第十話 十七歳の贈り物
十七歳の誕生日を迎えるアレクとエリーゼ。領地経営と火槍隊の訓練が進む中、二人は互いを思って贈り物を選びます。
朝、目を覚ました時には、窓の外から荷車の車輪が軋む音が聞こえていた。
アイヒェン村へレオンハルト直属の兵三百人が入ってから、村の朝は以前より早くなっている。兵へ出す食事を用意する者、薪を運ぶ者、天幕の間に溜まったごみを集める者、それを監督する者が、日の出とともに動き始めるからだ。
領主の家と呼ばれているこの建物も、静かだった頃が遠い昔のように感じられた。
顔を洗って簡単な朝食を済ませると、俺は一階の仕事部屋へ向かった。机の上には、すでに三つの報告書が置かれている。
一つ目は、兵の野営地の近くに設けた市についてのものだった。
最初は農家が余った野菜や卵を持ち寄り、兵へ売るだけの小さな場所だった。今ではベルグハーフェンから行商人が訪れ、針や糸、革紐、木椀、安い酒などを並べている。
兵が三百人増えれば、それだけ多くの食料や日用品が必要になる。すべてを軍や領主が用意しようとすれば、手間も費用も膨れ上がる。だが、兵が自分の銭で欲しい物を買い、商人が利益を得られる場所を整えれば、こちらが用意するのは最低限の食料と設備で済む。
もっとも、人と金が集まれば揉め事も増える。
報告書には、昨夜、酒を飲みすぎた兵二人が口論になったと記されていた。殴り合いになる前に同僚が止め、二人は今朝から野営地の清掃を命じられている。
処分として重すぎず、軽すぎもしない。
俺は報告の端に了承の印を付けた。
二つ目は、荷車の通行についてだった。
軍へ食料や薪を運ぶ荷車と、村人が畑や山へ向かうための道が重なり、朝夕になると通行が滞るようになっていた。道幅そのものをすぐに広げることはできないため、軍用の荷車が通る時間を決め、村人が使う時間とずらす案が出されている。
俺はその案にも印を付けたが、一つだけ書き加えた。
収穫や急病など、村人側に急ぎの事情がある時は、時間にかかわらず通してよい。規則を守らせることに夢中になって、本来守るべき者を困らせては意味がない。
三つ目には、野営地から出るごみと汚水について書かれていた。
三百人が一か所で生活すれば、毎日かなりの量のごみが出る。食べ残し、壊れた木椀、藁、布切れ、人や馬の排泄物。放置すれば悪臭だけでなく、病の原因にもなり得る。
前世で衛生管理の本格的な知識があったわけではない。それでも、大勢が暮らす場所で飲み水と汚れた水を近づけてはいけないことくらいは分かる。
井戸と炊事場の近くにはごみを捨てない。汚水を流す溝は飲み水を汲む場所の下流へつなぐ。排泄場所を決め、埋めるための土と灰を用意する。
方法自体は単純だが、毎日続けなければ効果はない。
「この管理は、村の者だけへ押しつけないでください。兵からも当番を出させます」
俺が告げると、報告に来ていた村長がうなずいた。
「すでに兵の方から十人ほど出していただいております。ただ、人数が増えたため、捨てる場所をもう一つ用意した方がよいかもしれません」
「井戸から離れていて、雨が降っても村の方へ流れ込まない場所を選んでください。場所が決まったら、俺が一度見ます」
「かしこまりました」
「市の方はどうですか。村の者が商人に無理な値段で品物を取られていませんか」
「今のところ、大きな問題はありません。むしろ、野菜や薪が思っていたより高く売れると喜んでおります。ただ、皆が兵の方へ売ろうとして、村の中で使う薪まで足りなくならないか心配です」
それはあり得る話だった。
高く売れるからといって、冬に必要な薪まで手放せば、あとで困るのは領民自身だ。
「各家が冬を越すために必要な分を、先に見積もってください。売るのはそれを確保してからです。余った分については止めません」
「分かりました」
「市の管理と道の使い分けは、これまでどおり皆さんに任せます。細かな問題が起きるたび、俺の判断を待つ必要はありません。ただし、村だけで決められないことや、兵との争いになりそうなことは、すぐに知らせてください」
村長たちへ仕事を任せなければ、俺はいつまで経っても領地の外へ出られない。俺が毎朝すべてを決めるのではなく、彼ら自身が判断できる範囲を少しずつ広げる必要がある。
