第二十一話 シュヴァルツ伯決戦(下)
三百挺の火縄銃が敵陣を崩し、戦場の流れは決しました。退路へ先回りしたアレクたちは、ついにシュヴァルツ伯と対峙します。
林の出口が近づくにつれ、背後から聞こえる戦場の音が遠くなった。
火縄銃の轟音そのものが小さくなったわけではない。
木々が音を遮り、枝葉へぶつかった音が、違う方向から聞こえてくるのだ。
正面の戦場で何が起きているのか、林の中からは見えない。
残る二百挺が射撃を続けている。
味方の槍兵と騎兵が、崩れた敵中央へ突入した。
そこまでは分かっている。
だが、その後に敵が立て直したのか、完全に敗走へ移ったのかは確認できなかった。
俺たちは、レオンハルトから受けた命令を信じて進むしかない。
「先頭、止まれ!」
前方から火槍兵長の声が届いた。
百人の列が、前から順に速度を落とす。
急に止まれば、後続がぶつかる。
十人ごとに間隔を取ってきたため、大きな混乱は起きなかった。
俺は列の横を進み、火槍兵長のいる先頭へ向かった。
木々の間から、明るい草地が見えている。
その先に古い街道が延びていた。
「敵は?」
「まだ見えません」
火槍兵長のそばにいた斥候が答える。
「馬の音もありません。街道の土に新しい跡はありますが、敵が通った跡ではなく、昨日までの荷車でしょう」
「街道の先を確認してください。遠くへ行きすぎないように」
「承知しました」
斥候二人が林から出る。
一人は街道の東側へ進み、もう一人は少し離れた木立へ入った。
敵の騎兵がすでに近づいている場合、二人とも同じ場所にいれば同時に見つかる。
俺たちは林の陰で待った。
「一班の三十人、街道正面へ」
火槍兵長が命じる。
先頭の三十人が林を出る。
街道を完全に横切る一列ではなく、十人ずつ三列に分けた。
前の列が膝をつき、後ろの二列が少しずつ左右へずれる。
敵の騎兵が一直線に来ても、三十挺すべてが同じ馬だけを狙わない形だ。
「二班の三十人、街道右へ。林の縁から出すぎるな」
次の三十人が、街道脇の草地へ移る。
低い草と木々の陰へ伏せれば、正面からは人数を見分けにくい。
「三班の四十人は、この場で待機」
残る四十人は、林の出口へ広がった。
一班の三十人と二班の三十人が撃った後も、装填済みの四十挺が残る。
シュヴァルツ伯の護衛が予想より多い場合、後続の騎兵がすぐ到着した場合、あるいは最初の射撃で火縄銃が使えなくなった場合に備える三班だ。
「火縄確認!」
各組の教官が兵の火縄を見る。
林の中で火を残して運んだ者から、他の兵へ火を移す。
全員がすでに一発を装填している。
火皿へ細かな火薬を置き、火蓋を閉じた状態だ。
火縄を火縄ばさみへ挟み、掛け金に留める。
「命令が出るまで火蓋を開くな」
火槍兵長が念を押す。
「弾薬箱も閉めたままだ。最初の一発で止められなかった場合だけ、次を装填する」
百人が持つ一発筒は、まだ六本ずつ残っている。
だが、古い街道で千発を撃つつもりはない。
目的は、シュヴァルツ伯を生きたまま止めることだ。
「全員、聞いてください」
俺は三つに分かれた兵たちへ顔を向けた。
「シュヴァルツ伯本人を狙ってはいけません。先頭の馬と、突破しようとする護衛を止めます」
兵たちは黙って聞いている。
「濃紫の旗や豪華な鎧だけで本人だと決めつけないでください。撃つ相手は、こちらへ向かってくる騎兵です。降伏した者は撃たない。武器を捨てた者も追いません」
「シュヴァルツ伯が一人で逃げた場合は?」
一班の三十人を率いる教官が尋ねた。
「馬を狙います。落馬した後に囲みます」
「本人が剣を抜いた場合は?」
「槍兵に取り押さえさせます。火縄銃は、周囲に味方がいない時だけ使ってください」
十挺で四百人を止めた時とは違う。
今度は、大勢へ恐怖を与えて撤退させることが目的ではない。
たった一人を生きて捕らえるため、百人を動かしている。
殺す方が簡単だ。
百挺を一斉に撃てば、護衛ごと倒せる可能性が高い。
だが、シュヴァルツ伯本人へ弾が当たる。
生きたまま捕らえれば、従っていた諸侯へ戦をやめるよう命じさせることができる。
戦後、誰が自分の意思で兵を出し、誰が強制されていたのかも聞ける。
これ以上同じ敵と戦わないために、ここでは殺さずに捕らえなければならない。
「アレク様」
火槍兵長が低い声で言った。
「ご自身で前へ出すぎないでください」
「分かっています」
「昨日も同じことを言っていました」
「今は本当に分かっています」
「その言葉を信じます」
疑うような顔だった。
俺が何か言い返す前に、東へ向かった斥候が戻ってきた。
走っている。
だが、敵に追われている様子はない。
「報告します!」
斥候は林へ入ると、膝へ手を置いて息を整えた。
「東の分岐に、敵騎兵を確認しました。濃紫の本陣旗があります」
「数は」
「八十から百騎ほどです。先頭が速く、後ろが伸びています。古い街道へ入ると思われます」
まだ護衛は五、六人ではない。
約百騎。
そのまま来れば、一班の三十人だけでは止めきれない。
