第七話 生きるために考えろ
若き大公アルベルトに呼ばれ、ただの徴集兵であるアレクは軍議の席へと足を踏み入れる。
三千の敵を前に試される、十五歳の少年の知恵。
そして、アルベルトとの会話の中で、アレクはこの世界で生きるために何をすべきなのかを少しずつ見つけていく。
迫るベルン軍との戦いを前に、二人の最初の軍略が動き始める。
「来い」
そう言われたから、ついていくしかなかった。
俺の前を歩いているのは、アルヴェイン大公アルベルト・ヴァレンシュタイン。
その後ろにオットー・ヴァイス男爵。
さらにゲオルク。
そして――なぜか俺。
「……帰りたい」
小声で呟いた。
「聞こえているぞ」
前から声が飛んできた。
「え?」
アルベルトが振り返る。
「帰りたいのか?」
「……できれば」
「アレク」
ゲオルクが低い声で俺の名を呼んだ。
「何でしょうか」
「少し黙れ」
「はい」
アルベルトが笑う。
「構わん」
「殿下」
「こういう人間は嫌いではない」
「こういう、とは?」
「私を怖がっているくせに、思ったことを口にする人間だ」
「……怖がっているのが分かるのですか?」
「分からないと思ったか?」
やっぱり怖い。
「顔に出ている」
「そんなにですか」
「かなりな」
「……気をつけます」
「なぜだ?」
「え?」
「分かりやすい方が話しやすい」
「そういうものなのですか?」
「少なくとも私はな」
変な人だ。
俺が前世で持っていた織田信長の印象とは少し違う。
いや、そもそも俺が知っている信長だって、本当の信長ではない。
後世に残された史料。
研究。
小説。
ドラマ。
ゲーム。
そうしたものを通して作られた人物像だ。
信長は短気だった。
残虐だった。
革新的だった。
合理主義者だった。
そういうイメージは有名だが、実際の人物像はもっと複雑だ。
家臣に細かい指示を出した書状も残っている。
部下を褒めることもある。
寺社を保護した事例もある。
一方で、敵対者には苛烈な処置を取ることもあった。
歴史上の人物を、一つの言葉で説明すること自体が無理なのだ。
だから――。
アルベルトが信長に似ている。
それだけでは何の証拠にもならない。
「また考えているな」
「え?」
「難しい顔をしている」
「癖のようなものです」
「何を考えていた?」
「……殿下のことです」
ゲオルクがまた頭を抱えた。
「ほう」
アルベルトが止まる。
「私の何を考えていた?」
「変わったお方だな、と」
「アレク!」
今度こそゲオルクが声を上げた。
「申し訳ありません!」
「ははは!」
アルベルトが笑った。
大公が腹を抱えて笑っている。
オットー男爵まで困った顔をしている。
「面白いな、お前」
「褒めていただいているのでしょうか?」
「半分だ」
「また半分ですか……」
「何か言ったか?」
「いえ、何でもございません」
「そうか」
アルベルトは再び歩き始めた。
やっぱり分からない。
怖い。
だが、話しにくい人ではない。
少なくとも今のところは。
◇ ◇ ◇
軍議の間へ入る。
さっきまでより人が増えていた。
騎士。
文官。
伝令。
アルベルトと共に到着した者たち。
全部で二十人ほど。
中央の机には地図。
「始める」
アルベルトが言った。
全員が静かになる。
「まず状況」
オットー男爵が説明する。
「ベルン伯爵軍、およそ三千。先陣六百はヴァイスブルク西方へ進軍中。本隊は明日以降到着するものと思われます」
