第二話 街道を走る噂
シュヴァルツ伯と長年取引してきた商人、バルタザール・ケーニヒとの契約を成立させたマティアスとアレク。
その最初の荷が、エルツェンへ届く日を迎えます。
しかし、到着するはずの時刻を過ぎても、街道に荷車は現れません。
やがて戻ってきたのは、矢を受け、負傷者を乗せた十五台の荷車でした。
奪われた兵糧。
傷ついた御者。
そして、レオンハルト側へ荷を運べば襲われるという噂。
シュヴァルツ伯側の狙いは、目の前の食糧だけではありません。
商人と御者に恐怖を与え、これから届くはずの荷まで止めようとしていました。
一度の損失を誰が負担するのか。
その判断が、次に街道を走る荷車の行き先を決めます。
バルタザールと契約を結んでから三日後、最初の荷がエルツェンへ届くことになっていた。
小麦二百樽を積んだ荷車二十台。
出発したという知らせは前日の夕方に届いている。大きな問題がなければ、昼を少し過ぎた頃にはエルツェン南門へ到着する予定だった。
俺は朝から南門近くの倉庫にいた。
「七番倉庫は、あと何樽入ります?」
「三百ほどです」
倉庫番の男が答える。
「今ある分を奥へ寄せれば、もう少し入ると思いますが」
「無理に詰めなくていいです。古い物から出せるようにしておかないと、奥に置いたまま腐ります」
「承知しました」
「それと、今日届く小麦には受け取った日を書いた札を付けてください。今ある物と混ぜないように」
「はい」
俺は手元の紙へ書き込んだ。
戦が終わった直後のエルツェンには、城内や周辺から集められた食糧がいくつもの倉庫に分けて保管されている。
どこに何があるのか分からなくならないよう、倉庫ごとの在庫を書き直したばかりだった。
以前の俺なら、帳簿と実際の数が合わないだけで大騒ぎしていたと思う。
今は少しくらい違っていても驚かなくなった。
良いことなのか悪いことなのかは分からない。
「アレク殿」
フェリクスが倉庫へ入ってくる。
「南の監視所から連絡です。まだ荷車は見えていないとのことです」
「何時です?」
「正午を少し過ぎました」
俺は窓から外を見る。
空は晴れている。昨夜も雨は降っていない。
「予定では、そろそろ着くはずですよね」
「はい」
「街道で何かあったのかな」
「商人の荷は遅れることもあります」
「分かってますけど」
契約を結んだ時、俺はバルタザールの輸送予定に余裕がないことを指摘した。
その俺が、半日も経たないうちから遅れを気にしている。
「もう少し待ちましょう」
「そうですね」
そう答えたものの、落ち着かなかった。
小麦二百樽だけでレオンハルト軍全体を養えるわけではない。それでも、この荷が無事に届くかどうかは重要だった。
バルタザールとの最初の契約だ。
ここで失敗すれば、次の四百樽にも影響する。
さらに、彼の動きを見ている他の商人たちもいる。
昼を過ぎても、荷車は来なかった。
倉庫番たちには通常の仕事へ戻ってもらったが、俺は南門近くに残った。
やがてマティアスまでやって来た。
「まだか?」
「はい」
「出発の連絡は?」
「昨日の夕方に届いています。ハルデンを予定通り出たそうです」
「なら、途中で止まっている」
「契約を破られた可能性は?」
「まだ決めつけるな」
「でも、バルタザールが考え直したのかもしれませんよ」
「考え直したなら、荷を出す前に連絡を寄越す」
「シュヴァルツ伯に止められた?」
「その可能性はある」
マティアスは南へ続く街道を見る。
「騎兵を出して確認させる。ただし、大人数は出すな」
「どうしてです?」
「こちらから契約の受け渡し場所を越えて迎えに行けば、バルタザールが約束通り運べなかったのか、我々が途中で受け取ったのか分からなくなる」
「今後の責任が曖昧になる?」
「ああ。それに護衛を増やしすぎれば、シュヴァルツ側から軍事行動だと言われる」
「荷車を迎えに行くだけなのに?」
「相手がそう見るとは限らん」
戦が近づけば、荷車一台を動かすだけでも政治になる。
「フェリクス」
「はい」
