第四話 橋を守るために
ローゼンハイム男爵が橋を開く決断を下す前から、ヴァルナー伯軍は進軍を始めていました。
兵力は、およそ千五百。
それに対し、ローゼンハイム男爵軍は五百しかおらず、その多くは実戦経験のない徴集兵です。
敵の進軍を止めるために橋を壊すのか。
それとも、宿場や領民の生活を守るために橋を残すのか。
しかし、選ばなければならないのは橋の運命だけではありません。
限られた荷車で、誰を先に避難させ、何を運び、何を残すのか。
橋を守る準備と、守れなかった後にも暮らしを残すための準備が、同時に始まります。
「橋を壊すべきです」
ヴァルナー伯軍がグリュン川大橋へ向かっているという知らせが届いてから、まだ半刻も経っていなかった。
ローゼンハイム城の会議室には、男爵家の主だった家臣たちが集められている。
最初に橋の破壊を主張したのは、五十歳を過ぎた騎士だった。
短く刈った灰色の髪と、左頬に残る古い傷。ローゼンハイム男爵軍の指揮を任されている、ハーゲンという男だ。
「ヴァルナー伯軍は千五百。我々の兵は五百しかおりません。橋がある限り、敵は必ずここへ来ます」
「橋を壊せば、宿場も死ぬ」
反対したのは、男爵家の財務官だった。
「橋から得られる通行税は、男爵領の収入の四分の一近くを占めています。それを失えば、戦を避けられても領内の財政が立ち行きません」
「財政のために五百の兵を全滅させるつもりか?」
「橋を失えば、兵へ払う金もなくなると言っているのです」
「金の話だけではありません」
宿場の代表として呼ばれた男も口を開いた。
「橋がなくなれば、商人は南の浅瀬か北の渡し場へ回ります。宿も厩舎も、荷車を直す工房も仕事を失います」
「敵に奪われれば同じことだ」
「だから守る方法を考えるべきでしょう」
「千五百を相手にか?」
声が重なり、会議室が騒がしくなる。
橋を壊せば、ヴァルナー伯軍は簡単には川を渡れない。
南へ大きく迂回するか、上流の浅瀬を使う必要がある。
今すぐ目の前の戦を避けるだけなら、橋を壊すのが最も確実なのかもしれない。
だが、その橋によって暮らしている人間がいる。
どちらの意見も間違っているとは言えなかった。
「静かにしろ」
ローゼンハイム男爵の声で、家臣たちが口を閉じる。
「マティアス・クレーマー。お前はどう見る?」
「橋を壊す準備は必要です」
マティアスが答えた。
宿場の代表と財務官の表情が険しくなる。
「ただし、今すぐ壊す必要はありません」
「敵が来てからでは遅い」
ハーゲンが言う。
「この橋は石造りだ。木橋のように火をつければ終わりではない」
「だから石工を集めます」
「石工?」
「橋の中で、最も崩しやすい場所を確認させる。既に補修された箇所があるはずです」
「ある」
男爵が答えた。
「十七年前の洪水で、中央に近い橋脚が傷んだ。橋桁の一部も積み直している」
「そこを使います。石を外すための工具と足場を用意し、最後の命令が出れば、荷車と騎兵が通れないだけの破損を作る」
「橋そのものを落とすのではないのか?」
「完全に落とすには時間がかかります。まず路面を崩し、敵が一度に渡れない状態にする。それでも止められなければ、橋脚を崩す」
完全に守るか、最初から壊すか。
その二つしかないと思っていた。
だがマティアスは、守る準備と壊す準備を同時に進めようとしている。
「中途半端ではないか?」
ハーゲンが聞く。
「橋を残すために戦う。だが、敵へ無傷で渡すくらいなら壊す」
「その判断が遅れれば?」
「敵に奪われます」
「簡単に言うな」
「簡単ではないから、今のうちに準備します」
ハーゲンはしばらくマティアスを見た。
「男爵様」
やがて男爵へ顔を向ける。
「私は橋を壊すべきだと考えます。しかし守ると決められるなら、従います」
「橋を守る」
男爵が答えた。
「ただし、守れなくなった時には壊す。その準備も進めろ」
「承知しました」
「アレク」
突然マティアスに呼ばれた。
「はい?」
「行くぞ」
「どこへです?」
「橋だ。会議室で地図を見ているだけでは守れん」
