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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第一篇 乱世黎明

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第五話 十四人の軍勢

十四人で、三十人を超える敵を退ける。

正面から戦えば勝ち目はない。

ならば、戦わずに勝てばいい。


アレクは前世の知識とゲオルクの経験を組み合わせ、初めて自ら策を立てる。

だが彼はまだ知らない。

戦に勝つことと、すべてを救うことは同じではない。

「戦わずに追い返しましょう」

 俺は言った。

「俺たち十四人で、三十人以上の敵を」

 誰も答えなかった。

 焚き火の薪が小さく爆ぜる。

 最初に口を開いたのはトーマスだった。

「……どうやって?」

「それを今から考える」

「考えてなかったのかよ!」

「大体は考えてる!」

「今の言い方だと何も考えてないだろ!」

「うるさいな!」

「静かにしろ」

 ゲオルクの一言で二人とも黙った。

「アレク」

「はい」

「説明しろ」

 俺は地面に描かれた簡単な地図を見る。

 グリュン村。

 街道。

 森。

 ラーデン村へ続く道。

 敵は三十から四十。

 こちらは十四人。

 正面から戦えばまず勝てない。

 ならば、敵に正面から戦うという選択肢を取らせなければいい。

「まず確認したいことがあります」

「何だ」

「ベルン軍は、俺たちの本隊がどこにいるか知ってますか?」

 ゲオルクが少し考えた。

「正確には知らんはずだ」

「どうして?」

「我が方も敵本隊の正確な位置を知らんからだ」

「なるほど」

「ただ、ヴァイスブルクに兵が集結していることくらいは知っているだろう」

「なら使えます」

「何をだ?」

「敵が知らないことを」

 トーマスが首を傾げる。

「どういう意味だ?」

「俺たちは十四人しかいないことを知ってる」

「当たり前だろ」

「でも敵は?」

「……知らない?」

「そう」

 俺は頷いた。

「敵から見れば、この森の向こうに何人いるかなんて分からない」

 特に夜だ。

 現代人は夜というものを忘れている。

 街灯。

 家の照明。

 車のライト。

 スマートフォン。

 前世では夜でも完全な暗闇になる場所の方が珍しかった。

 だが、この世界は違う。

 月と星。

 そして火。

 それ以外は、本当に暗い。

 十メートル先に人がいても、森の中なら姿すら見えない。

「だから火を使います」

「火?」

 ハンスが脚の傷を押さえながら聞いた。

「篝火をたくさん焚く」

「人数が少ないのに?」

「人数が少ないからです」

 俺は枝で地面に点を描いていく。

「ここ。ここ。それからここ」

「随分離すな」

 ゲオルクが言う。

「はい。一か所に集めたら人数が分かる。だから森の中に分散させます」

「敵から見える位置か?」

「見えるけど、人間までは見えないくらい」

「難しいぞ」

「そこはゲオルク様にお願いします」

「急に投げたな」

「俺、この土地知らないですから」

「……それはそうだ」

 ゲオルクが地図を見る。

「篝火だけで百人に見せるつもりか?」

「それだけじゃ足りません」

「他には?」

「音です」

「音?」

「十四人でも、森の中を移動しながら声を出せば?」

 トーマスが何かに気づいた。

「色んなところに兵がいるように聞こえる?」

「そう」

「でも十四人の声だろ?」

「同時に叫ぶ必要はない」

 俺は説明する。

「右で叫ぶ。次に左。少し離れた場所でも叫ぶ。それを繰り返す」

「同じ声だと気づかれないか?」

 ハンス。

「だから言葉を変えます」

「例えば?」

「『第三隊、配置につけ!』とか」

「第三隊?」

「第一隊と第二隊がいるように聞こえるでしょう?」

 ハンスが笑った。

「なるほど」

「他にも『騎兵隊は街道を塞げ』とか」

「騎兵なんていないぞ」

 トーマスが言う。

「いないから言うんだよ」

「……お前、結構悪い奴だな」

「褒め言葉として受け取る」

 ゲオルクはまだ難しい顔をしている。

「それだけでは弱い」

「はい」

 俺もそう思っていた。

「だから、もう一つ」

「何だ?」

「敵に情報を与えます」

「どんな?」

「嘘の情報を」

 全員が俺を見る。

「どうやって?」

 俺は少し迷った。

 ここが一番難しい。

「敵に聞かせるんです」

「だからどうやって?」

「わざと近くで話す」

「危険すぎる」

「じゃあ――」

 考える。

 何かないか。

 敵に情報を信じ込ませる方法。

 戦国時代の調略では、偽書、流言、内応の噂、偽の伝令など、相手の判断を狂わせるために様々な方法が使われた。

 ただし、後世に伝わる逸話の中には創作や誇張も多い。

 だから「戦国武将がやったから成功する」なんて考え方は危険だ。

 重要なのは、人間がなぜ騙されるか。

 人は、自分が偶然手に入れたと思った情報を信じやすい。

 こちらから「百人います」と叫べば疑う。

 だが、盗み聞きした会話なら?

