第七話 生きるために考えろ
若き大公アルベルトに呼ばれ、軍議へ加わることになったアレク。
三千人のベルン伯軍を前に、アルベルトは敵を誘い出す策だけでなく、失敗した時に兵を生きて帰す方法を考えさせます。
そして翌朝、ヴァイスブルクの前へ敵の先陣が姿を現します。
「来い」
アルベルトにそう命じられ、アレクは従うしかなかった。
前を歩くのはアルヴェイン大公アルベルト・ヴァレンシュタイン。その後ろにヴァイス男爵とゲオルクが続き、最後尾を、ただの徴集兵であるアレクが歩いている。
「……帰りたい」
思わず口から漏れた。
「聞こえているぞ」
アルベルトが振り返る。
「帰りたいのか?」
「できれば」
「アレク」
ゲオルクが低い声で名を呼んだ。
「何でしょうか?」
「少し黙れ」
「はい」
「構わん」
アルベルトは怒るどころか、面白そうにアレクを見た。
「こういう者は嫌いではない」
「こういう者、とは?」
「私を怖がっているくせに、思ったことを隠し切れない者だ」
「怖がっていることも分かるのですか?」
「分からないと思ったか?」
アルベルトは自分の頬を指で示した。
「顔に出ている」
「そんなにですか?」
「かなりな」
「今後は気をつけます」
「なぜだ?」
「考えていることを見抜かれるのは困ります」
「分かりやすい方が、私は話しやすい」
「そういうものですか?」
「少なくとも、私はな」
アルベルトは再び歩き始めた。
やはり変わった人物だと、アレクは思った。
常識外れの速さで先行部隊を動かし、ヴァイスブルクへ到着すると、休む前に兵糧や水、火槍、鍛冶場、商人の所在を確かめた。
その姿から、前世で知っていた織田信長の名が浮かぶ。
しかし、いくつか共通するところがあるだけで同じ人物のように見るのは危険だった。
歴史上の信長についても、アレクが知っているのは、残された史料や後世の研究、小説や映像作品を通して作られた人物像だ。短気、残虐、革新的、合理的といった一つの言葉だけで、本当に生きていた人間のすべてを説明できるはずがない。
アルベルトについては、それよりも知らない。
似ているのかもしれない。まったく違うのかもしれない。
「また考えているな」
アルベルトが足を止めた。
「分かりますか?」
「また難しい顔になっている」
「癖のようなものです」
「何を考えていた?」
「……殿下のことです」
ゲオルクが隣で額を押さえた。
「私の何を考えていた?」
「変わったお方だな、と」
「アレク!」
ゲオルクが声を上げたが、アルベルトは笑った。
「お前も変わった者だ」
「褒めていただいているのでしょうか?」
「半分ほどはな」
「先ほどゲオルク様にも同じことを言われました」
「ならば、残りの半分を考えておけ」
「それも俺が考えるのですか?」
「考えるのが得意なのだろう?」
「好きで考えているわけではありません」
アレクが答えると、アルベルトは再び笑った。
怖いことに変わりはない。
それでも、思っていたより話しにくい人物ではなかった。
◇ ◇ ◇
軍議の間には、先ほどより多くの者が集まっていた。
ヴァイスブルクを守る騎士と文官に加え、アルベルトの先行部隊を率いてきた者たちもいる。
アルベルトが机の中央へ進むと、二十人ほどいた全員が静かになった。
「始める。まず、現在の状況を」
ヴァイス男爵が地図の西側へ駒を置いた。
「ベルン伯軍はおよそ三千。先陣六百が、ヴァイスブルクの西へ進んでおります。本隊は二千前後。残りは後続と荷駄と思われます」
「先陣の正確な位置は?」
「城から半日ほどの距離です」
「遅いな」
アルベルトの言葉に、アレクは地図を見た。
六百人なら、三千人の本隊より速く進めるはずだ。それにもかかわらず、まだ城から半日も離れた場所にいる。
「何だ?」
アルベルトがアレクへ視線を向けた。
「申し訳ありません。敵の先陣が遅いというのは、何かを待っているということでしょうか?」
「何を待っていると思う?」
「本隊かと思いましたが、それなら最初から分かれて進む必要がありません」