「距離は?」
「ここまで、馬ならそれほど掛かりません。ただし、分岐の手前で荷車が道へ入っています」
「荷車?」
「兵糧か軍資金を積んだものです。逃げる歩兵も集まっています」
ロベルトが動かした荷車だろう。
古い街道へ重要な荷を逃がし、シュヴァルツ伯の後続を分断する。
だが、荷車がシュヴァルツ伯の前へ出れば、本人まで止まる。
「濃紫の旗は荷車の前ですか」
「先頭の騎兵と一緒です。荷車は濃紫の旗の後ろから街道へ入ろうとしています」
シュヴァルツ伯は、荷車より先へ出ている。
最も速い騎兵だけを連れ、誰よりも先に逃げようとしているのだ。
荷車は、その後ろに続く護衛を止める位置へ入っている。
「二人で、もう一度見てください」
「はい」
「今度は敵へ近づかず、濃紫の旗の先頭が何騎まで減ったかだけを見ます」
斥候二人が走り出す。
俺は街道の東側を見る。
まだ何も見えない。
風が草を揺らし、遠くで鳥が飛んでいる。
戦場の轟音がなければ、戦とは無関係な古い道にしか見えなかった。
「百騎で来た場合は、最初の三十人が撃った後、すぐ二班も撃たせます」
火槍兵長が言う。
「三班の四十人は?」
「後続へ残します」
「正面へ五十挺、側面へ五十挺に変えた方がよくありませんか」
「今から配置を変えれば、敵が来た時に動いているところを見られます」
「百騎なら、三十発で止められない可能性があります」
「先頭の馬を倒せば、細い街道では後続が詰まります。第一の目的は全員を倒すことではなく、速度を失わせることです」
街道は広くない。
六騎、七騎が横一列に並ぶことはできない。
先頭の数頭が倒れれば、後続は避けるために速度を落とす。
その時、二班の三十人が撃つ。
残る四十人は、さらに後ろから来る騎兵へ向ける。
百騎を百発で全滅させる必要はなかった。
分断し、降伏させる。
それでいい。
背後から火縄銃の轟音が聞こえた。
林の向こうで、残る二百挺の射撃が続いている。
先ほどより間隔が長い。
敵が敗走したため、撃つべき相手を選んでいるのかもしれない。
あるいは、一発筒の補充に入ったのか。
こちらからは分からない。
「正面の戦場から、騎兵の角笛です」
支援兵の一人が言った。
短く、続けて長い音。
追撃する部隊へ方向を伝える合図だ。
レオンハルトの騎兵は、シュヴァルツ伯の後方へ近づいている。
敵の護衛は、追撃を止めるために何人かを残さなければならない。
「来ます!」
街道の先を見ていた兵が叫んだ。
先ほどの斥候ではない。
遠くの分岐から、人影が走ってくる。
二人目の斥候だった。
男は後ろを振り返りながらこちらへ向かっていた。
「濃紫の旗の先頭だけが抜けました!」
息を切らしながら報告する。
「後方の騎兵は、荷車と敗走兵に遮られています!」
「先頭は何騎ですか」
「二十騎ほど! 残りは分岐の向こうです!」
百騎のうち、約二十騎だけが荷車より先へ出た。
それでも、濃紫の旗の集団がこちらへ着くまでに、後続が道を開ける可能性はある。
「もう一人の斥候は?」
「さらに先で見ています」
斥候が言い終わる前に、街道の遠くから馬蹄の音が聞こえた。
まだ小さい。
だが、近づいている。
「全員、伏せろ!」
一班の三十人が姿勢を低くする。
正面から見えるのは、街道へ倒した細い木と、土を浅く盛った場所だけだ。
騎兵を完全に止める障害ではない。
不自然な陣地に見せないため、林で拾った枝と倒木を使っている。
二班の三十人は草の陰へ身を隠す。
三班の四十人も、林の出口から一歩下がった。
馬蹄の音が大きくなる。
その途中で、別の音が重なった。
怒鳴り声。
金属がぶつかる音。
後方で追撃戦が続いている。
一人目の斥候が戻ってきた。
男は街道脇の草地から林へ飛び込む。
「先頭は六騎です!」
「六騎?」
「濃紫の旗と護衛五騎。残る騎兵は後ろへ残りました!」
「なぜです」
「追撃してきた騎兵を止めるため、シュヴァルツ伯が命じています。荷車の先へ出た二十騎のうち、十騎ほどが分岐へ戻りました。残りも途中で足止めに残っています!」
シュヴァルツ伯は、自分が逃げる時間を稼ぐために護衛を置いてきた。
最も速い馬へ乗る五人だけが、濃紫の旗とともに先行している。
最初から五人だったわけではない。
約百騎で本陣を離れ、荷車と敗走兵に分けられ、追撃を止めるため自分で護衛を減らした結果だ。
「位置へ戻れ!」
斥候が三班の四十人の後ろへ移る。
馬蹄の音が近づく。
もう人数を聞き分けられる距離だった。
六騎。
間違いない。
俺は一班の三十人を率いる教官へ手を上げる。
「先頭の馬を狙ってください。人ではありません」
「はい」
「濃紫の旗のそばにいる、豪華な鎧の男の馬もです」
「承知しました」
シュヴァルツ伯本人だと確定したわけではない。
だが、濃紫の本陣旗を持ち、五人の護衛と先頭を逃げる豪華な鎧の男。
捕らえて確認する価値はある。
「二班の三十人は、街道脇へ逃げようとした騎兵だけを撃ってください」
二班の教官が頷く。
