第八話 ヴァイスブルクの戦い(上)
ついにヴァイスブルクへ姿を現した、三千のベルン軍。
圧倒的な兵力差を前に、アレクたちは城に籠もり敵を迎え撃つ。
しかし、戦場で考えているのは味方だけではない。
策を読み、裏をかき、弱点を探す敵将フリードリヒ。
本当の戦とは、互いの命と知恵を賭けた読み合いなのだと、アレクは少しずつ思い知っていく。
夜が明ける少し前から、城壁の上は騒がしかった。
ガチャ……ガチャ……。
兵士たちが歩くたびに、鎖帷子と胸当てが擦れ合う。
ゴトッ。
ゴトッ。
弓兵たちは矢束を運び、壁際へ次々と積み上げていた。
「もっと西へ持っていけ!」
「火槍兵! 火薬を濡らすな!」
「石を上げろ! 西壁に集中させろ!」
怒鳴り声が飛び交う。
俺も眠い目を擦りながら、矢束を抱えて城壁を歩いていた。
「重い……」
「喋ってないで運べ」
前を歩くトーマスが言った。
「お前の方が少ないだろ」
「俺は細いんだよ」
「俺も十五歳なんだけど」
「知らないよ」
ゴトッ。
矢束を壁際へ置く。
「次!」
「まだあるの?」
「ある!」
「……戦争って、準備してる時間の方が長くない?」
トーマスが振り返った。
「知らないよ。俺も初めてなんだから」
「そうだった」
そんな会話をしていた時だった。
カァン――。
鐘が一度鳴った。
俺とトーマスが同時に西を見る。
カァン――。
二度目。
その瞬間、城壁の空気が変わった。
「敵だ!」
見張り台から声が飛ぶ。
「西街道! 敵軍!」
俺は矢束を置き、西壁の縁へ走った。
「アレク!」
「見てくる!」
城壁から西を見る。
最初に見えたのは旗だった。
一つ、二つ、十。
その後ろから、さらに何本もの旗が現れる。
そして次に聞こえてきたのは音だった。
ザッ……。
ザッ……。
ザッ……。
まだ遠い。
それなのに聞こえる。
数百どころではない。
数千人分の足音。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――。
無数の軍靴が、ほとんど同じ間隔で街道と平原を踏み締めている。
そこへ金属音が重なった。
ガチャ。
ガチャガチャ。
ガチャ……。
鎖帷子。
胸甲。
剣。
槍。
盾。
何千という金属が、人間の歩みに合わせて擦れ合っている。
さらに。
ドドッ。
ドドドッ。
騎兵の馬蹄が鳴る。
ギィ……。
ギィ……。
荷車の車輪が軋む。
遠くから聞けば、それら全てが混ざり合い、一つの低い地鳴りのようになっていた。
ドドドドドド……。
「……地面が」
トーマスが呟いた。
震えている。
ほんの僅かだが、確かに足の裏へ伝わってくる。
「三千……」
昨日まではただの数字だった。
三千。
聞くだけなら、それだけだ。
だが実際に目の前で見ると、まるで意味が違う。
人間が地平を埋めている。
「多すぎるだろ……」
誰かが言った。
俺も同じことを思った。
◇ ◇ ◇
ベルン軍は、そのまま城へ突っ込んではこなかった。
西門からおよそ一キロ。
街道を中心として軍勢が停止する。
ブオォォォ――。
角笛が鳴った。
ザッ!
