第十五話 主君の留守
倉庫襲撃によって帳簿を奪われたクレーマー商会は、偽の輸送予定を利用し、敵の動きを探り始めます。一方、行き先を明かさずベルグハーフェンを離れたマティアス。主君の留守を預かったアレクは、領地、工場、火槍隊を動かしながら、百二十挺による連続射撃へ挑みます。
倉庫が襲われ、帳簿を一冊奪われてから十日が経った。
火を放たれた外倉庫は、焼け残った梁を外し、新しい屋根を掛ける作業が始まっている。焦げた木材の臭いはまだ残っていたが、荷物の出入りはすでに元へ戻りつつあった。
変わったのは、目に見えない部分の方だった。
鉄や木材を運ぶ荷車の出発時刻は毎日変えられ、途中で荷を積み替える場所も増えた。以前は一つの帳簿へまとめていた仕入れ先、支払額、輸送経路も、今は別々の者が管理している。
そのうえ、盗まれた帳簿へ書かれていた日程に合わせ、偽の荷車まで動かしていた。
荷車を遠巻きに追う者がいたという報告は、すでに二度届いている。
盗まれた帳簿が、ただ持ち去られただけではない。誰かの手へ渡り、実際に使われている可能性は高かった。
だが、その誰かがシュヴァルツ伯なのか、別の諸侯なのか、それとも高値で情報を売ろうとする者なのかは分からない。
確かめられないものを事実として扱うな。
マティアスから繰り返し言われてきたことだった。
そのマティアスに、朝早く執務室へ来るよう呼び出された。
扉を開けた俺は、一瞬、部屋を間違えたのかと思った。
「マティアス様?」
「ほかの誰に見える」
「マティアス様には見えます。ただ、その格好は……」
普段のマティアスは、目立つ宝石こそ身に着けないものの、クレーマー商会の主人にふさわしい服を選んでいる。
だが、今日の服は違った。
染め直した跡が残る茶色い上着に、擦れた革帯。机の端には、何度も雨に濡れたらしい古い外套と、使い込まれた革袋が置かれている。
髪も普段より雑に整えられ、口元には薄く髭まで足されていた。
裕福ではあるが、大きな町の商人たちに顔を知られるほどではない。そんな地方商人に見える。
「出かける」
「どちらへですか」
「商人が、売り先と仕入れ先を探しに行くだけだ」
「それなら、その格好をする必要はないと思います」
「俺がクレーマー商会の主人として出向けば、相手もクレーマー商会の主人に見せる顔をする」
マティアスは机の上の書類を一枚取り、俺へ差し出した。
「留守は十日ほどだ。長引いても十五日以内には戻る」
「私も同行しますか」
「お前には別の仕事がある」
書類には、マティアスが留守の間に俺が確認すべき項目が書かれていた。
火縄銃工場の警備。完成品の検査。訓練へ回す火縄銃の管理。輸送経路の変更。偽の輸送予定を使った監視。それだけではない。ベルグハーフェンの倉庫とアイヒェンタールを往復する食料や薪の量まで含まれている。
「これを全部ですか」
「全部を自分でやれとは書いていない」
「判断が必要になった時はどうしますか」
「お前が決めろ」
簡単に言ってくれる。
だが、領地を任されてから、俺も少しずつ分かるようになっていた。
すべてを自分で確かめようとすれば、一つの問題を見ている間に、別の場所で三つの問題が起きる。必要なのは、一人で多く働くことではない。誰へ何を任せ、どの報告だけを自分のところへ上げさせるかを決めることだ。
「工場の警備は、何があっても弱めるな。別の倉庫で火が出ても、騒ぎが起きてもだ」
「承知しました」
「偽の荷車を追う者がいても、捕まえようと欲を出すな。こちらが気づいたと知られれば、相手は別の方法を使う」
「追わせたままにするのですか」
「追った先で何を見るかは、こちらが決められる」
マティアスは次の書類を指で叩いた。
「完成した火縄銃は倉に寝かせるな。検査を終えた分から兵へ渡せ。三百挺が揃ってから三百人を鍛えるのでは遅い」
「分かっています」
「それから、お前自身が一つの仕事へ張り付きすぎるな。アイヒェンタールも、お前の兵も、工場も、どれか一つだけを守ればいいわけではない」
「それも分かっています」
「本当に分かっている者は、そんな顔をしない」
俺は無意識に眉間へ寄せていた力を抜いた。
