第五話 川を渡る影
橋の南西には、ヴァルナー伯軍の先遣隊。
上流の森には、浅瀬から川を渡ろうとする別働隊。
男爵軍を上流へ向かわせれば、橋の守りが薄くなる。
しかし橋に兵を残せば、敵に背後へ回り込まれる可能性があります。
暗闇の中で見えるのは、対岸に並べられた松明と僅かな人影だけ。
それが敵の全てなのか、こちらを誘うために見せられたものなのかも分かりません。
レオンハルトの援軍が到着しない中、アレクはハーゲン率いる男爵軍とともに上流へ向かいます。
橋を巡る最初の戦いは、正面ではなく、暗い川の中から始まろうとしていました。
上流の森で揺れる松明を見ながら、俺たちは地図を囲んでいた。
場所はグリュン川大橋北側の関門に設けられた小さな詰所だ。
窓の外では、男爵軍の兵たちが荷車へ石を積み、橋の上に障害を作り続けている。南西の丘にはヴァルナー伯軍の先遣隊が陣取り、こちらの動きを見ていた。
「上流へ百五十を出すべきです」
ハーゲンが地図を指す。
「浅瀬を渡られれば、橋の背後へ回られます。エルツェンから来る援軍の道も塞がれる」
「百五十を動かせば、橋には三百五十しか残らん」
マティアスが答える。
「敵が上流へ二百を出しているなら、少ない兵では止められない」
「二百いると、誰が確認した?」
「松明の数と、斥候の報告から見た判断だ」
「見えた松明の数と兵数が同じとは限らない」
「少なければよい。だが、実際にはもっと多かったらどうする?」
「だから確かめる」
二人の意見がぶつかる。
どちらも間違ってはいない。
上流へ兵を出さなければ、敵が川を渡る。
出しすぎれば、橋の正面が薄くなる。
「九十だ」
マティアスが決めた。
「常備歩兵三十、弓兵三十、騎士と従士二十。案内役と伝令を合わせて九十を出す」
「指揮は?」
「お前に任せる」
「分かった」
ハーゲンは短く答えた。
「アレク」
「はい?」
「お前も行け」
「俺もですか?」
「ああ」
「橋の準備は?」
「お前がいなくても進む」
「はっきり言いますね」
「橋の守りは私が見る」
マティアスは上流の浅瀬へ指を置いた。
「暗闇では、見えたものより見えなかったものが重要になる。敵の動きを見ろ」
「夜なのに?」
「だからだ」
「簡単に言うなぁ」
「私も同行する」
ローゼンハイム男爵が言った。
「男爵は橋に残ってください」
反対したのはユリウスだった。
「なぜだ?」
「男爵が上流へ向かったと知られれば、橋の守備隊と避難した領民が不安になります。ここには男爵の命令が必要です」
「だが」
「上流はハーゲンに任せるべきです」
男爵がハーゲンを見る。
「守れるか?」
「守ります」
「出来なければ?」
「渡った敵が橋へ着く前に追いつきます」
ハーゲンの声に迷いはなかった。
「分かった」
男爵が頷く。
「私は橋に残る」
「ユリウス」
マティアスが呼ぶ。
「何だ?」
「レオンハルト殿下の援軍との連絡を続けろ。騎兵だけでも、到着時刻が分かれば知らせてほしい」
「承知した」
「上流と橋の間には伝令を四人置く。何かあれば、すぐ互いに知らせる」
俺たちは必要な装備だけを持ち、上流の浅瀬へ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
橋を離れると、すぐに篝火の光が届かなくなった。
男爵領の猟師二人を先頭にして、兵たちが暗い森の中を進んでいく。
こちらの位置を敵へ教えないため、松明は使わない。
頼りになるのは、木々の間から僅かに差し込む月明かりだけだった。
前を歩く兵の背中さえ、少し離れると見えなくなる。
「何も見えません」
俺は声を落として言った。
「声を出すな」
ハーゲンに注意される。
「川の音で聞こえないんじゃ」
「確かめたのか?」
「……いいえ」
