第九話 火を持たない三百人
レオンハルトから新たに預けられた三百人の兵。火縄銃が足りない中、アレクは自領の兵と合わせた四百人を、新しい火槍隊として育て始めます。
朝の報告を聞き終えた時、領主の家の前に一台の馬車が止まった。
扉を叩いたのは、クレーマー商会の使いだった。
「アレク様。マティアス様より、すぐにベルグハーフェンへ来ていただきたいとのことです」
「何かありましたか?」
「私には知らされておりません。ただ、レオンハルト殿下がお待ちです」
レオンハルトが来ている。
それだけで、普段の報告ではないことが分かる。
俺は机に残っていた書類へ目を落とした。
山道の補修に必要な木材の数。新しく掘り始めた排水溝。薪を保管する小屋の屋根。冬へ向けて修理が必要な家屋。
どれも放っておけないが、俺がここに座っていなければ進まない仕事でもない。
「村長には、東の集落へ送る木材を先に確保するよう伝えてください。排水溝は昨日決めた場所までで一度止めて、雨が降った後に水の流れを確認します」
報告役の男が頷く。
「承知しました」
「薪小屋の屋根は?」
「木工職人が二人、今日から入ります」
「では、その二人に任せます。足りない材料があれば、クレーマー商会の荷に載せてもらえるか確認してください」
「はい」
俺が細かな作業を一つずつ見て回らなくても、領地の仕事は進み始めている。
以前なら不安で、現場へ行きたくなったかもしれない。
だが、俺が全部を見るということは、俺にしか判断できない仕事が止まるということでもある。
領主は何でも自分でやる人間ではない。
誰に何を任せるかを決め、結果を報告させる人間だ。
そう自分へ言い聞かせ、俺は外套を取った。
アイヒェン村からベルグハーフェンへ向かう道は、以前より少しだけ走りやすくなっていた。
大きな石を取り除き、窪みへ砕いた石と土を入れ、雨水が道の中央へ溜まらないよう両脇に浅い溝を掘っている。
立派な石畳ではない。
雨が何日も続けば、また泥になる場所もある。
それでも、荷車の車輪が取られる回数は減った。
領地で切った木材がベルグハーフェンへ運ばれ、帰りの荷車には鉄製品や布、塩が積まれる。その往復が道を固め、通る者が増えたことで、道を直す理由も増えていた。
何か一つを変えると、別のものが動く。
道を直せば荷が増え、荷が増えれば人が増え、人が増えればまた道を直さなければならない。
終わりがない。
だが、悪い気はしなかった。
昼前にベルグハーフェンへ着くと、俺はクレーマー商会の本館へ通された。
会議室には、マティアス、レオンハルト、ユリウスが待っていた。
机の上には、ベルグハーフェンとアイヒェンタール周辺の地図が広げられている。
俺が入ると、レオンハルトは挨拶より先に言った。
「遅いぞ」
「呼び出されたのは今朝です。アイヒェンタールから飛んで来ることはできません」
「馬で来ただろう」
「馬にも限界があります」
「お前なら、そのうち馬より速い荷車を作るかと思った」
「道が悪ければ車輪が外れるだけです」
レオンハルトが小さく笑う。
マティアスは呆れたような顔で書類を一枚押し出した。
「殿下。アレクを呼んだ理由を先に話していただけますか。こいつは領地へ戻れば、また別の仕事を抱えます」
「忙しいのか?」
「誰のせいだと思っているんです?」
俺が尋ねると、レオンハルトは悪びれずに答えた。
「俺とマティアスだろうな」
「分かっているなら減らしてください」
「断る」
即答だった。
ユリウスが咳払いをする。
「本題へ移りましょう」
レオンハルトは椅子へ深く腰を下ろし、地図の上へ三本の指を置いた。
「三百人、お前に預ける」
「……何をですか?」
「兵だ」
聞き間違いではなかったらしい。
三本の指は、一つ百人という意味なのだろう。
「俺に?」
「ああ」
「三百人を?」
「ああ」
「なぜです?」
「火槍を扱わせる」
部屋の中が急に狭くなったような気がした。
俺の領地にいる兵は百人だ。
そこへ三百人を加えれば、合わせて四百人になる。
「待ってください。火縄銃は三十挺しかありません」
「知っている」
「十人で一挺を取り合っても余ります」
「だから何だ?」
「銃がない兵へ、どうやって銃の訓練をするのです?」
レオンハルトは、机の端に置かれていた木片を指で叩いた。
「木で作ればいい」
「本物がなければ、火薬も弾も扱えません」
「装填の順番は覚えられる。構えも、号令も、隊列の組み方もな」
俺は言葉に詰まった。
理屈は分かる。
実際、アイヒェンタールでも木製の模擬銃を使っている。百人全員へ実銃を渡せない以上、そうするしかなかった。
だが、百人と四百人では話が違う。
「銃が完成してから兵を集めていては遅い」
レオンハルトが続ける。
「今の作り方でも、火縄銃は増える。工場が動けば、さらに増える。だが武器だけ増えても、使える兵がいなければ倉の中で錆びるだけだ」
