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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第四篇 乱世に抗う力

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第二十六話 勝利を残す

シュヴァルツ伯を追えば、さらに大きな戦果を得られるかもしれない。

しかし、グリュン川大橋と倉を守るために残された時間も、残り僅かでした。

レオンハルトは、敵を追うことではなく、すでに得た勝利を残すための決断を下します。

シュヴァルツ伯の大旗は、丘の向こうへ消えようとしていた。

今から追えば、まだ間に合うかもしれない。

敵の中央は崩れている。

前を走る兵と、負傷者を支える兵と、後ろを守る兵の間には隙間ができていた。

王都軍とレオンハルト軍が同時に押せば、その隙間をさらに広げられる。

シュヴァルツ伯本人まで届かなくても、多くの兵と武器を奪えるだろう。

だが、背後にあるグリュン川大橋では、ヴァルナー軍が攻撃を始めている。

橋から来た使者によれば、最初に現れた敵だけで五百人ほど。

後方には、さらに多くの兵が集まりつつある。

倉には火矢が放たれ、一度は火を消したものの、次も防げるかは分からない。

丘の向こうへ進む道と、グリュン川大橋へ戻る道。

レオンハルトは二つを見比べたまま動かなかった。

「殿下」

ユリウスが声を掛ける。

「敵の後衛が丘へ入ります。決めるなら、今です」

「分かっている」

レオンハルトは短く答えた。

王都軍から来た使者も返事を待っている。

ライゼン将軍は、王都軍だけで丘の向こうまで追うとは決めていない。

レオンハルト軍が追うなら進む。

止まるなら、王都軍も追撃の範囲を考え直す。

そういう返事だった。

「マティアス」

レオンハルトが呼ぶ。

「お前なら、どちらを選ぶ」

「私に決めさせるのですか?」

「決めるのは俺だ。お前には損得を言わせる」

「それなら、橋です」

マティアスは迷わなかった。

「シュヴァルツ伯を逃がせば、また戦うことになるかもしれません。兵を集め直し、別の諸侯を誘い、今度は違う場所から攻めてくるでしょう」

「なら追うべきではないのか」

「橋と倉を失わないなら」

マティアスはグリュン川大橋へ続く道を見た。

遠くに黒い煙が上がり始めている。

倉が燃えているのか。

橋の前で火が出ているだけなのか。

ここからでは分からない。

「橋を失えば、対岸からの荷が止まります。倉を焼かれれば、食料、矢、火薬、馬の餌を失う。今日勝った兵が、明日から食べられなくなります」

「シュヴァルツを逃がす損より大きいか」

「敵将一人の首で、腹は満たせません」

マティアスは答えた。

「敵将を捕らえれば戦が終わるという保証もありません。シュヴァルツ伯の陣営には、まだ別の諸侯がいます。ですが、兵糧がなくなれば、こちらの軍が動けなくなることだけは確かです」