俺たちは、もう一度グリュン川大橋へ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
城から橋までは、馬ならそれほど時間はかからない。
先ほどまで商人や旅人が行き交っていた街道には、既に慌ただしい空気が広がり始めていた。
ヴァルナー伯軍が近づいているという話が、城から宿場まで伝わったらしい。
店の外に置いていた荷物を中へ運ぶ者。
厩舎から馬を引き出す者。
北へ向かう荷車へ、急いで家財を積み込む者。
まだ敵の姿は見えない。
それでも、人々は戦が近づいていることを感じていた。
橋の北側で馬を降りる。
同行しているのは、マティアス、俺、男爵、ユリウス、ハーゲン、それに男爵家の騎士と兵たちだった。
「まず兵の内訳を聞きたい」
マティアスが言う。
ハーゲンが答える。
「騎士と騎兵を合わせて四十二。常備の歩兵が八十三。弓兵が六十一。残りは村と町から集めた者です」
「実戦経験がある者は?」
「騎士を含めても百に届かん」
「残りは?」
「訓練はしている。だが、人へ槍を向けたことのない者がほとんどだ」
「全部で五百では?」
俺が聞く。
「四百九十六だ」
「細かいですね」
「四人は昨日から高熱を出している。数だけ揃えるために連れてきても役には立たん」
「確かに」
五百対千五百。
それだけでも厳しい。
しかも、こちらの大半は実戦経験がない。
「この兵で橋と上流の浅瀬を守る」
マティアスが川を見る。
「全てを守れると思うか?」
男爵が聞く。
「無理です」
マティアスは即答した。
「随分はっきり言うな」
「五百で領内全てを守ろうとすれば、どこも守れなくなります」
「では、どこを捨てる?」
「それを決めるために見ます」
最初に北岸を確認した。
橋の入口には石造りの関門がある。小さな塔が左右に一つずつあり、その上から弓を射ることも出来る。
橋へ続く道の両側には宿場の建物が並び、少し北へ進めば広場がある。
南岸にも関門はあるが、北側より小さい。
その先には平坦な麦畑が広がり、南西の街道へつながっていた。
大軍が陣を敷くには、南岸の方が都合がいい。
次に橋の上へ進む。
幅は荷車二台が擦れ違えるほどある。兵なら、横に十人近く並べるだろう。
「このままだと、敵が一度に大勢来ますね」
「ああ」
マティアスが答える。
「こちらも同じ数を並べれば?」
「兵数で劣る側が、同じ幅で戦う意味がない」
「ですよね」
橋の端には、荷車が何台も止まっていた。
避難のために北へ渡ろうとしているらしい。
俺はその荷車と橋を交互に見る。
「荷車を使えませんか?」
「何にだ?」
「橋を狭くするんです」
俺は橋の中央に近い場所を指した。
「石か土を積んだ荷車を、左右から斜めに置く。真ん中に、人が数人通れるだけの隙間を残します」
「敵が荷車を動かせば?」
「車輪を外します。荷台にも石を積んで、簡単に動かせないようにする」
ハーゲンが橋を見る。
「悪くはない。だが木の荷車だ。敵が火矢を使えば燃える」
「あ……」
「燃える荷車が橋の上にあれば、こちらも近づけん」
一つ問題を解決したと思えば、すぐ別の問題が出る。
「水を掛けておけば?」
「一度濡らした程度では、長くは持たん」
「じゃあ、水を入れた樽を近くに置く」
「火矢が続けば足りなくなる」
「濡らした獣皮を荷車へ掛けたらどうです?」
俺の言葉に、男爵が近くの荷車を見る。
「皮を何枚用意出来る?」
「宿場と城の倉庫を確認させます」
財務官が答えた。
「それなら燃えにくくなる」
ハーゲンが言う。
「完全には防げんが、何もないよりはいい。燃えた時に川へ落とせるよう、綱も付けておけ」
「川へ?」
「敵に奪われる前に、横から引いて落とす」
「そんなこと出来ます?」
「出来るように置くのだ」
俺の案が、そのまま使われたわけではない。
現地の人間が問題を見つけ、少しずつ形を変えていく。
知識だけでは何も完成しないというのは、こういうことなのかもしれない。
「橋の上には、荷車の障害を二か所作る」
マティアスが決める。
「南側の第一線は、味方が退却した後に完全に塞ぐ。北側の第二線は、最後まで中央に通路を残す」