「……捕虜」

 ゲオルクが言った。

「え?」

「敵兵の死体は三人だったな」

「はい」

「一人くらい生かしておけば使えた」

「そんな余裕ありませんでしたよ」

「責めてはいない」

 ゲオルクが考える。

「だが、お前の考えは悪くない」

「何か方法が?」

「伝令を作る」

「伝令?」

「偽物のな」

 今度は俺が首を傾げた。

 ゲオルクは地面に新しい線を引いた。

「我々の一人を街道から走らせる。敵の見張りに姿を見せる」

「捕まったら?」

「捕まらない距離を取る」

「何をするんです?」

「大声で叫ばせる」

 ゲオルクが俺を見る。

「『ヴァイスブルクより増援二百、間もなく到着』とな」

「……それ、俺より大胆ですね」

「百人ではなかったのか?」

「二百に増えた」

「多い方が怖いだろう」

「雑だなあ」

「戦場の嘘は、分かりやすい方がいい」

 なるほど。

 知識だけでは思いつかなかった。

 俺は少し感心した。

「じゃあ、それで」

「待て」

 ゲオルクが言う。

「まだある」

「まだ?」

「敵を逃がす道だ」

 俺は一瞬、意味が分からなかった。

「逃がす?」

「お前は敵を追い返したいんだろう」

「はい」

「なら、逃げ道を残せ」

 その瞬間。

 俺の中で何かが繋がった。

「……囲師必闕」

「何だ?」

「あ、いや」

 中国古代の兵法。

 孫子にある考え方だ。

 敵を包囲する時には一方を開けておく。

 完全に追い詰めれば、敵は死に物狂いで戦う。

 だが逃げ道があれば、人間はそこへ逃げようとする。

 もちろん実際の戦争はそんな一文だけで決まるものではない。

 だが心理としては理解できる。

「西を開けるんですね」

 俺が言った。

 ゲオルクが頷く。

「そうだ」

「東と南北に兵がいるように見せて、西だけ何もしない」

「敵は自分たちが包囲されかけていると思う」

「でも西へは逃げられる」

「なら?」

「……逃げる」

「可能性は高い」

 俺はゲオルクを見る。

「やっぱり騎士様ですよね」

「何だ急に」

「いや。経験って大事だなと」

「お前に言われると腹が立つな」

 ハンスが笑った。

「仲良くなってきましたね」

「なってない」

「なってません」

 俺とゲオルクの声が重なった。


 ◇ ◇ ◇


 作戦が決まった。

 十四人を三つに分ける。

 実際に動けるのは十三人。

 ハンスは脚を負傷しているため、後方で待機。

 ゲオルクが五人。

 俺が四人。

 残り四人をもう一方へ。

「何で俺が四人を?」

「言い出したのはお前だからだ」

「俺、初陣なんですけど」

「さっき終わったと言った」

「初陣が終わった瞬間に指揮官になる軍隊って大丈夫ですか?」

「大丈夫ではない」

「そこは否定してくださいよ」

 ゲオルクは笑わない。

「アレク」

「はい」

「これは遊びではない」

 空気が変わった。

「分かっています」

「お前の策で人が死ぬかもしれん」

「……」

「敵ではない。味方がだ」

 胸が重くなった。

「策を出すというのは、そういうことだ」

 俺は答えられなかった。

 前世では簡単だった。

 ゲームで部隊を動かす。

 武将を配置する。

 損害が出れば数字が減る。

 でも今は違う。

 トーマスがいる。