「そうだ」
「では、こちらの情報でしょうか」
アルベルトが小さく頷いた。
「敵もヴァイスブルクの兵数や配置を知りたい。先陣の指揮官は、偵察からの報告を待ちながら進んでいる」
「コンラートは、以前伏兵に敗れております」
騎士の一人が補足した。
「同じ失敗を警戒しているのでしょう」
前日にヴァイス男爵から聞いた話と一致する。
コンラート・ヘルマン騎士団長は、勇猛で、自ら先頭へ立つ指揮官として兵から信頼されている。その一方で、二年前には退却する敵を追い、伏兵に遭った。
一度の敗北から何も学ばない人物ではないらしい。
「殿下は、コンラートをご存じなのですか?」
「二度会った」
「どのような方です?」
「嫌いだ」
「いえ、そうではなく、指揮官としてどのような方かをお聞きしたかったのですが」
軍議の間が静かになり、ゲオルクが目を閉じた。
アルベルトは気を悪くした様子もなく答えた。
「勇敢だ。兵からの信頼も厚く、自ら危険な場所へ出る」
「それでしたら、よい指揮官では?」
「自分より慎重な者を臆病者と決めつけるところがある」
「なるほど」
「何が、なるほどだ?」
「誘い出せる可能性はあると思いました」
今度はヴァイス男爵が小さく笑った。
「殿下、この少年はグリュン村でも敵が何を考えるかを先に考えました」
「気に入った」
「できれば、おやめください」
アレクが答えると、ゲオルクが横から睨んだ。
アルベルトは気にせず、ヴァイス男爵へ尋ねた。
「西門の兵を隠したそうだな」
「はい。敵の偵察には、百五十人ほどしか見えないようにしております」
「百人へ減らせ」
「百人ですか?」
「少なく見せるための策なのだろう?」
「はい」
「ならば徹底しろ」
アルベルトの決断に、アレクは思わず口を開いた。
「敵が本当に攻めてきた場合、危険ではありませんか?」
「攻めさせるために兵を隠すのだ。攻めてくること自体を恐れてどうする」
「ですが、失敗する可能性があります」
「どれほどだ?」
「分かりません」
「ならば考えろ。何が起きれば失敗する?」
試されている。
そう気づき、アレクは地図へ目を落とした。
「コンラートが誘いに乗らない」
「ほかには?」
「偵察兵が林の伏兵を見つける」
「ほか」
「味方が命令を守れず、早く攻撃を始める」
「ほか」
「予想より多くの敵兵が前進してくる」
「続けろ」
「北の山道から別働隊が来る可能性もあります。三千人すべては通れなくても、少人数なら通れるはずです」
「天候は?」
アルベルトに聞かれ、アレクは窓へ目を向けた。
「雨が降れば、火槍は使えません。雨が止んでも、火薬や火縄が湿っていれば不発になる可能性があります」
「そうだ」
成功する方法だけでは足りない。
戦の最中には、敵の位置も考えも完全には分からない。味方が命令どおり動く保証もなく、天候や伝令の遅れも結果を変える。
前世で知られた戦の名策も、後世から見れば、初めからすべてが計画されていたように思える。
しかし、結果を知らない当事者たちは、不完全な情報をもとに、その場で判断を重ねたはずだ。
「失敗しても、負けないようにする必要があります」
アレクが言うと、アルベルトの目がわずかに細くなった。
「どういう意味だ?」
「罠が成功することだけを考えません。敵が誘いに乗らなければ、こちらも城から出ない。林へ偵察兵が入ったら、伏兵を退かせる。予想より敵が多ければ、交戦せず城へ戻る」
「撤退条件を先に決めるのか」
ヴァイス男爵が尋ねた。
「はい。成功させる方法だけではなく、どの時点で策を諦めるのかを決めておいた方が、兵も迷わずに済みます」
「普通の若者なら、どう勝つかを先に考える」
アルベルトが言った。
「俺は死にたくありませんので」
「だから逃げ道から考える?」
「はい」
「臆病だな」
「否定できません」
短い沈黙の後、アルベルトが笑った。
「だが、悪くない」
アルベルトは地図の上へ駒を並べ始めた。
「では決める。西門前に姿を見せる兵は百人」
一つ目の駒が置かれる。
