第二十二話 同じ敵、別の軍
初陣を終えた火槍隊は、戦場で露呈した問題を一つずつ見直していきます。
一方、王都軍とレオンハルト軍は、互いへの疑いを残したままシュヴァルツ伯との戦いへ動き始めます。
戦の翌朝、陣の中には昨日より多くの布が干されていた。
洗った衣服ではない。
負傷者の血を拭い、赤黒く染まった布だった。
助からなかった兵は夜のうちに数えられ、所属する隊ごとに名が記録された。身元の分からない者は、武器や衣服の特徴が帳面へ残されている。
丘で敵指揮官を討った最初の戦闘では、こちらに一人の負傷者も出なかった。
だが、西側の街道では、火槍隊が到着する前から槍兵が敵を受け止めていた。援軍が到着するまでの間にも死者と負傷者が出ている。
十挺で四百人を退かせた。
その報告だけを聞けば、大きな勝利に見える。
しかし、陣を歩けば、同じ日に別の場所で流れた血が見えた。
火縄銃が役に立ったことと、戦場から死者が消えることは同じではない。
俺は火槍隊のいる区画へ向かった。
十人の兵はすでに起き、前日の装備を並べていた。
火縄。
携帯用弾薬箱。
火皿へ置く細かな火薬を収めた腰箱。
掃除棒。
泥に濡れた布。
火槍兵長が、使用した一発筒の数と残りを確認している。
火縄銃は九挺しか並んでいなかった。
不発になった一挺は、少し離れた場所で布に包まれている。火皿の火薬だけが燃え、筒内の火薬には火が届かなかった。
遅れて発火する危険がなくなったことを確かめた後も、戦場では分解しなかった。
「工場へ送る準備はできていますか?」
俺が尋ねると、火槍兵長が頷いた。
「帳面と一緒に箱へ入れました。火薬と弾は抜いてあります」
「運ぶ者には、途中で開けないよう伝えてください」
「見張りを二人付けます」
不発になった一挺は、ロルフの工場へ戻す。
俺は火縄銃へ添える帳面を開いた。
昨日の状況はすでに書いてある。
火皿の火薬は燃えた。
筒口から煙は出なかった。
発砲音もなかった。
点火孔へ火が届かなかった可能性。
煤や汚れが詰まっていた可能性。
移動中の振動で火皿か金具の位置がずれた可能性。
原因を決めつけず、見たことだけを先に記した。
「アレク殿」
火槍兵長が呼んだ。
命令より先に撃った兵が、その隣へ立っている。
昨日より顔色は戻っていた。
それでも、こちらをまっすぐ見ることができていない。
「昨日、なぜ先に撃ったのですか?」
俺は尋ねた。
「撃てという命令が聞こえたからです」
「俺は、まだ撃つなと命じました」
「はい。ですが……待てという声が、撃てに聞こえました」
西側の街道では、すぐ前で槍兵が戦っていた。
木の柄がぶつかる音。
負傷者の声。
敵の足音。
味方の号令。
それらの音が重なる中では、「待て」と「撃て」を聞き分けることができなかったのだ。
命令を無視したのではない。
命令を聞き間違えた。
だが、原因がどちらであっても、一人だけ先に撃った事実は変わらない。
「ほかの兵も、撃てと聞こえましたか?」
俺は尋ねた。
第一班の残る四人が顔を見合わせる。
一人が答えた。
「俺には、待てと聞こえました」
「俺は、どちらか分かりませんでした」
別の兵が続く。
「周りが撃たなかったので、待てという意味だと思いました」
同じ場所にいた者たちでも、聞こえ方が違っている。
一人だけを注意しても、次は別の兵が聞き間違えるかもしれない。
「火槍兵長」
「はい」
「声だけでは足りません」
火槍兵長も昨日の戦場を思い出したらしい。
「目で見える合図を加えますか?」
「それがいいと思います。声が聞こえなくても、撃つ時を間違えないものが必要です」