「では、行き先を教えてください。戻るまで心配しなくて済みます」
「教えれば、心配しなくなるのか」
「少なくとも、何も知らないよりは」
「ならば、なおさら教えられんな」
「どういうことですか」
マティアスは椅子へ深く座り、腕を組んだ。
「お前を信用していないわけではない。知らない者は、捕らえられても、探られても、話しようがない。俺がどこへ行ったか尋ねられたら、知らないと答えろ。それが嘘にならない」
「捕らえられることを考えなければならない場所へ行くのですか」
「商人は、いつだって盗賊に捕らえられることを考えるものだ」
答えになっていない。
それ以上尋ねても、マティアスが話すつもりはないようだった。
「戻らなかった場合はどうしますか」
「十五日を過ぎても戻らなければ、この封書をレオンハルト殿下へ届けろ」
机の引き出しから、封蝋を押した書状が出された。
俺が手を伸ばすと、マティアスはすぐには放さなかった。
「それまでは開けるな」
「開けません」
「開けたところで、お前にできることはない」
「分かっています」
「本当に分かっている顔ではないな」
「同じことを二度言わないでください」
ようやく封書を受け取る。
思ったよりも薄い。中に書かれているのは一枚か、せいぜい二枚だろう。
これを開けずに済むことを願うしかなかった。
商館の裏手には、二台の荷車が待っていた。
一台には染め物と革製品、もう一台には塩漬け肉や針、糸、安物の食器が積まれている。どれも本当に売買できる品物だった。
同行する者たちも、クレーマー商会の護衛には見えなかった。御者と使用人、それに旅慣れた商人の仲間にしか見えない。
もっとも、腰へ提げた剣の柄や、荷の置き方を見る限り、ただの使用人ではない。
「では、行ってくる」
「お気をつけください」
「お前もな。俺が留守だからといって、働きすぎるな」
「留守の間に、これだけ任せておいて言うことですか」
「働かせる者を増やせと言っている」
マティアスは笑い、荷車の御者台へ乗り込んだ。
大商会の主人が、自分で手綱を握って町を出ていく。
荷車が角を曲がって見えなくなるまで、俺はその後ろ姿を見送った。
行き先も目的も分からない。
それでも、ただ商品を売りに行くのではないことだけは分かった。
マティアスは金になる話をする時より、人を見極めようとする時の方が、余計なことを話さない。
俺は懐へ入れた封書の重みを確かめ、商館へ戻った。
◇ ◇ ◇
マティアスの留守を預かったからといって、アイヒェンタールの仕事がなくなるわけではない。
翌朝、俺は領主の館で、村長たちから報告を受けた。
館とはいっても、立派な城や屋敷ではない。以前の領主が使っていた石造りの家へ手を入れ、執務室と寝室、それに報告を受ける部屋を整えたものだ。
それでも、朝起きて同じ場所で領内の話を聞けるだけで、以前より動きやすくなった。
「雪解けが始まれば、北の山道はまた沈みます」
村長が広げた粗い地図の上へ、指を置いた。
「去年は荷車が一台、車輪の半分まで泥に埋まりました。今年は荷が増えています。今のままでは二台並んで動けません」
「二台並んで通れるようにする必要はありません。すれ違える場所を三か所作りましょう」
「道そのものを広げるのではないのですか」
「全部を広げれば、人手も石も足りません。荷車が来る時刻はある程度決められます。途中ですれ違える場所があれば、今より詰まりにくくなります」
俺は道の低い側へ線を引いた。
「それより排水です。雪解け水が道へ流れ込まないよう、脇の溝を掘り直してください。泥が深くなる場所には、細い枝を束ねて敷き、その上へ石と土を重ねます」
「枝を道へ埋めるのですか」
「水が抜ける隙間を作ります。太い木を使う必要はありません。枝を切った後に余る部分で十分です。ただし、試すのは最も沈みやすい場所だけにしてください」
前世で道路工事に詳しかったわけではない。
それでも、山道へ枝や丸太を敷いて足場を作る方法があることくらいは知っていた。こちらの材料と人手で同じようにできるかは、実際に試して確かめるしかない。
「橋板の予備は何枚ありますか」
「使えるものが十二枚です。乾かしているものが七枚あります」
