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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第四篇 乱世に抗う力

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第五話 川を渡る影

橋の南西には、ヴァルナー伯軍の先遣隊。

上流の森には、浅瀬から川を渡ろうとする別働隊。

男爵軍を上流へ向かわせれば、橋の守りが薄くなる。

しかし橋に兵を残せば、敵に背後へ回り込まれる可能性があります。

暗闇の中で見えるのは、対岸に並べられた松明と僅かな人影だけ。

それが敵の全てなのか、こちらを誘うために見せられたものなのかも分かりません。

レオンハルトの援軍が到着しない中、アレクはハーゲン率いる男爵軍とともに上流へ向かいます。

橋を巡る最初の戦いは、正面ではなく、暗い川の中から始まろうとしていました。

 上流の森で揺れる松明を見ながら、俺たちは地図を囲んでいた。

 場所はグリュン川大橋北側の関門に設けられた小さな詰所だ。

 窓の外では、男爵軍の兵たちが荷車へ石を積み、橋の上に障害を作り続けている。南西の丘にはヴァルナー伯軍の先遣隊が陣取り、こちらの動きを見ていた。

「上流へ百五十を出すべきです」

 ハーゲンが地図を指す。

「浅瀬を渡られれば、橋の背後へ回られます。エルツェンから来る援軍の道も塞がれる」

「百五十を動かせば、橋には三百五十しか残らん」

 マティアスが答える。

「敵が上流へ二百を出しているなら、少ない兵では止められない」

「二百いると、誰が確認した?」

「松明の数と、斥候の報告から見た判断だ」

「見えた松明の数と兵数が同じとは限らない」

「少なければよい。だが、実際にはもっと多かったらどうする?」

「だから確かめる」

 二人の意見がぶつかる。

 どちらも間違ってはいない。

 上流へ兵を出さなければ、敵が川を渡る。

 出しすぎれば、橋の正面が薄くなる。

「九十だ」

 マティアスが決めた。

「常備歩兵三十、弓兵三十、騎士と従士二十。案内役と伝令を合わせて九十を出す」

「指揮は?」

「お前に任せる」

「分かった」

 ハーゲンは短く答えた。

「アレク」

「はい?」

「お前も行け」

「俺もですか?」

「ああ」

「橋の準備は?」

「お前がいなくても進む」

「はっきり言いますね」

「橋の守りは私が見る」

 マティアスは上流の浅瀬へ指を置いた。

「暗闇では、見えたものより見えなかったものが重要になる。敵の動きを見ろ」

「夜なのに?」

「だからだ」

「簡単に言うなぁ」

「私も同行する」

 ローゼンハイム男爵が言った。

「男爵は橋に残ってください」

 反対したのはユリウスだった。

「なぜだ?」

「男爵が上流へ向かったと知られれば、橋の守備隊と避難した領民が不安になります。ここには男爵の命令が必要です」

「だが」

「上流はハーゲンに任せるべきです」

 男爵がハーゲンを見る。

「守れるか?」

「守ります」

「出来なければ?」

「渡った敵が橋へ着く前に追いつきます」

 ハーゲンの声に迷いはなかった。

「分かった」

 男爵が頷く。

「私は橋に残る」

「ユリウス」

 マティアスが呼ぶ。

「何だ?」

「レオンハルト殿下の援軍との連絡を続けろ。騎兵だけでも、到着時刻が分かれば知らせてほしい」

「承知した」

「上流と橋の間には伝令を四人置く。何かあれば、すぐ互いに知らせる」

 俺たちは必要な装備だけを持ち、上流の浅瀬へ向かうことになった。

 ◇ ◇ ◇

 橋を離れると、すぐに篝火の光が届かなくなった。

 男爵領の猟師二人を先頭にして、兵たちが暗い森の中を進んでいく。

 こちらの位置を敵へ教えないため、松明は使わない。

 頼りになるのは、木々の間から僅かに差し込む月明かりだけだった。

 前を歩く兵の背中さえ、少し離れると見えなくなる。

「何も見えません」

 俺は声を落として言った。