村長が退室したあと、俺は机の引き出しから別の紙を取り出した。
こちらは村の者へ見せられない報告だった。
ギルベルトから届いた訓練記録である。
レオンハルトから預かった三百人は、百人ずつ三つに分けられていた。そのうち最初に到着した百人は、木で作った訓練用の道具を使い、構え方と号令に従う動きを覚え始めている。
残りの二百人は、槍を持って射手を守る役、弾薬を運ぶ役、火縄と火種を管理する役、伝令役などに分け、基礎訓練を受けていた。
領民へは、レオンハルトの兵が新しい集団戦法の訓練を行っているとだけ説明している。木製の道具が何を模したものなのかも、本物の火縄銃がどこに保管されているのかも知らせていない。
秘密を守るためには、知っている者を減らすのが一番だ。
領民を信用していないわけではない。人は悪意がなくても、家族や友人との何気ない会話で知ったことを漏らす。酒場で聞いた商人が別の町へ運び、その話がさらに別の誰かへ渡れば、出所を追うことは難しくなる。
報告によれば、三百人の中にも実物をまだ見せていない者が多い。
それでいい。
全員へ同時に秘密を明かす必要はない。木製の道具で号令と動作を身につけ、実銃が完成した者から順に扱わせればよい。
俺はギルベルトへの返答に、訓練中の負傷者と体調不良者についても人数を記録するよう書き加えた。
武器がなくても訓練で人は怪我をする。三百人もの兵を預かっておきながら、火縄銃の扱いだけを記録し、彼らの身体を見ないわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、領内の仕事を終えた俺は、ベルグハーフェンへ向かった。
山道を下りながら、腰に下げた革袋へ何度も目を向けてしまう。中には、アルベルトから届いた手紙と、それに同封されていた一枚の紙が入っていた。
紙には、もうすぐ俺が十七歳になることと、その少しあとにエリーゼも十七歳を迎えることが記されていた。
自分の誕生日については、完全に忘れていた。
アイヒェンタールの領主になってから、朝は領内の報告を聞き、昼はベルグハーフェンで火縄銃やクレーマー商会の仕事をし、夕方に領地へ戻って兵の訓練や工事の進み具合を確かめる日々が続いている。
一日が終わる頃には、翌日に片づけるべき仕事のことを考えている。自分が何歳になるかなど、気にしている余裕がなかった。
だが、エリーゼの誕生日まで忘れてよい理由にはならない。
以前、俺は彼女へ林檎の花の髪飾りを渡した。長く待たせた末にようやく手渡せた、大切な贈り物だ。
同じ物をもう一度贈るわけにはいかない。
だからといって、何を選べばいいのかも分からなかった。
クレーマー商会へ到着すると、俺は荷の受け入れを確認していたマティアスを捕まえた。
「少し相談したいことがあります」
「火縄銃か?」
「違います」
「領地の食料か?」
「それも違います」
「では、兵三百人の寝床か。まさか、また厩が足りないと言うつもりではないだろうな」
「違います。贈り物についてです」
マティアスの目が細くなった。
「誰への贈り物だ」
「それを言わなければ、選べませんか」
「男か女か、子供か大人か、商人か貴族かも分からずに選べると思うか?」
正論だった。
俺は周囲に商会の者がいないことを確認してから、小声で答えた。
「……若い女性です」
「エリーゼ様か?」
「だったら何なんですか!?」
思わず声が大きくなり、近くで帳簿を運んでいた商会員がこちらを見た。
俺は咳払いをして顔を背けた。マティアスは隠そうともせず、楽しそうに笑っている。
「いや、何も悪くない。お前がようやく火薬と木炭以外のことで悩んでいるのが面白いだけだ」
「俺だって、いつも火薬のことばかり考えているわけではありません」
「では、昨日の夕食に何を食べた」
「……黒パンと豆の煮込みだったと思います」
「思います、か」
「食事を覚えていることと、贈り物を選べることに何の関係があるんですか」
「自分の暮らしに関心が薄い男が、相手の好みに合う物を選べるのか心配になった」
言い返せなかった。
