第十四話 奪われた帳簿
三百挺の生産体制が整い始める一方、クレーマー商会の人と物の流れを探る者たちが動き出します。工場と秘密を守るため、アレクは炎の中で敵の狙いを見極めます。
朝一番に届いた報告は、屋敷の裏手に掘った排水溝が、一晩の雨で半分ほど埋まったというものだった。
「水は流れたのか?」
「はい。畑へあふれることはありませんでした。ただ、山側から土と枯れ枝が流れ込みまして」
机を挟んで立つ村長は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「なら、役目は果たしています。掘り方が間違っていたわけではありません」
俺は机の上に広げた領内の簡単な絵図へ目を落とした。
山から流れ込む水を村の外へ逃がすため、道の脇に掘らせた排水溝だ。昨日まで水が流れていた場所へ溝を掘ったのだから、一度の雨ですべてうまくいくとは思っていない。
むしろ、どこに土が溜まり、どこから水があふれそうになるのかが分かったのは収穫だった。
「埋まった場所を少し広げてください。それから、枯れ枝を止めるための木の杭を、上流側へ何本か並べましょう。ただし、隙間をすべて塞いではいけません。水まで止めると、別の場所へあふれます」
「杭の間に手が入る程度の隙間を残す、ということでよろしいでしょうか」
「最初はそれくらいで試してください。次の雨のあとに、また様子を見ます」
村長が頷き、手元の木札へ印をつけた。
前世なら、排水溝に格子状の蓋や金網を設けるところだ。しかし、鉄はもちろん、丈夫な木材でさえ無駄にはできない。まずは簡単な杭で大きな枯れ枝を止め、溜まった土を人の手で取り除くしかなかった。
作ったら終わりではない。
道も井戸も排水溝も、使い続けるなら手入れが要る。村を発展させるために新しいものを増やしすぎれば、今度は維持するための人手が足りなくなる。
「共同炊事場の方は?」
「屋根ができました。竈は二つまで使えます。残りは石が届いてからになります」
「それなら、まずは木を運ぶ者や道を直す者へ温かい食事を出せるようにしてください。村の全員が使えるようにするのは、そのあとで構いません」
「承知しました」
「井戸の周囲へ敷く石は、急がなくていいです。先に便所の穴と排水溝を離す作業を進めてください。水を汚したら、石を敷いても意味がありませんから」
村長の隣に立っていた集落のまとめ役たちも頷いた。
以前なら、俺が現場を一つずつ見て回り、作業する者へ直接指示を出していた。だが、それでは俺が領地を離れた途端に仕事が止まってしまう。
今は村長たちに目的を説明し、日々の判断を任せている。
失敗はある。今日の排水溝のように、やり直しが必要になることもある。
それでも、自分たちで直す者がいなければ、この領地はいつまでも俺一人の思いつきに振り回されるだけだ。
「午後にはベルグハーフェンへ向かいます。排水溝の手入れと炊事場の準備は、皆さんに任せます。怪我人が出た場合と、井戸の水に濁りが出た場合だけは、すぐに知らせてください」
「お戻りはいつ頃になりますか?」
「遅くとも明日の夜には戻ります。急ぎの用がなければ、今日の報告は明後日の朝にまとめて聞きます」
俺が立ち上がると、村長たちは頭を下げて部屋を出ていった。
机の端には、昨夜届いたエリーゼからの手紙が置いてある。
本当なら返事を書きたかったが、朝のうちにもう一つ確認しておかなければならない仕事があった。
屋敷から少し離れた訓練場では、七十人の兵が木台を肩へ当てて並んでいた。
火縄銃を持つ者は二十人、二十人、三十人の三組に分かれている。
数が揃っていないのは、完成した火縄銃を受け取るたびに訓練へ加えてきたからだ。
残る兵たちは、少し離れた場所で木製の訓練道具を使い、装填の動作を繰り返していた。外から見れば、何の訓練をしているのか分かりにくいよう、訓練場の周囲には新たな柵と目隠しを設けている。
