第四話 初陣
夜空を染める炎を前に、一行は足を止めます。
西の夜空が赤く染まっていた。
朝焼けには早すぎる。山の端から立ち昇る煙が、炎の色を映している。
「火を消せ! 荷物をまとめろ!」
ゲオルクの声が野営地に響いた。
眠っていた男たちが毛布を跳ねのけ、焚き火へ土を掛ける。武器を手に取る者、荷袋の口を縛る者、周囲の暗がりへ目を凝らす者。それぞれが慌ただしく動く中、アレクも傍らに置いていた槍を掴んだ。
手が震えていた。
寒さのせいではない。
炎の見える方角には村がある。偶然の火事なら、あれほど何か所も同時に燃えるはずがなかった。
「アレク」
トーマスが駆け寄ってきた。
「燃えているのは、ベルン伯の兵がやったのか?」
「分からない。けど、ただの火事には見えない」
「何人いると思う?」
「見てもいないのに分かるわけがないだろ」
「お前なら何か分かるかと思ったんだよ」
いつもなら笑って返せたかもしれない。だが、今のアレクにはその余裕がなかった。
遠くの炎を見ているだけなのに、心臓が激しく鳴っている。
「全員、集まれ!」
荷造りを終えた男たちがゲオルクのもとへ集まった。
ラーデン村から徴集された十二人と、ゲオルクたち三人。総勢十五人だった。
ゲオルクは全員がいることを確かめると、地面へ片膝をついた。小枝を拾い、土の上に一本の線を引く。
「これが街道だ。我々はここにいる」
線の南側へ印を付け、その西側へ丸を描いた。
「燃えているのは、おそらくグリュン村だ」
「ここからどれほど離れていますか」
アレクが尋ねる。
「街道を歩けば半刻ほどだ」
近い。
村一つが襲われているなら、敵がこちらへ来ても不思議ではない距離だった。
「敵の数は分かりますか」
ハンスが尋ねた。
「分からん。火の数だけで兵数は読めない」
「偵察を出しますか」
「いや」
ゲオルクはすぐに首を横へ振った。
「こちらは十五人しかいない。敵の数も居場所も分からない状態で、さらに兵を分ける方が危険だ。街道を避け、森沿いにヴァイスブルクへ向かう」
「ここから離れるんですか」
トーマスが聞いた。
「そうだ」
「でも、敵が略奪を目的にしているなら」
アレクは地面に描かれた線を見た。
グリュン村は街道沿いにある。ラーデン村も同じだった。
燃えている村で十分な食料を奪えなかった場合、敵が次に狙う場所はどこか。
「何だ」
ゲオルクに促され、アレクは顔を上げた。
「次はラーデン村へ向かうかもしれません」
「何だって?」
トーマスの顔色が変わった。
「略奪を続けるつもりなら、街道沿いに次の村を探すはずだ。ラーデン村の場所を知っている者が敵の中にいたら、最初から向かうつもりかもしれない」
「待てよ」
トーマスがアレクの肩を掴んだ。
「母ちゃんがいるんだぞ」
「分かってる。マルセル神父も、村長たちもいる」
「だったら戻らないと」
「まだ敵がラーデンへ向かうと決まったわけじゃない」
「向かってからじゃ遅いだろ!」
トーマスが荷物を掴み、来た道へ駆け出そうとした。
ゲオルクがその腕を捕まえる。
「離してください!」
「落ち着け」
「母ちゃんが殺されるかもしれないんだ!」
「お前一人で戻って、どうするつもりだ」
「戦います」
「誰と戦う」
「村を襲う奴らです」
「敵が五十人ならどうする」
トーマスは答えられなかった。
「百人なら、お前一人で村を守れるのか」
「それでも、何もしないよりは……」
「一人で戻って死ねば、お前の母親は息子まで失う」
トーマスが唇を噛んだ。
握り締めた拳が震えている。
「でも、母ちゃんが……」
村を出る時には、騎士になって帰ると笑っていた少年だった。
今は、母親を心配する少年にしか見えない。
アレクもトーマスへ掛ける言葉を見つけられなかった。
マルセルから、必ず帰ってこいと言われた。だが、その帰る場所が焼かれるかもしれない。