「それは、そうですが」
「火を持たぬうちから、火を扱える兵にしておけ」
三百人の兵。
ただ並べれば大勢に見える。
食べさせ、眠らせ、命令を伝え、同じ動きをさせようとすれば、それだけでは済まない。
「三百人は、俺の兵になるのですか?」
「ならん」
レオンハルトが即座に否定した。
「俺の直轄兵だ。百人ごとの指揮官も替えない。給金も俺が出す。お前に任せるのは、火縄銃の訓練と、それを戦場で使うための形を作るところまでだ」
「通常の命令は、これまでの指揮官が出す?」
「そうだ」
「訓練中の号令は?」
「お前と、あの火槍兵長に任せる」
「ギルベルトです」
「そうだったな」
レオンハルトは、あまり悪びれずに頷いた。
ギルベルトの名前を覚える気があるのかは分からない。
「食料や衣服はどうなります?」
今度はマティアスへ尋ねた。
「レオンハルト殿下の軍資金から出す。クレーマー商会が調達と輸送を請け負う」
「アイヒェンタールに負担させるつもりはありませんか?」
「兵舎を建てる土地と、訓練に必要な場所は出してもらう。水と薪も、使った分は記録する。食料を村から買う場合は代金を払う。お前の領地の百人までならともかく、殿下の三百人まで養わせれば、村の暮らしが壊れる」
その答えを聞き、少しだけ安心する。
小さな領地で四百人を養うのは無理だ。
兵が一人一日一キロほど食べると単純に考えても、四百人で四百キロになる。実際には穀物だけでは足りず、塩、豆、野菜、肉、酒も必要になる。
馬まで連れてくれば、さらに増える。
「三百人は一度に来ますか?」
「百人ずつ送る」
ユリウスが答えた。
「第一陣は十日後。二陣はその十日後。最後の百人は、受け入れ状況を確認してから送ります。ただし、三百人すべてをアレク殿の訓練下へ置くという命令は、すでに準備しています」
十日。
兵舎を建てるには短い。
「兵舎が間に合いません」
「最初は天幕でも構わん」
レオンハルトが言う。
「屋根を作るまで訓練を待つ必要はない」
「雨が降ったら?」
「濡れる」
「火縄銃を扱う兵に言うことですか?」
「まだ木の棒しか持たせないのだろう?」
俺は反論しようとして、やめた。
確かにその通りだった。
レオンハルトは笑っている。
また俺が引き受けると分かっていて話を持ってきたのだ。
「三百人が集まれば、隠せなくなります」
俺は声を落とした。
「今も、職人へ不審な商人が近づいています。アイヒェンタールに大勢の兵を集めれば、新しい武器を作っていると知らせるようなものです」
「だから火槍隊だ」
レオンハルトは何でもないことのように言った。
「世間は俺が火槍を集めていると思っている。なら、集めているように見せてやればいい」
「新型の火縄銃ではなく、従来型の火槍を使う兵だと思わせるのですか」
「そうだ。兵を三百人集めたことは隠せん。ならば、何のために集めたかを間違えさせろ」
全部を秘密にするのではなく、一部を見せて、その意味を誤解させる。
従来型火槍の噂を利用する策とも繋がっている。
「実銃を使う訓練は、アイヒェンタールの試験場だけに限ります」
俺は地図を指した。
「兵営は村の外へ置きます。表から見える場所では木製の模擬銃も使わせません。火槍隊の基礎体力と隊列訓練だと言って、槍を持たせます」
「好きにしろ」
「殿下の兵ですよ」
「だからお前に預ける」
責任は重い。
だが、ここで断れば、火縄銃だけが増え、扱える兵が足りなくなる。
銃は撃つ者がいて初めて武器になる。
さらに、一人の射手だけでは戦えない。
火薬と弾を運ぶ者。故障した銃を下げる者。火縄を守る者。射撃の間に敵を止める槍兵。煙の向こうへ命令を運ぶ伝令。
十挺を戦場へ持ち込んだだけでも、それを思い知らされた。
「分かりました」
俺が答えると、レオンハルトは満足そうに頷いた。
「四百人で、何ができるか考えろ」
「まだ三十挺しかありません」
「今はな」
その言葉に、俺は机の上の地図へ視線を落とした。
三百人。
地図の上なら、指三本で済む。
だが十日後には、食べ、眠り、不満を言い、命令を聞き間違える三百人が、本当にアイヒェンタールへやって来る。
◇ ◇ ◇
「三百人?」
ギルベルトは、聞き返した後、しばらく黙っていた。
ベルグハーフェンから戻った俺は、まずギルベルトと、前回のシュヴァルツ伯との戦いを経験した十人だけを集めた。
この場に村長や領地の役人はいない。
机の上には、アイヒェン村と試験場の周辺を描いた簡単な地図がある。
「レオンハルト殿下の直轄兵です。百人ずつ来ます」
「いつからです?」
「最初の百人は十日後です」
ギルベルトは腕を組んだ。
「無理です」
「何がです?」
「全部です」
迷いのない答えだった。
「十人を育てるのと百人を育てるのは違います。まして、最後は四百人でしょう」
