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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第四篇 乱世に抗う力

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第二十五話 シュヴァルツ伯迎撃戦(下)

シュヴァルツ伯の主力が、王都軍とレオンハルト軍の境目へ迫ります。

別々の軍が同じ時に動くため、レオンハルトは敵をあえて中央へ引き入れる作戦を選びます。

丘の下で動き始めた敵主力は、これまでに見たどの部隊よりも厚かった。

前には盾兵。

その後ろには槍兵が続き、さらに弓兵と予備兵が控えている。

二千を超える兵が、王都軍とレオンハルト軍の境目へ向かっていた。

両軍の間に兵がいないわけではない。

王都軍から三百人。

レオンハルト軍から三百人。

最初に隙間を埋めるため、それぞれが出した兵はまだ中央に残っている。

だが、最初の敵兵千人を押し返すために前へ出た。

その後、王都軍は東へ、レオンハルト軍は西へ予備兵を動かした。

火槍隊も西側にいる。

同じ六百人でも、後ろにいる兵の数が違う。

押し込まれた時に支えられる人数が、もう最初とは違っていた。

「中央の兵へ伝えろ!」

レオンハルトの声が飛ぶ。

「敵を押し返そうとするな! 列を保ったまま下がれ!」

伝令が走り出す。

ユリウスが地図から顔を上げた。

「下がらせるのですか?」

「正面から受ければ潰される」

「ですが、境目を抜かれます」

「抜かせるのではない。入れる場所をこちらで決める」

敵の角笛が鳴る。

低く長い音に合わせ、盾兵が歩調を速めた。

中央に残る味方の盾が上がる。

その後ろから槍が突き出された。

ぶつかる。

最初に聞こえたのは、人の声ではなかった。

盾と盾が打ち合う、重い音。

次に、槍の柄が折れる音。

その後でようやく、敵味方の叫び声が重なった。

中央の味方は命令どおり、隊列を崩さずに下がろうとしている。

だが、六百人全員が同じ速さで動けるわけではない。

王都軍側では先に下がった。

レオンハルト軍側では、敵の盾に押された兵が遅れている。

境目が斜めに曲がる。

その曲がった場所へ、敵の槍兵が集まった。

「レオンハルト殿下!」

西へ走った伝令とは別の兵が戻ってくる。

「火槍隊へは、中央へ戻るよう命令を伝えました!」

「今どこだ」

「荷車を置いた場所から移動を始めています!」

俺は西側へ目を向けた。

人と荷車の陰に、火縄から上がる細い煙が見えた。

九挺は装填を終えている。

けれど、火縄銃は槍より短くなったとはいえ、鉄筒と木台を合わせれば軽い武器ではない。

それを持って走れば、歩兵と同じ速さでは移動できない。

火縄の火も守らなければならない。

転べば筒内の火薬と弾がどう動くか分からない。

急がせすぎれば、中央へ着く前に事故が起きる。

「まだ掛かります」

俺が言う。

「見れば分かる」

レオンハルトは敵主力を見たまま答えた。

「九挺が来るまで、中央が持つと思うか」

「分かりません」

「では、九挺がなくても持つ形を作る」

レオンハルトがユリウスを呼ぶ。

「ライゼン将軍へ書状を出す。三通だ」

「内容は」

「中央の内側を下げる。敵を入れた後、左右から閉じる」

ユリウスの表情が僅かに変わった。

「王都軍も同時に動かなければ、片側だけが敵へ向かうことになります」

「ああ」

「時刻を決めますか?」

「使者がいつ着くか分からん。時刻は使えない」

レオンハルトは戦場の中央を指した。

味方の後ろに、白い石が一つ立っている。

腰ほどの高さしかない。

土地の境を示すための物なのか、古い道の目印なのかは分からない。

戦が始まる前からそこにあり、両軍の間に立つ兵たちは石を避けるように隊列を作っていた。

「敵の大旗が、あの白い石の線まで進んだ時だ」

「先頭ではなく、大旗ですか?」

俺は思わず尋ねた。

