第一話 トライオー
本作には、戦闘描写や一部残酷な表現が含まれます。
場面転換の目印として「◇」「◆」を使用しています。
「◇」は現在時間での場面転換、「◆」は過去回想への移行です。
記号が増えるほど、時間や場所の隔たりが大きくなります。
気にしなくても、分かる様に書いていますので、あくまでも目安とお考え下さい。
想像が世界を食い殺した世界で、人類が何を呼び出すのか。
楽しんでいただければ幸いです。
**********************
世界が壊れてから、八十二日目。
人類は、まだ都市をひとつも取り返せていなかった。
取り返すどころではなかった。
世界の六割が、すでに喰われていた。
地図の上には、まだ国名が残っている。
都市名も、道路も、空港も、港も、以前と同じように表示されている。
だが、その場所へ行ける者はもういない。
空から見ると、森に沈んでいた街があった。
巨大な足跡だけが、住宅地を押し潰していた都市があった。
地下から墓地がせり上がり、石畳を骨で埋めた観光地があった。
高層ビルの隙間に、存在しないはずの古い城砦が重なった地区があった。
まだ落ちていない橋の悲鳴だけが、先に通信へ混じった港湾都市もあった。
世界は壊されたのではない。
上から塗り替えられていた。
誰かの想像に、現実が喰われていた。
怪物が現れれば、逃げる。
街が侵食されれば、捨てる。
防壁が破られれば、次の防壁まで下がる。
兵士たちの銃撃は、怪物を倒すためのものではなかった。
逃げるための数十秒。
扉を閉めるための十数秒。
子どもを抱えた母親が、地下通路へ滑り込むための数秒。
そのためだけに、人は銃を撃った。
蛇のようなもの。
鳥のようなもの。
骨のようなもの。
絵の中から出てきたようなもの。
昔話や神話の名で呼ばれるものもいた。
だが、その名を知ったところで、助かるわけではない。
名前を覚える前に、街が消える。
記録する前に、人が死ぬ。
昨日まで通っていた学校が、今朝には黒い沼になっている。
だから人類は、怪物の姿を見れば逃げた。
悲鳴を上げる。
祈る。
扉を閉める。
誰かの手を離さないようにする。
祈るしかなかった。
けれど、祈っても、だいたい死んだ。
それが、八十二日間続いた人類の戦いだった。
◇
C区画は、まだ現代の形を残していた。
信号機は赤を点滅させ、ビルの壁面には割れた広告パネルが残っている。
道路標識も、コンビニの看板も、横転したバス停も、そこにあった。
けれど、その上に別の世界が重なっていた。
アスファルトの裂け目から、見たこともない草が生えている。
コンビニの自動ドアは割れ、店内の奥には黒い沼のような暗がりが広がっていた。
ビルの窓には、存在しないはずの城壁が映り込んでいる。
現実が壊れた、というだけではなかった。
誰かの想像が、現実の上に貼りつき始めていた。
C区画の防壁が、低く震えていた。
音は、遠くから来ているはずだった。
けれど、その振動は地面を伝い、鉄骨を伝い、避難所の床まで這い上がってくる。
子どもが泣いた。
誰も叱らなかった。
今、この街で泣くことを責められる人間など、もういない。
「ここも、そろそろ危ないぞ……!」
防壁の上にいた兵士が叫んだ。
防壁の向こう、崩れた高層ビルの隙間から、黒い霧が流れ込んでいた。
霧ではない。
毒だった。
アスファルトの割れ目を伝い、黒い液体がゆっくり広がっている。
触れた草はしおれ、放置された車両のタイヤは溶けたように沈み、コンクリートには黒い染みが走った。
その奥に、八つの首があった。
八岐大蛇。
神話の名を与えられた怪物。
けれど、それは神話そのものではない。
濡れた墨のような鱗。
首ごとに違う表情を持つ顔。
裂けた口から滴る黒い毒。
まだ描き終わっていないように、輪郭だけが滲む首。
そして、絵の中から抜け出したような、濃すぎる恐怖。
自然に生まれた怪物ではない。
誰かが、恐怖を描き込んだ形だった。
八つ首の一つが、無人の装甲車を噛み潰した。
鉄が悲鳴を上げた。
中に人はいない。
避難は済んでいる。
それでも、潰れる音だけで、防壁の内側にいた人々の顔から血の気が引いた。
「扉を閉めろ!」