「三班の四十人は構えたまま待機。後続が来るまで撃たない」
火槍兵長が命令を繰り返し、各組へ伝える。
街道の先に、濃紫の旗が現れた。
風を受け、斜め後ろへ流れている。
その下から騎兵が一騎、二騎と姿を見せた。
先頭の男は何度も後ろを振り返っている。
二番目の騎兵が濃紫の旗を持つ。
そのすぐ後ろに、豪華な鎧の男がいた。
兜には装飾があり、馬も他より大きい。
残る三騎が周囲を守る。
六騎は速度を落とさない。
街道の先に置いた枝へ気づいた。
先頭の騎兵が何かを叫ぶ。
六騎の間隔が少し縮まった。
「止まれ!」
俺は林の出口から声を上げた。
「この先は封鎖しています! 武器を捨てれば、命は保証します!」
先頭の騎兵が馬を止めようとする。
だが、豪華な鎧の男が槍を前へ出し、何かを命じた。
声までは聞き取れない。
それでも、降伏を拒んだことは分かった。
先頭の騎兵が剣を抜く。
馬の腹を蹴り、枝を飛び越えようとした。
「一班の三十人、立て!」
伏せていた三十人が一斉に立ち上がる。
街道の正面に三列の火縄銃が現れた。
六騎の動きが揺らぐ。
三十挺だけに見えている。
だが、六騎を止めるには十分な数だ。
「火蓋開け!」
三十人が火蓋を開く。
「構え!」
銃口が馬の胸と脚へ向く。
俺はもう一度叫んだ。
「最後です! 止まって武器を捨ててください!」
豪華な鎧の男が、今度は俺にも聞こえる声で叫んだ。
「踏み潰せ!」
先頭の馬が速度を上げる。
「一班、撃て!」
三十挺が発砲した。
正面戦場の百挺より小さな音だ。
それでも、古い街道と林に挟まれた場所では、轟音が何度も反響した。
白煙が三十人の前へ広がる。
三十発すべてが命中したわけではない。
土へ入る弾。
馬の間を抜ける弾。
鎧の表面へ当たり、方向を変える弾。
だが、狙ったのは人より大きな馬だ。
先頭の馬が胸へ弾を受け、前脚から崩れた。
騎手は剣を持ったまま前へ投げ出される。
濃紫の旗を持つ騎兵の馬も脚を撃たれ、横へ倒れた。
旗が地面を打つ。
豪華な鎧の男が乗る馬は、一度大きく跳ねた。
胸か肩へ弾を受けている。
男は手綱を引こうとしたが、馬は前脚を折るようにして倒れた。
豪華な鎧の男が街道脇の泥へ投げ出される。
後ろの三騎は、倒れた馬へ突っ込みかけた。
二騎が街道の右へ避ける。
もう一騎は馬を止め、落馬した男へ向きを変えた。
「二班の三十人、立て!」
草と林の陰から、新しい三十人が現れる。
街道脇へ逃れた二騎の横へ、三十本の銃口が向いた。
騎兵たちは、一班の三十挺だけを見ていた。
横にも同じ数がいるとは思っていなかった。
「止まれ!」
火槍兵長が叫ぶ。
一騎は手綱を強く引いた。
もう一騎は止まらない。
林へ逃げ込もうと、さらに速度を上げる。
「二班、撃て!」
二班から三十挺が発砲した。
止まらなかった騎兵の馬が弾を受け、横へ倒れる。
騎手の脚が馬の下へ挟まった。
手綱を引いた騎兵の馬も、銃声に驚いて立ち上がる。
騎手は地面へ落ちたが、すぐ両手を上げた。
「降伏する! 撃つな!」
残る一騎は、豪華な鎧の男を守るため馬から降りていた。
槍を持ち、俺たちへ向ける。
だが、その先には三班の四十人が林から現れた。
四十挺はまだ一発も撃っていない。
「武器を捨てろ!」
火槍兵長が命じる。
槍を持つ護衛は、地面へ倒れた男を見る。
濃紫の旗を見る。
それから一班、二班、三班の百人を見た。
槍の穂先が少し下がる。
「伯を殺さないと約束しろ」
「降伏すれば命は保証する!」
俺が答える。
護衛は槍を地面へ置いた。
別の兵が走り、槍を足で遠ざける。
落馬した者の中で、動ける護衛にも武器を捨てさせた。
一人は先頭の馬から投げ出され、地面へ倒れたまま動かない。
もう一人は濃紫の旗の下で脚を押さえている。
街道脇で馬の下敷きになった男も、生きてはいるようだった。
「三班の四十人は街道を見ろ!」
火槍兵長が三班へ命じる。
「後続が来る! 正面へ構えろ!」
三班の四十人は倒れた騎兵へ近づかず、街道の先へ銃口を向ける。
一班と二班の六十人は火縄を引き上げ、再装填を始めない。
今すぐ撃つ必要がなければ、周囲に火薬を出さない方が安全だ。
俺は火槍兵長と槍を持つ支援兵四人を連れ、豪華な鎧の男へ近づいた。
離れすぎない。
百人の兵から見える位置を保つ。
男は泥の上へ横向きに倒れていた。
乗っていた馬は少し離れた場所で脚を動かしている。
起き上がれない。
俺が近づくと、男が両手を地面へついた。
肩で息をしている。
落馬した時に脇腹か脚を痛めたらしく、立ち上がる動きが不自然だった。
それでも、自分の力で膝を立てる。
兜は落馬した場所に残されている。
額から血が流れ、灰色の髪へ泥が付いていた。
何度か遠くから見た顔だ。
間違いないとは言い切れない。
だが、シュヴァルツ伯本人である可能性は高い。
「シュヴァルツ伯」
俺は呼びかけた。
男が顔を上げる。
「戦は終わりました。武器を捨ててください」
男は俺の顔を見る。
次に、背後に並ぶ火縄銃を見た。
「貴様が……」