「先頭だけを見て閉じれば、敵の後ろが外に残る」

レオンハルトが答える。

「こちらへ入った兵を押し返しても、後ろからまた別の兵が来る。旗があそこまで来れば、敵は指揮を執る者も予備兵も前へ出したことになる」

「そこまで入れたら、後ろへ抜かれます」

「だから、お前の主君に働いてもらう」

レオンハルトがマティアスを見る。

「荷車を集めろ。中央の後ろに第二の列を作れ」

「何台です?」

「使えるだけだ」

「使えるだけという命令が、一番金の掛かる言葉だと知っていますか」

「勝てば返す」

「負けたら」

「請求する相手がいなくなる」

「仕方ありませんね」

マティアスはそう言うと、すぐに荷車のある後方へ歩き出した。

「アレク、来い」

「俺もですか?」

「荷車を並べた経験なら、今いる者の中でお前が一番新しい」

「今日一度やっただけですよ」

「新しいと言った。多いとは言っていない」

反論している時間はなかった。

俺はマティアスを追った。

後ろでは、ユリウスが書記へレオンハルトの言葉を伝えている。

敵の大旗が白い石の線まで進んだ時、王都軍の内側を敵の側面へ向ける。

レオンハルト軍も同時に内側を閉じる。

敵を両軍の間へ入れるが、互いの兵を混ぜない。

王都軍は王都軍の側から。

レオンハルト軍はレオンハルト軍の側から。

それぞれが自分の指揮官の命令で動く。

三通の書状が作られ、三人の使者へ渡された。

使者は別々の道を選び、王都軍の後方へ走っていく。

一人は中央から。

一人は王都軍の陣の後ろを大きく回る。

もう一人は東側に近い道を通る。

三人全員が届く必要はない。

一人だけでも届けば、作戦は伝わる。

ただし、伝わったからといって、ライゼン将軍が従うとは限らなかった。

これはレオンハルトの軍だけで行える作戦ではない。

王都軍の内側が動かなければ、敵は王都軍側へ広がる。

レオンハルト軍だけが敵の側面へ向かえば、今度は自分たちの側面を敵へさらすことになる。

ライゼン将軍がどう判断するか。

返事が戻るまで、誰にも分からなかった。

◇ ◇ ◇

「食料が載っている車は動かすな!」

マティアスが荷車の間を歩きながら叫ぶ。

「空荷から使え! 次に負傷者を運んできた車だ!」

「負傷者はどうします!」

御者の一人が聞き返す。

「天幕へ移せ! 歩ける者には歩いてもらえ! 車輪が壊れている物はその場へ倒せ!」

後方に並んでいた荷車が動き始める。

空になった車。

矢を運んできた車。

負傷者を運び終えた車。

馬や牛が外され、人の手で中央へ押されていく。

「全部を横へ並べるんですか?」

俺は尋ねた。

「横一列にすれば、敵だけでなく味方も戻れん」

「では、隙間を空ける?」

「ああ。槍兵が通れる幅を残す。敵が一度に抜けられるほどは空けるな」

マティアスは地面へ細い棒で線を引いた。

「前の兵は、敵を入れながらここまで下がる。荷車の間を通って後ろへ抜ける。その後、車の隙間を槍兵で塞ぐ」

「敵が一緒に入ってきたら」

「入れないように、最後の列が戦う」

「簡単に言いますね」

「難しく言えば敵が待つのか?」

「待ちません」

「なら動け」

俺は近くにいた兵へ、荷車の向きを伝えた。

車体を完全に横へ向けるのではない。

敵側へ片方の端を向け、斜めに置く。

一台目と二台目の隙間は、人が二人並んで通れる程度。

そこへ盾兵を置く。

二台目の後ろに三台目を少しずらして置けば、まっすぐ抜ける道はなくなる。

敵は車を回り込むたびに向きを変えなければならない。

その間に槍を向けられる。

立派な砦ではない。

車輪も車体も、斧や火を使われれば壊される。

だが、敵の突撃を少し遅らせることはできる。

少しでいい。

前の兵が隊列を作り直す時間があれば、それで役に立つ。

「その車は右だ!」

俺が叫ぶ。

兵たちが車輪を持ち上げる。

土へ深くはまり、なかなか動かない。

別の兵が加わる。

三人。

四人。

車輪が泥から抜けた。

敵の声が近づいている。

中央の味方が押され、少しずつ後退しているのだ。