レオンハルトが俺を見る。

「お前は」

「橋へ戻るべきだと思います」

俺は答えた。

「理由はマティアスと同じか」

「ほとんどは」

「違うところは」

俺は丘へ下がる敵を見た。

ここで逃がせば、シュヴァルツ伯はまた現れるかもしれない。

今度は火縄銃のことを知ったうえで戦う。

盾の向き。

火縄から上がる煙。

二段に分かれて撃つこと。

装填に時間が掛かること。

今日見たことを敵が覚えれば、次は同じようには使えない。

逃がしたくなかった。

だが、敵が今日見たのは、こちらも同じだった。

西側で一挺。

中央で一挺。

二挺が不発になった。

訓練どおりに動いていた兵が、敵を前にして場所を間違えた。

装填の手が震え、火縄や一発筒を落とした。

俺たちは勝ちながら、直さなければならない問題をいくつも見つけている。

「こちらも、次に備える時間が必要です」

俺は言った。

「敵だけが今日の戦から学ぶわけではありません」

「火槍を直すためか」

「火槍だけではありません。王都軍との連絡、橋の守り、倉の配置、負傷者を運ぶ荷車。今日うまくいったことも、偶然うまくいっただけかもしれません」

「次も同じように勝てるとは限らない」

「はい」

「だから、勝ったうちに戻るか」

「はい」

レオンハルトは再び丘を見た。

敵の大旗が半分ほど隠れる。

あと少しで見えなくなる。

「ユリウス」

「はい」

「追撃は丘の手前までだ。それ以上は進ませるな」

ユリウスが一礼する。

「騎兵と斥候は」

「出せ。ただし敵の退路と兵数を見るだけだ。戦を仕掛けるな」

「承知しました」

「王都軍へ伝えろ。我々は橋へ戻る。追撃を止めろとは言わん。だが、丘の向こうへ進めば王都軍だけになるとな」

王都軍の使者が表情を引き締める。

レオンハルトは続けた。

「もう一つ伝えろ。今日の勝利を、帰り道で失うな」

「承知しました」

使者が馬へ乗る。

王都軍の陣へ向かって走り出した。

「殿下」

近くにいた指揮官が進み出る。

「今なら、まだシュヴァルツ伯へ届くかもしれません」

「ああ」

「敵の中央は崩れています」

「ああ」

「それでも戻るのですか」

レオンハルトは相手の顔を見た。

「敵を追って橋を失えば、シュヴァルツは自分が勝ったと言う」

「しかし」

「俺は、今日得た勝ちをあいつへ返すつもりはない」

指揮官はしばらく黙っていたが、やがて頭を下げた。

「全軍へ伝えろ」

レオンハルトが命じる。

「列を崩さず後退する。負傷者と荷を先に戻せ。王都軍との境目には、最後まで兵を残せ」

命令が広がっていく。

前へ進んでいた槍兵が止まった。

敵を追いたい兵たちから、不満の声が上がる。

すぐ近くまで敵がいる。

背を向けて逃げる兵も見える。

槍を捨てた者もいる。

勝った実感を最も強く持てるのは、今からの追撃だった。

それを止められれば、納得できない者もいる。

「敵を逃がすのか!」

「今なら追いつける!」

声が上がるたび、指揮官たちが列を歩いた。

「命令だ!」

「隊列を離れるな!」

「丘を越えるな!」

兵は少しずつ足を止めた。

一人だけが追うのを止めても、その隣が走れば置いていかれる。

部隊全体が止まらなければ、追撃は止まらない。

角笛が鳴る。

短く三度。

前進ではない。

停止の合図だった。

敵の大旗が丘の向こうへ消えた。

シュヴァルツ伯は逃げた。

それでもレオンハルトは、追えとは言わなかった。

◇ ◇ ◇

王都軍からの返事が届いたのは、負傷者を荷車へ移し始めた頃だった。

使者はライゼン将軍の書状を持っている。

ユリウスが封を開き、レオンハルトの前で読み上げた。

「王都軍も追撃は丘までとする。橋を守れ。敵を退かせた勝利を、帰り道で失うな」

最後の言葉は、レオンハルトが送ったものとほとんど同じだった。

「真似をしたな」

レオンハルトが言う。

「殿下が送った書状と、ライゼン将軍の返書は途中ですれ違っています」

ユリウスが答えた。

「では、同じことを考えたか」

「そのようです」

「気に入らんな」

そう言いながら、レオンハルトは少し笑っていた。