「杭も作ってください。橋が流されてから木を切り始めたのでは遅い。村ごとに保管場所を決め、勝手に薪へ使わないよう印を付けましょう」
別の男が木炭の記録板を差し出した。
長さと太さを揃えて焼いた木炭は、鍛冶場で使いやすいと評判になり、クレーマー商会が以前より高く買い取っている。
一方、火薬に向く木炭を調べる試験では、木の種類ごとに窯を分けていた。
領民へは、用途の異なる木炭を調べるためとしか知らせていない。木炭そのものは火薬ではないが、どの木を選び、どのように焼いているかまで知られれば、火縄銃の秘密へ近づく手掛かりになり得る。
「柳を焼いた窯と、榛を焼いた窯は混ぜていませんね」
「はい。窯を分け、袋にも別の印を付けました」
「保管場所も離してください。湿ったものは試験用へ回さず、普通の燃料として使います」
「クレーマー商会へ運ぶ量はどうしますか」
「今までどおりです。増やすかどうかは、試した者から結果が届いてから決めます」
確認を終え、記録板を返した。
誰がどの木を切り、どの窯で焼き、どの袋へ入れたか。そこまで俺が毎日見張る必要はない。
「道と橋は村長に任せます。木炭は今までの担当者が続けてください。問題が起きた時と、予定より人手が足りなくなった時だけ報告を」
「アレク様は、今日はベルグハーフェンへ?」
「工場と兵の訓練を見ます。夕方には戻ります」
以前なら、道の様子を自分の目で見てからでなければ不安だったかもしれない。
だが、俺が一日かけて道を歩けば、工場と訓練の判断が一日遅れる。
領主の仕事は、領内にあるものをすべて自分で触ることではない。
任せた者が動けるようにし、戻ってきた報告から次の判断をすることだ。
そう自分へ言い聞かせ、俺はベルグハーフェンへ向かった。
ロルフのいる検査場へ入ると、壁際に五十挺の火縄銃が並べられていた。
整然と並んだ姿だけを見れば、すべて完成しているように見える。
だが、ロルフの前には、鉄筒や金具、削り直された木台が山のように積まれていた。
「五十挺、完成したのですか」
「完成した」
「その顔は、喜んでいるようには見えません」
「速く作れば、駄目な物も速く集まる」
ロルフが一本の鉄筒を持ち上げ、俺へ渡した。
外側だけを見ても、何が悪いのか分からない。
「ここだ」
ロルフが筒の中を照らし、細い棒で一か所を示した。
「厚みが違う。撃てるかもしれん。十発耐えるかもしれん。だが、いつ裂けるかは分からん」
「これは五十挺に含まれていないのですね」
「含めるわけがない」
次に示されたのは、点火孔の位置がわずかにずれた筒だった。火皿から炎が届かないわけではないが、煤が詰まりやすくなるという。
火縄を挟んだ金具の動きが重いもの、木台と筒の間へ隙間ができたもの、掛け金が簡単に外れるものもあった。
「前より不良品が増えましたか」
「作る者が増えた。それまで鉄の棒や鍋を作っていた者に、同じ物を作れと言っている。増えない方がおかしい」
「減らせますか」
「検査で落とせばいい。作り方を覚えれば、同じ失敗は減る」
ロルフは不合格になった部品の横へ、失敗した職人と工房を示す札を置いていた。
誰かを罰するためではない。どの工程で、どの失敗が多いのかを確かめるためだ。
「五十挺の中には、危険なものはありませんね」
「試射を三度ずつ行った。火縄ばさみも引金も確かめた。お前が自分で全部撃ちたいなら止めん」
「信用しています」
「なら運べ。次の五十挺が来る」
五十挺は、その日のうちに訓練場へ移した。
これでアルベルトへ渡した三十挺を含め、完成した火縄銃は百五十挺になる。
こちらで使えるのは百二十挺。
三百挺まで、残り百八十挺だった。
以前は十挺を並べただけでも、これまでにない武器が揃ったと感じた。
百二十挺を前にすると、十挺は試作品に近かったのだと思い知らされる。
ただし、数が増えれば、勝手に強い軍になるわけではない。
新しい火縄銃を受け取った兵たちは、隠しきれない笑みを浮かべていた。
「そんなに嬉しいか」
火槍兵長が尋ねると、一人が火縄銃を胸の前へ抱えたまま答えた。
「木の棒よりは、こちらの方が」
「それを持てば火槍兵になれると思っているのか」