マティアスは俺を連れ、商会の奥にある小さな応接室へ入った。しばらくすると、装飾品を扱う商人がいくつかの品を持ってくる。
卓上に並べられたのは、髪留め、耳飾り、腕輪、首飾りだった。
金を惜しみなく使った派手な物もあれば、細かな細工を施した銀製品もある。
「十七歳になる大公の姪へ贈る品だ」
マティアスがそう説明すると、俺は慌てて彼を見た。
「年齢まで言わなくてもいいでしょう」
「相手の年齢で選ぶ品は変わる。子供向けの物を渡したいのか?」
「そういうわけではありませんけど」
装飾品を一つずつ見たが、派手な金細工はエリーゼに似合わない気がした。
いや、似合わないのではない。大公の姪として着飾れば、どんな高価な品でも身につけられるだろう。
だが、俺が贈りたいのは、彼女の立場を飾るためだけの物ではなかった。
以前会った時、エリーゼは林檎の花の髪飾りを受け取って、驚きながらも大切そうに触れてくれた。あの時の彼女へ似合う物を選びたい。
目に留まったのは、細い銀の鎖に、小さな深紅の石を留めた首飾りだった。
石は大きくない。光を受けると内側から赤みが浮かび上がり、熟した果実のように見える。
「これを」
俺が指差すと、マティアスが首飾りと俺の顔を交互に見た。
「前は林檎の花で、今度は赤い実か」
「偶然です」
「ほう」
「本当に、偶然です」
「俺は何も言っていないぞ」
その顔は、言葉よりも雄弁だった。
林檎の花が咲いたあとに実がなる。そんな意味まで考えて選んだわけではない。
少なくとも、意識してはいなかった。
「代金はいくらですか」
商人から金額を聞き、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
予想していたより高い。
それでも、自分の財布から銀貨を出した。
「商会の帳簿へ付けてもいいぞ」
マティアスが面白そうに言う。
「そこを商会の帳簿につけたら、さすがにエリーゼ様に失礼だろう」
「分かっているではないか」
「からかわないでください」
首飾りは商会で預かってもらい、領地で箱を用意してから受け取ることにした。
部屋を出ようとしたところで、マティアスが背中へ声をかけてくる。
「アレク」
「何ですか」
「十七歳の貴族の娘へ、同じ年頃の若い領主が首飾りを贈る。その意味を、周囲が何も考えずに受け取るとは思うなよ」
足が止まった。
「誕生日を祝うだけです」
「お前にそのつもりしかなくとも、受け取る側の家臣や侍女は別の見方をする」
「では、贈らない方がいいと言うんですか」
「そうは言っていない。贈るなら、自分の名で贈れと言っている。曖昧にするな」
俺は返事をせず、扉を開けた。
顔が熱くなっているのが自分でも分かる。
だが、首飾りを選んだことを後悔はしていなかった。
◇ ◇ ◇
俺の十七歳の誕生日は、領主の仕事をしているうちに始まった。
朝食はいつもより少しだけ豪華で、卵と燻製肉が付いていた。村長たちから祝いの言葉を受け、領民からは蜂蜜酒の小瓶と干した果実が届けられた。
大げさな宴は断った。
冬へ備えるべき時期に、領主一人のために食料を使わせたくなかったからだ。
ただ、何もするなと言えば、領民の好意まで拒むことになる。そこで夜に小さな食事の席だけ設け、村の代表と兵の指揮官を呼ぶことにした。
午前の報告が終わる頃、アルヴェインからの使者が到着した。
届けられた包みには、エリーゼからの手紙と、柔らかな茶色の革で作られた手袋が入っていた。
掌の部分だけ革が厚くなっており、馬の手綱を握っても傷みにくい。指は動かしやすく、旅や訓練で使うことを考えて作られている。
手首の内側には、目立たない白い糸で小さな林檎の花が刺繍されていた。
飾るための手袋ではない。
俺が日常で使える物を、エリーゼが考えて選んでくれたのだ。
手紙には、十七歳の誕生日を祝う言葉が書かれていた。
以前もらった林檎の花へ、ほんの少しだけお返しをしたかったこと。剣や手綱を握る俺の手が傷つかないよう願って選んだこと。そして、働きすぎて食事や休息を忘れないでほしいということ。
最後には、手袋が合わなくても無理に使わず、正直に教えてほしいとあった。
さっそく右手へはめてみる。
大きさはちょうどよかった。