「弓兵は?」
ハーゲンが聞く。
「北の関門と橋の北半分へ置く。南岸には多く残すな」
「最初から南岸を捨てるのか?」
「遅らせるための兵だけ置く。敵主力と正面から戦わせれば、橋まで戻れなくなる」
「南岸には村がある」
男爵が言った。
「だから村人を避難させます」
「全員をか?」
「残せば人質にされる可能性がある」
マティアスの言葉で、俺は南岸へ目を向けた。
三つの村から煙が上がっている。
まだ普段通りに暮らしている者もいるはずだ。
「住民は何人です?」
「三つの村を合わせて六百ほどだ」
「六百……」
「今から避難を始める」
男爵が命じる。
「人を先に北岸へ渡せ。家財は後だ」
だが、それが簡単な命令ではないことを、俺たちはすぐ知ることになった。
◇ ◇ ◇
「牛を置いていけと言うのか!」
南岸で最も大きな村へ着くと、村人たちが集まっていた。
ローゼンハイム男爵本人が来たことで表立って逆らう者は少ない。
それでも、避難の内容を聞くと、あちこちから不満の声が上がった。
「人を先に北へ移す」
ハーゲンが説明する。
「自力で動けない者、子ども、老人を荷車に乗せろ。家畜や家財は、その後だ」
「後と言っても、敵は明日来るんでしょう!」
「全部運ぶ時間なんてない!」
「牛を取られたら、来年の畑をどうするんです!」
「種麦まで置いていけと言うのか!」
村人の言葉を聞いて、俺は何も言えなくなった。
人の命が一番大切だ。
そう思う。
だが、人だけ逃げられれば終わりではない。
牛がいなければ畑を耕せない。
種麦を失えば、次に植えるものがない。
保存していた食糧を奪われれば、戦が終わっても飢える。
「アレク」
マティアスに呼ばれた。
「はい」
「使える荷車は四十台だ」
「それだけ?」
「城と宿場にある荷車は、防御と軍の輸送にも使う。村人の避難へ回せるのは四十台だ」
俺は村を見る。
六百人。
家畜。
食糧。
種麦。
農具。
家具。
全部を四十台で運ぶことは出来ない。
「何を先に渡す?」
「人です」
「その次は?」
「食糧」
「どの食糧だ?」
「どのって……」
「今日食べるパンと、来年蒔く種麦。どちらを先に運ぶ?」
「両方必要でしょう」
「荷車には限りがある」
「なら、家畜は?」
「お前が決めろ」
「俺が?」
「考えることは出来ると言ったな」
「それとこれとは」
「違わん。数に限りがある時、何を先にするのか決めるのも兵站だ」
前世の会社でも、仕事の優先順位を決めることはあった。
期限が近いもの。
重要な取引先。
止めれば他の部署に影響する仕事。
だが、今目の前にあるのは書類ではない。
人間の暮らしだ。
後回しにすると決めたものが、その家族にとって最も大切な物かもしれない。
「全員が自分の荷を先に運ぼうとすれば、橋が詰まる」
マティアスが言う。
「誰かが決めなければならん」
「でも」
「間違ってもいいとは言わん。考えて決めろ」
俺は村人たちを見る。
「村で、種麦を管理している人はいますか?」
一人の老人が手を上げた。
「私だ」
「どれくらいあります?」
「袋で百二十ほどだ。村全体の分がある」
「保存食は?」
「干した豆と麦が倉にある。あとは塩漬け肉だ」
「農耕に使う牛と馬は?」
「牛が三十二。馬が九頭」
「自分で歩かせて橋を渡せますか?」
「牛は出来る。ただ、興奮すれば危ない」
「人と一緒に荷車へ載せる必要はない?」
「ああ」
俺は少しずつ必要なものを分けていった。
荷車でしか運べないもの。
歩かせられるもの。
人が背負えるもの。
どうしても残さなければならないもの。
「最初に、自力で移動出来ない人を運びます。子どもと老人、怪我をしている人も一緒です」
村人たちが聞いている。
「次に種麦。それから、すぐ食べられる保存食を運ぶ。牛と馬は荷車に載せず、歩かせて橋を渡します」
「農具は?」
「小さな物は人が持ってください。鋤みたいな大きい物は、その後です」
「家具はどうする?」
「残します」
口にするのが苦しかった。
「全部は運べません。家具や重い家財は最後です。時間がなければ置いていきます」