「正確な位置は?」
「現在、城から西へおよそ半日の距離です」
「遅いな」
「……遅い?」
思わず声が出た。
何人かが俺を見る。
しまった。
「何だ?」
アルベルトが俺を見る。
「いえ……六百人なら、もう少し速く動けるのではないかと」
「そうだ」
「では、なぜ?」
「待っている」
「本隊を、ですか?」
「違う」
アルベルトが地図を指す。
「こちらの情報だ」
「……偵察、ですか」
「そうだ」
なるほど。
「コンラートは馬鹿ではない」
「ご存じなのですか?」
「二度会った」
「どのようなお方ですか?」
「嫌いだ」
「いえ、そのような意味ではなく」
また部屋が静かになる。
ゲオルクを見る。
目を閉じている。
諦めたらしい。
アルベルトが笑う。
「勇敢だ」
「はい」
「兵からの信頼も厚い」
「はい」
「自ら先頭に立つ」
「はい」
「そして、自分より臆病な者を見下す」
「……なるほど」
「何がなるほどだ?」
「誘いやすそうだと」
今度はオットー男爵が笑った。
「殿下、この少年は昨日からこの調子です」
「気に入った」
「おやめください」
「なぜだ?」
「嫌な予感しかしませんので」
アルベルトは俺を無視して地図を見る。
「西門の兵を隠したのは?」
「この少年の案を元にしております」
オットー男爵が答える。
「百五十だけ見せております」
「少ないな」
「増やしますか?」
「いや」
アルベルトが少し考える。
「百に減らせ」
「百、ですか?」
「殿下、それでは……」
「少なく見せるのだろう?」
「はい」
「なら徹底しろ」
俺は思わずアルベルトを見る。
「何だ?」
「恐ろしくはないのですか?」
「何がだ」
「敵が本当に攻めてきた場合です」
「攻めさせるための策だろう?」
「そうですが」
「なら何を恐れる」
「失敗です」
即答した。
アルベルトが俺を見る。
「失敗すると思うか?」
「可能性はございます」
「どれほどだ」
「分かりません」
「では考えろ」
「はい?」
「何があれば失敗する」
俺は地図を見る。
試されている。
「……敵が罠に気づく」
「他には」
「コンラートが慎重になる」
「他」
「こちらの兵が命令を守れず、早く攻撃する」
「他」
「伏兵の位置を偵察に見つけられる」
「他」
「……天候」
アルベルトの目が少し動いた。
「なぜだ」
「火槍を使うのであれば、雨は困ります」
「そうだ」
「それから、敵が別方向から来る可能性」
「北か?」
「はい」
「山道だぞ」
「少人数であれば通れます」
「続けろ」
俺は地図を見る。
考える。
戦国時代の戦。
伏兵。
誘引。
追撃。
有名な例を探せば、似た形はいくつもある。
だが歴史上の「名策」は、後世から見るほど綺麗に組み立てられていたとは限らない。
例えば桶狭間。
かつては信長が今川義元を狭い場所へ誘い込み、周到な奇襲で討ち取ったという物語が広く知られていた。
だが研究が進めば、史料から読み取れる状況はもっと複雑だと分かる。
信長が最初からすべてを見通していたわけではない。
義元の位置を知るための情報。
軍勢の移動。
天候。
現場での判断。
様々な要素が重なった結果だ。
後世の人間は結果を知っている。
だから全てが計画通りだったように見える。
実際の戦場にいる人間は違う。
敵がどこにいるのか。
何人いるのか。
何を考えているのか。
味方が予定通り動くのか。
分からないことだらけだ。
なら。
