第一話 荷の行き先
第四篇に入りました。
王都、レオンハルト、シュヴァルツ伯。
三つの陣営が兵を集める中、マティアスとアレクはシュヴァルツ伯と長年取引を続けてきた商人、バルタザール・ケーニヒのもとを訪れます。
しかし、長年の恩と信用で結ばれた取引を、簡単に捨てさせることはできません。
マティアスが求めるのは、商人を無理に味方へ引き込むことではなく、これからどこへ荷を流せば商売を守れるのかを、自ら選ばせること。
兵が増えれば、必要になる食糧も増える。
そして倉庫に食糧があっても、戦場へ届かなければ意味はない。
剣も旗も持たない荷車を巡る戦いが、街道の上で始まります。
マティアスとともにエルツェンを出たのは、王都から総動員令が出された翌日の朝だった。
向かう先はエルツェンから南西へ半日ほど進んだ場所にある、ハルデンという宿場町だ。
大きな城があるわけでも、豊かな鉱山を持っているわけでもない。それでも南北を結ぶ街道とシュヴァルツ伯領へ続く道が交わるため、周辺で収穫された穀物や塩、干し肉、馬の飼料などが集まってくる。
今回会う商人も、その町に店と倉庫を持っていた。
「バルタザール・ケーニヒ」
馬に揺られながら、俺はマティアスから聞いた名前を繰り返した。
「そんなに大きな商人なんですか?」
「グランヴァルト西部で兵を動かすなら、無視できない男だ」
「シュヴァルツ伯とは長いんですよね」
「十五年以上になる」
「それなら、俺たちが話したくらいで取引をやめますか?」
「やめないだろうな」
マティアスはあっさり答えた。
「やめないんですか?」
「お前は、長年付き合ってきた相手を一度会った者の話だけで捨てる人間を信用するか?」
「……しませんね」
「商人も同じだ。昨日までシュヴァルツと取引していた男が、今日から我々の味方になったと言っても、それだけでは信用できん」
「じゃあ、何のために会うんです?」
「考えさせるためだ」
「何を?」
「自分がどこへ荷を流せば、明日も商売を続けられるのかをだ」
答えになっているようで、肝心なところは何も教えてくれない。
「最初から全部説明してくれてもいいと思うんですけど」
「お前が何も考えなくなる」
「考えた後で間違ってたら?」
「その時に直せばいい」
「随分簡単に言いますね」
「簡単な間違いで済むうちに、いくらでも間違えておけ」
俺は小さく息を吐いた。
間違いで人が死ぬ戦場よりは、確かに今の方がましなのかもしれない。
街道には、朝から多くの荷車が行き交っていた。
エルツェンへ向かう荷車には、材木や石材、工具が積まれている。戦で壊れた城壁や家屋を直すためのものだろう。
反対方向へ進む荷車には、穀物袋が目立った。
一台や二台ではない。五台、十台とまとまった隊列が、護衛を連れて南西へ進んでいく。
「シュヴァルツ伯領へ向かう荷ですか?」
「全てではないが、多くはそうだろう」
「荷札を見なくても分かるんです?」
「この先で兵糧を大量に求めているのは、シュヴァルツくらいだ」
言われてみれば当然だった。
王都軍は王都周辺と東部から、レオンハルトは北部から物資を集めている。西へ向かうこれだけの穀物を必要としているのは、兵を急速に増やしているシュヴァルツ伯しかいない。
何台目かの荷車と擦れ違ったところで、俺は後ろを振り返った。
「どうした?」
「行きの荷車は、どれも一杯ですね」
「ああ」
「でも、向こうから戻ってくる荷車は空です」
「普通だろう」
「そうですけど……」
俺は今朝から見た荷車を思い返した。
穀物を積んだ荷車は、どれも重そうに進んでいた。馬の歩みは遅く、車輪が街道の土へ深い轍を残している。
それに対し、シュヴァルツ伯領の方角から戻ってくる荷車は、ほとんど何も積んでいない。それでも馬は疲れ切っていた。
「空のまま戻るなら、帰りは早い。でも馬も御者も休めていません」
「それで?」
「またすぐ穀物を積んで向こうへ行かされたら、何度も往復できないと思います」
「ようやく気づいたか」
マティアスが前を見たまま答える。
「今、シュヴァルツは大量の兵糧を求めている。商人は運べば運ぶほど金になると思い、荷車を休ませずに使っている」