「第一組、構え!」
火槍兵長の声が響いた。
二十人が一斉に火縄銃を肩へ当てる。
「撃て!」
赤い布が振り下ろされた。
二十の銃口から火が走り、白煙が広がった。
すぐに第一組が後ろへ下がり、第二組が前へ出る。
「第二組、構え!」
煙の中で足を取られた一人が、隣の兵と肩をぶつけた。二人とも転びはしなかったが、銃口が横へ流れる。
「止めろ!」
火槍兵長が赤い布を上げたまま怒鳴った。
兵たちが動きを止める。
煙が風に流されるのを待ってから、火槍兵長は二人を列の後ろへ下げた。
「前だけを見るな。足元と隣の者も見ろ。敵を見て撃つだけなら、一人でもできる。お前たちは七十人で一つの武器になるんだ」
二人は顔を強張らせながら頷いた。
今度は間隔を少し広げ、第二組が撃つ。
続いて三十人の第三組が前へ出たが、人数が十人多いせいで列の横幅が大きくなる。端にいる者へ号令が届くまで、わずかな遅れが生じた。
三十挺の銃声は一つに重ならず、端の数挺が遅れて鳴った。
百挺、三百挺と数が増えれば、この遅れはさらに大きくなる。
ただ銃を並べれば、同じ瞬間に撃てるわけではない。指揮する者の位置、赤い布の見え方、煙の流れ、隣との間隔を考えなければ、一斉射撃は崩れる。
射撃を終えた火槍兵長が俺のもとへ来た。
「三十人の組だけ、号令が遅れました」
「人数の違いが原因でしょう。三十人を一列に並べるのではなく、十五人ずつ二つに分けてください。火槍兵長の合図を見た班の長が、それぞれ赤い布を下ろす形を試しましょう」
「俺の布を見てから班の長が下ろすなら、今より遅くなりませんか?」
「遅れます。ただ、同じ組の中でばらばらに撃つより、十五人ずつ揃った方がいい。どちらが実際に使いやすいか、両方試してください」
正解はまだ分からない。
前世の知識から、おおよその形は想像できても、俺は何百人もの火縄銃兵を指揮した経験などなかった。
この世界の火縄銃は、前世で知っているものとまったく同じでもない。兵の練度も、火薬の質も、号令の伝わり方も違う。
だからこそ、七十人のうちに失敗しておく必要がある。
「今日は火薬を使う訓練をこれ以上増やさず、組の入れ替わりを繰り返してください。三十人の組は、十五人ずつに分ける方法と、三十人のまま動く方法を比べます」
「分かりました」
「ギルベルトにも記録を頼みます。どちらが早いかだけではなく、ぶつかった人数と、号令を聞き損ねた人数も残してください」
少し離れた場所にいたギルベルトが返事をした。
「アレク様は、ベルグハーフェンへ?」
「はい。次の五十挺を作る準備を確認してきます。訓練は任せました」
火槍兵長は胸へ拳を当てて頭を下げた。
屋敷へ戻る時間はなかったため、俺はそのまま馬へ乗った。
腰には剣を差し、体にはマティアスから贈られた鎧を着けている。手綱を握る両手には、エリーゼから贈られた革手袋があった。
鎧も手袋も、今では特別な日だけのものではない。
俺の身を守るために贈られたのだから、使わなければ意味がない。そう考えて身につけているのだが、手袋だけは汚れや傷が増えるたびに、少し申し訳ない気持ちになった。
ベルグハーフェンへ着くと、工場の事務所では次の五十挺に必要な材料を揃える作業が進められていた。
机の上には、何枚もの木札と帳簿が並んでいる。
鉄筒を作る鍛冶場、木台を削る木工職人、引金や掛け金を担当する金具職人、一発筒に使う獣の角を加工する者、携帯用弾薬箱へ使う革と油紙を扱う商人。
火縄銃を五十挺作るためには、火縄銃そのものだけでなく、装填棒、掃除用の細い棒、一発筒、弾薬箱、腰箱まで用意しなければならない。
それぞれの仕事が遅れないよう、クレーマー商会の者たちが納入日と支払日を調整していた。
「この印は何ですか?」