「俺もそう思います」
「でしたら断ってください」
「もう引き受けました」
ギルベルトが深く息を吐いた。
「そうだと思いました」
「すみません」
「謝るくらいなら、もう少し時間をもらってください」
「十日です」
「少なすぎます」
その反応も予想していた。
だからこそ、俺たちだけで全員を見るつもりはなかった。
「既存の十人に、三人ずつ教官候補を付けます」
ギルベルトが地図から顔を上げる。
「三十人を先に育てるのですか」
「はい。ギルベルトが四百人全員を見るのは無理です。今いる十人も同じです。だから、最初の十人が三十人を教え、その三十人が次の兵を教えます」
「間違った動きを覚えた者が、そのまま他の者へ教えれば?」
「教官候補は、ギルベルトと既存の十人が確認します。合格するまでは他の兵を教えさせません」
ギルベルトは黙って考えている。
「十人の班を基本にします」
俺は地図の脇へ十個の小石を並べた。
「火縄銃が十挺から始まったので、これまでの号令も十人を一つとして作ってきました。百人を一度に動かそうとせず、十人ずつに分ける。その上に班をまとめる者を置きます」
「百人隊の指揮官とは別に?」
「役割を分けます。百人隊の指揮官には、兵を持ち場へ動かし、退却させ、規律を守らせてもらいます。火縄銃を安全に撃つための号令は、ギルベルトたちが決める」
「二人の命令が違った場合はどうします?」
「それを、訓練前に決めます」
そこが最も危険だった。
戦場で二人の指揮官が別々の命令を出せば、兵は動けない。
撃てと言われた直後に前進を命じられれば、味方の背中へ銃口を向けることにもなる。
「射撃の準備に入った後は、ギルベルトの号令を優先します。それ以外の移動と戦闘は百人隊の指揮官に従う。命令を切り替える合図も必要です」
「赤い布だけでは足りません」
「分かっています。人数が増えれば、後ろから見えません」
ギルベルトが小石を指で動かした。
「射撃の号令を伝える兵を、班の間へ置きましょう。声だけでなく、赤い布も班ごとに持たせます」
「それも試しましょう」
一度で正解が出るとは思わない。
十人で成功したことが、百人でも通用するとは限らない。
ギルベルトたちとの相談を終えた後、俺は村長と領地の主だった者たちを別の部屋へ呼んだ。
彼らへ伝えたのは、レオンハルトの兵三百人を受け入れることと、そのために必要となる土地、水、薪、食料、道、警備についてだけだ。
火縄銃の構造も、木製の模擬銃を使うことも話さない。
領民にとっては、レオンハルトが兵を訓練するため、アイヒェンタールへ送ってくる。それだけで十分だった。
「兵舎はどうしますか?」
村長が尋ねた。
「村の中には入れません。村から離れた平地を使います」
「畑に近い場所です」
「収穫前の畑は避けます。放牧に使っている土地の一部を借ります。使えなくなる分は、レオンハルト殿下の軍資金から補償します」
「井戸がありません」
「最初は水を運びます。同時に井戸を掘ります。ただし、飲み水に使えるかは確かめてからです」
「薪は?」
「領内から買い取ります。兵に勝手に切らせません」
兵が来れば、周囲の木を切り、畑から作物を取り、村の酒場へ押しかける。
それを当たり前にしてしまえば、領民にとって兵は味方ではなくなる。
「兵営の外へ出る時は許可を取らせます。村へ入れる人数も決めます。領民から何かを受け取る場合は、必ず代金を払う。破った者は百人隊の指揮官へ引き渡します」
「兵が大人しく従いますか?」
「従わせるのは、俺たちではなくレオンハルト殿下の指揮官です」
俺が訓練のために預かるからといって、すべての責任を抱える必要はない。
元からある命令系統を利用した方がいい。
俺は仕事を分けた。
兵舎用の木材を確保する者。
天幕を張る場所を均す者。
水を運ぶ樽と荷車を用意する者。
炊事場と便所の場所を決める者。
兵営と村の間を巡回する者。
訓練場へ続く道へ見張りを置く者。
「便所は井戸と炊事場より低い場所へ置いてください。雨が降った時に、汚れた水が井戸側へ流れないようにします」
「低い場所は、こちらです」
地図の一角が示される。
「排水溝を掘れば、森の外へ流せます」
「では、それでお願いします」
全部を自分で掘る必要はない。
場所と理由を伝え、実際に土を知っている者へ任せる。
「俺は明日の朝、ベルグハーフェンへ戻ります」
村長が驚いた顔をした。
「またですか?」
「兵の訓練に使う木材と、食料の輸送を決めなければなりません。こちらの仕事は皆さんに任せます」
俺は一人ずつ顔を見た。
「毎晩、進んだことと、困ったことだけを報告してください。決めた通りに進んでいる仕事まで、一つずつ俺へ聞きに来なくて構いません」
「領主様に黙って決めてもよろしいのですか?」
「任せた範囲なら」
戸惑いは残っている。
それでも、やってもらわなければならない。