「失敗しても負けないようにするべきかと」
「……」
アルベルトが俺を見る。
「どういう意味だ?」
「罠が成功する前提で考えません」
「続けろ」
「コンラートが来なかった場合は、こちらも出ない」
「当然だ」
「伏兵が見つかった場合は?」
「撤収する」
「敵が予想以上に多かった場合は?」
「城へ戻る」
「でしたら」
俺は言った。
「成功させる方法だけではなく、どの時点で策を諦めるかを先に決めておいた方がよろしいかと」
部屋が静かになった。
「撤退条件か」
オットー男爵が言う。
「はい」
「十五歳がそれを考えるか」
アルベルトが呟いた。
「変でしょうか?」
「普通の若者は、どう勝つかを先に考える」
「俺は死にたくありませんので」
「だから逃げ道を先に考える?」
「はい」
「臆病だな」
「その通りです」
「だが」
アルベルトが笑った。
「悪くない」
その言葉に、少しだけ安心した。
◇ ◇ ◇
「では決める」
アルベルトが地図に駒を置く。
「西門前に百」
駒。
「林に弓兵百」
駒。
「火槍兵四十」
駒。
「騎兵五十を城門内に待機」
駒。
「残りは城壁」
次々と配置が決まる。
「敵が三百を超えて前進した場合、誘引部隊は交戦せず撤退」
「はっ」
「敵が林へ偵察を入れた場合、伏兵は即座に撤収」
「はっ」
「コンラート本人が前へ出た場合は?」
一人の騎士が尋ねた。
「殺せ」
空気が変わった。
あまりにも簡単に言った。
「可能なら捕らえる。無理なら殺せ」
「はっ」
俺は黙ってアルベルトを見る。
先ほどまで笑っていた男と同じなのか。
「何だ、アレク」
「……いえ」
「言え」
少し迷った。
「人を殺す命令をお出しになるのは……平気なのですか?」
ゲオルクが俺の腕を掴んだ。
「もう黙れ」
「ですが」
「アレク」
アルベルトが俺を見る。
笑っていない。
「平気に見えるか?」
「……見えます」
「そうか」
少し間があった。
「なら、そう見せるのが私の仕事だ」
「……」
「三千の敵が来ている」
「はい」
「私が一人を殺すことを恐れ、判断を遅らせれば何人死ぬ?」
「分かりません」
「私にも分からん」
アルベルトが地図を見る。
「だから決める」
「……」
「間違っているかもしれない」
「殿下でも、ですか?」
「当たり前だ」
意外だった。
「私は神ではない」
その言葉に少しだけ反応した。
神。
俺をここへ送った、あの男。
「正しい答えなど分からん。だから情報を集め、考え、決める」
アルベルトが俺を見る。
「そして間違えたなら、その責任を負う」
「責任……」
「人の上に立つとはそういうことだ」
ゲオルクが黙っている。
俺も何も言えなかった。
この人。
信長に似ている。
でも。
少し違う。
俺が想像していた信長なら、こんな説明を十五歳の徴集兵にするだろうか。
分からない。
だから余計に。
分からなくなった。
◇ ◇ ◇
軍議が終わった。
「アレク」
「はい」
「残れ」
嫌な予感がする。
ゲオルクを見る。
「ゲオルク様も、ですか?」
「お前は行け」
「はっ」
「ゲオルク様」
「頑張れ」
「お待ちください」
ゲオルクは本当に出ていった。
部屋には俺とアルベルト。
そして少し離れた場所に護衛が二人。
「……何でしょうか?」
「お前、どこの出身だ」
心臓が跳ねた。
「分かりません」
「記憶喪失だったな」
「はい」
「本当に?」
「……」
まずい。
この人、何か気づいている?
