第六話 グリュン川大橋の戦い(上)
上流の浅瀬を巡る夜戦を終え、アレクたちはグリュン川大橋へ戻りました。
しかし、休む時間はありません。
夜通し進軍したヴァルナー伯軍本隊が、既に橋の南側へ姿を現していました。
敵兵およそ千五百。
対するローゼンハイム男爵軍は五百に満たず、夜の戦いと住民の避難によって疲労しています。
狭い橋の上では、千五百人全員が同時に戦うことはできません。
それでも敵は、疲れた兵を何度でも新しい兵と交代できます。
橋を無傷で手に入れたいヴァルナー伯。
橋と領民の暮らしを守ろうとするローゼンハイム男爵。
レオンハルトの援軍がまだ到着しない中、グリュン川大橋を巡る本格的な戦いが始まります。
夜が明けると、ヴァルナー伯軍の全容が見え始めた。
南西から伸びる街道を、兵の列が埋めている。
中央には槍と盾を持った歩兵。その左右には弓兵が並び、後方には騎兵の姿も見える。さらにその後ろから、武器や食糧を積んだ荷車が次々と到着していた。
「本当に千五百いるんですね」
橋の北側にある塔の上から敵軍を見ながら、俺は呟いた。
「少なく見積もっても、その程度だ」
隣にいたマティアスが答える。
「一度に橋へ来るわけじゃないですよね?」
「橋の幅を考えれば無理だ」
「なら、戦う時だけは数の差が小さくなる?」
「ああ」
「少しは何とかなりそうですね」
「戦っている間だけはな」
「どういう意味です?」
「敵は疲れた兵を後ろの兵と交代出来る。こちらには、その余裕がない」
「……そういうことですか」
橋が狭ければ、一度に戦える人数は限られる。
千五百の敵全員が、同時に剣や槍を振るうことは出来ない。
しかし後ろには、まだ戦っていない兵が残り続ける。
こちらは一晩中、住民の避難や上流の戦いに動き続けていた。
既に死傷者も出ている。
人数だけでなく、疲労の差も大きかった。
「男爵軍で、今戦える者は?」
「四百六十ほどです」
ハーゲンが答える。
右腕には、昨夜の戦いで受けた浅い傷を隠すように布が巻かれていた。
「橋の正面へ置けるのは?」
「三百五十。上流と城の守備を空にするわけにはいきません」
「負傷者の護送にも兵が必要だ」
ローゼンハイム男爵が言う。
「敵が千五百と聞いて、徴集兵の一部が怯えている」
「逃げた者は?」
「今のところはいない。ただ、顔を見れば分かる」
俺も橋の下を見る。
男爵軍の兵たちは槍や盾を持ち、決められた場所へ並んでいた。
列は崩れていない。
それでも、敵陣へ向けられた表情には緊張が浮かんでいる。
「三倍いるぞ」
「援軍はまだなのか」
「本当に橋だけで止めるのか?」
小声で話す兵たちの声が、塔の下から聞こえてくる。
「兵を立たせ続けるな」
ハーゲンが部下へ命じた。
「第一線へ出る者以外は座らせろ」
「敵が目の前にいるのにですか?」
「眠れなくても目を閉じさせろ。槍を抱えて立っているだけでは、戦う前に疲れる」
「はい」
兵が走っていく。
休めと言われても、本当に眠れる者は少ないだろう。
それでも立ち続けるよりはいい。
ヴァルナー伯軍は橋から弓の届かない場所で進軍を止め、陣形を整え始めた。
中央の歩兵が八百ほど。
左右に分かれた弓兵が三百。
後方の騎兵が二百。
残りは予備兵、工兵、輸送を担う者たちだろう。
すぐ攻撃する様子はなかった。
「夜通し進んできた兵を休ませてる?」
「それもある」
マティアスが答える。
「他には?」
「こちらの動きを見ている」
「橋を壊すかどうか?」
「ああ」
「ヴァルナー伯は、橋を壊されたくないんですよね」
「橋を壊せば、ここまで来た意味がなくなる」
敵にも自由に出来ないことがある。
