第八話 グリュン川大橋の戦い(下)
グリュン川大橋を巡る攻防戦も、いよいよ決着を迎えます。
橋を守り続けるマティアスたちと、敵の背後へ回るアレクたち。
そして戦いのあと、アレクは以前目にした「火槍」の可能性について、マティアスへ問いかけます。
レオンハルト公国の旗が見えたからといって、戦が終わったわけではない。
むしろ、ヴァルナー軍の攻勢は激しさを増していた。
援軍が到着する前に橋を奪おうとしているのだ。
「押せ! ここを抜かせるな!」
怒号とともに、マティアス様が剣を振るう。
第二の防壁の前では、倒れた者と、まだ立っている者の境が分からなくなっていた。折れた槍、砕けた盾、血に濡れた石畳。その上を敵味方の兵が踏み越えていく。
疲労は限界に近い。
それでも、俺たちはまだ橋を渡させていなかった。
「アレク!」
声に振り向くと、ジークフリート殿が馬から降りてこちらへ向かってきた。
「こちらに回せる騎兵は百二十だ。残りの八十は橋の守りに加える。上流へ案内できる者はいるか」
「猟師が二人います。俺も行きます」
即答すると、ジークフリート殿の眉が動いた。
「お前が?」
「上流の道は確認しています。それに、敵の荷を見つけたとき、何を奪い、何を壊すべきか判断できる者が必要です」
「橋の守りはどうする」
「ここはマティアス様に任せます。俺よりも、残る八十人の兵の方が役に立ちます」
自分で口にしながら、それが少し悔しかった。
だが、事実だった。
俺一人が槍を持って残るより、敵の後ろへ回る騎兵を正しく動かす方が、はるかに多くの兵を助けられる。
マティアス様が血のついた剣を下げ、こちらを見た。
「行け、アレク」
「ですが――」
「お前がここにいても、敵の数は減らん。それより、ヴァルナー軍に橋以外を見る理由を作れ」
マティアス様はジークフリート殿へ顔を向けた。
「こいつを連れていけ。勝手なことを言い出したら殴って止めろ」
「承知した」
「俺の扱いが少し雑ではありませんか?」
「文句を言う余裕があるなら走れ」
背後で再び敵の雄叫びが上がった。
冗談を言っている場合ではない。
俺たちはすぐに橋を離れた。
上流へ向かう百二十騎のうち、四十騎には途中で別れてもらった。すでに敵が警戒している、浅い渡河地点へ向かわせるためだ。
ただし、渡るためではない。
「松明を多く持たせろ。川沿いに広がり、できるだけ大勢がいるように見せるんだ」
俺の言葉に、ジークフリート殿が問い返す。
「敵を引きつけるためか」
「はい。昨日の襲撃に失敗した以上、敵も上流を警戒しています。見つかっている渡河地点には、必ず兵を置いているはずです」
「四十騎では、その兵に襲われるぞ」
「戦わせません。接近されたら退いてください。火を絶やさず、何度も前へ出る姿を見せるだけでいい」
こちらが上流へ向かうことを、ヴァルナー軍が予想していないはずはない。
敵も馬鹿ではないのだ。
一度使われた手は警戒する。橋で守る側が有利なら、渡河地点でも待ち構える側が有利になる。
だから、知られている道を使うことはできない。
猟師が案内したのは、さらに上流にある狭い獣道だった。
木々の間を抜けた先で、月明かりを受けた川面が見えた。川幅はそれほど広くない。だが、流れは速く、川底も深い。
「本当に渡れるのか」
ジークフリート殿が猟師へ尋ねる。
「夏なら馬でも渡れます。ただし、一列で進んでください。少し下流へ流されますが、向こう岸に浅くなる場所があります」
「失敗したら?」
「人も馬も流されます」
猟師は平然と答えた。
当然のことだが、俺たちに別の道はなかった。
ジークフリート殿が先頭に立ち、馬を川へ進めた。
水はすぐに馬の腹へ達した。川底の石に脚を取られ、馬体が大きく揺れる。後ろの騎兵たちも一騎ずつ、間隔を空けて続いた。