俺は帳簿の一行を指した。
品物の名が書かれるはずの場所に、鳥のような記号と三本の線が記されている。
「職人と荷の種類を示す印です」
帳簿を管理する書記が答えた。
「工場の帳簿へ、火縄銃や鉄筒とは書かないようにしています。こちらが鍛冶場、こちらが木工所、三本線が三度目の納入です」
「この数字は?」
「支払額です。その隣が荷を受け取る予定の日、最後が荷車の番号になります」
帳簿だけを見ても、何を作っているのかは分からない。
だが、同じ鍛冶場へ何度もまとまった金が支払われ、鉄や木材がベルグハーフェンへ運び込まれ、さらに別の荷がアイヒェンタールへ向かっていることは読み取れる。
記号で隠せるのは、品物の名前だけだ。
人と金と荷の流れまでは消せない。
「この帳簿は、どこに置いていますか?」
「昼はこの事務所です。夜は奥の鍵付きの棚へ入れています」
「製造の記録と同じ場所ですか?」
「いいえ。職人が提出した寸法や検査の記録は、工場内の別室にあります」
俺は少し考えてから頷いた。
製造方法と輸送の記録を分けているのは悪くない。
帳簿には、ベルグハーフェンからアイヒェンタールまで何日かかるか、どの街道を使うか、途中のどこで休ませるかまで書かれている。
火縄銃を作る方法は分からなくても、荷を待ち伏せするには十分な情報だった。
「帳簿は、夜だけでなく、使わない時も棚へ戻してください。机の上へ置きっぱなしにしないように」
「承知しました」
「それから、同じ荷車を続けて使いすぎています。次からは時々変えてください。いつも同じ荷車が同じ道を通れば、帳簿を見なくても覚えられます」
書記が新たな木札を取り、注意を書き留めた。
俺はそのあと工場へ入り、ロルフと次の五十挺の製造予定を確認した。
鍛冶場から届く鉄筒の数は増えている。ロルフが新たに育てている検査役も、単純な歪みや目に見える亀裂なら見分けられるようになっていた。
それでも、最後に火薬を入れて試す検査と、完成品を組み上げる工程はロルフたちが担っている。
「この調子なら、次の五十挺はいつ揃いますか?」
「何も起きなければ、予定どおりだ」
鉄筒の口を覗き込んでいたロルフが、顔を上げずに答えた。
「何か起きると思っている言い方ですね」
「職人に、何も起きなければという言葉を使わせるな。鉄が割れる。木が反る。ばねが折れる。届くはずの荷が届かない。何かは起きる」
「それも含めて予定を組めるようになりたいものです」
「全部を予定へ入れたら、いつまで経っても完成しない」
いかにもロルフらしい答えだった。
俺は苦笑し、組み上がったばかりの一挺を手に取った。
引金、掛け金、火縄ばさみの動きを確かめる。以前より動きが滑らかになっているが、軽すぎるわけでもない。
「悪くないですね」
「悪くない物を良い物のように言うな。試射が終わるまでは、鉄と木を組み合わせただけだ」
「では、試射が終わってから褒めます」
「壊れなければな」
工場を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
今夜はベルグハーフェンの商会が用意した部屋に泊まり、明日の朝にアイヒェンタールへ戻る予定だった。
マティアスへの報告を終えたあと、エリーゼへの返事を書く時間も取れる。
そう考えながら事務所へ戻った時、遠くから鐘の音が聞こえた。
一度、二度ではない。
短く、何度も繰り返される。
火事を知らせる鐘だった。
「どこだ?」
事務所の者が窓へ駆け寄る。
夜空の一角が赤く染まり、黒い煙が上がっていた。
「外倉庫の方です!」
叫び声と同時に、廊下を走る足音が響いた。
俺は外へ飛び出した。
燃えているのは、工場から少し離れたクレーマー商会の倉だった。
乾燥させた木材、革、油紙、加工前の獣の角、空の木箱などを保管している。火薬や完成した火縄銃を置く倉ではない。