「でも、それだと長く続かない」
「ああ。荷車は壊れ、馬は倒れ、御者は逃げる。倉庫に穀物があっても、運ぶ者がいなくなる」
兵糧があることと、それを兵のところまで届けられることは違う。
前世なら、物流や納期という言葉で片づけていた問題だ。だが、この世界では馬も荷車も簡単には増やせない。壊れた車輪一つを直すにも、木材と職人と時間が必要になる。
「バルタザールは、それに気づいていないんですか?」
「気づいている」
「じゃあ、どうして止めないんです?」
「止められない理由があるからだ」
「それも本人に聞けと?」
「少しは分かってきたな」
「マティアス様のやり方がですか?」
「違う。自分で考えることにだ」
「それなら、もう少し分かりやすく教えてください」
「まだ足りんな」
結局、その理由はハルデンへ着くまで教えてもらえなかった。
◇ ◇ ◇
ハルデンの町へ入ると、最初に目に入ったのは宿屋でも市場でもなく、街道沿いに並ぶ倉庫だった。
石造りの壁と厚い木の扉。屋根には雨水を流すための急な傾斜があり、建物の周囲には荷車が何十台も並んでいる。
その間を御者や荷運び人が忙しく行き来していた。
「思っていたより大きいですね」
「西部の穀物は、一度ここへ集められる」
「それを仕分けして、必要な場所へ運ぶ?」
「ああ」
町の入口近くには、武装した兵が立っていた。領主の兵らしいが、その視線は人より荷車へ向けられている。
総動員令が出た以上、町の領主もどこかの陣営を選ばなければならない。
今はまだ旗を掲げていないようだが、中立でいられる時間は長くないだろう。
バルタザール商会は、町の中央に近い場所にあった。
二階建ての石造りの建物で、表には麦の穂と車輪を組み合わせた印が掲げられている。その裏手には、先ほど見たものより大きな倉庫が三棟並んでいた。
俺たちが店へ入ると、番頭らしい男がマティアスの顔を見て目を見開いた。
「クレーマー様?」
「バルタザールはいるか」
「約束は伺っております。こちらへ」
通されたのは二階の応接室だった。
派手な調度品はない。壁には西部一帯の地図が掛けられ、棚には帳簿や封をされた書状が並んでいる。
窓からは裏手の倉庫と荷車がよく見えた。
しばらくして、一人の男が入ってきた。
五十歳を少し過ぎたくらいだろう。白いものが混じった濃い茶色の髪を後ろへ撫でつけ、紺色の上着を着ている。身体は大きくないが、歩き方に迷いがなかった。
「久しぶりだな、マティアス」
「十年ぶりか」
「十二年だ。商人のくせに数字を覚えられなくなったか?」
「必要のない数字は忘れることにしている」
「相変わらずだな」
バルタザールはそう言ってから、俺を見る。
「そちらが、最近噂になっている少年か」
「アレク・ハルトマンです」
「バルタザール・ケーニヒだ。アルヴェインの大公が拾い、今はマティアスのもとにいる少年と聞いている」
「また色々知られてる……」
「商人は情報も扱う」
「本人が知らないところで?」
「本人から聞くより正確なこともある」
「俺の悪い噂まで聞いてます?」
「余計なことを口にする、と」
「それは正確ですね」
バルタザールが僅かに笑った。
「座ってくれ。もっとも、何のために来たのかは分かっている」
俺たちが席につくと、バルタザールは正面からマティアスを見た。
「先に言っておく。シュヴァルツ伯との取引をやめろと言うなら断る」
「まだ何も言っていない」
「お前が昔話をするために、戦の直前にここまで来るはずがない」
「その通りだ」
「伯爵家とは十五年以上取引している。こちらが苦しい時に助けられたこともある。今さら都合が悪くなったからといって、簡単に捨てられる相手ではない」
「捨てろとは言わん」
バルタザールの眉が僅かに動く。
「では、何を求める?」
「確認したいことがある。シュヴァルツから代金は受け取ったか?」
部屋の空気が変わった。
「取引の内容を話す義務はない」
「全額か?」
「……」
「三分の一か。それとも、それ以下か」
バルタザールの表情は変わらない。
だが、椅子の肘掛けに置かれた指が一度だけ動いた。
マティアスもそれを見ていた。
「残りは戦の後か?」
「取引の内容は話せないと言った」