先頭の兵が止まり、その後ろの兵も次々と足を止めていく。
もちろん、三千人が完全に同時に止まるわけではない。
前の兵にぶつかりそうになって慌てる者もいれば、荷車を避けて横へずれる兵もいる。
馬を抑える騎兵。
怒鳴る隊長。
「間隔を空けろ!」
「第三隊、左へ!」
「荷駄隊は後方!」
遠いため言葉までは聞き取れない。
それでも、巨大な軍勢がゆっくり形を変えていくのは分かった。
「……三つに分かれる」
俺は呟いた。
中央、北、南。
中央が最も多い。
西街道を塞ぐように、およそ千二百。
その北側では、丘陵へ向かうように七百ほどが展開している。
南側には、川を警戒するように六百ほど。
残りはさらに後方に置かれていた。
荷車。
馬。
予備兵。
そして騎兵。
全部を最前線には出していない。
「アレク」
後ろから声を掛けられ、振り返る。
「殿下」
アルベルトだった。
その隣にはオットー男爵とゲオルク、護衛数名もいる。
「何を見ていた?」
「敵の配置です」
「どう見える?」
「中央が厚いです」
「そうだな」
「西門を攻めるつもりでしょうか」
「そう見える」
「……そう見える?」
アルベルトが城壁の縁へ立つ。
「敵が見せたいものと、敵が本当にしたいことは同じとは限らん」
「……」
なるほど。
俺はもう一度敵陣を見る。
中央千二百。
確かに多い。
でも。
「北と南にも兵を置いています」
「なぜだと思う?」
「こちらが城から出るのを防ぐため?」
「それもある」
「包囲?」
「それもある」
「他には?」
「自分で考えろ」
「……またですか」
「生きるために考えるのだろう?」
第七話で言われた言葉だった。
「覚えていたのですか」
「自分で言ったことくらい覚えている」
俺は敵陣と周囲の地形を見比べた。
北には丘陵。
南には川。
西には街道。
「北は丘があるので、大軍は動きにくい」
「ああ」
「南には川がある」
「ああ」
「だから西が一番攻めやすい」
「そうだ」
「でも、西に全部集めたら、こちらは敵の攻撃方向が分かる」
「そうだな」
「だから北と南にも兵を置いて、こちらの守備兵を分散させる?」
アルベルトが少し笑った。
「悪くない」
敵は三千。
こちらは千二百。
ただでさえ少ない。
そのうえ北にも敵、南にも敵がいるように見せられれば、西だけへ兵を集中できなくなる。
「戦う前から兵を動かされている……」
「そういうことだ」
戦は、剣をぶつけた瞬間から始まるわけではない。
どこに立つか。
どこを見せるか。
それだけで相手を動かすことができる。
戦国時代でも同じだった。
街道を押さえる。
高所を取る。
退路へ兵を回す。
敵の援軍が来る方向へ別働隊を置く。
布陣とは、ただ兵を並べる作業ではない。
相手へ問いを突きつける行為でもある。
――ここを攻めるぞ。
――本当に?
――なら、そちらを守れ。
――その間に別の場所を狙う。
互いにそれを繰り返していく。
「面倒ですね」
「何がだ」
「敵も考えている」
アルベルトが笑った。
「当たり前だ」
◇ ◇ ◇
敵陣中央に、白馬へ跨がった男が現れた。
濃紺の外套をまとい、その周囲には騎兵が十騎ほど付き従っている。
「あれは?」
「フリードリヒ・ベルン」
アルベルトが答えた。
「伯爵本人ですか」
「ああ」
俺は目を凝らす。
遠いため顔まではよく見えない。
ただ、堂々とした雰囲気だけは伝わってきた。
昨日負傷したコンラートは見当たらない。
フリードリヒが馬を進め、城壁から矢が届かない距離で止まる。
「アルベルト・ヴァレンシュタイン!」
大声が平原へ響いた。
「いるのであろう!」
兵士たちがざわつく。
アルベルトが前へ出た。
「殿下」
護衛が止めようとする。
「届かん」
「しかし」
「奴もそれを知っている」
アルベルトが城壁から身を乗り出した。
「久しいな、フリードリヒ!」
「相変わらず足だけは速いな!」
「お前が遅いだけだ!」
何だ、この会話。
「……仲が良いのですか?」
「黙っていろ」
「はい」
再びフリードリヒの声が響く。
「ヴァイスブルクを渡せ!」
「断る!」
「三千いるぞ!」
「見れば分かる!」
「貴様の兵は千ほど! 勝てると思うか!」
「試してみろ!」
城壁の兵士たちから笑いが起きた。
その笑いに混じって、ガチャ、ガチャ……と武器を握り直す音が聞こえる。
皆、怖いのだ。
俺も怖い。
だが、大公本人が敵の前で笑っている。
