第五話 火を渡す条件
火縄銃を求めるアルベルトとの会談が始まります。
購入、独自生産、技術協力の条件を決める一方、アレクは世間に広がり始めた火槍の噂を利用する策を提案します。
アルベルトとの会談へ出立する朝、領主館の執務室には、俺が留守にする間の仕事が並べられていた。
穀倉、水車、橋、木炭、新兵候補、採石場。
四日前まで、この土地で何が起きているのかさえ十分に把握できていなかった。今では報告する者と判断する者が決まり、少なくとも俺が数日いないだけで、全ての仕事が止まることはない。
「新兵候補の訓練は、ギルベルトたちに任せます。行進、槍、伝令、荷物の受け渡しを続けてください。木製の模擬銃は使って構いませんが、何のための形なのかは知らせないように」
「採石場の仕事にも参加させますか?」
フェリクスが尋ねた。
「土盛りと排水路の確認だけです。試射は行いません。火薬を置いている館裏の小屋と、採石場の岩壁には近づけないでください」
「見張りを増やしておきます」
「館裏についてはお願いします。ただ、村の者が見張りの数を不審に思わないようにしてください。領主の武具と書類を保管していると説明すれば十分です」
完全な嘘ではない。
小屋には火薬だけでなく、火縄や一発筒の試作品、試射に使う道具も置いてある。もっとも、その中身を知る領民はいなかった。
「橋は?」
「軽い荷車は通しています。二頭立ての重い荷車は、まだ止めています」
村長の答えに、俺はうなずいた。
「橋脚を補強するまでは、そのままにしてください。費用については、クレーマー商会にも相談します。商会の荷車が多く使う道ですから、領地だけで全額を負担する必要はないでしょう」
「商会が出すでしょうか?」
「利益があると説明できれば、マティアス様は出します。橋が落ちて荷車を遠回りさせる費用と、今直す費用を比べてもらいます」
善意に期待するより、金を出した方が得だと示す方が早い。
アイヒェンタールの橋は領民のための橋だが、ベルグハーフェンと山間部を結ぶ商会の道でもある。どちらか一方だけが負担するより、利用する者同士で支えた方が長く保てる。
「木炭は、これまでどおり三つに分けます。鍛冶用、暖房用、それからクレーマー商会が試験品として買うものです」
俺は木炭の記録を開いた。
試験品には、使った木の種類、焼いた窯、焼き上がった日が記されている。その中から、長さと太さがある程度揃い、割れや湿りの少ないものだけを商会が高く買うことにしていた。
領民には、何の試験に使うのか知らせていない。
「試験品が高く売れるからといって、全ての窯を同じ木へ替えないよう、もう一度伝えてください。鍛冶用と暖房用が足りなくなれば、村の暮らしが困ります」
「買い取り量にも上限を付けますか?」
「はい。一度に荷車一台分までです。結果が良ければ次を買う。悪ければ、鍛冶用や暖房用として売れるようにしておく。試験品だけに生活を懸ける者を出さないでください」
火薬用の木炭が領内で安定して手に入れば、火縄銃の運用には役立つ。
だが、そのために領民の暖房や鍛冶仕事を奪えば、領地そのものが弱くなる。
最後に、俺は机の上へ一枚の木札を置いた。
「俺が戻るまでに判断が必要なことは、フェリクスと村長で相談してください。金庫を開けるような大きな支出と、人を処罰する話だけは、使者を送ってください」
「よろしいのですか?」
フェリクスが少し驚いた顔をした。
「全てを俺が決めるなら、俺がいないだけで領地が止まります。それでは困ります」
「承知しました」
報告を終え、俺は二階の私室へ戻った。
会談へ持っていく衣服と書類は、すでに箱へ収めてある。その横に置いた小箱を、もう一度だけ開いた。
中には、林檎の花をかたどった髪飾りが入っている。
アルベルトがエリーゼを連れてくるという知らせはない。
火縄銃の購入と技術協力を話し合う会談に、エリーゼが同席する理由もなかった。
それでも、アルベルトが来るなら、彼女も近くまで来るかもしれない。
会えないなら、また持ち帰ればいい。
そう自分へ言い聞かせ、小箱を衣服の間へ入れた。
手に入れた時から、渡すつもりは変わっていない。
分からないのは、いつ渡せるかだけだった。
◇ ◇ ◇
ベルグハーフェンのクレーマー商会へ着くと、マティアスは会談用の帳簿より先に、数通の書状を俺へ差し出した。