十日後までに必要なのは、完璧な兵営ではない。
百人が眠り、水を飲み、食事を作り、村と問題を起こさずに暮らせる最低限の形だ。
完成を待っていては、何も始まらない。
◇ ◇ ◇
十日後。
最初の百人は、土煙を上げながらアイヒェンタールへ入ってきた。
槍兵が六十。弓兵が二十。剣と盾を持つ兵が二十。
揃った装備ではない。
革鎧だけの者もいれば、鎖帷子を着た者もいる。兜の形も、盾の大きさもばらばらだった。
だが、行軍の列は大きく崩れていない。
先頭には、百人隊の指揮官が馬に乗っていた。
俺より明らかに年上だ。
年齢は三十代半ばほどだろう。日に焼けた顔には短い傷があり、俺を見ても表情を変えなかった。
百人が兵営予定地へ入る。
天幕は間に合った。
簡素な木造兵舎も一棟だけ完成している。
井戸はまだ掘っている途中で、水は村側の井戸から樽で運ばなければならない。
炊事場の屋根も半分しかない。
それでも、雨露を避ける場所はある。
百人隊の指揮官は周囲を見回した。
「ここが、火槍隊の訓練所ですか」
「表向きは、そうなります」
「表向き?」
「詳しい説明は、全員の身元をもう一度確認してから行います」
男の眉が僅かに動いた。
「殿下は、あなたの命令へ従えとおっしゃった」
「火器の訓練については、です。通常の規律や兵の処罰は、これまで通りあなたにお願いします」
「訓練も我々の指揮下で行うべきでは?」
「火槍の扱いを知っていますか?」
男は答えなかった。
「前回のシュヴァルツ伯との戦いで使った武器は、従来型の火槍とは違います。扱いを誤れば、敵ではなく自分や隣の兵を傷つけます」
「十六歳の領主が、我々へ戦い方を教えると?」
後ろにいる兵たちへは聞こえない声だった。
侮辱というより、確認に近い。
俺が男の立場でも同じことを思っただろう。
自分の半分ほどしか生きていない少年に、百人を任せろと言われている。
「俺が一人で教えるわけではありません」
俺は後ろへ目を向けた。
ギルベルトが進み出る。
その後ろには、マルク、テオ、ニクラスを含む十人が並んでいた。
彼らは木製の模擬銃を持っている。
「ギルベルト。お願いします」
「はい」
ギルベルトが十人を見た。
「横列を作れ!」
十人が動く。
足音が重なり、一列に並ぶ。
「弾薬箱開放許可!」
全員の右手が腰へ動く。
本物の弾薬箱は付けていない。それでも、蓋を開く位置も、身体の向きも揃っている。
「一発取れ!」
右手が上がる。
見えない一発筒を銃口へ当てる。
「装填!」
木栓を外す動作。
火薬と弾を入れる動作。
装填棒を抜き、筒の奥へ押し込む動作。
火皿へ細かな火薬を置き、火蓋を閉じる動作。
火縄ばさみへ火縄を挟む動作。
実際には火薬も弾も火縄もない。
それでも十人は、戦場で何度も繰り返した手順を崩さない。
「第一班、前へ!」
五人が進む。
ギルベルトの手には赤い布がある。
「構え!」
五本の木製模擬銃が上がった。
赤い布が下ろされる。
「撃て!」
五人の指が引金の位置を引く。
発射音はない。
白煙も上がらない。
その代わり、後ろの五人がすぐに前へ出る。
最初の五人は模擬銃を安全な向きへ下げ、その横を通して道を空けた。
「第二班、構え!」
銃口が揃う。
「撃て!」
二度目の無音の射撃。
百人の兵たちは、黙って見ていた。
銃声がない分、足の運びや銃口の向きがよく分かる。
一人だけが早く動くこともない。
遅れて隣へぶつかる者もいない。
百人隊の指揮官が尋ねた。
「この十人が、実際に戦った者ですか」
「はい」
「敵の指揮官を撃ったのも?」
「誰の弾が当たったかまでは分かりません」
十挺で四百人を殺したわけではない。
一人の指揮官を失わせ、その結果として敵の隊列を崩した。
それを大きく語れば、火縄銃を万能の武器だと思わせることになる。
「ですが、この十人が二度に分けて撃ちました。最初の五挺を見て、敵は撃ち終わったと思った。そこへ、残る五挺が撃ったのです」
「同じことを三百人へ教える?」
「同じ動作を覚えさせます。ただし、同じ戦い方を繰り返すつもりはありません」
一度見せた策は、次から警戒される。
兵が増えれば、十人の時にはなかった問題も起きる。
百人隊の指揮官は、もう一度ギルベルトたちを見た。
「訓練中の号令には従わせます」
「ありがとうございます」
「ただし、兵を無駄に壊す命令には従いません」
「俺も、そのような命令を出すつもりはありません」
完全に信じてもらえたわけではない。
それでいい。
信頼は命令書だけでは作れない。
これからの訓練で、少しずつ確かめてもらうしかなかった。
◇ ◇ ◇
最初の大規模訓練は、ひどいものだった。
百人が木の棒を持って並ぶ。
すべてを火縄銃の形に削る時間はなかったため、三十本だけが引金や木台の形まで似せてあり、残りは長さと重さを合わせただけの棒だった。
