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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第四篇 乱世に抗う力

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第三話 一つの橋

シュヴァルツ伯側の関所を避け、西部からレオンハルト軍へ物資を運ぶために必要となるグリュン川大橋。

その橋を領内に持つローゼンハイム男爵のもとには、王都とシュヴァルツ伯、双方の使者が集まっていました。

王都が約束するのは、王家による所領の保証。

シュヴァルツ伯が示すのは、地方の権利と戦後に与える新たな土地。

それに対し、レオンハルト側は守れない約束をしようとしません。

三つの陣営が異なる条件を提示する中、ローゼンハイム男爵は何を守ろうとしているのか。

アレクはマティアスから、相手の言葉だけではなく、その表情と反応を見るよう命じられます。

兵五百を率いる領主と、その領内に架かる一つの橋。

戦の中では、橋一つが何千の兵より大きな価値を持つことがあります。

 ローゼンハイム男爵領へ向けてエルツェンを出たのは、翌朝まだ空が白み始めたばかりの頃だった。

 同行するのは、マティアスと俺、レオンハルトの使者として派遣されたユリウス、それに護衛二十名ほどだ。

 レオンハルト本人は、北部諸侯との会談があるためエルツェンに残った。

「本当に俺まで必要ですか?」

 馬へ乗りながら聞くと、マティアスがこちらを見る。

「昨日、仕事を与えたはずだが」

「男爵が何を守りたいのか見極めろ、ですよね」

「覚えているではないか」

「覚えてますけど、領主が守りたいものなんて領地じゃないんですか?」

「なら、行かなくても答えは出ているな」

「そう言われると、自信がなくなるんですよ」

「最初から持っていない自信が、どうしてなくなる」

「ひどくないです?」

 少し前を進むユリウスが振り返る。

「朝から騒ぐな」

「俺だけが騒いでるみたいに言わないでください」

「実際そうだ」

「マティアス様も喋ってましたよ」

「お前が話しかけたからだろう」

「二人とも、俺に厳しくなってません?」

「気のせいだ」

 絶対に気のせいではない。

 エルツェンから西へ続く街道には、既に多くの荷車が行き交っていた。

 ただし、以前とは荷の流れが少し変わっている。

 シュヴァルツ伯領へ向かう荷車は今も多い。それでも、全てが西へ進んでいるわけではない。途中の分かれ道で北へ曲がり、レオンハルト軍が集まる地域へ向かう荷車も見える。

 バルタザールとの契約をきっかけに、他の商人も動き始めていた。

 もっとも、順調とは言えない。

 街道の先にはシュヴァルツ伯側が新たに置いた関所があり、レオンハルト側へ向かう荷には高い通行税が課される。

 それを避けるため、俺たちは途中から北寄りの細い道へ入った。

 道と呼んでいいのか迷うほど狭い。

 片側には森が迫り、反対側は緩い斜面になっている。馬なら進めるが、大きな荷車が通れば、木の枝や張り出した岩にぶつかるだろう。

「本当にここを輸送路に使えないんですか?」

「小さな荷車なら通れる」

 ユリウスが答える。

「ただし、擦れ違う場所がほとんどない」

「一方通行にすれば?」

「行った荷車はどうやって戻る?」

「時間を決めて、午前は北向き、午後は南向きとか」

「馬車が全て予定通りに動けばな」

「……無理ですね」

 荷車が壊れる。

 馬が疲れる。

 雨が降る。

 道を塞ぐ倒木があるかもしれない。

 現代の道路と違って、同じ距離でもかかる時間は毎回変わる。

「地図には、ちゃんと道として書いてあるんですけどね」

 俺は折り畳んだ地図を見る。

「線が引かれていることと、軍や荷車が使えることは同じではない」