「急げ!」

マティアスが声を上げる。

「敵が来てから車を並べても、運送屋の店先にしか見えんぞ!」

荷運び人たちが歯を食いしばる。

最後の一台が所定の場所へ入った。

荷車の後ろへ槍兵が並ぶ。

盾を持つ兵は隙間へ。

長い槍を持つ兵は荷台の横へ。

弓兵は車輪と荷台の間から前を狙う。

俺は並べられた車を見渡した。

西側で作った狭い道とは違う。

今回は、敵を一か所へ集めるためではない。

前の味方が退くための道を残し、追ってくる敵だけを止める。

「これで持ちますか?」

俺が尋ねる。

「持つかどうかは、敵が決めることではない」

マティアスは答えた。

「ここにいる者が決める」

その直後、前方から兵が走ってきた。

盾が欠け、肩から血を流している。

「前列、後退します!」

「予定どおりか?」

マティアスが尋ねる。

「分かりません! 敵の圧力が強い!」

命令に従って下がっているのか。

押し負けて下がっているのか。

離れた場所からでは見分けがつかない。

前線にいる兵にも、もう分からないのかもしれなかった。

「荷車の間を空けろ!」

俺は叫んだ。

「味方を先に通せ!」

中央の兵が後退してくる。

走ってはいない。

盾を敵へ向け、槍で牽制しながら、一歩ずつ下がっている。

だが、ところどころ列が乱れていた。

王都軍の兵とレオンハルト軍の兵が近づきすぎ、盾がぶつかっている。

互いに道を譲ろうとしない。

「王都軍は東へ! こちらの兵は西へ!」

伝令が両軍の間を走る。

「混ざるな! 自分の旗を見ろ!」

兵たちがそれぞれの旗へ向きを変える。

同じ敵と戦っている。

それでも、別の軍だ。

下がる時まで、それぞれが自分の旗を目印にしなければならない。

敵の盾兵が追ってくる。

前列だけではない。

その後ろにいた槍兵も速度を上げている。

中央が崩れ始めたと考えたのだろう。

「敵は下がっているぞ!」

「境目を抜ける!」

敵側から声が上がる。

「王都軍と王弟軍は互いを見捨てた!」

その声に押されるように、敵兵が前へ詰めた。

最初の盾兵が白い石を越える。

続いて槍兵。

だが、大旗はまだ向こう側にある。

「まだ閉じないんですか?」

俺はレオンハルトのいる方を見る。

赤や黒の旗が動いている。

だが、内側を敵へ向ける合図は出ていない。

「旗はまだ石を越えていない」

マティアスが言う。

「前の兵が荷車まで来ます」

「見えている」

「これ以上入れたら、本当に抜かれます」

「それも見えている」

マティアスの声は落ち着いていたが、右手は腰の剣へ触れていた。

第二線まで敵が来れば、マティアスもここで戦うつもりなのだ。

俺も剣の柄を握った。

火縄銃を作り、射撃の手順を考え、火槍隊を率いてきた。

それでも、九挺が間に合わなければ、最後に頼るのは剣と槍だった。

敵の矢が飛んでくる。

一本が荷台へ刺さる。

別の矢が車輪の横にいた兵の脚へ当たった。

兵が倒れる。

すぐに後ろの兵が場所を埋める。

中央から下がってきた味方が、荷車の隙間を通り始めた。

一人。

二人。

十人。

二十人。

息を切らし、盾を傷つけ、血を流しながら後ろへ抜ける。

敵もその後を追っていた。

「槍を出せ!」

荷車の間から槍が突き出される。

追いついた敵の盾へ当たった。

敵兵が止まる。

後ろの兵がぶつかる。

まだ、持つ。

だが、いつまでもは持たない。

敵の大旗が動く。

丘の下に残っていた大きな旗が、兵の波とともに白い石へ近づいていた。

◇ ◇ ◇

最初に戻った使者は、王都軍の書状を持っていなかった。

「ライゼン将軍へ届けました!」

「返事は」

ユリウスが尋ねる。

「将軍は、戦場を確認してから答えると!」

「同意したのか、拒んだのか」

「まだ、どちらとも!」

レオンハルトは使者を責めなかった。

ライゼン将軍にとっても簡単な判断ではない。

中央の兵を下がらせれば、王都軍の中では、レオンハルトが自分たちを敵の前へ置いて逃げようとしていると疑う者が出る。