ライゼン将軍はレオンハルトの命令に従ったわけではない。

王都軍だけで追えば孤立する。

丘の向こうの地形も敵の予備兵も分からない。

シュヴァルツ伯軍を押し返した時点で、この日の目的は達している。

同じ状況を見て、自分の判断で止まった。

二つの軍は、最後まで一つにはならなかった。

それでも、敵を中央へ入れた時も、追撃を止めた時も、同じ時に動くことができた。

「王都軍との境目の兵はどうします?」

俺が尋ねる。

「向こうが下がるまで残す」

レオンハルトが答えた。

「こちらが先に消えれば、見捨てたと言われる」

「向こうも同じことを考えたら、どちらも動けません」

「なら、使者に伝えさせろ。三十数える間に同時に下がる」

「また同じ時ですか」

「今日できたのだ。二度目の方が簡単だろう」

本当に簡単かは分からない。

だが、最初よりは信じられる。

両軍の使者が中央を往復する。

王都軍とレオンハルト軍の兵が、敵へ盾を向けたまま少しずつ後ろへ下がった。

どちらか一方が先に逃げる形にはならなかった。

その間に、後方では帰還の準備が進められている。

歩けない負傷者は荷車へ乗せる。

王都軍の兵には王都軍の布。

レオンハルト軍の兵には別の布。

腕や荷台へ結び、どちらの軍の者か分かるようにする。

同じ荷車へ乗せることはあっても、誰をどこへ返すか分からなくしてはいけない。

食料袋を数える者。

落ちた矢を拾う者。

使える槍を集める者。

死んだ馬から鞍と荷を外す者。

戦が終わったように見えても、仕事は増えていた。

「アレク!」

マティアスに呼ばれた。

「はい!」

「火槍隊を確認しろ。橋へ着いた時に撃てないでは困る」

俺は火槍隊のところへ走った。

十人全員がいる。

戦死者はいない。

一人は転んだ時に腕を打っていたが、骨は折れていないらしい。

戦場へ持ってきた火縄銃は十挺。

西側の攻防で一挺が不発となり、先にロルフの工房へ送られた。

中央で敵の側面を撃った時、さらに一挺が不発となった。

今すぐ使えるのは八挺。

中央で不発になった一挺は、ほかの火縄銃と離して置かれていた。

銃口は人のいない方へ向けられている。

火縄も外されていた。

だが、筒内には火薬と弾が残っている可能性が高い。

「触っていませんか?」

俺が尋ねる。

「命令どおり、そのままです」

火槍兵長が答えた。

「橋までどう運びます?」

「ほかの銃とは離します。人が前を歩かないようにして、銃口は進む向きとずらしてください」

「荷車には載せますか?」

「載せません。揺れが大きすぎます」

「では、二人で持たせます」

火槍兵長は兵を二人選んだ。

一人が木台の後ろを持ち、もう一人が銃口より後ろの部分を支える。

銃口の前には誰も立たない。

急いでいても走らせない。

西側で不発となり、すでにロルフの工房へ送った一挺。

中央で不発となり、今ここにある一挺。

合わせて、使用不能になった火縄銃は二挺になる。

最初に作った十挺のうち、最後まで使える状態で残ったのは八挺だった。

「兵は歩けますか?」

「歩けます」

火槍兵長が答える。

「走らせるなら、火縄銃を持つ者と持たない者を分けた方がいいでしょう」

「走らせません」

橋では今も戦っている。

一刻でも早く戻りたい。

だが、疲れた兵へ火薬と火縄銃を持たせて走らせれば、橋へ着く前に事故が起きる。

「隊列を守って進みます。火縄銃を持つ兵は中央。前後に槍兵を付けてもらいます」

「敵が出た場合は」

「八挺を撃つ前に、槍兵に止めてもらいます」

火縄銃だけで移動させない。

それも今日、何度も繰り返したことだった。

「火槍兵長」

「はい」

「橋へ着くまで、兵を見ていてください。足が遅れる者がいたら、すぐに言ってください」

「分かりました」

後方ではマティアスが別の指示を出していた。

「空の樽を先へ送れ! 水桶もだ!」

「橋に水はあります!」

「汲む容器がなければ、川一つあっても火は消せん!」

荷運び人が樽を荷車へ積む。

「砂袋も載せろ! 食料とは別の車だ!」

「負傷者の車が先では?」

「負傷者が先だ! 樽はその後! 槍兵より前へ出すな!」

順番が決められていく。