 マティアスが言った。

「前にも似たようなことを言われた気がします」

「なら覚えろ」

「覚えましたよ。今、実際に見て納得したところです」

 地図の上では、どの道も細い線でしかない。

 しかし実際には、馬だけが通れる道、荷車一台なら通れる道、大軍が並んで進める道では価値が全く違う。

 まして川を渡る場所となれば、さらに限られる。

 昼を過ぎた頃、森を抜けた。

 視界の先に大きな川が見える。

「あれがグリュン川ですか?」

「ああ」

 流れは思っていたより速かった。

 川幅は場所によって違うが、橋の周辺では百歩以上ある。前日の雨で少し水かさが増しているらしく、濁った水が音を立てて流れていた。

 そして川の上には、灰色の石で造られた大きな橋が架かっている。

 橋脚がいくつも川の中へ立ち、緩やかな弧を描く橋桁を支えていた。幅は荷車二台がぎりぎり擦れ違えるほどだろう。

 両端には小さな関門があり、ローゼンハイム男爵家の紋章を付けた兵が通行する者と荷を確認している。

「もっと小さいと思ってました」

「西部では最も大きな橋の一つだ」

 ユリウスが答える。

「いつ造られたんです?」

「百年近く前だ。その後、何度も修理されている」

「百年……」

 石橋の北側には小さな宿場が広がっていた。

 旅人や商人が泊まる宿屋。

 馬を休ませる厩舎。

 荷車を止める広場。

 通行を待つ商人を相手にする食堂や酒場。

 川沿いには水車が回り、少し離れた場所には麦畑が広がっている。

 橋一つがあるだけではない。

 橋を中心に、人の暮らしと商売が出来上がっていた。

「橋を押さえるって、橋だけを取るわけじゃないんですね」

「どういう意味だ?」

 マティアスが聞く。

「ここで戦になったら、宿場も畑も巻き込まれます。水車が壊れたら、麦を粉にすることもできない」

「ああ」

「男爵も、それを分かってる?」

「領主が自分の土地をお前より知らないと思うか?」

「思いません」

 橋の上を、穀物袋を積んだ荷車がゆっくり渡っていく。

 その後ろには牛を連れた農民がいる。

 兵を運ぶためだけの橋ではない。

 壊せば敵は渡れなくなるかもしれないが、ここに暮らす人間の生活も分断される。

「だから男爵は決められない?」

 俺が聞いたが、マティアスは答えなかった。

「自分で確かめろ」

「またそれですか」

「そのために来た」

 橋を渡った後、俺たちは北東にあるローゼンハイム城へ向かった。

 ◇ ◇ ◇

 ローゼンハイム城は、川を見下ろす低い丘の上にあった。

 大公の居城のような巨大な城ではない。石壁で囲まれた本館と、兵舎、倉庫、厩舎があるだけの実用的な城だった。

 それでも丘の上からは、石橋と周辺の街道を見渡せる。

 城門を通ると、男爵家の家臣が出迎えた。

「レオンハルト殿下の使者、ユリウス・フォン・カレンベルク殿とお見受けいたします」

「そうだ」

「男爵がお待ちです。こちらへ」

 案内された応接室には、既に二人の使者がいた。

 一人は四十代ほどの男だった。

 短く整えた黒髪に、細身の身体。濃い赤色の上着には、グランヴァルト王家の紋章が付けられている。姿勢も表情も崩れず、いかにも王都の官僚という雰囲気だった。

 もう一人は三十代後半くらいだろう。

 明るい茶色の髪を後ろへ流し、緑色の上着を着ている。こちらの服にはシュヴァルツ伯家の黒い鷲をかたどった印があった。

 二人とも俺たちが入ると、会話を止めた。

「王都政務院次官を務めている」

 黒髪の男が名乗る。

「レオンハルト殿下の使者と同席することになるとは思わなかった」

「ユリウス・フォン・カレンベルクです」

 ユリウスが一礼する。

「こちらはマティアス・クレーマー。それから、その配下のアレク・ハルトマン」

「アレク・ハルトマン」

 政務院次官が俺を見る。

「名前は聞いている」

「でしょうね」