「読め」
一通目は、国境近くで取引する商人からの報告だった。
シュヴァルツ伯軍との戦で、レオンハルトが火槍を使ったという噂が広まっているらしい。
二通目には、火槍の値段と製造地を探る者が現れたと書かれていた。
三通目は、ラウレンシアの港湾商人が、アルヴェインの商人へ火槍の取り次ぎを頼んだという報告だった。
「思っていたより早いですね」
「戦場を見た者より、見ていない者の方が多いからな。見ていない者ほど、話を大きくする」
実戦へ持ち込んだ火縄銃は十挺だった。
最初の戦闘で敵兵約四百人を退かせたが、四百人を撃ち倒したわけではない。二班に分けた射撃で敵指揮官を失わせ、混乱させた結果だ。
その後は二挺が不発となり、最後まで使えたのは八挺だった。
橋では一発も撃っていない。八挺を見せ、槍兵、弓兵、騎兵、守備隊と合わせて敵を警戒させただけだ。
だが、遠くから音と煙を見た者には、十挺と百挺の違いも、従来型火槍と新しい火縄銃の違いも分からない。
「噂では、どれほどの火槍になっていますか?」
「少ない話で五十。多い話では五百だ」
「五百……」
「五百本の火槍を持ち込めるなら、火薬と弾を運ぶ荷車だけでも相当な数になるな」
「その噂には、誰も疑問を持たなかったのでしょうか」
「信じたい者は、荷車の数など数えん」
マティアスは残りの書状を机へ放った。
「諸侯が知りたいのは、レオンハルト殿下が実際に何をしたかではない。自分も同じ武器を買えば勝てるのか、それだけだ」
「従来型の火槍を求める者が増えます」
「あれを持っているのは、主にアルベルト大公だ。借りていた分は返したからな」
俺は書状を読み返した。
誰も価値を認めなかった火槍へ、レオンハルトだけが目を付けた。
そんな話が、すでに形を持ち始めている。
実際には、アルベルトが従来型火槍を使える地形と状況を作り、俺がそれを参考に新型を考え、ロルフたちが形にした。マティアスとクレーマー商会が金、材料、職人を集め、十人の火槍兵が訓練を重ねた。そしてレオンハルトが実戦投入を認めた。
一人だけで生まれた武器ではない。
それでも、世間は長い話より、一人の英雄が全てを見抜いたという話を好む。
「マティアス様」
「何だ?」
「この噂を利用できるかもしれません」
俺は、考えていた策を説明した。
諸国が新型火縄銃ではなく、従来型火槍を欲しがっているなら、アルベルトが火縄銃へ装備を切り替える際、不要となる火槍を高値で売る。
周辺国が旧式の火槍を集め、運び方と使い方を試している間に、こちらは火縄銃の生産と訓練を進める。
売却代金は、アルベルトが新しい火縄銃を購入する資金にもなる。
話を聞き終えたマティアスは、すぐには答えなかった。
「相手へ役に立たん武器を押しつけるのか?」
「役に立たないわけではありません。橋や城門、狭い道での初撃には使えます。音で馬を驚かせ、密集した兵へ撃てば負傷者も出せます」
「なら、敵へ渡せば、こちらが撃たれることもある」
「はい。ですから、売却先と数は選ぶ必要があります」
「買った連中は、筒を分解して調べるぞ」
「従来型火槍の構造は、新しい火縄銃とは違います。それでも火薬兵器の扱いを学ばれる危険はあります」
「火薬と弾も売れと言われる」
「最初から大量には渡さない。販売した数と供給量を記録し、差し迫った敵へまとめて売らないようにします」
マティアスは椅子へ深く座り直した。
「噂をこちらから広めるのか?」
「いいえ。嘘の戦果を作れば、後で発覚した時に信用を失います。すでに広がっている噂を、こちらから訂正しないだけです。購入を求めてきた相手には、本物の従来型火槍を見せ、相手が納得した値段で売ります」
「商人のようなことを言うようになったな」
「褒めていますか?」
「半分だけだ」
マティアスは書状をまとめ、立ち上がった。
「レオンハルト殿下にも話す。アルベルト大公へ持ち出すのは、その後だ」
俺たちは、ベルグハーフェンに置かれたレオンハルトの館へ向かった。
レオンハルトは、ユリウスから戦後の報告を受けていた。俺たちの話を聞くと、予想どおり面白そうに目を細めた。
「古い火槍を諸国へ買わせ、その間に新しい火縄銃を揃えるか」
「火槍にも使える場面はあります。敵へ売る危険がないわけではありません」
「当然だ。武器を売っておいて、こちらへ向けられるとは思わなかった、では済まん」