俺の番が来た。
手綱を握る手に力が入る。
「大丈夫だ。前の馬から目を離すな」
猟師に言われ、俺はうなずいた。
馬が川へ入る。
冷たい水が長靴の中まで流れ込んできた。
想像していたよりも流れが強い。馬が一歩進むたび、横から押される。足元では石が転がり、何度も体勢が崩れた。
前を進んでいた騎兵の馬が大きく傾いた。
「手綱を引くな! 馬に任せろ!」
ジークフリート殿の声が飛ぶ。
騎兵は馬の首へしがみつき、どうにか姿勢を立て直した。
叫び声が聞こえたのは、その直後だった。
後方で一頭の馬が脚を滑らせた。乗っていた兵が水へ投げ出され、流れに飲まれる。
近くの兵が槍の柄を差し伸べた。
男はそれをつかみ、二人がかりで引き上げられたが、馬は暗い川の中を流されていった。
誰も追えない。
俺たちは黙って渡河を続けた。
対岸へたどり着くまでに、流された馬が二頭、脚を傷めた馬が三頭。騎乗できなくなった兵には、猟師の一人をつけて川辺に残した。
「七十五騎か」
ジークフリート殿が数を確かめる。
「戻るか?」
試すような問いだった。
「戻りません。橋を攻めている敵より、こちらの数が少ないのは最初から分かっていました」
「では、七十五騎で千を超える敵の背後を突くのか」
「敵兵ではなく、敵が戦うために必要なものを狙います」
ヴァルナー軍の全軍を倒す必要はない。
橋を渡る理由を失わせればいいのだ。
俺たちは明かりを使わず、森の中を南へ進んだ。
やがて、木々の隙間からいくつもの焚き火が見えた。
ヴァルナー軍の後方に置かれた荷駄隊だった。
数十台の荷車が並び、その周囲に馬や牛がつながれている。食料の袋、予備の矢、槍、飼い葉、橋を壊すための道具。見張りの兵もいる。
前方の戦闘へ兵を回しているとはいえ、無防備ではなかった。
「見張りは五十ほど。離れた場所にもいるでしょう」
俺の隣で、ジークフリート殿が小声で言った。
「どうする」
「三つに分けます。一隊は荷駄の両端から入り、馬と牛を逃がしてください。二隊目は矢と飼い葉、それから橋を壊す道具を焼く。三隊目は旗と松明を持って森の中を走ってください」
「食料は焼かないのか」
「運べるものは奪います。運べないものも、すべては燃やさないでください」
「敵の荷だぞ」
「負傷者のための薬や布も残します。ヴァルナー軍が退けば、それで十分です」
情けをかけたつもりはない。
食料をすべて焼けば、腹を空かせた敵兵が周辺の村を襲うかもしれない。薬を失えば、助かるはずの負傷者まで死ぬ。
敵を退かせるために必要なものと、ただ犠牲を増やすだけのものは違う。
ジークフリート殿は少しだけ俺を見つめたあと、部下たちへ指示を出した。
「敵兵を追うな。荷を崩したらすぐに離れろ。目的は略奪ではない」
騎兵たちが音を立てずに散っていく。
俺は剣を抜いた。
遠くから、橋の鐘が聞こえた。
一度。
間を置いて、もう一度。
危急を告げる鐘だった。
ヴァルナー軍が最後の攻勢を始めたのだ。
「行くぞ!」
ジークフリート殿の号令と同時に、騎兵が森を飛び出した。
見張りがこちらに気づいた。
「敵襲!」
叫び声が上がり、鐘が鳴らされる。
俺たちは荷車の間へ突入した。
眠っていた兵たちが飛び起き、武器を探す。だが、整列する時間は与えない。騎兵たちは馬上から槍を突き出し、立ちはだかる者を押し退けた。
「荷車を倒せ!」
車輪へ棒を差し込み、荷車を横転させる。
袋が地面へ落ち、木箱が砕けた。
つながれていた馬と牛の縄が切られ、驚いた家畜が四方へ走り出す。兵たちが止めようとするが、暗闇の中ではどうにもならない。
火矢が飼い葉の山へ突き刺さった。
乾いた草はすぐに燃え上がった。
隣に積まれていた矢にも火が移る。火薬のような大爆発は起こらない。それでも、何百、何千という矢が使えなくなる。