兵の笑みが消えた。
「撃つだけなら、引金を引けばいい。だが、味方の背へ弾を入れず、命令された相手へ、命令された時に撃てなければ、敵より危険だ。今日渡された者は、火縄と火薬を持たず、構えと移動からやり直せ」
浮かれていた者たちが一斉に姿勢を正した。
火槍兵長は俺へ顔を向けた。
「よろしいですか」
「任せます。今日、実際に撃つのは、動きを確認できた者だけにしてください」
現在の百二十挺を四十挺ずつ三組へ分けた。
将来は百挺ずつ三組に分ける。その縮小した形だ。
すでに火縄銃を扱っていた兵を各組の中へ散らし、新たに実銃を受け取った兵をその間へ入れる。
火縄銃を持たない兵たちは、木製の訓練道具を使って同じ動きを行う。別の者たちは一発筒の運搬、火縄の管理、伝令、負傷者を後ろへ運ぶ役を練習した。
撃つ者だけを揃えても、火薬や弾が届かなければ続かない。
訓練場の奥には、古い盾や厚い板を立てた。
その前へ人の形に組んだ藁束を置き、後方には土を盛っている。撃った弾がどこまで飛ぶか分からないため、訓練場の周囲には見張りを置き、領民が近づかないようにしていた。
アイヒェンタールの住民には、この場所で何を試しているか知らせていない。
聞かれた場合は、レオンハルトから預かった兵の訓練場だと答える。それだけでも嘘ではなかった。
「第一組、前へ!」
火槍兵長の号令で、四十人が射撃位置へ進んだ。
腰の携帯用弾薬箱はすでに開放を許可されている。
「一発取れ!」
兵たちが一発筒を取り出した。
「装填!」
木栓が外され、火薬と弾が銃口へ入る。装填棒が一斉に動き、火皿へ細かな火薬が置かれた。
火蓋を閉じ、火縄を火縄ばさみへ挟む。
ここまでの動作は、何度も繰り返してきた。
それでも四十人が並ぶと、十人の時には見えなかった遅れが目立つ。
一人が遅れれば、その隣の者が気にして手を止める。後ろから運搬役が近づけば、下がろうとした兵と肩がぶつかる。
「構え!」
赤い布が上げられた。
四十の銃口が標的へ向く。
火蓋が開かれ、火の付いた火縄が火皿の上へ下がった。
俺は右手を上げた。
赤い布が振り下ろされる。
「撃て!」
四十挺の火縄銃が、ほとんど同時に火を噴いた。
空気そのものを叩かれたような音が、訓練場を揺らした。
十挺の時にも大きいと思っていた銃声が、四十挺になると別のものに聞こえる。胸の奥へ響き、近くにいた馬が首を振って後ずさった。
白煙が第一組を包む。
「第一組、下がれ! 第二組、前へ!」
第一組が左右に分かれて後方へ下がり、第二組が中央を進む。
通る場所を決めていなければ、確実にぶつかっていた。
それでも、下がる兵の一人が弾薬運搬役と肩をぶつけた。二人は倒れなかったが、運搬役が足を止めたことで、その後ろが詰まる。
「止まるな! 下がる者を先に通せ!」
火槍兵長の声が飛ぶ。
第二組が射撃位置へ着く。
煙の向こうに、標的がぼんやりと見えた。
赤い布が上がり、振り下ろされる。
二度目の一斉射撃。
さらに白煙が増えた。
「第二組、下がれ! 第三組、前へ!」
三組目が進む頃には、正面の盾は煙へ半分隠れていた。
風が弱い。
標的の位置を知っているから銃口を向けられるが、敵が動いていれば見失う者も出るだろう。
火槍兵長が上げた赤い布も、列の端からは煙に隠れて見えにくい。
角笛が鳴った。
布と音を合わせた合図だ。
三度目の銃声が響く。
白煙の奥で、板の裂ける音がした。
「第三組、下がれ! 第一組、前へ!」
最初に撃った四十人が再び前へ出る。
だが、全員の装填が終わっているわけではなかった。
先頭の兵が射撃位置へ着いた時点で、火縄を掛け金へ留められていない者が八人いた。訓練だからこそ、火槍兵長は無理に撃たせなかった。
「構えず待て!」
数呼吸の間が空く。
遅れていた兵が準備を終えた。
赤い布が上がり、角笛が鳴る。
四度目の銃声が、訓練場を揺らした。
百六十発。
さらに第二組、第三組と続けたところで、俺は射撃を止めさせた。
「弾薬箱閉め!」
兵たちが携帯用弾薬箱の蓋を閉じる。
新たな許可が出るまで、勝手に開けてはならない。
煙が風に流されるのを待ち、標的を確かめた。