「疑っておられるのですか?」
「疑うのが私の仕事だ」
「何を、でしょうか?」
「お前がベルンの間者ではないか」
「俺が、ですか?」
「敵の兵を欺き、軍議で策を語り、十五歳とは思えない知識を持つ」
「……」
「怪しいと思わない方がおかしい」
確かに。
俺でも疑う。
「違います」
「証拠は?」
「ありません」
「では信じられんな」
「……どうすればよろしいのでしょう?」
「何もしなくていい」
「え?」
「今のところ敵意はないと判断している」
「なぜです?」
「間者なら目立ちすぎだ」
「……」
「それに」
アルベルトが俺を見る。
「お前は人を殺すことを怖がっている」
「それが何か?」
「演技なら大したものだ」
「本当に怖いです」
「知っている」
「では、なぜお聞きになったのですか?」
「反応を見たかった」
「……性格がお悪いですね」
言ってから。
終わったと思った。
護衛二人の顔が固まっている。
アルベルトは数秒黙った。
「よく言われる」
「言われるのですね……」
「オットーにも言われる」
「男爵様はすごいですね」
「お前も似たようなものだ」
「俺、処刑されませんよね?」
「今のところ予定はない」
「今のところ、ですか?」
「未来のことは分からん」
怖い。
アルベルトが椅子に座る。
「もう一つ聞く」
「はい」
「お前は何になりたい」
まただ。
トーマス。
ゲオルク。
今度は大公。
「分かりません」
「騎士は?」
「特には」
「金は欲しいか」
「欲しいです」
「土地」
「頂けるのであれば」
「爵位」
「まだ、よく分かりません」
「女」
「……何のお話でしょうか?」
「欲が薄いな」
「普通だと思いますが」
「人間はもっと欲深い」
少し迷った。
「殿下は?」
「私か?」
「何をお望みなのですか?」
アルベルトが黙った。
窓の外を見る。
「静かな国」
「……」
予想していなかった。
「天下……ではなく?」
「天下?」
「あ、いえ」
「国王になりたいかという意味か?」
「そのような意味です」
「興味はない」
即答だった。
違う。
信長とは違う。
いや。
そもそも信長自身が、最初から現代人のイメージする「日本全国の統一」を明確な最終目標に掲げていたかは単純ではない。
有名な「天下布武」の天下も、ただちに日本全国と同義だったと断定できるものではない。
畿内を中心とする政治秩序。
将軍を中心とした天下。
時代や文脈によって意味は変わる。
後世の俺たちが、信長の人生の結末を知った上で「最初から天下統一を目指していた」と見ているだけかもしれない。
それでも。
「静かな国とは?」
「農民が明日の畑を心配できる国だ」
「……?」
「戦が続けば、明日の畑どころではない」
「ああ……」
「商人が一年後の商売を考えられる国」
「はい」
「子供が十年後を想像できる国」
アルベルトは淡々と言う。
「その程度でいい」
「……それは、かなり難しいのでは?」
「だから困っている」
少し笑った。
この人。
本当に分からない。
「お前は?」
「俺ですか?」
「何が欲しい」
考える。
今の俺が欲しいもの。
「家、でしょうか」
「家?」
「帰れる場所です」
ラーデン村を思い出した。
マルセル。
小さな教会。
温かい食事。
「それだけか?」
「今は」
「なら生き残れ」
「はい」
「家は死んだ人間には必要ない」
「……そうですね」
「明日も生き残れ」
「命令でしょうか?」
「助言だ」
「それでしたら努力します」
「命令なら?」
「もっと努力します」
アルベルトが笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
霧が出ていた。
「見えない……」
城壁の上。
俺は西を見ている。
トーマスが隣で震えている。
「寒い?」
「怖い」
「正直だな」
「お前は?」
「怖いよ」
「顔に出ないな」
「昨日、大公殿下には出てるって言われた」
「じゃあ俺には分からないだけか」
鐘が鳴った。
一回。
敵発見。
城壁が一気に緊張する。
「来たぞ!」
兵士が叫ぶ。