「声を出すな」

 ハーゲンに注意される。

「川の音で聞こえないんじゃ」

「確かめたのか?」

「……いいえ」

「なら黙れ」

 聞こえるのは、川の流れる音と、兵が草や枝を踏む音だ。

 時々どこかで木の枝が折れる。

 そのたびに兵たちが足を止め、槍や弓を構えた。

「敵か?」

「違う。前の者が枝を踏んだだけだ」

「後ろから何か聞こえた」

「味方だ」

 暗闇の中では、何でも敵に思える。

 男爵軍の多くは実戦経験がない。今回上流へ連れてきたのは常備兵を中心としたが、それでも夜戦を経験した者は少なかった。

 前方で、ハーゲンが足を止めた。

「五人ずつ組を作れ」

 声を抑えながら命じる。

「組から離れるな。前の者の肩が見えなくなったら、勝手に進まず止まれ。敵を見つけても、一人で追うな。声を出すのは組長だけだ」

 命令は単純だった。

 敵を見つけた時にどう戦うかではない。

 まず暗闇の中で迷わず、味方同士で斬り合わないための命令だ。

 怖がるなと言っても、恐怖は消えない。

 なら、怖いままでも何をすればいいか分かるようにする。

 ハーゲンが実戦を知っていることが、少し分かった気がした。

 一刻ほど進むと、森の向こうに敵の松明が見えてきた。

「止まれ」

 猟師の一人が手を上げる。

「この先が浅瀬です」

 俺たちは木々の間から川を見た。

 橋の周辺より川幅は狭い。

 普段は大人の腰ほどの深さだと聞いていたが、雨で水位が上がり、流れも速くなっている。場所によっては胸の近くまで水に浸かるかもしれない。

 対岸には、十数本の松明が並んでいた。

 火の後ろに人影が動いている。

「二百はいる」

 近くの兵が呟いた。

「もっとだ。森の中にもいる」

「静かにしろ」

 ハーゲンが兵たちを北岸の森へ配置する。

「弓兵は三列。前の列が射たら下がり、次が前へ出ろ。敵が川へ入っても、合図まで射るな」

「いつ撃つんです?」

 俺が聞く。

「川の中央へ入った時だ」

「岸にいるうちじゃなくて?」

「岸なら逃げられる。川の中なら前にも後ろにも動きにくい」

「なるほど」

 浅瀬へ近づく敵を見ながら、俺たちは息を潜めた。

 だが、すぐに川へ入ってくる者はいない。

 松明は対岸に並んだままだ。

 人影は時々動いている。

 それでも、何かがおかしかった。

「……」

 俺は目を凝らす。

 松明の間隔が揃いすぎている。

 人が手に持っているものもあるが、何本かは地面へ立てられていた。

 兵の影も、同じ場所を行ったり来たりしている。

「どうした?」

 隣にいたハーゲンが聞く。

「見せるために置いてるんじゃないですか?」

「何を?」

「あの火です」

「敵が松明を使うのは普通だ」

「でも、渡るならもっと動きませんか? ずっと同じ場所にあります」

「準備しているだけかもしれん」

「馬も見えません」

「森の中にいるのだろう」

「兵の声も少なすぎる気がします」

 川の音で聞こえないだけかもしれない。

 俺の思い違いという可能性もある。

「見えてる人数より少ないんじゃないですか?」

「敵がいることは確かだ」

「います。でも、俺たちにここから渡ると思わせたいだけかもしれない」

 ハーゲンは対岸を見た。

「では、どこから渡る?」

「それは分かりません」

「分からんのか」

「分かったら最初から言ってますよ」

 怒られるかと思ったが、ハーゲンは俺から目を離した。

「猟師を一人、さらに上流へ出せ」

「一人で?」

「兵を三人付ける。川岸だけを調べろ。戦うな」

 案内役の猟師と兵たちが、森の中へ消えていく。

 俺たちはその間も、対岸の松明を見続けた。

 やがて、敵兵の一部が川岸へ近づき始める。

「来ます」

「まだ射るな」

 敵は盾を持ち、浅瀬の手前で列を作る。

 だが川へは入らない。

 矢が届く距離を測っているようにも見えた。

 しばらくして、森の奥から僅かな足音が聞こえた。

 戻ってきた猟師だった。

「ここから四百歩ほど上流に、別の足跡があります」

「数は?」