「なら、別の聞き方をしよう。シュヴァルツが負けた場合、残りの代金は誰が払う?」
「伯爵家が残る限り、契約は残る」
「領地を失ってもか?」
「まだ負けると決まったわけではない」
「勝つとも決まっていない」
二人はしばらく黙って互いを見ていた。
マティアスは声を荒らげない。
脅してもいない。
それでも、バルタザールの表情から最初にあった余裕が少しずつ消えていく。
「伯爵から何を担保に取った?」
「それ以上は答えられん」
「戦後に得る土地か」
「……」
「随分と価値の変わりやすい担保を受け取ったものだ」
今度はバルタザールが小さく息を吐いた。
「お前は、昔から人の嫌がるところを突く」
「間違っているか?」
「間違ってはいない。だから腹が立つ」
「なら、話は早い」
「何がだ?」
「シュヴァルツとの取引をやめる必要はない。既に代金を受け取った分は運べばいい」
俺は思わずマティアスを見た。
本当に止めないらしい。
「その代わり、追加の取引を一人の客だけに預けるな」
バルタザールが目を細める。
「レオンハルト殿下へ売れということか」
「正確には、我々にも売れと言っている」
「同じことだ」
「違う。我々はシュヴァルツとの契約を破棄しろとは言わない。倉庫にある穀物を全てこちらへ渡せとも言わん」
「では、どれだけ欲しい?」
「まず小麦六百樽。干し肉百樽、塩五十樽、馬の飼料を二百頭分。十日以内に三度に分けて運ぶ」
マティアスが淀みなく条件を並べる。
「代金の半分は契約時、残りは荷を受け取った時に支払う。運搬中の荷車はレオンハルト軍が護衛し、兵による徴発を禁じる。荷車や馬が軍の責任で失われた場合は、こちらが補償する」
バルタザールの顔つきが変わった。
先ほどまでの警戒とは違う。頭の中で金額や危険を計算している顔だった。
「現金で払うのか?」
「ああ」
「どの貨幣だ」
「グランヴァルト銀貨を基本とする。不足分はアルヴェイン銀貨でもいい」
「相場が違う」
「換算率は契約時に固定する」
「運搬路は?」
「北回りの街道だ。エルツェン南西の河港は、周辺の安全を確認できた時だけ使う」
俺が提案した輸送路だった。
こんなところで話に出てくるとは思わなかった。
「悪くない条件だ」
バルタザールは認めた。
「だが、それでもシュヴァルツ伯との関係を危険にさらす。伯爵が、私が敵へ兵糧を売ったと知ればどうなる?」
「お前は王都軍にも売ればいい」
「何?」
「王都、レオンハルト、シュヴァルツ。全てに同じ条件を提示しろ」
「戦に関わる全員を客にするつもりか」
「商人なら珍しくもないだろう」
「簡単に言う」
「誰か一人へ全てを売れば、そいつが負けた時にお前も終わる。なら、最初から分けておけばいい」
俺は二人のやり取りを聞きながら、窓の外へ目を向けた。
倉庫の前では、また一台の荷車へ穀物袋が積まれている。
隣の机には帳簿が何冊か置かれ、その上には一枚の紙が広げられていた。
日付と数字が並んでいる。
「これ、輸送の予定ですか?」
俺が聞くと、バルタザールがこちらを見る。
「そうだが」
「見てもいいです?」
「客に見せるものではない」
「もう見えてますよ」
「お前は遠慮というものを知らんのか」
「よく言われます」
「アレク」
マティアスの声が飛んできた。
「はい」
「何か気づいたなら言え」
「気づいたというか……」
俺は紙へ視線を戻した。
倉庫から出る穀物の量。出発する日。使う荷車の数。目的地。
全てが細かく書かれている。
「この予定、同じ荷車を使ってますよね」
バルタザールの表情が僅かに変わる。
「なぜ分かる?」
「この町にある荷車だけでは、ここに書かれている数に足りません。最初の荷を運んだ荷車が戻ってきて、また次の荷を積むことになっている」
「それがどうした?」
「往復に何日かかります?」
「天候に問題がなければ六日だ」
「積み込みと荷下ろしは?」
「それぞれ半日から一日」
「じゃあ、ここ」
俺は紙へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「触っていいです?」
「今さら聞くのか」
「一応」
「好きにしろ」