「街道の左右にある林へ、弓兵百人と火槍兵四十人。火槍兵は火縄と火薬を湿らせないよう、夜のうちに覆いを用意させろ」
二つの駒が林を示す場所へ置かれた。
「騎兵五十騎を城門内に待機させる。残るヴァイスブルクの兵は城壁と予備。私が連れてきた兵の一部は、敵本隊と北側の山道を警戒させる。本隊が到着するまで、先行部隊を無理に使い潰すな」
「はっ」
「敵が三百人を超えて前進した場合、門外の百人は交戦せず撤退。林へ敵の偵察兵が入った場合も、伏兵は戦わずに退け」
「敵本隊が動いた場合は?」
「合図を出す。騎兵も伏兵も、追撃せず城へ戻れ」
「火槍が使えない天候となった場合は?」
「作戦そのものを中止する」
騎士たちが次々に命令を書き留めていく。
「コンラート本人が前へ出た場合は、いかがしますか?」
「可能なら捕らえろ。難しければ討て」
アルベルトは迷わなかった。
先ほどまでアレクとの会話で笑っていた男が、人を討つ命令を淡々と下した。その変化に、アレクは戸惑った。
「何だ、アレク」
視線に気づいたアルベルトが尋ねた。
「申し訳ありません」
「言え」
アレクは少し迷ったが、尋ねずにはいられなかった。
「人を殺す命令を出すことを、平気だと思っておられるのですか?」
ゲオルクがアレクの腕を掴んだ。
「もう黙れ」
「構わん」
アルベルトは笑っていなかった。
「平気に見えたか?」
「……はい」
「ならば、そう見せるのが私の仕事だ」
「見せる?」
「三千人の敵が来ている。私がコンラート一人を討つことを恐れ、判断を遅らせれば、何人が死ぬ?」
「分かりません」
「私にも分からん」
アルベルトは地図へ視線を落とした。
「正しい答えが先に分かっているなら、誰も苦労はしない。私は神ではない。情報を集め、考え、決める。それでも間違えることはある」
「殿下でも、間違えるのですか?」
「当たり前だ」
アルベルトはアレクをまっすぐ見た。
「だから、間違えた時の責任を負う。人の上に立つとは、そういうことだ」
アレクは何も言えなかった。
誰かを討つことに迷いがないわけではない。
迷っていることを兵に見せず、そのうえで決断する。それが、兵を率いるアルベルトの役目だった。
革新的で、合理的で、常識に縛られない。その部分だけを見れば、アレクが知る信長の印象と似ている。
しかし、アルベルトは目の前にいる十五歳の徴集兵へ、自分も間違えると認めた。
アレクには、本当の信長が十五歳の少年へ同じことを話すかどうか分からない。アルベルトのことさえ、まだ何も知らない。
似ている部分を見つけるほど、違う部分も見えてくる。
だからこそ、アレクはこの男をもっと知りたいと思い始めていた。
◇ ◇ ◇
配置と合図を決め終えると、軍議へ参加していた者たちは、それぞれの持ち場へ向かうため退室していった。
「アレクは残れ」
アルベルトに呼び止められ、アレクは足を止めた。
隣にいたゲオルクを見る。
「ゲオルク様も残りますよね?」
「ゲオルクは行け」
「はっ」
「お待ちください」
「頑張れ」
ゲオルクは短く言い残し、本当に部屋を出ていった。
室内には、アルベルトとアレク、少し離れた場所に護衛二人だけが残った。
「何でしょうか?」
「お前は、どこの出身だ?」
アレクの心臓が大きく鳴った。
「分かりません」
「記憶を失っていると聞いた」
「はい」
「本当に?」
返事が遅れた。
転生したことも、前世の記憶があることも、誰にも話すつもりはない。
「俺を疑っておられるのですか?」
「疑うのが私の仕事だ」
「何を、でしょうか?」
「お前がベルン伯の間者ではないか」
「俺が?」
「出自が分からない。敵を欺く策を考え、十五歳とは思えない見方で地図を読む。そのような者が戦の直前にラーデン村へ現れた。怪しいと思わない方がおかしい」
言われてみれば、そのとおりだった。
アレクがアルベルトの立場でも疑う。
「違います」
「証拠は?」
「ありません」
「ならば、その言葉だけで信じることはできんな」
「どうすればよいのでしょう?」
「何もしなくていい」
「え?」