「待って! まだ外に人がいる!」
「閉めなきゃ全員死ぬぞ!」
避難所の入口で怒号が重なった。
誰かが泣きながら家族の名を呼んでいる。
その相手が、もう生きているかどうかも分からない。
兵士たちが一斉に銃を構えた。
撃てば倒せる、などと誰も思っていなかった。
撃つのは、止めるためではない。
防壁の内側に残った人間が、少しでも奥へ逃げるためだった。
「撃て!」
銃声が並んだ。
弾丸が、八岐大蛇の鱗へ突き刺さる。
火花が散る。
黒い毒が跳ねる。
怪物は止まらない。
八つの首のうち、三つがゆっくりと防壁を向いた。
兵士の一人が、後ずさった。
逃げるのが普通だった。
それでも兵士は、歯を食いしばってもう一度銃を構えた。
「お願い……誰でもいい……」
子どもを抱えた女が、床に額をつけるようにして呟いた。
「この子だけでも……助けて……」
八岐大蛇の首の一つが、防壁へ向いた。
黒い毒が、喉の奥で膨らんでいく。
兵士たちは、逃げなかった。
逃げられなかった。
防壁の内側には、まだ人がいる。
その時だった。
地面が揺れた。
防壁の向こう、崩れたビルの影が炎を帯びて跳ね上がった。
虎の縞。
獅子のたてがみ。
十五メートルの巨体。
巨大な獣が、空から落ちるように八岐大蛇へ飛びかかった。
防壁の上にいた兵士たちの頭上を、熱い風を伴った巨大な影が飛び越えていく。
八つ首の一つが、横から吹き飛んだ。
毒が飛び散る。
アスファルトが砕ける。
炎のたてがみが、黒い霧を裂いて燃え上がる。
防壁の内側で、誰かが息を呑んだ。
誰も、すぐには叫べなかった。
炎のたてがみ。
虎の縞。
獅子のような巨体。
画面の中で見たことがある。
絵本で、玩具で、古い配信映像で、何度も名前を呼んだことがある。
けれど、現実にいるはずのない姿だった。
「ママ……」
子どもが、震える指で防壁の外を指した。
「あれ、トライオーだよね……?」
母親は、すぐには答えられなかった。
答えれば、信じてしまう。
信じて、また失うのが怖かった。
けれど、炎のたてがみは確かにそこにあった。
八岐大蛇の首を押さえ込み、人間たちの前に立っていた。
「あれは……俺たちの知ってるトライオーなのか……」
兵士の一人が、銃を構えたまま呟いた。
「本当に……いたんだ……」
誰かが、泣きそうな声で言った。
そして、別の誰かが喉の奥から絞り出すように言う。
「俺たち……助かるのか……?」
助かる。
八十二日間、誰も簡単には口にできなかった言葉だった。
次の瞬間、八岐大蛇の別の首がトライオーへ襲いかかった。
兵士が叫んだ。
「頼む……!」
「頼む、トライオー……!」
「止めてくれ!」
「まだ中に人がいる!」
「ここを抜かれたら、もう後ろがないんだ!」
歓声ではなかった。
応援でもなかった。
それは、もう何度も裏切られてきた人間たちが、それでも最後に縋ってしまった声だった。
人類は、怪物を見れば逃げるしかなかった。
けれどその日、彼らは初めて、怪物の姿を見て逃げなかった。
逃げなかったのではない。
逃げる足が、もう残っていなかった。
だから彼らは、その名に縋った。
トライオー。
人間の味方をする怪物の名に。
◇
遠く離れた司令室で、神谷白玖はモニターを睨んでいた。
C区画。
F区画。
防壁損傷率。
毒性反応。
避難完了率。
トライオーの損耗予測。
すべてが同時に流れ込んでくる。
その隣で、オペレーターが声を上げた。
「アートクリーチャー反応、照合完了。対象、八岐大蛇型。作品NO.なし」
「作品NO.なし……」
白玖は小さく呟いた。
完成作品ではない。
額縁の中で題を与えられた怪物ではない。
黒光鋼が最後まで描き切ったものでもない。
ただ漏れ出した悪夢の端。
それが、区画ひとつを殺そうとしている。
白玖はトライオーへ思念をつなぐ。
『トライオー、注意して。そのアートクリーチャーは作品NO.付きではないわ』
「NO.なしで、これほどか」
『ええ。ただの流出個体。それでも毒性反応は高い』
「ならば、完成作品とやらは、これ以上ということか」
『そう。だから、ここで倒して』
「承知した」
トライオーの意識が、熱を帯びる。
怖れではない。
怒りでもない。
人を守るために前へ出る、真っ直ぐな熱だった。