負傷者。

消火用の樽と砂。

弓兵。

槍兵。

火槍隊。

さらに後方を守る兵。

橋へ戻るだけでも、並べ方が必要だった。

「敵に火を放たれてから消火の準備をするのでは遅い」

マティアスが俺の隣へ来る。

「橋へ着く前に火が消えていたら、無駄になりますよ」

「無駄で結構だ」

「珍しいですね」

「使わずに済んだ水桶と、燃えた倉のどちらが安い」

「水桶です」

「なら無駄にしろ」

軍が動き始めた。

丘の方には王都軍が残っている。

その旗も少しずつ後ろへ下がっていた。

王都軍とレオンハルト軍は別の道を選ぶ。

王都軍は戦場と捕虜を押さえる。

レオンハルト軍は橋へ戻る。

互いの役目を決めたわけではない。

それぞれが守るべきものを選んだ結果だった。

俺は一度だけ丘を振り返った。

シュヴァルツ伯の旗はもう見えない。

代わりに、黒い煙が橋の方角から上がっていた。

◇ ◇ ◇

グリュン川大橋へ近づくにつれ、煙の臭いが強くなった。

木が焼ける臭い。

濡れた布と泥の臭い。

火薬の臭いも混じっている。

橋の手前から、矢が飛ぶ音が聞こえた。

「守備隊の旗が見えます!」

先頭の兵が叫ぶ。

橋の北側。

門の上に、レオンハルト軍の旗が残っている。

倉も立っていた。

屋根の一部から煙が出ているが、建物全体が燃えているわけではない。

「持っている」

俺は息を吐いた。

橋の南側にはヴァルナー軍の盾が並んでいる。

橋の入口へ正面から兵を進める部隊。

川沿いへ回り、倉へ弓を向ける部隊。

さらに後方には、まだ戦っていない兵がいる。

守備隊は橋の前に作った柵のうち、外側の一つを失っていた。

壊れた木材が地面へ散らばっている。

だが、内側の柵と門は残っている。

守備兵はそこから槍を出し、敵を止めていた。

「倉の西側に火!」

声が上がる。

火矢が屋根の端へ刺さった。

乾いた木片へ火が移る。

倉の横で待っていた者たちが動いた。

水桶が手渡される。

一人。

二人。

三人。

列を作って水を運ぶ。

別の者が濡らした布を屋根へ投げる。

砂も掛ける。

火は広がる前に小さくなった。

戦の前に決めた配置だった。

水を入れた桶。

砂。

屋根へ上るための梯子。

倉を守る者。

橋を守る兵とは別に残した者たちが、自分の役目を果たしている。

「食料は」

マティアスが戻ってきた使者へ尋ねる。

「大半は無事です!」

「火薬は」

「最初に分けた小倉へ移したままです! 今のところ、敵は場所に気づいていません!」

一つの倉へすべてを集めなかったことが役に立った。

もし大きな倉だけを使っていたら、火が回った時点ですべてを失っていたかもしれない。

「我々が来たから守れたわけではないな」

俺が言う。

「まだ我々は何もしていない」

マティアスが答えた。

橋の守備隊は、レオンハルト軍主力が戻るまで、自分たちだけで持ちこたえた。

敵が少し下がっても追わない。

橋を渡って外へ出ない。

倉と食料を守る。

火を放たれた場合に備える。

すべて、レオンハルトが先に出していた命令だった。

命令を守った兵。

水桶を用意した者。

食料を分けた者。

倉を見張った者。

彼らが時間を作ったから、俺たちは間に合った。

「全軍、配置へ!」

レオンハルトの命令が届く。

「槍兵は橋の守備隊へ合流! 弓兵は倉の周囲を守れ! 騎兵は川沿いの道へ回れ! 敵の後ろへ入ろうとするな。退路だけを見せろ!」

騎兵が動く。

敵を直接攻めるのではない。

ヴァルナー軍から見える場所を通り、川沿いへ回る。

このまま攻撃を続ければ、退く道へ騎兵が現れるかもしれない。

そう思わせるためだった。

「火槍隊は?」

俺が尋ねる。

レオンハルトは橋の北側にある緩い坂を指した。

「上へ置け」

「橋の正面からは離れます」

「撃たなくていい」

「見せるだけですか」

「シュヴァルツのところにいた兵が、こちらへ報告を送っていないと思うか」

今日の戦場から逃げた者。

騎兵。

使者。

シュヴァルツ伯軍とヴァルナー軍が連絡を取っているなら、火槍の話も届いているかもしれない。

遠くの指揮官を倒した。