「現時点では、ベルン伯の間者ではないと考えている」
「なぜです?」
「間者であれば目立ちすぎだ。敵の略奪隊を退け、ヴァイス男爵の軍議で策を出せば、調べられるに決まっている」
「確かに」
「それに、お前は人を殺したことを恐れている」
「それが何か?」
「あれが演技なら、大したものだ」
「演技ではありません」
「そう見える」
「それなら、最初から疑っていないのでは?」
「お前の反応を見たかった」
アレクは思わずアルベルトを見た。
「……性格がお悪いですね」
護衛二人の表情が固まった。
アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「よく言われる」
「誰が殿下に、そのようなことを言うのですか?」
「ヴァイス男爵だ」
「男爵様は勇気がありますね」
「お前も似たようなものだ」
「俺は処罰されませんよね?」
「今のところ、そのつもりはない」
「今のところですか?」
「未来のことは、私にも分からん」
冗談なのか本気なのか判断できない。
アルベルトは椅子へ腰を下ろすと、立ったままのアレクへ次の問いを投げた。
「お前は何になりたい?」
また同じことを聞かれた。
トーマスにも、ゲオルクにも尋ねられた。今度は大公だ。
「分かりません」
「騎士は?」
「今のところは、なりたいと思っていません」
「金は欲しいか?」
「生活に困らない程度には」
「土地は?」
「頂けるのであれば嬉しいと思います」
「爵位は?」
「何をしなければならないのかも知りません」
「欲がないのか、欲しいものを知らないだけなのか」
「後者だと思います」
「正直だな」
アレクは少し迷ってから、逆に尋ねた。
「殿下は、何を望んでおられるのですか?」
「私か?」
「はい。土地や爵位をすでにお持ちの殿下は、これ以上何を望むのです?」
アルベルトはすぐには答えなかった。
窓の外では、明日の戦いへ備える兵たちが物資を運んでいる。
「静かな国だ」
「静かな国?」
「農民が、明日の畑を心配できる国」
意味を理解できず、アレクは首を傾げた。
「戦が続けば、畑を耕すべきかどうかさえ分からん。種を蒔いても、収穫前に兵が踏み荒らすかもしれない」
「そういう意味ですか」
「商人が、一年後の商売を考えられる国。子供が、十年後に何をしたいか考えられる国」
アルベルトは穏やかな声で続けた。
「その程度でいい」
「かなり難しいことではありませんか?」
「だから困っている」
アルベルトが僅かに笑った。
戦に勝ち、領地を広げることそのものを望んでいるわけではない。
戦い続けなくてもよい状態を作るために、今は戦っている。
その考えがどこまで本当なのか、アレクにはまだ分からない。それでも、アルベルトが目指しているものの一端は見えた気がした。
「お前は何が欲しい?」
もう一度問われ、アレクはラーデン村を思い浮かべた。
小さな教会。マルセルと囲んだ食卓。外で元気に働く村人たち。戦が終わったら帰ると約束した場所。
「家でしょうか」
「家?」
「帰れる場所が欲しいです」
「ラーデン村か?」
「はい。あの村へ帰れば、受け入れてくれる人がいます」
「それだけか?」
「今は、それで十分です」
「ならば生き残れ」
「はい」
「家は、死んだ者には必要ない」
「そうですね」
「明日の戦いも生き残れ」
「命令でしょうか?」
「助言だ」
「それでしたら、努力します」
「命令なら?」
「もっと努力します」
アルベルトが笑った。
その笑い方は、城門で初めて目が合った時より、少しだけ人間らしく見えた。
◇ ◇ ◇
翌朝、ヴァイスブルクの西側は深い霧に包まれていた。
城壁の上から街道を見ても、遠くの林は白く霞んでいる。
「何も見えないな」
アレクの隣で、トーマスが身体を震わせた。
「寒いのか?」
「怖い」
「正直だな」
「お前は怖くないのか?」
「怖いに決まっている」
「そうは見えない」
「アルベルト殿下には、顔に出ていると言われた」
「俺には分からないだけか」
二人が話していると、見張り台の鐘が一度鳴った。