レオンハルトは机に置かれた報告書を指先で叩いた。
「だが、噂を止めるのも難しい。すでに俺が数百の火槍を使ったことになっているらしいな」
「多い話では五百です」
「次に聞く時は千になっているかもしれん」
「その千本を殿下が一人で撃ったという話にならないことを願います」
俺が答えると、レオンハルトが声を上げて笑った。
「よい。策をアルベルトへ話せ。ただし、売るのは奴の火槍だ。決めるのも奴だ」
「承知しています」
「一つ聞こう。武器の強さだけでなく、誰が早く価値を見抜いたかという話まで売り物にするのか?」
問いかけられ、俺は少し考えた。
「噂を完全に操れるとは思っていません。ですが、止められないのであれば、こちらが準備する時間へ変えたいのです」
「時間か」
「火縄銃は、命令すれば明日百挺揃う武器ではありません。職人、鉄、木材、火薬、兵の訓練が要ります。相手が間違った方向を見ている時間が長いほど、こちらは先へ進めます」
「気に入った」
レオンハルトはうなずいた。
「アルベルトが火縄銃を買うと決めた後で話せ。買う前に古い火槍を売れと言えば、奴の武器を金に換え、こちらのために使えと言っているように聞こえる」
「そのつもりです」
先にアルベルトの利益を決める。
その後で、不要になる火槍の使い道を提案する。
同じ策でも、話す順序を誤れば、相手から奪う話になる。
◇ ◇ ◇
アルベルトが会談場所へ到着したのは、その日の午後だった。
扉が開き、見慣れた姿が部屋へ入ってくる。
最後に会ってから、それほど長い年月が過ぎたわけではない。それでも、戦場と領地で起きたことを思えば、ずいぶん久しぶりに感じられた。
「お久しぶりです、アルベルト様」
「堅いな。領主になった途端、昔の主へ他人行儀になったか?」
「正式な会談ですから」
「そうか。では正式に聞こう」
アルベルトは俺を上から下まで見た。
「送り出した時より、ずいぶん荷物が増えたようだな」
「領地と兵百人をいただきました。代わりに、自由な時間は減りました」
「それが領主というものだ」
「アルベルト様は、知っていて黙っていましたね」
「聞かれなかったからな」
変わらない答えに、思わず息が漏れた。
アルベルトは笑っている。
敵対して別れたわけではない。俺がアルベルトの元を離れ、マティアスを新たな主君として選んだことも理解してくれている。
それでも、実際に顔を見るまでは、以前と同じように話せるのか不安だった。
その不安は、最初の数言で消えていた。
「アレク」
アルベルトの表情が少しだけ真面目になる。
「領地を得たことは喜ばしい。だが、兵百人は褒美であると同時に、お前へ預けられた命だ。数としてだけ見るな」
「はい」
「もっとも、今のお前にその話を長くする必要はなさそうだな」
アルベルトの視線が、俺の持っている帳簿へ移る。
「穀倉と橋の報告まで持ってきたのか?」
「留守中の指示を書いただけです」
「やはり荷物が増えている」
俺たちは席へ移った。
長い机の一方にアルベルトと側近たち、反対側にレオンハルト、ユリウス、マティアス、俺が座る。
机の中央には、アルベルトへ渡した試作品についての記録と、新しく作った一発筒、携帯用弾薬箱が置かれていた。
「まず、以前の交換条件について確認しておこう」
アルベルトが話し始める。
「私が貸した火槍は返却された。代わりに、火縄銃の試作品一挺と、そこへ至るまでの開発記録を受け取った。双方の約束は履行済みだ」
「異論はない」
レオンハルトが答えた。
「今日話すのは、その後だ」
アルベルトは試作品を調べた結果を説明した。
アルヴェインの職人たちは鉄筒、木台、火皿、火蓋、引金、火縄を挟む金具、ばね、掛け金を確認している。
構造そのものは理解できた。
だが、同じ形を見ただけで、同じ品質のものを作れるわけではなかった。
「鉄筒を一本作るだけなら、時間を掛ければできると職人は言っている」
アルベルトは開発記録へ手を置いた。
「問題は、同じものを十挺、三十挺と揃えることだ。ばねの強さが違い、火皿の位置がずれ、木台へ鉄筒が収まらない。試作品を写せば済むという話ではなかった」
「私たちも、十挺を作る際に同じ問題が起きました」
俺は答えた。
「複数の職人へ部品を作らせ、最後にロルフが検査しました。最初の一挺と同じ寸法を求めても、全く同じにはなりません」