「騎兵を六騎出せ。南へ向かい、街道の様子を確認しろ。荷を見つけても、襲撃を受けていない限り受け渡し場所までは近づくな」
「承知しました」
フェリクスが走っていく。
「待つしかないんですね」
「ああ」
「こういう時、何もできないのが一番嫌だなぁ」
「戦場でも同じだ」
「戦場なら敵が見えます」
「見えない敵の方が多い」
俺は南の街道を見続けた。
午後になり、太陽が西へ傾き始める。
予定より三時間以上遅れていた。
ようやく街道の先から馬が駆けてきた。
先ほど出した騎兵の一人だ。
「マティアス様!」
騎兵は南門を入ると、俺たちの前で馬を止めた。
「荷を発見しました。ここから南へ一里ほどのところまで来ています」
「無事か?」
「荷車は十五台です。護衛と御者に負傷者がいます」
「二十台ではないのか?」
「はい。五台が奪われたとのことです」
俺はマティアスを見る。
「誰に?」
「詳しい話は、まだ」
「残りの荷を受け入れる。負傷者を治療所へ運ぶ準備をしろ」
「はっ」
倉庫番たちが慌ただしく動き始める。
しばらくして、南の街道に荷車の列が見えた。
出発した時には整然と並んでいたはずの荷車が、間隔を崩しながら進んでくる。
何台かは車体が傾き、荷台を覆っていた布も破れている。側面には矢が刺さったままのものもあった。
先頭の荷車が門を通る。
御者の額には血が滲んでいた。隣に座る護衛は左腕を布で吊っている。
「治療が必要な者を先に降ろしてください! 荷は後でいい!」
俺が声を上げる。
「歩けない者はいますか?」
「二人いる!」
「担架を!」
兵と倉庫番が負傷者を運び始めた。
荷車の一台から、見覚えのある男が降りてくる。
バルタザール商会の番頭だった。
「アレク殿」
「何があったんです?」
「途中で兵に止められました」
「シュヴァルツ伯の兵ですか?」
「正式な旗は掲げていませんでした。ただ、指揮していた男はヴァルナー伯家の紋章を付けていました」
先日、兵二千を率いてシュヴァルツ伯支持を表明した西部の有力諸侯だ。
「どこで襲われた?」
マティアスが聞く。
「ブレーデン村の北です」
「受け渡し場所は?」
「村の北にある石橋です。その橋まで、あと半里ほどの場所でした」
契約では、石橋まではバルタザール商会が運び、その先でレオンハルト側の護衛へ引き渡すことになっていた。
襲われたのは、その直前だ。
「向こうは何と言った?」
「王家に反逆する者へ運ぶ兵糧は没収すると」
「王家?」
俺は眉を寄せた。
「ヴァルナー伯はシュヴァルツ伯側ですよね」
「はい」
「王都とも戦うかもしれないのに、王家の名前を使った?」
「彼らは、レオンハルト殿下こそ国を割る反逆者だと」
「勝手な話だな」
王都もシュヴァルツ伯も、互いに自分たちこそ国を守る側だと主張している。
レオンハルトも王家の血を引いている。
どの旗の下でも、兵糧を奪う理由くらいは作れるのだろう。
「護衛は何人いた?」
「二十四人です。相手は五十ほどでした」
「よく十五台を逃がせましたね」
「全てを止めるつもりではなかったように思います」
番頭の言葉に、マティアスの目が細くなる。
「なぜそう思う?」
「最初は全て没収すると言っていました。しかし我々が抵抗すると、先頭の五台だけを押さえ、残りを深く追いませんでした」
「追えなかったのではなく、追わなかった?」
「はい」
俺は街道を振り返った。
「食糧が目的じゃなかった?」
「五十樽の小麦も目的の一つだろう」
マティアスが答える。
「だが、全て奪うより効果的なことがある」
「何です?」
「残りをここまで逃がし、何が起きたか話させることだ」
「話させる……」
「レオンハルトへ荷を運べば襲われる。その噂が広がれば、次から御者が荷を運びたがらなくなる」
俺は負傷した御者を見る。
頭に包帯を巻かれ、治療所へ向かっている。荷車の側面には何本も矢が刺さり、一台は車輪の外枠が割れていた。
これを見た商人や御者が、同じ道を使いたいと思うはずがない。
「五台を奪うだけで、次の二十台も、その次の二十台も止められる」
「ああ」