 ゲオルクがいる。

 ハンスがいる。

 名前を知っている。

 顔を知っている。

 話したことがある。

「怖いか?」

「……はい」

「なら覚えておけ」

 ゲオルクが言う。

「人を動かすのが怖くなくなった時、お前は人の上に立つべきではない」

 俺はゆっくり頷いた。

「はい」

「ただし」

「?」

「決めた後は迷うな」

「……」

「迷って命令が遅れれば、それでも人は死ぬ」

 重い。

「難しいですね」

「だから指揮官は嫌われる」

「騎士様も?」

「かなりな」

 後ろからハンスの声が飛ぶ。

「自覚あったんですね!」

「黙れ!」

 少しだけ笑いが起きた。

 ありがたかった。

 緊張で吐きそうだったから。


 ◇ ◇ ◇


 森の中を移動する。

 俺と一緒なのはトーマスと村の男二人。

 エミール。

 ヨハン。

 二人とも三十代。

「アレク」

「何?」

「本当に大丈夫なんだよな?」

 トーマスが聞く。

「分からない」

「おい!」

「絶対成功するなんて言えるわけないだろ」

「そこは嘘でも言えよ!」

「じゃあ絶対成功する」

「今さら信じられるか!」

 エミールが小さく笑った。

「若いな、お前ら」

「エミールさんは怖くないんです?」

「怖いぞ」

「見えない」

「子供が三人いる」

「……」

「だから死ねん」

 その言葉で空気が変わる。

 ヨハンも言った。

「俺は去年結婚した」

「そうなんですか」

「ああ」

「奥さんは?」

「妊娠してる」

「……」

「春には父親だ」

 俺は何も言えなくなった。

 俺の策で。

 この人たちが死ぬかもしれない。

「そんな顔するな」

 ヨハンが言った。

「え?」

「俺たちはお前に無理やり連れてこられたわけじゃない」

「でも」

「正面から三十人と戦うよりましだ」

 エミールも頷いた。

「俺は剣が得意じゃない。敵を騙して帰れるなら、その方がいい」

「……ありがとうございます」

「礼は帰ってから言え」

「はい」

「それと」

「?」

「敬語やめろ」

「え?」

「今だけはお前が俺たちの隊長なんだろ」

「……」

「命令する奴が『お願いします』じゃ困る」

 俺は苦笑した。

「分かった」

「それでいい」

 トーマスが肩を叩く。

「隊長」

「やめろ」

「隊長」

「やめろって」

「アレク隊長」

「お前だけ危険な場所に配置するぞ」

「職権乱用だ!」

 少し笑った。

 怖さが消えたわけではない。

 でも、足は動いた。


 ◇ ◇ ◇


 最初の篝火を作る。

 火は小さく。

 だが敵から見える位置に。

「もっと薪を」

「これくらい?」

「十分」

「次」

 百歩ほど移動する。

 もう一つ。

 さらに移動。

 もう一つ。

 森の中に火が点々と浮かぶ。

 遠くから見れば、その周囲に兵がいるように見える……はずだ。

「本当に騙されるかな」

 トーマスが言う。

「俺なら騙される」

「お前が馬鹿なだけじゃない?」

「帰ったら殴る」

「今殴れよ」

「音が出るだろ」

「真面目だな」

 予定の場所へ移動する。

 遠くにグリュン村の炎。

 敵はまだいる。

 鐘の音。

 ゲオルクからの合図。

「始めるぞ」


挿絵(By みてみん)