「装填!」
ギルベルトが叫ぶ。
前の列は動いた。
後ろの列は動かない。
「聞こえない!」
「何と言った!」
「前へ出ろだ!」
「違う、装填だ!」
誰かが間違った号令を伝えた。
後列の十人が前へ出ようとし、その前にいる兵へぶつかる。
「止まれ!」
百人隊の指揮官が怒鳴る。
今度は全員が止まった。
装填途中の姿勢のまま固まる者。模擬銃を地面へ置く者。隣を見て動きを確かめようとする者。
ギルベルトが額へ手を当てた。
「最初から!」
隊列を作り直す。
二度目は、赤い布を高く掲げた。
前列には見えた。
後列からは、前の兵の頭と模擬銃に隠れて見えない。
「赤い布が下がったぞ!」
「まだだ!」
右側の列が先に構え、左側が遅れる。
それにつられて、中央の兵まで模擬銃を上げた。
もし本物の火縄銃なら、装填が終わっていない者と、すでに火蓋を開いた者が混ざっている。
「撃て!」
命令が届いたのは、前から三列目までだった。
後ろでは別の兵が「待て」と聞き間違えた。
前列が射撃後に下がろうとする。
だが、後ろの兵が詰まりすぎていて道がない。
肩がぶつかる。
模擬銃が別の兵の兜を叩く。
「痛っ!」
「押すな!」
「前が下がってきたんだ!」
さらに、槍兵役が射手の後ろへ並んでいたため、退く場所を完全に塞いだ。
「止めてください!」
俺は手を上げた。
ギルベルトが訓練を止める。
百人の兵が息を吐いた。
走ってもいないのに、全員が疲れた顔をしている。
「十人ならできたんですが」
マルクが呟いた。
「百人は十人を十倍にしただけではないということですね」
俺は答えた。
声の届く距離が違う。
互いの動きを見る範囲も違う。
五人が後ろへ下がるなら、周囲が少し道を空ければ済む。五十人が同時に下がれば、その先に五十人分の場所が必要になる。
「十人ずつに分けましょう」
俺は地面へ木の枝で線を引いた。
「十人の班ごとに間を空けます。全部を一列に繋げません」
「隙間から敵が入ります」
百人隊の指揮官が言った。
「だから槍兵を置きます。射手の真後ろではなく、班と班の間です。射撃後に前へ出て、射手が下がる時間を作る」
「槍兵が前へ出た後に、隣の班が撃てば味方へ当たる」
「射線を重ねないよう、班ごとに撃つ方向を決めます。勝手に敵を追わせません」
「敵は決めた場所から来るとは限らない」
「はい。だから実際の地形で試します」
答えはまだない。
俺は戦国時代の合戦を知っている。
火縄銃を並べ、柵の後ろから撃たせた戦いも知っている。
だが、何人ごとにどれだけ間を空ければいいのか。煙の中で、どの声なら届くのか。槍兵をどこまで前へ出していいのか。
細かな数字までは分からない。
この世界の銃の装填時間も、兵の練度も、地形も違う。
試すしかない。
「赤い布も一枚では足りません」
ギルベルトが言った。
「班ごとに持たせましょう」
「誰が持ちます?」
「射手ではない者です。号令を受け、班へ伝える兵を置きます」
「声が聞こえなかった場合は?」
「隣の班を見て勝手に撃たない規則にします。自分の班の合図がない限り、撃たない」
百人隊の指揮官が腕を組む。
「遅れた班が出る」
「出ます」
「全員同時には撃てない」
「無理に同時に撃たせる方が危険です」
一斉射撃は強い。
銃声と煙が一度に押し寄せれば、敵へ与える衝撃も大きい。
だが、百人全員が同じ瞬間に撃たなければ意味がないわけではない。
十人、二十人ごとに命令を確実に伝え、途切れず撃つ方法もある。
「兵を持ち場まで動かす命令は、あなたが出してください」
俺は百人隊の指揮官へ言った。
「射撃準備へ入った後は、ギルベルトの号令を優先します。射撃を終えたら、またあなたの指揮へ戻す。その切り替えを角笛で知らせます」
「角笛の音を間違えたら?」
「音を一つ増やすたびに、間違える可能性も増えます。使う合図は二つだけにします」
射撃指揮へ移る合図。
通常指揮へ戻る合図。
細かな動作は、班ごとの兵が声と赤い布で伝える。
「もう一度やりましょう」
ギルベルトが言った。
「今度は十人ずつ、間を空けろ!」
兵たちが動き始める。
すぐには揃わない。
誰かが場所を間違え、別の班へ入る。
槍兵役が立つ位置にも迷う。
それでも、最初よりは少しだけ形が見えた。
失敗が一つ減れば、次の失敗が見つかる。
当分は、その繰り返しになりそうだった。
◇ ◇ ◇
第二陣の百人が到着する頃には、最初の百人から三十人の教官候補が選ばれていた。
剣が強い者だけではない。
声が通る者。
同じ動作を何度でも繰り返せる者。
間違えた兵を怒鳴る前に、どこで間違えたかを見つけられる者。
字が読めなくても、順番を正確に覚えられる者。
ギルベルトと既存の十人が、毎日の訓練を見ながら選んだ。
三十人はまだ教官ではない。
動作を覚え、他の兵へ説明し、それをギルベルトたちが確認する。