「だから、まず完成品を買いたい」
アルベルトは明確に言った。
「三十挺だ」
レオンハルトはすぐに返事をしなかった。
「こちらは、先に五十挺を作らせる」
「承知している。その五十挺を寄越せとは言わん。専用工場が動き、次の生産へ入ってから、十挺ずつ納入してもらいたい」
「急がないのですか?」
俺が尋ねると、アルベルトが俺を見る。
「急いで粗悪な三十挺を受け取れば、兵を殺す。鉄筒が破裂すれば、敵より先に味方が火縄銃を恐れることになる」
その答えに、ロルフがこの場にいればうなずいただろうと思った。
「価格はどうする?」
マティアスが尋ねる。
「最初の五十挺を作った後で、実際に掛かった費用を見せてもらう」
「材料だけではない。職人の賃金、不良部品、検査、工場の警備、輸送にも金が掛かる」
「それを含めて示せ。値切るのは、その後だ」
「最初から値切るつもりか」
「商人を相手に、言い値で買う大公がいると思うか?」
マティアスとアルベルトの視線がぶつかる。
敵意ではない。
互いに、相手が簡単に譲らないことを確かめている。
「材料を確保する金は先に払おう」
アルベルトが続けた。
「三十挺分の一部を前金として渡す。だが、火薬、弾、修理部品は別に数量と価格を出せ」
「一発筒も別です」
俺が言うと、アルベルトが机の上の小さな筒を手に取った。
「これか」
「はい。一発分の火薬と弾を入れ、戦場で量る作業を減らします。兵一人に十本を基本としています」
「試作品の記録にはなかった」
「試作品をお渡しした後、訓練の中で作りました」
アルベルトは木栓を外さず、筒の形を確かめた。
「携帯用弾薬箱、腰箱、赤い布による合図も、その後か?」
「はい。赤い布は、銃声の中で命令を聞き違えたことから採用しました。ただし、煙が広がると見えなくなります」
「武器だけを買っても、同じようには使えないということだな」
「そのとおりです」
レオンハルトが答えた。
「三十挺を並べれば勝てると思われては困る。装填の遅れ、不発、煙、槍兵の援護。実際に使った者が知っている問題は多い」
「だから、兵も学ばせたい」
アルベルトは俺たちを見回した。
「アルヴェインから兵と職人を少数送る。基本的な装填、手入れ、不発時の対応を学ばせる。職人には製造工程を見せてもらいたい」
「全工程は見せられません」
マティアスが即答した。
「試作品と開発記録は、すでに受け取っている」
「以前の約束はそこまでだ。工場の配置、分業、検査方法、その後に生まれた道具は別の話になる」
「なら、どこまで見せる?」
話し合いは、ここから長くなった。
アルベルトは将来、アルヴェイン側で自力生産できるようにしたい。
レオンハルトは、自軍が持つ優位を無条件に手放したくない。
マティアスは、クレーマー商会が金と人を使って整える工場の価値を守りたい。
俺は、二つの陣営が違う寸法の火縄銃と弾を作り、必要な時に補給も修理もできなくなることを避けたかった。
「アルヴェイン側で研究や追加製作を始めること自体は、禁止しません」
俺が言うと、アルベルトがわずかに眉を上げた。
「すでに試作品と記録を持つ私へ、勝手に作るなとは言わないのだな」
「禁止しても、守られているか確かめる方法がありません。それより、作った数と結果を記録し、報告していただきたいのです」
「監視を受けろと?」
「こちらから購入した数、アルヴェインで完成した数、試作品、事故で失われた数、第三者へ譲った数を分けてください」
「なぜ、そこまで数える?」
「火縄銃がどこに何挺あるのか分からなくなれば、こちらが作った武器を誰が持っているのか見失います。敵へ流れていても気づけません。事故や不発を隠せば、同じ失敗をこちらでも繰り返します」
アルベルトは答えず、しばらく俺を見ていた。
「作った数を報告させるだけで、私が全て正直に書く保証はないぞ」
「はい」
「ずいぶん簡単に認めるな」
「報告を求めなければ、最初から何も分かりません。完全ではなくても、記録を残す関係を作る方がよいと思います」
「では、こちらが改良へ成功した場合は?」
「結果を共有していただきたいです。こちらも、購入された三十挺に関係する安全上の改良はお伝えします」
「安全上の、か」
「新しい戦術の全てまで、無条件にお渡しする約束はできません」