一人の男が前へ出た。
「俺たちの物は置いていけと言うのか」
「……はい」
「城から運び出している荷はどうなんだ。男爵家の酒や家具は運ぶくせに、俺たちの物だけ捨てろと?」
「それは」
何と答えればいい。
男爵家の荷が何なのか、俺は知らない。
知らないまま否定することも出来ない。
「その通りだ」
後ろから男爵が言った。
男爵は家臣へ顔を向ける。
「城から北部の別邸へ送る荷車があったな」
「はい。重要な品を移すために十二台を」
「何を積んでいる?」
「銀器、酒樽、絵画、家具などです」
「全て降ろせ」
「男爵様?」
「銀器と文書だけ城へ戻せ。酒も絵も家具も後だ。空いた荷車を村へ回し、種麦と保存食を積め」
「しかし、敵に城を奪われれば」
「領民へ家財を置いていけと命じながら、私の家具だけ逃がすつもりはない」
先ほど声を上げた村人が黙る。
「それでも全ては運べん」
男爵は村人たちを見る。
「私の物も、お前たちの物も残る。だが、まず人と、戦の後に生きるため必要な物を渡す」
男爵自身がそう言ったことで、村人たちの空気が少し変わった。
不満が消えたわけではない。
納得出来ない者もいるだろう。
それでも、避難はようやく動き始めた。
「家ごとに動くな!」
ハーゲンが声を上げる。
「村の東側から順に橋へ向かえ! 荷車へ勝手に家財を積むな!」
子どもと老人が荷車へ乗せられる。
若い者は歩き、背中に食糧や衣服を背負う。
牛や馬は綱でつながれ、何頭かずつまとめられた。
種麦の袋には村の名前を書いた札を付ける。
北岸へ渡った後、どの村の物か分からなくならないようにするためだ。
アレクとしてこの世界へ来てから、倉庫や帳簿を何度も見てきた。
けれど、これほど一つ一つの物が誰かの暮らしそのものだと感じたことはなかった。
◇ ◇ ◇
橋の防御準備も同時に進められた。
宿場と城から集められた荷車へ、石と土が積まれていく。
所有者の中には、荷車を差し出すことを嫌がる者もいた。
「壊されたらどうするんだ?」
「この荷車がなければ商売が出来ない!」
「軍が必要だと言えば、何でも持っていっていいのか!」
男爵が最も恐れていたことだった。
無断徴発。
戦だから仕方がないと、兵が住民の物を勝手に持ち去れば、レオンハルト側が示した条件そのものが嘘になる。
「待ってください!」
俺は荷車を引いていこうとしていた兵を止めた。
「誰の荷車です?」
「分からん。広場にあった」
「分からないまま持っていくんですか?」
「命令だ。橋を塞ぐ荷車を集めろと」
「持ち主を確認してください」
「そんな時間はない」
「確認しなかったら、戦が終わった後に誰へ返すんです?」
「壊れたら返せん」
「だから記録するんです」
俺は近くにいた書記を呼んだ。
「紙と炭筆はありますか?」
「あります」
「借りる物を全部書いてください。持ち主の名前、荷車の大きさ、車輪の数、傷があるなら今のうちにそれも」
「そんな細かく?」
「後で『元から壊れてた』『軍が壊した』って揉めます」
兵が呆れたように俺を見る。
「敵が来る前に帳簿を作るつもりか?」
「帳簿じゃありません。借りた物の記録です」
「払えるのか?」
荷車の持ち主が聞いた。
「壊れたら、本当に弁償してくれるのか?」
「分かりません」
正直に答えると、男の顔が険しくなった。
「分からない?」
「全部壊れたら、全額払えるかは約束出来ません。でも記録がなければ、誰から何を借りたのかも分からなくなります」
「……」
「払えるかどうかを決めるのは戦の後です。でも、何も書かなかったら払うことすら出来ません」
男はすぐには納得しなかった。
それでも最後には、自分の名前と荷車の特徴を書記へ伝えた。
同じ方法で、荷車だけでなく、綱、木材、水樽、獣皮、工具にも札を付けた。
「随分と時間がかかるやり方だな」
様子を見ていた男爵が言う。
「すみません」
「謝っているわけではない」
「でも急いでる時に、こんなことをしてていいのかは分かりません」
「私が約束したことだ。徴発ではなく、必要な物には代金を払うと」
「払えないかもしれませんよ」