兵数で圧倒しているからといって、橋ごと燃やしたり壊したりするわけにはいかない。
シュヴァルツ伯軍が北へ進むためにも、西部から物資を運ぶためにも、橋は無傷で必要なのだ。
「だったら、壊すふりをすれば攻撃を止められませんか?」
「一度ならな」
「一度だけ?」
「こちらに本当に壊すつもりがないと分かれば、二度目は通じん」
「本当に壊すかもしれない状態を残す必要がある?」
「そういうことだ」
橋の中央付近では、石工たちが工具と足場を確認している。
命令が出れば、補修された箇所の石を外し始める。
まだ実際には手を付けていない。
橋を守るのか。
壊すのか。
その選択肢は、今も両方残されていた。
敵陣から、一騎の騎兵が近づいてくる。
槍の先には白い布が結ばれていた。
「使者です!」
塔の兵が声を上げる。
「一人だけ通せ」
男爵が命じた。
「弓兵には射るなと伝えろ」
使者は橋の南側で馬を降り、徒歩で第一防衛線の手前まで来た。
◇ ◇ ◇
「ヴァルナー伯ルドルフ閣下より、ローゼンハイム男爵へ最後の勧告をお伝えする」
使者は四十歳前後の騎士だった。
剣は腰に差したままだが、兜と盾は置いてきている。
橋の北側には、ローゼンハイム男爵、マティアス、ユリウス、ハーゲン、俺が並んでいた。
「聞こう」
男爵が答える。
「男爵が橋を開き、レオンハルト側との契約を破棄されるならば、ヴァルナー伯閣下は男爵家の所領と爵位を保証される」
「シュヴァルツ伯ではなく、ヴァルナー伯が保証するのか?」
「伯爵閣下は、シュヴァルツ伯閣下より西部軍の指揮を任されております」
「続けろ」
「男爵軍は武器を置き、橋の北側へ退くこと。兵士と領民の安全は保証される。橋と城は、戦が終わるまでヴァルナー伯軍が管理する」
「城まで渡せと?」
「一時的な措置です」
「戦が終わった後、本当に返されるのか?」
「ヴァルナー伯閣下の名誉に懸けて」
「その名誉を、誰が保証する?」
使者の表情が僅かに強張る。
「男爵。言葉が過ぎるのでは」
「橋と城を渡した後、約束を破られれば、私には抗う兵も場所も残らない。確認するのは当然だ」
「伯爵閣下は約束を破られる方ではありません」
「なら、シュヴァルツ伯の署名と印を付けた書状を出せ」
「今からでは間に合いません」
「そうだろうな」
男爵の声は落ち着いていた。
「まだ条件があります」
「言え」
「マティアス・クレーマー、ユリウス・フォン・カレンベルク、アレク・ハルトマン。この三名を捕虜として引き渡していただく」
「俺も?」
思わず声が出た。
使者がこちらを見る。
「エルツェンでシュヴァルツ伯閣下の軍へ抵抗し、現在もレオンハルト側のために動いていると聞いている」
「そこまで大物じゃないと思うんですけど」
「アレク」
ユリウスから注意される。
「はい」
男爵が使者を見る。
「客人を売れば、領地を守れると言うのか?」
「男爵家と領民を守るための、賢明な判断かと」
「私が橋を開いた後、その条件が守られる保証はない。しかも今いる客人を敵へ渡せば、今後誰が私の言葉を信じる?」
「拒否されると?」
「橋は、定めた条件を守って通る者へ開く。兵を率いて奪いに来た者へ渡すつもりはない」
使者はしばらく男爵を見ていた。
「次にお話しする時には、同じ条件が示されるとは限りません」
「次に話せるなら、その時に聞こう」
「……承知しました」
使者は一礼し、南岸へ戻っていった。
「大丈夫なんですか?」
俺は敵陣へ戻る使者を見ながら聞いた。
「何がだ?」
「所領も領民も守るって言ってました」
「私たちを引き渡せという条件もありましたよ」
ユリウスが言う。
「分かってますけど」