説明を間違えれば、もう一度最初からやり直す。
その間にも、領地の仕事は進んだ。
朝、俺は領主の家で報告を聞く。
兵営の井戸から水が出た。
ただし最初は濁っていたため、何度も汲み出し、煮沸した水を使わせる。
東の集落へ続く道では、小さな橋の床板が腐っていることが分かった。
兵営用に運んできた木材の一部を回し、代わりの木材を次の荷車で運ばせる。
山道の通行税は、先月より少し増えた。
だが荷車が増えたことで、道の窪みも増えている。
それぞれに指示を出した後、俺はベルグハーフェンへ向かう。
ロルフの工房では、新しい筒と金具の検査が進んでいた。
クレーマー商会の倉では、兵二百人分の穀物、豆、塩、干し肉が分けられている。
夕方にアイヒェンタールへ戻れば、兵営と村で起きた問題の報告を聞く。
兵が村の酒場へ勝手に入り、代金を払わずに酒を飲もうとした。
百人隊の指揮官へ引き渡し、翌日には本人が酒代を持って謝りに来た。
領民が兵へ通常の三倍の値段で卵を売ろうとした。
それは買う側と売る側の問題にも見えるが、争いになれば面倒だ。
そこで兵営近くの空き地に、五日に一度だけ市を開くことにした。
出店を希望する領民は村側へ申告する。
兵はその場所でだけ、食料や日用品を買える。
野菜。
卵。
パン。
蜂蜜。
薪。
木の器。
破れた服の修繕。
洗濯を引き受ける者も現れた。
価格を俺がすべて決めることはしなかった。
ただし、前回の市でいくらだったかを板へ書かせる。字を読めない者にも分かるよう、品物ごとに印を付けた。
高く売りたいなら、高くしてもいい。
だが、他の店より高ければ兵は買わない。
兵にも、値段が気に入らないからと脅すことは禁止した。
市が始まると、兵営の周囲には思っていた以上に人が集まった。
「領主様、来週も開いていいのですか?」
野菜を売りに来た女が尋ねる。
「問題が起きなければ」
「兵隊さんはよく買ってくれます」
「給金を全部使わせないでください」
「そこまでは面倒を見られませんよ」
笑われた。
俺も少し笑う。
三百人の兵は、領地にとって大きな負担になる。
同時に、三百人分の需要でもあった。
兵舎を建てるために木工職人の仕事が増えた。
水を運ぶ荷車が必要になった。
野菜や卵が売れる。
壊れた靴や服を直す仕事が生まれる。
軍の金が領地へ落ちる。
もちろん、良いことばかりではない。
人が増えれば喧嘩も増える。薪を使えば森から運ばなければならない。道は早く傷み、ごみも出る。
だから、その処理は担当する者へ任せた。
市の苦情は村側の代表がまとめる。
兵の問題は百人隊の指揮官が処理する。
道や水の問題は領地の役人が確認する。
俺のところへ持ってくるのは、どちらにも決められないことだけだ。
少しずつ、俺がいない時間にも領地が動くようになっていた。
◇ ◇ ◇
第三陣の到着を控えた日、俺はベルグハーフェンのクレーマー商会へ呼ばれた。
マティアスの部屋へ入ると、机の上に数枚の紙と小さな木箱が置かれていた。
「例の商人について分かったことがありますか?」
「ああ。だが、思ったより遠い」
「逃げたのですか?」
「最初から、自分で買うつもりがなかった」
マティアスが一枚の紙を俺へ渡す。
紙には、人と町の名前が線で結ばれていた。
職人へ金属部品の見本を売るよう持ちかけた商人。
その商人へ仕事を頼んだ仲買人。
仲買人へ金を渡した別の商人。
さらに、その商人が利用した両替商。
「多すぎませんか?」
「背後を知られたくないからだろう」
「誰が命じたかは?」
「まだ分からん。途中の人間は、頼まれた荷を運んだだけだ。自分が何を探しているかも知らない者がいる」
マティアスが木箱を開ける。
中には、職人へ渡された銀貨が数枚入っていた。
「銀貨から分かりませんか?」
「どこでも使えるものばかりだ。わざわざ混ぜてある」
「用心深いですね」
「お前たちが隠そうとすればするほど、欲しがる者も用心深くなる」
俺は紙を見た。
新しい火縄銃の構造そのものは、まだ漏れていない。
だが、何かを隠して作っていることは知られ始めている。
そこへ三百人もの兵が集まる。
「三十挺しかない銃より、三百人を集めたことの方が目立つぞ」
マティアスが言った。
「同じことを考えていました」
「隠すのか?」
「隠せません」
アイヒェンタールへ続く道を、百人ずつの兵が通っている。
商人も旅人も見る。
領民へ口止めしたところで、兵営を丸ごと消すことはできない。
「レオンハルト殿下が、新しい火槍隊を作っていることにします」
「実際、そう呼んでいる」
「従来型の火槍を使う部隊だと思わせます。兵営では槍と隊列の訓練を中心に見せる。木製の模擬銃は、訓練が終われば必ず倉へ戻す。実銃を扱う者は、試験場へ入れる人数を限ります」
「三百人全員に秘密を守らせられるか?」
「守らせるつもりはありません」
