のようにも見えた。


 雅樹は、その白い粒子の中へ一歩踏み出した。


「行かないで!」


 白玖は叫んだ。


 叫んだ声が、自分の喉から出たのか、通信の中で歪んだのか、白玖には分からなかった。


 雅樹は振り返る。


 ほんの一瞬だけ、父は笑った。


 悲しそうでも誇らしそうでもない。


 白玖がよく知る、少し困った時の父の顔だった。


「私が開いた。なら、私が見届ける」


 白玖は首を振った。


「嫌だ……!」


 雅樹の声が、白いノイズの向こうで少し歪む。


「白玖。生きて、見ていろ」


 それが最後の言葉だった。


 雅樹の体が、禁忌の門の奥へ沈んでいく。


 肉体が裂けたわけではない。

 血が出たわけでもない。


 だが白玖には見えた。


 父の姿が、何か別の情報へ変換されていくのが。

 人間の形が、白い粒子と黒い影のあいだでほどけていくのが。


 白玖は手を伸ばした。


 届かなかった。


 父の姿が消え、門は閉じた。


 白玖の世界から、父が消えた。


◇◇


 その後、世界は一日で変わった。


 白玖は、司令室のメインモニターに雪崩れ込んでくる世界中の崩壊ログを、ただ見つめていた。


 手術室。


 白い壁に墨を垂らしたような染みが走り、監視映像は十二秒だけを残して途切れた。


 救助隊が見つけたのは、人の姿ではなかった。

 壁に染み込んだ影のような跡だけだった。


 駅のホーム。


 閉じた地下鉄の扉を内側から叩く乗客の手だけが記録されていた。


 車内照明が落ちた後、音声だけが残った。


 助けを呼ぶ声。

 子どもの泣き声。

 誰かが「開けるな」と叫ぶ声。


 その後、何か硬いものが、何度も折れる音がした。


 避難所。


 外から助けを呼ぶ声がした。


 それは、避難所の中にいる者たちの家族の声だった。


 扉を開けるべきではないと、誰かが言った。

 でも、泣きながら名前を呼ばれた者がいた。


 扉が開いた。


 記録はそこで終わっている。


 後に残ったのは、名簿と、誰もいない避難所だけだった。


 血はなかった。

 遺体もなかった。


 ただ床一面に、濡れた絵具のような足跡が残っていた。


 白玖は見続けた。


 見続けるしかなかった。


 目を逸らしても、次のログが来る。

 切っても、別の都市から警告が入る。

 助けを求める声と、助けに向かえない現実だけが積み上がっていく。


 都市は、形を保ったまま、人の住む場所ではなくなっていった。


 従来の火力は効かなかった。


 焼き尽くしても、焼け残った壁の影から別の怪物が生まれた。


 人類は理解した。


 これは侵略でも、災害でも、戦争でもない。


 人間の想像が、現実を上書きしているのだと。


 死者は推定六〇%。


 だが、行方不明者は含まれない。

 記録ごと消えた都市も数え切れない。

 最後まで名前を呼ばれなかった者たちは、統計にすら残らなかった。


 人類は八十二日間、負け続けた。


 救助ではなく、放棄する場所を決める会議が日課になった。


 都市はアートクリーチャーのテリトリーになり、国は国境を守れなくなった。


 残った人間は、防壁に囲まれた区画に身を寄せた。


 地下へ逃げた者もいた。

 高層施設に立てこもった者もいた。


 けれど、どこにも完全な安全地帯はなかった。


 人々は毎朝、生き残った数を確認するようになった。


 そして八十二日目。


 人類は、世界を壊した禁忌をもう一度使った。


 逆召喚(ぎゃくしょうかん)


 ファイロン・ゲートを使い、対象者の海馬に管理された禁忌の門を開き、脳内にある高密度の想像情報を現実へ抽出する。


 狂気の技術だ。


 黒光鋼の想像が具現化しただけで世界は壊れた。


 ならば別の想像を具現化すれば、別の破滅が起きるかもしれない。


 だが人類には他に道がなかった。


 逆召喚は成功した。


 虎の縞と獅子のたてがみを持つ一匹の巨獣が現れた。


 後にトライオーと呼ばれる存在。


 人類は初めて、怪物に向かって逃げなかった。


 救済ではない。

 勝利でもない。


 ただ、終わり続ける世界に爪を立て返した日だった。



 現在。


 白玖はモニターの前で目を開けた。


 司令室の空気は、まだC区画での戦闘の熱を残している。


 誰かがトライオーの損耗率を報告し、誰かがマルスの魔力回復計画を立て、別の誰かは避難民受け入れ数を確認している。


 世界はまだ終わっていない。


 だから人は、次の仕事に移らなければならない。


 だが白玖の耳には、あの日の声が残っていた。


 通信装置に混じったノイズの中で、かすかに聞こえた父の声。


 人間の声ではなかった。


 通信としても不完全で、ファイロン反応に歪み、遠かった。


 それでも白玖には分かった。


 あれは父だった。


 雅樹は死んでいない。


 少なくとも、何かになって、どこかにいる。


 司令室のモニターには、戦闘記録の端に未分類の反応が残っている。


 通常のアートクリーチャーとは違う。

 ファイロン濃度は異常に高く、波形は人型に近い。


 白玖はその白い波形を見つめる。


 画面の奥で、一瞬だけ翼のようなものが広がった。


 その波形の奥に、父の研究者コードが断片的に混じっている。


 その瞬間、白玖の脳裏に一枚の絵が浮かんだ。


 黒光鋼の作品。


 堕天使の長。


 ルシファー。


 白玖はその絵を一度だけ見たことがある。


 父の資料室に挟まれていた写真の一枚だ。


 白い翼を持つ天使。

 だが、光の奥には黒い影が沈んでいた。


 美しいのに、胸の奥が冷える存在。


 白玖がその絵から目を離せずにいると、父は珍しく強い声で言った。


「見てはいかん」


 父は、写真を伏せるようにファイルを閉じた。


「それは黒光鋼の絵の写真だ。あの男の描く絵は、人の闇を掴んで離さない」


 そう言った父の横顔を、白玖は今でも覚えている。


 完全な音声ではない。


 だが、そこに残されたのは父の声の一節だった。


 言葉は途切れている。


 それでも白玖は聞き取った。


 父の声が、ノイズの中でかすかに繋がる。


『……三一・四……』


 それは、ただの数字なのか。


 白玖は息を呑んだ。


 画面の白い波形はもう動かない。


 だが、そこに何かが残されている。


 父の声の断片。

 翼の影。

 ルシファー。

 そして、三一・四。


 三一・四。


 それが座標なのか、警告なのか、祈りの残骸なのか。


 まだ分からない。


 けれど白玖は、その数値を削除できなかった。


 白玖は小さく拳を握った。


 世界を取り戻す。


 そして、父を取り戻す。


 そのために、彼女は勇者候補(ゆうしゃこうほ)たちとつながり続ける。


 だが今はまず、あの断片を手がかりに動くしかない。


「見つけるわ」


 彼女は誰にも聞こえない声で言った。


「必ず、あなたを見つける」


 答えは遠い。


 だが、門は一度開いた。


 閉じたはずの通路は、どこかでまだ揺れている。


 白玖は、その揺らぎを追うと決めた。


 世界を壊したものの奥に、父はいるのだから。

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