「橋と城を渡した後、兵士の安全を守ると約束されても、確認する方法はない」
男爵が答える。
「ヴァルナー伯が約束を守る可能性もある。だが、破られた時には何も残らん」
「もし本当に守るつもりだったら?」
「それでも、客人を売って得た平穏は長く続かん」
男爵は橋の南側を見る。
「それに、奴らは私が断ることも考えている」
使者が敵陣へ戻ると、兵たちが動き始めた。
最初から、降伏だけを期待していたわけではないらしい。
「すぐ攻めなかったのは、兵を休ませるためですか?」
俺が聞く。
「それもある」
マティアスが答えた。
「他には?」
「ヴァルナーは、無傷で橋を得たい。男爵が自分から開けば、兵も時間も失わずに済む」
「交渉で取れるなら、一番安い?」
「ああ」
「駄目なら兵で取る」
「そのための千五百だ」
敵陣で太鼓が鳴った。
ドン。
ドン。
男爵軍の兵たちが立ち上がる。
橋を巡る本格的な戦いが始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
「アレク。矢の残数を確認しろ」
「俺がですか?」
「ああ」
「第一線には?」
「ハーゲンがいる」
「俺も前で戦えますよ」
「知っている」
「なら、どうして」
「剣を振るう者は他にもいる。矢、水、交代出来る兵の数を把握し、必要な場所へ伝える者は少ない」
「俺がいなくても出来るんじゃ」
「それを決めるのはお前ではない」
「……はい」
俺に与えられたのは、第一防衛線と第二防衛線の間を動く役目だった。
矢の数。
火を消すための水樽。
負傷者を運ぶ担架。
交代出来る兵。
敵の攻撃ごとの損害。
それらを確認し、マティアスとハーゲンへ知らせる。
第一防衛線は橋の南寄りに作られている。
石と土を積んだ荷車を左右から斜めに置き、中央には三、四人が通れるだけの隙間を残していた。
車輪は外され、荷台には濡らした獣皮が掛けられている。
障害の後ろに槍兵六十。
さらに後方に弓兵が配置されていた。
第二防衛線は橋の北寄り。
同じように荷車で道を狭め、北側の関門と塔から弓兵が援護する。
こちらが最後の守りだ。
「矢は?」
俺は倉庫から運ばれた束を数えている書記へ聞いた。
「橋の上に三千八百。北側の倉庫に予備が二千ほどあります」
「全部同じ矢ですか?」
「いいえ。男爵軍の物と、猟師や村から集めた物が混じっています」
「弓に合わない物は分けてください。使えない矢を前へ運んでも邪魔になります」
「分かりました」
「水樽は?」
「第一線に十二、第二線に十八」
「第一線の獣皮が乾いたら、少しずつ掛け直してください。全部一度に使わないように」
「はい」
「担架は?」
「八台です」
「足りないかもしれません。扉を外して、代わりに使えるようにしてください」
命令を出しながら、敵陣を見る。
ヴァルナー伯軍の弓兵が前へ出てきた。
「矢が来るぞ!」
男爵軍の兵が盾を上げる。
ヒュン、ヒュンという音が空から近づいてきた。
矢が橋の石へ当たり、乾いた音を立てる。
何本かは川へ落ちた。
敵の弓兵は、こちらの位置と距離を測っているようだった。
男爵軍の弓兵が射返す。
「まだ遠い!」
ハーゲンが叫んだが、既に何十本もの矢が放たれていた。
多くは敵の手前へ落ちる。
「射るな!」
俺も声を上げた。
「でも敵が来る!」
「届いてない! 矢を捨ててるだけです!」
実戦経験の少ない弓兵は、敵が動くと不安になる。
自分だけ射たずに待つことへ耐えられない。
「距離を決める必要があります」
俺はハーゲンのところへ走った。
「敵がどこまで来たら射るか、全員に分かるようにします」
「どうやってだ?」
橋の欄干を見る。