「それでも、最初から奪うつもりで何も残さないよりはいい」
男爵が記録を取る書記たちを見る。
「書記を増やせ。城にいる者も連れてこい」
「はい」
「それから、記録には男爵家の印を押す。誰が許可したのか分かるようにしろ」
これで全部うまくいくわけではない。
戦が長引けば、記録そのものを失うかもしれない。
男爵家に金がなくなれば、補償出来ない可能性もある。
それでも、何も残さないよりはましだった。
橋の中央では、石工たちが補修された箇所を調べていた。
「ここです」
年老いた石工が、橋の側面を指す。
「十七年前に積み直した部分です。路面の石を外し、下の詰め石を抜けば、荷車は通れなく出来ます」
「どれくらいかかる?」
マティアスが聞く。
「十人で半日。急げば、もう少し」
「橋脚を崩す場合は?」
「簡単にはいきません。足場を組み、川側から石を外す必要があります。早くても一日以上です」
「敵が橋の上にいる状態では?」
「無理です」
やはり、最後の瞬間に命令すればすぐ壊せるものではない。
「路面を崩す準備だけ進めろ」
マティアスが命じる。
「石はまだ外すな。工具と人員を近くに置き、命令があれば始められるようにする」
「承知しました」
橋を守る準備。
橋を壊す準備。
住民を逃がす準備。
敵が来る前から、いくつもの作業が同時に進んでいた。
◇ ◇ ◇
日が西へ傾く頃、ユリウスが早馬を送り出した。
宛先はレオンハルトだ。
「援軍は、どれくらいで来ます?」
俺が聞く。
「エルツェンにいる騎兵二百なら、明日の昼までに到着出来る」
「歩兵は?」
「八百を出せる。ただし到着は早くても夜だ」
「敵は明日の夕方ですよね」
「最初の報告が正しければな」
「予定通りなら間に合う?」
「ああ」
騎兵二百が昼。
ヴァルナー伯軍千五百が夕方。
歩兵八百が夜。
数字だけなら、敵が到着する前に騎兵が来る。
橋と男爵軍五百で持ちこたえれば、その日の夜には兵数でも大きく近づける。
しかし俺は、バルタザールの輸送予定を思い出していた。
「予定通り来れば、ですよね」
「そうだ」
「道を塞がれたら?」
「遅れる」
「敵の別働隊に止められたら?」
「来ない可能性もある」
「それも考えて準備するんですよね」
マティアスが俺を見る。
「援軍は、到着するまで戦力に数えるな」
「来る予定でも?」
「来なかった時に崩れる計画は、計画とは言わん」
「厳しいなぁ」
「エルツェンで学んだはずだ」
援軍が来る。
物資が届く。
味方が約束通り動く。
どれも、実際に目の前へ現れるまでは確定していない。
「男爵軍五百だけで、最初の攻撃を防ぐ」
マティアスが地図へ駒を置く。
「その前提で配置を決める」
橋の北側へ、常備兵と弓兵を集める。
南岸には、ハーゲンが率いる実戦経験者百二十を置く。ただし決戦はさせず、敵の進軍を遅らせながら橋へ退く。
徴集兵のうち二百は橋の防御。
残りは上流の浅瀬と城、住民避難の護衛へ回す。
「兵を分けすぎでは?」
男爵が聞く。
「上流を無視すれば、橋を守っている間に背後へ回られます」
「下流は?」
「川幅が広く、沼地もある。大軍は渡れません。ただし小舟は北岸へ移します」
「漁師が使う舟まで?」
「南岸に残せば、敵が使います」
男爵はしばらく考えた後で頷いた。
「持ち主を記録し、北岸へ移せ」
「はい」
さらにマティアスは、男爵家の帳簿、印章、税の記録を城の奥へ移すよう命じた。
種麦も一か所へ集めず、北岸の三つの倉庫へ分ける。
負傷者を収容するため、宿場の礼拝堂と二軒の宿屋を空ける。
橋を突破された場合に備え、宿場北側の狭い道へ第二の防御線を作る。
「負ける準備みたいですね」
思わず言うと、マティアスがこちらを見た。
「負けた時のことを考える者は、負けるつもりだと思うか?」
「そういうわけじゃないですけど」
「橋を守れなくても、男爵家と領民が全てを失う必要はない」
「勝つ準備と、負けた後の準備を一緒にする?」
「ああ」
「兵に知られたら不安になりません?」
「だから、全ては知らせない。だが準備はする」
戦に負けるかもしれない。