息を整えながら口を開く。
「貴様が、あの火槍を作った小僧か」
「アレク・ハルトマンです」
「ハルトマン……」
男は、確かめるように俺の名前を繰り返した。
前回の戦から、火槍隊を率いた者の名前を調べていたのだろう。
「もう一度言います。武器を捨ててください。生きてレオンハルト殿下のもとへ来ていただきます」
「生きて、だと?」
「はい」
「俺を鎖へつなぎ、王弟の前へ引き出すつもりか」
「戦後の裁きは、レオンハルト殿下がお決めになります」
「諸侯の前で、敗者として跪けと?」
俺は答えなかった。
シュヴァルツ伯がどのような裁きを受けるのか、俺には決められない。
だが、生きて捕らえれば、これまで従っていた諸侯の前へ出される。
自分の敗北を認め、兵を退かせるよう命じなければならないかもしれない。
シュヴァルツ伯にとって、それは死ぬことより耐え難いのだろう。
男は周囲を見る。
倒れた馬。
地面に落ちた濃紫の旗。
武器を捨てた護衛。
百人の火槍兵。
逃げ道はない。
それでも、降伏するとは言わなかった。
「俺は、まだ負けていない」
「中央の軍は崩れました。左右の部隊も後退しています」
「兵が逃げただけだ」
「その兵を止める者も、もういません」
「俺がいる」
「なら、その命を残った兵を降伏させるために使ってください」
シュヴァルツ伯の口元が歪んだ。
「俺に、民のために生きろと説くのか」
「生きる理由は、ご自身で決めてください。ですが、これ以上兵を死なせない命令は出せます」
「小僧が」
男は立ち上がった。
右脚を引きずっている。
腰には剣があったが、落馬した時に鞘が曲がったのか、柄を引いても抜けなかった。
少し離れた場所には、降伏した護衛が置いた槍がある。
支援兵の一人がその槍へ近づこうとした。
「待ってください」
俺は止めた。
兵がシュヴァルツ伯のすぐそばへ入れば、人質に取られる可能性がある。
「シュヴァルツ伯。剣から手を離してください」
「その剣で、俺と戦え」
男の視線が、俺の腰へ向く。
「一騎討ちだ。貴様が勝てば、レオンハルトの前へ行ってやる」
「必要ありません」
「恐ろしいか」
「百人で囲んでいる相手と一騎討ちをする理由がありません」
「火槍がなければ何もできん小僧か」
「挑発しても受けません」
俺は剣を抜かない。
「武器を捨ててください」
「なら、俺を撃て」
「降伏すれば撃ちません」
「撃てと言っている」
「生け捕りにするよう命じられています」
シュヴァルツ伯は笑った。
勝った者の笑いではない。
逃げ道を失い、残された選択肢の中から死に方を探している顔だった。
「王弟の犬が、命令には忠実というわけか」
「私はマティアス・クレーマー様の臣下です」
「商人の犬か」
「何と呼ばれても構いません」
俺は火槍兵長へ目を向けた。
「槍を持つ二人で近づいてください。シュヴァルツ伯を拘束します」
「承知しました」
支援兵二人が盾と槍を持って前へ出る。
シュヴァルツ伯は曲がった鞘から手を離した。
両手を少し開く。
降伏するのか。
少なくとも、兵たちにはそう見えた。
槍兵が一歩近づく。
その瞬間、シュヴァルツ伯の左手が地面へ伸びた。
泥の中へ落ちていた護衛の槍を掴む。
「下がれ!」
俺が叫ぶ。
シュヴァルツ伯は槍を拾い上げると、近づいていた兵ではなく、俺へ穂先を向けた。
負傷しているとは思えない速さだった。
槍兵二人が横から止めようとする。
シュヴァルツ伯は長い柄を振り、二人の槍を外へ弾いた。
そのまま俺へ突進する。
「撃つな!」
火槍兵長が叫ぶ。
俺とシュヴァルツ伯の距離が近すぎる。
周囲から火縄銃を撃てば、弾が俺や味方の兵へ当たる。
槍兵が間へ入る余地もなかった。
俺は腰の剣を抜いた。
槍の穂先が胸へ迫る。
剣を斜めに当て、穂先を外へ流す。
完全には避けきれない。
槍の刃が鎧の表面を擦り、革と鎖を引き裂く音がした。
胸へ衝撃が走る。
だが、刃は体まで届いていない。
マティアスから贈られた鎧が、穂先を横へ滑らせた。
俺は後ろへ下がる。
シュヴァルツ伯は槍を引き、すぐ次の突きを放った。
落馬で右脚を痛めている。
それでも、上半身と左脚だけで槍を操っている。
穂先が喉へ向かう。
俺は体を右へずらした。
刃が肩の横を通り過ぎる。
剣で柄を叩く。
硬い木の感触が手首へ返ってきた。
「下がってください、アレク様!」
火槍兵長の声がする。
下がれば、兵がシュヴァルツ伯を囲める。
だが、背後には倒れた馬がいる。
横へ動こうとした足が、泥へ沈んだ。
シュヴァルツ伯はそれを見逃さない。
槍を低く構え、俺の脚を払う。
俺は剣を下へ向け、柄を受けた。
衝撃で体が横へ流れる。
倒れた馬の鞍へ肩が当たった。
シュヴァルツ伯は、馬と自分の槍で俺の動く方向を狭めている。
ただ怒りに任せて突いているわけではない。
何度も戦場を経験した者の動きだった。
「その程度か!」
槍の穂先が正面へ戻る。
俺が剣で外へ流そうとすれば、途中で止めて横へ薙ぐ。
剣を持つ右手を狙っていた。