アルベルトはレオンハルトを見た。
レオンハルトがうなずく。
「武器の扱い方は教える。大軍をどう配置し、どの地形で使うかは、その都度の話だ」
「分かった」
最終的に、条件は一つずつ書状へまとめられた。
アルベルトは火縄銃三十挺を購入する。
レオンハルトが命じた五十挺を先に製作し、その後の生産から十挺ずつ納入する。
代金の一部は材料確保のため先に支払う。
火薬、弾、一発筒、携帯用弾薬箱、修理部品は、必要数と価格を別に定める。
アルヴェインから選ばれた兵には、基本的な装填、手入れ、不発時の対処を教える。職人も限られた工程の研修へ受け入れるが、工場の全工程と全記録を無条件には公開しない。
アルヴェイン側の独自研究と製作は禁止しない。
ただし、生産した試作品と完成品の数、事故、不発、第三国への売却や譲渡を記録し、定期的に報告する。
第三国へ渡す場合は、相手と数量を事前に知らせる。
職人を本人の意思に反して引き抜かない。
火縄銃、火薬、弾、修理部品は、可能な限り同じ規格を使う。
改良に成功した場合は、少なくとも安全と品質に関わる情報を互いに共有する。
これは軍事同盟ではない。
レオンハルトはグランヴァルトの第一王弟であって、国王ではない。この場でアルベルトと国同士の盟約を結んだわけでもなかった。
今日決めたのは、アルベルトがクレーマー商会から火縄銃を購入し、レオンハルトがその供給と技術協力を認めるための取り決めだ。共有する情報も、製造数、譲渡先、事故、不発、安全と品質に関わる改良へ限られている。
政治や戦争で互いを無条件に助ける約束ではなかった。
全てが完全に守られる保証はない。
それでも、何の約束もなく技術だけが広がるよりはよい。
「これで、火縄銃の話は終わりか?」
アルベルトが尋ねた。
俺はレオンハルトとマティアスを見た。
二人が、わずかにうなずく。
「もう一つ、従来型火槍について提案があります」
俺は、広がっている噂と、火槍を求める諸侯の動きを説明した。
アルベルトは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「つまり、火縄銃との置き換えで不要になる火槍を、噂を信じた諸国へ高く売れということか」
「はい」
「役に立たない武器を、役に立つと思わせて売るのか?」
「従来型火槍も、使う場所を選べば役に立ちます。アルベルト様が騎兵に対して使った時も、火槍だけで勝ったのではありません。騎兵が密集して近づく場所を選び、初撃を集中させたから効果が出ました」
「それを教えず、武器だけを渡す」
「購入者が求めているのは、今のところ武器だけです。こちらから、どこでも勝てるとは言いません」
「だが、相手が勝手にそう信じていることも訂正しない」
「はい」
アルベルトは厳しい表情のまま、マティアスへ視線を移した。
「商人としては、どう見る?」
「相手が品を見て、自分で価値を決め、その値を払うなら売買は成立する。ただし、後で期待したものと違ったと言って争いになる可能性はある」
「では、売らない方がよいか?」
「高く売れるうちに売る」
マティアスは迷わなかった。
「だが、売った先と数は記録する。アルヴェインに近い敵へまとめて渡せば、古い火槍でも脅威になる。火薬と弾を好きなだけ付ける必要もない」
「売却代金で、私にお前たちの火縄銃を買わせるわけだな」
「火槍を倉で腐らせても金にはならん」
「正直で結構だ」
アルベルトは椅子の背へ体を預けた。
「アレク、お前はこの策で、誰が最も得をすると思っている?」
答えを急げば、見落とす。
アルベルトが問いかける時は、俺が最初に用意した答えだけでは足りないことが多い。
「最初に金を得るのは、火槍を売るアルベルト様です」
「ほかには?」
「クレーマー商会は火縄銃の代金を受け取ります。レオンハルト殿下は、周辺国が旧式の火槍へ目を向ける時間を得ます」
「お前は?」
「アルヴェインとレオンハルト殿下の間で、火縄銃の規格と記録を共有できます」
「それだけか?」
アルベルトの視線から逃げず、俺は考えた。
「この提案が成功すれば、政治と商売の両方で評価を得ます」
「ようやく、自分を数に入れたな」
「自分の利益だけを先に言えば、策を聞いていただけないと思いました」
「以前のお前なら、最後まで自分を数に入れなかった」