敵を入れた後に内側を閉じる作戦も、レオンハルト軍が同じ時に動かなければ王都軍だけが敵主力を受けることになる。

互いに相手を信用できなかったから、兵を混ぜずに陣を作った。

その二つの軍へ、今は同じ瞬間に動くことを求めている。

「二人目は」

「まだです」

ユリウスが答える。

レオンハルトは中央を見る。

敵の大旗は白い石の手前まで来ている。

前方の盾兵はすでに石を越え、荷車の第二線へ迫っている。

「王都軍が動かなかった場合は」

ユリウスが言う。

「こちらだけで閉じる」

「敵は王都軍側へ逃げます」

「その時は、ライゼン将軍が自分で止める」

「王都軍から見れば、我々が敵を押しつけたことになります」

「こちらから見れば、ライゼン将軍が動かなかった結果だ」

それは正しい。

だが、正しい理由があっても、王都軍との関係は壊れる。

次に同じ敵と戦う時、もう並んで陣を敷くことはできないかもしれない。

馬の足音が近づいた。

二人目の使者だ。

使者は馬から飛び降りると、書状をユリウスへ差し出した。

封にはライゼン将軍の印がある。

ユリウスが開く。

「ライゼン将軍は作戦に同意。王都軍の内側を既に下げ始めたとのことです」

誰かが小さく息を吐いた。

だが、レオンハルトはまだ敵から目を離さない。

「同意しただけでは足りん」

「はい」

「同じ時に動かなければ意味がない」

王都軍側を見る。

東側では今も敵歩兵と向かい合っている。

中央に近い兵は、盾を敵へ向けながら少しずつ斜め後ろへ下がっていた。

ライゼン将軍は動いている。

こちらと同じように、中央へ敵を入れようとしている。

けれど、両軍が敵の側面へ向かう合図はまだ出ていない。

その時、西側から火縄の煙が近づいてきた。

「火槍隊、戻りました!」

火槍兵長の声だった。

九挺を持つ兵が、息を切らしながら中央へ入る。

装填済みの筒は敵へ向けたまま。

火縄銃を持たない一人が、一発筒と予備の火縄を抱えている。

全員が戻った。

だが、その顔には疲れが見えた。

西側で騎兵を止め、再装填し、休む間もなく中央まで走ってきたのだ。

「撃てますか?」

俺が火槍兵長へ尋ねる。

「九挺とも装填済みです」

「火縄は」

「消えていません」

「では、前へ」

俺は火槍隊を連れ、荷車の第二線へ向かおうとした。

「待て」

レオンハルトが止める。

「どこから撃つ」

「中央の後ろからです」

「敵の前には何がある」

盾兵だ。

厚い盾を並べ、荷車の間から突き出される槍を防いでいる。

その後ろには味方の兵もいる。

正面から撃てば、敵より先に味方へ当たる可能性があった。

「撃てません」

「九挺を戻した意味がなかったか?」

「いえ」

俺は中央を見る。

敵の盾は前を向いている。

荷車と槍兵を警戒し、盾を正面へ重ねていた。

両側には王都軍とレオンハルト軍がいる。

だが敵は、二つの軍が下がっていると思っている。

側面を守る盾は少ない。

「こちら側へ回します」

俺は言った。

「敵の側面から撃ちます」

「何を狙う」

「盾の後ろにいる槍兵と、命令を伝えている者です」

「九発で敵主力を止められるか」

「止められません」

「なら、何のために撃つ」

「敵の盾をこちらへ向かせます」

正面の荷車。

王都軍側。

レオンハルト軍側。

三つの方向すべてを、同じ盾で守ることはできない。

火縄銃が敵を倒せなくても、敵に盾の向きを変えさせられる。

音と煙で側面へ注意を向けさせれば、反対側が空く。

「射撃の後、槍兵を入れてください」

俺は続けた。

「銃声を聞いて敵が止まった時に」

「分かった」

レオンハルトは近くの指揮官へ命じる。

「内側の槍兵を二列にしろ。火槍が撃った後に進め。火槍だけを敵の前へ出すな」

「はい!」

「アレク」

「はい」

「撃つ場所は任せる。撃つ時は俺の合図を待て」

「分かりました」

火槍隊をレオンハルト軍の内側へ移動させる。

敵の側面が見える位置。

味方の槍兵の後ろ。