近くにあった短い棒へ、赤い布を結ぶ。
大きな旗ではない。
敵からも見えるかもしれないが、何の合図かまでは分からない。
火槍兵長が布を高く掲げている間は待機。
振り下ろした時に発砲。
声が聞こえなくても、赤い布が上がっていれば撃たない。
「一班ずつ別の合図が必要です」
火槍兵長が言った。
「第一班へ向ける時は右手、第二班へ向ける時は左手で持つのはどうですか?」
「試してみましょう。ただし、今日から戦場で使います。複雑にしすぎないでください」
火槍兵長は兵たちを二班に並べた。
声による号令と、赤い布を使った合図を何度か繰り返す。
右手に掲げた布が下がれば第一班。
左手なら第二班。
両方を動かす必要はない。
昨日早撃ちした兵も列へ戻した。
今の時点で隊から外すことはしない。
ただし、次の戦では第一班の端へ置き、火槍兵長が動きを確認しやすくする。
「命令を聞き取れない時は、赤い布を見てください」
俺はその兵へ言った。
「声と合図が違うように感じた場合は、撃たない。赤い布が振り下ろされてから撃ってください」
「はい」
「二度目はありません」
兵は深く頭を下げた。
処罰しなかったことが正しいかは分からない。
次の戦でまた同じことをすれば、隊から外さなければならない。
俺はその判断も帳面へ残した。
不発になった火縄銃と一緒に、昨日の失敗をなかったことにはできない。
「アレク殿」
区画の入口から声がした。
マティアスの使いだった。
「マティアス様がお呼びです。敵兵と商人から、妙な話を聞いたとのことです」
◇ ◇ ◇
マティアスの幕舎には、二人の男が待っていた。
一人は捕虜の見張りを預かる兵。
もう一人は、陣へ食料を運んできた商人だった。
商人は火縄銃について何も知らない。
火槍隊の名も、軍議で語られた仕組みも教えられていない。
それでも、敵陣から流れてきた話は知っていた。
「街道沿いの宿で聞きました」
商人が言う。
「何を聞いたんですか?」
「レオンハルト殿下が火槍で敵の指揮官を討ったと」
昨日の戦いから、一日も経っていない。
それなのに、丘から離れた宿にまで話が届いている。
「誰が話していた」
マティアスが尋ねる。
「負傷兵を運んだ荷車の者です。自分で戦を見たとは言っていませんでした。負傷した敵兵から聞いたと」
捕虜の見張りを預かる兵も続ける。
「こちらの捕虜も同じ話をしています。最初は、丘に火槍が十本あったという話でした。それが昼には二十本になり、夜には百本隠されていたという者まで出ました」
「百本」
俺は思わず繰り返した。
実際にある火縄銃は十挺だった。
そのうち一挺は不発になり、これからロルフの工場へ戻される。
今すぐ戦場で使えるのは九挺しかない。
「ほかには」
マティアスが尋ねる。
「殿下は以前から火槍の価値を知っていたそうです。ほかの諸侯が役に立たないと捨てた物を集め、指揮官だけを討つ兵へ持たせたと」
誰がそこまで話を作ったのだろう。
レオンハルトは、火槍を一挺も持っていなかった。
俺たちが調べた物も、アルベルトから借りて返した火槍だ。
実戦で使ったのは、従来の火槍ではない。
けれど、敵兵は火縄銃という名も、その違いも知らない。
火縄と煙を見れば、自分たちが知っている火槍へ結びつけるしかなかった。
「噂を否定しますか?」
俺が尋ねると、マティアスは首を横へ振った。
「誰に対してだ」
「商人や捕虜へ」
「真実を話すのか? あれは火槍ではなく、もっと短く、狙いやすく、二班で続けて撃てる新しい武器だと」
「それはできません」
「なら放っておけ」