「暗くて分かりません。ただ、かなりの人数です。川岸の葦が広く踏み倒されています」

「他には?」

「北岸の木に新しい縄の擦れ跡がありました」

「北岸に?」

「川を越えて投げた縄を、こちらの木へ引っ掛けたのだと思います」

 ハーゲンの表情が変わる。

 敵は既に、さらに上流から川を渡る準備をしていた。

「兵を二つに分ける気ですか?」

 俺が聞く。

「もう分けている」

「見えてる方が少なくて、見えない方が多い」

 対岸の松明は陽動だ。

 こちらの兵を浅瀬の正面へ引きつけ、本隊は別の場所から渡るつもりなのだろう。

「ここへ二十五を残す」

 ハーゲンが決めた。

「弓兵十、槍兵十五。松明を増やし、兵が動いているように見せろ」

「松明を使うんですか?」

「正面の敵へ、こちらが全員残っていると思わせる」

「敵と同じことをする?」

「騙し切る必要はない。我々が動いたと気づかれるまでの時間があればいい」

 残りの六十五人が、さらに上流へ向かう。

 俺もそちらへ同行した。

 ◇ ◇ ◇

 四百歩という距離は、昼なら大したものではない。

 だが暗い森の中では、随分長く感じた。

 音を立てないよう進み、途中で何度も足を止める。

 やがて、川の音に混じって水を掻くような音が聞こえた。

 猟師が低い姿勢になり、前方を指す。

 木々の隙間から川を見る。

 対岸に松明はない。

 それでも月明かりの中で、何かが動いている。

 人影だった。

 敵兵が縄につかまりながら、一人ずつ川へ入っている。

 縄は南岸の太い木から川を横切り、北岸の木へ巻き付けられていた。

 既に何人かは、川の半ばまで進んでいる。

「何人います?」

「川の中に三十ほど」

 猟師が答える。

「対岸の森にもいる。全体は分からん」

「百はいるか?」

 ハーゲンが聞く。

「それくらいは」

 味方は六十五。

 敵は百前後。

 だが敵の多くは、まだ川の向こうか水の中にいる。

「弓兵を左右へ分けろ。歩兵は岸から二十歩下がって待て」

 ハーゲンが小声で命じる。

「敵が岸へ上がっても、勝手に前へ出るな」

 俺たちは川岸の森へ隠れた。

 弓兵が矢をつがえる。

 敵の先頭が、北岸へ近づいてくる。

 水から上がった者は、まだ五人ほどだ。

「撃たないんですか?」

 俺は声を抑えて聞いた。

「まだだ」

「上がってきますよ」

「川へ入った者を増やせ」

「でも」

「岸へ上がった十人より、川の中にいる五十人を狙う」

 敵の先頭が水から上がり、周囲を確認する。

 俺たちは息を潜めた。

 一人がこちらへ近づく。

 暗闇の中で、顔までは見えない。

 足元の小枝が折れた。

 敵兵が止まる。

 こちらを見た。

「今だ」

 ハーゲンが手を上げた。

 ヒュン、ヒュンと矢が闇を切る。

 川の中から叫び声が上がった。

 矢を受けた兵が縄から手を離し、流される。

 後ろにいた兵が避けようとして、別の者とぶつかった。

「二射目!」

 弓兵が後ろへ下がり、次の列が前へ出る。

 再び矢が飛ぶ。

 川の中にいる敵は、盾を十分に構えられない。足場も悪く、前へ進むことも後ろへ戻ることも難しい。

「前へ!」

 ハーゲンの命令で、槍兵が川岸へ進む。

 既に北岸へ上がっていた敵兵が剣を抜いた。

 俺も剣を抜く。

 最初の敵が槍を突き出してきた。

 暗くて穂先が見えにくい。

 身体を横へずらす。

 槍が脇を通り過ぎたところで、柄へ剣を叩きつける。

 バキン。

 木が割れた。

 敵兵が槍を捨て、腰の剣へ手を伸ばす。

 その前に踏み込み、肩口を斬った。

「ぐっ……!」

 倒れたことだけは分かった。

 傷がどれほど深いのか、確かめる余裕はない。

 横から別の影が近づく。

 剣だと思って身構えたが、味方の兵だった。

「アレク殿!」

「味方なら先に声を掛けてください!」

「そんな余裕が――後ろ!」

 振り返る。

 敵の槍が目の前まで迫っていた。

 避け切れない。

 身体を捻った瞬間、横から盾が突き出される。

 ガンッ!