アルベルトはわずかに笑った。
「よい。条件付きで認める。アルヴェインの守備に必要な火槍は残す。売却先と数は私が決め、記録する。火薬と弾を大量には渡さない。こちらが近く戦う可能性のある相手へは売らん」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、売れてからにしろ。噂など、風向きが変わればすぐ消える」
会談は、日が傾く頃に終わった。
火縄銃三十挺の購入。
製造数の報告。
職人と兵の研修。
規格と修理。
従来型火槍の売却。
紙の上に並べれば数行だが、その一つひとつが、今後どこへ火縄銃が広がるかを決める。
俺たちは火を独占できない。
試作品と記録はすでにアルベルトの手にあり、戦場で使った噂も広がっている。
できるのは、広がる速さと方向を少しでも把握し、誰が何挺を持っているのかを見失わないようにすることだけだ。
◇ ◇ ◇
会談を終えて部屋を出ようとした時、アルベルトが俺を呼び止めた。
「アレク、少し残れ」
レオンハルトとマティアスが先に廊下へ出る。
扉が閉じると、アルベルトは会談中より柔らかな表情になった。
「領地、兵百人、火縄銃工場。ずいぶん早く増えたものだ」
「自分でも、まだ追いついていません」
「地位を得るということは、好きに使えるものが増えることではない。選べるものが増え、選んだ責任から逃げられなくなることだ」
「領地へ入って、少しだけ分かりました」
「少しか」
「全て分かったと言えば、また問いかけられると思いました」
「分かってきたではないか」
アルベルトは楽しそうに笑った。
「だが、今日の交渉は悪くなかった。私の臣下ではなく、マティアスの配下として話していた」
「アルベルト様に不利な条件を押しつけたつもりはありません」
「それでよい。以前の主だからと遠慮して、今の主へ損をさせる者は、どちらからも信用されん」
その言葉に、胸の奥に残っていた重さが少しだけ消えた。
アルベルトとの関係を大切にしたい。
だが、今の俺の主君はマティアスだ。
どちらかを欺いて関係を保つことはできない。
「ところで」
アルベルトが急に話を変えた。
「今回は、私への土産だけか?」
「火縄銃の売買条件は、土産ではありません」
「私へ利益を持ってきたのだから、似たようなものだろう」
「何をおっしゃりたいのですか?」
「分からんのか?」
アルベルトの顔に、会談中にはなかった笑みが浮かぶ。
「実は、エリーゼも連れてきている」
「エリーゼ様が?」
「会談へは出せんから、別の部屋で待たせていた。お前が会いたくないと言うなら、そのまま帰るが」
「会います」
考えるより先に答えていた。
「そうか。では、呼ばせよう」
「アルベルト様」
「何だ?」
「最初から、そのつもりだったのではありませんか?」
「何のことだ?」
アルベルトは答えず、部屋を出ていった。
しばらくして、廊下から足音が近づいた。
扉が開く。
入ってきたエリーゼを見て、俺はすぐに言葉を出せなかった。
以前に会った時より、少し背が伸びている。
淡い色の服も、髪の結い方も、記憶の中の姿より大人びて見えた。
だが、俺と目が合った瞬間、うれしさを隠しきれないように表情が動く。その様子は以前と変わらなかった。
「お久しぶりです、アレク」
「お久しぶりです、エリーゼ様」
「二人だけなのですから、そこまで堅くしなくてもよいのではありませんか?」
「では、エリーゼ」
「はい」
名前を呼んだだけで、エリーゼの頬が少し緩んだ。
アルベルトは本当に二人だけにするつもりらしく、扉の外にも姿が見えない。
俺たちは窓際の椅子へ向かい合って座った。
「お手紙、ありがとうございました」
先に話したのはエリーゼだった。
「戦が終わってから、また書けるようになってよかったです」
「俺もです。以前は、アルベルト様にだけ送ってしまいましたから」
「そのことは、もうよいのです」
「本当に?」
「忘れたわけではありません」
エリーゼは少しだけ視線を逸らした。
「ですが、今は私にも書いてくださっています」
「これからも書きます」
「約束ですよ」
「はい」
以前の手紙で、エリーゼは俺が何を食べ、無事に過ごしているのかを知りたがっていた。
今はそれだけではない。
俺が領地を得たことも、百人の兵を預けられたことも、すでにアルベルトから聞いているという。