マティアスの目が細くなる。
「全員には、火縄銃の細かな構造を見せません。最初は木の棒で動作だけを教えます。実銃を使えるのは教官候補と、身元を確認できた兵からです」
「自分が何を扱うのか分からない兵も出るぞ」
「それで構いません。全員が銃の作り方を知る必要はありません」
撃ち方を知る者。
整備をする者。
部品を作る者。
火薬を運ぶ者。
全体を知る者を増やしすぎなければ、誰か一人を買収しただけで全てが漏れることはない。
「だが、いずれ戦場で使えば知られる」
「はい」
「なら、今守っているのは秘密そのものではない」
「時間です」
俺は答えた。
「相手が正しい武器を作り、正しい使い方を覚えるまでの時間を遅らせます。その間に、こちらは生産と訓練を進める」
マティアスは少しだけ笑った。
「商売と同じだな」
「そうなのですか?」
「売れる物を永遠に独占できる商人はいない。真似される前に売り、次の物を用意する」
「次の物ですか」
「お前の場合は、次の使い方だ」
火縄銃そのものは、いつか他国も作る。
アルベルトには、すでに試作品と開発記録を渡している。
筒と木台と点火機構を見れば、別の職人が似た物を作る可能性もある。
だからこそ、生産数、訓練、補給、戦術で先へ進まなければならない。
「それと、二十挺が検査へ回せる」
マティアスが別の書類を差し出した。
俺は顔を上げた。
「もう完成したのですか?」
「筒だけを作る職人、木台だけを削る職人、金具だけを作る職人を増やした。ロルフが最後に組み上げ、基準に合わない部品を戻している」
「五十挺になります」
「ああ」
最初の一挺に五か月かかった。
そこから十挺を作り、失敗を調べ、部品の寸法を揃え、作業を分けた。
いきなり何百挺も完成するわけではない。
それでも、十挺ずつしか見えなかった火縄銃が、今度は二十挺まとめて届こうとしている。
「試射は?」
「明日だ」
「アイヒェンタールで?」
「他にどこで撃つ」
俺は書類を手に取った。
「明日の朝、試験場を空けます。三百人には近づかせません」
「教官候補は?」
「一部だけ見せます。検査を通った銃は、そのまま訓練へ回します」
四百人に対して五十挺。
まだ八人に一挺しかない。
だが、十挺しかなかった時とは違う。
五十人が同じ方向へ銃口を向ける。
その光景を想像しただけで、胸の奥が僅かに熱くなった。
◇ ◇ ◇
二十挺の試射は、三日かかった。
一日で全てを終わらせなかったのは、筒が熱を持った状態で無理に撃ち続けないためだ。
最初に外見と寸法を確認する。
次に弾を入れず、火薬だけで点火する。
問題がなければ、筒を固定して弾を撃つ。
最後に射手が構える。
二十挺すべてが、最初から問題なく撃てたわけではない。
一挺は火蓋が固く、開く時に余計な力が必要だった。
別の一挺は、火縄ばさみが火皿の中央から僅かに外れていた。
筒そのものに異常はなかったため、金具を調整してもう一度試した。
修正後、二十挺すべてが検査を通った。
使用可能な火縄銃は、合計五十挺になった。
試験場の端に、五十人が並ぶ。
前回の戦いを経験した十人。
その後に実銃訓練へ進んだ二十人。
そして今回、新たに実銃を持つことを許された教官候補二十人。
全員へ一発筒を配ってはいない。
今日は撃つためではなく、五十挺を並べた時の間隔と動きを確かめるためだ。
「広いな」
テオが隣を見ながら呟いた。
五十人を一列へ並べると、端から端まで声が届きにくい。
銃と銃の間を狭くすれば、装填棒を抜く時に隣の兵へ当たる。
広くすれば、さらに列が伸びる。
「十人ずつ分けます」
俺は地面に立てた杭を示した。
十人の班が五つ。
班と班の間には、槍兵が通れる空間を残してある。
その後ろには、残る兵たちが木製の模擬銃を持って並んでいた。
全て合わせれば四百人。
まだ兵舎が完成していない場所もあり、第三陣の百人は天幕で寝ている。
教官候補も、全員が合格したわけではない。
号令を間違える者もいる。
赤い布を下ろす時機が早すぎる者もいる。
槍兵役が射線へ入り、訓練を止めたこともあった。
それでも、最初の百人がばらばらに動いていた頃とは違う。
班ごとに動き、班ごとに止まる。
一つの号令が届かなければ、勝手に隣へ合わせず、次の指示を待つ。
完璧ではない。
だが、軍らしい形が見え始めていた。
「銃を上げろ!」
ギルベルトの声が響く。
班ごとの伝令役が赤い布を掲げる。
五十本の銃身が、少しずつ上がった。
完全には揃わない。
右端が早く、中央の一班が遅れた。
それでも、五十の銃口が同じ方向を向く。
撃ってはいない。
火薬も弾も入っていない。
なのに、見ているだけで息が詰まった。
これが百挺になれば。
二百挺になれば。
そして、槍兵と弓兵がその横へ並べば。
敵から見えるのは、俺の百人とレオンハルトの三百人という違いではない。