「水を持ってこい!」
「馬を止めろ!」
「敵は何人だ!」
ヴァルナー兵の声が入り乱れる。
森の中では、別動隊が松明を掲げ、レオンハルト公国の旗をいくつも振っていた。
暗闇の中で正確な人数など分からない。
敵には、数百の騎兵が背後へ回ったように見えるはずだ。
「アレク、右だ!」
振り向くと、槍を持った兵が迫っていた。
馬首を返す余裕はない。
俺は剣で穂先をそらし、そのまま相手の肩へ体当たりする。男が倒れ、後ろから来た味方の騎兵が槍の柄で武器を弾き飛ばした。
「助かりました!」
「礼はあとだ。ここに長くいるな!」
敵兵が集まり始めている。
荷駄の護衛だけではない。橋へ向かっていた兵の一部が引き返してきたのだ。
俺たちの目的は果たした。
「退け!」
ジークフリート殿の声が響く。
騎兵たちは食料を積めるだけ馬へくくりつけ、森へ向かった。俺もそれに続く。
背後から矢が飛んできた。
一本が近くの木へ刺さり、もう一本が騎兵の背へ当たった。男は馬から落ちなかったが、上体を大きく崩した。
隣の兵が手綱をつかみ、二頭を並べて走らせる。
ヴァルナーの騎兵が追ってきた。
「走らせすぎるな!」
ジークフリート殿が部下を制止する。
俺たちの馬は川を渡ったばかりだ。全速力を続ければ、先に潰れる。
森の中へ入り、木々の間を縫うように進む。敵の騎兵も深追いはしなかった。
背後では、赤い炎が夜空を照らしていた。
橋の方角から聞こえていた鐘が止まった。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
◇
俺たちが敵の荷駄を襲っていた頃、橋ではヴァルナー軍の最後の攻勢が始まっていた。
後から聞いた話では、敵は残っていた兵を惜しみなく投入したらしい。
第二の防壁は崩れかけ、マティアス配下の兵とローゼンハイム兵は何度も後退した。
援軍として残ったレオンハルト兵八十人がいなければ、そこで橋を奪われていただろう。
しかし、ヴァルナー軍にも余裕があったわけではない。
背後の空が赤く染まり、荷駄隊から次々と伝令が届いた。
レオンハルトの騎兵が後方へ回った。
兵糧と矢が焼かれている。
馬と牛が逃げた。
退路を断たれるかもしれない。
そして、レオンハルト公国の歩兵八百がこちらへ向かっている。
橋は、あと一歩で奪える。
だが、その一歩を進んだ先で、帰る道と食料を失うかもしれない。
ヴァルナー軍の指揮官は、橋へ送っていた兵のうち三百を後方へ戻した。
その瞬間、攻勢は弱まった。
マティアス様は、それを見逃さなかった。
「敵が退いたふりをしている可能性があります。追撃は控えるべきです」
副官の意見に、マティアス様はうなずいた。
「橋の南端まで押し返す。橋を越えては追うな!」
味方は崩れかけた防壁から打って出た。
敵を倒すためではなく、橋を取り戻すための反撃だった。
ヴァルナー軍も無秩序に逃げたわけではない。盾兵を後ろへ残し、負傷者を運びながら、少しずつ橋から離れていった。
橋の南端に掲げられていたヴァルナーの旗が下ろされる。
代わりに、ローゼンハイムの旗が立った。
ヴァルナー軍は橋から退いた。
グリュン川大橋の攻防戦は、ようやく終わった。
◇
夜明け前、俺たちは再び川を渡った。
追ってきた敵がいないことを確かめながら、一騎ずつ慎重に進む。
橋へ戻った頃には、東の空が白み始めていた。
レオンハルト公国の歩兵八百も、すでに到着していた。
間に合わなかったわけではない。
彼らが接近しているという事実が、ヴァルナー軍に撤退を選ばせたのだ。
橋の北側では、負傷者が並べられていた。
生きている者の声と、死んだ者へ祈る声が重なっている。
戦に勝った者たちの姿には見えなかった。
「マティアス様」