指を曲げても突っ張らず、剣の柄を握る動きも邪魔しない。俺の手の大きさをどうやって知ったのかと考え、以前会った時に一度手を取られたことを思い出した。
あの時の感触を覚えていたのだろうか。
まさか、それだけで手袋の寸法を決められるはずはない。アルベルトか、俺の装備を知る誰かに尋ねたのだと思う。
そう考えても、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
俺は十五歳の身体で、この世界へ来た。
あの頃はラーデン村のことも、アルヴェインのことも、これから何が起きるかも知らなかった。二年後に領地を持ち、四百人の兵の訓練へ関わり、火縄銃を作っているなど、想像もしていない。
十七歳。
前世の俺にとっては、まだ高校生くらいの年齢だ。だが、この世界では大人として扱われ始める。貴族の娘なら、婚約者が決まっていても何もおかしくない。
その考えが浮かび、俺は慌てて手紙を畳んだ。
ちょうどその時、外から馬車の到着を知らせる声が聞こえた。
マティアスが来たらしい。
玄関へ出ると、荷台から大きな木箱が下ろされていた。
「誕生日おめでとう、アレク」
「ありがとうございます。わざわざ来てくれたんですか」
「お前へ渡す物があった。それに、領地と兵の様子を見ておきたかった」
マティアスが木箱の蓋を開ける。
中から現れたのは、濃い色の布に小さな鉄板を重ねた鎧だった。
胸と腹の内側には細長い鉄板が何枚も入っているが、一般的な板金鎧ほど重くない。腰の部分は短く、足を動かしやすい形になっている。
右肩の防具は小さく、左肩と胸の左側は少し厚い。
「これは……」
「着てみろ」
手伝いを受けて身につけると、見た目から想像したより軽かった。革紐の位置も調整しやすく、腕を前へ出しても肩が引っかからない。
その場で腰を落とし、身体をひねる。
走ることも、剣を振ることもできそうだ。
「ずいぶん動きやすいですね」
「お前が戦場で火縄銃を扱う可能性を考えた。右肩へ木台を当てる時、大きな肩当てが邪魔になる。だから右を軽くし、その分、前へ出やすい左側を少し厚くしてある」
俺は右肩へ銃を当てる動きをしてみた。
たしかに邪魔にならない。
「こんな鎧を、いつの間に作らせたんですか」
「お前が自分の誕生日を忘れている間だ」
マティアスは俺の古い上着をつまみ、眉を寄せた。
「領内のことや火縄銃のことばかりで、身なりを気にしていなさすぎる」
「汚れてはいますが、まだ着られます」
「そこが問題だ。今のお前は、ただの商会員でも従軍する若者でもない。領主であり、兵百人の主であり、レオンハルト殿下の兵三百人を預かる立場だ」
「だからこそ、飾りより実用性を優先しているんです」
「身なりを整えることは、飾ることと同じではない」
マティアスの声から笑いが消えた。
「領主がみすぼらしい格好をしていれば、その領主へ従う兵や領民まで軽く見られる。お前の姿は、お前一人のものではない。アイヒェンタールの領民と、お前の兵と、お前を配下に置く俺の顔でもある」
そう言われると、反論できなかった。
会社員だった頃、服装は自分の好みだけで決められるものではなかった。取引先へ行くなら、相手へ不快感を与えない格好をする。それも仕事の一部だった。
この世界でも、基本は同じなのだ。
「分かりました。大切に使います」
「大切にしまっておけとは言っていない。使え。傷が付いたら直せ」
「はい」
「ただし、鎧を着たからといって、自分から敵の前へ出るな。動きやすくしたのは、死にやすくするためではない」
「分かっています」
前にも似たようなことを言われた気がする。
俺がうなずくと、マティアスはようやく満足そうな顔をした。
誕生日の祝いというより、主君から部下へ装備を支給されたような気もする。だが、今の俺にとっては高価な装飾品よりありがたい贈り物だった。
◇ ◇ ◇
午後、俺は新しい鎧を着たまま試験場へ向かった。
ギルベルトたちは、十挺の火縄銃を並べて検査しているところだった。ベルグハーフェンで組み上げられ、四日間の試験を終えた新しい一組である。
銃を見られる者は限られているため、マティアスと護衛は手前の建物へ残り、俺だけが柵の内側へ入った。
「その鎧はどうした」