それだけで兵士たちの空気が少し変わる。
なるほど。
これも戦なのか。
「明日の日没まで待つ!」
フリードリヒが叫んだ。
「降伏すれば、城兵と民の命は保証する!」
「必要ない!」
「後悔するぞ!」
「お前がな!」
フリードリヒが馬首を返す。
ドドッ。
騎兵たちもそれに続いた。
アルベルトは黙ってその姿を見送った。
先ほどまでの笑顔は消えている。
「殿下?」
「軍議を開く」
声が低い。
「アレク」
「はい」
「お前も来い」
「やはりですか」
「来い」
「……承知しました」
◇ ◇ ◇
軍議室の中央には、ヴァイスブルク周辺の地図が広げられていた。
偵察兵からの情報が次々と集まり、そのたびに駒が置かれていく。
「敵中央、千二百!」
駒が置かれる。
「北、約七百!」
さらに駒。
「南、六百!」
「騎兵約二百五十! 中央後方!」
「荷駄隊は西街道沿い!」
そして最後に。
「攻城兵器を確認! 破城槌二基、梯子少なくとも四十!」
「砲は?」
「四門!」
アルベルトが腕を組んだ。
「西門だな」
オットー男爵が言う。
「間違いないかと」
「理由は?」
「北は丘陵、南は川です。破城槌を運ぶなら街道が使える西しかありません」
「私もそう思う」
アルベルトが駒を見る。
「だが」
その指が北側の駒へ移る。
「こいつらが気になる」
「七百ですか」
「ああ」
「北壁を攻めるなら、多すぎるとは思いませんが」
「攻めるならな」
俺は地図を見る。
まただ。
アルベルトは正面だけを見ていない。
「アレク」
「はい」
「お前がフリードリヒなら、どうする?」
「……三千で千二百を攻めるんですよね」
「そうだ」
「俺なら、攻めません」
何人かがこちらを見る。
「なぜだ?」
「城攻めは損だからです」
俺は地図を指した。
「兵力差があるなら、囲みます」
オットー男爵が頷く。
「兵糧攻めか」
「はい」
戦国時代では、城攻めと聞けば城壁へ兵士が殺到する場面が目立つ。
だが実際には、城を力攻めするのは攻め手にも大きな犠牲を強いる。
包囲。
兵糧攻め。
水の手を断つ。
内応。
調略。
城外の支城を一つずつ落とす。
方法はいくらでもあった。
秀吉の鳥取城攻めのように、徹底した兵糧攻めで城を追い詰めた例もある。
もちろん、ここは日本ではない。
条件も違う。
だが、基本的な考え方は同じだ。
「こちらの兵糧は?」
「二十日」
アルベルトが答える。
「敵は?」
「持参分だけなら十日ほどかと」
オットー男爵が言った。
「だったら敵の方が先に尽きます」
「そうだ」
「なら包囲できない」
「いや」
アルベルトが城の周囲を指した。
「周りにある」
村。
畑。
「……現地調達」
「綺麗に言えばな」
実際には徴発か、略奪だ。
三千人。
一人一日一キロの食料と単純に考えても、一日三トン。
十日で三十トン。
しかも馬もいる。
人間より食う。
水も必要だ。
矢。
火薬。
薪。
軍隊は、人間だけでは動かない。
戦国時代でも、兵站は常に軍事行動を制限した。
大軍ほど強い。
だが、大軍ほど食う。
だから現地での徴発や購入、略奪が必要になる。
そして、その負担を受けるのは村だ。
「……ラーデン」
頭に浮かんだ。
マルセル。
教会。
俺がこの世界で最初に世話になった人たち。
「敵が周囲の村へ出たら?」
「城から出なければ止められん」
「でも出れば三千がいる」
「そうだ」
嫌な選択だった。
城を守れば村が焼かれる。
村を守ろうとすれば城兵が危険になる。
「援軍は?」
騎士の一人が尋ねた。
「二日後」
アルベルトが答える。
「本隊二千五百が到着する」
俺は顔を上げた。
「待てば勝てるのでは?」
「兵数だけならな」
「……」
待て。
敵も知っているはずだ。
「殿下」
「何だ」
「フリードリヒは援軍を知っていますか?」
「間違いなく」
「なら、敵には二日しかない」
アルベルトの口元が僅かに上がった。
「そうだ」
「さっき明日の日没まで待つと言いましたよね」
「ああ」
「本当に待ったら、殿下の本隊が近づく」
「そうなるな」
「……嘘?」
「その可能性が高い」
俺は地図を見る。
敵の配置。
中央。
北。
南。
七百。
あれは。
「今夜?」
俺が呟く。
オットー男爵がこちらを見る。
「夜襲か」
「可能性はあります」
「だが三千で夜襲は危険だ」
騎士団長が言う。
「全軍じゃないと思います」
「何人だ」
「分かりません。でも」
城。
門。
夜。
少人数。
城壁を登る?