俺の声に、マティアス様が振り向いた。
鎧にはいくつもの傷があり、顔も煤と血で汚れている。それでも、大きな怪我はないようだった。
「戻ったか」
「はい。敵の荷駄を崩しました。矢と飼い葉、それから橋を壊す道具の多くを焼き、馬と牛を逃がしました。食料の一部も持ち帰っています」
「損害は」
「死者はいません。負傷者が六人。馬を五頭失いました」
マティアス様が小さく息を吐いた。
「十分だ」
「追撃しますか」
ジークフリート殿が尋ねる。
「今なら、退いている敵の後ろを――」
「やめた方がいいと思います」
俺は口を挟んだ。
ジークフリート殿がこちらを見る。
「理由は」
「こちらの馬は渡河と襲撃で疲れています。敵にはまだ騎兵が残っています。それに、ヴァルナー軍は崩壊したわけではありません。追えば、今度はこちらが待ち伏せを受けるかもしれません」
「だが、敵へさらに損害を与える機会だ」
「俺たちの目的は、ヴァルナー軍を全滅させることではありません。橋を守ることです。その目的は果たしました」
敵の荷を襲うとき、自分で言った言葉だった。
勝った直後ほど、もっと多くを得られるような気がする。
だが、それを欲張れば、勝利まで失うかもしれない。
マティアス様が俺とジークフリート殿の間へ入った。
「追撃はしない。斥候だけを出せ。敵が本当に退いているか確かめる」
「承知しました」
ジークフリート殿は不満そうには見えなかった。
俺の考えを確かめるために聞いたのかもしれない。
日が昇り、橋の姿がはっきりと見えるようになった。
石造りの橋そのものは残っている。
だが、欄干は崩れ、石畳には穴が開き、二つの防壁はほとんど原形をとどめていなかった。
橋の上と川岸には、多くの死体が横たわっている。
ローゼンハイム側の死者は四十人を超えた。重傷者は三十人ほど。軽傷者まで数えれば、さらに多い。
援軍として来たレオンハルト兵にも十数人の死者が出た。
ヴァルナー軍の損害は、それ以上だった。
橋と川岸で見つかった死体だけでも百五十近い。連れ帰った負傷者は二百を超えるだろう。置き去りにされた兵のうち、まだ生きていた者は捕虜にした。
数字だけなら、俺たちの勝利だった。
だが、死者の数が多い方を負けと呼ぶだけで、本当にいいのだろうか。
川の北側にある畑も踏み荒らされていた。収穫前の麦は倒れ、避難した村人たちはまだ家へ戻れない。
橋を守ったことで救われた命もある。
同時に、橋を守るために失われた命もある。
俺には、その二つを秤に載せることができなかった。
◇
「アレク、何を見ている」
声をかけられ、俺は顔を上げた。
マティアス様が、壊れた防壁の横に立っている。
「橋を見ていました」
「見れば分かる」
「ここまで敵がまっすぐ進んでくる場所は、ほかにはあまりありません」
「そうだな。だから少ない兵でも守れた」
「それで、思い出したものがあります」
俺は石畳に残る黒い焦げ跡を見た。
煙を作るために燃やした藁の跡だ。
「火槍です」
「火槍?」
「ヴァイスブルクでは、アルベルト様が火槍を集め、戦で使っていました。今回のように、敵が横へ広がれず、まっすぐこちらへ向かってくる場所なら、火槍も使えるのではないでしょうか」
マティアス様はすぐには答えなかった。
崩れた防壁の先へ目を向け、少し考えてから口を開く。
「初めの一撃なら、使えるかもしれん」
「やはり――」
「最後まで聞け。火槍を知らない兵なら、大きな音だけでも怯む。弾が当たれば、怪我をさせることも、動けなくすることもできる。今回の橋のように狙う場所が限られていれば、当たる可能性も上がる」
「それなら数をそろえれば――」
「だが、戦で使える武器とは言えん」
俺は思わず言い返した。
「弓矢より遠くまで飛び、殺傷力もあります。数をそろえて、一斉に撃てば活躍するはずです」