ギルベルトが俺を見て尋ねた。
「マティアス様からの誕生日祝いです。火縄銃を構えやすいように作られています」
「なら、実際に撃って確かめた方がいい」
「そのつもりです」
まず、火薬を入れずに一連の動作を試した。
腰の携帯用弾薬箱へ手を伸ばし、一発筒を取る。銃口へ逆さに当てる動きを行い、装填棒を抜いて戻す。火皿へ細かな火薬を置く動作をしたあと、火蓋を閉じ、火縄を火縄ばさみへ挟む。
構える前に火蓋を開き、木台を右肩へ当てる。
右肩の防具が小さいため、木台は安定した。
引金へ指を掛けても、肘の動きは妨げられない。
だが、姿勢を低くして素早く向きを変えた時、腰で硬い音がした。
携帯用弾薬箱の角が、鎧の腰を留める金具へ当たっている。
ゆっくり動く時には問題ない。しかし、急いで装填しようとすれば、箱が引っかかる可能性がある。
「鎧と箱を別々に作ったせいですね」
俺が言うと、ギルベルトも腰元を確認した。
「箱を少し前へ移すか、留め金の位置を上げるべきだろう。今のままでも撃てるが、何十回も繰り返せば邪魔になる」
「戻ったら職人に直してもらいます。ただし、火縄銃そのものは見せません。鎧と箱を身につけて動いた時、ぶつからないようにしてほしいとだけ伝えます」
「それで足りる」
次に、実弾を一発だけ撃つことにした。
火槍兵長であるギルベルトが周囲を確認し、赤い布を上げる。
「弾薬箱開放許可」
俺は箱の蓋を開いた。
「一発取れ」
一発筒を一本抜き取る。
「装填」
筒内へ火薬と弾を入れ、装填棒で奥へ押し込む。火皿へ細かな火薬を置き、火蓋を閉じた。火縄を火縄ばさみに挟み、掛け金へ留める。
射線上に人がいないことをもう一度確かめる。
火蓋を開き、木台を肩へ当てた。
ギルベルトが赤い布を振り下ろす。
引金を引くと、火縄を挟んだ金具が火皿へ落ちた。
一瞬遅れて、轟音とともに白煙が広がる。
肩へ反動が伝わったが、鎧の形が木台を邪魔することはなかった。
俺は火縄を手で安全な位置へ引き上げ、遅れて火薬が燃えないことを確認する。
「弾薬箱閉め」
箱の蓋を閉じた。
標的を見ると、弾は中央から少し右へ外れた場所へ当たっている。鎧のせいではなく、俺の狙いが甘かったのだろう。
「撃つこと自体には問題ありません」
「腰の箱だけ直せば使えるな」
「この鎧をそのまま全員へ配るのは高すぎます。けれど、火槍隊用の装備を考える時の基準にはできます」
胸や腹を守る鉄板の枚数を減らし、重要な部分だけを残せば、もっと安くできるかもしれない。射手は重装歩兵のように敵と正面から斬り合う役ではないが、矢や投石、流れ弾から身を守る備えは必要だ。
軽さと防御力と費用。
どれか一つだけを選ぶことはできない。
「兵へ渡す物は、これより簡素でいい。だが、全員の身体に合わない物を無理に着せるな」
ギルベルトが言った。
「分かっています。動きを妨げる鎧なら、守る前に兵を死なせます」
新しい鎧は、贈り物であると同時に試作品にもなった。
マティアスは、そこまで考えて作らせたのかもしれない。
その後、俺たちは新しく届いた十挺の検査結果を確認した。
四日間の試験で、一挺は火縄ばさみの位置がわずかにずれていることが分かった。火縄を落とした時、火皿の中心ではなく端へ触れる。撃てないわけではないが、風が強ければ着火が不安定になる可能性がある。
もう一挺は、鉄筒と木台の間に小さな隙間があった。発射試験で異常は起きていないが、使い続ければ筒の固定が緩む恐れがある。
どちらも職人がその場で直し、もう一度試射を行った。
十挺すべてが合格したことで、使える火縄銃は増えた。
火縄銃は六十挺。
四百人の兵に対しては、まだ少ない。
既存の十人と、実銃訓練へ進んだ者を優先して使わせ、残りは木製の道具で動きを覚えさせている。実銃を持つ組と持たない組を入れ替えながら訓練し、一人でも多く火薬の匂いと反動を経験させる必要があった。
兵たちも、実銃が自分たちへ回ってくる日を待っている。
俺自身も、早く百挺、二百挺を並べたい。
だが、数だけを追って不良品を兵へ渡せば、敵より先に自分たちが傷つく。十挺ずつ検査し、不具合を記録し、次の製作へ反映させる手順は省けない。
「次の十挺は、いつ届く予定ですか」