マティアスは商人へ向き直った。
「お前は、ここで聞いた話を外へ持ち出すな」
「もちろんです」
商人はすぐに答えた。
その返事をどこまで信じられるかは分からない。
金になる話だと思えば、別の商人へ伝えるかもしれない。
だが、商人一人を陣へ閉じ込めても、噂はすでに別の道を走っている。
「敵は、こちらに百本の火槍があると思うでしょうか」
俺が尋ねた。
「信じる者もいれば、笑う者もいる」
マティアスは言った。
「だが、次に殿下の軍と戦う者は、丘から煙が上がれば一瞬迷う。十本か、百本か。従来の火槍か、昨日指揮官を討った物か。その迷いは使える」
「こちらから、さらに話を広げますか?」
「今はしない」
マティアスの答えは早かった。
「噂は事実より速い。今は止めるな。ただし、こちらから余計な話も足すな」
「なぜです?」
「広げたい話を決めていないからだ」
ただ火槍が強いと広めれば、火槍を集める者が出るかもしれない。
レオンハルト軍が百本持っていると広めれば、敵が警戒して近づかなくなる可能性もある。
逆に、火槍隊を避けて別の場所へ攻撃を集中させるかもしれない。
噂は広がれば終わりではない。
聞いた者がどう動くかまで考えなければならない。
「今は、敵の受け取り方を見ろ」
マティアスが言った。
「噂を利用するのは、その後だ」
俺は頷いた。
アルベルトが持つ火槍のことが頭をよぎった。
だが、今はまだ周辺の兵と商人が話しているだけだ。
他国が火槍を欲しがっているわけではない。
先走って手紙を送る段階ではなかった。
捕虜を預かる兵と商人が退出すると、入れ替わるように外が騒がしくなった。
馬が一頭、幕舎の前で止まる。
使者が中へ通された。
王都軍の印が付いた筒を持っている。
「ライゼン将軍より、レオンハルト殿下へ」
使者の外套には泥が付いていた。
だが負傷はしていない。
書状はすぐにレオンハルトのもとへ運ばれた。
俺とマティアスも軍議へ呼ばれた。
◇ ◇ ◇
書状には、シュヴァルツ伯の主力が王都軍側へ動いていると記されていた。
ライゼン将軍は王都軍を街道の東側へ進め、シュヴァルツ伯軍を迎え撃つ。
レオンハルト軍には西側へ進み、王都軍の左側面と、両軍の間を通る道を守るよう求めている。
二つの軍を混ぜないという条件は変わっていない。
レオンハルト軍はレオンハルトの命令で動き、王都軍はライゼン将軍の命令で動く。
互いの陣へ兵を入れず、敵の側面をそれぞれ押さえる。
「集合は明朝」
ユリウスが書状を読み上げた。
「ライゼン将軍は、夜明けとともに陣を出るとのことです」
「敵の数は」
レオンハルトが尋ねる。
「確認できた主力だけで四千を超えています。後方から合流する諸侯軍を含めれば、五千を超える可能性があります」
「ヴァルナー軍は」
「主力とは別に動いています。グリュン川大橋へ向かう道の南で、旗が確認されています」
敵は二つの場所を同時に脅かしている。
シュヴァルツ伯主力へ向かえば、大橋の守りが薄くなる。
大橋を守るため兵を残しすぎれば、王都軍が単独で敵主力を受けることになる。
軍議に出ていた者たちが地図を囲んだ。
昨日の火槍隊の戦果を喜んでいた空気は、すでに消えている。
十挺が四百人を一度退けても、七千を超える敵軍全体がいなくなったわけではない。
「ライゼン将軍の求めに応じるべきです」
ユリウスが言った。
「約束した共同作戦です。ここで動かなければ、王都軍から協力する意思がないと見なされます」
「だからといって、橋を空にするわけにはいかん」
歩兵を預かる者が反論する。