厚い板には無数の穴が開き、古い盾の一枚は中央から割れていた。藁束は原形を保っているものの、表面が破れ、中から藁が垂れ下がっている。
弾のすべてが当たったわけではない。
土手へ当たった跡もあれば、標的のかなり手前の地面を削ったものもある。
それでも、百二十挺が三組に分かれて撃ち続けた光景には、十挺の時とはまったく違う圧力があった。
敵が密集して進んでくれば、外れた弾も別の兵へ当たる。
百挺ずつ三組。
三百挺が揃えば、今の倍を超える弾が、一度の号令で飛ぶ。
第一組が装填している間に第二組が撃ち、第二組が下がる間に第三組が撃つ。そして第一組が戻る。
敵が、撃った後なら近づけると判断した時、次の百挺が火を噴く。
さらに次の百挺が待っている。
前回、十挺を五挺ずつに分けただけでも、敵指揮官の判断を誤らせることができた。
三百挺なら、判断を誤らせるだけでは終わらない。
俺は煙の向こうに並ぶ壊れた盾を見た。
期待と同時に、背中へ冷たいものを感じた。
これを人へ向ける日が近づいている。
自分で作らせ、自分で訓練しながら、今さら怖がるのは勝手かもしれない。
だが、怖さを忘れた時の方が危険だ。
「記録を取ります」
俺は兵たちを集めた。
「第一組が二度目の射撃位置へ戻った時、八人の装填が終わっていませんでした。ただし、急がせて手順を省かせることはしません。組が前へ出る間隔を見直します」
火槍兵長がうなずく。
「白煙で布が見えなかった者は?」
列の端にいた兵たちが手を上げた。
「角笛は聞こえたか」
今度は全員がうなずいた。
「では、布と角笛は両方使います。煙が濃くなれば、指揮する者が前へ出すぎないようにしてください。兵の正面へ立てば、敵ではなく味方に撃たれます」
下がる兵と運搬役がぶつかった場所も確認した。
射撃位置へ出る者、後方へ下がる者、弾薬を運ぶ者。それぞれが通る道を分け、地面へ目印を置くことにする。
戦場に同じ目印を置けるとは限らないが、動く順番を身体へ覚えさせることはできる。
「もう一度撃ちますか」
火槍兵長が尋ねた。
「今日は止めます。全員で動きを振り返ってから、明日は火薬を使わずに繰り返してください。撃つことより、次に撃てる位置へ戻ることを先に揃えます」
兵たちは名残惜しそうだったが、撃てば撃つほど火薬と弾を使う。
三百挺を揃えるだけではない。三千本の一発筒へ火薬と弾を詰め、予備を運び、使い終わった筒を回収しなければならない。
戦う前から補給を使い切るわけにはいかなかった。
検査場へ戻ろうとした時、ベルグハーフェンから馬を飛ばしてきた使者が、訓練場の入口で止められた。
「アレク様へ、クレーマー商会から急ぎの報告です!」
俺は手紙を受け取り、封を切った。
短い文を読み終える。
マティアスが出立してから四日目。
盗まれた帳簿に載っていた予定どおりに動かした荷車が、街道で襲われた。
◇ ◇ ◇
襲われたのは、ベルグハーフェンから半日ほど離れた街道だった。
荷車は四台。
帳簿の上では、鉄材と火縄銃の木台に使う木材を運ぶ予定になっていた。
実際に積んだのは、ひびの入った鉄材、空の木箱、農具、砂を詰めた樽だった。
護衛には、襲撃者が多ければ無理に戦わず、荷車を捨てて退くよう命じていた。
「護衛に負傷者は?」
商館へ戻った俺は、報告に来た番頭へ尋ねた。
「一人が逃げる時に転び、膝を痛めました。それ以外はいません」
「襲撃者の数は」
「十五人ほどです。全員、顔を布で隠していたそうです」
「荷物は持ち去られましたか」
「いいえ。木箱を割り、樽を開け、鉄材を調べた後、何も持たずに逃げています。農具にも手を付けませんでした」
金目当ての盗賊なら、農具や荷車の馬まで奪う。
重い鉄材が持ち去れなくても、売れるものを探すはずだ。
だが、襲撃者たちは帳簿に書かれていた荷物が本物かどうかを確かめ、偽物だと分かると立ち去った。
「追った者はいますか」
「近くの森へ見張りを二人置いていました。襲撃者は街道を外れ、北東へ向かったそうです。ただ、馬を用意していた場所から先は追えていません」
「追わせなくていいです」
「捕らえなくてよろしいので?」
「こちらが待っていたと知られます。それに、十五人を追って、別の待ち伏せへ入るかもしれません」