「順調なら十日ほど先だと聞いている」
ギルベルトが答える。
「工場が動き始めれば、もう少し早くなるでしょう。それまでは今の六十挺を使い、実銃を持たない者の役割も固めます」
「全員を射手にするつもりではないのだな」
「はい。火縄銃の基本は全員に学ばせますが、戦場では役割を分けます。射手だけいても、装填中に敵が迫れば守れません。火縄、火薬、弾を運ぶ者も要ります。故障した銃を後ろへ運び、使える銃と交換する者も必要です」
「伝令もだ。四百人へ声だけで命令を届けるのは無理がある」
「赤い布も、煙が濃くなれば見えなくなります。班ごとの合図と、命令を伝える順序を決めましょう」
前回の戦いでは、十挺を五挺ずつ二班に分けることで、敵の予想を外した。
だが、六十挺、百挺と増えれば、十人の時と同じやり方では動かせない。射撃の間隔、列の交代、煙を避ける位置、槍兵が前へ出る時機。考えるべきことは数が増えるほど多くなる。
火縄銃が増えれば、そのまま戦力が増えるわけではない。
使い方を整えて初めて、数が力になる。
「今日は鎧の試験だけのつもりでしたが、午後の訓練も見ます」
「誕生日ではなかったのか」
「だからといって、兵が休みになるわけではありません」
「領主が祝われている間に訓練していたと知れば、兵は不満を持つぞ」
「では、日が落ちる前に終わらせます」
ギルベルトが呆れたように息を吐いた。
その表情が、少しだけマティアスに似て見えた。
◇ ◇ ◇
誕生日から数日後、俺はアイヒェンタールの木工職人へ小さな箱を頼んだ。
何を入れるかは伝えず、手のひらより少し大きく、軽くて丈夫な物が欲しいと説明した。
職人は領内で採れた硬い木を選び、角を丸く削った。内側にはベルグハーフェンから買った柔らかな布を張り、小さな留め具を付ける。
最初にできた箱は、蓋が固すぎた。
職人は丈夫な方がよいと考えたらしいが、力を入れなければ開かない。エリーゼが開けた拍子に中身を落としたら困る。
「もう少し軽く開けられませんか。ただ、荷車で運んでいる途中に勝手に開かない程度で」
「でしたら、ここの噛み合わせを少し削ります。留め具があるので、蓋を緩めても開くことはありません」
「お願いします」
職人が蓋を調整する間、俺は箱へ入れる手紙を考えていた。
誕生日を祝うこと。
以前もらった手袋が手に合っており、仕事や馬での移動に使っていること。
俺の領地では村の道や市を整え、兵の訓練も進んでいること。
どこまで書くべきだろうか。
火縄銃の数や訓練の詳しい内容は、手紙へ残すべきではない。途中で奪われれば、こちらの戦力を知らせることになる。
俺は「火槍隊の訓練は進んでいる」とだけ書くことにした。
「女性への贈り物ですか」
箱を削っていた職人が、何気なく尋ねてきた。
「どうしてそう思うんです」
「剣や工具を入れる箱なら、内側へこんな布は張りませんから」
「……誕生日の品です」
「奥方様ですか」
「違います」
答えるのが早すぎた。
職人が手を止め、こちらを見る。
「まだ、そのような関係ではありません」
「まだ?」
「今のは忘れてください」
「かしこまりました」
そう言いながら、職人の口元はわずかに緩んでいる。
俺は余計なことを言わないよう、手紙へ視線を戻した。
ところが、箱の大きさを確かめるために首飾りの形を説明しているうち、うっかりエリーゼの名を口にしてしまった。
職人の目が大きくなる。
大公の姪へ贈る品の箱を、自分が作っているとは思っていなかったのだろう。
「このことは、あまり言い広めないでください」
「もちろんです。ですが、これほどの品なら、もっと上等な木を取り寄せた方がよかったのではありませんか」
「この領地の木で作ってほしかったんです」
首飾りそのものは、ベルグハーフェンの商人から買った物だ。せめて箱は、俺が治める土地の職人に作ってもらいたかった。
エリーゼがそれをどう受け取るかは分からない。
けれど、今の俺がどこで暮らし、何を守ろうとしているのか、その一部を一緒に渡せる気がした。
完成した箱の代金は、自分の金で払った。
「使った木材の量と、作業にかかった時間を記録しておいてください」
「同じ箱をまた作るのですか」