 俺は息を吸った。

「第三隊! 配置につけ!」

 森に声が響く。

 少し移動。

 エミールが叫ぶ。

「街道を塞げ! 一人も逃がすな!」

 さらに移動。

 ヨハン。

「弓兵は前へ!」

 弓兵なんていない。

 トーマスが俺を見る。

「俺は?」

「好きなの」

「好きなのでいいの?」

「それっぽければ」

 トーマスが息を吸う。

「騎兵隊、突撃準備!」

「それは盛りすぎ!」

「何でだよ!」

「馬いないだろ!」

「敵から見えないんだからいいだろ!」

「……確かに」

 遠くから別の声。

「第一隊、前進!」

 ゲオルクだ。

 さらに違う場所から声。

「第二隊、街道東側を確保!」

 十四人。

 いや、十三人。

 だが森の中では声の主が見えない。

 火だけが増えていく。

 右。

 左。

 前。

 後ろ。

 まるで大勢の兵士が包囲を始めているように。

「……すごい」

 トーマスが呟く。

「まだだ」

 俺は答える。

「敵が逃げるまで成功じゃない」

 むしろ問題はここからだ。

 相手が冷静なら気づく。

 火の数と声だけ。

 兵士の姿がない。

 偵察を出されたら終わる。

 時間を与えてはいけない。

 鐘。

 二回。

 次の合図。

「伝令役だ」

 俺たちは街道が見える位置へ移動する。

 一人の兵士が走ってくる。

 ゲオルク側の男。

 わざと松明を持っている。

「伝令! 伝令!」

 大声。

「ヴァイスブルクより増援! 二百!」

 森に響く。

「二百の増援、間もなく到着!」

 さらに。

「ベルン軍を包囲せよとの命令!」

 俺は思わず呟いた。

「そこまで言う?」

 トーマスが笑いを堪える。

「お前より騎士様の方が嘘つきだな」

「間違いない」

 だが笑っている場合ではない。

 敵の反応。

 グリュン村が騒がしくなった。

「動いた」

 エミールが言う。

 兵士たちが集まっている。

 何か話している。

 荷物をまとめている。

「……効いてる?」

 トーマス。

「まだ分からない」

 心臓が速くなる。

 行け。

 西へ。

 逃げろ。

 お願いだから。

 戦いたくない。

 これ以上殺したくない。

 やがて敵が動き始めた。

 西へ。

「……やった」

 トーマスが呟く。

「まだ」

 俺は止める。

「全員出るまで待て」

 一人。

 二人。

 次々と村を出る。

 奪った荷物を捨てる者もいる。

 家畜も何頭か放置された。

「逃げてる」

 エミールが笑った。

「本当に逃げてるぞ」

 俺は息を吐いた。

 力が抜けそうになる。

 成功した。

 戦わずに。

 敵を――。

「待て」

 ヨハンが言った。

「何か変だ」

「え?」

 敵の一部が止まった。

 五人。

 いや。

 六人。

 こちらを見ている。

「……まずい」

 俺は呟いた。

 敵の指揮官らしい男が何か叫んでいる。

 六人が森へ向かってくる。

「偵察?」

「たぶん」

 トーマスの顔から笑みが消える。

「どうする?」

 想定していた。

 敵が全員騙される保証なんてない。

 確認しに来る可能性はある。

 ただ。

「六人は多いな……」

「おい!」

「想定では二、三人だった」

「話が違う!」

「戦場なんだから予定通りになるわけないだろ!」

「開き直るな!」

 六人。

 こちら四人。

 戦う?