そう考えることは、縁起が悪い話ではない。
負けた時に何を残すかまで考えることが、次に立ち上がるためには必要なのだろう。
◇ ◇ ◇
日没が近づいた頃、南岸の村から最後の避難隊が橋を渡り始めた。
老人と子どもを乗せた荷車。
背中に荷を背負った村人。
牛や馬。
種麦と保存食。
橋の上は人と家畜で混雑していた。
俺は橋の中央で流れを整理していたが、ふと隣に男爵が立っていることに気づいた。
「男爵?」
「避難の様子を見に来た」
「城にいなくていいんですか?」
「自分の領民が逃げる姿くらい、自分で見る」
男爵は南岸を見る。
麦畑は夕日に照らされている。
収穫までもう少しだったはずだ。
「私がシュヴァルツ伯を選んでいれば、ヴァルナー伯軍は味方として来たのだろうな」
「たぶん」
「なら、村を避難させる必要もなかった」
「今は、ですね」
「今は?」
「その後、王都軍が来たかもしれません。レオンハルト殿下の軍も、この橋を使えないと困る」
「結局、戦場になるか」
「この橋がある限り、誰も放っておかないと思います」
男爵が苦く笑う。
「では、私はどうすればよかった?」
「分かりません」
「正しい選択だったとも言えないのか?」
「まだ結果が出てないので」
「率直だな」
「嘘を言っても仕方ないでしょう」
俺は橋を渡っていく村人たちを見る。
「でも、男爵が何を守りたいかは分かりました」
「何だ?」
「橋じゃなくて、橋の周りで暮らしてる人たちです」
男爵はすぐには答えなかった。
「橋を壊しても、人が生き残れば、いつか造り直せるかもしれません」
「簡単に言う」
「簡単じゃないことは、昼に聞きました。でも、人がいなければ造り直すことも出来ない」
「だから、人を先に逃がしたのか」
「はい」
それでも、全てを救えたわけではない。
南岸には家具も農具も、刈り取り前の麦も残っている。
家そのものを運ぶことも出来ない。
「正しい順番だったと思うか?」
男爵が聞く。
「分かりません」
「またそれか」
「今の俺が考えられる範囲では、です」
「それなら十分だ」
男爵はそう言って、北岸へ歩いていった。
俺も避難の列へ視線を戻す。
その時だった。
南西の丘にある監視所から、一本の煙が上がった。
続いて、二本目。
「何だ?」
近くにいた兵が声を上げる。
橋の南側から、馬が一頭駆けてくる。
「急報!」
騎兵は避難する村人を避けながら橋へ入った。
「南西の丘に敵兵を確認! ヴァルナー伯軍です!」
「数は?」
ハーゲンが聞く。
「およそ三百! 騎兵と軽装歩兵が中心です!」
「三百?」
敵の本隊は千五百のはずだ。
「先遣隊だ」
マティアスが言う。
「本隊から速い兵だけを分けた」
「でも、到着は明日の夕方じゃ」
「敵も急ぐ」
南西の丘を見る。
まだ遠い。
それでも、夕日の中に小さな旗が見えた。
敵はすぐには攻めてこない。
丘の上で止まり、こちらを見ている。
「偵察ですか?」
「ああ」
マティアスが答える。
「避難の進み具合、橋の障害、兵の数。全て見られている」
「追い払います?」
「騎兵を出せば、こちらの数を教えることになる」
「じゃあ放っておく?」
「こちらも見ろ。兵数、装備、馬の状態、どこへ動くか」
互いに遠くから相手を観察する。
剣は届かない。
矢も届かない。
それでも、戦いはもう始まっている。
「避難を急がせろ!」
ハーゲンが声を上げる。
「日没までに南岸の住民を全員渡せ!」
橋の上の動きが一気に速くなった。
◇ ◇ ◇
夜になると、橋の上には篝火が焚かれた。
南岸の第一防衛線では、兵たちが槍を抱えたまま地面へ座っている。
北岸では、荷車の障害が半分ほど完成していた。
水樽と石が運び込まれ、弓兵のための矢も積まれている。
敵の先遣隊は南西の丘から動かなかった。
少なくとも、橋の正面では。
俺たちが簡単な食事を取っていた時、上流へ出していた斥候が戻ってきた。
「浅瀬の対岸に松明を確認しました」
報告を聞いたマティアスが顔を上げる。
「数は?」
「見えたのは十ほどです。ただし森の中にも人の気配があります」
「橋の先遣隊から分かれた兵か?」
「おそらく」