◇
トライオーは、八岐大蛇の首を一本、爪で地面へ叩きつけた。
アスファルトが砕ける。
黒い毒液が飛び散る。
その毒液は地面に落ちる前に毒霧となって弾けたが、トライオーは構わず踏み込んだ。
八岐大蛇の二本目の首が横から噛みついた。
『右後方。四番目の首が来るわ』
白玖の声が、トライオーの意識へ届いた。
「承知した、白玖!」
トライオーは後ろ脚で地面を蹴った。
巨体が反転する。
爪が空を裂き、迫っていた首の眼球を抉った。
八岐大蛇が、八つの喉で同時に鳴いた。
その声は、古い絵本の奥に閉じ込められていた悪夢が、紙を破って外へ出たような声だった。
トライオーは止まらない。
一つ目の首を踏み砕く。
二つ目の首を牙で引き裂く。
肉ではなく、濡れたキャンバスを引き千切るような音がした。
三つ目の首を炎で焼き払う。
焦げた肉ではなく、熱された油彩のような臭気が広がった。
防壁の内側で声が膨れた。
「そのまま……!」
「お願い、止めて……!」
「もう少し、もう少しだけ……!」
人類は、まだ勝っていない。
けれど今だけは、逃げるためではなく、生き残るために声を上げていた。
八岐大蛇の首が、また一本迫った。
トライオーは避けなかった。
正面から噛みつき、根元まで牙を沈めた。
その瞬間、黒い毒が噴き出した。
『トライオー!』
白玖の声が鋭く響いた。
墨と腐毒を混ぜ、さらにそこへ悪意を垂らしたような液体。
毒の臭いの奥に、乾ききらない絵具の甘い臭気が混じっていた。
それが、噛みついたトライオーの口腔へ、肩へ、たてがみへ、一気に流れ込んだ。
炎が揺らいだ。
赤く燃えていたたてがみが、黒く濁る。
トライオーの前脚が沈む。
爪がアスファルトを削り、巨体が大きく傾いた。
「トライオー!」
防壁の内側で、子どもが叫んだ。
八岐大蛇の残った首が、笑うように揺れた。
『毒性反応、急速拡大! トライオー、動かないで!』
「ぬ……う……!」
巨体が膝をつく。
その一瞬で、戦場の空気が変わった。
さっきまであった声が、嘘のように消える。
八岐大蛇の二本の首が、倒れかけたトライオーへ迫る。
その時、毒霧の中へ一人の男が走った。
銀の剣。
青い外套。
真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐな眼。
マルス・アインリグラスト。
『マルス、近づきすぎよ! 毒が濃い!』
白玖が制止する。
だが、マルスは止まらない。
「届かぬなら、届く場所まで行くしかない!」
彼は崩れた高架の破片を蹴り、毒霧の中へ飛び込んだ。
止めるべきだった。
だが、止めればトライオーが死ぬ。
進ませれば、マルスが削れる。
白玖は、その二つを一秒で天秤にかけなければならなかった。
どちらを選んでも、自分の手は汚れる。
それでも、白玖はマルスを止めなかった。
マルスはトライオーの前脚に手を当てる。
「勇者専用魔法――浄化の光!」
白い光が、毒に侵された皮膚を走った。
黒く濁っていた血管の筋が、少しずつ赤を取り戻していく。
たてがみの奥に、消えかけていた火が戻る。
マルスの膝が揺れた。
彼自身も毒を吸っている。
人間ならとうに倒れている濃度だった。
それでも、マルスは手を離さなかった。
「勇者が……仲間を見捨てて、どうする……!」
白い光がさらに強くなった。
トライオーが、低く息を吐いた。
次の瞬間、十五メートルの巨体がゆっくりと立ち上がる。
たてがみが、再び赤く燃える。
「……かたじけない、マルス殿」
トライオーが言った。
マルスは肩で息をしながら、銀の剣を構え直す。
「礼は勝ってからだ」
「うむ!」
トライオーは大きく息を吸った。
炎が、胸の奥で膨れ上がる。
だが、すぐには吐かなかった。
彼は八岐大蛇を見据えたまま、白玖へ問う。
「白玖よ! 避難は済んでおるか!」
白玖の声が即座に返る。
『大丈夫よ! F区画全域、避難完了しているわ。全力でいって、トライオー!』
「承知!」
トライオーの四肢が、地面を踏み砕いた。
たてがみが逆立つ。
炎が獣の形を取るように広がり、空気が赤く染まった。
八岐大蛇の残った首が、一斉に襲いかかる。
マルスが前に出た。