「ヴァルナー軍は一度、橋を攻めている。守りが薄くなるのを待っているだけではないのか」
「全軍を動かすとは書いていない」
「半分残せば、殿下が率いる兵は千五百ほどになる。五千を超える敵の側面を、それで守れるのか」
「王都軍が六千いる」
「王都軍が、こちらを守るために動く保証はない」
その言葉で、幕舎の中が静かになった。
王都軍とレオンハルト軍は、同じ敵と戦う。
それでも互いを信頼しているわけではない。
王都軍が危険になれば、ライゼン将軍は王都軍を守る。
レオンハルト軍が崩れた時、王都軍が自分たちの陣形を崩してまで助けに来るかは分からない。
逆も同じだ。
「ライゼン将軍は、こちらを先に戦わせるつもりではないか」
騎兵を預かる者が言った。
「我々がシュヴァルツ伯軍を引きつけ、疲れたところで王都軍が動けば、敵と殿下の兵を同時に弱らせられる」
「その可能性がないとは言えません」
ユリウスは否定しなかった。
「なら、王都軍が戦い始めるまで待つべきだ」
「待っている間に王都軍が敗れればどうする」
マティアスが言った。
「王都軍が負けた後、次に狙われるのは我々だ。しかも王兄は、殿下が約束を破ったと諸侯へ触れ回れる」
「だが、進めば橋を狙われる」
どちらを選んでも危険が残る。
それがシュヴァルツ伯の狙いなのだろう。
一方を守れば、もう一方が薄くなる。
王都軍を助けなければ、両者の間に疑いを残せる。
助けに向かえば、橋と輸送路へヴァルナー軍を出せる。
軍議が続いている途中で、外から再び馬の音が聞こえた。
今度の馬は、先ほどより激しく息を切らしている。
幕舎へ入ってきた使者は、腕へ布を巻いていた。外套の一部が裂け、乾いた血が付いている。
「王都軍より……レオンハルト殿下へ」
使者は筒を差し出した。
一通目と同じ、ライゼン将軍の印がある。
ユリウスが封を確認し、書状を開く。
読み始めた顔が曇った。
「どうした」
レオンハルトが尋ねる。
「こちらの方が古い書状です」
内容は、王都軍が明日の昼前に陣を進めるというものだった。
レオンハルト軍には、西側の道を先に押さえるよう求めている。
先ほど届いた書状では、王都軍は夜明けに動くことになっていた。
集合する時刻も、敵がいるとされた場所も違う。
「どちらが正しい」
レオンハルトが使者へ尋ねた。
「私が出た後、敵が予想より早く動いたため、ライゼン将軍が新しい書状を出したものと思われます」
「なぜ今になって着いた」
「街道で敵の斥候に追われました。馬を射られ、南へ迂回しました」
負傷した腕は、その時のものだという。
二通とも本物だった。
古い書状を持った使者が敵に追われ、到着が遅れた。
その間に戦況が変わり、新しい書状が別の使者によって先に届いた。
理由が分かれば単純な話だった。
だが、書状に記された時刻だけを見れば、王都軍が異なる命令を同時に出したように見える。
「敵に捕まって、書状を書き換えられた可能性は」
誰かが言った。
「封は破られていません」
ユリウスが答える。
「同じ印を作ったのかもしれん」
「この使者は以前にもライゼン将軍の書状を運んでいます。敵が用意した者ではありません」
疑おうと思えば、いくらでも疑える。
使者が本物でも、途中で脅されたかもしれない。
印が本物でも、王都軍内部にシュヴァルツ伯へ通じる者がいるかもしれない。
一度疑い始めれば、確実な証明などできなかった。
「二通の書状が逆の順番で届いただけです」
俺が言うと、数人の視線が向いた。
「それが問題だ」
歩兵を預かる者が言った。
「古い命令に従っていたら、我々だけが先に西側へ出ていた」