「布を結びます。あそこを越えるまで射つなと」
「色は?」
「白なら見えます」
「三か所に付けろ。距離は弓兵長に決めさせる」
「はい」
兵に白い布を持たせ、橋の欄干へ結ばせる。
最も遠い印は熟練した弓兵用。
中央は一般の弓兵。
最も近い印は、弓に慣れていない者でも確実に届く距離だ。
「白い布を越えるまで射つな!」
弓兵長が叫ぶ。
「命令より先に射た者は後列へ下げる!」
これなら、細かな距離を理解出来なくても判断出来る。
敵陣の太鼓が速くなる。
ドン、ドン、ドン。
盾を持った歩兵が前進を始めた。
最初の攻撃が来る。
◇ ◇ ◇
敵歩兵は、およそ二百。
先頭の兵たちは大きな盾を持ち、その後ろに槍兵が続いている。
橋の南側へ入ると、隊列は自然に縦長になった。
一度に並べるのは十人ほど。
荷車の障害まで来れば、さらに三、四人しか並べなくなる。
「射るな!」
弓兵長が繰り返す。
敵は盾を重ねながら進んでくる。
男爵軍の兵たちが弓を引き絞る。
まだ遠い。
一本目の白い布を越える。
熟練した弓兵が矢を放った。
ヒュン!
敵の盾へ矢が当たる。
何本かは盾の隙間を抜け、後ろの兵へ刺さった。
それでも隊列は止まらない。
二本目の印を越える。
「一斉射撃!」
何十本もの矢が飛んだ。
敵の先頭が倒れる。
その後ろにいた兵が乗り越えようとして、隊列が詰まった。
倒れた兵を橋の外へ押し出す余裕もない。
「進め!」
敵側から怒声が響く。
後ろから押されるようにして、先頭が第一防衛線へ近づく。
「槍を構えろ!」
ハーゲンの命令で、荷車の隙間から何本もの槍が突き出された。
ガンッ。
槍先が盾に当たる。
敵も槍を突き返すが、荷車と積まれた石が邪魔になり、自由には振るえない。
対する男爵軍は、障害の後ろから槍を出せる。
「押せ!」
「隙間を開けるな!」
「負傷者を後ろへ!」
橋の中央に怒声と金属音が響く。
敵の先頭が倒れても、後ろから新しい兵が押し出される。
逃げようとしても、後ろが詰まって戻れない。
狭い場所で数を増やせば、強くなるとは限らない。
後方にいる兵には、前で何が起きているのかさえ見えない。
第一防衛線の槍兵が肩へ矢を受けた。
「交代!」
俺は後ろにいた兵を呼ぶ。
「前へ!」
「俺が?」
「早く!」
負傷者を下がらせ、代わりの兵を入れる。
別の場所では、盾を失った兵が後ろへ運ばれていた。
矢の束を持った者が、橋の上を走る。
「第一線へ矢を二束!」
「水樽を一つ前へ!」
「担架を持ってこい!」
全体を見ているつもりでも、次から次へと声を掛けられる。
何が足りないのか。
どこで兵が倒れたのか。
考えている間にも状況が変わる。
「右側が押されています!」
伝令が叫んだ。
見ると、敵の兵が荷車の端へ取り付き、積まれた石を引き出そうとしている。
「ハーゲンさん!」
「見えている!」
ハーゲンが予備の兵を右側へ送る。
俺も走った。
荷車の横から、敵兵の腕が伸びている。
剣を抜き、その腕を狙って振る。
「ぐあっ!」
敵兵が手を引いた。
その隙に、男爵軍の兵が槍を突き込む。
「アレク殿、後ろへ!」
「まだ」
「全体を見る役でしょう!」
近くの兵に言われた。
マティアスと同じことを言われるとは思わなかった。
「分かりました!」
俺は敵の盾を剣で叩き、距離を作ってから下がった。
剣を振るえば、目の前の一人は止められるかもしれない。
だが、その間に別の場所で矢がなくなり、水樽が倒れ、負傷者を運ぶ者が足りなくなる可能性がある。
今の俺に任されているのは、目の前の一人だけを見る仕事ではなかった。
敵の太鼓が変わる。
撤退の合図らしい。
歩兵が少しずつ下がり始めた。
「追うな!」