 もう驚かなくなってきた。

 隣でユリウスが小さく息を吐く。

「シュヴァルツ伯閣下の使者として参りました」

 その使者は穏やかに一礼した。

「アレクです」

「エルツェンの城壁を守った少年ですな」

「一人で守ったわけじゃありません」

「もちろんです。しかし、民兵までまとめて戦ったと聞いております」

 口調は柔らかい。

 少なくとも、最初から敵意を見せるような人物ではなかった。

 扉が開き、一人の男が入ってくる。

 四十代後半ほど。灰色が混じり始めた栗色の髪を短く切り、深い緑色の服を着ている。

 派手な装飾はない。腰に剣はあるが、武勇を誇る武将という印象でもなかった。

 ただ、歩き方と姿勢には領主らしい落ち着きがある。

「待たせた」

 男が席につく。

「エーリヒ・フォン・ローゼンハイムだ。遠いところをよく来てくれた」

 俺たちもそれぞれ席へつく。

 男爵は三陣営の使者を順番に見た。

「既に王都とシュヴァルツ伯からは条件を聞いた。レオンハルト殿下の使者にも同じ機会を与える」

「感謝いたします」

 ユリウスが書状を差し出した。

 男爵は封を確認してから開き、黙って読み始める。

 その間、俺は男爵を見ていた。

 昨日、マティアスから与えられた仕事だ。

 何を守りたいのか。

 正直、顔を見ただけで分かるとは思えない。

 男爵が書状を机へ置いた。

「王都からは、兵四百を出し、石橋を王都軍へ開放するよう求められた」

 最初に王都の条件を口にした。

「代わりに、王家が現在の所領と権利を保証する。戦で橋が傷ついた場合は、王都が修繕費を負担するとのことだ」

 政務院次官が頷く。

「王家に忠実な諸侯の所領と権利は、王家が責任を持って守ります」

「シュヴァルツ伯からは、兵二百を出すよう求められた。戦後も私の裁判権と徴税権を維持し、王都から派遣される役人を受け入れる必要はない。さらに勝利後は、東に隣接する土地を与えると言われている」

 シュヴァルツ伯の使者が穏やかに笑う。

「シュヴァルツ伯閣下は、地方諸侯が代々守ってきた権利を尊重されます。王都の役人が、土地の事情も知らずに命令するような国を望んではおられません」

 男爵が最後にユリウスを見る。

「レオンハルト殿下の条件は、現在の所領と権利を保証する。橋を軍が使う場合は、定められた使用料を支払う。私の兵の指揮権も奪わない」

「はい」

「領内での無断徴発を禁じ、軍が損害を与えた場合は調査の上で補償する」

「その通りです」

「しかし、戦後の加増も免税もない」

「守れない約束は出来ません」

 答えたのはマティアスだった。

 男爵の目が向く。

「つまり、レオンハルト殿下は私に何も与えない?」

「現在お持ちのものを奪わないと約束します」

「王都も同じことを約束している」

「王都は兵四百と、橋の無条件開放を求めています」

「それでも王家の保証がある」

「王家の保証が、王兄殿下の保証と同じであるなら」

 政務院次官の表情が僅かに険しくなる。

「言葉を慎まれよ、クレーマー殿。王兄殿下は王家を代表して政務を執っておられる」

「だからこそ、レオンハルト殿下との対立が生まれたのでしょう」

「今はシュヴァルツ伯の反乱を鎮める時だ。王家の者同士が争っている場合ではない」

「その点については同意します」

「ならばレオンハルト殿下も王都の命令へ従うべきだ」

「共同してシュヴァルツ伯を討つことと、王兄殿下の臣下になることは同じではありません」

 二人とも声は荒らげていない。

 それでも、王都とレオンハルトの対立が言葉の端から見える。

「その点こそ、シュヴァルツ伯閣下が危惧しておられることです」

 シュヴァルツ伯の使者が会話へ入った。

「王兄殿下は国の全てを王都へ集めようとしている。税、兵、裁判、役人。今はシュヴァルツ伯を反逆者と呼んでいるが、その次に権利を奪われるのは、ここにいるローゼンハイム男爵かもしれません」