「はい」
「はい、ではない。その先に敵が待っていた可能性もある」
「だから、使者一人と書状一通だけで、二つの軍を同時に動かそうとするのが危険なんです」
俺は二通の書状を見た。
書かれている内容が悪いわけではない。
使者が怠けたわけでもない。
それでも、一本の街道が塞がれただけで、命令の届く順番が変わった。
昨日、敵指揮官を失った四百人は、次の命令を受けられずに退いた。
今の俺たちも、規模が違うだけで同じ危険を抱えている。
「重要な書状は、一通ではなく三通作るべきです」
「紙を三枚使えという話か?」
マティアスが尋ねた。
「使者も三人です。それぞれ別の道から出します」
「三人とも捕まれば」
「一人よりは届く可能性が高いです」
「馬も三頭要る」
「届かなかった一通の命令で、数千人が動けなくなるより安いです」
マティアスはすぐに反論しなかった。
俺は続けた。
「書状には、書いた時と出発した時も残します。後から届いた場合、どちらが新しい命令か判断できます」
「時刻を正確に揃えられるのか」
ユリウスが尋ねる。
「一刻の細かな違いまで揃える必要はありません。日の出前、日の出後、昼前、昼後でも、何もないより分かります」
今回の二通にも、書かれた日と大まかな時刻は残されていた。
だから新旧を判断できた。
それをすべての重要な書状で徹底する。
「命令が一通も届かなかった場合は」
レオンハルトが尋ねた。
「その場合にどうするかも、先に決めます」
「敵の動きは先に決められん」
「敵の動きではなく、連絡が途絶えた時の行動です。たとえば、王都軍から新しい命令が届かなくても、夜明けには予定した場所まで進む。敵がいなければ、それ以上は進まず待つ。角笛が決めた回数鳴れば救援を求めていると判断する」
王都軍とレオンハルト軍の指揮を一つにすることはできない。
それでも、連絡が途絶えた時の最低限の行動と、旗や角笛の意味は合わせられる。
「両軍の間に中継を置くのはどうでしょう」
俺は地図の街道を指した。
「一定の間隔で、使者と替え馬を置きます。書状を一人が最初から最後まで運ぶのではなく、途中で次の者へ渡します」
「途中の一人が敵へ通じていれば、書状を止められる」
「今も使者一人が裏切れば同じです。誰から誰へ渡したかを残せば、止まった場所を調べられます」
「人手が要るな」
マティアスが言った。
「はい」
「馬も食料も要る」
「はい」
「簡単に言う」
「簡単ではありません。でも、必要です」
俺は二通の書状を見た。
「指揮官一人を失っただけで、四百人が退きました。命令を運ぶ道を失えば、数千人いても同じことが起こります」
レオンハルトは地図へ目を落とした。
王都軍とこちらの間には、いくつもの道がある。
広い街道。
村を通る道。
森の脇を抜ける細い道。
すべてを守ることはできない。
それでも、三人の使者を同じ道へ出すより、別の道へ分けた方がよい。
「採用する」
レオンハルトが言った。
「重要な命令は三通。別の道から運ばせろ。中継地点も置く」
「王都軍にも同じことを求めます」
ユリウスが言う。
「求めるのではない。こちらから三通送れ。その中に、今後は同じ方法で返すよう書け」
レオンハルトは直接ライゼン将軍と会おうとはしなかった。
シュヴァルツ伯を倒した後、中立の場所で同じ数の護衛を連れて会う。
以前に決めた条件を変えず、戦場では使者と書状、旗と角笛だけで共同作戦を行う。
同じ敵がいるからといって、互いの陣へ無防備に入れるほどの信頼はなかった。
◇ ◇ ◇
軍議は、王都軍を助けるかどうかへ戻った。