一度撃った後、すぐに別の火槍が撃った。

西側の騎兵を止めた。

中央で盾兵の横から撃った。

どこまで正確に伝わっているかは分からない。

誇張されている可能性もある。

「八挺しかありません」

俺は言った。

「敵は知らん」

レオンハルトが答える。

「不発になった二挺のことも」

「それも知らん」

「近づけば数えられます」

「近づけさせなければいい」

火槍隊を坂へ上げる。

八人が火縄銃を持つ。

残る二人は一発筒と予備の火縄を持ち、射手の間に立つ。

敵から見れば、十人全員が何かを構えているように見えるかもしれない。

火縄から細い煙が上がる。

風が煙を横へ流す。

「構えますか?」

火槍兵長が尋ねる。

「まだです」

「敵は橋へ近づいています」

「撃てという命令はありません」

「では、赤い布は」

「上げたままにしてください」

赤い布が掲げられる。

八挺は地面へ銃床を付け、銃口だけを敵の方角へ向けた。

橋の南側で、ヴァルナー軍の旗が動く。

こちらの主力が戻ったことに気づいたのだ。

正面の盾兵が前進を止める。

川沿いにいた弓兵も、坂の上に並ぶ俺たちを見ている。

一人が火縄の煙を指した。

敵の中で声が広がっていく。

「火槍だ!」

距離があるため、すべては聞こえない。

それでも、同じ言葉が何度か上がったのは分かった。

「撃ちますか?」

火槍兵長がもう一度尋ねる。

「撃ちません」

敵はまだ遠い。

当てるために撃つなら、もっと近づける必要がある。

だが、今は敵を倒すことが目的ではない。

橋から離れさせることが目的だ。

レオンハルト軍の槍兵が守備隊へ合流する。

門の後ろに、新しい盾列ができる。

倉の周囲には弓兵が並ぶ。

川沿いでは騎兵の旗が見える。

火槍隊は坂の上にいる。

ヴァルナー軍の指揮官は、しばらく橋とこちらを見比べていた。

攻撃を続ければ、橋を奪えるかもしれない。

だが、橋を抜く前にレオンハルト軍主力が並び終える。

川沿いの退路へ騎兵が回る。

火槍がどこから撃つか分からない。

敵の角笛が鳴った。

短く一度。

前進の音ではなかった。

橋の近くにいた盾兵が、列を保ったまま下がり始める。

弓兵が最後まで矢を放ち、その後ろへ入る。

「敵、後退します!」

守備兵から歓声が上がった。

「追うな!」

レオンハルトの命令がすぐに飛ぶ。

「門を開けるな! 橋から出るな!」

歓声が止まる。

敵を追いたい兵もいたはずだ。

何日も橋を守り、矢を受け、火を消し、仲間を失った。

逃げる敵の背を見れば、槍を持って追いたくなる。

だが、門は開かなかった。

敵の後退は整っている。

最後尾には盾兵と弓兵が残っている。

追えば、川沿いへ誘い込まれる可能性があった。

ヴァルナー軍は、橋から離れた場所で一度列を作り直した。

それから南へ退いていく。

レオンハルトの騎兵も、追撃せず距離を保って動きを見た。

「橋を取るつもりだったのでしょうか」

俺は尋ねた。

「取れるなら取っただろう」

マティアスが答える。

「では、本当の目的は」

「我々を戻すことだ」

シュヴァルツ伯軍が退く時に、ヴァルナー軍が橋を攻める。

レオンハルトが追撃を続ければ、橋と倉が危険になる。

橋へ戻れば、シュヴァルツ伯は逃げられる。

どちらを選んでも、敵のどちらかは助かる。

「シュヴァルツ伯と話を合わせていた」

「そうだろうな」

「では、俺たちは敵の思いどおりに動いたんですか」

「一部はな」

マティアスは焼けた柵を見た。

「だが、橋はある。倉も残った。兵糧も大半は無事だ」

「シュヴァルツ伯は逃げました」

「すべてを取れなかったことと、負けたことは同じではない」

橋の上には、倒れた兵が残っている。

壊れた盾。

折れた槍。

焼けた木材。

勝ったと言っても、何も失わなかったわけではない。

それでも橋は渡れる。

倉には食料が残っている。

帰る道も、次に進む道も失っていない。

「火槍隊、構えを解いてください」

俺は命じた。

赤い布が下がる。

八挺の火縄銃が肩から外された。

結局、橋では一発も撃たなかった。

撃たなくても敵を動かした。

それは武器の力なのか。