予定表の中ほどにある日付を指す。
「この荷車は、戻った日の翌朝にまた出ることになってます。馬を交換するんですか?」
「いや。今は替えの馬が足りん」
「御者は?」
「同じ者だ」
「休む時間がありませんよ」
「戦が始まれば、どこも同じだ」
「一度や二度ならできると思います。でも、これを何度も続けたら馬が倒れます。車輪や車軸が壊れるかもしれないし、雨が降れば街道も遅くなる」
「予備日は設けてある」
「二日だけですよね」
俺は予定表の数字を追う。
「一台壊れるだけなら何とかなる。でも、十台、二十台と遅れたら、後の荷も全部ずれます」
「……」
「倉庫に穀物があっても、決められた日に運べないなら、兵には届かない」
バルタザールが黙って予定表を見る。
俺も自信があるわけではなかった。
現代のような道路もトラックもない。計算通りに進まないことの方が多いだろう。
だが、だからこそ余裕が必要なはずだ。
「伯爵から運搬を急がされている」
しばらくして、バルタザールが言った。
「集まる兵が当初の見込みを超えたらしい。最初は六千ほどと聞いていたが、今は一万に届く可能性がある」
「兵が増えたから、必要な食糧も増えた」
「ああ。追加分は通常より三割高い値で買うと言われている」
「その代金も後払いですか?」
バルタザールは答えなかった。
答えないことが、答えになっていた。
「アレク」
マティアスが俺を見る。
「はい」
「倉庫にある穀物と、兵が食べられる穀物は同じか?」
「違います」
「なぜだ?」
「兵のところまで届かなければ、ないのと同じだからです」
「そういうことだ」
マティアスは再びバルタザールへ顔を向けた。
「シュヴァルツは、お前の穀物だけでなく荷車も馬も御者も使い潰そうとしている。このまま要求通りに運べば、戦が終わる前にお前は荷を運べなくなる」
「断れば、他の商人へ話が行く」
「それでいいではないか」
「何?」
「他の商人にも負担させろ。なぜお前一人が全てを背負う?」
「伯爵との長い関係がある」
「長い関係があるから、代金を後回しにされ、無理な輸送を押しつけられているのか?」
厳しい言葉だった。
バルタザールの顔に怒りが浮かぶ。
だが、それはマティアスだけに向けられたものではないように見えた。
「十五年前、私の商会は潰れかけていた」
やがて、バルタザールが低い声で話し始めた。
「先代の当主が積み荷を買い上げ、倉庫を貸してくれた。あの助けがなければ、今の商会はない」
「だから返し続けた」
「ああ」
「十五年もか?」
「恩を数字だけで量るつもりはない」
「なら聞こう。先代への恩を返すために、今のお前の御者や荷運び人まで潰すのか?」
バルタザールが黙る。
窓の外から、木箱を下ろす音が聞こえた。
働いているのはバルタザール一人ではない。御者も、荷運び人も、帳簿をつける者もいる。その家族まで含めれば、商会が支えている人間はかなりの数になる。
「恩を返すことと、共に滅びることは違う」
マティアスの声は静かだった。
「私は、シュヴァルツとの取引を捨てろとは言わん。既に約束した分を運ぶことも止めない。ただし、それ以上の荷を後払いで渡す前に考えろ。お前が守るべきものは、昔の恩だけなのか?」
長い沈黙が続いた。
俺は口を挟まなかった。
これは数字だけでは決められない。
バルタザールがシュヴァルツ伯家に感じている恩も、長年かけて築いた信用も本物なのだろう。
だからこそ、簡単に裏切らせるべきではない。
「条件を文書にしろ」
バルタザールが言った。
「先ほどの条件全てだ。購入量、代金、支払日、輸送中の護衛、徴発の禁止、荷車と馬の補償。それから戦が終わった後も、一年間は一定量の取引を続けると保証しろ」
「半年だ」
「一年だ」
「九か月」
「十か月」
「分かった」
マティアスが頷く。
「十か月だ」
「随分あっさりですね」
思わず言うと、バルタザールが俺を見た。
「交渉とは、相手が困る条件だけを押しつけることではない」
「そうなんですか?」
「この男から何を教わっている」
「考えろとは言われます」
「それだけか?」
「黙ってろともよく言われます」
「その忠告は守った方がいい」
「会ったばかりの人にまで言われた」