敵発見の合図だった。
「西だ! 敵が来るぞ!」
城壁の兵士たちが一斉に動く。
霧の向こうに、ぼんやりと人影が現れた。
一つだった影が十になり、やがて数え切れないほどに増える。揃って前へ進む槍の穂先が朝の光を反射し、その後ろに黒と黄色の旗が浮かんだ。
「ベルン伯軍……」
トーマスが呟いた。
敵の先陣は六百人。
グリュン村へ来た三十人余りとは、まったく違う。
兵が足並みを揃えて進む音に、馬の蹄と装具の触れ合う金属音が重なる。地面そのものが低く鳴っているように感じられた。
個々の人間の姿は見える。
しかし、数百人が一つの命令で進むと、巨大な生き物が迫ってくるようだった。
「アレク」
「何だ?」
「逃げたい」
「俺もだ」
「逃げるか?」
「ここから逃げたら、後ろの村まで敵が来る」
「なら無理だな」
「ああ」
二人は顔を見合わせ、僅かに笑った。
恐怖が消えたわけではない。ただ、笑わなければ手の震えを止められそうになかった。
敵軍は城から距離を置いて停止した。
やがて数騎が前へ出て、街道の左右へ分かれる。
「偵察騎兵だ!」
城壁から声が上がった。
敵騎兵は西門の前だけではなく、街道沿いの林や城壁の高さを慎重に確かめている。
西門の守備兵を百人だけ見せても、コンラートがすぐに攻めるとは限らない。
「罠に気づくと思うか?」
トーマスが尋ねた。
「分からない」
「またそれか」
「相手が何を考えているか、本当のところは分からないんだ」
アレクが出したのは、策の一部にすぎない。
実際に兵へ命令を伝えるのは騎士たちであり、全体を動かすのはアルベルトとヴァイス男爵だ。
城壁の上にいるアレクには、見守ることしかできない。
偵察騎兵が敵陣へ戻り、赤い外套をまとった男の周囲へ集まった。
距離があるため顔は分からない。しかし、あれがコンラートなのだろう。
報告を受けたコンラートの周囲で、騎士たちが何かを話し合っている。
しばらくして、敵の一部が動いた。
「敵兵、およそ二百! 西門へ前進!」
見張りの声が響く。
決められた撤退条件である三百人には達していない。
西門が開き、百人の味方が城外へ進み出た。門が閉じられると、二つの部隊は街道を挟んで向かい合った。
敵は味方の倍。
攻めれば勝てると考えたのか。それとも、伏兵の有無を確かめるために兵を出しただけなのか。
敵との距離が縮まる。
街道左右の林には弓兵と火槍兵が隠れているが、まだ動かない。
やがてベルン伯軍の歩兵が雄叫びを上げ、駆け始めた。
味方の百人も槍を構える。
二つの部隊が衝突し、槍と盾のぶつかる音が城壁まで届いた。
短く交戦した後、味方の角笛が鳴った。
「退け!」
門外の百人が一斉に背を向け、西門へ向かって走り始める。
「逃げたぞ!」
敵兵が声を上げ、追撃に移った。
罠へ入る。
そう思った直後、アレクは敵陣にいる赤い外套を見た。
コンラートは動いていない。
前へ出た敵兵だけが、退却する味方を追っている。
「止まれ……」
アレクの口から、無意識に言葉が漏れた。
「何を言っているんだ?」
「コンラートに前へ来てほしくない」
「敵の指揮官だろ?」
「本人が動いていない。林を疑っている」
その直後、敵陣から角笛が響いた。
追撃していた兵が足を止める。
「敵が退いていくぞ!」
トーマスが声を上げた。
「罠を見抜かれた」
林へ敵を引き入れ、コンラートの騎兵へ弓と火槍を浴びせるはずだった。
しかし、コンラートは自分の歩兵が林へ近づく前に呼び戻した。
当初の策は失敗した。
アレクがそう思った時、今度は城内から別の角笛が鳴った。
西門が再び開き、待機していた騎兵五十騎が勢いよく飛び出した。
「今から攻めるのか?」
退却し始めた敵歩兵の横腹へ、味方騎兵が突入する。
敵兵は槍を揃える前に騎馬の勢いを受け、次々と崩された。
ベルン伯軍の前方に混乱が広がる。
だが、味方騎兵が攻撃を続ければ、敵本隊に囲まれる。
「何を考えておられるんだ……」
アレクは混乱しながら、敵陣を見た。
赤い外套が動いた。
コンラートが護衛の騎兵を率い、自軍の歩兵を救うため前へ出てくる。