大量の火槍隊が、自分たちへ銃口を向けている光景だけだ。
「下ろせ!」
銃口が下がる。
五十人が息を吐いた。
残る三百五十人は、まだ本物の銃を持っていない。
火を持たない兵たちだ。
だが、銃が完成するのを待っているだけではない。
彼らはすでに、装填する順番を覚え、号令で動き、槍兵と射手へ分かれ始めている。
武器が兵を作るのではない。
武器が届く前から、兵を作っておく。
レオンハルトが言っていた意味を、ようやく目で見ることができた。
「もう一度!」
ギルベルトが叫ぶ。
五十人が銃を持ち直す。
その後ろで、木の棒を持った三百五十人も動き始めた。
◇ ◇ ◇
日が沈んでから、俺は領主の家へ戻った。
朝に出て、ベルグハーフェンと試験場を回り、夕方には領地へ戻る。
最近は、その繰り返しが増えている。
毎日同じではない。
兵営に泊まる日もあれば、ベルグハーフェンで夜まで帳簿を見る日もある。
それでも、自分の寝台へ戻れる日は、できるだけ戻るようにしていた。
机の上には、その日の報告が積まれている。
兵営の木材が足りない。
市でパンを売る者が増えた。
東の橋の床板は交換を終えた。
井戸の水は濁りが減り、煮沸すれば兵営で使える。
山道を通った荷車が一台、車輪を壊した。
そして、その横に一通の手紙が置かれていた。
封蝋を見ただけで、誰から届いたものか分かる。
エリーゼからだ。
俺は他の報告を先に読もうとして、やめた。
手紙の封を切る。
以前よりも、少しだけ整った文字が並んでいた。
アレクへ。
叔父上から、あなたが大勢の兵を預かったと聞きました。
領主になったばかりなのに、領地の仕事と火槍の仕事を一緒にしているとも聞いています。
あなたは頼まれると断れないところがあります。
以前からそうでしたが、今は命令する側にもなったのですから、自分が倒れるまで働くことだけはしないでください。
年上の兵へ命令するのは、怖くありませんか。
私は、相手が年上というだけでも、自分の考えを強く言えなくなることがあります。
それが何百人もの兵なら、きっと声が出なくなると思います。
次に会った時には、領地の話を聞かせてください。
手紙だけでは、山や村の様子を想像しきれません。
あなたが直した道や、領民が品物を売る市も見てみたいです。
ただし、会える日までに仕事を増やしすぎないでください。
手紙の返事が遅くなるのは、少しだけ困ります。
最後の一文を読み、思わず笑ってしまった。
以前のように、何を食べたかを書けと言われたわけではない。
だが、返事を待っていることだけは、よく伝わってくる。
俺は椅子へ座り、返事を書くための紙を出した。
大勢の兵へ命令するのは、怖くないわけではない。
相手が年上だからというより、自分の一言で誰かが怪我をするかもしれないことの方が怖い。
領地の市では、兵より領民の方がたくましい。
橋の床板を替えたこと。
五十挺の火縄銃が揃ったこと。
ただし武器の詳しい内容は、手紙には書きすぎない方がいい。
何から書こうか迷いながら、ふと手紙の日付へ目を止めた。
一度見て、それからもう一度確かめる。
「……もう、そんな時期か」
戦が終わり、領地を与えられ、兵舎を作り、ベルグハーフェンとの間を何度も往復しているうちに、季節は思っていた以上に進んでいた。
もうすぐ、俺は十七歳になる。
この世界へ来た時は十五歳だった。
最初の誕生日は、戦の最中で忘れていた。
今年も、忘れるところだった。
そして、俺の誕生日が過ぎれば、エリーゼの誕生日も近い。
以前は林檎の花の髪飾りを渡した。
今度は何を贈ればいいのだろう。
同じような髪飾りでは、考えがなさすぎる気がする。
だからといって、高価すぎる物を贈れば、別の意味に受け取られるかもしれない。
「……分からない」
火縄銃五十挺の使い方なら、試せばいい。
四百人の訓練も、失敗した場所を一つずつ直せばいい。
だが、エリーゼへの贈り物を試しに何個も渡すわけにはいかない。
俺は返事を書きかけたまま、机へ額をつけた。
明日もベルグハーフェンへ行く。
こういう時に頼れそうな人間は、一人しかいない。
頼った後で、どんな顔をされるかも想像できる。
「絶対に笑うだろうな……」
誰もいない部屋で呟く。
それでも、自分だけで考えて妙な物を選ぶよりはいい。
俺は手紙の続きを書きながら、明日、マティアスへ相談することを決めた。
第九話を読んでいただき、ありがとうございました。
火縄銃の生産と並行して、今回はそれを扱う大規模な部隊作りが始まりました。三百人の受け入れは領地へ新たな負担をもたらす一方、市や仕事を生み、アイヒェンタールの暮らしにも変化を与えています。
使用可能な火縄銃は五十挺となり、火を持たない兵たちも少しずつ戦う形を整え始めました。
次回は、十七歳を迎えるアレクとエリーゼの誕生日、そして二人が選ぶ贈り物を描きます。