バルタザールが僅かに笑い、すぐに表情を戻した。
「シュヴァルツ伯へは、既に代金を受け取った分を約束通り運ぶ。それ以上の追加分は、現金での支払いか確実な担保がない限り引き受けない」
「それでいい」
「王都側にも同じ条件を提示する」
「ああ」
「私は、レオンハルト殿下の味方になったわけではない」
「構わん」
「では、何だと思っている?」
「自分の商売を守る方を選んだだけだ」
マティアスがそう答えると、バルタザールは少しだけ目を細めた。
「昔から、お前は忠誠という言葉を信用しないな」
「利害で結ばれた者の方が、何を望んでいるか分かりやすい」
「その考え方で、よく貴族に仕えられるものだ」
「貴族も利害で動く」
「違いない」
バルタザールが立ち上がり、棚から新しい紙を取り出した。
「契約書を作らせる。昼までには用意しよう」
「早いな」
「時間がないのだろう?」
「ああ」
「なら、お前だけでなく私も急ぐべきだ」
それからの話は早かった。
運ぶ量、出発日、荷車の数、護衛を引き渡す場所。細かな条件を一つずつ決めていく。
俺は主に数字を書き留める役を任された。
途中で二度ほど計算を間違え、一度はマティアスに、もう一度はバルタザールに指摘された。
「前世では計算機があったんだけどな……」
「何か言ったか?」
「何でもありません」
全てを終えた頃には、窓から差し込む光が真上に近くなっていた。
◇ ◇ ◇
契約書が完成するまでの間、俺たちは商会の一階で待つことになった。
マティアスは番頭と何か話している。
俺は店の中に並べられた品物を眺めていた。
穀物や塩を扱う商会だと聞いていたが、棚には布、香辛料、陶器、金属製の道具なども並んでいる。荷車を空のまま戻すより、途中の町で売れる物を積んだ方がいいため、各地の品物も扱っているらしい。
その中に、小さな木箱があった。
中には銀で作られた髪留めや首飾りが並んでいる。
貴族が身につけるような宝石だらけの品ではない。町の裕福な商人や職人でも、特別な祝いなら手が届く程度のものに見えた。
俺は一つの髪留めへ目を留めた。
銀で作られた細い飾りの先に、小さな花が付いている。五枚の花弁が丁寧に形作られ、その中央には青く磨かれた小さな石が嵌め込まれていた。
「それは林檎の花ですよ」
店番をしていた若い女性が教えてくれた。
「林檎?」
「はい。この近くの銀細工師が作ったものです」
林檎と聞いて、アルヴェインブルクの市場を思い出した。
エリーゼとクララと一緒に歩き、三人で林檎を食べた。エリーゼは自分が選んだ店の林檎が美味しいことを、なぜか得意そうにしていた。
そして、淡い金色の髪。
この銀の髪留めなら、たぶん似合う。
どうしてそう思ったのかは、自分でもよく分からなかった。
ただ、手紙に書いた約束を果たすなら、これがいいような気がした。
「これ、いくらです?」
値段を聞く。
思っていたより高かった。
「……少しまけてもらえません?」
「値札の通りです」
「そこを何とか」
「買うのか?」
後ろからマティアスの声がした。
振り返ると、こちらを見ている。
「まあ、一応」
「女物だぞ」
「見れば分かります」
「誰に贈る?」
「知り合いです」
「知り合いにしては随分悩んでいたな」
「見てたんですか?」
「目立っていた」
「贈り物を選んでるだけでしょう」
「そうか」
マティアスの口元が僅かに上がる。
こういう顔をする時は、大抵余計なことを考えている。
「何です?」
「何も言っていない」
「顔が言ってます」
「なら、私は黙っていよう」
「それはそれで嫌だなぁ」
店番の女性まで笑いを堪えている。
俺はもう一度髪留めを見る。
高い。
だが、買えないほどではない。
「これにします」
「ありがとうございます」
代金を払い、柔らかな布で包んでもらう。それをさらに小さな木箱へ入れてもらった。
「本当に買うのか」
「何で驚くんです?」
「お前のことだから、三日ほど悩むと思っていた」
「俺だって決める時は決めますよ」
「戦場でもそうしてくれ」
「それとこれとは別です」
木箱を荷物の奥へしまう。
次にエリーゼと会うのがいつになるかは分からない。
誕生日に間に合う可能性も低い。
