十七話
喫茶店「しゅれねこ」で食事を終えた彼と尚文露店主が、店に戻る途中にある
交差点近くで、ちょっとした群衆が出来て騒いでいるのに気づいた。
尚文は少し眉間に皺を立て、騒いでいる人だかりを見据えた。
その方向は露店のある場所とはまったく反対方向だったが、尚文露店主は何か気になる事でもあったのか、ゆっくりと立ち止まった。
「兄ちゃん、さっきに店に戻っていてくれ、ちょっと様子を見てくる」
尚文露店主は、群衆が出来ている場所を見据えながら短く彼に告げる。
「あ、はい」
彼も短く返答した。
特に何も尋ね返すこともなく、彼は露店がある場所に向かって歩いていく。
尚文露店主が彼の後姿を見送り、姿が見えなくなった事を確認すると、
カランコロンと下駄を鳴らしながら騒いでいる群衆に近づく。
現場に近づくにつれて、群衆が騒いでいる原因が判明した。
そこには、一台の横転したトラックの姿が存在していた。
尚文露店主は、鬼獣にでも襲われたのかと思った。
「危ないですから離れてくださいっ!、あと警察に連絡をーーっ!!」
運転手らしき男性が亡霊のように青ざめた貌で、大声で叫んでいる。
「(交通事故か 鬼獣に襲われた様子はないか)」
尚文露店主は、懐から袋に入ったちくわを取り出しながらそう呟き、その場から
離れようとした。
――――その時、右側からホラー映画の登場人物のような悲鳴が聴こえてきた。
尚文露店主や群衆も一斉にそちらの方向を見た。
「へっ!?」
通行人の男性が我が眼を疑った。
「ちょっと、なんでこんなところに・・・・」
通行人の女性が驚愕した声で誰ともなしに告げる。
群衆の中にいる何人かの通行人は、一斉に手に持っている自動小銃や拳銃の安全装置を無意識に外している。
「マジか」
尚文露店主も、思わず懐から取り出したちくわを落としそうになった。
――――そこには、興奮したヒグマが一頭いた。
その近くには、腰を抜かした女性の通行人の姿もあった。
恐らく、悲鳴の主はその女性だろう。
「その熊は、サーカス団に運ぶ途中だったんですっ!! 危険ですから離れてくださいっ!」
運転手らしき男性がもう一度叫ぶ。
「(と言っても、こんな状況を見たら助けない訳にもいかないか)」
ちくわを懐に仕舞い込んだ尚文露店主は、少し苦笑いを浮かべた。
強張っていた口の筋肉を動かしながら、尚文露店主は興奮しているヒグマに、
ゆっくりと近づいていく。
「ちょっ、危ないですから離れてっ!!」
無防備に近づいていく尚文露店主に向かって。運転手らしき男性が叫ぶ。
「なに、ホッキョクグマやアラスカの熊よりは小ぶりだ」
尚文露店主は、左手をヒラヒラさせて応える。
興奮しているヒグマは、唸り声を発しながら尚文露店主を見てくる。
「よーし、熊公、そんなに暴れたいんなら俺が相手になってやる。たがが一介の
露店主だと思って、舐めてかかると火傷程度じゃすまないことを、その身体に
教えてやる」
尚文露店主はそう告げ、双眸を鋭くした。
黒いサングラスをしているため、その様な事は分からないが・・・、ただ、
この現状は異質だろう。
黒いサングラスに派手なアロハシャツと短ズボン、下駄に麦わら帽子という姿の
人間が、興奮しているヒグマに素手で挑もうとしているのは。
誰が見ても異質な状況だ。
群衆の中には、その光景を携帯などで画像を取り込んだりしている住民の姿もあ
った。
ヒグマは、雄叫びを上げて突っ込んでくる。
「露店主を舐めるなよ、熊公」
吐き出すような声で告げ、眉間に皺寄せながら右脚を引いて半身になった。
まっすぐに突っ込んでくるヒグマの攻撃を避けると同時に、右手のひらを
突き出す。
ヒグマの顔面に右掌底がめり込んだ。
ヒグマの鼻がひしゃげ、鼻孔から鮮血が噴き出す。
反り返ったヒグマの身体が天を仰いで背中からアスファルトに落ちた。
ヒグマは大の字で倒れ、白目を剥いて痙攣をする。
あまりにも一瞬の出来事だったためか、その様子を見ていた群衆からは声も
悲鳴も無かった。
ただ、興奮している熊を簡単に素手で倒すという衝撃的な光景に、見物して
いた群衆は呆然としていた。
「(そろそろ離れるか、後で警察やらなんやらが来たら説明が面倒だ)」
尚文露店主は、そう考えると気絶しているヒグマを一瞥して立ち去ろう
とした。
だが、それを衝撃から先に立ち直った運転手らしき男性によって阻止された。
「あの、ありがとうございます!! おかげて助かりました」
運転手らしき男性がそう言ってくる。
「なに、たいした事はしてないさ」
尚文露店主が口元に笑みを浮かべながら応える。
「ぜひお礼をしたいので――――」
運転手らしき男性がそう言おうとして、尚文露店主は右手をヒラヒラさせる。
「気持ちだけで十分だ。それに怪我人も出なかったから良かったじゃないか。
それよりも、あそこでまだ腰を抜かしている娘さんを見てあげたどうだ?」
尚文露店主がそう応える。
たしかに、腰を抜かしている女性の通行人がいた。
「では、お名前を――――」
運転手らしき男性がそう言ってくる。
「名乗る者でもないさ。こっちも野暮用があるからこれで」
尚文露店主は、そう告げると急いでその場から立ち去って行く。
走り去っていく尚文露店主の姿を見送りながら、その場にまだいる通行人らは
口々に「素手で熊を気絶させた」や、「化け物か」など言い合う。
この群衆の一部は他地区の住民だったためか、興奮した様に携帯で、ネット
掲示板に書き込んだりしている。
だが、18地区の住民達の反応は違った。
騒ぎに関わりたくないためか、そそくさとその場を後にする。
――――――――余談だが、ネットに流された動画や書き込みなどは、ネット上に拡散
する前に、恐ろしいほどの速さで「削除」されていった。
一体誰が何のために「削除」したのかは不明だ。
また、後日、この光景を目撃した通行人達の家や職場に黒の背広に黒ネクタイ、
黒の革靴を履き、黒いソフト帽をかぶり黒レンズのサングラスを着用した男達が
現れて、さまざまな警告や脅迫を受けることになる。
そして、それでも警告に従わなかった住民の姿は――――――忽然と姿を消すことに
なった。