「王兄殿下の改革は、国を一つにするためのものだ」

 政務院次官が言う。

「一つにすることと、全てを王都の言いなりにすることは違います」

「地方諸侯が好き勝手に税を取り、互いに争う状態を続けろと?」

「誰もそのようなことは言っておりません」

 話を聞く限り、どちらの言い分にも正しい部分があった。

 国全体の制度をまとめようとする王都。

 地方の権利を守ると主張するシュヴァルツ伯。

 その間に立つレオンハルト。

 誰が完全に正しく、誰が完全に間違っているとは言い切れない。

「話を戻そう」

 男爵が二人を止めた。

「私は国の未来だけを論じるために、あなた方を集めたわけではない」

 男爵はマティアスを見る。

「王都は王家の保証を与える。シュヴァルツ伯は土地と権利を与える。レオンハルト殿下は、私に何を与えてくださる?」

「守れない約束はしません」

 マティアスは先ほどと同じ言葉を繰り返した。

「土地も与えず、税も減らさず、ただ橋を使わせろと?」

「使用料は支払います。領内で物資を得る時も、定めた代金を払う」

「金の問題だけではない」

「分かっています」

「分かっている者が出す条件には見えんな」

 男爵の声には、僅かな苛立ちが混じっていた。

 俺はその表情を見ていた。

 シュヴァルツ伯から土地を与えると言われた時、男爵はほとんど表情を変えなかった。

 王都から所領を保証すると言われた時も同じだ。

 しかし兵を何人出すのか、橋を無条件で開放するのかという話になると、眉間に皺が寄る。

 そして無断徴発を禁じるという条件を確認した時だけ、書状を読む目が一度止まった。

 何かある。

 だが、まだ確信は持てなかった。

「昼食の用意が出来ている」

 男爵が立ち上がる。

「結論はその後にする。あなた方にも考える時間が必要だろう」

 会談は一度中断されることになった。

 ◇ ◇ ◇

 昼食には、黒パンと川魚、それに根菜を煮込んだ料理が出された。

 貴族の城で出されるものとしては、随分質素に見える。

 だが魚は新鮮で、煮込みにも丁寧に味が付けられていた。

「この魚、美味しいですね」

 俺が言うと、男爵がこちらを見る。

「橋から少し上流で取れたものだ」

「この辺りでは魚もよく取れるんですか?」

「ああ。川沿いの三つの村は、畑だけでなく漁でも暮らしている」

「水車もありましたよね」

「五基ある。領内で取れた麦の多くを、あそこで粉にする」

「橋の近くに人が集まっているのは、商人が通るからだけじゃないんですね」

「川と橋の両方があるからだ」

 男爵の声が少し変わった。

 正式な会談の時より、説明が具体的になっている。

「百年ほど前、この橋が造られてから宿場が出来た。荷車を修理する職人や馬を扱う者も住み始めた。橋がなければ、今ある町の半分は存在しないだろう」

「橋が壊れたら?」

「南の浅瀬か、北の渡し場を使うしかない。だが荷車には向かん」

「王都は修繕費を出すと言ってました」

「ああ」

「それでも、あまり嬉しそうじゃなかったですね」

 食卓の空気が止まった。

 ユリウスが俺を見る。

「アレク」

「何です?」

「少し黙っていろ」

「聞いただけですよ」

 男爵は怒るかと思ったが、俺をしばらく見た後で小さく息を吐いた。

「修繕費があれば、壊れた橋がすぐ元へ戻ると思うか?」

「思いません」

「石工を集め、石を切り、運び、足場を組む。橋脚が壊れれば、川の流れを変える工事も必要になる。数年かかることもある」

「その間、宿場の人は仕事を失う」

「ああ。修繕費だけで、その暮らしまで元へ戻るわけではない」

「だから橋を軍に使わせたくない?」

「使わせなくても、軍は来る」

 男爵は窓の外へ視線を向ける。

「この川を大軍が渡れる場所は限られている。私が誰を選ぼうと、選ばなかった者は橋を奪いに来る」

 その言葉で、男爵が迷っている理由が少し見えた気がした。

 条件を競わせたいだけではない。

 どれを選んでも、別の勢力から敵と見なされる。

「決めないままでは駄目なんですか?」

「総動員令が出た。何もしないことも、王都では命令へ従わないという選択になる」

「シュヴァルツ伯から見れば?」

「王都に屈したと見られるかもしれん」

「レオンハルト殿下からは?」

「少なくとも、橋を使わせるかどうかの返答は求められる」

「大変ですね」

「随分他人事だな」

「だって、俺が決めることじゃないですから」

 男爵が僅かに笑った。

「それはそうだ」

 正式な場では硬い表情しか見せなかった男爵が、初めて少しだけ笑った。

「父の時代にも、この橋を巡って争いがあった」

 男爵が続ける。

「規模は今回より遥かに小さかった。兵も千に満たなかった。それでも南岸の村が一つ焼かれ、畑の半分が踏み荒らされた」

「その時、男爵は?」

「十三だった。城の窓から、村が燃えるのを見ていた」

「……」

「戦が終わった後、父とともに村へ行った。家を失った者に木材を与え、次の収穫まで食べられるだけの穀物を配った。だが、全てが元へ戻るまで五年かかった」

 男爵が守りたいもの。

 その答えは、やはり領地なのかもしれない。

 ただし、地図の上に描かれた広さや、戦後に増える土地ではない。

 今そこにある村、畑、橋、そして人の暮らし。

 俺はマティアスを見る。

 マティアスは何も言わずに食事を続けていた。

 自分で確かめろということらしい。

 ◇ ◇ ◇

 午後に会談が再開された。

「私が最も良い条件を出した者を選ぶとして、何が悪い?」

 男爵は三人の使者を見る。

「私は自分の領地を守らなければならない。ならば、より多くを与え、より少ない負担を求める者を選ぶのが当然だろう」

「その通りです」