「ここは通さん!」
銀の剣が、一本の首を受け止める。
白い結界が、火の余波を防壁側へ流れないように押さえ込む。
白玖の声が、さらに鋭く響く。
コンソールの縁を握る白玖の指先が、白く強張っていた。
『射線、三度右へ。上方二十。今よ!』
トライオーが吠えた。
「炎王咆哮――!」
炎が、咆哮となって放たれた。
それはただの火ではなかった。
都市を焼く火ではない。
人間を守るために、怪物だけを焼き尽くす火だった。
炎は八岐大蛇の首を飲み込み、墨のような鱗を剥がし、毒を蒸発させながら本体へ突き刺さる。
八つの喉が、同時に絶叫した。
黒い血が噴き上がる。
だが、それすら炎に焼かれ、霧になる前に消えていく。
最後の首が、トライオーを睨んだ。
トライオーは、その目をまっすぐ見返した。
「人の世は、まだ終わっておらぬ」
炎が、最後の首を焼き落とした。
八岐大蛇の巨体が崩れる。
肉ではなく、黒い絵具のように溶けた。
道路に広がっていた毒が薄れ、空を覆っていた黒い霧が、少しずつ裂けていく。
沈黙。
そして。
「……止まった」
誰かが言った。
その声は、歓声ではなかった。
「毒が……止まった……」
兵士の一人が、銃を構えたまま膝をついた。
子どもを抱えた女が、その場に崩れ落ちる。
泣き声が出るまで、少し時間がかかった。
「生きてる……」
誰かが、自分の胸を押さえた。
「俺たち、生きてる……」
そこから、ようやく声が広がった。
「トライオー……!」
「ありがとう……!」
「勇者様……!」
「助かった……本当に、助かった……!」
笑う者より、泣く者の方が多かった。
叫ぶ者より、座り込む者の方が多かった。
それでも、防壁の内側には確かに声が戻っていた。
八十二日間、逃げるためにしか声を出せなかった人類が、初めて、生き残ったことを声にしていた。
◇
けれど。
白玖は、笑わなかった。
司令室のモニターには、C区画とF区画の戦闘記録が並んでいる。
八岐大蛇、撃破。
テリトリー侵食率、七%低下。
トライオー損耗率、二八%。
それは肉体の傷ではなく、存在そのものの削れ方を示す数字だった。
マルス・アインリグラスト、魔力消費四一%。
ファイロン濃度、なお不安定。
作品NO.なし。
流出個体。
それでも、この被害。
勝った。
だが、取り返したのは世界ではない。
たった一区画の、今日死ぬはずだった数百人の明日だけだった。
世界は、たった一日で変わった。
人の想像が、現実になった日。
怪物絵師・黒光鋼の頭の中から、世界中へ悪夢が飛び散った日。
そして人類は、その悪夢に対抗するため、別の想像を呼び出した。
逆召喚。
世界を壊した禁忌を、世界を救うために使う。
そうするしか、方法がなかった。
白玖は、モニターの端に表示された別の記録を見る。
神谷雅樹。
白玖の父。
禁忌の門の謎を知るため、その奥へ消えた科学者。
それ以来、戻っていない。
白玖は小さく拳を握った。
世界を取り戻す。
そして、父を取り戻す。
そのために、彼女は勇者候補たちとつながり続けている。
その時だった。
通信装置に、ノイズが走った。
戦闘終了後の回線に、ありえないファイロン反応。
白い羽のような粒子が、モニターの中で一瞬だけ舞う。
白玖は息を止めた。
周囲の職員たちは気づいていない。
勝利の報告と、安堵の声と、端末を叩く音が司令室に満ちている。
なのに、その音だけが急に遠ざかった。
聞こえたのは、白玖の耳の奥。
ファイロンの思念波に直接混じった、かすかな声だけだった。
『……は……く……』
白玖は、震える声でつぶやいた。
「……お父さん?」
返事はなかった。
もう一度、ノイズが走る。
画面の奥に、白い翼のような影が映った。
ノイズの向こうで、声がもう一度だけ戻る。
『……門は……まだ……』
そこで音が途切れた。
司令室の主モニターに、一瞬だけ白い翼の影が映る。
白玖は息を呑んだ。
その翼を、どこかで見たことがある。
父の資料室。
伏せられた写真。
見てはいけないと言われた、一枚の絵。
白い翼は、黒いノイズに飲まれて消えた。
勝ったはずなのに、白玖の背筋は冷えていた。
閉じたはずの何かが、まだ開いている。
その向こう側で、父が呼んでいる。