違う。
もっと簡単な方法がある。
「中から門を開ければいい」
部屋が静かになった。
「……内通者」
オットー男爵が呟く。
アルベルトが俺を見る。
「同じ結論だ」
「警戒していたのですか?」
「当然だ」
「だったら先に言ってください」
「お前が考えるか見たかった」
「性格が悪いですね」
「知っている」
アルベルトはすぐに命令を出し始めた。
「今から城門警備を倍にする」
「はっ!」
「井戸にも兵を置け」
「井戸?」
「毒だ」
俺は黙った。
「兵糧庫、火薬庫、武器庫には各二十」
「はっ!」
「合言葉を変更。一刻ごとに変えろ」
「そこまで?」
「内通者が聞いた合言葉を二時間後まで使える状態にしておく理由があるか?」
「ありません」
「なら変える」
次々と命令が飛ぶ。
早い。
迷いがない。
いや。
きっと違う。
この人も迷っているのだろう。
だが、決める時には決める。
俺は昨日の言葉を思い出した。
――私が一人を殺すことを恐れ、判断を遅らせれば何人死ぬ?
これが大将なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
その頃。
ヴァイスブルク西方、ベルン軍本陣。
フリードリヒ・ベルン伯爵は、地面に広げられた地図を見ていた。
「城門の内応は?」
男が答える。
「予定通りです」
「何人入っている」
「十九」
「少ないな」
「門を開けるだけなら十分かと」
「開けば、な」
フリードリヒが地図を見る。
隣には左肩を布で吊ったコンラートがいた。
「伯爵様」
「何だ」
「俺も出ます」
「その肩で?」
「馬には乗れます」
「昨日、アルベルトに一本取られた男を、もう一度先陣に出せと?」
「……」
「冗談だ」
フリードリヒが笑う。
「休め」
「しかし」
「お前には明日働いてもらう」
「明日?」
「ああ」
フリードリヒの指が地図の北へ動く。
ヴァイスブルク。
北方丘陵。
シュタイン村。
さらに東。
「アルベルトの本隊は二日後」
「はい」
「なら、城を落とす必要はない」
コンラートが眉を寄せる。
「どういう意味です?」
「アルベルトは城を守る」
「当然でしょう」
「村も守りたい」
「……」
「援軍も守りたい」
フリードリヒが笑った。
「だが、奴の身体は一つだ」
「兵も千二百」
「そうだ」
指が西門へ移る。
「今夜、八百で西を叩く」
「八百?」
「内応が成功すれば、そのまま入る」
「失敗した場合は?」
「少し戦って退く」
「それだけですか?」
「それだけだ」
フリードリヒの指が北へ動く。
「奴に西を見せる」
「……北が本命?」
「まだ違う」
さらに指がシュタイン村へ移った。
「明朝、荷駄の一部と五百を北へ」
「五百」
「村を焼け」
コンラートが黙った。
「アルベルトは来る」
「なぜです?」
「来なければ村が焼ける。来れば城が薄くなる」
「どちらでもいい?」
「そういうことだ」
フリードリヒが立ち上がる。
ガチャ。
腰の剣が鳴った。
「戦はな、コンラート」
「はい」
「敵に正解を選ばせないものだ」
外では三千人の兵士たちが夜を待っていた。
◇ ◇ ◇
日が沈んだ。
ヴァイスブルク西壁では、兵士たちが暗闇の中で持ち場へついていた。
ガチャ……。
ガチャ……。
誰も大声で話さない。
遠くの敵陣には無数の火が見える。
赤い点が平原いっぱいに広がっていた。
「綺麗だな」
トーマスが言った。
「敵じゃなければね」
「祭りみたいだ」
「三千人の祭り?」
「嫌な祭りだな」
少し笑った。
でも手は震えている。
夜が深くなっていく。
一時間。
二時間。
何も起きない。
「本当に来るのかな」
「来ない方がいい」
「眠い」
「寝るなよ」
「分かってる」
その時。
カチャ。
小さな音がした。
俺は振り返る。
「……?」
城内。
階段の下に人影が二つ見えた。
「交代だ」
男の声。
門番が槍を向ける。
「合言葉」
「白狼」
沈黙。
「違う」
一瞬だった。
ギィン!