それでも、乾いた木と油を含んだ紙が燃えれば、火の勢いは強くなる。
「水桶を回せ! 隣の倉の荷を出せ!」
「井戸の周りを空けろ!」
商会の者と近隣の住民が走り回っている。
俺は火の広がりを見た。
炎は倉の奥と横手、離れた二か所から上がっていた。片方から燃え移ったにしては、広がるのが早すぎる。
しかも、風上側にも火がついている。
「放火です」
俺の隣へ来た商会の番頭が息を呑んだ。
「おそらく」
燃えている倉だけを見てはいけない。
火をつけた者の狙いが、本当に倉を焼くことだとは限らなかった。
「工場と事務所の警備は?」
「倉の火を見て、何人かがこちらへ――」
「全員を集めないでください!」
俺は声を張り上げた。
「事務所、工場、火薬を置く倉から、警備を動かしてはいけません! 水を運ぶ者は住民と外倉庫の者から出します。隣の倉の荷を、風下ではなく道の反対側へ移してください!」
「はい!」
「砂も運んでください。油紙に燃え移った火へ、闇雲に水をかけるだけでは足りません!」
番頭が指示を出しながら走っていく。
俺は火の前に残る者を見回した。
「最初に火を見つけたのは誰ですか?」
「向かいの酒場の主人です!」
「火が出る前に、見慣れない者はいませんでしたか?」
近くにいた倉番が、煤で黒くなった顔をこちらへ向けた。
「裏手に二人いました。荷を間違えたと言って、道を聞いてきました」
「どちらへ行きました?」
「川の方へ。ですが、火が出てからは見ていません」
「ほかには?」
「工場の番兵を呼びに行けと言っていた男がいました。商会の者だと思って……」
「その男の顔を知っていますか?」
「いえ」
火事が起きれば、人は火へ集まる。
見知らぬ者が叫んでも、その場では正しい指示に聞こえてしまう。
工場の警備を外倉庫へ向かわせようとしたのなら、やはり火事は陽動だ。
「ここは任せます。怪我人を先に外へ出してください。燃えている荷へ戻ろうとする者がいたら、止めるように」
俺は連れてきた護衛のうち四人を呼んだ。
「工場へ向かいます。走ってください」
石畳を蹴り、煙とは反対の方向へ走る。
工場の正面には明かりがあり、二人の番兵が残っていた。俺の命令が間に合い、全員が火事へ向かわずに済んだらしい。
だが、正面へ近づいたところで、建物の裏手から怒鳴り声が聞こえた。
「裏だ!」
俺たちは建物の脇を回った。
裏口の扉は半分壊れ、地面には油が撒かれている。
工場の番兵と、顔を布で隠した男たちが争っていた。
見えるだけで十人ほど。
一人は松明を持ち、油の上へ火を落とそうとしている。
「松明を落とさせろ!」
俺は剣を抜きながら叫んだ。
侵入者の一人が振り向き、短い剣を構える。
正面から斬り合う必要はない。
俺は進路を変え、松明を持つ男へ向かった。
横から短剣が突き出される。
鎧の胸へ当たり、金属を擦る音がした。体が少し押されたが、刃は通らない。
マティアスから贈られた鎧が、最初の一撃を受け止めてくれた。
俺は短剣の男を肩で押しのけ、松明を持つ腕へ剣の峰を叩きつけた。
男の手から松明が落ちる。
火が油へ触れる寸前に、工場から飛び出してきた職人が砂を浴びせた。
「砂を撒け! 水は油を広げる!」
別の職人たちも袋や桶に入れた砂を運んでくる。
松明を落とした男が腰の刃物へ手を伸ばした。俺はその手を蹴り、剣の柄で顎を打つ。
男が倒れた。
背後で刃の鳴る音がする。
振り向くと、俺の護衛と番兵が裏口を塞ぎ、侵入者たちを工場の壁際へ追い込んでいた。
だが、全員をこちらへ集めれば、別の出口から逃げられる。
「二人は正面へ回れ! 窓も見ろ!」
護衛の二人が走り出す。
その隙を狙い、侵入者の一人が壁沿いに駆けた。
俺が追おうとした瞬間、倒れていたはずの男が足元から腕を伸ばした。
体勢が崩れる。
そこへ別の男の剣が振り下ろされた。