その瞬間、アレクはアルベルトの狙いに気づいた。
「そうか」
「何が分かった?」
「コンラートは、自分が伏兵を見抜いたと思っている」
「実際に見抜いたのだろ?」
「ああ。だから、こちらがその直後に攻めてくるとは思っていなかった」
罠を見破り、自軍の歩兵へ撤退を命じた。
その直後、敵の騎兵が少数で襲ってきた。
勇猛で、兵から信頼され、自ら前へ出るコンラートなら、逃げる兵を見捨てない。
「味方を助けに来る」
「コンラートが?」
「ああ」
赤い外套を中心とした数十騎が、味方騎兵へ向かって速度を上げる。
味方の五十騎は、敵歩兵への攻撃を止め、城へ向かって退き始めた。
コンラートの騎兵が追う。
街道左右の林の間へ、赤い外套が入った。
「今だ」
最初の矢が林から放たれた。
直後、百人の弓兵が一斉に弦を放す。
無数の矢が霧の残る空へ上がり、コンラートの騎兵へ降り注いだ。
馬がいななき、何騎かが地面へ倒れる。落馬した者へ後続の馬がぶつかり、騎兵の隊列が崩れた。
続いて、林の奥から轟音が響いた。
四十挺の火槍が、騎兵の密集した場所へ初撃を集中させる。
白煙が林から街道へ広がった。
火槍は弓ほど正確に狙える武器ではない。点火にも時間がかかり、一度撃てば再装填にはさらに時間を要する。
それでも、隠れた位置から一斉に放たれた音と煙は、狭い範囲へ集まった馬と兵を混乱させた。弾が命中した馬が倒れ、驚いた馬が進路を変え、隣の騎兵へ衝突する。
「コンラートは?」
「煙で見えない!」
アレクは白煙の向こうへ目を凝らした。
敵の後方に残っていた兵が動き始める。
先ほど前進した二百人のうち退却できた者だけではない。残っていた約四百人も、指揮官を救うため街道へ進み出していた。
味方の弓兵は、まだ矢を射てる。
火槍も時間をかければ二発目を撃てるかもしれない。
だが、敵の残りが到着すれば、林の伏兵は挟まれる。
城内から、長い角笛が三度鳴った。
「全軍撤退!」
騎士たちの命令が響き渡る。
味方騎兵は向きを変え、西門へ走った。
林の弓兵も、残った矢を抱え、決められた道を通って城へ戻る。火槍兵は再装填を諦め、重い火槍を持って後退した。
「まだ敵は混乱しているのに」
トーマスが言った。
「だから、今なら退ける」
アレクは、ようやくアルベルトの判断を理解した。
敵へさらに損害を与えられる限界まで戦うのではない。
味方が安全に城へ戻れる最後の時を見ている。
ベルン伯軍の残りが到着する前に、味方は次々と西門へ入った。最後の騎兵が戻ると、門が閉じられる。
敵は城壁の弓が届く場所まで追わなかった。
最初に敵兵が前進してから、まだ長い時間は経っていない。
それでも、街道には人と馬が倒れ、負傷者の声が響いている。
作戦は成功した。
そう評価されるのだろう。
しかし、アレクは素直に喜べなかった。
自分が考えた誘引策を、アルベルトが敵の反応に合わせて変えた。その結果、多くの人間が傷ついた。
敵の中にも、アレクと同じように、命じられて戦場へ来ただけの者がいるかもしれない。
「アレク」
トーマスが心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「分からない」
それが、アレクに言える正直な答えだった。
◇ ◇ ◇
戦闘から一時間ほど経つと、偵察と各隊からの報告が集まり始めた。
ベルン伯軍の死者と負傷者は、およそ七十人。
ヴァイスブルク側の死傷者は十二人。
十二人の全員が死亡したわけではない。敵の七十人も同じだ。それでも、重傷を負い、二度と戦えない者はいるだろう。
コンラート・ヘルマン騎士団長は生存している。左肩に矢を受け、部下に守られながら敵陣へ戻ったという。
「七十人……」
数字だけを比べれば、ヴァイスブルク側の勝利だった。
敵へ六倍近い損害を与え、味方は全員城内へ戻った。指揮官であるコンラートにも傷を負わせた。
だが、味方の十二人も、ただの数字ではない。
名前を知らないだけで、それぞれに家族や帰る場所がある。