 シュヴァルツ伯の使者がすぐに答えた。

「だからこそ、シュヴァルツ伯閣下は男爵家の権利を守り、新たな土地を与えると約束されています」

「王家への忠誠は、取引の条件によって決めるものではない」

 政務院次官が言う。

「男爵家が今日まで領地を守ってこられたのも、王家の秩序があればこそです」

 二人の主張を聞きながら、俺は男爵を見た。

 土地を与えるという話には、やはりほとんど反応しない。

 王家の秩序という言葉にも同じだ。

 それより、机の上に置かれた領内の地図へ何度も視線を落としている。

 地図には橋だけでなく、周辺の村や畑、水車の位置まで細かく描かれていた。

 俺は少し迷った。

 正式な交渉だ。

 黙っていろと言われる可能性も高い。

 だが、マティアスは相手を見ろと言った。

「男爵が守りたいのは、領地の広さじゃないんじゃないですか?」

 口にすると、全員の視線が俺へ向いた。

「アレク」

 ユリウスの声が低くなる。

「待て」

 止めたのはマティアスだった。

「続けろ」

 男爵も俺を見る。

「何を根拠に言う?」

「シュヴァルツ伯から土地を貰えると聞いた時より、兵を何人出すかとか、軍が村から物を取るかって話の時の方が、男爵は嫌そうな顔をしてました」

「私の顔を見ていたのか」

「それが仕事だと言われたので」

「では、私が守りたいものは何だと思う?」

「今持っている村と畑と橋です」

「それらも全て領地だ」

「でも、これから貰えるかもしれない土地とは違います」

 シュヴァルツ伯の使者の表情が僅かに変わる。

「どう違う?」

 男爵が聞いた。

「シュヴァルツ伯が与えると言った東の土地は、まだシュヴァルツ伯のものじゃありません」

「伯爵閣下が勝利された後、王家に与した者から没収される土地だ」

 シュヴァルツ伯の使者が答える。

「そうですよね。つまり、その土地を貰うためには、まず戦に勝たないといけない」

「我々が敗れると思っているのか?」

「勝敗がもう決まってるなら、男爵はこんなに迷ってないと思います」

 シュヴァルツ伯の使者の目が細くなる。

 言いすぎたかもしれない。

 それでも、途中で止めるわけにはいかなかった。

「まだ持っていない土地を貰えるかもしれない。その代わりに、今ある畑や村が戦場になるかもしれない。男爵が本当に守りたいのは、どちらなんですか?」

「少年、言葉を慎め」

 シュヴァルツ伯の使者が低い声で言う。

「伯爵閣下の約束を疑うことは、伯爵家への侮辱だ」

「約束を疑ってるんじゃありません。その約束を守れるかどうかは、戦が終わるまで誰にも分からないと言ってるだけです」

「同じことだ」

「違います」

「何が違う?」

「バルタザールという商人も、シュヴァルツ伯から戦後に代金を払うと言われていました。でも、伯爵が負けた時に誰が払うのかは決まっていなかった」

 シュヴァルツ伯の使者の表情から、先ほどまでの穏やかさが消えた。

「商人との取引と、諸侯への約束を同列にするな」

「相手が商人でも領主でも、守れない約束は同じじゃないですか?」

「アレク」

 今度はマティアスに呼ばれた。

「はい」

「そこまでだ」

「……はい」

 ようやく止められた。

 シュヴァルツ伯の使者は俺を睨んでいる。

 ユリウスは額へ手を当てていた。

 政務院次官は何とも言えない顔をしている。

 男爵だけが、黙って俺を見ていた。

「率直な少年だな」

「よく言われます」

「率直という言葉で済ませてよいのかは分からんが」

「それもよく言われます」

 男爵が小さく息を吐いた。

 怒っているようには見えなかった。

「マティアス・クレーマー」

「はい」

「お前は、この少年に何を教えている?」

「考えたことを口にする前に、一度考え直せと」

「教えが足りていないようだ」

「私もそう思います」

「二人して言わないでくださいよ」

 僅かに空気が緩んだ。

 マティアスが一冊の帳簿と、何枚かの紙を机へ置く。

「男爵。こちらをご覧ください」

「何だ?」

「昨日、エルツェンで行った支払いの記録です」

 男爵が紙を手に取る。

「バルタザール商会……小麦二百樽。届いたのは百五十樽?」

「残りの五十樽は、ヴァルナー伯家の紋章を付けた兵に奪われました」

「ヴァルナー伯の兵が?」

 男爵の顔つきが変わる。

「正式な旗は掲げていませんでした。ただし商会の番頭と護衛が紋章を確認しています」

「襲撃場所は?」

「ブレーデン村の北です」

「私の領地から遠くないな」

「はい」

 男爵は記録を読み進める。

「荷を受け取る前に襲われている。契約上は商会の責任ではないのか?」

「その通りです」

「それなのに前金の返還を求めず、荷車と馬の損害まで一部負担した?」

「全てではありません。商会と我々で負担を分けました。負傷者の治療費はこちらが全額出しています」

「なぜだ?」

「次の荷を運ぶ者を残すためです」

 マティアスが答える。

「情けか?」

「必要な支出です」

「自分で善意ではないと言うのか」

「善意だけで軍は養えません」

 男爵がもう一度記録を見る。

「これが、レオンハルト殿下の信用の証だと言いたいのか?」

「いいえ」

「違うのか?」

「一度約束を守っただけで、これからも必ず守るとは限りません」

「なら、なぜ見せた?」

「我々が何を約束するかではなく、問題が起きた時に何をしたかを見ていただくためです」

 マティアスは政務院次官とシュヴァルツ伯の使者へ一度視線を向けた。

「王都の保証が最も確かだと思うなら、王都を選べばいい。シュヴァルツ伯の約束を信じるなら、伯爵を選べばいい。我々については、言葉ではなく、この記録を見て判断してください」