俺は手首を引く。
穂先が手袋の表面をかすめた。
革が裂ける。
皮膚までは届いていない。
身なりを気にしなさすぎると言って、マティアスが鎧と一緒に用意させた丈夫な手袋だ。
それがなければ、右手から血が出ていたかもしれない。
「伯を囲め!」
火槍兵長が兵を動かす。
だが、俺とシュヴァルツ伯が近く、周囲には倒れた馬と護衛がいる。
長い槍を持つ兵が無理に踏み込めば、俺の動きを塞ぐ。
「来るな!」
俺は叫んだ。
「ですが!」
「後続を見てください!」
街道の先から、別の馬蹄と敗走兵の声が近づいている。
ここで百人全員が俺とシュヴァルツ伯だけを見れば、後続に突入される。
「三班の四十人、街道を守れ!」
火槍兵長が振り返り、命じた。
四十挺は東へ向けたまま残る。
一班と二班の兵の一部が、槍や盾を持って俺たちを囲む。
だが、すぐには手を出せない。
シュヴァルツ伯の槍が、再び俺の胸を狙う。
俺は剣で穂先を外へ滑らせた。
今度は剣を戻さず、槍の柄へ押し付けたまま前へ出ようとする。
槍の間合いへ入れば、長さを使わせずに済む。
シュヴァルツ伯は柄を引き、石突きを俺の顔へ向けた。
俺は首を傾ける。
木の端が頬をかすめた。
その間に、槍の穂先が再び俺との距離を作る。
前へ入れない。
剣と槍なら、槍の方が長い。
正面から踏み込めば、剣が届く前に突かれる。
シュヴァルツ伯は負傷しているが、その場から大きく動く必要はない。
槍の長さだけで、俺を近づけさせなければいい。
俺は倒れた馬を見る。
馬の体が、街道の半分を塞いでいる。
シュヴァルツ伯は馬の向こう側に立ち、俺を道の端へ押している。
だが、馬は俺の邪魔になるだけではない。
長い槍を横へ振る場所も狭くしている。
俺は馬の首側へ一歩動いた。
シュヴァルツ伯が突く。
穂先を剣の腹で受け流し、馬の鞍へ押し付ける。
槍の柄が馬の体と俺の剣の間へ挟まった。
シュヴァルツ伯が引く。
すぐには抜けない。
俺は前へ出た。
剣が届く距離まで、一気に踏み込む。
シュヴァルツ伯は槍から片手を離し、俺の顔へ拳を振るった。
避けきれない。
拳が頬へ当たり、視界が揺れる。
それでも、後ろへ下がらなかった。
右手の剣を短く返し、シュヴァルツ伯の左の前腕を切る。
深くはない。
槍を持つ力を失わせるための傷だ。
シュヴァルツ伯の手が開く。
槍が馬の上へ落ちた。
俺は剣の切っ先を男の胸へ向ける。
「終わりです」
息を整えながら言う。
「もう武器を捨ててください」
シュヴァルツ伯は左腕を押さえた。
右脚。
左腕。
落馬した時の傷。
それでも、目に降伏の色はなかった。
「小僧が……」
「これ以上続ければ死にます」
「貴様に、俺が殺せるか」
「殺したくありません」
「それが弱さだ」
シュヴァルツ伯の右手が、腰の後ろへ動いた。
「手を動かさないでください」
止めるより早く、短剣が抜かれた。
男は体ごと俺へぶつかってくる。
槍のように距離を取る戦いではない。
短剣を低く持ち、俺の鎧の下、脇腹の隙間を狙っている。
俺は剣を下げ、短剣を外へ弾いた。
金属同士がぶつかる。
短剣が地面へ落ちる。
それでもシュヴァルツ伯は止まらなかった。
俺の剣を持つ腕へ掴みかかる。
体重を掛け、泥の上へ押し倒そうとする。
右脚を負傷していても、体格は俺より大きい。
剣を振る余裕がない。
俺は左腕で男の肩を押し返す。
シュヴァルツ伯の右手が、俺の喉へ伸びた。
指が首当ての隙間へ掛かる。
このまま手加減を続ければ、俺が倒される。
周囲の兵が飛び込めば、シュヴァルツ伯は落とした短剣を拾うか、別の兵の武器を奪おうとする。
生け捕りという命令を守るために、味方を死なせるわけにはいかない。
俺は剣を一度引いた。
男の右脇、鎧の板が重ならない場所が見える。
そこへ切っ先を向ける。
「やめてください!」
最後に叫んだ。
シュヴァルツ伯の手は、俺の喉から離れなかった。
俺は剣を突き入れた。
硬いものへ当たり、その隙間を抜ける感触が手へ伝わる。
シュヴァルツ伯の体から力が抜けた。
首当てを掴んでいた指が開く。
男は俺の肩へもたれかかり、それから泥の上へ膝をついた。
「こんな……」
息が漏れる。
「若造に……」
それ以上の言葉は続かなかった。
俺が剣を引く。
シュヴァルツ伯は横へ倒れた。
豪華な鎧が泥へ沈む。
男の目は開いている。
だが、もう俺を見ていなかった。
周囲の音が、一瞬遠くなった。
背後の戦場。
街道の先から来る馬蹄。
兵たちの声。
すべてが聞こえているはずなのに、自分の呼吸だけが大きく感じられる。
剣から血が落ち、泥の上へ黒い跡を作った。
「アレク様!」
火槍兵長の声で、俺は顔を上げた。
「後続が来ます!」
戦は終わっていない。
俺は剣を下げ、街道の先を見る。
「三班の四十人は、そのまま構えろ!」
自分の声が少しかすれていた。
「一班と二班から十人ずつ、捕虜と倒れた者を確認! 残りは後続へ向けて並べ!」
「はい!」
兵たちが動く。
俺は倒れたシュヴァルツ伯から一歩離れた。