先ほどの戦で火縄銃が何をしたか、敵が知っていたからなのか。

それとも、槍兵、弓兵、騎兵と一緒に並べたからなのか。

おそらく、すべてだった。

◇ ◇ ◇

翌朝になっても、損害の数は確定しなかった。

戻っていない兵がいる。

別の部隊へ紛れた者もいる。

負傷者の中には、自分の名を答えられない者もいた。

敵の死傷者は、さらに分からない。

退く時に負傷者を連れていった。

丘の向こうで死んだ者もいるだろう。

それでも、今分かる範囲で報告が集められた。

王都軍の死傷者は四百人を超える。

東側と中央での損害が多い。

レオンハルト軍は、橋の守備隊を合わせて二百人前後。

西側の騎兵を止めた場所では、突破された兵はいなかったものの、矢や投槍で負傷者が出ている。

中央では、敵を引き入れるために下がった兵と、荷車の第二線を守った兵の損害が大きかった。

敵側は、戦場に残された死者と捕虜だけでも、こちらの一方の軍を上回っている。

だが、シュヴァルツ伯軍が連れ帰った負傷者の数は分からない。

捕虜の中には、戦へ加わったばかりの地方兵も多かった。

武器を捨てて降伏した者。

部隊から離れ、逃げる方向を失った者。

負傷して動けなくなった者。

彼らから聞いた話も、すぐには一致しなかった。

「火槍が何十本もあった」

そう言う者がいた。

実際に戦場へ持っていったのは十挺だ。

「一度撃った火槍が、すぐにもう一度撃った」

同じ銃が続けて撃ったわけではない。

五挺ずつ、二班に分けていた。

「火槍で指揮官だけを狙われた」

最初の射撃ではそうした。

だが、中央では盾の向きを変えるため、側面へ撃った。

「レオンハルト王弟は、火槍が使えると最初から知っていた」

その言葉は、何人かの捕虜から聞かれた。

捕虜たちは、戦場で使われた武器を従来の火槍だと信じていた。

噂はもう兵の間へ広がり始めている。

橋で一発も撃たずにヴァルナー軍を退かせたことまで、火槍の力として語られるかもしれない。

本当は、守備隊が持ちこたえたからだ。

倉を守り、消火の準備をし、槍兵と弓兵が並び、騎兵が川沿いへ回った。

火槍隊は、その一部にすぎない。

それでも、見た者は火縄の煙を覚える。

大きな銃声を覚える。

目に見えない準備より、目立つ武器の方が噂になりやすかった。

「次は火槍隊の報告だ」

レオンハルトが言う。

火槍兵長が一歩前へ出る。

その横には俺とマティアスがいる。

机の上には、使用した火薬と一発筒の数、射撃した回数、故障した火縄銃について書いた紙が置かれていた。

「兵は十人」

火槍兵長が報告を始める。

「戦死者なし。負傷者一人。転倒による打撲で、歩行と射撃に大きな支障はありません」

「火槍は」

「戦場へ持ち込んだ十挺のうち、使用可能なものは八挺です」

「残る二挺」

「一挺は西側の攻防で不発となり、すでにロルフの工房へ送られています。もう一挺は中央戦で敵の側面を撃った際、火皿の火薬だけが燃え、筒内の火薬へ火が届きませんでした」

「その一挺は」

「今も触れさせていません。ほかの火薬と武器から離して保管しています。安全に運べる状態を確認した後、ロルフの工房へ戻します」

レオンハルトが俺を見る。

「原因は」

「まだ分かりません」

「予想は」

「点火孔に汚れが詰まったか、火皿の火が弱かったか、装填や移動中に筒内の火薬の位置が変わった可能性があります」

「筒が壊れたのか」

「外から見た限りでは、破裂も変形もありません。ただ、今は中を確認できません」

「ロルフなら分かるか」

「調べれば、ある程度は。ただし、分解しても原因が残っていない可能性があります」

火薬の燃えた跡。

煤。

汚れ。

移動中の揺れ。

戦場で何が起きたのか、工房へ戻した時には消えてしまうものもある。

「不発以外は」

レオンハルトが火槍兵長へ尋ねた。

「西側から中央へ戻った後、兵の動きが乱れました」

火槍兵長は成功だけを話さなかった。

「第一班と第二班が入れ替わった後、下がる兵と装填を始める兵がぶつかりかけました。一発筒の蓋を落とした者が一人。火縄を置いた場所を見失った者が一人。装填時間は試験場より長くなりました」