レオンハルトは二通の書状を並べ、全員の意見を聞いた。
橋を優先すべきだという者。
王都軍との約束を守るべきだという者。
シュヴァルツ伯主力が王都軍へ向かうなら、背後を突くべきだという者。
ヴァルナー軍を先に倒し、後方の安全を確保すべきだという者。
どの意見にも理由があった。
どれを選んでも、守れない場所が生まれる。
「王都軍が敗れれば」
レオンハルトが言った。
話していた者たちが口を閉じる。
「次は我々だ。王兄は、私が約束を破ったと諸侯へ告げる。シュヴァルツ伯も同じことを言うだろう」
「ですが、橋を失えば兵糧が届きません」
「橋は捨てん」
レオンハルトは地図の上で兵を示す木片を分けた。
「主力は王都軍の西側へ進む。橋、倉、街道には守備を残す。周囲の見張りを増やし、ヴァルナー軍が動けばすぐ知らせろ」
「兵を分ければ、殿下が連れていけるのは二千余りです」
ユリウスが言った。
「王都軍と合わせれば足りる」
「合わせられれば、です」
「だから連絡を増やす」
二つの軍は混ざらない。
だが、別々に動いたまま同じ敵を挟むことはできる。
王都軍が正面でシュヴァルツ伯主力を受け、レオンハルト軍が西側から圧力を掛ける。
どちらかが勝手に前へ出れば、敵に集中される。
どちらかが動かなければ、もう一方が孤立する。
必要なのは、二つの軍が一つになることではない。
別々のまま、決めた時に動くことだった。
「火槍隊は」
俺が尋ねた。
「主力に同行させる」
レオンハルトが答えた。
「今使えるのは九挺です」
「一挺減ったから役に立たんのか?」
「そういう意味ではありません」
「なら持ってこい」
「どこへ配置しますか?」
「まだ決めん」
レオンハルトはシュヴァルツ伯側の木片を見た。
「敵がどこへ来るか見てから、お前が決めろ。昨日と同じようにな」
九挺に、戦全体を決める力はない。
だが、昨日の噂を知った敵は、火縄の煙を見ただけで警戒するかもしれない。
撃たなくても敵を動かせる可能性がある。
同時に、火槍隊を避け、別の場所へ攻撃を集中するかもしれない。
「弾薬箱の残りを補充します」
俺は言った。
「一人十本へ戻せるか」
マティアスが尋ねる。
「予備の一発筒があります。ただし、兵站火薬部門の上官から補充作業の許可が必要です」
「今日中に済ませろ。使った数と補充した数を残せ」
「はい」
「工場へ送る一挺の護衛も忘れるな」
「手配しています」
マティアスは頷き、別の帳面を開いた。
「主力を動かすなら食料も分ける。橋に残る兵の分を持ち出すな。王都軍から買えると思うな。あちらはあちらで、自分たちの兵を食わせる」
同じ場所で戦っても、兵糧は別だった。
王都軍の倉から、レオンハルト軍へ当然のように食料が出るわけではない。
負傷者を運ぶ荷車も、馬の飼料も、矢の補充も別に用意する。
共同作戦という言葉は一つでも、その中には二つの軍が存在し続ける。
「出発は日没後」
レオンハルトが決めた。
「夜明け前に予定した場所へ入る。王都軍には三人の使者を出せ。こちらの進路と、旗と角笛の合図を書いて持たせろ」
軍議が終わる。
外へ出ると、すでに荷車を分ける作業が始まっていた。
橋へ残す食料。
主力とともに運ぶ食料。
火槍隊へ渡す火薬と弾。
負傷者のための布と水。
兵が動く前に、物を動かさなければならない。
俺は火槍隊の区画へ戻った。
不発になった一挺を載せた小さな荷車は、ロルフの工場へ向けて出発するところだった。
箱には壊れた農具を示す印が付けられている。
中身が火縄銃だと、道中の者へ知らせないためだ。