「本人確認をします」
火槍兵長へ告げる。
「承知しました」
降伏した護衛を連れてくる。
先ほど槍を捨てた男は、倒れた人物を見ると、目を閉じた。
「この方は、シュヴァルツ伯ですか」
俺が尋ねる。
「……そうだ」
「声を上げて答えてください」
「シュヴァルツ伯ご本人だ」
別の護衛にも確認する。
同じ答えだった。
倒れた男の鎧には、シュヴァルツ伯家の紋章がある。
指には印章を刻んだ指輪。
腰の袋からは封蝋と命令書が見つかった。
地面に落ちた濃紫の本陣旗も、護衛が本人のものだと認める。
顔。
鎧。
印章。
旗。
命令書。
側近の証言。
すべてが、倒れた人物をシュヴァルツ伯だと示していた。
「遺体は傷つけないでください」
俺は命じた。
「荷車を用意し、レオンハルト殿下の本陣へ運びます」
「首を確認の証にしなくてよろしいのですか」
支援兵の一人が尋ねる。
「顔と印章、護衛の証言があります。遺体ごと運びます」
「承知しました」
シュヴァルツ伯を討ち取った証として、首だけを持ち帰る必要はない。
戦場で死んだ者の扱いまで、勝った側が決められる。
それなら、少なくとも人の形のまま運びたかった。
「使者!」
命令書を届けた騎兵が近くへ来る。
「レオンハルト殿下へ報告してください」
男は俺の前で姿勢を正した。
「シュヴァルツ伯を確認。降伏を求めましたが、武器を取って抵抗しました」
一度息を吸う。
「生け捕りにはできませんでした。アレク・ハルトマンが討ち取りました」
「承知しました」
使者は馬へ乗り、林へ向かう。
同じ道を百人が通ったため、木々の間には進みやすい線ができている。
「マティアス様にも、降伏を求めたことを伝えてください」
「必ず」
使者が林へ入る。
その直後、街道の先から騎兵が姿を現した。
十騎ほど。
その後ろには、武器を持つ歩兵もいる。
先頭の騎兵は、道を塞ぐ火槍隊を見て速度を落とした。
次に、地面へ落ちた濃紫の旗を見る。
倒れたシュヴァルツ伯を見る。
「火蓋開け!」
三班の四十人が火蓋を開く。
「構え!」
四十挺が騎兵へ向く。
一班と二班の兵も、再装填していない火縄銃を構える。
撃てなくても、敵からは分からない。
正面と側面に百人近い火槍兵がいるように見える。
「止まれ!」
俺は街道の中央へ出すぎない位置で叫んだ。
「シュヴァルツ伯は討ち死にしました! 武器を捨てれば、これ以上撃ちません!」
敵騎兵が互いの顔を見る。
一人が濃紫の旗の方へ進もうとした。
三班の四十人が銃口を追う。
「止まれ!」
火槍兵長が叫ぶ。
騎兵は馬を止めた。
「伯は……」
男の声が震えている。
「本当に、シュヴァルツ伯なのか」
「本人の印章と命令書があります。護衛も確認しました」
降伏した護衛が前へ出る。
「伯は討たれた」
短く言った。
「もう終わりだ。武器を捨てろ」
敵騎兵たちは、もう一度互いを見る。
先頭の男が剣を地面へ落とした。
後ろの騎兵も槍を横へ投げる。
歩兵たちからも、槍や盾が落ちる音が続いた。
「馬から降り、武器から離れてください」
俺が命じる。
敵兵たちは従った。
一部の歩兵は、街道の左右へ逃げていく。
追わない。
林へ入った数人を捕らえるために隊列を崩せば、新しい敵が来た時に対応できない。
「降伏した者を街道左へ集めろ!」
火槍兵長が指示する。
「負傷者は敵味方を分けずに見る! 武器は一か所へ積め!」
百人の兵が動き始める。
勝利を叫ぶ者はいなかった。
まだ街道の先から、敗走兵が次々に来る可能性がある。
俺は血の付いた剣を布で拭い、鞘へ戻した。
手が少し震えている。
恐怖なのか、疲れなのか、自分でも分からない。
剣を鞘へ入れようとして、一度入口を外した。
二度目で収まる。
胸の鎧には、槍がかすめた跡が残っている。
右手の手袋も裂けていた。
マティアスから身なりを気にしなさすぎると言われ、贈られた鎧と手袋。
どちらも、俺の命を守った。
エリーゼからもらった手袋を戦場で使わなくてよかった。
あれは、直してもらうために持ち帰るものだ。
ここで死ぬわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
シュヴァルツ伯死亡の報告が正面戦場へ届いてから、敵軍の降伏は急速に広がった。
濃紫の本陣旗が戻らない。
シュヴァルツ伯の騎兵も戻らない。
逃げてきた護衛が、古い街道で火槍隊に止められたと話す。
やがて、シュヴァルツ伯本人が討たれたという報告が伝わった。
正面でまだ抵抗していた部隊も、次々に旗を下ろした。
一部の諸侯は自分の兵をまとめ、武器を置いて降伏の使者を出した。
別の諸侯は領地へ向かって撤退した。
レオンハルト軍は、逃げるすべての敵を追わなかった。
追撃しすぎれば部隊が散らばる。
降伏する者と逃げる者を見分けられなくなり、必要のない戦闘が増える。
まず中央の戦場を確保し、敵の武器を集め、負傷者を助ける。
その命令が各部隊へ届いた。
俺たちは古い街道を守りながら、林を通じて届く報告を待った。