「アレク」
ゲオルクに呼ばれ、アレクは顔を上げた。
「アルベルト様がお呼びだ」
「またですか?」
「ああ」
「なぜでしょう?」
「行けば分かる」
連れていかれた軍議の間では、アルベルトが一人で地図を見ていた。護衛は入口の近くに立っている。
「来たか」
「はい」
「どうだった?」
「何がでしょうか?」
「初めて自分の考えた策で、大勢の人間が傷ついた気分は」
答えに迷う必要はなかった。
「最悪です」
「そうか」
「お怒りにならないのですか?」
「なぜだ?」
「味方が勝ったのに、そのようなことを言ったからです」
「勝てば、必ず喜ばなければならないのか?」
「分かりません」
「ならば、今は分からないままでいい」
アルベルトは地図の上に置かれた駒へ目を向けた。
「敵死傷者およそ七十。味方十二。報告書には、そう書く」
「はい」
「次の作戦を考える時も、数字として扱う。何人動かせるか。何日分の食料があるか。何人まで失えば退くか。数字にしなければ、軍は動かせん」
「はい」
「だが、お前の頭の中まで数字だけにするな」
アレクは顔を上げた。
「敵七十人。味方十二人だ」
アルベルトは静かに言った。
「一人ずつ名があり、帰る場所がある。それを忘れた者に、人を動かす資格はない」
「……はい」
「全員の顔を覚えることはできん。敵兵の名まで知ることもできん。それでも、数字の分だけ人間がいると知っておけ」
軍議では、冷静に損害を数えなければならない。
しかし、損害を数字として扱うことと、人間を数字としか見なくなることは違う。
アレクは、自分の中に残る重さを無理に消さなくてよいのだと、少しだけ理解した。
「アレク」
「はい」
「明日から、私の近くにいろ」
「……はい?」
「聞こえなかったか?」
「聞こえましたが、なぜでしょう?」
「お前の頭は使える」
「俺を道具としてお使いになるのですか?」
「人の上に立つ者は、使えるものを使う。兵も、金も、道も、城も、人の知恵もな」
「できれば遠慮したいのですが」
「理由は?」
「目立ちたくありません」
「もう遅い」
「まだ間に合うと思います」
「間に合わん」
「なぜです?」
「私が覚えた」
アレクは言葉を失った。
「それに、私に使われるのが嫌なら、お前も私を使えばいい」
「大公殿下を、俺がですか?」
「私の兵、金、地位でなければできないこともある。何かを望むなら、使い道を考えろ」
「そのようなことを言ってよいのですか?」
「私に逆らえと言っているわけではない。互いに使う価値があるなら、近くへ置く理由になる」
「難しいですね」
「考えろ」
「またそれですか」
「お前は考えるのが得意なのだろう?」
「好きで考えているわけではありません」
「ならば、生きるために考えろ」
その言葉だけは、アレクの胸に強く残った。
この世界へ来た時、最初に決めたこと。
英雄になりたいわけでも、天下を望んでいるわけでもない。
まずは生きる。
生き残って、帰る場所へ戻る。
そのために考える。
「承知しました」
「何がだ?」
「明日も考えます」
「そうしろ」
「ですが、殿下のお近くにいることについては、もう少し考える時間をいただけませんか?」
「そこは命令だ」
「考えさせる気がないではありませんか」
「従いながら、逃れる方法を考えればいい」
「権力の使い方が少々小さくありませんか?」
アルベルトは声を上げて笑った。
その日から、ただの徴集兵だったアレクの立つ場所が、少しずつ変わり始めた。
第七話を読んでいただき、ありがとうございました。
アルベルトは、アレクの考えを採用するだけでなく、敵の反応に合わせて作戦を変え、退くべき時を見極めました。
戦果を数字で考えながらも、その向こうに一人一人の人間がいることを忘れない。その教えは、後にアレクが兵を率いるうえでも大切なものとなります。
次回、ベルン伯軍の本隊が迫り、ヴァイスブルクを巡る本格的な戦いが始まります。
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