少し盛り上がった地面があり、前列の兵の肩越しに敵を狙える。

「第一班、前へ」

火槍兵長が命じる。

五人が並ぶ。

「第二班は後ろ。第一班が下がる道を空けろ」

四人が距離を取る。

火縄銃を持たない一人は、さらに後ろで待つ。

俺は敵を見る。

前の盾兵は荷車へ向いている。

その後ろの槍兵は、押し合う味方を前へ進ませようとしていた。

さらに後ろでは、旗を持つ兵と、腕を振って命令を伝える兵がいる。

敵の大旗が白い石へ近づく。

あと十歩。

五歩。

風で旗が広がる。

黒い布地に描かれた印が見えた。

白い石の手前で一度止まる。

敵の指揮官も、前方の様子を確かめているのだろう。

荷車の第二線では、槍と盾がぶつかっている。

車体が押され、車輪が少し動いた。

御者が外したはずの車が、兵の力だけで後ろへずれていく。

「持たないぞ!」

前方から声が上がる。

「後ろから押さえろ!」

マティアスが兵を向かわせる。

荷台の後ろへ肩を当てる。

三人。

四人。

五人。

車輪が止まる。

俺は火縄銃の木台を握る兵の手を見た。

震えている。

走ってきた疲れだけではない。

敵は近い。

前にいる味方が崩れれば、装填し直す前に槍が届く距離だ。

「まだです」

俺は言った。

赤い布は上がっている。

火槍兵長が右手で布を掲げ、敵を見続ける。

敵の大旗が再び動いた。

旗を持つ兵が、白い石の横を通る。

大旗が石の線を越えた。

王都軍側で角笛が鳴った。

短く二度。

中央に近い兵たちの盾が、敵の側面へ向き始める。

「王都軍、動きます!」

見張りの声が上がる。

ライゼン将軍は待っていた。

使者が届いたからではない。

レオンハルトを信じ切ったからでもない。

敵の大旗が、決めた目印を越える瞬間を待っていた。

レオンハルトが剣を抜く。

「角笛!」

こちらでも短い音が二度鳴った。

「内側を閉じろ!」

レオンハルト軍の槍兵が向きを変える。

東から王都軍。

西からレオンハルト軍。

別々の旗を見ていた兵たちが、同じ敵の側面へ踏み出した。

◇ ◇ ◇

「第一班、構え!」

火槍兵長が命じる。

五挺の火縄銃が肩へ上がる。

敵は王都軍側で動いた盾を見ていた。

自分たちの左側から槍兵が近づいている。

前方には荷車と槍。

右側には、こちらの槍兵。

命令が飛び交う。

「左へ盾を向けろ!」

「前を空けるな!」

「右からも来るぞ!」

一つの部隊へ、違う方向を守れという声が同時に届いていた。

「狙え!」

赤い布がまだ上がっている。

第一班の兵が呼吸を整える。

火縄が火皿の上で揺れる。

敵の槍兵がこちらに気づいた。

「火槍だ!」

一人が叫ぶ。

近くの盾兵が、盾をこちらへ向けようとする。

その動きで、正面の盾列に隙間ができた。

「第一班、撃て!」

赤い布が右へ下がる。

五つの火縄が落ちた。

一瞬遅れて、銃声が重なった。

ドドドンッ!

白い煙が視界を覆う。

敵の側面で兵が倒れた。

何人に弾が当たったのかは見えない。

だが、盾がぶつかり、槍の穂先が大きく揺れた。

「第一班、後退! 第二班、前へ!」

五人が火縄銃を抱えて下がる。

後ろにいた四人が入れ替わる。

その横を、レオンハルト軍の槍兵が進んでいく。

「今だ! 押せ!」

敵が銃声へ顔を向けた瞬間、槍の列が側面へ突き入った。

王都軍側でも同時に声が上がる。

盾が当たる。

敵の左側が押される。

敵兵がこちらへ向けば、王都軍の槍が届く。

王都軍へ向けば、レオンハルト軍の槍が届く。

前へ進もうとすれば、荷車の間にいる兵が止める。

「第二班、構え!」

四挺が肩へ上がった。

敵の盾がこちらへ寄り始める。

第一班の銃声を聞き、火縄銃はもう撃てないと思っている兵もいるはずだ。

だが、敵の前列は混乱していた。

後ろから押され、左右から槍を向けられ、誰の命令に従えばよいのか分からなくなっている。

「第二班、撃て!」

赤い布が左へ下がった。

四つの火縄が火皿へ落ちる。

三つの銃声が鳴った。

ドドンッ!