「最初から、それが狙いだった?」
「おそらくな」
マティアスが番頭を見る。
「まず荷を確認する。届いた数、失われた数、壊れた荷車、負傷者を全て記録しろ」
「代金については?」
「調べた後で話す」
番頭の表情が僅かに強張った。
既に代金の半分は契約時に支払っている。
届かなかった五台分をどう扱うのか。
俺たちだけではなく、バルタザール商会にとっても大きな問題だった。
◇ ◇ ◇
荷の確認には、夕方までかかった。
届いた小麦は百五十樽。
奪われた五台には、それぞれ十樽ずつ積まれていたため、失われたのは五十樽になる。
負傷者は七人。そのうち二人は傷が深かったが、命に関わるものではないと医師から聞いた。
馬は一頭が矢を受け、到着後に立てなくなった。
荷車は三台に修理が必要だった。
「間違いありません」
俺は書き上げた記録をマティアスへ渡した。
場所はレオンハルトが使っている館の会議室だった。
レオンハルト、マティアス、俺、ユリウス。それからバルタザール商会の番頭がいる。
「襲撃されたのは受け渡し場所の手前か」
レオンハルトが記録を見る。
「はい」
「なら、契約上は商会側の責任だな」
ユリウスが言った。
「荷が我々へ渡される前に起きた損失です。届かなかった五十樽分の代金を支払う義務はありません」
「でも、もう半分払ってますよね」
俺が聞く。
「前金だ。届けられなかった分については返還を求められる」
「荷車と馬は?」
「商会側のものだ」
「負傷者の治療費は?」
「それも、本来は商会が負担することになる」
言っていることは正しい。
契約書にも、受け渡し場所まではバルタザール商会が責任を負うと書かれている。
俺も一緒に確認した。
「アレクはどう思う?」
レオンハルトが聞いた。
「どうって……」
「契約通り、届かなかった分の前金を返させるべきか?」
俺は番頭を見る。
男は黙っているが、膝の上で組んだ手には力が入っていた。
「契約通りなら、そうなると思います」
「なら、それでいいか?」
「でも」
言葉が止まる。
正しい。
少なくとも契約上は、こちらが損失を負う理由はない。
「次の荷はどうなります?」
俺は番頭へ尋ねた。
「予定通り出せますか?」
「……分かりません」
「分からない?」
「御者たちが恐れています。負傷者を見た者の中には、次の輸送を断ると言い出した者もいます」
「護衛を増やせば?」
ユリウスが聞く。
「その費用は誰が負担するのですか?」
「商会側だろう」
「それでは利益が残りません。さらに今回の損失と前金の返還まで重なれば、会頭も契約そのものを考え直す可能性があります」
番頭の声には、悔しさが混じっていた。
俺たちを脅しているわけではない。
商会として当然の判断を説明しているだけだ。
「もし前金を返させたら」
俺はマティアスを見る。
「こちらは、今回の五十樽分では損をしない」
「ああ」
「でも、次の荷が来なくなるかもしれない」
「ああ」
「他の商人も、この話を聞きますよね」
「聞くだろうな」
「レオンハルト側へ運ぶと襲われる。荷を奪われても、契約書を理由に商人だけが損をする」
「そうなる」
俺は腕を組んだ。
「それはまずいですね」
「何がだ?」
「今日だけ損をしなくても、明日から誰も運ばなくなる」
「ようやく分かったか」
「またそれですか」
マティアスが記録を手に取った。
「届いた百五十樽については、契約通り残金を支払う」
「はい」
番頭が頷く。
「奪われた五十樽分について、前金の返還は求めない」
番頭が顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「ただし、残りの代金までは払わん。商会と我々で半分ずつ損を負う」
「……承知しました」
「壊れた荷車三台の修理費と、失った馬一頭についても半額を負担する。負傷者の治療費は全額こちらで持つ」
「マティアス」
ユリウスが僅かに眉を寄せる。
「契約では商会側の責任だ」
「分かっている」
「なら、なぜ支払う?」
「今回襲われたのは、我々へ荷を運んだからだ」