「命令は聞こえたか」

「近くの者には。ただし、敵味方の声と盾の音が大きく、後ろの兵には届きにくい場面がありました」

「赤い布は」

「見えている間は使えました。白煙が広がった後は、布を上げても見えにくくなりました」

「二段に分けた射撃は」

「一班目の射撃後、二班目を前へ出すことはできました。ただし、西側と中央で一挺ずつ不発となりました」

レオンハルトは報告を聞き終えると、机の上の紙を見た。

「失敗が多いな」

「はい」

火槍兵長は否定しなかった。

「それでも、兵四百人を止めた」

「最初の戦では、敵指揮官を倒したことで敵兵が退きました」

「西では騎兵を止めた」

「荷車、溝、林、槍兵があったからです」

「中央では敵の盾を動かした」

「王都軍とこちらの槍兵が同時に攻めたからです」

火槍兵長は一つずつ答える。

自分たちだけの功績にしなかった。

レオンハルトは少しだけ口元を上げた。

「誰に教えられた」

「何をでしょう」

「火槍だけで勝ったように言うなと」

「戦場を見れば分かります」

「そうか」

レオンハルトは椅子へ背を預けた。

「十挺で、これだけの場所を動かした」

戦場へ持っていったのは十挺。

そのうち西側で一挺、中央で一挺が不発となり、最後まで使用可能だったのは八挺だ。

「百挺あれば百倍になるとは思わん」

レオンハルトが続ける。

「兵も十倍必要になる。火薬、弾、火縄、一発筒、荷車、職人、教える者も増やさなければならん」

「はい」

俺は答えた。

「だが、百挺をどう使うか考える価値はある」

レオンハルトの目が俺へ向く。

「戦が終わったら、数の話をする。十挺を作った時と同じ工房では足りん」

「ロルフの工房だけでは無理です」

「なら、無理ではなくなる場所を作れ」

「場所だけでは作れません」

「知っている」

「職人と鉄と木材も」

「それを集める者が隣にいる」

レオンハルトがマティアスを見る。

「まだ引き受けるとは言っていませんが」

マティアスが答える。

「断るのか」

「金を誰が出すのか聞いてから決めます」

「俺に売る気か」

「軍へ納める物を、無償で作らせる気ですか?」

「領地を持たない商人は強欲だな」

「領地を持つ方が、金は必要になります」

レオンハルトとマティアスが互いを見る。

その会話の意味を、俺は深く考えなかった。

工房。

職人。

鉄。

木材。

火薬。

次に作る数。

頭に浮かんだのは、それだけだった。

「不発の二挺は、ロルフへ戻します」

俺は言った。

「原因が分からないまま数を増やすのは危険です」

「原因が分かるまで、一挺も作らんつもりか」

「今作っている物は止めません。ただ、不発が同じ場所で起きているなら、次から直します」

「記録は」

「残します」

「成功した記録だけではないな」

マティアスが尋ねた。

「失敗もです」

「ならいい」

最初の一挺を作り始めた時、マティアスは言った。

金も、鉄も、人の時間も、使った理由を残せ。

成功した時にだけ帳面を見せるな。

二挺の不発は、隠したくなる失敗だった。

十挺しかないうちの二挺。

五挺に一挺が使えなくなったと考えれば、決して小さくない。

だが、今のうちに起きたことは、次の五十挺や百挺で起きる事故を減らすために使える。

失敗した二挺も、作った意味をなくしてはいけない。

◇ ◇ ◇

戦から三日後、王都側から正式な使者が到着した。

シュヴァルツ伯軍を戦場から退かせ、グリュン川大橋を保持したことを、王都軍は勝利として報告する。

捕虜。

戦利品。

死傷者。

使った食料。

失った荷車。

各部隊の働き。

それらを整理し、戦後の軍議へ提出するよう求められた。

ライゼン将軍からは、王都軍側で確認した敵の動きも伝えられている。

シュヴァルツ伯軍は丘の向こうで一度隊列を作り直した後、西へ退いた。

大きく崩れた部隊はあるが、主力のすべてを失ったわけではない。

シュヴァルツ伯本人も捕らえられていない。

追撃を続けていれば、さらに敵を減らせたかもしれない。

だが、丘の先には盾兵と弓兵が残り、反撃の準備をしていた形跡があった。

レオンハルトが橋へ戻った判断は、少なくとも敗北を招く間違いではなかった。

「間違いではなかった、か」

レオンハルトが書状を読んで言う。

「随分と慎重な褒め方ですね」

俺が答える。

「ライゼン将軍らしい」

「褒めているんですか?」

「本人に聞け」

「聞きたくありません」

使者がもう一通の書状を差し出した。

戦後の軍議と論功行賞についての通知だった。

レオンハルト。

ライゼン将軍。

戦へ加わった主な指揮官。

兵站と橋の維持に功績があった者。