「同じ物を贈るつもりはありません。ただ、売り物になるかもしれません」
兵が集まったことで、アイヒェンタールには外から商人が来るようになった。大きな家具を運ぶのは難しくても、小さな箱なら荷車へ積みやすい。木材をそのまま売るより、職人が加工した品として売った方が、領内へ残る金も増える。
俺がエリーゼへ贈る箱を見本にすれば、装飾を減らした安価な物や、逆に細工を増やした高級品も作れる。
一つの贈り物が、すぐに領地を豊かにするわけではない。
だが、職人へ新しい仕事を一つ増やすことはできる。
実際、その数日後には、市へ来た商人が同じような箱を五つ注文した。最初の品より布や留め具を簡素にし、値段を抑えた物だ。
職人は弟子へ木を削る作業を教え始めたという。
俺はその報告を聞いたあと、箱の中へ首飾りと手紙を収めた。
林檎の花の髪飾りは、すでにエリーゼの手元にある。
今度は、深紅の石を留めた銀の首飾りだ。
蓋を閉じる前に石を眺めると、マティアスが言った「花の次は赤い実」という言葉を思い出す。
本当に偶然だった。
そう思おうとするほど、偶然ではないような気がしてくる。
俺は蓋を閉じ、アルヴェインへ向かう信用できる商会員へ箱を預けた。
◇ ◇ ◇
箱を送り出した夜、ベルグハーフェンでマティアスと夕食を取った。
食事をしながらも、机の端には火縄銃工場の建設費と、鉄材の仕入れ量を書いた帳簿が置かれている。
仕事の話が一段落したところで、マティアスが尋ねた。
「首飾りは送ったのか」
「今日、送りました」
「自分の名で?」
「当然です」
「それでいい」
マティアスは酒を一口飲んだ。
「何ですか、その顔は」
「別に何も」
「絶対に何か考えていますよね」
「十七歳の若い領主が、大公の姪へ首飾りを贈った。その話を聞いたアルベルト殿が、どんな顔をするか想像していただけだ」
手にしていた木椀を置いた。
「問題になりますか」
「品を送り返されるような問題にはならん。アルベルト殿は、お前がエリーゼ様を粗末に扱うより、気に掛けている方を喜ぶだろう」
「なら、いいじゃないですか」
「アルベルト殿だけが見るわけではない。侍女も家臣も見る。エリーゼ様が十七歳になれば、縁談を考える者がいても不思議ではない」
「もう、何か決まっているんですか」
自分でも驚くほど早く、言葉が出た。
マティアスは木椀を卓上へ置き、俺の顔を正面から見た。
「俺が知る限り、決まってはいない」
「そうですか」
「安心したか?」
「確認しただけです」
「なら、そういうことにしておこう」
また笑われた。
俺は帳簿を手元へ引き寄せる。
「火縄銃工場の話へ戻します。水路の工事ですが――」
「逃げ方が露骨だぞ」
「仕事です」
「そうだな。お前には、領主としても商会員としても、まだ山ほど仕事がある」
マティアスは帳簿の数字を指で叩いた。
「地位も金も兵も、持っただけでは意味がない。それを使い続けられる力を示せ。誰かの隣へ立ちたいなら、なおさらだ」
からかう口調ではなかった。
俺は返事の代わりに、帳簿へ目を落とした。
エリーゼとの関係は、俺たち二人だけで決められるものではない。彼女はアルヴェイン大公の姪で、俺はマティアスの配下として小さな領地を治め始めたばかりだ。
火縄銃を作ったことや、戦で功績を挙げたことだけで、すべてが認められるわけではない。
領地を守り、兵を育て、任された仕事で結果を出す。
その積み重ねが必要なのだろう。
「分かっています」
「本当に分かっているなら、少しはその鎧に似合う上着も用意しろ」
「また身なりの話ですか」
「明日、商会の仕立屋を向かわせる」
「勝手に決めないでください」
「領主が穴の開きかけた袖で会談へ来るよりましだ」
俺は自分の袖を見た。
穴は開いていない。
ただ、たしかに端が少し擦り切れていた。
◇ ◇ ◇
エリーゼからの返事が届いたのは、それから数週間後だった。
その日は朝から雨が降っていた。
山道がぬかるんだため、俺はベルグハーフェンへ向かわず、領主の家で道の補修計画と冬支度の帳簿を確認していた。
使者から受け取った手紙には、見覚えのある丁寧な文字が並んでいる。
十七歳の誕生日を祝ってくれたことへの礼。