ハーゲンが叫ぶ。
「防衛線を離れるな!」
男爵軍から歓声が上がった。
だが敵は、しばらくすると再び隊列を整えた。
二度目の攻撃が来る。
そして、それを防ぐと三度目が来た。
同じ二百人ではない。
疲れた兵を下げ、新しい兵を前へ出している。
こちらは同じ兵が戦い続けていた。
◇ ◇ ◇
三度目の攻撃が退いた時には、太陽がかなり高くなっていた。
第一防衛線は残っている。
男爵軍の兵たちから、再び歓声が上がった。
「喜ぶのはまだ早い!」
ハーゲンが怒鳴る。
「敵は全軍を出していない! 配置を戻せ!」
敵が使ったのは、全体の一部だけだ。
後方には、まだ大勢の兵が整然と並んでいる。
「損害は?」
マティアスが聞く。
俺は書記から受け取った記録を見る。
「死者五、重傷者四、軽傷者が十人ほどです。まだ増えるかもしれません」
「敵は?」
「橋の上で倒れた者だけなら三十以上。でも、負傷者は向こうへ運ばれています」
「矢は?」
「橋に運んだ分の四分の一近くを使いました」
「最初の射撃が無駄だったな」
「はい」
「水は?」
「第一線の四樽を使いました。獣皮も乾き始めています」
「補充しろ。ただし予備を全て出すな」
「はい」
俺は矢を保管している場所へ走る。
弓兵の何人かは、既に腕を押さえていた。
弓を引き続けたせいで、指と肩が痛むらしい。
「交代出来ますか?」
「予備の弓兵は多くない」
弓兵長が答える。
「村から集めた者ならいるが、狩りに使う短弓しか扱えん」
「近い印まで来た敵だけを狙わせてください」
「分かった」
橋が狭いことで、目の前の攻撃は防げた。
だが敵は交代出来る。
こちらは矢も兵の体力も減っていく。
「橋の上では同じ人数しか戦えなくても」
俺はマティアスのところへ戻りながら言った。
「後ろにいる数が違う」
「ああ」
「だからヴァルナー伯は急ぐ必要がない?」
「こちらが疲れるまで、何度でも攻められる」
「このまま同じ攻撃をされたら?」
「同じ攻め方を続けてくれれば、まだ楽だっただろうな」
「変えてきますか?」
「変えない理由がない」
敵陣を見る。
最初の攻撃に参加していなかった兵たちが、何かを運び始めている。
大きな木盾。
荷車。
藁や枝を積んだ台車。
「あれ、何をするんです?」
「風を見ろ」
南から北へ風が吹いている。
敵兵が橋の南側で、台車に火をつけた。
炎はそれほど大きくない。
代わりに、白く濃い煙が上がり始めた。
「火攻め?」
「違う」
マティアスが答える。
「橋を燃やすつもりではない。こちらから見えなくするつもりだ」
湿った藁や枝を混ぜているらしい。
煙は風に流され、橋の上へ広がっていく。
「弓兵、射撃準備!」
弓兵長が叫ぶ。
「待ってください!」
俺は止めた。
「見えないまま射たら、第一線の味方に当たります!」
煙の向こうに敵の姿は見えない。
大きな盾を持った兵が進んでいるらしいが、輪郭が僅かに見えるだけだ。
矢を射ても、どこへ飛ぶか分からない。
「第一線へ水を!」
兵たちが樽の水を獣皮へ掛ける。
煙で目が痛い。
咳き込む者も増えていく。
敵が近づいているはずなのに見えない。
やがて、煙の向こうから音が聞こえた。
ガン。
ガン。
木を叩く音。
続いて、石が橋へ落ちる音がする。
ゴロッ。
誰かが声を合わせて綱を引いていた。
「障害を壊してます!」
俺は叫んだ。
「見えるのか?」
ハーゲンが聞く。
「見えません。でも音がします!」
敵は長い鉤の付いた棒や綱を使い、第一防衛線の荷車を崩そうとしている。
車輪は外してある。
そのまま動かすことは出来ない。
なら、荷台を壊し、中に積まれた石と土を少しずつ落とせばいい。