それぞれの働きを確認し、恩賞を決める。

「マティアス」

レオンハルトが呼ぶ。

「はい」

「お前も来い」

「兵を率いた将ではありません」

「ベルグハーフェンから荷を運び、橋を使えるようにし、この軍を食わせた」

「商会の者たちが働いた結果です」

「なら、その働きもまとめて持ってこい」

レオンハルトは書状を机へ置いた。

「橋を使えるまま残した。倉も食料も守った。今度は、その働きに値を付ける番だ」

マティアスはすぐには答えなかった。

「何をくださるのです?」

「もう値段を聞くのか」

「値を付けると仰ったのは殿下です」

「まだ決めていない」

「では、決めてから呼んでください」

「お前が何を欲しがるか聞いてから決める」

二人の間で、いつものやり取りが始まる。

だが、今回は冗談だけでは終わらない気がした。

マティアスはレオンハルトの臣下ではない。

少なくとも、これまではそうだった。

レオンハルトから兵站や物流の仕事を請け負い、金を貸し、必要な時に人や物資を用意する。

レオンハルトも、マティアスを便利な相手として使う。

互いに利用し合う関係だった。

論功行賞で何を与えるか。

マティアスが何を受け取るか。

それによって、二人の関係が変わる可能性がある。

「アレク」

突然呼ばれ、俺は顔を上げた。

「はい」

「お前も来い」

「俺もですか?」

「十挺の火槍で何をしたのか、自分の口で説明してもらう」

「説明なら、帳面を出します」

「帳面が領地を治めるのか?」

「領地?」

思わず聞き返した。

レオンハルトは答えず、マティアスを見る。

マティアスも何も言わない。

「何の話です?」

俺が尋ねる。

「論功行賞の話だ」

「俺は、火縄……火槍を作っただけです」

「作っただけの者は、戦場で敵指揮官を狙えとは命じん」

「兵を率いたのは十人です」

「十人でも兵は兵だ」

「でも」

「不満なら、何もいらないと言ってみろ」

言おうとして、止まった。

俺個人が何も受け取らないだけなら、それでもいい。

けれど、火槍兵長と兵たちは戦った。

何か月も訓練し、火薬を扱い、敵の前で引金を引いた。

不発が起きても逃げず、命令を守った。

彼らの働きまで、俺が勝手にいらないとは言えない。

「兵たちの働きは、認めてください」

俺は言った。

「なら、お前が連れてこい」

レオンハルトが答える。

「誰が何をしたか、お前が説明しろ。それが指揮を執った者の仕事だ」

「分かりました」

領地という言葉が頭に残った。

だが、自分が土地を持つ姿は想像できなかった。

村。

税。

畑。

道。

そこに暮らす人。

剣と火縄銃のことなら、少しは考えられるようになった。

領地を治めることなど、何から始めればいいのかも分からない。

ただ、レオンハルトとマティアスは、俺が考えているより先の話をしているようだった。

その日の午後、使用可能な八挺の火縄銃は、火薬を抜いて保管場所へ運ばれた。

一挺ずつ布で包み、湿気の少ない場所へ置く。

中央戦で不発となった一挺は、ほかの武器と離したまま、ロルフの工房へ送る準備が進められている。

西側の攻防で不発となった一挺は、すでにロルフの工房へ送られていた。

二挺の不発は、同じ原因なのか。

それとも、まったく別の原因なのか。

ロルフが調査しなければ分からない。

戦場へ十挺を持ち込んだ。

その十挺すべてが、最後まで撃てたわけではない。

二挺は、戦場で不発となった。

この武器だけで戦に勝ったわけでもなかった。

槍兵がいた。

弓兵がいた。

橋を守った兵がいた。

荷車を動かした者がいた。

水を運び、火を消し、食料を分けた者がいた。

王都軍とレオンハルト軍が、同じ時に動いた。

そのすべてが合わさって、ようやく勝利が残った。

それでも、作業台の上にあった最初の一挺は、兵を動かし、敵を退かせ、人と土地の行方まで変えようとしている。

乱世へ抗うための力は、もう俺の帳面の中だけにはなかった。

第二十六話を読んでいただき、ありがとうございました。

シュヴァルツ伯を捕らえることはできませんでしたが、王都軍とレオンハルト軍は敵を退け、グリュン川大橋、倉、兵糧、帰還する道を守りました。

十挺の火縄銃も二挺の不発を出しながら、槍兵や兵站、伝令、事前の準備と組み合わさることで、戦場を動かす力を示しました。

今回で第四篇「乱世に抗う力」は完結です。

次回から第五篇「乱世に広がる火」が始まります。論功行賞を通して、マティアスとレオンハルトの関係、そしてアレクが率いることになる兵と領地を描いていきます。

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