「なら黙れ」
聞こえるのは、川の流れる音と、兵が草や枝を踏む音だ。
時々どこかで木の枝が折れる。
そのたびに兵たちが足を止め、槍や弓を構えた。
「敵か?」
「違う。前の者が枝を踏んだだけだ」
「後ろから何か聞こえた」
「味方だ」
暗闇の中では、何でも敵に思える。
男爵軍の多くは実戦経験がない。今回上流へ連れてきたのは常備兵を中心としたが、それでも夜戦を経験した者は少なかった。
前方で、ハーゲンが足を止めた。
「五人ずつ組を作れ」
声を抑えながら命じる。
「組から離れるな。前の者の肩が見えなくなったら、勝手に進まず止まれ。敵を見つけても、一人で追うな。声を出すのは組長だけだ」
命令は単純だった。
敵を見つけた時にどう戦うかではない。
まず暗闇の中で迷わず、味方同士で斬り合わないための命令だ。
怖がるなと言っても、恐怖は消えない。
なら、怖いままでも何をすればいいか分かるようにする。
ハーゲンが実戦を知っていることが、少し分かった気がした。
一刻ほど進むと、森の向こうに敵の松明が見えてきた。
「止まれ」
猟師の一人が手を上げる。
「この先が浅瀬です」
俺たちは木々の間から川を見た。
橋の周辺より川幅は狭い。
普段は大人の腰ほどの深さだと聞いていたが、雨で水位が上がり、流れも速くなっている。場所によっては胸の近くまで水に浸かるかもしれない。
対岸には、十数本の松明が並んでいた。
火の後ろに人影が動いている。
「二百はいる」
近くの兵が呟いた。
「もっとだ。森の中にもいる」
「静かにしろ」
ハーゲンが兵たちを北岸の森へ配置する。
「弓兵は三列。前の列が射たら下がり、次が前へ出ろ。敵が川へ入っても、合図まで射るな」
「いつ撃つんです?」
俺が聞く。
「川の中央へ入った時だ」
「岸にいるうちじゃなくて?」
「岸なら逃げられる。川の中なら前にも後ろにも動きにくい」
「なるほど」
浅瀬へ近づく敵を見ながら、俺たちは息を潜めた。
だが、すぐに川へ入ってくる者はいない。
松明は対岸に並んだままだ。
人影は時々動いている。
それでも、何かがおかしかった。
「……」
俺は目を凝らす。
松明の間隔が揃いすぎている。
人が手に持っているものもあるが、何本かは地面へ立てられていた。
兵の影も、同じ場所を行ったり来たりしている。
「どうした?」
隣にいたハーゲンが聞く。
「見せるために置いてるんじゃないですか?」
「何を?」
「あの火です」
「敵が松明を使うのは普通だ」
「でも、渡るならもっと動きませんか? ずっと同じ場所にあります」
「準備しているだけかもしれん」
「馬も見えません」
「森の中にいるのだろう」
「兵の声も少なすぎる気がします」
川の音で聞こえないだけかもしれない。
俺の思い違いという可能性もある。
「見えてる人数より少ないんじゃないですか?」
「敵がいることは確かだ」
「います。でも、俺たちにここから渡ると思わせたいだけかもしれない」
ハーゲンは対岸を見た。
「では、どこから渡る?」
「それは分かりません」
「分からんのか」
「分かったら最初から言ってますよ」
怒られるかと思ったが、ハーゲンは俺から目を離した。
「猟師を一人、さらに上流へ出せ」
「一人で?」
「兵を三人付ける。川岸だけを調べろ。戦うな」
案内役の猟師と兵たちが、森の中へ消えていく。
俺たちはその間も、対岸の松明を見続けた。
やがて、敵兵の一部が川岸へ近づき始める。
「来ます」
「まだ射るな」
敵は盾を持ち、浅瀬の手前で列を作る。
だが川へは入らない。
矢が届く距離を測っているようにも見えた。
しばらくして、森の奥から僅かな足音が聞こえた。
戻ってきた猟師だった。
「ここから四百歩ほど上流に、別の足跡があります」
「数は?」