「それでも責任の境は決めていた」
「境があるから、全てを負担する必要はない。だが、境の手前で起きたから何も知らんと言えば、次に境まで来る者がいなくなる」
ユリウスはすぐには答えなかった。
「これは情けではない」
マティアスが続ける。
「次の荷を得るために必要な金だ」
「しかし、一度支払えば、今後も同じ補償を求められる」
「だから損害を調べた。言われた金額をそのまま出すつもりはない」
「襲撃されたと偽る商人が出る可能性もあるぞ」
「確認出来ない損失には払わん。今回は負傷者も荷車の損傷も、襲撃場所も確認出来る」
レオンハルトが記録へ目を落とす。
「私もマティアスに同意する」
「殿下」
「これから兵が増えれば、食糧はいくらあっても足りん。商人に、我々との契約は守られると思わせる必要がある」
ユリウスが小さく息を吐いた。
「承知しました。ただし、今回の支払いと理由は全て記録に残します」
「そうしろ」
「それと、次の輸送から受け渡し場所を変更すべきです」
「南へ移すのか?」
「はい。今回襲撃された場所より手前まで、こちらの護衛を出します」
「それだと、レオンハルト軍が南へ進出したと見られません?」
俺が聞く。
「護衛は商会の印を付けた者とし、兵数も必要最低限にする」
「兵なのに商人の印を?」
「軍の旗を掲げていなければ、少なくとも軍事行動だとは言われにくい」
「ややこしいですね」
「だから書面を作る」
ユリウスは既に新しい条件を書き始めている。
「輸送路も一つでは危険です」
俺は地図を見る。
「今回襲われた道を避けるなら、東側の森を通る道があります」
「荷車が通れるのか?」
「狭い場所があります。全部は無理です。でも、小分けにすれば何台かは通せるかもしれません」
「残りは?」
「今の街道を使う。ただし出発日を分けます。同じ日に二十台全部を出すと見つかりやすいので」
マティアスが地図へ近づく。
「時間はかかるぞ」
「全部奪われるよりはましです」
「護衛も分ける必要がある」
「そこは……」
「考えが足りんな」
「今考えてるところです」
レオンハルトが小さく笑った。
「なら、明日の朝までに輸送案を作れ」
「俺が?」
「言い出したのはお前だ」
「そうですけど」
「出来ないか?」
「……やります」
「返事は一度だ」
「はい」
最近、誰も彼もアルベルトに似てきた気がする。
いや、もしかすると、俺の周りにこういう人間が集まっているだけなのかもしれない。
◇ ◇ ◇
翌朝、バルタザール商会への支払いが行われた。
負傷した御者には治療費だけでなく、働けない間の賃金の一部も渡された。
誰が話したのか、そのことは昼までにエルツェンの市場へ広がっていた。
「随分早いですね」
市場の食料品店で小麦の値段を確認しながら、俺は言った。
「昨日の今日ですよ」
「人の不幸と金の話は早く広がる」
隣を歩くマティアスが答える。
「商人が話した?」
「御者かもしれん。治療所の者かもしれん。支払いを見た役人かもしれん」
「隠す必要はないんですか?」
「ない。むしろ広がった方がいい」
市場では、あちこちで昨日の襲撃が話題になっていた。
レオンハルト側へ食糧を運ぶ荷が襲われた。
五台が奪われた。
護衛が何人も死んだ。
実際には死者はいないのに、既に話が大きくなっている。
一方で、レオンハルト側が損失の一部を補償したことも広がっていた。
負傷者の治療費を払った。
壊れた荷車を全て新しくした。
馬を三頭買い与えた。
こちらも、実際より話が大きい。
「噂って適当ですね」
「細部は変わる」
「それでいいんですか?」
「大事なのは、何が残るかだ」
「レオンハルト側へ運ぶと襲われる。でも、何かあれば補償する?」
「ああ」
「良い噂と悪い噂が一緒に広がってる」
「どちらか一方だけを広めることは出来ん」
市場の一角には、荷車を持つ御者や運送商人が集まっていた。
普段なら仕事を求める御者へ商人が条件を出すらしい。
今日は反対だった。
「南の街道なら、いつもの倍だ!」
「倍は高すぎる!」