「随分自信がないのだな」

「言葉だけで信じろという者よりは、慎重なつもりです」

 男爵は紙を机へ置いた。

 それから、しばらく何も言わなかった。

 部屋の外から、風の音が聞こえる。

「一つ、まだ話していないことがある」

 やがて男爵が口を開いた。

「三日前から、橋の南側で見慣れない者が増えている」

「見慣れない者?」

 ユリウスが聞く。

「農民や商人の格好をしているが、橋の幅、関門の兵数、夜の交代時刻を調べていた。川の上流にある浅瀬を見ていた者もいる」

「捕らえたのですか?」

「二人を捕らえた。一人は何も話さない。もう一人は、ヴァルナー伯領の出身だと分かった」

 またヴァルナー伯。

「橋を調べていた?」

 俺が聞く。

「ああ」

「交渉が失敗したら、奪うつもりですか?」

「その可能性がある」

 男爵が地図へ視線を落とす。

「王都も同じだ。政務院次官殿は穏やかな言葉を使っているが、総動員令へ従わなければ、私は王家の命令を拒んだ領主になる」

「王家は反逆を望んでおりません」

 政務院次官が答える。

「しかし国難の中で、命令へ従わない者をいつまでも中立として扱うことも出来ません」

「それが答えだ」

 男爵は苦く笑った。

「私は最も良い条件を選ぼうとしているのではない。どれを選べば、残りの二者から領地を守れるのか考えている」

 ようやく、男爵の本音が出た。

 何も決めなければ安全なのではない。

 選んでも危険で、選ばなくても危険だった。

「では、決めないという選択は?」

 俺が聞く。

「もう残っていない」

 男爵はそう答えた。

 ◇ ◇ ◇

 再び長い話し合いが続いた。

 男爵は、レオンハルトへの臣従も、王都への反逆も明確には口にしなかった。

 その代わり、橋と領地を守るための条件を一つずつ挙げた。

「商人の荷車が橋を通ることは認める。ただし、これまで通りの通行税は支払ってもらう」

「構いません」

 ユリウスが答える。

「レオンハルト軍が通過する場合は、事前に兵数、通過日、滞在日数を知らせること。無断で橋を渡ることは認めない」

「緊急時は?」

「使者を先に寄越せ」

「承知しました」

「私の軍は五百しかいない。この兵を領外へ出すつもりはない。橋と村の防衛に使う」

「軍役を拒むと?」

 政務院次官が聞く。

「今の私に、領地を空にして四百の兵を王都へ送ることは出来ない」

「その判断は王兄殿下へ報告する」

「好きにされよ」

 男爵の声には、既に迷いが少なくなっていた。

「軍が領内の食糧、馬、荷車を必要とする場合は、正当な代金を支払うこと。無断徴発は認めない」

「レオンハルト殿下の名において約束します」

「戦で村や畑へ損害が出た場合は記録を残し、後日補償について話し合う」

「全てを補償できるとは約束出来ません」

 ユリウスが答える。

「だが、調査を行い、責任が確認出来たものについては支払います」

「それでいい」

 男爵はシュヴァルツ伯の使者を見る。

「シュヴァルツ伯の条件は魅力的だった。地方の権利を守るという主張にも理解出来る部分はある」

「では」

「しかし、橋の周辺を探らせていたことについて説明を聞きたい」

「伯爵閣下が命じたこととは限りません。ヴァルナー伯が独自に動かした者かもしれない」

「そのヴァルナー伯は、シュヴァルツ伯へ兵を出すと表明している」

「一人の諸侯の行動を、伯爵閣下の意思と同じにされては困ります」

「ならば、ヴァルナー伯の兵を橋へ近づけないと約束出来るか?」

 シュヴァルツ伯の使者の返事が僅かに遅れた。

「私の立場で、他家の軍へ命令することは出来ません」

「そうか」

 男爵は小さく頷いた。

「ならば、私は自分で橋を守る」

 シュヴァルツ伯の使者の表情から笑みが消えた。

「それは、レオンハルト殿下へ橋を開くという意味ですか?」

「商人へ橋を開く。軍については条件を満たした場合のみ通す」

「伯爵閣下は、その違いを認められないかもしれません」

「私はシュヴァルツ伯の家臣ではない」