「ロルフさんへ、勝手に分解しなかったと伝えてください」
俺は護衛の兵へ言った。
「帳面も箱の中ですか?」
「別の袋に入っています。箱と袋を同時に失わないよう、別々に持ってください」
火縄銃だけを奪われても、すぐに同じ物を作れるとは限らない。
開発記録だけを奪われても、職人と設備がなければ完成しない。
だが、両方を同時に渡す理由はない。
荷車が陣を出る。
ロルフの手元へ届くまで、何日かかるかは分からない。
それまで火槍隊は九挺で戦うことになる。
一挺を持たない兵も、隊から外さなかった。
予備の火縄や一発筒を運び、装填が遅れた者を補助する役目を与える。
火縄銃が戻るまで、自分だけ戦えないことを悔しがっているようだった。
「戦うのは、引金を引く者だけではありません」
俺が言うと、兵は不満を隠しながらも頷いた。
俺自身にも向けた言葉だった。
◇ ◇ ◇
日が沈むと、レオンハルト軍の主力が動き始めた。
松明は必要な場所にしか付けない。
暗闇の中で列を乱さないよう、兵は前にいる者の足音と、道の左右へ置かれた小さな明かりを頼りに進む。
火槍隊は主力の中央より少し後ろに置かれた。
前方には槍兵。
後方には火薬と食料を運ぶ荷車。
敵の騎兵が突っ込んできても、すぐ火槍隊へ届かない位置だ。
一発筒の補充は出発前に終えた。
火槍兵一人につき十本。
九挺しかないため、火縄銃を持たない一人の箱にも十本を入れている。戦闘中に不足した者へ渡せるようにするためだ。
「赤い布は」
俺が尋ねると、火槍兵長が短い棒を示した。
「ここにあります」
「暗い間は見えません」
「夜に撃つ場合はどうしますか?」
考えていなかった問題が、すぐに出てくる。
赤い布は昼間なら見える。
夜には役に立たない。
「今夜は、敵が見えない場所では撃たせません」
俺は答えた。
「夜襲を受けた場合は」
「槍兵の後ろへ下げます。火縄銃を撃てるからといって、何でも撃たせるべきではありません」
火槍兵長は納得したように頷いた。
火縄の火は、暗闇では敵からも見える。
火槍隊の位置を自分から知らせることになる。
夜の戦いで使う方法は、まだ考えていない。
それも今後の課題だった。
行軍の途中には、使者の中継地点が置かれた。
小さな天幕。
替え馬。
二人から三人の兵。
王都軍から書状が届けば、受け取った時刻と運んできた者を記録し、次の使者へ渡す。
同じ内容の書状を持った三人は、すでに別々の道から王都軍へ向かっていた。
一人目は広い街道。
二人目は村を通る道。
三人目は森の縁を抜ける細い道。
全員が届く必要はない。
一人でも届けばよい。
ただし、一人しか届かなかった場合は、残る二人がどこで止まったか調べる必要がある。
仕事を増やしたのは間違いない。
それでも、古い書状一通で数千人が誤った場所へ動くよりはましだった。
夜明け前、先頭から停止の合図が伝わった。
兵たちが道の左右へ分かれ、布陣を始める。
東の空が薄く明るくなっている。
その向こうに、いくつもの旗が見えた。
王都軍だった。
数千人の兵が街道の東側へ広がっている。
槍の穂先が朝の光を受け、長い列になっていた。
レオンハルト軍の兵たちが足を止め、王都軍を見る。
王都軍側も同じように、こちらを見ている。
味方として迎える声は上がらなかった。
互いの旗を確かめ、兵数を数え、どこまで近づくかを見ている。
王都軍の陣から騎馬の使者が出た。
こちらからも使者が向かう。
二人は両軍の間で言葉を交わしたが、ライゼン将軍本人は姿を見せなかった。
レオンハルトも自分の陣から出ない。
直接会うのはシュヴァルツ伯を倒した後。