剣が閃き、門番の槍が弾かれる。
「敵だ!」
ザシュッ!
剣が門番の腹へ入った。
「鐘!」
俺は叫んだ。
「トーマス! 鐘を鳴らせ!」
「分かった!」
人影は二人ではなかった。
暗闇から次々と現れる。
五人。
十人。
十五人。
「西門へ行かせるな!」
俺は剣を抜いた。
シャッ――。
刃が鞘から抜ける。
敵が来る。
「邪魔だ!」
ギィン!
剣と剣がぶつかる。
腕が痺れた。
重い。
十五歳の身体。
力で受けるな。
流せ。
半歩ずれる。
敵の剣が横へ逸れた。
そのまま踏み込む。
ザシュッ!
「ぐっ……!」
血が飛び、男が倒れる。
見るな。
次だ。
右から剣が来る。
ガキンッ!
受ける。
さらに左からもう一人。
「っ!」
下がる。
背中が壁へ当たった。
まずい。
二対一。
考えろ。
間合い。
足。
相手の肩。
視線。
右が先に来る。
剣が振り下ろされる。
俺は身体をずらした。
ガンッ!
剣が壁を叩く。
その腕を斬る。
「ぎゃあっ!」
剣が落ちる。
もう一人が突きを放った。
身体を捻る。
ザッ。
肩が熱くなった。
「っ……!」
斬られた。
だが浅い。
そのまま前へ踏み込み、相手の懐へ入る。
剣を振る。
ザシュッ!
男が崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……」
怖い。
吐きそうだ。
その時。
カァン!
鐘が鳴った。
カァン!
カァン!
「敵襲!」
トーマスの声が響く。
「城内に敵!」
城が一気に目を覚ました。
「敵だ!」
「西門!」
「武器を持て!」
ガチャガチャガチャッ!
兵士たちが走り出す。
ザザザザッ!
そして城外。
ブオォォォォォ――!
角笛が響いた。
俺の身体が固まる。
「……来た」
次の瞬間。
「オオオオオオオオオオッ!!」
八百人の鬨の声が夜を震わせた。
ドドドドドドドド――!
敵兵が一斉に走る。
大地が鳴る。
ガチャガチャガチャガチャッ!
鎧。
盾。
槍。
梯子。
それらを抱えた兵士たちが、一斉にヴァイスブルクへ向かってくる。
「弓兵!」
「構えろ!」
城壁の上で弓兵が並ぶ。
「まだだ!」
敵が近づく。
二百メートル。
百五十。
百。
「放てぇぇぇ!」
バシュッ!
何十本もの矢が飛ぶ。
ヒュヒュヒュヒュッ――。
闇へ消える。
「ぐあっ!」
「盾! 盾を上げろ!」
敵兵が盾を掲げる。
ガンッ!
ガンガンッ!
矢が盾へ突き刺さる。
だが止まらない。
ドドドドドッ!
「第二射!」
バシュッ!
矢が飛ぶ。
敵側からも矢が返ってくる。
「伏せろ!」
ヒュッ!
ガンッ!
石壁へ矢が当たる。
「アレク!」
ゲオルクの声。
「ゲオルク様!」
「ここは任せろ!」
「でも門が!」
「もう兵を回した!」
西門を見る。
味方兵が潜入兵を押し返している。
ギィン!
ガキンッ!
怒号が飛び交う。
十九人。
少ない。
だが、あと少し気づくのが遅れていたら門が開いていた。
「殿下のところへ行け!」
「なぜです?」
「命令だ!」
「またですか!」
「早く行け!」
「はい!」
俺はトーマスと走り出した。
城壁の上を、ザッザッと兵士たちの間を抜けていく。
「石!」
「持ってこい!」
「梯子だ!」
ガンッ!