「その言葉も含めてお伝えします」

「ああ」

 次に政務院次官が立ち上がる。

「王家は、誰が命令に従い、誰が従わなかったのかを記憶しております」

「王家と王兄殿下が同じものなら、そう伝えられよ」

 政務院次官の目が僅かに細くなる。

 それでも、それ以上は何も言わなかった。

 二人の使者が退室する。

 扉が閉まった後も、男爵はしばらく動かなかった。

「これで、私は王都とシュヴァルツ伯の双方から疑われることになった」

「レオンハルト殿下へ忠誠を誓う必要はありません」

 マティアスが言う。

「では、私は何だ?」

「自分の領地を守るため、最も確かな条件を選んだ領主です」

「お前は、商人にも同じことを言ったそうだな」

「耳が早い」

「商人の噂は街道を走る」

 どこかで聞いた言葉だった。

「一つ聞きたい」

 男爵が言う。

「お前たちは、本当に無断徴発をしないのか?」

「兵の全てを止められるとは言いません」

「……」

「命令に従わず、村から食糧を奪う者が出る可能性はある。その時は捕らえ、規律に従って処罰します。奪った物も、確認出来る限り返すか代金を支払う」

「出来ないことは出来ないと言うのだな」

「出来ると言って守れないよりはましです」

 男爵が疲れたように椅子へ座った。

「それを信用するしかないか」

「信用ではなく、見張ってください」

「何?」

「我々が約束を破れば、橋を閉じればいい」

「随分危うい関係だ」

「最初はそれで十分です」

 マティアスはそう答えた。

 忠誠を誓わせたわけではない。

 完全な味方にしたわけでもない。

 それでも、商人の荷が橋を渡れるようになった。

 今は、それが重要なのだろう。

 ◇ ◇ ◇

 会談が終わって間もなく、城の外から激しい馬の蹄の音が聞こえた。

 廊下を駆ける足音が近づき、扉が強く叩かれる。

「男爵様、急報です!」

「入れ」

 若い兵が部屋へ飛び込んでくる。

 肩で息をし、額には汗が浮かんでいた。

「橋の南西にある監視所から連絡です。街道を北東へ進む軍勢を確認しました」

「旗は?」

「ヴァルナー伯家です」

 部屋の空気が変わった。

「数は?」

「正確には分かりません。ただ、先頭だけで五百以上。後続を含めれば千五百ほどかと」

「千五百……」

 男爵の兵は五百。

 単純な数なら三倍になる。

「いつ到着する?」

「進軍速度を考えれば、早くて明日の夕方です」

 男爵が立ち上がり、窓へ向かう。

 先ほど城を出たシュヴァルツ伯の使者の姿は、もう見えない。

「交渉が失敗したから、兵を動かした?」

 俺が聞く。

「違う」

 マティアスが答えた。

「何が違うんです?」

「千五百の軍は、一日で集めて動かせるものではない。我々がここへ来る前から出発していた」

「じゃあ、最初から?」

「ああ。男爵がシュヴァルツを選べば、味方として橋へ入る。選ばなければ敵として奪う」

「どちらを選んでも、橋を取るつもりだった……」

 シュヴァルツ伯の使者がそのことを知っていたかは分からない。

 本当に交渉で男爵を味方にしようとしていたのかもしれない。

 しかし少なくともヴァルナー伯は、話し合いの結果だけを待つつもりはなかった。

「私は」

 男爵が窓の外を見ながら言う。

「軍を領内へ入れないために条件を選んだ。それなのに、選んだことで軍が来るのか」

「男爵が何も選ばなくても、いずれ来ました」

 マティアスが答える。

「なぜ分かる?」

「この橋があるからです」

 男爵は反論しなかった。

 橋を持つということは、平時には富を得ることだ。

 商人が通り、宿場が栄え、通行税が入る。

 だが戦になれば、誰もが欲しがる。

「五百で千五百を止められると思うか?」

「兵の状態と、橋の守りによります」

「私の兵の多くは、村から集めた者だ。実戦を経験した者は百にも満たない」

「レオンハルト殿下へ援軍を求めます」

 ユリウスが答える。

「間に合うのか?」