霧の向こう。
影。
一つ。
二つ。
十。
百。
やがて。
槍の穂先が見えた。
旗。
黒と黄色。
「ベルン伯爵軍……」
トーマスが呟く。
俺の手が震えた。
三十人とは違う。
六百。
人間が集団になると、別の生き物に見える。
足音。
馬。
金属。
号令。
地面そのものが鳴っているようだった。
「アレク」
「何?」
「逃げたい」
「俺も」
「逃げる?」
「逃げたらゲオルク様に殺される」
「じゃあ無理だ」
「うん」
俺たちは笑った。
笑うしかなかった。
◇ ◇ ◇
敵軍が止まった。
城から少し離れた位置。
騎兵が前へ出る。
「あれがコンラート?」
「たぶん」
遠くて顔は見えない。
だが、派手な赤い外套。
大柄。
馬上。
数騎を連れている。
「偵察だ!」
城壁から声。
敵の騎兵が左右へ散る。
西門。
林。
城壁。
見ている。
「気づくかな」
トーマスが言う。
「分からない」
「そればっかり」
「戦争ってそういうものなんだよ」
俺は敵を見る。
ここからは何もできない。
俺が案を出した。
だが実際に指揮するのは騎士たち。
兵を動かすのはアルベルト。
俺はただの兵士。
それでいい。
むしろ、それがいい。
しばらくして敵騎兵が戻る。
コンラートの周囲に集まる。
何か話している。
「どうする……」
動いた。
「来るぞ!」
敵の先頭が前進する。
百。
二百。
「何人?」
「分からない!」
城壁の兵士が叫ぶ。
「敵約二百! 西門へ前進!」
二百。
予定通り。
こちらが見せている兵は百。
勝てると思ったか。
それとも探っているだけか。
「門外部隊、前進!」
味方の兵が出る。
百人。
俺たちは城壁。
敵が近づく。
二百メートル。
百五十。
百。
「弓兵!」
まだ。
伏兵は動かない。
敵が突撃を始める。
「うわあああああ!」
声。
地面が揺れる。
味方百人が少し戦う。
そして。
「退け!」
一斉に逃げる。
「逃げた!」
敵の声がここまで聞こえた。
追ってくる。
「来た」
俺は呟く。
でも。
コンラートは?
赤い外套。
動いていない。
「……止まれ」
俺は無意識に言った。
「何?」
「来るな」
「敵だぞ?」
「違う。コンラート」
前へ出ていない。
追撃しているのは歩兵。
百五十ほど。
おかしい。
「気づいてる」
「え?」
「罠に」
その瞬間。
敵陣から角笛。
追撃していた兵が止まった。
「撤退してる!」
トーマスが叫ぶ。
「やっぱり」
失敗。
そう思った。
だが。
城内から別の角笛。
アルベルト。
「何?」
西門が開く。
騎兵。
五十。
「今から出るの!?」
俺は驚いた。
罠は失敗した。
敵は退いている。
なのにアルベルトは攻撃を命じた。
「何を考えておられるんだ……?」
騎兵が飛び出す。
退却中の敵歩兵へ突撃。
敵陣がざわつく。
コンラートが動いた。
赤い外套。
騎兵を率いて前へ。
「……まさか」
分かった。
アルベルトの狙い。
罠に気づいたコンラートは、自分が勝ったと思っている。
伏兵を見抜いた。
敵の策を破った。
その直後。
味方が追撃を受けた。
なら――。
「助けに来る」
「誰が?」
「コンラート本人」
予想通りだった。
赤い外套が前へ出る。
数十騎。
味方騎兵へ向かう。
「でも伏兵は?」
トーマスが言う。
「まだ動いてない」
「じゃあ」
「……今だ」
林から矢が飛んだ。
一斉に。
空が黒くなる。
敵騎兵へ降り注ぐ。
馬が倒れる。
人が落ちる。
悲鳴。
さらに。
轟音。
火槍。
白煙。
コンラートの周囲が崩れる。
「当たった?」
「分からない!」
煙。
叫び声。
馬。
混乱。
そして城内から声。
「全軍退却!」
「え?」
俺は耳を疑った。
まだ勝てる。
敵は混乱している。
追えば。
そう思った瞬間。
「……違う」
敵本隊。
後方の四百が動き始めている。
アルベルトは見ていた。
勝てるところまでではない。
逃げられるところまで。
「撤退!」
味方騎兵が一斉に戻る。
伏兵も林から後退。
敵は追わない。
いや。
追えない。
短い戦闘だった。
十分もなかったかもしれない。