「領主になれたことは、うれしいのですか?」
エリーゼの問いに、俺はすぐ答えられなかった。
「うれしくないわけではありません。自分で良くできる土地があることも、信じて任せてもらえたことも、ありがたいと思っています」
「それでは、困っていることもあるのですね」
「分かりますか?」
「アレクは、困っていない時には、もっと早く答えます」
よく見ている。
俺は領地へ入ってから起きたことを話した。
穀倉の屋根から雨が入り、水車の軸が傷み、橋が重い荷車に耐えられないこと。
木炭を高く買えば、領民がほかの用途の炭まで作らなくなるかもしれないこと。
兵を集めすぎれば、今度は畑を耕す者が減ること。
「何か一つを良くしようとすると、別の場所が悪くなるかもしれません。俺の判断一つで、困る人が出ます」
「怖いのですか?」
「はい」
領民の前では、簡単に口にできない言葉だった。
領主が判断を怖がっていると知れば、不安を与える。
マティアスへ話せば、怖がっている暇があるなら数字を出せと言われるだろう。
だが、エリーゼの前では、隠したくなかった。
「俺が間違えれば、誰かの冬の食料が減るかもしれません。兵を危険な場所へ送ることもあります。戦場だけでなく、領地でも人の命を預かっているのだと分かりました」
エリーゼは、すぐに慰める言葉を口にしなかった。
しばらく考えた後、静かに言った。
「そのように怖いと思える方なら、少なくとも領民が困っていることを、忘れはしないと思います」
「怖がるだけでは、何も決められません」
「はい。ですが、自分は何をしても正しいと思う方より、アレクの方がよいです」
「それは褒められているのでしょうか」
「褒めています」
エリーゼは少し笑った。
「でも、何もかも一人でなさろうとしてはいませんか?」
「以前は、そのつもりでした」
「今は違うのですか?」
「少しずつ任せています。穀倉や橋のことは、俺がいなくても進むようになりました。兵の訓練も、経験のある者たちに任せています」
「安心しました」
「そんなに心配していたのですか?」
「手紙を読んでいると、アレクは今日したことをたくさん書くのに、誰かに任せたことはほとんど書かないのです」
自分では気づいていなかった。
領地で何が起きたかを伝えたくて、穀倉、水車、木炭、橋の話を書いた。
だが、それでは確かに、俺が全てを見て回っているように読めたかもしれない。
「次の手紙には、任せたことも書きます」
「お願いします。そうでなければ、また叔父上へ、アレクを休ませるようお願いしなければなりません」
「今の俺の主君は、マティアス様です」
「では、マティアス様へお願いします」
「それはやめてください」
二人で笑った。
会うまでは、何を話せばよいのか考えていた。
手紙なら、書き直すことができる。余計な一文を消し、言葉を選ぶ時間もある。
目の前にいるエリーゼとの会話は、そうはいかない。
それでも、不思議と困らなかった。
話が途切れても、急いで何かを言わなければならないとは感じない。
窓から入る午後の光の中で、エリーゼの髪がわずかに揺れていた。
その時になって、持ってきた小箱を思い出した。
「エリーゼ」
「はい」
「渡したいものがあります」
椅子の横へ置いていた荷物から、小箱を取り出す。
何度も確認したはずなのに、蓋へ掛けた指が少しだけ動きにくかった。
「かなり遅くなったけど、誕生日の贈り物です」
箱を開き、エリーゼへ差し出した。
林檎の花をかたどった髪飾りが、布の上に置かれている。
エリーゼはすぐには手を伸ばさなかった。
驚いたように髪飾りを見て、それから俺の顔を見る。
「覚えていてくださったのですね」
「約束しましたから」
「でも、戦もありました。領地や火縄銃のお仕事もあります」
「遅くなった理由にはなりますが、忘れてよい理由にはなりません」
エリーゼは両手で小箱を受け取った。
花びらへ触れないよう、縁の部分を指でなぞっている。
「林檎の花ですか?」
「はい」
「なぜ、この花を?」
「派手すぎず、それでもエリーゼに似合うと思いました」
用意していたはずの言葉が、それ以上出てこない。
昔読んだ本の知識や火縄銃の構造なら、聞かれていないことまで話せるのに、こういう時には何も役に立たなかった。
「それだけですか?」