それでも、次に会う時までに用意すると書いた約束だけは守れそうだった。
「落とすなよ」
「分かってます」
「壊すな」
「分かってますって」
「誰への贈り物か聞かないのですか?」
店番の女性がマティアスへ尋ねる。
「聞かなくても分かる」
「分かるんですか?」
「最近、アルヴェイン大公の姪へ手紙を書いたと聞いた」
「何で知ってるんですか!」
「宿の者がお前から手紙を預かった」
「だからって、誰宛てかまで」
「封に名が書いてあった」
「……次から自分で届けようかな」
「その方が難しいだろう」
「もう嫌だ、この世界の情報の広まり方」
マティアスと店番の女性が笑った。
俺は荷物の口を閉じ、念のため木箱が中にあることをもう一度確かめた。
◇ ◇ ◇
契約書へ双方が署名し、ハルデンを出たのは昼を少し過ぎた頃だった。
行きと同じ街道を北東へ戻る。
俺はしばらく黙って馬を進めていたが、町が見えなくなったところでマティアスへ尋ねた。
「一つ聞いていいです?」
「何だ?」
「今日の交渉、最初から成功すると思ってたんですか?」
「成功が何を指すかによる」
「バルタザールが、俺たちにも食糧を売ることです」
「その可能性は高いと思っていた」
「シュヴァルツ伯への追加輸送を止めることも?」
「それは半分だ」
「半分?」
「あの男には伯爵家への恩がある。金だけなら動かない可能性もあった」
「だから商会で働いている人の話をした?」
「ああ。人間は一つのものだけを守って生きているわけではない。古い恩を守るために、今の部下や家族を危険へ晒していいのか。最後に選ぶのは本人だ」
「もしシュヴァルツ伯との取引を選んでいたら?」
「別の商人へ行った」
「それだけですか?」
「それだけだ」
「脅したりは?」
「脅して今日の荷を得ても、明日の荷は得られん」
俺はその言葉を考えた。
バルタザールは俺たちの味方になったわけではない。
王都にも売る。
シュヴァルツ伯にも、既に約束した分は運ぶ。
それでも、今までシュヴァルツ伯だけへ向かっていた荷の一部が、別の方向へ流れ始める。
「味方にしなくてもいいんですね」
「全員に旗を持たせる必要はない」
「でも、どこへ荷を送るかは選ばせる」
「ああ」
「それだけで戦が変わる?」
「一人では変わらん」
マティアスは前を進む荷車を見る。
「だが、バルタザールほどの男が一人の客へ全てを売らなくなれば、他の商人も考える。シュヴァルツへ売れば本当に代金を受け取れるのか。無理な輸送を続けて荷車を失わないか。戦の後も商売を続けられるのかとな」
「その話が広がる」
「商人の噂は、兵より早く街道を走る」
しばらく進んだところで、後方から馬の蹄の音が聞こえた。
護衛が一斉に振り返る。
一騎の伝令がこちらへ向かってくる。身につけている外套にはレオンハルトの印があった。
「マティアス・クレーマー様!」
伝令は俺たちに追いつくと、馬上で頭を下げた。
「レオンハルト殿下より急報です」
「言え」
「西部のヴァルナー伯が、シュヴァルツ伯への支持を表明しました。兵二千を率いて合流するとのことです」
「二千……」
またシュヴァルツ側の兵が増える。
「他には?」
「北部の小領主二家が、レオンハルト殿下への支持を表明しました。合わせて六百ほどの兵を出すとのことです」
単純に数だけを見れば、シュヴァルツ側が大きく増えたことになる。
「王都側は?」
「新たに一家が兵を出すと連絡してきました。正確な兵数はまだ分かりません」
「分かった。殿下へ、日没までには戻ると伝えろ」
「はっ」
伝令が馬を返す。
その背中を見送りながら、俺は頭の中で数を考えた。
「シュヴァルツ伯側の方が増えましたね」
「ああ」
「これで一万に近づいた?」
「ヴァルナーの兵が全て到着すれば、その程度になる」
「今日の交渉、本当に意味がありました?」
「兵が二千増えたからか?」
「だって、こっちに売られる穀物は六百樽ですよね。それだけで二千人の差を埋められるとは思えません」
「埋める必要はない」
「どういうことです?」
「二千の兵が増えれば、その二千人も毎日食う」
「あ」
「兵が増えるということは、強くなるだけではない。必要な食糧も、飼料も、荷車も増えるということだ」