番頭は納得しきれない顔をしていた。
俺自身、追いたくないわけではない。
倉庫へ火を放ち、帳簿を奪った者たちと同じ相手なら、一人でも捕らえたい。
だが、マティアスから預かったのは、襲撃者を討つ仕事ではない。
火縄銃の生産と輸送を守る仕事だ。
「本物の鉄材は、今どこにありますか」
「三か所の倉庫へ分けています。明日の夜、川船で運ぶ予定です」
「予定を変えます。川船へ積むのは半分だけ。残りは二日後、薪を運ぶ荷車の底へ入れてください」
「さらに分けるのですか」
「盗まれた帳簿が偽物だと気づけば、相手は次の手を使います。一度に運ぶ量を減らします」
「到着が遅れます」
「工場に三日分の材料はあります。遅れても止まりません」
番頭が書き留める。
「襲われた荷車は回収してください。ただし、同じ道を使わないように。砂の樽も回収します」
「砂までですか」
「使えるものを捨てる必要はありません。それから、護衛には命令どおりに動いたと伝えてください。荷を守れなかったことを責めないように」
「承知しました」
襲撃者を取り逃がしたのではない。
追わないことを選んだのだ。
そう考えても、胸の奥には苦いものが残った。
マティアスなら、もっと先まで考えていたのではないか。
襲撃者が逃げる道へ別の見張りを置き、その先で誰と会うかまで確かめたのではないか。
だが、俺がマティアスの真似をしようとして、守るべきものを危険へ晒せば意味がない。
今は、俺に見える範囲を守るしかなかった。
その日の夜、アイヒェンタールへ戻ると、領主の館には村からの報告と一緒に一通の手紙が届いていた。
封蝋を見ただけで、疲れが少し薄れる。
エリーゼからだった。
自室へ入り、灯りの近くで封を切る。
手紙の初めには、俺が倉庫襲撃と手の傷を隠さず書いたことについて、礼が記されていた。
だが、その後に続く文字は、普段よりわずかに強く紙へ押し付けられているように見えた。
『正直に知らせてくださったことには感謝します。ですが、浅い傷だから心配しないでほしいと書けば、私が心配しなくなると思ったのでしょうか』
思ってはいなかった。
心配させたくなかっただけだ。
もっとも、それを書けば、さらに怒られそうな気がする。
『手袋は、傷ついても直せます。革を継ぎ、糸を通せば、また使えるようにできます。けれど、アレクの手は同じようには直せません』
俺は机の端へ置いていた革手袋へ目を向けた。
刃で裂かれた部分は応急的に縫ってある。手の傷が塞がるまで使わないよう言われ、今は布の上へ置いていた。
『次に会う時、その手袋を持ってきてください。私に直せるかは分かりませんが、直せる者を探すことはできます』
次に会う時。
その言葉だけで、アルベルトのもとへ火縄銃を届けた日のことを思い出す。
エリーゼは林檎の花の髪飾りと首飾りを身に着けていた。
俺はマティアスから贈られた鎧を着け、エリーゼからもらった手袋をしていた。
周囲から何を言われても、久しぶりに会えたことが嬉しくて、まともに気にする余裕がなかった。
『その手袋を着けて、無事に戻ってきた姿を見るまでは、贈った意味があったとは認めません』
「それは困るな」
思わず声が漏れた。
意味がなかったと言われないためには、手袋を直してもらい、もう一度身に着けて会わなければならない。
かなり先まで有効な約束を作られた気がする。
俺は新しい紙を取り出した。
手の傷はすでに塞がり始めていること。手袋は捨てず、大切に保管していること。次に会う時には、必ず持っていくこと。
余計に心配させないよう、今度は「浅い傷だから大丈夫」とは書かなかった。
代わりに、マティアスがしばらく留守にしていることを書いた。
行き先も目的も知らされていないため、それ以上は書きようがない。
『マティアス様が留守の間、商会と兵の仕事を任されています。領地だけでも、朝から夜まで考えることがなくならないのに、マティアス様は普段、この何倍もの仕事をどこで片付けているのか不思議です』
そこまで書き、少し考える。
『戻ってきたら、働きすぎだと伝えるつもりです。おそらく、私には言われたくないと返されます』