「ゲオルク様」
ハンスが静かに呼びかけた。
「どうしますか」
ゲオルクはすぐに答えず、赤く染まった夜空を見た。
このままヴァイスブルクへ向かえば、少なくとも十五人が生き残る可能性は高くなる。
しかし、それでは敵がどこへ向かうのか分からない。グリュン村を離れた敵が街道を東へ進めば、ラーデン村へ近づく。
かといって、人数の分からない敵を相手に十五人で戻るのも危険だった。
判断するための情報が足りない。
情報がなければ、逃げる方向さえ選べない。
「敵を見に行くべきだと思います」
全員の視線がアレクへ集まった。
「さっき、偵察は出さないと言ったはずだ」
「十五人全員で近づけば、足音や装備の音で気づかれます。でも、少人数なら森から様子を見られるかもしれません」
「誰を行かせる」
「俺が行きます」
「駄目だ」
ゲオルクは即座に退けた。
「でも」
「偵察に必要なのは、敵に勝つ力ではない。見つからずに近づき、見たものを間違えずに持ち帰る経験だ。初陣にも出ていない者を一人で行かせるつもりはない」
正論だった。
剣を扱えることと、偵察ができることは同じではない。
「なら、私が行きます」
ハンスが口を開いた。
「ハンス」
「アレクも連れていきます。こいつは目がいい。私が前を進み、こいつには見えた敵を数えさせます」
「俺もですか」
「言い出したのはお前だろう」
「そうですけど」
「心配するな。勝手に飛び出しそうになったら、首根っこを掴んで連れ戻す」
「そこまで子供じゃありません」
「さっき、自分一人で偵察へ行こうとした奴の言葉とは思えんな」
わずかな笑いが起きた。
それでも、張り詰めた空気が消えることはなかった。
ゲオルクはしばらく考えた後、地面の図へ目を戻した。
「村の北側には林がある。街道へ出ず、そこから近づけ」
「はい」
「確認するのは敵の人数、装備、馬の数、村を出る準備をしているかどうかだ。敵の本隊なのか、略奪のために分かれた小隊なのかも見極めろ」
「分かりました」
「戦うな。村の中にも入るな」
ゲオルクはハンスを見た後、アレクへ視線を移した。
「目の前で何を見てもだ」
その言葉の重さが、アレクの胸へ沈んだ。
「……はい」
「敵に見つかった場合は、二人で戻ることに固執するな。どちらか一人でも、見たものをここへ持ち帰れ」
「私が囮になれば、アレクだけでも帰せます」
ハンスが軽く言う。
「勝手に死ぬな。帰る方法を考えてから言え」
「承知しました」
「必ず戻れ」
ゲオルクの声に冗談の色はなかった。
ハンスが短く返事をする。
アレクも槍を置き、腰の剣を確かめた。
ラーデン村で借りた使い古しの剣だった。柄には何人もの手が握った跡が残り、鞘にも細かな傷がある。
これを抜かずに戻りたい。
そう願いながら、アレクはハンスとともに夜の森へ入った。
◇ ◇ ◇
「俺より前に出るな」
「はい」
「足を下ろす前に地面を見ろ。枯れ枝は踏むな」
「はい」
「声は必要な時だけだ」
「はい」
ハンスが振り返った。
「さっきから『はい』しか言っていないな」
「必要な時だけ話せと言ったじゃないですか」
「それもそうだ」
ハンスは再び前を向いた。
緊張を和らげるための軽口なのだろう。アレクは小さく息を吐き、前を歩くハンスの足運びを真似た。
街道は使わず、木々の間を西へ進む。
野営地を離れるにつれて、煙の臭いが濃くなっていった。薪を燃やしたものとは異なる、焦げた布や穀物の臭いも混じっている。
さらに、アレクには正体を確かめたくない臭いまで感じられた。
森の中は暗かったが、しばらく進むうちに目が慣れてきた。枝の重なりや地面の起伏までは見える。前世の三十歳の身体より、今の若い身体の方が暗闇へ順応しやすいらしい。
ハンスが突然しゃがみ、片手を上げた。