「なら他を当たれ! 昨日何があったか知らないのか!」
「北回りでも五割増しだ。馬を失った時の補償も付けてもらう!」
あちこちで声が上がっている。
「運賃が上がってますね」
「危険が増えた」
「小麦の値段も?」
「ああ。運ぶ金が増えれば、その分は品物へ乗る」
俺は店先に書かれた値段を確認する。
三日前より一割近く上がっていた。
まだ大きな戦が始まっていないのに、既に暮らしへ影響が出ている。
「兵糧を買い集めたせいだけじゃないんですね」
「物が少なくなっただけではない。運べなくなると考えた者が、先に買い始めている」
「もっと上がると思って?」
「ああ」
前世でも、品不足になるという噂だけで店から商品が消えることがあった。
この世界でも人間の考えることは変わらない。
「買い占めを止めますか?」
「どうやってだ?」
「一人が買える量を決めるとか」
「誰が商人を監視する?」
「兵か役人を置いて」
「その人数は?」
「……足りないですね」
「それに、強引に止めれば品物は表から消える。裏でさらに高く売られるだけだ」
「じゃあ、何もしない?」
「王都軍と同じ失敗をしたいならな」
「同じ失敗?」
「今朝、王都から来た商人に聞いた。王都では軍が小麦の価格を固定したらしい」
「値上げを禁止した?」
「ああ。だが、商人はその値段で売りたがらない。売るより倉庫に隠す者が増えている」
「高すぎても駄目で、安く決めても駄目」
「だから難しい」
「マティアス様ならどうします?」
「軍が必要な分には多少高くても払う。ただし、同じ商人だけから買わない。市場へ出す量を残すことも契約に入れる」
「兵だけ食べられても、町の人が食べられなくなる」
「ああ。民が飢えれば、最後には軍から奪おうとする」
戦争は、兵士だけで起きるものではない。
市場の値段も、荷車の運賃も、町の人間が食べるパンの大きさも変えていく。
俺たちが市場を出ようとした時、一人の商人が駆け寄ってきた。
「クレーマー様!」
三十代ほどの男だった。上等ではないが、手入れされた茶色の上着を着ている。
「何だ?」
「レオンハルト殿下の軍が、輸送中に失った荷の一部を補償するというのは本当でしょうか」
「条件による」
「条件?」
「契約があり、実際に襲撃されたことを確認出来た場合だ。言われた損失を全て払うわけではない」
「では、護衛は?」
「輸送路と荷の量による」
「私の商会には、干し肉を八十樽用意できます」
話を聞いていた別の商人も近づいてくる。
「私は大麦なら百樽を」
「馬の飼料でもよろしいでしょうか」
気づけば、三人、四人と人が集まっていた。
昨日の襲撃で全員が逃げると思っていた。
実際には、危険を承知で取引を持ちかける商人もいる。
レオンハルト側が補償したという噂を聞いたからだ。
「一度に話すな」
マティアスが言う。
「取引を望む者は、今日の夕方までに扱える品目、量、希望する価格、使える荷車の数を書いて館へ届けろ」
「文字を書けない者は?」
「商人組合へ行け。組合の書記に書かせろ」
「護衛の条件は?」
「荷の価値と道によって決める」
「支払いは現金ですか?」
「契約時に話す」
商人たちがそれぞれ頭を下げ、散っていく。
「急に増えましたね」
「ああ」
「昨日の補償が効いた?」
「それだけではない」
「他にも?」
「シュヴァルツが後払いで買いすぎた。現金が欲しい商人は、別の売り先を探している」
「じゃあ、全員がこっちを信用したわけじゃない?」
「そんなに簡単に人を信用する商人の方が危ない」
マティアスは歩き出す。
「信用と利益の両方があるから動いた。どちらか一つだけだと思うな」
「はい」
俺は返事をしながら、先ほどの商人たちを振り返った。
一人の商人と結んだ契約。
襲われた十五台の荷車。
失われた五十樽の小麦。
その損失を誰が負うかという判断。
どれも、戦場に並ぶ何千人という兵に比べれば小さなことに見える。
それでも、その話を聞いた別の商人たちが動き始めている。
マティアスが言った通り、商人の噂は兵より早く街道を走っていた。
◇ ◇ ◇