 穂先が盾へ突き刺さった。

 ハーゲンの従士が、敵兵へ剣を振り下ろす。

「前だけを見るな!」

「見えないんですよ!」

「なら味方から離れるな!」

「はい!」

 昼の戦いとは違う。

 敵の数が分からない。

 剣先も、足元も見えにくい。

 川の音で足音は消え、味方の叫び声と敵の声が重なっている。

 神から剣の才能を与えられていても、見えないものまで斬れるわけではない。

「押し返せ! 川岸から離すな!」

 ハーゲンが声を上げる。

 北岸へ上がった敵は二十人ほどだった。

 後ろから続こうとしても、川の中で弓を浴びて進めない。

 それでも敵は簡単には引かなかった。

 対岸から矢が飛んでくる。

「盾を上げろ!」

 味方の一人が胸へ矢を受け、その場へ倒れた。

 別の兵が肩へ刺さった矢を抜こうとしている。

「抜くな! 後ろへ下がれ!」

 俺は叫んだが、聞こえたかは分からない。

 川を見る。

 敵兵は一本の縄につかまりながら渡っている。

 あれがある限り、矢を受けても流されずに進める。

「縄を切れば止まりませんか?」

 近くにいたハーゲンへ聞く。

「切れるならな」

 縄は北岸の太い木へ巻き付けられている。

 だが敵も、その周辺へ矢を集中させていた。

「行きます」

「待て!」

 返事を聞く前に走った。

 二人の兵が後ろからついてくる。

 矢が木へ当たり、乾いた音を立てる。

 俺は身を低くして、縄が巻かれた場所まで進んだ。

 剣を振り下ろす。

 だが、水を吸って強く張られた太い縄は簡単には切れない。

「硬い!」

「縄を斬るな!」

 後ろからハーゲンの従士が叫ぶ。

「木へ回している輪を外せ!」

「先に言ってください!」

 縄は幹へ二重に回され、木の杭と結び目で固定されていた。

 剣先を結び目へ差し込む。

 引いても動かない。

「杭を抜け!」

 一緒に来た兵が杭へ手を掛ける。

「動きません!」

「二人でやれ!」

 俺も剣を収め、杭を掴んだ。

「せーの!」

 力を込める。

 杭が僅かに動く。

 もう一度。

「来ます!」

 兵が川を指す。

 縄を守ろうとする敵が、水を掻き分けながら近づいてきている。

「もう一回!」

 杭が抜けた。

 張り詰めていた縄が幹の周りを滑る。

「離れろ!」

 縄が勢いよく川へ引かれた。

 つかまっていた敵兵がバランスを崩す。

 何人かは対岸へ戻ろうとしたが、流れに足を取られた。縄とともに下流へ流される者もいる。

 全員が溺れたわけではない。

 岸へ泳ぎ着こうとする者。

 仲間に腕を掴まれる者。

 川底へ足をつき、必死に立ち上がる者。

 それでも、渡河の流れは完全に止まった。

「退け!」

 対岸から敵の声が響く。

 北岸へ上がっていた兵も後退を始めた。

「追え!」

 味方の徴集兵が叫ぶ。

「森へ入るな!」

 ハーゲンが止める。

「逃げています!」

「暗闇の森で、道を知る敵を追うな! 隊列を戻せ!」

 追えば、さらに敵が待ち伏せしている可能性がある。

 勝ったと思った瞬間ほど、人は前しか見なくなる。

「弓兵は川岸を警戒! 歩兵は負傷者を集めろ!」

 敵の姿は、少しずつ対岸の森へ消えていった。

 ◇ ◇ ◇

 戦闘が終わると、急に寒さを感じた。

 身体は汗で濡れている。

 手も震えていた。