左腕を上げて受け流し、半歩下がる。
刃先が革手袋の表面を裂いた。
掌に熱い痛みが走る。
血が出たと分かったが、指は動く。
深くはない。
俺は相手の剣を外へ弾き、その手首を掴んだ。捻りながら引けば、男の体が前へ傾く。
膝を腹へ入れ、剣を落とさせた。
「動くな!」
男の首元へ剣先を向ける。
相手は荒い息を吐きながら両手を上げた。
近くでは、番兵が二人がかりで別の男を地面へ押さえつけている。
工場へ入ろうとした者はいたが、壊されたのは外側の扉だけだった。内側の作業場へ通じる扉には、まだ閂がかかっている。
「中は?」
俺は砂を運んでいた職人へ尋ねた。
「入られていません! 奥の扉は開けていません!」
「火は?」
「油に少し移りましたが、消しました!」
「鉄筒と金具を数えてください。図と検査記録も確認を。何か一つでも足りなければ知らせてください」
職人たちが工場へ戻る。
侵入者のうち、地面に倒れたまま動かない者が二人。生きたまま押さえられた者が三人。残りは壁を越えるか、暗い路地へ逃げ込んでいた。
追えば捕らえられるかもしれない。
だが、火事と工場襲撃が同時に起きている以上、さらに別の狙いがある可能性を捨てられない。
「深追いはするな! 工場の周囲を固めろ!」
俺は剣の血を拭い、鞘へ戻した。
そこで、左の革手袋が裂けていることへ気づいた。
手の甲から掌にかけて、斜めに傷が走っている。革の下に薄く血が滲んでいた。
エリーゼからもらった手袋を失わずに済んだ。
最初に浮かんだのが自分の怪我ではなく、そんな考えだったことに、我ながら呆れた。
だが、手袋がなければ、傷はもう少し深かったかもしれない。
エリーゼには、隠さず書くべきだろう。
危険なことがあった時ほど、無事だったという結果だけを伝えないでほしいと、彼女は手紙に書いていた。
工場の職人が戻ってきた。
「火縄銃は全部あります。組み立て前の筒も金具も、数は合っています。記録を入れた箱も開けられていません」
「一発筒と弾薬箱は?」
「そちらも無事です」
息を吐く。
少なくとも、火縄銃そのものと、作り方を示す記録は守れた。
その直後、事務所の方角から一人の男が駆けてきた。
商会の者だ。
顔が青ざめ、右の袖に血がついている。
「アレク様! 事務所が襲われました!」
「何を取られた?」
「帳簿です。輸送と支払いを記した帳簿が、一冊ありません!」
事務所の入口には、争った跡が残っていた。
椅子が倒れ、床へ木札が散らばっている。
扉の近くには、頭から血を流した番兵が横たわり、商会の治療師が傷を押さえていた。意識はあるが、立てる状態ではない。
書記の一人も腕を切られている。
「襲った者は何人ですか?」
「四人ほどです」
腕へ布を巻かれた書記が答えた。
「倉の火を見て、表へ出ようとしたところを押し込まれました。金の入った箱を出せと言われたので、鍵を渡そうとしたのですが……」
「金は?」
「取られていません。棚を開けると、中の帳簿だけを探していました」
「どの帳簿を?」
「今日、アレク様が見ていたものです。ほかの帳簿は床へ投げられています」
机の下や棚の周りには、何冊もの帳簿が散乱していた。
金の箱も、商人から預かっていた小さな貴重品も残っている。
盗まれたのは、工場へ材料を運ぶ職人と商人への支払い、荷車の番号、輸送の日、使う道を記した一冊だけだった。
外倉庫の火事で人を集める。
工場の警備を動かそうとする。
それでも警備が残っていれば、別の者たちが裏口を襲い、工場へ注意を向ける。
その間に、少人数で事務所へ入る。
狙いは最初から帳簿だったのだ。
「ほかに失ったものがないか、もう一度確認してください。金だけではなく、印章と、商会の名が入った書状もです」
「はい」
「この部屋へ入る者を決め、床のものを勝手に動かさないように。怪我人の治療を優先してください」