頭にあったのは、前世で知った火縄銃だった。
大勢の鉄砲兵が並び、号令に合わせて一斉に撃つ。
長篠の戦い。
火縄銃が騎馬隊を打ち破ったという、有名な光景だった。
だが、マティアス様は首を横に振った。
「お前が考えているのは、火槍を撃つ瞬間だけだ」
「撃つ瞬間?」
「弓兵は弓と矢があれば戦える。矢を射たあとも、次の矢をつがえればいい。では、火槍はどうだ」
マティアス様は落ちていた槍を拾った。
「火槍は、これほど長い柄の先に鉄の筒がついている。ただの槍より重い。兵に持たせて歩かせるだけでも疲れる」
槍を地面へ立てる。
「戦場へ運ぶのは本体だけではない。火薬と弾も必要だ。火薬と弾を詰め、柄の後ろを地面へつけ、狙いを定め、火縄で点火する。一発撃ったあと、敵が待ってくれると思うか?」
「それは……」
「外せば、次を撃つ前に敵が来る。それなら初めから槍を持たせた方がいい。槍なら、構えた瞬間から敵を止められる」
マティアス様は槍を俺へ渡した。
「それに火薬は水に弱い。雨が降ったらどうする。川を渡る途中で濡れたら。荷車の覆いに穴が開いていたら。必要なときに使えなければ、それまで運んだ金も人手も無駄になる」
俺は、先ほど渡った川を思い出した。
長靴の中まで水に浸かった。
あの状態で火薬を持っていたとして、使い物になっただろうか。
「命中率も悪い。弓なら当てられる距離でも、火槍は当たれば運がいい。筒ごとに大きさが違えば、弾との隙間も変わる。作る職人によって性能も変わる。壊れれば、槍の穂先のように簡単に交換することもできん」
「ですが、アルベルト様は実際に使っています」
「使ったことがあるのと、いつでも使えることは違う。お前もあの場にいたのだろう?」
マティアス様は橋の上を指した。
「アルベルト公は火槍兵を林に隠し、敵を狙った場所まで誘い込んだ。弓を射かけたあと、味方を助けようと騎兵が密集して前へ出たところへ、最初の一撃を撃たせた。違うか?」
「……はい」
「火槍が強かったから勝てたのではない。敵に姿を見せず、狙う場所を限定し、外しても弓兵と騎兵で補えるようにしていた。大きな音と煙で馬を驚かせ、敵が混乱したところで、欲張らずに兵を退かせた。あれは火槍の力ではなく、アルベルト公が火槍の使える状況を作ったのだ」
言われた瞬間、あの日の光景が鮮明に蘇った。
林から放たれた無数の矢。
続いて鳴り響いた轟音。
立ち込める白煙。
怯えて暴れる馬と、地面へ投げ出される騎兵たち。
俺は、そのすべてを自分の目で見ていた。
それなのに、火槍が敵を破ったのだと思い込んでいた。
違う。
あの日、敵を破ったのは火槍そのものではない。
敵の性格を読み、誘い出し、火槍が役に立つ一瞬を作ったアルベルトの策だった。
「ヴァイスブルクにも、あのときは四十ほどしかなかったはずだ。アルベルト公は増やそうとしているようだが、どこまで続くかは分からん。火槍そのものを持つ国や貴族はほかにもいる。だが、主力の武器にしようとする者はほとんどいない」
「費用に見合わないからですか」
「それもある。戦は金がかかる。兵を雇い、食わせ、武器を持たせ、必要な場所へ運ぶ。使えるかどうか分からない物に金を出せる者は少ない」
俺は何も言えなくなった。
恥ずかしかった。
ここまで、俺は何を学んできたのだろう。
食料がなければ兵は動けない。
馬には飼い葉が必要だ。
橋を守るためには兵だけでなく、木材や縄や石、負傷者を運ぶ荷車まで必要になる。
さっきまで、敵の兵ではなく荷駄を狙っていたはずなのに。
火槍のことになると、俺は発射される弾だけを見ていた。
それだけではない。
俺は実際に火槍が使われる場面を見ていた。
火槍兵を隠し、敵を誘い込み、弓兵と騎兵を組み合わせ、撤退する時まで決めていた。
