三歳児、自重を知らず
「アリア様……おやめください、そのような高いところへ……!」
メイドの悲鳴に近い制止の声など、アリアの耳には届いていなかった。
バスク公爵家の広大な庭園。その片隅にある樹齢百年を超える大樹の、遥か上の枝。
そこに、ちょこんとしがみつく小さな影があった。
現在、アリア・バスク・チュール、三歳。
世間一般では言葉を覚え始め、あどけない笑顔で周囲を和ませる時期である。
だが、アリアにそんな可愛げのある時間は一秒たりとも存在しなかった。
(よし、今日のノルマ達成ね)
アリアは枝の上から眼下の景色を見下ろし、満足げに頷いた。
脳内に浮かぶ『身体強化スキル』の熟練度ゲージが、ピロリンと音を立てて上昇する。
生後一ヶ月で、アリアはすでに前世の自分を超えていた。
理由は単純だ。アキラの知識にあった「魔法は使えば使うほど伸びる。限界まで使い切って回復させるサイクルが最強」という理論を、文字通り死ぬ気で実践したからだ。
乳飲み子の頃から、見えないところで魔力を空になるまで放出し、気絶するように眠る毎日。
ハイハイができるようになれば、それは移動手段ではなく筋力トレーニングとなった。
結果、三歳にしてこのザマである。
アリアは木の幹を猿もかくやという身軽さでスルスルと降り立った。着地も無音。完璧だ。
「ひぃっ……! ア、アリア様、お怪我は!?」
「ないわ。それよりお腹空いた」
真っ青な顔で駆け寄ってくるメイドを尻目に、アリアは服についた土をパンパンと払う。
この屋敷の使用人たちは、アリアを腫れ物のように扱う。
それもそうだろう。赤ん坊の頃から泣きもせず、虚空を見つめてブツブツと呟き、目を離せばどこかで魔力を暴発させているのだから。「異様」以外の何物でもない。
(ま、どう思われてもいいけど)
前回の人生では、アリアは公爵家の「お荷物」だった。
両親も、五つ上の兄も、アリアには無関心だった。優秀な兄に比べ、平凡で魔力も少なかったアリアは、政略結婚の駒としての価値しかなかったのだ。
冤罪で地下牢に入れられた時でさえ、彼らは面会にすら来なかった。
「……アリア様。旦那様がお呼びです」
冷ややかな声がかけられた。
振り返ると、執事が無表情で立っている。
「お父様が?」
「はい。執務室でお待ちです」
アリアは内心で首をかしげた。
前世の記憶では、三歳の頃に父と会話した覚えなどない。
基本的に放置されていたはずだが、やはり「猿のように」庭を飛び回っていたのが目立ちすぎたのだろうか。
(怒られるのかしら。まあ、地下牢よりはマシね)
アリアは小さな足で廊下を進む。
重厚な扉の前で執事がノックをし、「どうぞ」という低い声が響く。
部屋に入ると、書類の山に埋もれるようにして父、バスク公爵が座っていた。
その隣には、母と、八歳になった兄の姿もある。
全員が、冷たい目でアリアを見下ろしていた。
まるで、出来の悪い商品を見るような、値踏みするような視線。
「アリア」
父が口を開く。
アリアはスカートの端をつまみ、三歳児とは思えない優雅さでカーテシーをした。
「はい、お父様」
「……お前、最近庭で奇行を繰り返しているそうだな」
奇行。まあ、否定はできない。
「高い木に登ったり、石を持ち上げたり……公爵令嬢にあるまじき振る舞いだ。使用人たちが気味悪がっている」
「申し訳ございません。体が動きたがってしまって」
「口答えをするな」
ピシャリと叩きつけられた言葉に、母が顔をしかめて追撃する。
「本当に……どうしてこんな子が生まれたのかしら。ベルンはこんなに優秀なのに、この子は野蛮で、可愛げもなくて」
「全くだ。バスク家の恥にならなければいいが」
両親の隣で、兄が鼻で笑った。
(ああ……変わらないわね)
アリアは心の中で冷めた息を吐く。
この空気。この疎外感。
一度目の人生で、アリアの心を蝕み続けた毒だ。
けれど、今は違う。
アリアの脳裏には、アキラの知識が呼び出したステータス画面が表示されている。
そこには、目の前の「家族」たちのステータスも表示されていた。
『バスク公爵:Lv.35 魔力C 身体能力C』
『公爵夫人:Lv.12 魔力D 身体能力E』
『兄:Lv.8 魔力D 身体能力D』
そして、自分のステータスを見る。
『アリア(3歳):Lv.5 魔力B+ 身体能力C+』
(……あら?)
アリアは瞬きをした。
魔力はすでに父を超え、身体能力も兄を凌駕している。
さらにスキル欄には『無詠唱魔法Lv.2』『格闘術Lv.1』の文字。
(私の方が、強いじゃない)
その事実に気づいた瞬間、彼らの冷たい言葉が、まるで遠くで吠える子犬の声のように聞こえ始めた。
「……反省しているのか、アリア」
「はい、お父様」
アリアは殊勝な顔で頭を下げた。
だがその口元は、かすかに緩んでいた。
(今はまだ三歳だから従っておいてあげる。でも、覚えておきなさい)
いずれ、この家すらも狭くなる。
アリアは小さな拳をぎゅっと握りしめ、来るべき「レベル上げ」の再開に思いを馳せた。