「騎兵だけなら明日の昼までに到着出来ます。歩兵は早くても夜になるでしょう」

「ヴァルナー伯軍の方が先に着く可能性がある」

「ああ」

 マティアスが地図を広げる。

「まず橋と周辺を確認する。男爵の兵がどこにいて、どれだけ動かせるのかも知りたい」

「橋を落とせば、敵は渡れない」

 男爵が言った。

 俺は思わず顔を上げる。

「壊すんですか?」

「敵に奪われるくらいなら、その方がいい」

「でも」

 昼に見た宿場と水車が頭に浮かぶ。

「橋を壊したら、町はどうなるんです?」

「分かっている」

 男爵の声が低くなる。

「分かっているから、今まで決められなかった」

 橋を守るために戦えば、周囲の村や畑が戦場になる。

 橋を壊せば、敵は止められても、領民の暮らしが失われる。

 どちらを選んでも、何かを守り、何かを失う。

「アレク」

 マティアスが俺を見る。

「はい」

「橋を見たな」

「見ました」

「周囲の村と畑も?」

「はい」

「なら考えろ。橋を守りながら、どうすれば領地を戦場にせずに済む」

「そんなこと、出来るんですか?」

「出来なければ、戦場になった後に何を残すかを考えろ」

 俺は窓の外を見る。

 遠くには、昼に渡った石橋が見えた。

 今も何台もの荷車が橋を渡っている。

 宿場からは煙が上がり、水車は変わらず回っている。

 そこへ千五百の兵が近づいていた。

 商人の荷を通すために必要だった一つの橋。

 その橋を巡り、話し合いで決まったはずの道を、今度は剣で奪おうとする者がいる。

 剣を抜く前の戦いは、まだ終わっていない。

 ただ、そのすぐ隣まで、本物の戦場が迫っていた

第三話をお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、グリュン川大橋を領内に持つローゼンハイム男爵と、三つの陣営による交渉を描きました。

王都は王家への忠誠と引き換えに、現在の所領と権利を保証する。

シュヴァルツ伯は地方領主の権利を守り、勝利後には新たな土地を与える。

それに対し、レオンハルト側が提示したのは、橋の使用料、無断徴発の禁止、男爵自身による兵の指揮、そして損害が出た場合の調査と補償でした。

土地の加増や免税と比べれば、レオンハルト側の条件は魅力に欠けるように見えます。

しかしローゼンハイム男爵が本当に守りたかったのは、戦後に得られるかもしれない土地ではありません。

今そこにある村、畑、水車、宿場、そして領民の生活でした。

アレクは男爵の表情や視線から、そのことに気づきます。

まだ所有していない土地を得るために、今ある領地を戦場にするのか。

いつものように少し踏み込みすぎながらも、アレクは男爵が口にしなかった不安を言葉にしました。

また、マティアスが示したのは、新たな約束ではなく、前話で実際に行った支払いの記録です。

契約通りなら負担する必要のなかった損失を、なぜ商人と分けたのか。

問題が起きた時に、レオンハルト側がどのような判断をしたのか。

これから必ず約束を守ると言葉だけで主張するのではなく、既に行ったことを判断材料として差し出しています。

交渉の結果、ローゼンハイム男爵はレオンハルトへ全面的な忠誠を誓ったわけではありません。

それでも、商人の荷と条件を守る軍には橋を開くと決断しました。

しかし、その決断が下される前から、ヴァルナー伯軍は橋へ向けて進軍していました。

男爵がシュヴァルツ側を選べば味方として橋へ入り、選ばなければ敵として奪う。

話し合いの結果にかかわらず、シュヴァルツ伯側は橋を確保するつもりだったことになります。

一つの橋を守るために戦えば、周辺の村や畑が戦場になる。

橋を壊せば敵の進軍は止められても、橋によって成り立っている宿場や領民の暮らしが失われる。

次話では、千五百のヴァルナー伯軍が迫る中、マティアスとアレクが橋と領地を守るための準備に入ります。

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