 いや。

 まだだ。

「退く」

「逃げる?」

「違う」

 俺は篝火を見る。

「もっと奥へ誘う」

「何する気だ?」

「向こうは確認しに来たんだ。だったら、確認できないようにする」

 火を一つ消す。

「何で消す?」

「敵から見れば、部隊が移動したように見える」

 次の火。

 さらに奥で新しい火をつける。

「移動しながら声を出す」

「まだやるのか?」

「今度は近くで」

 俺たちは森の奥へ下がる。

 敵が入ってくる。

 足音。

「見えないな」

 男の声。

「火はある」

「兵はどこだ?」

 近い。

 俺はトーマスたちに合図する。

 散開。

 少し離れた場所からエミール。

「隊長! 敵の偵察です!」

 俺が答える。

「殺すな! 捕らえろ!」

 わざと大声で。

 敵の足音が止まった。

 別方向からヨハン。

「十人回せ!」

 トーマス。

「逃げ道を塞げ!」

 俺は心の中で突っ込んだ。

 それを言ったら逃げなくなるだろ。

 だが。

「退け!」

 敵の声。

 走り出した。

「……」

 俺たちは黙って待った。

 足音が遠ざかる。

 十秒。

 二十秒。

 三十秒。

「行った?」

 トーマスが小声で言う。

「たぶん」

「追う?」

「追わない」

 即答した。

「絶対?」

「絶対」

「何で?」

「勝ってるから」

「?」

「敵が逃げた。それで十分だ」

 追えば、こちらの人数がばれる。

 それに追撃戦になれば死人が出る。

 目的は敵を殺すことではない。

 追い返すことだ。

「帰ろう」

 俺は言った。

「俺たちの勝ちだ」

 その言葉を口にした瞬間。

 不思議な感覚がした。

 勝った。

 人をほとんど殺さずに。

 剣ではなく。

 知識と、少しの嘘で。


 ◇ ◇ ◇


「追うぞ」

 合流した直後。

 ゲオルクが言った。

「え?」

 俺は固まった。

「敵は西へ退却した」

「はい」

「今なら背後を叩ける」

「待ってください」

「何だ」

「追うんですか?」

「当然だ」

「でも敵は逃げました」

「だからだ」

「目的は達成したでしょう?」

「我々の目的はな」

 ゲオルクの声が変わる。

「だが戦は続いている」

「……」

「敵兵を減らせる機会を逃せば、その兵が明日、別の村を焼く」

 俺は言葉を失った。

「でも」

「アレク」

「はい」

「お前の策は成功した」

「……」

「だから次を考えろ」

「次?」

「敵は今、混乱している。荷物も捨てている。隊列も乱れている」

「……」

「ここで叩けば大きな損害を与えられる」

 理屈は分かる。

 戦国時代でも退却時の追撃は大きな損害を生む。

 戦闘そのものより、敗走時に被害が拡大することは珍しくない。

 隊列が崩れる。

 指揮系統が乱れる。

 負傷者が出る。

 荷物を捨てる。

 そこへ追撃されれば、一方的な殺戮になり得る。

 だからこそ。

「……嫌です」

「何?」

「俺は追いたくありません」

 ゲオルクが俺を見る。

 周囲が静かになった。

「理由は?」

「もう勝ったから」

「それだけか?」

「これ以上殺したくない」

 言ってしまった。

 兵士としては甘い。

 分かっている。

 ゲオルクはしばらく俺を見ていた。

「お前が決めることではない」

「……はい」

「指揮官は私だ」

「はい」

「追撃する」

 胸が重くなる。

 それでも俺は命令に従うしかない。