しかし、シュヴァルツ伯側も黙ってはいなかった。
その日の夕方、館へ戻ると、レオンハルトとユリウスが地図を広げて待っていた。
「何かありました?」
「西部の街道に関所が置かれた」
レオンハルトが答える。
「関所?」
「シュヴァルツ側についた領主たちが、領内を通る荷車へ新たな通行税を課し始めた」
「どれくらいです?」
「積み荷の価格の二割だ」
「高すぎません?」
「レオンハルト軍へ向かう荷には、さらに一割を加えるそうだ」
「合計三割?」
それでは、商人がこちらへ売る利益の大半が消える。
「払わなければ?」
「荷を没収する」
「昨日の襲撃と同じじゃないですか」
「今度は領主の命令書を掲げている。少なくとも、盗賊の真似をするつもりはないらしい」
「正式に奪えばいいって話じゃないでしょう」
「彼らは通行税だと主張するだろう」
さらに、シュヴァルツ伯は自軍へ優先して食糧を売る商人に、戦後三年間の税を軽減すると約束していた。
特定の地域で塩や穀物を独占的に売る権利まで提示しているらしい。
「そんなに約束して大丈夫なんですか?」
「勝てばな」
マティアスが答える。
「負けたら?」
「約束を守る必要はなくなる」
「それ、ずるくないです?」
「戦後の土地や権利を担保にする者は多い。勝てば得るものが増え、負ければ全て失う。だから今の金がなくても大きな条件を出せる」
シュヴァルツ伯は現金では不利だ。
その代わり、勝った後に与える土地や権利を使って商人をつなぎ止めようとしている。
しかも街道へ関所を置き、こちらへ物を運ぶ費用を増やした。
「これだと、今日来た商人たちも考え直しますよ」
「ああ」
「別の道は?」
「北回りなら関所を避けられる。ただし時間がかかる」
「東の森の道は、少ない荷車しか通れません」
「河港もあるが、船が足りない」
地図を見る。
物資を運べる道は、思っていたより少ない。
地図の上には何本も線が描かれている。だが、荷車が通れる幅があり、橋が壊れておらず、途中で馬を休ませられる場所がある道となると限られる。
「ここは?」
俺は西部と北部の間を流れる川を指した。
その川には、一本の太い街道が交わっている。
「ローゼンハイム男爵領だ」
レオンハルトが答えた。
「大きな橋がありますよね」
「ああ。グランヴァルト西部では数少ない石橋だ。大型の荷車も通れる」
「男爵はどちら側です?」
「まだ決めていない」
「王都、シュヴァルツ、殿下のどこにも?」
「ああ」
「なら、使わせてもらえば」
「使わせるかどうかを決めるのは男爵だ」
マティアスが橋の位置へ指を置く。
「この橋を使えれば、シュヴァルツ側の関所を避けて西部の荷を北へ流せる」
「使えなければ?」
「大きく迂回する。日数は二日以上増える」
「二日……」
一台や二台なら大した違いではない。
だが、何十台もの荷車を何度も往復させるなら、その二日が大きな差になる。
「男爵は兵をどれくらい持ってるんです?」
「五百ほどだ」
「それだけ?」
「不満か?」
「いえ。でも、他の領主より少ないと思って」
「兵の数だけで領主の価値は決まらん」
マティアスの指は、橋から動かない。
「二千の兵がいても、川を渡れなければ何も出来ない。この男爵が持つ五百の兵より、一つの橋の方が価値を持つこともある」
「シュヴァルツ伯も、この橋が欲しい?」
「当然だ」
その時、扉が強く叩かれた。
「入れ」
レオンハルトが答える。
ユリウスの部下が部屋へ入り、片膝をついた。
「殿下。ローゼンハイム男爵より使者が参りました」
「何の用だ?」
「王都とシュヴァルツ伯の双方から、使者が到着したとのことです」
部屋の空気が変わる。
「同時に?」
俺が聞く。
「半日ほどの違いはありますが、現在は双方の使者が男爵の城に滞在しているそうです」
「男爵からの伝言は?」
「レオンハルト殿下にも、条件を示す機会を与える。ただし返答は三日以内に欲しい、と」
「三日……」
エルツェンから男爵の城まで、急いでも一日以上かかる。
「迷っているふりをして、条件を競わせているのかもしれませんね」