あの戦いのすべてを見ていながら、火槍だけを取り出して考えてしまった。
前世の知識にある完成した武器と、この世界にある火槍を、同じものだと思い込んでいたのだ。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る」
「俺は、戦場で撃つところしか考えていませんでした。作ることも、運ぶことも、濡らさず保管することも、撃ったあとに何が起きるかも考えていなかった。それに、アルベルト様がどうしてあの状況で火槍を使ったのかも、分かっていたつもりになっていました」
「今、気づいたなら無駄ではない」
マティアス様はそれだけ言い、立ち去ろうとした。
その背中を見たとき、頭の中に一つの形が浮かんだ。
「待ってください」
マティアス様が足を止める。
「まだ何かあるのか」
「火槍の欠点を、いくつか解決できるとしたらどうでしょう」
振り返ったマティアス様の目つきが変わった。
「火槍の欠点を?」
「はい。全部ではありません。雨にも弱いままですし、火薬と弾を運ぶ必要もあります。でも、長さと重さは減らせるかもしれません」
「続けろ」
俺は渡された槍を地面へ置いた。
「まず、この長い柄をなくします。槍として使うことを諦めるんです」
「槍として使えない火槍にするのか」
「はい。筒の後ろに、もっと短い木の台を取りつけます。全体の長さは、今の火槍の三分の二以下にできます。肩か胸の近くで支えられる形にすれば、柄の後ろを地面へ置かなくても構えられるかもしれません」
前世で見た火縄銃の姿を思い浮かべながら、俺は身振りで形を示した。
「短くなれば運びやすくなります。一台の荷車で運べる数も増えます。兵が携帯しても、今の火槍ほど邪魔になりません」
「短くすれば、命中率が下がるのではないか」
「筒まで短くするとは限りません。長い柄の部分をなくします。それから、筒と弾の大きさをそろえます」
「大きさをそろえる?」
「職人ごとに違うものを作らせるのではなく、見本と同じ太さの筒を作らせます。弾も同じ大きさにする。火薬の量と、詰め方も決めます」
正確な構造までは分からない。
火縄銃を分解したことなど一度もない。
だが、知っている形はある。
銃床。
引き金。
火縄を火皿へ落とす仕組み。
筒の内側を均一にすること。
弾の大きさをそろえること。
どこまで、この世界の職人に再現できるかは分からない。それでも、今の火槍より使いやすいものを作る道はあるはずだ。
「お前の頭には、戦場で使える新しい火槍の構想があるんだな?」
マティアス様が静かに尋ねた。
俺は一度だけ息を吸った。
この知識を使えば、人を殺す武器が生まれる。
俺が何もしなければ、存在しなかったかもしれない武器だ。
それでも、この世界に来てから、人数で劣る戦を何度も経験した。
毎回、都合のいい援軍が来るとは限らない。
狭い橋があるとも、守りやすい砦があるとも限らない。
俺の隣で戦った誰かが、次も生き残れる保証はない。
「あります」
俺はうなずいた。
「マティアス様。力を貸してください」
「俺に何をさせるつもりだ」
「マティアス商会で作っていただけませんか。俺にあるのは構想だけです。金もありません。腕のいい鍛冶職人も、木工職人も、火薬を扱える者も知りません」
「ずいぶん勝手な頼みだな」
「分かっています。それでも、作る意味はあります」
俺は壊れた橋を見た。
「今まで、人数で不利な戦ばかりでした。そのたびに、何か使えるものはないか、援軍は来ないのかと考えていました。新しい火槍が、人数で劣る戦や危険な戦場で少しでも役に立つ可能性があるなら、俺は形にしたいです」
マティアス様は腕を組んだ。
「誰が作る」
「それを探すところから始めます」