シュヴァルツ伯の遺体を載せる荷車も到着した。
白い布を掛け、濃紫の本陣旗と印章、命令書を別の箱へ入れる。
敵の護衛二人を証人として同行させる。
遺体はレオンハルトの本陣へ運ばれることになった。
「アレク様」
ギルベルトが俺へ近づく。
「戦は終わりました。ここからは名前で呼びます、ギルベルト」
「……承知しました」
ギルベルトは街道の先へ目を向けた。
「旗が四つ見えます」
再び敵かと思い、俺は東を見る。
騎兵と歩兵が少数ずつ近づいている。
大軍ではない。
先頭には、見覚えのある旗があった。
高まりから見た、四人の若い領主の旗だ。
「ヴィクトルたちです」
俺は言った。
「構えさせますか」
「武器を持っているなら、警戒だけしてください。こちらから撃ってはいけません」
三班の四十人は装填済みの火縄銃を下ろさずに待つ。
近づいてきた四つの集団は、古い街道の少し手前で止まった。
先頭の四人が、少数の護衛だけを連れて進んでくる。
俺は初めて、彼らの顔を見た。
四人とも若い。
マティアスから年齢を聞いていなければ、領主本人ではなく、その息子や小姓だと思ったかもしれない。
先頭にいるのは、最も年上に見える男だった。
泥と煤で汚れた鎧を着け、兜を脇へ抱えている。
髪は短く、表情は硬い。
右の肩当てには矢が当たった跡があった。
ヴィクトル・フォン・ドルンハイム。
俺の火槍隊が父親を討った若い領主だ。
その少し後ろに、細身で周囲をよく見ている男がいる。
カスパル・フォン・ファルケナウ。
四人の中で、軍議や旗の動きを商品注文書へ変えて送ってきた者。
隣には、他の三人より鎧が軽く、腰へ帳面の入る革袋を下げた男がいた。
ロベルト・フォン・リンデンフェルス。
病床の父親に代わり領地を運営し、敵の荷車を古い街道へ動かした。
最後は四人の中で最も若いエイドリアン・フォン・モルゲンフェルト。
騎兵用の短い外套を着け、馬から降りても落ち着かないように街道の先と林を見ている。
シュヴァルツ伯の護衛騎兵を別方向へ誘導した者だ。
四人は俺たちの前で止まった。
すぐに膝をつくことはしない。
敵軍の領主として戦場へ来て、マティアスとの約束に従って動いただけだ。
ヴィクトルが俺を見る。
その視線が、俺の顔から腰の剣へ移った。
鞘と柄には、拭いきれなかった血が残っている。
「シュヴァルツ伯は」
ヴィクトルが尋ねた。
「死亡しました」
「火槍で?」
「いいえ。降伏を求めましたが、槍を取って襲いかかりました。私が剣で討ちました」
ヴィクトルは、シュヴァルツ伯の遺体を載せた荷車を見る。
白い布の下に人の形がある。
ロベルトがわずかに息を吐いた。
カスパルは表情を変えない。
エイドリアンは一度目を閉じた。
「我々は、マティアス・クレーマー殿との約束を果たしました」
カスパルが言った。
「シュヴァルツ伯の本陣、攻撃の時刻、退路を知らせました。兵糧と護衛の動きも、命じられたとおり変えました」
「確認しています」
「これからレオンハルト殿下の本陣へ向かい、正式に服従を申し出ます」
「ご家族と領地は?」
俺が尋ねる。
「今のところ無事です」
ロベルトが答えた。
「我々が公然と旗を変えなかったため、領地へ兵は向けられていません。しかし、シュヴァルツ伯の死が広まれば、残った家臣が何をするか分かりません」
「レオンハルト殿下へ、領地の保護も頼むのですね」
「そのために来ました」
四人がしたことは、シュヴァルツ伯側から見れば裏切りだ。
事情を知らない家臣や親族が、四人を許さない可能性もある。
戦が終わっても、領地へ戻るまで安全とは限らない。
「一緒に本陣へ向かいます」
俺が言うと、ヴィクトルが初めて俺の目を正面から見た。
「その前に、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「あなたが、アレク・ハルトマン殿ですか」
「はい」
「以前の戦で、新しい火槍を率いていた」
「私です」
「父を討った方ですね」
周囲の空気が固くなった。
ギルベルトが一歩だけ俺の近くへ寄る。
ヴィクトルの護衛も、主君の顔を見ている。
ヴィクトルは剣へ手を掛けていない。
だが、声から感情が消えているわけでもなかった。
父親を討った人間を、初めて目の前で見ている。
俺は否定しなかった。
「はい」
「命令しただけだと、言い訳はしないのですか」
「撃つよう命じたのは私です」
「父が突撃を命じなければ、撃たなかったと?」
「その可能性はあります。ですが、あの場で敵兵が近づけば、私は同じ命令を出したと思います」
許しを得るために嘘をつくことはできない。
あの時、俺は自分の兵を守るために後から撃った五挺を撃たせた。
敵指揮官を狙うよう命じたわけではない。
それでも、発砲を決めた責任は俺にある。
「謝るつもりは?」
ヴィクトルが尋ねる。
「あなたが父親を失ったことについて、何も感じていないわけではありません」
俺は言葉を選ぶ。