俺が言うと、レオンハルトがこちらを見る。
「なぜそう思う?」
「三つの陣営から一番良い条件を出させたいなら、全部の使者を同じ場所に集めた方がいいでしょう?」
「悪くない」
「それとも、本当に決められない理由があるか」
「その可能性もある」
マティアスが地図を畳み始める。
「行くぞ、アレク」
「今からですか?」
「夜が明けたら出る」
「俺も?」
「商人から集めた輸送条件をまとめておけ。今日の補償記録も持っていく」
「領主との交渉なのに、商人の記録が必要なんですか?」
「必要になる」
「また理由は自分で考えろと?」
「分かってきたではないか」
「そこだけ分かるようになってもなぁ」
俺はもう一度、地図に描かれた橋を見る。
一人の商人が、全ての荷をシュヴァルツ伯へ流さないと決めた。
その荷が襲われ、俺たちは損失の一部を負担した。
その話を聞いた別の商人たちが動き始めた。
するとシュヴァルツ伯は関所を置き、こちらへ向かう荷の流れを止めようとした。
そして今度は、その関所を避けるために一つの橋が必要になる。
商人の選択が荷車を動かし、荷車の動きが街道の価値を変え、街道の価値が領主の決断へつながっていく。
戦場で剣を交えるより前に、全てが互いに影響しながら動いていた。
「マティアス様」
「何だ?」
「今度は男爵に、どの旗を選ぶか決めさせるんですか?」
「違う」
「違う?」
「男爵が本当に守りたいものを確かめる」
「領地じゃないんですか?」
「それを見極めるのが、今度のお前の仕事だ」
「俺の?」
「ああ。相手をよく見ろ」
マティアスは地図を巻き終える。
「人は口にしたものだけを欲しがっているとは限らん」
翌朝、俺たちはローゼンハイム男爵の城へ向かうことになった。
商人の間を走り始めた噂は、既に荷の流れを変えている。
その流れが次に向かう先は、何千人もの兵ではなく、川に架けられた一つの橋だった
第二話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、バルタザール商会から送られた最初の輸送隊が襲撃され、その損失を誰が負担するのかを描きました。
契約上、荷を引き渡す前に起きた損失は商会側の責任です。
そのため、レオンハルト側は前金の返還を求め、荷車や馬、負傷者の治療についても負担しないという判断ができます。
それは契約として間違いではありません。
しかし、契約書の一文を理由に商人へ全ての損失を背負わせれば、次に同じ道を走ろうとする者はいなくなります。
そこでマティアスは損害を調べた上で、奪われた荷の損失を商会と分け、荷車や馬の損害にも一定の補償を行いました。
これは情けだけで行ったものではありません。
今日の損失を抑えることより、明日以降も荷を運ぶ者を残すための判断です。
一方、シュヴァルツ伯側も荷車を奪うだけではなく、生き残った者たちをあえて逃がしました。
レオンハルト側へ荷を運べば襲われる。
その恐怖を商人や御者へ広め、今後の輸送そのものを止めることが目的です。
襲撃の噂が広がる中で、運賃や小麦の価格も上昇し始めました。
それでも、損失を一方的に商人へ押しつけなかったという別の噂によって、新たな取引を求める商人たちも現れます。
信用と利益。
恐怖と補償。
異なる理由で動き始めた商人たちの選択が、少しずつ荷の流れを変えています。
しかし、シュヴァルツ伯側も街道に関所を置き、通行税や将来の権利を使って商人を引き留めようと動きました。
その関所を避け、西部から北部へ物資を運ぶために必要となるのが、ローゼンハイム男爵領に架かる一つの石橋です。
兵力は五百。
けれど、その領内にある橋は、時に二千の兵より大きな価値を持ちます。
次話では、王都、シュヴァルツ伯、レオンハルトという三つの陣営の使者が集まる中、マティアスとアレクもローゼンハイム男爵の城へ向かいます。
それぞれの陣営が何を約束し、男爵は何を守ろうとしているのか。
荷車を巡る争いは、一つの橋と領主の選択を巡る交渉へつながっていきます