「暗くて分かりません。ただ、かなりの人数です。川岸の葦が広く踏み倒されています」
「他には?」
「北岸の木に新しい縄の擦れ跡がありました」
「北岸に?」
「川を越えて投げた縄を、こちらの木へ引っ掛けたのだと思います」
ハーゲンの表情が変わる。
敵は既に、さらに上流から川を渡る準備をしていた。
「兵を二つに分ける気ですか?」
俺が聞く。
「もう分けている」
「見えてる方が少なくて、見えない方が多い」
対岸の松明は陽動だ。
こちらの兵を浅瀬の正面へ引きつけ、本隊は別の場所から渡るつもりなのだろう。
「ここへ二十五を残す」
ハーゲンが決めた。
「弓兵十、槍兵十五。松明を増やし、兵が動いているように見せろ」
「松明を使うんですか?」
「正面の敵へ、こちらが全員残っていると思わせる」
「敵と同じことをする?」
「騙し切る必要はない。我々が動いたと気づかれるまでの時間があればいい」
残りの六十五人が、さらに上流へ向かう。
俺もそちらへ同行した。
◇ ◇ ◇
四百歩という距離は、昼なら大したものではない。
だが暗い森の中では、随分長く感じた。
音を立てないよう進み、途中で何度も足を止める。
やがて、川の音に混じって水を掻くような音が聞こえた。
猟師が低い姿勢になり、前方を指す。
木々の隙間から川を見る。
対岸に松明はない。
それでも月明かりの中で、何かが動いている。
人影だった。
敵兵が縄につかまりながら、一人ずつ川へ入っている。
縄は南岸の太い木から川を横切り、北岸の木へ巻き付けられていた。
既に何人かは、川の半ばまで進んでいる。
「何人います?」
「川の中に三十ほど」
猟師が答える。
「対岸の森にもいる。全体は分からん」
「百はいるか?」
ハーゲンが聞く。
「それくらいは」
味方は六十五。
敵は百前後。
だが敵の多くは、まだ川の向こうか水の中にいる。
「弓兵を左右へ分けろ。歩兵は岸から二十歩下がって待て」
ハーゲンが小声で命じる。
「敵が岸へ上がっても、勝手に前へ出るな」
俺たちは川岸の森へ隠れた。
弓兵が矢をつがえる。
敵の先頭が、北岸へ近づいてくる。
水から上がった者は、まだ五人ほどだ。
「撃たないんですか?」
俺は声を抑えて聞いた。
「まだだ」
「上がってきますよ」
「川へ入った者を増やせ」
「でも」
「岸へ上がった十人より、川の中にいる五十人を狙う」
敵の先頭が水から上がり、周囲を確認する。
俺たちは息を潜めた。
一人がこちらへ近づく。
暗闇の中で、顔までは見えない。
足元の小枝が折れた。
敵兵が止まる。
こちらを見た。
「今だ」
ハーゲンが手を上げた。
ヒュン、ヒュンと矢が闇を切る。
川の中から叫び声が上がった。
矢を受けた兵が縄から手を離し、流される。
後ろにいた兵が避けようとして、別の者とぶつかった。
「二射目!」
弓兵が後ろへ下がり、次の列が前へ出る。
再び矢が飛ぶ。
川の中にいる敵は、盾を十分に構えられない。足場も悪く、前へ進むことも後ろへ戻ることも難しい。
「前へ!」
ハーゲンの命令で、槍兵が川岸へ進む。
既に北岸へ上がっていた敵兵が剣を抜いた。
俺も剣を抜く。
最初の敵が槍を突き出してきた。
暗くて穂先が見えにくい。
身体を横へずらす。
槍が脇を通り過ぎたところで、柄へ剣を叩きつける。
バキン。
木が割れた。
敵兵が槍を捨て、腰の剣へ手を伸ばす。
その前に踏み込み、肩口を斬った。
「ぐっ……!」
倒れたことだけは分かった。
傷がどれほど深いのか、確かめる余裕はない。
横から別の影が近づく。
剣だと思って身構えたが、味方の兵だった。
「アレク殿!」
「味方なら先に声を掛けてください!」
「そんな余裕が――後ろ!」
振り返る。
敵の槍が目の前まで迫っていた。
避け切れない。
身体を捻った瞬間、横から盾が突き出される。
ガンッ!