俺は事務所の外へ出た。
火事の勢いは弱くなっていたが、外倉庫の一部は黒く焼け落ちている。
乾燥させていた木材、革、油紙、獣の角、空の箱。次の製造に必要な物がいくつも失われた。
だが、火縄銃は一挺も盗まれていない。
鉄筒も金具も、製造記録も無事だった。火薬を置く倉へ侵入された形跡もない。
敵は火縄銃の姿を見ていないはずだ。
それでも帳簿には、鍛冶場、木工所、革商人、角を扱う職人へ渡した金が記されている。荷がどこから来て、いつベルグハーフェンへ入り、何日後にアイヒェンタールへ向かうかも読み取れる。
記号だけでは、すべてを隠せない。
何を作っているか分からなくても、どこを見張ればいいかは分かる。
工場の中身を盗まれなかったからといって、秘密を完全に守れたわけではなかった。
捕らえた三人は、別々の部屋へ入れて尋問した。
夜が明けるまでに分かったことは、驚くほど少なかった。
三人とも、この仕事のために雇われただけだという。
金の半分を先に受け取り、残りはベルグハーフェンを離れたあと、指定された町の酒場で受け取る約束だった。
依頼を伝えた男の名は知らない。顔も深く被った頭巾で隠されていた。
命じられたのは、工場へ入り、持ち出せそうな小さな物を奪うこと。中へ入れなければ、油を撒いて焼くこと。
彼らは外倉庫へ火をつけた者の顔も、事務所を襲った者の顔も知らなかった。
役目ごとに雇われた集団が分けられている。
捕まっても、ほかの者のことを話せないようにするためだろう。
「依頼人は、工場で何を作っていると言った?」
俺が尋ねると、頬を腫らした男は首を振った。
「知らねえ。鉄をたくさん使う仕事だとしか」
「持ち出す物は、鉄なら何でもよかったのか?」
「変わった形の物か、絵があれば持ってこいと言われた。あとは火をつけろって」
「火薬があるとは聞いていなかったのか?」
「火薬?」
男の驚き方を見る限り、少なくとも彼は知らなかったらしい。
火薬を扱う場所へ油と松明を持って踏み込ませれば、自分たちまで吹き飛びかねない。
依頼人は雇った者の命など気にしていない可能性もあるが、火縄銃の製造を知っていたなら、もう少し違う指示を出したはずだ。
「依頼人はシュヴァルツ伯の者か?」
「知らねえよ。本当だ。俺たちは前金をもらっただけだ」
嘘をついているかどうか、完全には見抜けない。
ただ、三人とも同じ部分で話が止まった。用意された連絡場所も、別々だった。
シュヴァルツと関係がある可能性は高い。
鉄や食料を集める見慣れない買い手が増えている時期に、偶然こちらの工場だけが襲われたとは考えにくい。
しかし、証拠はない。
別の諸侯や商人が、新しい品を作っているクレーマー商会を探ろうとした可能性もある。
夜が明ける頃、マティアスが事務所へ入ってきた。
倉の火事、工場への襲撃、帳簿の盗難については、すでに報告を受けているはずだ。
それでも、彼が最初に尋ねたのは品物のことではなかった。
「死んだ者は?」
「こちらにはいません。事務所の番兵一人が重傷です。治療師は、今夜を越えれば助かる可能性が高いと言っています。ほかに軽傷者が数人。俺も手を少し切りました」
マティアスの視線が、裂けた革手袋へ落ちた。
「少しに見えないなら、無理に隠すな」
「指は動きます。血も止まりました」
「なら、あとで治療師に見せろ。倉は?」
「乾燥させていた木材、革、油紙、加工前の角、空箱の一部を失いました。工場は裏口が壊され、油を撒かれましたが、火は消しています。火縄銃、鉄筒、金具、製造記録、火薬、一発筒は無事です」
「帳簿だけを取られたか」
「はい。金も印章も残っています」
マティアスは机の上に置かれた、別の輸送帳簿を開いた。
「盗まれた帳簿には、何が書いてある?」