エリーゼなら、そこで笑ってくれるだろうか。
手紙を書き終え、蝋を落とす。
領地の報告を聞き、ベルグハーフェンへ行き、工場と訓練を見て、また領地へ戻る。
それが俺の一日になっていた。
慌ただしくても、戻る場所がある。
そして、離れた場所には、俺の無事を待ってくれている人がいる。
そのことが、少しだけ不思議だった。
◇ ◇ ◇
マティアスが戻ったのは、出立から十一日目の夕方だった。
商館の前へ入ってきた二台の荷車を見た時、俺は執務室から階段を駆け下りた。
出ていった時と同じ荷車だが、積み荷は変わっていた。
一台には獣皮と乾燥させた薬草が積まれ、もう一台には酒樽と麻布が載っている。本当に各地で商売をしながら戻ってきたらしい。
マティアスの外套は泥で汚れ、目の下には薄い隈があった。
同行した者たちも疲れていたが、欠けた者はいない。
「お帰りなさい」
「戻った」
「遅いです」
「十五日までは待てと言ったはずだ」
「十一日でも十分に遅いです」
「俺がいなくて寂しかったか」
「仕事を残して出かけた人へ文句を言いたかっただけです」
マティアスは御者台から降りると、固まった肩を回した。
「留守の間に何があった」
「偽装輸送隊が襲われました」
「怪我人は」
「逃げる時に膝を痛めた者が一人。荷は調べられましたが、重要なものは何も奪われていません」
「追ったか」
「追わせませんでした。本物の材料はさらに分けて運びました」
マティアスが俺の顔を見る。
「なぜ追わなかった」
「追った先で待ち伏せされる可能性がありました。それに、敵を捕らえることより、工場を止めない方を優先しました」
「正しい」
短い言葉だったが、肩に入っていた力が抜けた。
「ただし、次は追わないと相手も考える。三度目も同じように動くな」
「承知しました」
「火縄銃は」
「新たに五十挺が完成しました。こちらで使えるのは百二十挺です」
「訓練は」
「四十挺ずつ三組に分け、連続して撃たせました。三組目が撃った後、最初の組が戻るまでに装填の遅れが出ています。煙で布が見えない者もいたので、角笛を併用します」
「百挺になれば、四十挺の時より動かすのに時間がかかる」
「はい。射撃位置へ出る道、下がる道、弾薬を運ぶ道を分けます」
マティアスはうなずき、商館へ入った。
俺も後に続く。
聞きたいことは決まっていた。
「欲しかったものは手に入りましたか」
「何の話だ」
「売り先と仕入れ先を探しに行ったのでしょう」
「見つけた」
「何を仕入れたのですか。獣皮と薬草ですか」
「それは旅費を稼ぐための品だ」
マティアスは執務室へ入ると、泥の付いた革袋を机へ置いた。
「では、本当に欲しかったものは?」
「品物が本物かどうか、自分の目で確かめてきた」
「何の品物ですか」
「今は知らなくていい」
やはり話すつもりはないらしい。
革袋の中から出てきたのは、売買契約書や各地の相場を書いた紙だった。その中に何が隠されているのか、外から見ただけでは分からない。
「危険な旅だったのですか」
「商人の旅は、いつでも危険だ」
「それも出発前に聞きました」
「なら、二度聞く必要はない」
マティアスは着替えもせず、机へ大きな紙を広げた。
「周辺の地図を集めろ」
「どの範囲ですか」
「ベルグハーフェンから東へ延びる街道。シュヴァルツ伯の領地へ向かう道。川、森、丘、橋、渡し場が分かるものは全部だ」
俺はマティアスの顔を見た。
「戦の準備ですか」
「道を調べるのは商人の仕事でもある」
「商人の格好をして出かけた後に言われても、信じにくいです」
「信じなくていい。地図を持ってこい」
商館に保管されていた地図だけでなく、荷車の御者や河川輸送を担う船頭が使っている道の記録も集めた。
地図には、主要な街道と大きな川しか描かれていない。だが、御者たちは、雨が降れば沈む道や、荷車が一台ずつしか通れない場所を知っている。
マティアスは彼らを一人ずつ呼び、地図へ道を足させた。
「この森を抜けられるか」
「馬だけなら抜けられます。荷車は無理です」
「百人なら」
「縦に長くなります。雨の後は足を取られるでしょう」
「森の先はどこへ出る」