「ただし」

 ゲオルクが続けた。

「深追いはしない」

「え?」

「敵の最後尾を叩き、さらに西へ追う。それだけだ」

「……」

「不満か?」

「いえ」

「なら行くぞ」

 ゲオルクが歩き出す。

 その横に並ぶ。

「騎士様」

「何だ」

「俺、間違ってますか?」

 ゲオルクはすぐには答えなかった。

「分からん」

「……」

「戦場ではな、正しい答えが後からしか分からんことが多い」

「後から?」

「今日逃がした敵が明日百人殺せば、今日殺しておくべきだったと言われる」

「……」

「今日追撃して味方が全滅すれば、逃がすべきだったと言われる」

「結果論」

「そういうことだ」

 前世の歴史研究でも似たことはある。

 結果を知っている後世の人間は簡単に言える。

 なぜあの時こうしなかった。

 なぜ攻めた。

 なぜ逃げなかった。

 なぜ同盟を結ばなかった。

 だが当時の人間には未来は見えない。

 限られた情報の中で決断するしかない。

 そして――。

 俺は未来を知っているわけではない。

 ここは日本ではない。

 同じ歴史になる保証などない。

「だから決めるんだ」

 ゲオルクが言った。

「何を?」

「自分が何を守るか」

「……」

「全部は守れん」

 その言葉が胸に残った。


 ◇ ◇ ◇


 追撃は短かった。

 敵の最後尾にいた数人をゲオルクたちが襲った。

 俺も参加した。

 一人と剣を交えた。

 だが殺さなかった。

 相手が武器を捨てたからだ。

「行け」

「……え?」

「逃げろ」

 男は俺を見る。

 俺と同じくらい若かった。

「早く!」

 男は走った。

 ゲオルクは何も言わなかった。

 敵は完全に西へ消えた。

 こちらの死者。

 ゼロ。

 負傷者。

 ハンス一人。

 敵の死者。

 最初に俺が斬った三人。

 追撃で二人。

 計五人。

 俺たちは三十人以上の敵を追い返した。

「勝ったぞ!」

 トーマスが叫んだ。

 男たちが声を上げる。

「勝った!」

「やったぞ!」

 笑っている。

 抱き合っている。

 俺も嬉しい。

 生きている。

 トーマスも。

 エミールも。

 ヨハンも。

 ゲオルクも。

 ハンスも。

 誰も死ななかった。

 それだけで十分だった。

「アレク!」

 トーマスが俺の肩を掴む。

「お前すげえな!」

「俺だけじゃない」

「でもお前の策だろ!」

「ゲオルク様が直してくれた」

「それでもだ!」

 周囲の男たちが俺を見る。

「十四人で追い返したぞ!」

「百人に見せた!」

「二百だ!」

「騎士様が勝手に増やしたんだよ!」

 笑いが起きる。

 俺も笑った。

 その時。

「アレク」

 ゲオルクに呼ばれた。

「はい」

「お前、何者だ?」

 笑いが止まった。

「……記憶喪失の十五歳です」

「それはもう聞いた」

「本当ですよ」

「剣が使える」

「はい」

「兵の食わせ方を考える」

「はい」

「敵を騙す方法を考える」

「……はい」

「初陣で三人斬って、三十人以上を追い返した」

「皆のおかげです」

「そういうことを聞いているのではない」

 ゲオルクの目が俺を見る。

 誤魔化せない。

 でも。

 言えるわけがない。

 俺は別の世界から来ました。

 前世では三十歳の会社員でした。

 戦国時代が好きでした。

 神様から知識と才能をもらいました。

 そんなことを言ったらどうなる?