 恐怖なのか、剣を握り続けたせいなのかは分からない。

 月明かりと僅かな松明を頼りに、死傷者を確認する。

「死者七名!」

「重傷者六名! 歩ける負傷者は十二名です!」

「敵は?」

「北岸に十八。川岸に二人倒れています。流された者は分かりません」

「捕虜は?」

「三人です。一人は傷が深い」

 渡河は防いだ。

 敵より少ない損害で済んだ。

 それでも、味方が七人死んでいる。

 倒れている兵の一人に見覚えがあった。

 名前は知らない。

 だが昼間、南岸の村で種麦を荷車へ積んでいた男だ。

 俺が袋へ村の札を付けるよう頼んだ時、笑って返事をしていた。

 今は目を閉じたまま動かない。

「……」

「アレク殿」

 ハーゲンの従士が呼ぶ。

「負傷者を運びます」

「はい」

「アレク殿?」

「渡河は止めましたよね」

「はい」

「でも、七人死んだ」

「止めなければ、もっと死にました」

「分かってます」

「なら、負傷者を運んでください」

 慰めるつもりはないらしい。

 それでも、今はその方がありがたかった。

「はい」

 俺は重傷者の一人へ肩を貸した。

 痛みに呻く兵を、仲間と一緒に北岸の林へ運ぶ。

 傷を洗い、血を止め、担架を作る。

 死者を運ぶのは、その後になった。

 捕虜の三人にも最低限の手当てが行われた。

「敵を治療するのか?」

 男爵軍の兵が不満そうに言う。

「話を聞く前に死なれては困る」

 ハーゲンが答える。

「こちらの仲間を殺した奴らだ」

「傷を塞ぐことと、許すことは同じではない」

 兵は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。

 重傷を負った捕虜の一人は、矢を抜かれる痛みで意識が混乱していた。

 ハーゲンが尋ねる。

「指揮官は誰だ?」

「……」

「お前たちの目的は、橋の背後へ回ることか?」

 捕虜は答えない。

 だが、別の言葉には反応した。

「援軍の道を塞ぐつもりだったのか?」

 男の目が僅かに動く。

 俺にも分かった。

「それが目的だった?」

「……橋だけではない」

 捕虜が掠れた声を出す。

「何?」

「北の……街道を……」

「何人で塞ぐ予定だった?」

「知らん」

「本隊はいつ来る?」

 捕虜は答えなかった。

 そのまま目を閉じる。

 死んだわけではない。治療をしていた男が呼吸を確認している。

「渡河出来なかった場合は?」

 俺が聞いた。

「何だ?」

 ハーゲンがこちらを見る。

「敵は、川を渡れなかった時のことも考えてたと思います」

「なぜだ?」

「俺たちを上流へ引きつけるだけでも、橋の兵を減らせる」

 男爵軍は五百しかいない。

 そこから九十を上流へ動かした。

 渡河に失敗しても、その間は橋の守りが薄くなる。

「敵は失敗しても意味があるように動いてた?」

「ああ」

 ハーゲンが答える。

「それが作戦だ」

 戦は、成功する前提だけで組み立てるものではない。

 失敗した時にも、別の利益が残るようにする。

 マティアスが橋を守る準備と壊す準備を同時に進めたことと、どこか似ていた。

 その時、下流側の森から馬の音が近づいてきた。

「ハーゲン様!」

 橋から送られた伝令だった。

「橋で何があった?」

「敵の先遣隊が南岸へ接近しました。百五十から二百ほどです」