「槍兵、隙間を守れ!」
ハーゲンが第一線へ入る。
煙の中で再び接近戦が始まった。
敵の姿は、近づくまで見えない。
荷車の隙間から、突然槍が突き出される。
男爵軍の兵が一人、腹を刺されて倒れた。
「前へ出すぎるな!」
「右の荷車が動きます!」
「綱を切れ!」
敵が掛けた鉤付きの綱へ、男爵軍の兵が斧を振り下ろす。
一本は切れた。
だが、別の綱が荷台へ掛けられる。
煙の向こうから大勢で引かれ、石を積んだ荷車が僅かに傾いた。
「水をもっと持ってこい!」
「第一線には残り二樽です!」
「第二線から一つ回せ!」
「駄目です!」
俺は思わず止めた。
「第二線の分まで使ったら、次に火を掛けられた時に消せません!」
「では、この煙をどうする!」
「煙は水を掛けても全部消えません!」
炎を消せても、煙を出している台車は南側にある。
こちらから近づくことは出来ない。
やがて荷車の一台が大きく傾いた。
ズシン!
積まれていた石が橋の上へ崩れ落ちる。
敵兵がその隙間へ殺到する。
「押し返せ!」
ハーゲンが槍を振るう。
男爵軍も必死に抵抗する。
まだ防衛線は完全には破られていない。
「第一線を下げる」
マティアスが言った。
ハーゲンが振り返る。
「まだ持ちます!」
「守る場所を間違えるな」
「ここを捨てれば、橋の半分を取られます」
「兵を失えば第二線も守れん」
「しかし」
「第一線は敵を消耗させるために作った。最後まで死ぬ場所ではない」
ハーゲンが煙の向こうを見る。
ここで退けば、南側の関門と橋の半分を失う。
だが守り続ければ、第一線の六十人が逃げられなくなる可能性がある。
「撤退する」
ハーゲンが決めた。
「鐘を鳴らせ!」
「合図は?」
「短く三度だ!」
俺は橋の北側に設置された鐘へ走った。
途中で負傷者を運ぶ兵とぶつかりそうになる。
「道を空けろ!」
鐘へ手を伸ばす。
カン。
カン。
カン。
短く三度。
第一防衛線からの撤退を知らせる合図だ。
「最前列から逃げるな!」
ハーゲンの声が煙の中から響く。
「十人ずつ下がれ! 弓兵は煙の切れ間を狙え!」
最初の十人が、負傷者を連れて第二線へ走る。
残った兵は槍を構え、敵を止める。
次の十人が下がる。
全員が一斉に逃げれば、背中から追われる。
決めた順番に少しずつ退く。
「右側、下がれ!」
「左はまだだ!」
「負傷者を先に通せ!」
煙の中から兵たちが現れる。
顔を煤で汚し、何人かは血を流していた。
最後に残った兵たちが、荷車の一台へ綱を掛ける。
「引け!」
横倒しになった荷車が、橋の上へ完全に倒れた。
追ってきた敵の進路を一時的に塞ぐ。
ハーゲンも煙の中から戻ってきた。
「全員か?」
「三人足りません!」
「戻るな」
「でも」
「今戻れば、さらに死ぬ!」
ハーゲンが振り返らず命じる。
「第二線を閉じろ!」
男爵軍の兵が、北側の荷車を動かす。
中央に残していた通路がさらに狭められた。
第一防衛線の撤退が完了する。
煙の向こうから、敵の歓声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
風向きが少し変わり、煙が薄れた。
橋の南半分には、ヴァルナー伯軍の兵が立っている。
第一防衛線の荷車は壊され、石と土が橋の上へ散らばっていた。
敵兵がそれを横へ退け、後続が進める道を作っている。
南側の関門には、ヴァルナー伯家の旗が掲げられた。
「取られましたね」
「ああ」
マティアスが答える。
「第一線を」
「だが兵の多くは戻った」
「戻れなかった人もいます」
「分かっている」
この日の戦いで、男爵軍は新たに十二人が死亡していた。
重傷者は十人。