エリーゼが少しだけ意地悪そうに尋ねる。
「以前、エリーゼが笑っていた時のことを思い出しました。林檎の花を見た時、その表情に似ていると思ったんです」
言ってから、顔が熱くなるのが分かった。
エリーゼも、俺から視線を逸らしている。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
それでも、はっきり聞こえた。
エリーゼは髪飾りを箱から取り出し、自分の髪へ留めようとした。
だが、鏡もないままでは位置が分からない。何度か手を動かした後、こちらを見る。
「あの……」
「はい」
「付けていただけますか?」
「俺が?」
「ほかには誰もいません」
それはアルベルトが意図して人を残さなかったからだろう。
俺はエリーゼの後ろへ回った。
「髪に触れても?」
「はい」
髪飾りを受け取り、束ねられた髪の横へ近づける。
壊さないように留め具を開き、髪を挟む。
だが、向きが少し傾いた。
「すみません。うまくできていないかもしれません」
「アレクにも、苦手なことがあるのですね」
「髪飾りを付ける訓練はしたことがありません」
「火縄銃より難しいですか?」
「今のところは」
エリーゼが声を抑えて笑う。
もう一度留め直し、今度は花が正面から見える向きにした。
「できました」
俺が元の椅子へ戻ると、エリーゼが髪飾りへそっと触れた。
「似合っていますか?」
迷う必要はなかった。
「はい。とても」
エリーゼは、うれしそうに笑った。
その表情を見て、林檎の花を選んだ時に思い出したものは間違っていなかったと分かった。
しばらくして、扉の外から控えめな音がした。
帰る時間が近いのだろう。
エリーゼは立ち上がった。
「次は、手紙だけでなく、もう少し早く会えるとよいですね」
「俺も、そう思います」
「本当に?」
「本当です」
エリーゼが一歩近づき、俺の手を取った。
強く握ったわけではない。
それでも、離れていた時間を確かめるような温かさが伝わった。
「お手紙を待っています」
「書きます」
「叔父上にだけではなく?」
「今度は最初から、エリーゼにも書きます」
「約束ですよ」
「はい」
手が離れる。
扉を開けると、廊下の少し離れた場所にアルベルトが立っていた。
エリーゼの髪にある林檎の花を見て、何も言わずに笑っている。
「何ですか?」
俺が尋ねても、アルベルトは首を横へ振った。
「何も言っていない」
「顔が言っています」
「それは、お前の観察力が高すぎるのだろう」
エリーゼは髪飾りを隠そうとはしなかった。
俺も、もう小箱へ戻してほしいとは思わなかった。
帰りの馬車へ乗る前、荷物の中に空の小箱が残っていることを確かめた。
会談では、火縄銃三十挺を渡すために、価格、製造数、職人、規格、報告、譲渡先まで多くの条件を付けた。
条件がなければ、武器は誰の手へ渡り、どこで使われるか分からない。
だが、林檎の花の髪飾りには、何の条件も付けなかった。
いつ使うかも、どこへ持っていくかも、これからはエリーゼが決める。
同じ渡すという行為でも、守るために条件が必要なものと、相手を信じて手を離すべきものがある。
ベルグハーフェンへ戻れば、工場と五十挺の仕事が待っている。
アイヒェンタールへ帰れば、領地と兵の報告を聞かなければならない。
アルベルトへ売る三十挺が完成するのは、まだ先だ。
従来型火槍を売る策も、本当に諸国が買うまでは成功したとは言えない。
今日決めたのは、火がどこまで広がるのか、その最初の境界にすぎなかった。
それでも、エリーゼの髪に残った小さな花だけは、俺の手を離れ、あるべき場所へ届いていた。
第五話を読んでいただき、ありがとうございました。
アルベルトによる火縄銃三十挺の購入が決まり、アルヴェイン側での研究や生産数の報告、職人の研修、第三国への譲渡など、技術を共有するための条件が整いました。
従来型火槍の噂も、火縄銃の生産を進める時間と購入資金を得るために利用されていきます。ただし、旧式の火槍も使い方次第では危険な武器であり、売却先と数量を慎重に選ばなければなりません。
そして会談後、アレクはエリーゼと再会し、約束していた林檎の花の髪飾りをようやく渡すことができました。
次回は二挺の不発原因を調べ、五十挺、百挺へ進むための検査、記録、訓練の仕組みを整えていきます。