「攻撃を受けたのか?」

「火矢を射かけられ、南側の関門で小規模な戦闘がありました」

「橋は?」

「守っております。敵は既に丘まで退きました」

「損害は?」

「死者二、負傷者九です」

 こちらを上流へ引きつけた間に、橋の正面でも動いた。

「本気で橋を取るつもりだったんですか?」

「違うだろう」

 ハーゲンが言う。

「では何を?」

「障害物の位置、弓兵の数、こちらが反応するまでの時間。それを確かめた」

「攻撃して、守り方を見た?」

「ああ」

「次は本隊が来る」

 負傷者を橋へ運ぶ準備が始まる。

 歩ける者には肩を貸し、重傷者は担架へ乗せる。

 死者も置いてはいけない。

「正面に残した二十五人は?」

「全員無事です」

「敵は?」

「松明を消して退きました」

 正面の部隊も、目的を果たしたと判断したのだろう。

 俺たちは夜が明ける前に、橋へ戻ることになった。

 ◇ ◇ ◇

 帰り道は、来た時より長く感じた。

 負傷者と死者を運んでいるため、進む速度が遅い。

 誰もほとんど喋らなかった。

 橋が見えた頃、東の空が白み始めていた。

 関門の上には男爵家の旗が残っている。

 橋も壊されていない。

 それを見て、僅かに安心した。

「アレク!」

 北岸でマティアスが待っていた。

「無事か?」

「一応」

「損害は?」

「死者七、重傷者六、軽傷者十二です。橋側でも死者二、負傷者九」

「敵は?」

「渡河は止めました。確認出来た死者は二十。捕虜が三人です」

「上流の敵の目的は?」

「橋の後ろへ回ることと、援軍が来る道を塞ぐこと。それから、俺たちを橋から引き離すことです」

「そこまで分かったか」

「捕虜の反応と、ハーゲンさんの話からです」

「そうか」

 マティアスは担架で運ばれてくる男爵軍の兵を見る。

「まず治療所へ運べ。歩ける者も全員、傷を確認させろ」

「橋の準備は?」

「まだ終わっていない」

「敵は?」

「丘へ戻ったままだ」

 男爵も死傷者のところへ来た。

 死者の顔を一人ずつ確かめる。

 名前を知っている者もいたらしい。

 七人目の前で、僅かに目を閉じた。

「家族へは私から伝える」

 それだけ言って、橋の南側へ視線を向けた。

「援軍は?」

 俺がユリウスへ聞く。

「まだ連絡はない」

「昼には騎兵が来る予定ですよね」

「予定は予定だ」

 前にも聞いた言葉だった。

 援軍は、到着するまで戦力に数えてはいけない。

 その時、南側の監視塔から鐘が鳴った。

 カン、カン、カン。

 一度ではない。

 敵の大部隊を知らせる合図だ。

「何が見えた!」

 ハーゲンが声を上げる。

 塔の兵が南西を指した。

「軍勢です! ヴァルナー伯軍本隊!」

「もう来たのか?」

 予定では、早くても今日の夕方だった。

 俺たちは橋の南側にある塔へ上がった。

 夜が明け始めた平原の向こうから、いくつもの旗が現れる。

 歩兵。

 騎兵。

 弓兵。

 長い隊列が、街道を埋めながら進んでくる。

「夜通し進んだのか」

 ユリウスが言う。

「数は?」

 男爵が聞く。

「先遣隊を合わせれば、千五百前後です」

 マティアスが答える。

 こちらは、一晩で二十人を超える死傷者を出している。

 兵は眠っていない。

 矢も水も、使った分だけ減った。