一挺だけ、筒から何も出なかった。

火皿では火薬が燃えた。

小さな煙が上がる。

けれど、筒内の火薬へ火が届いていない。

「不発です!」

兵が叫ぶ。

「銃口を前へ向けたまま動かすな!」

火槍兵長がすぐに命じた。

「でも、火が」

「触るな! 遅れて出るかもしれん!」

兵は火縄銃を敵側へ向けたまま、動きを止めた。

顔には焦りが浮かんでいる。

戦場のすぐ前で、一人だけ撃てなかった。

早く直さなければならないと思ったのだろう。

だが、火薬へ火が残っているかもしれない状態で筒をのぞけば、遅れて発射した時に死ぬ。

「そのまま後ろへ!」

俺も声を上げる。

「銃口を人へ向けないでください!」

兵がゆっくり下がる。

その横で、第二班の別の兵が撃ち終えた銃を持ったまま後退した。

第一班の兵はすでに装填の準備へ入ろうとしている。

二人の肩がぶつかった。

火縄が揺れる。

「下がる者は右! 装填する者は左!」

火槍兵長が怒鳴る。

兵たちが慌てて道を空ける。

試験場では決めていた。

何度も繰り返した。

それでも敵の槍と声が近くにあるだけで、足は決めた場所から外れる。

十人でもこうなる。

百人になれば、もっと多くの兵が同時に動く。

火縄。

火薬。

弾。

撃ち終えた銃。

装填中の銃。

不発の銃。

それらが狭い場所に集まれば、一人の間違いが周囲を巻き込む。

今は考えている場合ではない。

目の前の敵が崩れ始めていた。

二度目の銃声を聞いた敵兵が、こちらから距離を取ろうとする。

だが後ろから来る兵が道を塞いでいる。

「火槍は一度ではないぞ!」

誰かが叫んだ。

「まだ撃ってくる!」

実際には、すぐに撃てる銃はない。

第一班は装填を始めたばかり。

第二班も三挺が撃ち終わり、一挺は不発のまま後ろへ下げられている。

それでも敵には分からない。

次に五発来るのか。

四発来るのか。

もっと多くの火槍が隠れているのか。

白い煙が風で広がり、火槍隊の人数を見えにくくしている。

「槍兵、前へ!」

レオンハルトの命令が届く。

レオンハルト軍の内側が一歩進む。

王都軍側からも角笛が鳴る。

向こうも一歩進む。

敵兵の列が狭められる。

前へ出ようとしても荷車がある。

左右へ広がろうとしても槍がある。

後ろへ下がろうとしても、自分たちの味方が詰まっている。

敵の指揮官たちは旗を振り、後退する道を作ろうとしていた。

だが、大旗が前へ出すぎている。

後ろの兵から見れば、旗はまだ前進を示しているように見える。

前の兵は下がろうとする。

後ろの兵は進もうとする。

中央で二つがぶつかった。

「押すな!」

「下がれ!」

「前へ出ろ!」

違う命令が重なる。

敵の大旗が止まった。

旗を持つ兵が向きを変えようとする。

長い竿が周囲の槍へ引っ掛かる。

旗が傾いた。

倒れてはいない。

だが、遠くから見れば、旗が下がったように見えた。

敵の前列で動揺が広がる。

「旗が退くぞ!」

「後ろが下がっている!」

「取り残される!」

一人が背を向けた。

隣の兵も下がる。

盾列にできた隙間へ、王都軍の槍兵が入った。

レオンハルト軍も押す。

敵の中央が、折れ曲がるように後ろへ下がった。

「追え!」

味方のどこかから声が上がる。

兵たちが勢いづく。

だが、レオンハルトはすぐに剣を上げた。

「列を崩すな!」

角笛が鳴る。

「敵の旗だけを見るな! 左右を見ろ!」

敵の中央は崩れ始めている。

それでも、全員が逃げているわけではない。

後方にはまだ隊列を保った兵がいる。

左右へ出ていた敵歩兵と騎兵も残っている。

ここで味方がばらばらに追えば、立て直した敵に反撃される。

「第一班、装填を続けろ!」

俺は火槍隊へ向き直った。

「第二班は、不発の一挺を離してください!」

「どこへ置きます?」

「人のいない方へ銃口を向けたままにしてください。今は筒へ触らないでください」

火槍兵長が兵を一人付け、不発の銃を後ろへ運ばせる。

残った兵は一発筒を取り出し、再装填へ入る。

だが、手が震えている。

一人は筒の蓋を落とした。

別の兵は、火縄をどこへ置いたか分からなくなり、足元を探している。

訓練の時より明らかに遅い。

「急ぎすぎないでください!」

俺は叫んだ。