穂先が盾へ突き刺さった。
ハーゲンの従士が、敵兵へ剣を振り下ろす。
「前だけを見るな!」
「見えないんですよ!」
「なら味方から離れるな!」
「はい!」
昼の戦いとは違う。
敵の数が分からない。
剣先も、足元も見えにくい。
川の音で足音は消え、味方の叫び声と敵の声が重なっている。
神から剣の才能を与えられていても、見えないものまで斬れるわけではない。
「押し返せ! 川岸から離すな!」
ハーゲンが声を上げる。
北岸へ上がった敵は二十人ほどだった。
後ろから続こうとしても、川の中で弓を浴びて進めない。
それでも敵は簡単には引かなかった。
対岸から矢が飛んでくる。
「盾を上げろ!」
味方の一人が胸へ矢を受け、その場へ倒れた。
別の兵が肩へ刺さった矢を抜こうとしている。
「抜くな! 後ろへ下がれ!」
俺は叫んだが、聞こえたかは分からない。
川を見る。
敵兵は一本の縄につかまりながら渡っている。
あれがある限り、矢を受けても流されずに進める。
「縄を切れば止まりませんか?」
近くにいたハーゲンへ聞く。
「切れるならな」
縄は北岸の太い木へ巻き付けられている。
だが敵も、その周辺へ矢を集中させていた。
「行きます」
「待て!」
返事を聞く前に走った。
二人の兵が後ろからついてくる。
矢が木へ当たり、乾いた音を立てる。
俺は身を低くして、縄が巻かれた場所まで進んだ。
剣を振り下ろす。
だが、水を吸って強く張られた太い縄は簡単には切れない。
「硬い!」
「縄を斬るな!」
後ろからハーゲンの従士が叫ぶ。
「木へ回している輪を外せ!」
「先に言ってください!」
縄は幹へ二重に回され、木の杭と結び目で固定されていた。
剣先を結び目へ差し込む。
引いても動かない。
「杭を抜け!」
一緒に来た兵が杭へ手を掛ける。
「動きません!」
「二人でやれ!」
俺も剣を収め、杭を掴んだ。
「せーの!」
力を込める。
杭が僅かに動く。
もう一度。
「来ます!」
兵が川を指す。
縄を守ろうとする敵が、水を掻き分けながら近づいてきている。
「もう一回!」
杭が抜けた。
張り詰めていた縄が幹の周りを滑る。
「離れろ!」
縄が勢いよく川へ引かれた。
つかまっていた敵兵がバランスを崩す。
何人かは対岸へ戻ろうとしたが、流れに足を取られた。縄とともに下流へ流される者もいる。
全員が溺れたわけではない。
岸へ泳ぎ着こうとする者。
仲間に腕を掴まれる者。
川底へ足をつき、必死に立ち上がる者。
それでも、渡河の流れは完全に止まった。
「退け!」
対岸から敵の声が響く。
北岸へ上がっていた兵も後退を始めた。
「追え!」
味方の徴集兵が叫ぶ。
「森へ入るな!」
ハーゲンが止める。
「逃げています!」
「暗闇の森で、道を知る敵を追うな! 隊列を戻せ!」
追えば、さらに敵が待ち伏せしている可能性がある。
勝ったと思った瞬間ほど、人は前しか見なくなる。
「弓兵は川岸を警戒! 歩兵は負傷者を集めろ!」
敵の姿は、少しずつ対岸の森へ消えていった。
◇ ◇ ◇
戦闘が終わると、急に寒さを感じた。
身体は汗で濡れている。
手も震えていた。
恐怖なのか、剣を握り続けたせいなのかは分からない。
月明かりと僅かな松明を頼りに、死傷者を確認する。
「死者七名!」
「重傷者六名! 歩ける負傷者は十二名です!」
「敵は?」
「北岸に十八。川岸に二人倒れています。流された者は分かりません」
「捕虜は?」
「三人です。一人は傷が深い」
渡河は防いだ。
敵より少ない損害で済んだ。
それでも、味方が七人死んでいる。
倒れている兵の一人に見覚えがあった。
名前は知らない。
だが昼間、南岸の村で種麦を荷車へ積んでいた男だ。
俺が袋へ村の札を付けるよう頼んだ時、笑って返事をしていた。
今は目を閉じたまま動かない。
「……」
「アレク殿」
ハーゲンの従士が呼ぶ。
「負傷者を運びます」
「はい」
「アレク殿?」
「渡河は止めましたよね」
「はい」
「でも、七人死んだ」
「止めなければ、もっと死にました」
「分かってます」
「なら、負傷者を運んでください」
慰めるつもりはないらしい。
それでも、今はその方がありがたかった。
「はい」
俺は重傷者の一人へ肩を貸した。