 避難と防御工事に動き続けた者たちも疲れている。

 その向こうで、ヴァルナー伯軍千五百が陣を作り始めていた。

「騎兵二百は?」

 俺が東の街道を見る。

 旗は見えない。

 馬の蹄の音も聞こえない。

「まだだ」

 ユリウスが答えた。

「歩兵八百は?」

「早くても今夜になる」

「来れば、ですよね」

「ああ」

 上流の渡河は防いだ。

 橋の正面へ来た先遣隊も退けた。

 それでも、勝ったという感覚はなかった。

 川を渡る影を止めたことで、ようやく朝まで生き残っただけだ。

 ヴァルナー伯軍の陣から、太鼓の音が響く。

 ドン。

 少し間を置いて、もう一度。

 ドン。

 男爵軍の兵たちが橋の上へ集まり始める。

 昨夜まで村人の避難に使われていた橋が、今度は兵士の列で埋まっていく。

「休む時間はなさそうですね」

 俺が言うと、マティアスが敵陣を見たまま答えた。

「ああ」

 俺たちは川を渡る影を止めた。

 だが、それは戦いに勝ったのではない。

 これから始まる橋の戦いへ、一晩生き残っただけだった

第五話をお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、グリュン川上流の浅瀬を巡る夜戦を描きました。

対岸に並んでいた松明は、男爵軍を浅瀬の正面へ引きつけるための陽動でした。

敵の主力はさらに上流へ移動し、川へ張った縄を使って、暗闇の中で密かに渡河しようとしています。

アレクは、松明がほとんど動かないことや、見えている人影と物音が合わないことから、その違和感に気づきました。

しかし、敵の策を見破っただけで戦いに勝てるわけではありません。

暗闇では敵と味方の区別が難しく、川の音によって足音や声も消されます。

神から剣の才能を与えられたアレクも、見えない敵の攻撃を全て避けられるわけではありません。

味方から離れれば簡単に命を失う。

夜戦の中で、その現実を改めて経験することになりました。

男爵軍は、敵が川の中へ入るまで攻撃を待ちます。

足場が悪く、前にも後ろにも動きにくい場所で矢を放ち、最後には渡河を支えていた縄を外すことで、敵を南岸へ退かせました。

渡河そのものは阻止しています。

それでも、男爵軍からは七名が死亡し、多くの負傷者が出ました。

昼間に住民の避難を手伝っていた兵も、その中に含まれています。

戦術的に成功しても、失った命が戻るわけではありません。

また、敵の狙いは川を渡ることだけではありませんでした。

男爵軍を上流へ引きつけ、橋の守備を薄くする。

レオンハルトの援軍が来る街道へ回り込む。

たとえ渡河に失敗しても、別の意味を残すように作戦を組み立てています。

そして男爵軍が上流で戦っている間、橋の正面でも小規模な攻撃が行われました。

敵は橋を奪おうとしたのではなく、障害物や弓兵の位置、守備隊の反応を確認しています。

一晩の攻防を終え、アレクたちは橋へ戻りました。

しかし休む間もなく、夜通し進軍したヴァルナー伯軍本隊が姿を現します。

敵兵およそ千五百。

対する男爵軍は疲労し、既に二十名を超える死傷者を出しています。

レオンハルトの騎兵二百は、まだ到着していません。

次話では、ヴァルナー伯軍本隊によるグリュン川大橋への攻撃が始まります。

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