だが。
地面には人が倒れている。
何十人も。
「……」
トーマスが黙った。
俺も何も言えなかった。
策。
成功。
たぶん成功だ。
でも。
人が死んでいる。
俺が考えたことが。
アルベルトによって修正され。
実行され。
人間を殺した。
「アレク」
「……何?」
「大丈夫?」
「分からない」
本当に分からなかった。
◇ ◇ ◇
一時間後。
報告が届いた。
敵死傷者、およそ七十。
こちらは十二。
コンラート・ヘルマン。
生存。
左肩に矢傷。
「七十……」
数字だけなら勝ちだ。
十二と七十。
交換比で考えれば圧勝。
でも十二人死傷した。
名前も知らない人間。
その中には俺と同じ徴集兵もいた。
「アレク」
ゲオルクが来た。
「はい」
「殿下がお呼びだ」
「……またですか?」
「ああ」
「なぜでしょう?」
「行けば分かる」
軍議室へ行く。
アルベルトが一人で地図を見ていた。
「来たか」
「はい」
「どうだった」
「何がでしょうか?」
「初めて自分の考えた策で、大勢の人間が死んだ気分は」
言葉に詰まった。
「……最悪です」
「そうか」
「お怒りにはならないのですか?」
「なぜだ」
「勝ったのに、そのようなことを言いますので」
「勝てば喜ばなければならんのか?」
「……分かりません」
「なら分からないままでいい」
アルベルトは地図を見る。
「敵死傷七十。こちら十二」
「はい」
「報告では数字にする」
「はい」
「作戦でも数字として扱う」
「はい」
「だが」
アルベルトの声が少し低くなった。
「お前の頭の中まで数字にするな」
俺は顔を上げた。
「……」
「七十人だ」
アルベルトは静かに言った。
「十二人だ」
「……はい」
「それを忘れた人間に、軍を率いる資格はない」
俺は何も言えなかった。
この人は。
本当に誰なんだ。
俺の知っている信長なのか。
違う。
絶対に違う。
でも。
似ている。
そして違う。
だから分からない。
「アレク」
「はい」
「明日から私の近くにいろ」
「……はい?」
「聞こえなかったか?」
「聞こえました」
「なら返事をしろ」
「……できれば遠慮したいのですが」
アルベルトが黙った。
「理由は?」
「俺は目立ちたくありません」
「もう遅い」
「まだ間に合うと思います」
「間に合わん」
「なぜでしょう?」
「私が覚えた」
「……」
最悪だ。
「それに」
アルベルトが笑った。
「お前の頭は使える」
「俺は道具でしょうか?」
「嫌か?」
「嫌です」
「なら自分で使い方を決めろ」
「え?」
「私に使われるのが嫌なら、私を使え」
意味が分からなかった。
「どのように?」
「考えろ」
「またそれですか」
「お前は考えるのが好きなのだろう?」
「好きでやっているわけではありません」
「そうか」
アルベルトはまた地図を見る。
「では、生きるために考えろ」
その言葉だけは。
妙に胸に残った。
生きるために。
俺がこの世界で最初に決めたこと。
誰かを救うためでもない。
天下を取るためでもない。
ただ。
生きるため。
「……承知しました」
「何がだ?」
「明日も考えます」
「そうしろ」
「ですが、殿下のお近くにいる件は別です」
「そこは命令だ」
「……権力の使い方が少々小さくありませんか?」
「お前、本当に面白いな」
アルベルトが笑う。
俺はため息をついた。
この時の俺はまだ。
この男の近くにいることが。
俺の人生をどれほど大きく変えるのか知らなかった。
そして。
アルベルト・ヴァレンシュタインという男が迎える最期も。
もちろん。
知るはずがなかった。
初めて自分の考えた策によって、多くの人間が傷つき、命を落とす現実を知ったアレク。
そんな彼にアルベルトが告げたのは、「生きるために考えろ」という言葉だった。
次回「ヴァイスブルクの戦い」開戦。
似ているようで、どこか違う若き大公。
その正体をまだ掴めないまま、アレクは少しずつ彼の近くへと引き寄せられていく。
そして戦いはまだ始まったばかり。
三千のベルン軍本隊が、ヴァイスブルクへと迫る。