 良くて狂人。

 悪ければ異端者。

「……分かりません」

 俺は答えた。

「本当に」

 ゲオルクはしばらく俺を見ていた。

 やがて息を吐く。

「まあいい」

「いいんですか?」

「生きていれば、そのうち分かる」

「……」

「だから死ぬな」

 マルセルと同じことを言われた。

「はい」

 ゲオルクが背を向ける。

「出発するぞ!」

「今から?」

「グリュン村へ戻る」

「……」

 喜びが消えた。

 そうだ。

 まだ終わっていない。

 俺たちは敵を追い返した。

 でも村は。

 燃えている。

 人が死んでいる。

 俺たちが勝ったからといって、失われたものが戻るわけではない。


 ◇ ◇ ◇


 夜明け前。

 グリュン村へ戻った。

 火はかなり弱くなっていた。

 焼け落ちた家。

 壊された扉。

 道に散らばった麦。

 死んだ家畜。

 そして。

 人。

「……」

 誰も勝利の声を上げなかった。

 生き残った村人たちが家から出てくる。

 最初は怯えていた。

 俺たちがアルヴェイン側の兵だと分かると、泣き出す者もいた。

「助かった……」

「ありがとうございます」

「兵隊さん……」

 俺は何も言えない。

 助けていない。

 俺たちは遅かった。

 道端。

 あの老人がいた。

 偵察の時に殴られていた人。

 生きている。

 頭に布を巻いている。

 隣には、あの女性。

 俺と目が合った。

「あなたたちが……追い払ってくださったんですか?」

「……はい」

「ありがとうございます」

 頭を下げられた。

 胸が痛い。

 俺は見ていた。

 この人たちが襲われているのを。

 助けなかった。

 いや。

 助けられなかった。

 分かっている。

 あそこで飛び出せば死んでいた。

 それでも。

「……すみません」

「え?」

「もっと早く来られなくて」

 女性は俺を見る。

「兵隊さんが謝ることではありません」

「でも」

「来てくれました」

 その一言で何も言えなくなった。

 後ろからゲオルクの声。

「アレク」

「はい」

「負傷者を集める」

「分かりました」

「動ける者は火を消せ」

「はい」

 戦いが終わっても仕事は終わらない。

 むしろここからだった。

 負傷者。

 食料。

 水。

 寝る場所。

 死者の埋葬。

 前世のゲームなら「勝利」の文字が出て終わる。

 現実には、その後がある。

 俺は水桶を持った。

 朝日が昇り始めている。

 長い夜だった。

 異世界に来て五日目。

 俺は初めて人を殺した。

 初めて兵を動かした。

 初めて策を使った。

 そして初めて――勝った。

 でも。

「……勝つって、こんな感じなんだな」

 思っていたより。

 ずっと重かった。


 ◇ ◇ ◇


 昼前。

 ヴァイスブルクから騎兵が到着した。

 二十騎ほど。

 先頭にいる若い騎士が馬から降りる。

「ゲオルク・バウマン殿は?」

「私だ」

「ヴァイス男爵閣下より命令を預かっております」

 羊皮紙が渡される。

 ゲオルクが読む。

 表情が変わった。

「何です?」

 俺が聞く。

「戦況が動いた」

「どうなったんです?」

「ベルン伯爵軍、本隊およそ三千」

 三千。

 昨日の三十人とは桁が違う。

「国境の砦を一つ落とした」

「……」

「ヴァイスブルクへ向かっている」

 周囲が静かになる。

「こちらは?」

「男爵軍およそ八百」

「八百対三千?」

 トーマスが声を上げた。

「勝てるのか?」

 誰も答えない。

 俺はゲオルクを見る。

「援軍は?」

「要請している」

「どこに?」

 ゲオルクが羊皮紙を畳む。

「アルヴェイン大公軍だ」

 心臓が少しだけ跳ねた。

 アルヴェイン大公。

 アルベルト・ヴァレンシュタイン。

 古い慣習を嫌う。

 商人を重用する。

 身分に関係なく人を取り立てる。

 火槍を大量に使うという若き君主。

 まだ偶然だと思っている。

 思いたい。

「援軍は間に合うんですか?」

「分からん」

「大公本人は?」

「来るらしい」

「……本人が?」

「ああ」

 ゲオルクが俺を見る。

「喜べ、アレク」

「何をです?」

「お前が昨日やった児戯とは比べ物にならん戦が見られるぞ」

「全然嬉しくないです」

「だろうな」

 ゲオルクが少し笑った。

「だが生き残れ」

「はい」

「生き残れば、面白いものが見られるかもしれん」

「面白いもの?」

「アルベルト・ヴァレンシュタインという男だ」

 俺は遠くを見る。

 その名前を聞くのは二度目。

 まだ会ったこともない。

 顔すら知らない。

 なのに。

 胸の奥に、小さな違和感があった。

 アルベルト・ヴァレンシュタイン。

 この世界の大公。

 俺の知る歴史とは何の関係もないはずの男。

 それでも――。

「……まさかな」

 俺は呟いた。

 この時の俺はまだ知らなかった。

 数日後。

 俺はその男と出会う。

 そしてその出会いが、俺の人生を大きく変えることになる。

十四人で、三十人を超える敵を退けたアレクたち。

剣ではなく、知識と経験、そして僅かな嘘が生んだ初めての勝利。


しかし、焼けた村を前にアレクは知る。

戦に勝ったからといって、失われたものまで戻るわけではない。


そして戦は、さらに大きく動き始める。


八百対三千。

迫り来るベルン伯爵軍。

その戦場へ、一人の若き大公が向かう。

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