「材料を受け取る日、職人と商人への支払い、荷車、倉、アイヒェンタールまでの日数と道です。品物の名は記号ですが、何度か見張れば意味の一部は推測できます」
「火縄銃の数は?」
「直接は書いていません。ただ、鉄筒らしき荷が五十本ずつ動いていることに気づかれる可能性はあります」
「作り方は分からなくても、どの職人を見張ればいいかは分かる。どの道で荷を奪えばいいかもな」
「申し訳ありません」
俺が頭を下げると、マティアスは帳簿を閉じた。
「お前が謝れば、盗まれた帳簿が戻るのか?」
「戻りません」
「なら、戻らない物に頭を下げ続けるな。まずは負傷した者へ十分な金を出せ。家族がいるなら、治るまで商会が食わせる。それから、焼けた倉を片づける者にも食事と手当を出す」
「はい」
「帳簿を盗んだ奴は、今頃それを読んでいる。鉄を運ぶ日、木材を運ぶ日、荷車がアイヒェンタールへ向かう日を知ったつもりになっているだろう」
マティアスの口元がわずかに上がった。
「なら、その帳簿へ書かれた予定を、今日から俺たちの予定ではなく、敵を動かす命令に変える」
「盗まれた日程どおりに、別の荷を動かすのですか?」
「そうだ。見張るなら見張らせろ。追うなら追わせろ。ただし、何も動かさなければ、帳簿が使えないとすぐに気づく。帳簿どおりに荷は出す」
「中身は普通の木材や農具にする」
「鍋でも酒でも衣服でもいい。ベルグハーフェンからアイヒェンタールへ運んで不自然ではない物を載せろ」
「本当に必要な材料は、別の時間と道で動かします。川を使える荷は船へ回し、同じ職人から続けて受け取らないようにします」
「それでいい」
マティアスは立ち上がり、事務所の中を見回した。
「だが、荷を変えるだけでは足りん。同じことをもう一度された時に、また帳簿を取られるようでは商会の名が泣く」
俺は残っていた書記と番頭を呼んだ。
その場で、帳簿と輸送の扱いを変えることになった。
製造に必要な数を記す帳簿と、荷車や道を記す帳簿を分ける。
一日の輸送に使う木札は、仕事が終われば回収し、翌日まで残さない。
職人や商人を示す印も、同じものを長く使わず、一定の期間ごとに変える。
荷車の出発時刻を毎回同じにしない。
重要な職人とその家族には、工場に近い警備付きの住居を用意する。
一つの鍛冶場や木工所が止まっただけで、すべての仕事が止まらないよう、同じ部品を作れる者を増やす。
火事が起きた場合も、工場、事務所、火薬倉の警備は持ち場を離れない。消火に必要な人員は、あらかじめ別に決めておく。
すべてを一日で完成させることはできない。
だが、誰が何を始めるかは、その日のうちに決められた。
「焼けた材料のせいで、次の五十挺は遅れます」
俺が言うと、マティアスは頷いた。
「何日だ?」
「ロルフたちと調べなければ分かりません。ただ、木材と革は別の倉から回せます。油紙と角も、クレーマー商会の取引先へ声をかければ補えるはずです」
「なら、遅れを数えたあとで縮めろ。最初から遅れなかったことにはするな」
「分かっています」
「それと、襲撃を恐れて職人を急がせすぎるな。不良の鉄筒を通せば、敵に火をつけられなくても、俺たち自身で火縄銃を壊すことになる」
工場を襲われた直後だからこそ、数を取り戻そうと焦りたくなる。
だが、検査を削って製造を急げば、戦場で鉄筒が破裂する。
襲撃による数日の遅れより、その方がはるかに大きな損失になる。
「検査の基準は変えません」
「そうしろ」
マティアスは扉へ向かいかけ、そこで振り返った。
「アレク」
「はい」
「その手袋は、エリーゼ様からもらった物だったな」
「そうですが」
「破れたことを黙って、次に会うまで隠すつもりか?」
「隠しません。手紙に書きます」
「ならいい。傷より手袋を気にしている顔をしているぞ」
「そんな顔はしていません」
マティアスは声を立てずに笑い、そのまま事務所を出ていった。
