兄よ、敗北を知れ
公爵家の嫡男である兄、ベルン・バスク・チュールは、八歳にして傲慢を絵に描いたような少年だった。
両親から溺愛され、「天才」とおだてられて育った彼は、三歳のアリアを完全に見下していた。
「おい、アリア。そこを退け。僕が通るんだ」
廊下の真ん中を歩いていたベルンは、端を歩いていたアリアにわざわざ体をぶつけようとした。
いつもの嫌がらせだ。前世のアリアなら、怯えて縮こまり、突き飛ばされていただろう。
だが、今のアリアは違う。
ベルンが肩をぶつけようとした瞬間、アリアは最小限の動きで半歩横にズレた。
空を切ったベルンは、勢い余って無様にたたらを踏む。
「おっと」
「なっ……!?」
顔を真っ赤にする兄を見上げ、アリアは小首をかしげた。
「お兄様、足元がおぼつかないようですけれど。運動不足かしら?」
「き、貴様……!」
ベルンが拳を振り上げる。子供の喧嘩とはいえ、八歳男子の拳だ。当たれば痛い。
しかし、アリアの目にはその動きがスローモーションのように見えていた。
『格闘術Lv.1』の補正と、毎日の「猿のような」修行の成果だ。
アリアは兄の手首をパシッと掴むと、そのまま流れるように足を払い、合気道の要領で地面に転がした。
「ぐえっ!?」
ドサリ、という音と共に、天才(自称)の兄が廊下に這いつくばる。
「な、何をした……!? 魔法か!?」
「いいえ。ただの体術よ。お兄様の重心が隙だらけだったから」
アリアは冷ややかに言い放つ。
騒ぎを聞きつけた家庭教師が慌てて駆け寄ってきた。
「ベルン様! いかがなさいましたか!?」
「先生! こいつが、アリアが僕を!」
「……お兄様が転ばれたので、手を貸そうとしただけですわ」
アリアは三歳児特有の無垢な瞳(演技)で家庭教師を見つめた。
家庭教師は狐につままれたような顔をしているが、まさか三歳児が八歳児を投げ飛ばしたとは思うまい。
それから数日、アリアによる「兄いじめ」……もとい、「教育的指導」は加速した。
ある日は、勉強の時間。
両親の意向で、なぜかアリアも見学させられることになった。アリアの無能さを際立たせ、兄の優秀さを引き立てるためだ。
「さあベルン様、この歴史の問題を」
「ええと……建国は……」
答えに詰まる兄の横で、アリアは配られた羊皮紙にサラサラとペンを走らせていた。
前世で皇太子妃教育を修了し、さらに上の后妃教育まで受けていたアリアにとって、初等教育など遊びにもならない。
「先生、できました」
「は? アリア様、落書きはいけませ――」
家庭教師が羊皮紙を覗き込み、絶句した。
そこには歴史の問題だけでなく、高学年向けの算術、さらには古代語の翻訳までもが完璧な筆致で記されていたのだ。
「な……全問、正解……!? しかもこの古代語の解釈は、学会でも意見が分かれるところを……」
「アキラ……いえ、夢の中で賢者様に教わりましたの」
アリアは適当な嘘をついた。
隣でベルンが、口をパクパクさせている。
「そ、そんな馬鹿な! たまたまだろ!」
「あら、お兄様。まだ1問も解けていらっしゃらないの?」
アリアはニッコリと微笑んだ。その笑顔は、ベルンにとって悪魔の嘲笑に見えたことだろう。
そして、決定打となったのは剣術の稽古だった。
木剣を持ったベルンが、半泣きでアリアに向かってくる。
「うおおおっ! まぐれだ、お前なんか!」
「遅いわ」
アリアは木剣を持たず、落ちていた木の枝を拾って構えた。
ベルンの大振りな一撃を枝で受け流し、手首を軽く叩く。
カラン、とベルンの木剣が落ちた。
「ひっ……」
「剣術も、魔術も、お勉強も。私に一つも勝てないのに、よく『天才』なんて名乗れるわね」
アリアはベルンの鼻先に木の枝を突きつけた。
夕日がアリアの背後に後光のように差している。
「お兄様。これからは私の言うことを聞いてくださる?」
ベルンのプライドは、粉々に砕け散っていた。
目の前の妹は、化け物だ。
恐怖と、圧倒的な実力差への畏怖。
ベルンはその場にへたり込み、涙目で何度も頷いた。
「は、はい……アリア様……」
「よろしい」
アリアは満足げに枝を捨てた。
こうして、三歳にして公爵家の嫡男(八歳)の下僕化に成功したのだった。
(さあ、次は誰を下僕にしようかしら……じゃなくて、レベル上げね)
アリアはひきつった笑みを浮かべる兄を放置し、颯爽と庭へ戻っていった。
その後ろ姿を見送るベルンの目には、もはや敵対心はなく、ただただ崇拝に近い色が宿り始めていた。