「火薬をこぼしたら、次も撃てません!」

敵は下がっている。

今すぐ撃たなければ味方が負ける状況ではない。

速さを求めて事故を起こす方が危険だった。

火槍兵長も兵たちの間を歩き、手順を一つずつ確認していく。

「火縄を離せ」

「一発筒を取れ」

「蓋を開けろ」

「筒へ入れろ」

短い命令が続く。

兵たちの動きが少しずつ揃う。

戦場で使って初めて分かることは、武器の故障だけではなかった。

敵を前にした人間が、どこで間違えるのか。

何を忘れるのか。

どの命令なら聞こえるのか。

それも記録しなければならない。

◇ ◇ ◇

敵の大旗は、白い石から離れ始めていた。

シュヴァルツ伯軍の前方は後退している。

だが、後方の兵は完全には崩れていない。

盾兵が横一列に並び、下がってくる味方を通している。

その後ろには弓兵も残っていた。

追ってくる王都軍とレオンハルト軍へ矢を放ち、距離を保とうとしている。

「敵は退いています」

ユリウスが報告する。

「中央へ入った部隊は大きく崩れました。ただし、後方の予備兵が退路を作っています」

「シュヴァルツは」

レオンハルトが尋ねる。

「大旗は後退中。本人が旗の近くにいるかは確認できません」

「東側は」

「王都軍が敵歩兵を押し戻しています」

「西側」

「敵騎兵は、中央の後退を見てさらに距離を取りました」

「橋は」

その問いに答える者はいなかった。

最後の報告では、ヴァルナー軍の斥候が増えている。

その後、橋から使者はまだ戻っていない。

レオンハルトは退く敵を見る。

今なら追える。

中央で崩れた兵が後方の部隊へ合流する前に押せば、シュヴァルツ伯軍へさらに損害を与えられる。

大旗まで届くかもしれない。

シュヴァルツ伯本人を捕らえられれば、この戦は一度で終わる。

「殿下、追撃を」

近くの指揮官が進言する。

「敵は立て直す前です」

「王都軍はどう動く」

「前進しています」

確かに王都軍は敵を押している。

しかし、レオンハルト軍と同じ方向へ進んでいるわけではない。

東側へ出た敵歩兵を追っている部隊もいる。

中央へ進む部隊もいる。

王都軍の中でも、すべてが揃ってはいなかった。

「ライゼン将軍へ、追撃の範囲を確認する書状を送れ」

レオンハルトが命じる。

「また三通ですか?」

俺が尋ねる。

「今は一通だ」

「なぜです?」

「返事を待ってから追えば、敵は丘の向こうだ」

レオンハルトは戦場を指した。

「使者は、王都軍がどこまで進むかを見るために送る。我々は我々で動く」

「では、追うんですか」

「列を保てるところまでだ」

レオンハルトの命令が伝わる。

レオンハルト軍は中央を前へ押す。

ただし走らない。

盾と槍の列を崩さず、一歩ずつ敵を追う。

火槍隊は装填を終えた八挺を持ち、その後ろに続く。

不発の一挺は後方へ残した。

「八挺です」

俺が言う。

「さっきまでは九挺だったな」

レオンハルトが答える。

「工房で撃てても、戦場ではこうなります」

「だから十挺すべてを数に入れるなと言った」

「言ったのはマティアス様です」

「そうだったか?」

「自分の言葉にしてはいけません」

「勝てば俺の言葉だ」

「横取りですよ」

「不満なら、九挺を今すぐ百挺にしてみろ」

「無茶を言わないでください」

会話をしている間にも、前進は続いている。

敵の後方部隊が矢を放つ。

味方の盾へ当たる。

一人が倒れる。

列が詰まり、また進む。

勝っているように見えても、矢は飛んでくる。

剣も槍も、敵の手から消えたわけではない。

敵の大旗が丘の横へ移動していく。

その周囲にはまだ多くの兵がいる。

追いつける距離ではない。

だが、中央へ入り込んだ敵兵の一部は味方から離れ、逃げ遅れている。

武器を捨てる者。

盾を置く者。

負傷した仲間を支えながら下がる者。

それを追う味方兵。

「深追いするな!」

各所で命令が飛ぶ。

戦の流れがこちらへ傾いている。

誰もがそう感じていた。

だからこそ、前へ出たくなる。

もう一押しで敵全体が崩れる。

シュヴァルツ伯を捕らえられる。

今日ですべてを終わらせられる。

そんな期待が兵の足を速めていた。

俺も同じだった。

ここでシュヴァルツ伯を逃がせば、また地方諸侯を集めるかもしれない。