城壁へ何かが当たった。
梯子だ。
「押せ!」
「うおおおっ!」
兵士たちが長い棒で梯子を押す。
ギギギ……。
梯子が傾く。
「うわああああっ!」
敵兵ごと落ちた。
ドサッ。
見ない。
走る。
◇ ◇ ◇
西塔にはアルベルト、オットー男爵、伝令たちが集まっていた。
「南西、敵約二百!」
「中央三百!」
「北西からも接近!」
報告が次々と飛ぶ。
「殿下!」
「来たか、アレク」
「八百です!」
「見れば分かる」
「内通者も!」
「十九だ」
「もうご存じで?」
「報告が来た」
アルベルトは城外を見たまま聞く。
「どう見る?」
まただ。
こんな時でも考えさせる。
「本気で城を落としに来ているようには……見えません」
「なぜだ?」
「少ないです」
「八百が?」
「三千いるのに八百しか出していない」
俺は敵陣を見る。
梯子。
弓。
だが。
「破城槌は?」
「来ていない」
「砲も撃っていない」
「……陽動?」
「可能性はある」
アルベルトが答える。
「でも内通が成功していたら?」
「そのまま入る」
「失敗したから?」
「目的を切り替えた」
敵も考えている。
内通が成功すれば城門を奪う。
失敗しても、こちらを疲れさせる。
俺は城壁上の明かりを見る。
松明。
こちらは明るい。
敵側にも松明がある。
待て。
「殿下」
「何だ」
「松明を消せませんか?」
「理由は?」
「敵からこちらが見えています」
「こちらも敵が見えなくなる」
「でも敵は自分で松明を持っています」
アルベルトは一瞬だけ敵陣を見た。
すぐに命じる。
「オットー!」
「はっ!」
「西壁の松明を消せ!」
「全部ですか?」
「全部だ!」
「松明を消せ!」
「火を消せ!」
一つ。
二つ。
十。
城壁が少しずつ闇へ沈んでいく。
敵だけが光の中に残った。
「弓兵!」
アルベルトが叫ぶ。
「敵の火を目印にしろ!」
バシュッ!
ヒュヒュヒュッ!
「ぐあっ!」
敵からも矢が飛んでくる。
だが、狙いにくい。
こちらは暗い。
「撃ったら移動しろ!」
アルベルトが命じる。
「同じ場所に二度立つな!」
弓兵たちが走る。
ザザッ!
撃つ。
移動する。
また撃つ。
敵が混乱し始める。
「いける……」
俺が呟く。
「まだだ」
アルベルトは敵陣を見ている。
ほどなく敵側から声が上がった。
「火を消せぇ!」
松明が消え始める。
一つ。
二つ。
十。
「早い……」
「フリードリヒだ」
アルベルトが言う。
「奴も見ている」
やがて敵兵の姿も闇へ消えた。
残るのは音だけだ。
ガチャ……。
ザッ……。
ギィ……。
どこだ。
「梯子!」
誰かが叫ぶ。
「音を聞け!」
アルベルトの声が飛ぶ。
「木を引きずる音を探せ!」
全員が耳を澄ませる。
ギィ……。
ガリ……。
「南西!」
「南西へ弓!」
矢が飛ぶ。
悲鳴。
別の方向からガンッと音がする。
「梯子!」
「落とせ!」
戦いは続いた。
一時間。
二時間。
暗闇の中から敵が来る。
押し返す。
また来る。
敵もこちらの薄い場所を探している。
北西を攻めれば、こちらが兵を回す。
すると今度は中央。
中央へ回せば、次は南西。
まるで城壁を叩きながら、ひびが入っている場所を探しているようだった。
そしてアルベルトも敵の動きを見続けている。
「中央から五十を南西へ!」
「北西は?」
「三十で持たせろ!」
「敵二百です!」
「攻めるふりだ! 本命は南西!」
判断が下され、命令が飛ぶ。
兵が動く。
ザザザザッ!