「古い街道です。今は南の新しい道を使う者が多いですが、北から来るなら、そちらの方が早い」
別の御者には、川を渡れる浅瀬を尋ねた。
橋を使わずに騎兵が渡れる場所。雨が降った時に使えなくなる場所。馬を休ませられる水場。
話を聞き終えたマティアスは、地図の上へ数本の線を引いた。
「何を調べているのですか」
「人が通る道だ」
「商人が使う道には見えません」
「道は、進む時より逃げる時の方が人間の本性を見せる」
マティアスの指は、森を抜けた先にある古い街道の上で止まっていた。
何から逃げる者を考えているのか。
尋ねても、今は答えないだろう。
マティアスは地図を畳むと、俺へ向き直った。
「明日から訓練を増やせ」
「射撃回数をですか」
「違う。百人を、街道を使わずに動かせ」
「百人を?」
「森や丘を通り、隊列を崩さず目的地まで進ませろ。火縄も一発筒も濡らすな。到着したら、休ませず射撃位置へ並べろ」
「なぜ火槍隊を森の中へ走らせるのですか」
「敵が正面にいるからといって、最後まで正面にいるとは限らない」
マティアスは、それ以上説明しなかった。
火縄銃を持つ兵は、正面へ並べて撃たせるものだと考えていた。
槍兵に守られ、敵が近づく前に弾を浴びせる。
だが、戦場で敵が崩れれば、敵は逃げる。
逃げる敵を追うのは、これまで騎兵の役目だった。火縄銃を持つ兵が、森を抜けて先回りすることなど考えていなかった。
「百人全員へ火縄銃を持たせますか」
「最初は木の訓練道具でいい。実銃を持たせる時は火薬を抜け。重さと携帯用弾薬箱を持った状態で歩かせろ」
「敵と出会った場合は」
「命令なしに撃たせるな。見つけたから撃つ兵では、待ち伏せはできん」
待ち伏せ。
マティアスは、はっきりとその言葉を使った。
「誰を待つのですか」
「それを決めるのは、まだ先だ」
翌朝から、火槍隊の移動訓練が始まった。
射撃位置へ整列するだけではない。
木々の間を縫い、足元の悪い斜面を進み、狭い獣道を抜けた先で、三列の射撃隊形を作る。
百人が縦に延びれば、先頭が目的地へ着いても最後尾は森の中に残る。急がせれば転ぶ者が出て、遅れた者を待てば到着が遅くなる。
火縄を守る腰箱、一発筒を入れた携帯用弾薬箱、装填棒、火縄銃。槍兵より荷物が多く、水濡れにも弱い。
それでも、兵たちは命令された時間内に森を抜けようと走った。
最初の訓練では、先頭と最後尾が合流するまでかなりの時間が掛かった。射撃位置へ着いた後も息が上がり、すぐに銃口を安定させられない者が多かった。
俺は到着時刻と整列に要した時間を記録させ、翌日は道を変えた。
何のために必要な訓練なのか、兵たちには知らせていない。
俺自身も知らない。
だが、マティアスは何かを見てきた。
俺たちの知らない場所で、戦が始まる前の準備を一つ進めてきた。
その三日後、レオンハルトのもとから早馬が届いた。
シュヴァルツ伯が配下の諸侯へ、兵を集めるよう命じたという。
雪はまだ山の斜面に残っている。
だが、昼間に解けた水は道へ流れ、夜になれば薄い氷へ変わっていた。
春は近い。
同時に、戦も近づいていた。
俺は領主の館で一日の報告を聞き終えると、壁へ立て掛けた火縄銃へ目を向けた。
完成した百二十挺。
残り百八十挺。
道を直す領民。筒を作る職人。森を走る兵。行き先を告げず敵に近い場所まで出向いたらしいマティアス。
別々に見えていたものが、少しずつ一つの戦へ集まり始めている。
俺は机の上に広げた領内の地図へ、森を抜ける訓練経路を書き加えた。
敵が最後まで正面にいるとは限らない。
マティアスの言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
第十五話を読んでいただき、ありがとうございました。
百二十挺による集団射撃が始まり、三百挺を戦場で運用するための形が見え始めました。しかし、マティアスが命じたのは正面から撃つ訓練だけではありません。森を抜け、到着直後に射撃するための移動訓練には、まだアレクの知らない目的があります。
敵地に近い場所から戻ったマティアスは、何を確かめてきたのか。雪解けとともに近づくシュヴァルツ伯との戦いに向け、戦場の外でも準備が進んでいきます。