その約束を変えず、戦場では使者だけを往復させる。
王都軍は街道の東側へ布陣した。
レオンハルト軍は西側へ広がる。
二つの軍の間には、兵一隊が通れるほどの空間が残された。
近づきすぎれば、相手が自分たちの陣へ入ってくる。
離れすぎれば、敵に間を突かれる。
どこまで近づくかという判断一つにも、疑いが混じっていた。
王都軍の荷車は東へ並ぶ。
レオンハルト軍の荷車は西へ置かれる。
井戸から水を運ぶ者も別。
負傷者を運び込む場所も別。
王都軍の兵がこちらへ迷い込めば止められ、レオンハルト軍の兵が東へ近づけば同じように見張られる。
「これを、共闘と呼ぶんですか」
俺が呟くと、隣にいたマティアスが答えた。
「同じ敵を攻撃すれば、共闘だ」
「味方には見えません」
「味方だと思い込むよりは安全だろう」
冷たい言い方だが、間違ってはいない。
王都軍が何をするか分からないから、距離を取る。
王都軍も、レオンハルトが王位を狙っているのではないかと疑っている。
信頼がないことを隠して一つの陣へ入るより、最初から別々に置いた方が、誤解による衝突は減らせる。
だが、敵から見れば、両軍の間に隙間がある。
「火槍隊は後方で待機」
伝令が命令を持ってきた。
「敵の攻撃方向が判明するまで動くなとのことです」
俺は火槍兵長へ伝える。
九挺の火縄銃は、まだ布を掛けたままだ。
火縄にも火を付けていない。
昨日の戦果を見れば、すぐ前へ出したくなる。
それでもレオンハルトは、敵の位置が分からないうちに使わなかった。
敵が火槍隊の噂を知っているなら、布を外して見せるだけでも何かが起きるかもしれない。
その一度を、意味のない場所で使うべきではなかった。
朝日が昇る。
遠くの丘と林の間から、黒い列が現れた。
シュヴァルツ伯方の軍勢だった。
一つではない。
正面へ進む部隊。
王都軍の東側へ広がる部隊。
レオンハルト軍の西側で様子を見る騎兵。
そして、両軍の間へ正面を向ける部隊。
敵もこちらの布陣を見ている。
どちらの軍が先に動くか。
一方が攻撃された時、もう一方が助けるか。
両軍の間にある隙間を、誰が守るのか。
敵の旗が動いた。
中央にいた兵の一部が、王都軍とレオンハルト軍の間へ向きを変える。
「来ます」
俺が言うと、マティアスも同じ場所を見た。
「最初から、そこを狙うつもりだったのだろう」
王都軍の角笛が鳴る。
少し遅れて、レオンハルト軍の角笛も鳴った。
事前に決めた合図と同じだった。
敵中央、前進。
両軍とも持ち場を維持。
まだ救援要請ではない。
王都軍の槍兵が向きを変える。
レオンハルト軍の兵も中央へ少し寄る。
だが、どちらも隙間を完全には埋めなかった。
先に中央へ出れば、敵の攻撃を多く受ける。
相手が同じだけ前へ出る保証もない。
火槍兵長が俺を見る。
「火縄へ火を付けますか?」
俺は敵の動きを見た。
まだ早い。
「待ってください」
九挺しかない。
敵は数千。
昨日のように指揮官だけを討てば終わる戦ではない。
王都軍とレオンハルト軍の間には、兵一隊が通れるほどの土地が空いていた。
けれど、そこにあったのは空いた土地ではない。
同じ敵を前にしても埋められない、二つの軍の疑いだった。
第二十二話を読んでいただき、ありがとうございました。
「待て」が「撃て」に聞こえた失敗から、アレクたちは声だけに頼らない合図を考えます。
さらに、届く順序が入れ替わった二通の命令は、軍を動かす情報の脆さを明らかにしました。
次回、王都軍とレオンハルト軍は、埋められない隙間を抱えたままシュヴァルツ伯の軍と対峙します。