「どこで作る」
「安全に試せる場所が必要です。人の少ない商会の倉庫か、郊外の工房を借りられれば」
「金はいくらかかる」
「分かりません」
「いつ完成する」
「それも分かりません」
「失敗したとき、誰が責任を取る」
その問いにだけは、迷わず答えた。
「俺が取ります」
「どうやって」
「それは……」
「金を返すのか。職人が怪我をしたら、その家族を養うのか。火薬が爆発して工房が焼けたら、お前一人で建て直すのか」
答えられなかった。
この世界で責任を取るということが、何を意味するのか。
俺はまだ分かっていない。
「失敗はしません。必ず成功させます」
苦し紛れに口にすると、マティアス様は声を上げて笑った。
「責任の取り方も分からん奴が、でかい口を叩くな」
顔が熱くなる。
「申し訳ありません……」
「だが、それでいい」
「え?」
「お前を信じる。責任は俺が取る。お前の好きにやれ」
思いもしなかった言葉だった。
「よろしいのですか?」
「商人が金を出すのは、成功すると分かっている話だけではない。成功したとき、出した金以上の価値があると思える話にも金を出す」
マティアス様は俺の胸を指で突いた。
「ただし、条件がある」
「何でしょう」
「失敗したら記録しろ。何を作り、何を試し、なぜ失敗したのか。失敗することは許す。同じ失敗に二度、金を使うことは許さん」
「はい!」
「最初から大勢を集めるな。まず見本を一つ作れ。撃てるか、持ち運べるか、狙った方向へ飛ぶかを確かめる。それができてから次を考える」
「分かりました」
「それから、勝手に火薬へ近づくな。お前が工房ごと吹き飛んだら、誰に金を返させればいい」
「気をつけます」
「気をつけるだけでは足りん。必ず火薬を知る者を立ち会わせろ」
俺は何度もうなずいた。
その日、グリュン川大橋の戦いは終わった。
橋の上には、折れた槍と砕けた盾が残った。
石畳には血が染み込み、川は何事もなかったように、その下を流れ続けている。
俺たちは橋を守った。
だが、ヴァルナー軍を倒したわけではない。敵の主力は残り、この戦いが乱世そのものを終わらせたわけでもない。
次の戦では、今回と同じ方法は使えないかもしれない。
だから俺は、新しい方法を探す。
この日、壊れた橋の上で交わした会話から、一本の新しい武器を作る試みが始まった。
第八話をお読みいただき、ありがとうございます。
グリュン川大橋を巡る戦いは、ヴァルナー軍の撤退によって決着しました。
今回アレクたちが狙ったのは、敵兵そのものではなく、戦いを続けるために必要な荷駄でした。
兵糧、矢、飼い葉、荷車、馬や牛。
正面で戦う兵がどれほど多くても、それらを失えば軍は戦い続けられません。
橋を奪うことだけを考えていたヴァルナー軍に、背後と退路を守らなければならない理由を作ることで、アレクたちは撤退を選ばせました。
一方、戦いに勝っても、失われた命や踏み荒らされた畑が元へ戻るわけではありません。
勝敗を数字だけで考えきれないアレクの姿も、この物語で描き続けたい部分の一つです。
そして物語は、以前登場した火槍へと戻りました。
アレクは第一篇で、アルベルトが火槍を使う場面を直接見ています。
しかし、火槍が敵を破ったのではなく、アルベルトが敵を誘い込み、火槍が役に立つ状況を作っていたことに、改めて気づかされました。
強力に見える武器にも、製造、運搬、保管、費用、命中率、再装填など、多くの問題があります。
アレクの前世の知識があっても、すぐに完成した火縄銃が生まれるわけではありません。
これから職人を探し、試作品を作り、失敗を重ねながら、少しずつ形にしていくことになります。
橋を巡る戦いは終わりました。
そしてその壊れた橋の上で、新しい武器を作る長い試みが始まります。