地図を広げる。
上流の浅瀬は、橋から歩いて一刻ほどの場所にある。
川幅は狭いが、流れが速い。馬や軽装の兵なら渡れる可能性がある。
「何人いると思う?」
男爵が聞く。
「少なくとも百。多ければ二百」
「橋の前にいるのは?」
「残りだろう」
俺は敵の動きを考える。
「橋を正面から攻めるんじゃない?」
「正面だけではな」
マティアスが答える。
「上流から兵を渡し、北岸へ回り込むつもりだ」
「関門を後ろから攻める?」
「それだけではない。レオンハルトの援軍が来る道も塞げる」
「援軍は北東から来る……」
上流を渡った敵が森を抜ければ、エルツェンから橋へ向かう街道へ出られる。
騎兵二百が来ても、途中で足止めされる可能性がある。
「橋を守るために兵を集めたから、上流が薄くなった」
「ああ」
「最初から狙ってた?」
「男爵との交渉前から、橋だけでなく浅瀬まで調べていた。攻め方も考えていただろう」
「兵を分けますか?」
男爵が聞く。
マティアスは地図を見る。
「分けなければ上流から渡られる。分ければ橋が薄くなる」
「どちらが正しい?」
今度は俺が聞いた。
「正しい方を選べるとは限らん」
遠くの森で、松明の光が一つ動いた。
続いて二つ、三つ。
橋の防御準備は、まだ終わっていない。
南岸に残された麦も、全てを刈り取れてはいない。
レオンハルトの援軍も到着していない。
それでも敵は、こちらの準備が整うまで待ってはくれなかった。
橋の南西には、ヴァルナー伯軍の先遣隊がいる。
上流の森には、川を渡ろうとする別働隊がいる。
男爵軍五百のうち、実戦を経験した者は百にも満たない。
俺は暗い川と、対岸で揺れる松明を見た。
橋を守る戦いは、正面の石橋ではなく、誰もいないはずの上流から始まろうとしていた。
第四話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、ヴァルナー伯軍を迎え撃つための防衛準備と、グリュン川南岸に暮らす住民の避難を描きました。
敵の進軍を止めるだけなら、石橋を壊すことが最も確実な方法です。
しかし橋を失えば、橋を利用する商人だけではなく、宿場、厩舎、工房、水車、川の両岸に暮らす領民にも大きな影響が残ります。
そこでマティアスは、橋を守る準備を進めながら、最後には一部を崩せるよう石工と工具を用意しました。
守るか、壊すか。
どちらか一つを今すぐ選ぶのではなく、最後まで選択肢を残すための準備です。
また、今回は住民の避難にも焦点を当てました。
人の命を優先する。
言葉にすれば当然のことですが、人だけが逃げられれば生活を再建できるとは限りません。
畑を耕す牛や馬。
翌年に蒔く種麦。
戦の後まで食べるための保存食。
農具や、それぞれの家族が長年使ってきた家財。
その全てを運ぶ時間も荷車もない中で、アレクは何を先に渡すのか決めなければなりませんでした。
その決定へ反発する領民に対し、ローゼンハイム男爵は自分の家具や酒樽を荷車から降ろさせます。
領民だけに財産を置いていけと命じるのではなく、男爵家も同じように失うものを受け入れる。
男爵が守りたかったものが、橋そのものではなく、橋の周辺で暮らす人々であることを行動で示した場面です。
防衛に使う荷車や木材についても、無断で持ち去るのではなく、所有者と数量を記録しました。
戦後に全てを補償できる保証はありません。
それでも、記録を残さなければ返すことも、損失について話し合うこともできません。
勝つための準備だけでなく、戦が終わった後にも人々が暮らしを立て直せるよう、出来る限りのものを残そうとしています。
しかし、こちらの準備が終わる前にヴァルナー伯軍の先遣隊が現れました。
さらに敵の一部は、橋の正面ではなく上流の浅瀬へ向かっています。
橋へ兵を集めれば、上流の守りが薄くなる。
上流へ兵を分ければ、三倍の敵を迎える橋の守りが薄くなる。
そしてレオンハルトの援軍は、まだ到着していません。
次話では、上流の浅瀬から川を渡ろうとする敵の別働隊と、それを阻止しようとする男爵軍の間で、最初の戦闘が始まります。