痛みに呻く兵を、仲間と一緒に北岸の林へ運ぶ。
傷を洗い、血を止め、担架を作る。
死者を運ぶのは、その後になった。
捕虜の三人にも最低限の手当てが行われた。
「敵を治療するのか?」
男爵軍の兵が不満そうに言う。
「話を聞く前に死なれては困る」
ハーゲンが答える。
「こちらの仲間を殺した奴らだ」
「傷を塞ぐことと、許すことは同じではない」
兵は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
重傷を負った捕虜の一人は、矢を抜かれる痛みで意識が混乱していた。
ハーゲンが尋ねる。
「指揮官は誰だ?」
「……」
「お前たちの目的は、橋の背後へ回ることか?」
捕虜は答えない。
だが、別の言葉には反応した。
「援軍の道を塞ぐつもりだったのか?」
男の目が僅かに動く。
俺にも分かった。
「それが目的だった?」
「……橋だけではない」
捕虜が掠れた声を出す。
「何?」
「北の……街道を……」
「何人で塞ぐ予定だった?」
「知らん」
「本隊はいつ来る?」
捕虜は答えなかった。
そのまま目を閉じる。
死んだわけではない。治療をしていた男が呼吸を確認している。
「渡河出来なかった場合は?」
俺が聞いた。
「何だ?」
ハーゲンがこちらを見る。
「敵は、川を渡れなかった時のことも考えてたと思います」
「なぜだ?」
「俺たちを上流へ引きつけるだけでも、橋の兵を減らせる」
男爵軍は五百しかいない。
そこから九十を上流へ動かした。
渡河に失敗しても、その間は橋の守りが薄くなる。
「敵は失敗しても意味があるように動いてた?」
「ああ」
ハーゲンが答える。
「それが作戦だ」
戦は、成功する前提だけで組み立てるものではない。
失敗した時にも、別の利益が残るようにする。
マティアスが橋を守る準備と壊す準備を同時に進めたことと、どこか似ていた。
その時、下流側の森から馬の音が近づいてきた。
「ハーゲン様!」
橋から送られた伝令だった。
「橋で何があった?」
「敵の先遣隊が南岸へ接近しました。百五十から二百ほどです」
「攻撃を受けたのか?」
「火矢を射かけられ、南側の関門で小規模な戦闘がありました」
「橋は?」
「守っております。敵は既に丘まで退きました」
「損害は?」
「死者二、負傷者九です」
こちらを上流へ引きつけた間に、橋の正面でも動いた。
「本気で橋を取るつもりだったんですか?」
「違うだろう」
ハーゲンが言う。
「では何を?」
「障害物の位置、弓兵の数、こちらが反応するまでの時間。それを確かめた」
「攻撃して、守り方を見た?」
「ああ」
「次は本隊が来る」
負傷者を橋へ運ぶ準備が始まる。
歩ける者には肩を貸し、重傷者は担架へ乗せる。
死者も置いてはいけない。
「正面に残した二十五人は?」
「全員無事です」
「敵は?」
「松明を消して退きました」
正面の部隊も、目的を果たしたと判断したのだろう。
俺たちは夜が明ける前に、橋へ戻ることになった。
◇ ◇ ◇
帰り道は、来た時より長く感じた。
負傷者と死者を運んでいるため、進む速度が遅い。
誰もほとんど喋らなかった。
橋が見えた頃、東の空が白み始めていた。
関門の上には男爵家の旗が残っている。
橋も壊されていない。
それを見て、僅かに安心した。
「アレク!」
北岸でマティアスが待っていた。
「無事か?」
「一応」
「損害は?」
「死者七、重傷者六、軽傷者十二です。橋側でも死者二、負傷者九」
「敵は?」
「渡河は止めました。確認出来た死者は二十。捕虜が三人です」
「上流の敵の目的は?」
「橋の後ろへ回ることと、援軍が来る道を塞ぐこと。それから、俺たちを橋から引き離すことです」
「そこまで分かったか」
「捕虜の反応と、ハーゲンさんの話からです」
「そうか」
マティアスは担架で運ばれてくる男爵軍の兵を見る。
「まず治療所へ運べ。歩ける者も全員、傷を確認させろ」
「橋の準備は?」
「まだ終わっていない」
「敵は?」
「丘へ戻ったままだ」
男爵も死傷者のところへ来た。
死者の顔を一人ずつ確かめる。
名前を知っている者もいたらしい。
七人目の前で、僅かに目を閉じた。
「家族へは私から伝える」
それだけ言って、橋の南側へ視線を向けた。