首飾りがとても気に入ったこと。
銀の鎖も深紅の石も美しく、派手すぎないため、普段から大切に身につけられそうだということ。
そこまでは、落ち着いて読むことができた。
だが、その次の一文で手が止まった。
林檎の花の次に赤い実を贈った意味について、エリーゼも気づいたらしい。
きっと俺は偶然だと言うだろうから、自分もそういう説明として受け取っておく、と書かれている。
顔が熱くなった。
なぜ彼女までマティアスと同じことを考えるのだろう。
さらに読み進める。
箱にアイヒェンタールの木が使われていることも喜んでくれていた。箱を開けるたび、俺が今暮らしている土地を少しだけ想像できるという。
アルベルトにも首飾りを見せたらしい。
誰から贈られたのか尋ねられ、正直に俺の名を答えると、何も驚かず、ただ妙に満足そうに笑っていたと書かれている。
やはり、知られた。
隠すつもりはなかったが、アルベルトがどんな顔で笑ったのかを想像すると、次に会うのが少し怖い。
侍女たちからも、誰にもらったのか何度も尋ねられたという。エリーゼは恥ずかしかったが、贈り主を隠さなかった。
そして、次に会う時には、林檎の花の髪飾りと今回の首飾りを一緒に身につけたいと続いていた。
俺はその一文を、無意識にもう一度読んだ。
最後には、マティアスから新しい鎧を贈られたと手紙に書いたことへの返事があった。
俺が身なりへ無頓着なのは、エリーゼにも知られていたらしい。マティアスの判断は正しいと思う、と書かれている。
ただし、鎧が必要になる場所へ進んで行かないでほしいこと。次に会った時、その鎧を見せてほしいこと。
心配と好奇心が、彼女らしい言葉で並んでいた。
俺は手紙を机へ置き、窓の外を見た。
雨の向こうでは、領民が水の溜まった道へ砕いた石を運んでいる。遠くの訓練場からは、雨天を想定した兵たちの号令がかすかに聞こえた。
火縄銃は雨に弱い。
だから今日は実銃を倉から出さず、木製の道具を布で覆って運ぶ訓練をさせている。火縄や火薬を濡らさず、射撃できない時には槍兵とともにどう動くかを確認するためだ。
十七歳になっても、俺の一日は急には変わらない。
朝は領地の報告を聞き、必要な指示を出す。ベルグハーフェンへ行ける日は、クレーマー商会と火縄銃の仕事を進める。夕方にはアイヒェンタールへ戻り、兵の訓練や領内の変化を確認する。
領主としての仕事。
マティアスの配下としての仕事。
火縄銃を作り、兵を育てる仕事。
どれも途中で投げ出すことはできない。
それでも、机の上に置いた手袋と手紙を見ると、その忙しい日々の先に、もう一つ大切にしたいものがあると思えた。
俺はエリーゼへの返事を書くため、新しい紙を取り出した。
まず、首飾りを気に入ってくれたことへの安堵を書く。
次に、赤い石を選んだことへ深い意味はなかったと説明しようとして、筆が止まった。
偶然だと書けば、エリーゼの予想どおりになる。
かといって、林檎の花が実になったことを意識して選んだと認めるのも、ひどく恥ずかしい。
しばらく迷った末、俺はその部分を後回しにした。
領内の道を直していること。兵たちの訓練が進んでいること。もらった手袋を使っており、手に合っていることから書き始める。
新しい鎧については、右肩が動かしやすく、以前より身軽に動けると記した。
ただし、腰の弾薬箱と金具がぶつかったことまでは書かない。説明すれば、火縄銃の装備について詳しく書きすぎることになる。
最後まで書き終えても、赤い石の意味だけが残った。
俺は悩んだ末、短く一文を加えた。
偶然だったと思うが、エリーゼが意味を見つけてくれたのなら、その受け取り方を否定するつもりはない。
書いてから、余計に恥ずかしくなった。
マティアスへ相談すれば、もっと気の利いた言葉を教えてくれるかもしれない。
だが、必ず笑われる。
俺は誰にも見せず、そのまま手紙を封じた。
第十話を読んでいただき、ありがとうございました。
アレクとエリーゼは十七歳となり、手袋と首飾りを通して互いの気持ちを確かめました。一方、アレクは新しい鎧を得て、火縄銃も六十挺まで増えています。
領地の発展、四百人の訓練、火縄銃の増産は、次の戦いへ向けて少しずつ結びついていきます。