俺はその横で、必死に戦場を見続けた。
やがて空が僅かに白み始める。
ブオォォォ――。
敵側から角笛が鳴った。
「退くぞ!」
ベルン兵が離れていく。
「追撃は?」
騎士が尋ねる。
「するな!」
アルベルトが即答した。
「門を開くな!」
敵はそのまま離れていく。
夜襲は終わった。
◇ ◇ ◇
朝。
味方死傷四十七。
敵は推定百二十以上。
潜入兵十九人は全滅。
また数字だった。
でも、昨夜見た一人一人の顔を思い出すと、数字だけでは済まない。
俺は西壁に座っていた。
「アレク」
トーマスが水を差し出す。
「ありがとう」
「生きてる?」
「たぶん」
「俺も」
「良かった」
水を飲む。
うまい。
それだけで十分だった。
そこへアルベルトがやって来る。
「生きているな」
「何とか」
「傷は?」
「肩を少し」
「見せろ」
「大丈夫です」
「そうか」
アルベルトは西を見る。
敵はまだいる。
「殿下」
「何だ」
「敵も考えるんですね」
「今さらか」
「知ってはいました」
でも、実際に戦うと違う。
こちらが松明を消せば、敵も消す。
こちらが兵を動かせば、敵も薄い場所を探す。
「面倒です」
「だから戦なのだ」
その時。
俺は敵陣を見て違和感を覚えた。
「……?」
「どうした」
「殿下」
「何だ」
「荷車、昨日より少なくありませんか?」
アルベルトの表情が変わった。
敵陣を見る。
確かに減っている。
「……減っているな」
アルベルトが地図を広げた。
西。
東。
南。
北。
「撤退?」
トーマスが言う。
「違う」
アルベルトが即座に否定した。
「ならどこへ?」
俺は地図を見る。
南には川。
東には城。
西ならベルン領へ戻ることになる。
残るのは北。
丘陵。
山道。
シュタイン村。
そして、アルベルト本隊が来る方向。
「北……」
アルベルトが俺を見る。
「理由は?」
「南は川。東はここ。西なら撤退です」
「そうだ」
「北なら……」
その時だった。
ザッザッザッ!
伝令が走ってくる。
「殿下!」
「報告!」
「北方より煙!」
「場所は!」
「シュタイン村方面!」
アルベルトの目が鋭くなった。
「何色だ」
「黒煙! 複数!」
「……やられた」
アルベルトが呟く。
「殿下?」
「フリードリヒの狙いだ」
地図を見る。
北。
シュタイン村。
援軍。
補給路。
「昨夜の攻撃は」
俺は言った。
「こっちへ目を向けさせるため?」
「それだけではない」
「え?」
「内応が成功すれば城を取る。失敗してもこちらを疲れさせる。その間に北へ兵を回す」
「全部……」
「一つの作戦にしている」
アルベルトが立ち上がる。
「オットー!」
「はっ!」
「城を任せる!」
「殿下は?」
「北へ出る」
「危険です!」
「だから私が行く」
「兵は?」
「騎兵百五十」
「少なすぎます!」
「多ければ城が薄くなる」
アルベルトは俺を見る。
嫌な予感がした。
「アレク」
「……はい」
「来い」
「やはり俺もですか」
「ああ」
「俺、徹夜なのですが」
「私もだ」
「肩も斬られています」
「私も昔斬られた」
「今の話です」
「馬には乗れるな?」
「ゲオルク様が勝手に判断しました」
「なら問題ない」
「問題しかありません」
アルベルトが歩き出す。
「準備しろ」
「……はい」
俺はため息をついた。
そしてもう一度地図を見る。
西には三千。
北には別働隊。
東からは援軍。
城には千ほど。
全部が動いている。
これが戦なのだ。
地図の上ではただの駒。
でも実際には、兵士たちはガチャガチャと鎧を鳴らし、ザッザッと大地を踏み、腹を空かせ、恐怖に震えながら動いている。
命令一つで死ぬこともある。
何千人もの人間が、それぞれの意思と恐怖を抱えながら動いている。
そして、その全員が未来を知らない。
俺も同じだ。
戦国時代の知識があっても、この先の答えまで書かれているわけではない。
「アレク!」
アルベルトの声が飛ぶ。
「今行きます!」
俺は剣を取り、北へ向かう大公の背中を追った。
ヴァイスブルクの戦いは、まだ始まったばかりだった。
三千のベルン軍を相手に、ヴァイスブルクは最初の夜を守り切った。
だが、敵もまた考え、こちらの策を読み、その先を狙って動いている。
勝った側だけが賢く、負けた側が愚かなわけではない。
誰も未来を知らないからこそ、互いに考え続ける。
そしてフリードリヒが次に狙ったのは、城ではなくアルベルト軍の補給路だった。
次話、アレクはアルベルトと共に、初めて城の外へ打って出る。