軍を立て直し、別の場所で戦を始めるかもしれない。

今、追えるなら追うべきではないか。

前世で読んだ戦の話でも、敵が退いた瞬間の追撃で勝敗が決まることは多かった。

だが、追った側が罠へ入り、勝っていたはずの戦を落とすこともあった。

今の俺には、シュヴァルツ伯がただ退いているのか、次の場所で待っているのか分からない。

西側の騎兵も残っている。

橋の様子も分からない。

戦場全体を見ているつもりでも、見えていない場所の方が多かった。

「橋から使者です!」

後方で声が上がった。

全員が振り返る。

馬が一頭、グリュン川大橋へ続く道から走ってくる。

乗っている兵は、馬の首へしがみつくように体を伏せていた。

馬の腹には泥だけでなく、黒い汚れが付いている。

煙を浴びた跡だった。

使者はレオンハルトの近くまで来ると、馬から転がるように降りた。

「申し上げます!」

息が続かない。

膝をつき、何度か咳き込む。

「水を」

マティアスが命じる。

近くの兵が革袋を渡した。

使者は一口だけ飲み、顔を上げる。

「ヴァルナー軍が、橋への攻撃を開始しました」

周囲の空気が変わった。

「数は」

レオンハルトが尋ねる。

「最初に五百ほど。後方に、さらに兵が集まっています」

「橋は」

「守備隊が門と橋の南側で防いでいます。敵を追って外へは出ていません」

命令は守られている。

「倉は」

「無事です。ただし、敵が川沿いから火矢を放っています。倉の外壁近くで一度火が出ました」

「消したのか」

「今は消えています。ですが、次も防げるかは」

使者が言葉を切る。

橋を失えば、対岸との道が断たれる。

倉を焼かれれば、兵糧も矢も火薬も失う。

シュヴァルツ伯軍を追っている間に、後ろにある戦の土台を壊される。

「守備隊は、どれほど持つ」

「分かりません」

正直な答えだった。

「敵が橋だけを狙うなら、まだ持ちます。ですが、川沿いから倉へ回られれば、兵を分けなければなりません」

「次の使者は」

「二人、別の道を通っています」

三人で出たうち、最初の一人が届いた。

残る二人も来るはずだ。

だが、待っている間にも橋は攻められる。

「殿下」

ユリウスが退く敵を指した。

「シュヴァルツ伯軍の大旗が丘を越えます」

今なら、まだ追える。

追撃の先頭は、すでに白い石より前へ出ている。

敵の後方部隊との距離も縮まりつつある。

さらに兵を出せば、敵の退却を崩せるかもしれない。

一方で、兵を橋へ戻すなら今だ。

敵を追って丘の向こうまで進めば、大橋へ戻るまでさらに時間が掛かる。

「王都軍から使者!」

今度は東側から声が上がった。

ライゼン将軍が送った兵だった。

「ライゼン将軍より! 王都軍は中央の敵を丘の手前まで追う! それ以上の追撃は、レオンハルト殿下の動きを確認してから決めるとのことです!」

ライゼン将軍も迷っている。

敵を逃がしたくはない。

だが、レオンハルト軍だけが止まれば、王都軍が単独で敵を追うことになる。

レオンハルト軍が追えば、王都軍も進まなければならない。

二つの軍は、同じ時に動いたことで敵を押し返した。

今度は、どこで止まるかを揃えなければならない。

「敵の中央は崩れています」

ユリウスが言う。

「今なら追えます」

「そして、橋も今なら守れます」

マティアスが続けた。

「どちらも今だけか」

レオンハルトが呟く。

誰も答えなかった。

敵の大旗は丘へ近づいている。

橋から来た使者の背後では、遠くに黒い煙が見え始めていた。

シュヴァルツ伯を追う道。

グリュン川大橋へ戻る道。

二つの道へ、同じ兵を同時に送ることはできない。

勝つことと、勝ち切ることは同じではない。

その違いが、戦場の両端から同時に俺たちへ迫っていた。

第二十五話を読んでいただき、ありがとうございました。

王都軍とレオンハルト軍は同じ目印を使って敵を挟み、火槍隊も側面射撃によって勝機を作りました。

一方で、不発や兵の動きの乱れから、火縄銃を増やすだけでは部隊にならないことも明らかになっています。

次回、シュヴァルツ伯への追撃とグリュン川大橋の防衛、その両方を前にした決断を描き、第四篇の戦いに決着をつけます。

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