軽傷者は二十人を超えている。
敵は橋の上だけでも四十人近くが倒れていた。
負傷者はさらに多いだろう。
数だけを見れば、敵の方が多く失っている。
だが千五百の敵と、五百に満たない味方では、一人の重さが違う。
「矢は?」
マティアスが聞く。
「残りは、橋にある分と倉庫の予備を合わせて四千五百ほどです」
「水は?」
「第二線に十七樽。北側の井戸から補充しています」
「戦える兵は?」
「負傷者を除けば、四百二十前後です。橋正面には三百ほど」
「敵はまだ千四百以上いる」
「はい」
太陽は、もうほとんど真上にある。
レオンハルトの騎兵二百は、昼までに到着する予定だった。
俺は何度も東の街道を見る。
旗は見えない。
「まだですか?」
「まだだ」
ユリウスが答える。
「何かあった?」
「分からん」
その時、東側から一騎の馬が駆けてきた。
レオンハルトの印を付けた伝令だ。
「ユリウス様!」
「援軍はどこだ?」
「こちらへ向かっております。しかし北東の街道で、複数の倒木が道を塞いでいます」
「自然に倒れたのか?」
「いえ。幹には斧で切られた跡があります。道の両側へ重なるように倒されています」
「敵の工作か」
「おそらく」
「騎兵なら迂回出来ないのか?」
「森が深く、二百騎全てが通れる道はありません。現在、木を切り分けて道を開いております」
「到着は?」
「少なくとも二刻は遅れるかと」
「二刻……」
昼に来るはずだった援軍が、午後まで来ない。
昨夜、上流から渡ろうとした敵の別働隊。
あるいは、それ以前から入り込んでいた者が街道を塞いだのだろう。
渡河を防いでも、敵の工作を全て止められたわけではない。
「歩兵八百は?」
「別の道を進んでおりますが、到着は早くても夜です」
「分かった。騎兵隊へ急げと伝えろ。ただし、無理に森へ入るな。待ち伏せを警戒しろ」
「はっ」
伝令が馬を返す。
「来る予定だったんですけどね」
俺が言うと、ユリウスが東の街道を見る。
「予定は予定だ」
「分かってます」
援軍は、到着するまで戦力に数えてはいけない。
何度も聞いた言葉だ。
それでも、今だけは予定通り来てほしかった。
「マティアス」
ローゼンハイム男爵が橋を見る。
「石を外し始めるべきではないか?」
「準備は出来ています」
「そうではない。実際に橋を崩し始めるべきではないかと聞いている」
「まだです」
「第一防衛線は失った。次に第二線を抜かれれば、北側関門まで敵に取られる」
「第二線は残っています」
「次の攻撃で守れる保証はない」
「橋を壊せば、レオンハルト殿下の援軍も使えません。西部からの荷も止まります」
「敵に奪われれば、どちらにしても使えん」
「だから、次の攻撃を見て決めます」
「間に合わなければ?」
「橋を失います」
「またそれか」
男爵の声には苛立ちがあった。
当然だ。
自分の領地と橋が失われようとしている。
「マティアス様」
俺は聞いた。
「本当に、まだ壊さなくていいんですか?」
「壊すのは一度しか出来ん」
「でも、遅れたら」
「早く壊しても元には戻せん」
守り切れるかもしれない。
援軍が間に合うかもしれない。
その可能性を残すため、橋はまだ壊さない。
だが待ちすぎれば、敵に奪われる。
決断を遅らせることと、選択肢を残すことは似ている。
違いが分かるのは、結果が出た後なのかもしれない。
敵陣から、再び太鼓の音が聞こえた。
今度は朝より近い。
ドン。
ドン。
ドン。
橋の南半分で、ヴァルナー伯軍が新たな隊列を作っている。
先頭には、大きな木盾を並べた兵。
その後ろには、湿った藁を積んだ台車。
さらに後方から、太い丸太を縄で吊り下げた道具が運ばれてきた。
「あれは?」