「ですが、戦場で自分の兵を守ったことを、間違いだったとは言えません。謝れば許してもらえるとも思っていません」
ヴィクトルは俺を見続ける。
長く感じたが、実際には短い時間だったのかもしれない。
「そうですか」
それだけ答える。
「その話は、ここですることではありません」
ヴィクトルはシュヴァルツ伯の荷車を見る。
「今はレオンハルト殿下のもとへ参ります。我々の領地と兵を、これ以上戦へ巻き込ませないために」
「分かりました」
許されたわけではない。
親しくなったわけでもない。
同じ側へ移ると決めただけだ。
それで十分だった。
今すぐ友情を結ぶ方が不自然だ。
「アレク様」
林の方から声が聞こえた。
数人の護衛を伴い、マティアスが歩いてくる。
戦場から林を抜けてきたらしく、外套と靴に泥が付いている。
こちらへ着くと、まず四人を見る。
「全員、生きているな」
「約束どおり動きました」
カスパルが答えた。
「見ていた」
「領地の保護を」
「レオンハルト殿下へ直接申し上げろ。俺も口を添える」
四人は頷いた。
マティアスは次に、白い布を掛けた荷車を見る。
それから俺の胸の鎧に残る槍の跡と、裂けた手袋へ目を移した。
「生け捕りではなかったな」
「はい」
「何があった」
「降伏を求めました。ですが、シュヴァルツ伯は一騎討ちを求め、私が拒否すると槍を取って襲いかかりました」
「一騎討ちを受けたのか」
「受けていません」
「なら、なぜお前の鎧に槍の跡がある」
「降伏するように見せかけて、急に襲いかかってきたからです」
マティアスは俺の顔を見る。
「それで剣を抜いた」
「生け捕りにしようとしました。槍を手放させ、もう一度降伏を求めました」
「それでも従わなかった」
「短剣を抜きました。このまま手加減すれば、私か周囲の兵が死ぬと判断しました」
「分かった」
責める声ではなかった。
「捕らえた護衛と印章、命令書は?」
「揃っています。本人確認もしました」
「遺体は」
「荷車で本陣へ運びます」
「なら、それでいい」
マティアスは俺の裂けた手袋を指した。
「贈った鎧と手袋を、一度の戦で壊すつもりか」
「壊したのは私ではありません」
「敵に壊される場所まで行ったのはお前だ」
「一騎討ちは断りました」
「そこは褒めてやる」
マティアスは周囲を見る。
「戦は終わった。だが、まだ勝利は残っていない」
「降伏した兵の管理ですか」
「それだけではない。負傷者を助ける。敵の武器を集める。逃げた兵が村を襲わないよう道を押さえる。兵糧を配る。遺体を確認する。四人の領地へ保護の使者を送る」
勝った軍は、敵の荷と土地を奪えると思い、規律を失いやすい。
追撃へ出た騎兵も、戻る時には部隊が散らばっている。
勝利を喜んで酒を飲み、見張りを忘れる者も出る。
「なら、次は生きて帰る仕事をしろ」
マティアスが言った。
「勝った軍ほど、帰り道で崩れる」
「はい」
俺はもう一度、古い街道を見る。
倒れた馬。
地面に置かれた敵の武器。
降伏した兵。
白い布を掛けられたシュヴァルツ伯。
正面戦場からは、火縄銃ではない音が聞こえている。
勝利を知った兵たちの声だ。
三百挺の火縄銃が、敵中央へ千二百発を撃ち込んだ。
槍兵と弓兵が火槍隊を守った。
レオンハルトの騎兵が崩れた敵の横腹へ突入した。
ヴィクトル、カスパル、ロベルト、エイドリアンが敵陣の中から情報を送り、シュヴァルツ伯の護衛と退路を乱した。
マティアスが、敵が逃げる道を予測した。
そして最後に、俺がシュヴァルツ伯を討った。
どれか一つだけで得た勝利ではない。
俺一人で戦の流れを作ったわけでもない。
多くの者が、自分の役割を果たした結果だ。
それでも、俺の剣にはシュヴァルツ伯の血が残っている。
勝利を喜ぶ声を聞いても、すぐ同じ声を上げることはできなかった。
「アレク」
マティアスが呼ぶ。
「本陣へ戻るぞ」
「はい」
俺は白い布を掛けた荷車の横へ立つ。
四人の若い領主も、それぞれの馬へ乗る準備を始めた。
ヴィクトルは、もう俺を見ていない。
だが、先ほどの問いはこれからも二人の間に残るだろう。
父親を討った者と、討たれた者の息子。
その関係のまま、同じ主君のもとで働く日が来るかもしれない。
それがどのような未来につながるのか、今の俺には分からない。
分かっているのは、シュヴァルツ伯を中心として集まった軍が敗れ、本人も死んだということだけだ。
シュヴァルツ伯との戦は終わった。
だが、勝利を残す仕事は、ここから始まる。
第二十一話を読んでいただき、ありがとうございました。
長く続いたシュヴァルツ伯との戦いは、アレク自身の剣によって決着しました。しかし、この勝利は火縄銃だけで得たものではありません。マティアスの策、四人の若き領主の決断、そして多くの兵の働きが重なった結果です。
戦いは終わりましたが、降伏する諸侯への対応や領地の安定、四人とアレクの関係など、勝利を未来へ残すための仕事が始まります。
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