俺は先ほど聞いた話を思い返した。
シュヴァルツ伯が最初に想定していた兵は六千ほど。
それが一万へ増えようとしている。
だが、食糧を運ぶ荷車や馬まで同じように増えるわけではない。
「兵を集めすぎても、食べさせられなければ動けない」
「ああ」
「それで急いでバルタザールに追加輸送を頼んだ?」
「おそらくな」
「その追加分が止まった」
「全てではない。他の商人から買うこともできる」
「でも、前より高くなるし、届くのも遅れる」
「ようやく話が繋がったか」
「最初からそれを教えてくれれば、もっと早く分かりましたよ」
「自分で気づいた方が忘れん」
「本当にそういうところ、アルベルト殿下と似てますよね」
「それは褒めているのか?」
「どちらとも言えません」
前方に分かれ道が見えてきた。
一本はシュヴァルツ伯領へ続く西の道。もう一本は、エルツェンとレオンハルト軍が集まる北へ向かう道だ。
ちょうど数台の荷車が、分かれ道へ差しかかっていた。
先頭の二台は西へ曲がった。
だが、その後ろにいた三台は北へ進んだ。
積まれているのは、どれも同じような穀物袋だった。
剣も旗も持たない荷車が、街道の上で二つに分かれていく。
今はまだ数台にすぎない。
それでも、同じことが明日も、その次の日も続けば、前線へ届く食糧の量は大きく変わる。
兵がどれほど勇敢でも、食べなければ戦えない。
どれほど優れた指揮官でも、矢も馬の飼料もなければ軍を動かせない。
戦場に並ぶ兵の数だけを見ていては分からない戦いが、街道の上では既に始まっていた。
「マティアス様」
「何だ?」
「今日動かしたのは、六百樽の小麦だけじゃないんですね」
「では何だ?」
「商人の考えです」
マティアスは少しだけ俺を見た。
「半分だ」
「まだ違うんですか?」
「我々が動かしたのは、バルタザール一人の考えだけだ。他の者がどう動くかは、まだ分からん」
「じゃあ、これからですか」
「ああ。潮目は、一人で作るものではない」
俺はもう一度、分かれ道を見る。
西へ向かう二台の荷車と、北へ向かう三台の荷車は、既に小さくなり始めていた。
その違いに気づく者は、今はほとんどいないだろう。
だが、小さな流れがいくつも重なれば、やがて誰にも止められない大きな流れになる。
潮目は、戦場だけで変わるのではない。
誰にも注目されない街道の上でも、静かに変わり始めていた。
第四篇第一話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、マティアスとアレクがシュヴァルツ伯と長年取引してきた商人、バルタザール・ケーニヒと交渉する場面を描きました。
バルタザールには、苦しかった時期にシュヴァルツ伯家から助けられた過去があります。
そのため、利益だけを理由に取引を打ち切らせることはできません。
そこでマティアスは、シュヴァルツ伯との取引をやめろとは言わず、一人の相手へ商会の全てを預ける危険を示しました。
古い恩を守ること。
現在の商会や、そこで働く者たちを守ること。
そのどちらもバルタザールにとっては本物であり、簡単に切り捨てられるものではありません。
また、アレクは輸送予定から、穀物の量だけではなく、それを運ぶ荷車、馬、御者にも限界があることへ気づきました。
倉庫にある食糧と、兵士が実際に食べられる食糧は同じではありません。
目的地へ届かなければ、どれほど大量に蓄えていても、戦場では存在しないのと同じです。
そして今回は、エリーゼへの誕生日の贈り物も見つかりました。
アルヴェインブルクの市場で一緒に食べた林檎を思い出させる、林檎の花をかたどった銀の髪留め。
アレク自身はまだ深く意識していませんが、品物を見た時に自然とエリーゼの淡い金色の髪を思い浮かべています。
この髪留めは、次に二人が再会する時まで大切に保管されることになります。
次話では、バルタザールが下した選択が他の商人たちにも伝わり始めます。
兵糧の値段、輸送契約、荷車の確保。
一人の商人が変えた小さな流れは、やがて他の商人や、まだ立場を決めていない諸侯の判断にも影響を与えていきます。