「関門の扉を壊すためのものだ」
ハーゲンが答える。
「破城槌?」
「そこまで大きくはない。だが荷車の障害や木の扉なら壊せる」
敵は第一防衛線で得たものを使っている。
煙で弓兵の視界を奪う。
大盾で矢を防ぐ。
鉤と綱で障害を崩す。
今度はさらに、丸太を使って第二防衛線と北側関門を壊すつもりだ。
「今度は試すだけじゃない」
俺が言うと、マティアスが頷いた。
「ああ。橋を取るつもりだ」
「援軍は?」
「まだ来ない」
「橋を壊す準備は?」
「命令があれば、石工が始める」
橋の南半分には、既にヴァルナー伯軍の旗が立っている。
残っているのは、北側の第二防衛線と関門だけだった。
その向こうで、敵の太鼓が鳴る。
ドン。
ドン。
ドン。
今度の音は、朝よりずっと近かった。
第六話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、ヴァルナー伯軍本隊によるグリュン川大橋への最初の攻撃を描きました。
ヴァルナー伯は、攻撃を始める前にローゼンハイム男爵へ降伏を求めています。
橋と城を明け渡せば、男爵家の所領と爵位、兵士や領民の安全を保証する。
ただし、マティアス、ユリウス、アレクの三人は捕虜として引き渡す。
ローゼンハイム男爵は、自分の客人を敵へ渡して得た平穏では、今後誰からも信用されなくなると判断して要求を拒否しました。
また、橋と城を渡した後では、約束が破られても抵抗する手段が残りません。
ヴァルナー伯が本当に約束を守るつもりだった可能性はあります。
それでも、全てを相手へ預けなければ成立しない保証を、男爵は選びませんでした。
戦闘では、橋の幅を荷車によってさらに狭めたことで、敵の兵数を一度に生かせない状態を作っています。
しかし、狭い場所で瞬間的な兵数差を減らせても、全体の兵力差が消えたわけではありません。
ヴァルナー伯軍は、疲れた兵を何度でも交代できます。
一方の男爵軍は、同じ兵が戦い続けなければなりません。
さらに、実戦経験の少ない弓兵は恐怖から敵が遠いうちに射始め、大切な矢を無駄にしてしまいます。
そこでアレクは橋の欄干へ白い布を結び、敵がその位置を越えるまで射たないという、誰にでも分かる基準を作りました。
アレクは今回、最初から第一線で剣を振るう役ではありません。
矢、水、交代兵、負傷者の搬送を確認し、必要な場所へ人と物を動かす役を任されています。
目の前の一人を倒すことだけではなく、橋全体を守るために何が足りないのかを見ることも、戦場で必要な仕事です。
最初の攻撃は、荷車の障害と槍兵によって防ぐことができました。
しかし敵は同じ失敗を繰り返しません。
湿った藁や枝を燃やし、炎ではなく煙を橋へ流す。
弓兵の視界を奪った上で、鉤、綱、斧を使い、第一防衛線の荷車を少しずつ崩しました。
第一防衛線は、最後まで守って全滅するための場所ではありません。
敵を消耗させ、時間を稼いだ後に退くための場所です。
マティアスは橋の半分を失うことになっても、兵を第二防衛線へ下げる判断をしました。
敵に多くの損害を与えた一方、男爵軍もさらに死傷者を出しています。
そして昼になっても、レオンハルトの騎兵二百は到着しません。
北東の街道では人為的に木が倒され、援軍の進軍が妨害されていました。
橋の南半分は、既にヴァルナー伯軍の手にあります。
残されたのは、第二防衛線と北側関門。
敵は煙と大盾に加え、障害や関門を破壊するための丸太まで準備しています。
次話では、橋を守り続けるのか、それとも敵に奪われる前に壊すのか。
レオンハルトの援軍が遅れる中、最後の防衛線を巡る戦いが始まります。