三日後、盗まれた帳簿に記されていた時刻どおり、一台の荷車がベルグハーフェンを出た。
荷台には粗く削った木材、農具、鍋、葡萄酒の樽、布が積まれている。
どれもアイヒェンタールで必要な物だが、火縄銃とは関係がない。
俺は荷車へ同行せず、少し離れた丘から道を見ていた。
護衛も、普段と変わらない人数に見えるよう配置している。多すぎれば重要な荷だと思われ、少なすぎれば囮だと疑われる。
「右の尾根に人影」
隣にいた兵が小声で告げた。
木々の隙間に、二人の男が見えた。
猟師の格好をしているが、獲物を探している様子はない。荷車が近づくより前から道を見下ろし、通り過ぎると距離を保って移動を始めた。
さらに先の分かれ道にも、別の人影があった。
捕らえるには遠すぎる。
こちらが動けば、森へ逃げ込まれるだろう。
「追いますか?」
「いいえ。顔と服装だけ覚えてください」
「帳簿を盗んだ者の仲間でしょうか」
「断定はできません。ただ、あの時刻にこの道を見張っているなら、偶然ではないでしょう」
荷車は予定どおり街道を進み、見張っていた者たちもその後を追った。
彼らが見るのは、木材と農具と鍋と酒だ。
ベルグハーフェンから山間の領地へ、村づくりに必要な品を運んでいるようにしか見えない。
一方、本当に必要な鉄と金具は、前日の夜に別の倉へ移してある。
そこから小分けにされ、一部は川船で運ばれ、残りは盗まれた帳簿に書かれていない古い山道を通る。
護衛をつけ、荷を受け取る場所も変えた。
遠回りになり、費用も増える。
秘密を守るには金も人も必要だった。
「もう戻りましょう」
俺は尾根から離れた。
敵は火縄銃を盗めなかった。
作り方も、三百挺を揃えようとしていることも、三つの組に分けて撃つ訓練も知らない。
だが、ベルグハーフェンで鉄と木と革が集められ、何かが作られていることには気づいている。
秘密を守り切ったと安心するには、もう遅い。
だからといって、すべてを捨てて工場を別の町へ移すこともできない。
敵が人と物の流れを追うなら、その流れを変える。
隠し切れないのなら、見せるものを選ぶ。
盗まれた帳簿に書かれた道は、もう俺たちの秘密へ続いてはいなかった。
これからは、敵を迷わせるための道になる。
ベルグハーフェンへ戻ると、焼けた倉の片づけが進み、工場の壊された裏口には新しい扉が取りつけられていた。
失った材料の代わりも、少しずつ集まり始めている。
製造は数日遅れた。
それでも、止まってはいない。
ロルフたちは鉄筒の検査を続け、職人たちは木台を削り、金具を組み上げていた。
銃声がまだ戦場へ響いていない間にも、火は少しずつ広がっている。
俺は事務所の机へ座り、裂けた革手袋を横へ置いた。
白い紙を広げ、羽根ペンへインクをつける。
エリーゼへ何と書けば、必要以上に心配させず、それでも危険を隠さずに済むのか。
しばらく迷った末、俺は襲撃があったことから書き始めた。
工場は守れたこと。
火縄銃は一挺も奪われなかったこと。
左手に浅い傷を負ったが、手袋のおかげで大事には至らなかったこと。
そして、もらった手袋を少し破いてしまったことへの謝罪。
格好よく無事だけを報告する手紙にはならなかった。
けれど、それでいいのだと思う。
秘密を守ることと、大切な相手に何も知らせないことは違う。
敵に奪われた帳簿の中身は、もう嘘に変えた。
だが、エリーゼへ送る手紙にまで、都合のいい嘘を書くつもりはなかった。
第十四話を読んでいただき、ありがとうございました。
工場への襲撃を退け、火縄銃や製造記録を守ったアレクたちでしたが、輸送帳簿を奪われてしまいました。しかしマティアスは、その失敗さえ敵を惑わせる手段へ変えようとします。
敵の妨害を受けた生産がどのように立て直され、三百挺へ近づいていくのか。次回もお楽しみください。