「援軍は?」
俺がユリウスへ聞く。
「まだ連絡はない」
「昼には騎兵が来る予定ですよね」
「予定は予定だ」
前にも聞いた言葉だった。
援軍は、到着するまで戦力に数えてはいけない。
その時、南側の監視塔から鐘が鳴った。
カン、カン、カン。
一度ではない。
敵の大部隊を知らせる合図だ。
「何が見えた!」
ハーゲンが声を上げる。
塔の兵が南西を指した。
「軍勢です! ヴァルナー伯軍本隊!」
「もう来たのか?」
予定では、早くても今日の夕方だった。
俺たちは橋の南側にある塔へ上がった。
夜が明け始めた平原の向こうから、いくつもの旗が現れる。
歩兵。
騎兵。
弓兵。
長い隊列が、街道を埋めながら進んでくる。
「夜通し進んだのか」
ユリウスが言う。
「数は?」
男爵が聞く。
「先遣隊を合わせれば、千五百前後です」
マティアスが答える。
こちらは、一晩で二十人を超える死傷者を出している。
兵は眠っていない。
矢も水も、使った分だけ減った。
避難と防御工事に動き続けた者たちも疲れている。
その向こうで、ヴァルナー伯軍千五百が陣を作り始めていた。
「騎兵二百は?」
俺が東の街道を見る。
旗は見えない。
馬の蹄の音も聞こえない。
「まだだ」
ユリウスが答えた。
「歩兵八百は?」
「早くても今夜になる」
「来れば、ですよね」
「ああ」
上流の渡河は防いだ。
橋の正面へ来た先遣隊も退けた。
それでも、勝ったという感覚はなかった。
川を渡る影を止めたことで、ようやく朝まで生き残っただけだ。
ヴァルナー伯軍の陣から、太鼓の音が響く。
ドン。
少し間を置いて、もう一度。
ドン。
男爵軍の兵たちが橋の上へ集まり始める。
昨夜まで村人の避難に使われていた橋が、今度は兵士の列で埋まっていく。
「休む時間はなさそうですね」
俺が言うと、マティアスが敵陣を見たまま答えた。
「ああ」
俺たちは川を渡る影を止めた。
だが、それは戦いに勝ったのではない。
これから始まる橋の戦いへ、一晩生き残っただけだった
第五話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、グリュン川上流の浅瀬を巡る夜戦を描きました。
対岸に並んでいた松明は、男爵軍を浅瀬の正面へ引きつけるための陽動でした。
敵の主力はさらに上流へ移動し、川へ張った縄を使って、暗闇の中で密かに渡河しようとしています。
アレクは、松明がほとんど動かないことや、見えている人影と物音が合わないことから、その違和感に気づきました。
しかし、敵の策を見破っただけで戦いに勝てるわけではありません。
暗闇では敵と味方の区別が難しく、川の音によって足音や声も消されます。
神から剣の才能を与えられたアレクも、見えない敵の攻撃を全て避けられるわけではありません。
味方から離れれば簡単に命を失う。
夜戦の中で、その現実を改めて経験することになりました。
男爵軍は、敵が川の中へ入るまで攻撃を待ちます。
足場が悪く、前にも後ろにも動きにくい場所で矢を放ち、最後には渡河を支えていた縄を外すことで、敵を南岸へ退かせました。
渡河そのものは阻止しています。
それでも、男爵軍からは七名が死亡し、多くの負傷者が出ました。
昼間に住民の避難を手伝っていた兵も、その中に含まれています。
戦術的に成功しても、失った命が戻るわけではありません。
また、敵の狙いは川を渡ることだけではありませんでした。
男爵軍を上流へ引きつけ、橋の守備を薄くする。
レオンハルトの援軍が来る街道へ回り込む。
たとえ渡河に失敗しても、別の意味を残すように作戦を組み立てています。
そして男爵軍が上流で戦っている間、橋の正面でも小規模な攻撃が行われました。
敵は橋を奪おうとしたのではなく、障害物や弓兵の位置、守備隊の反応を確認しています。
一晩の攻防を終え、アレクたちは橋へ戻りました。
しかし休む間もなく、夜通し進軍したヴァルナー伯軍本隊が姿を現します。
敵兵およそ千五百。
対する男爵軍は疲労し、既に二十名を超える死傷者を出しています。
レオンハルトの騎兵二百は、まだ到着していません。
次話では、ヴァルナー伯軍本隊によるグリュン川大橋への攻撃が始まります。