アレクもその場で腰を落とす。
「声だ」
囁かれ、耳を澄ませた。
男たちの笑い声が聞こえる。
馬の鳴き声。木材が崩れる音。何か重い物を荷車へ投げ込む音。
二人はさらに歩みを遅くした。
火の明かりが木々の間へ差し込んでいる。夜目に慣れた瞳には眩しく、アレクは目を細めた。
ハンスが一本の木の陰へ入り、村を指さす。アレクも少し離れた木の根元に身を伏せた。
グリュン村の半分ほどが燃えていた。
屋根から火を噴いている家がある。すでに柱だけになった家もあった。
道には破られた袋から穀物がこぼれ、割れた壺が転がっている。敵兵たちは家々から食料や酒樽を運び出し、村の中央に置かれた二台の荷車へ積んでいた。
牛を引く者、鶏を籠へ押し込む者、納屋の床板を剥がして隠された食料を探す者もいる。
そして、地面には村人が倒れていた。
炎に照らされて動かない人影が、一人、二人ではない。
アレクの呼吸が止まりかけた。
「見る場所を間違えるな」
ハンスが低い声で言った。
「敵を数えろ」
目を背けることは許されなかった。
アレクは村の左側から、見える敵兵を一人ずつ数えた。
荷車の周囲に六人。燃えていない家の前に四人。家畜を集めている者が五人。村の入口付近に槍を持った三人。
動き回る兵を二度数えないよう、服装や武器も覚える。
「二十七人見えます」
「私は二十九人だ」
ハンスの方角からは、アレクの位置では家に隠れている兵が見えるらしい。
「家の中にもいるはずです」
「ああ。少なくとも三十人。多ければ四十人ほどと考えるべきだ」
「馬は七頭」
「騎兵の馬ではないな」
鞍は付いているが、兵は誰も騎乗していない。奪った荷物を運ばせるため、村から連れ出した馬も混じっているようだった。
敵兵の装備は揃っていない。
槍を持つ者が最も多く、剣や弓を持つ者もいる。革鎧だけの兵が多いが、数人は金属製の胸当てを着けていた。旗も見当たらず、整然とした隊列もない。
「火槍は」
「見える範囲にはない」
「本隊ではなさそうですね」
「おそらく、略奪のために分かれた連中だ。だが、近くに本隊がいないとは限らない」
敵が略奪品を集めているのは分かった。
しかし、荷車はまだ一台も村の外へ向かっていない。どちらへ進むつもりなのかは判断できなかった。
もう少し見ていなければならない。
その時、村の中央から女性の声が聞こえた。
「お願いします。もう何もありません!」
一人の兵が老人の腕を掴み、家から引きずり出していた。
「食料をどこへ隠した」
「残っていたものは、すべて持っていったではありませんか」
「この家だけ少なすぎる。どこかに隠しているだろう」
「冬を越すための分まで、もう……」
兵が老人を殴った。
老人は道へ倒れ、駆け寄った女性も髪を掴まれた。
敵兵たちが笑っている。
アレクの右手が剣の柄へ伸びた。
次の瞬間、その手首をハンスに掴まれた。
「何をするつもりだ」
「……分かりません」
「分かっているはずだ」
ハンスの声は厳しかった。
「俺たちは偵察に来た。村人を救出する命令は受けていない」
「見ているだけですか」
「そうだ」
「あの兵なら、背後から近づけば倒せるかもしれません」
「一人を斬った後はどうする」
アレクは答えられなかった。
「周りには三十人以上いる。お前が一人を斬れば、残りが集まる。私もお前も殺され、助けようとした老人や女も巻き込まれる」
「それでも、何もしなければ」
「飛び出したいなら、勝てる方法を考えてからにしろ」
冷たい言葉だった。
だが、ハンスも村の中央から目を逸らしていなかった。
老人が再び殴られるたび、アレクの手首を掴む指へ力が入る。
助けたくないわけではない。
助けられないのだ。
「戦場では、目の前にいても助けられない者がいる」
ハンスが言った。
「覚えておけ」
アレクは奥歯を噛み締めた。
剣を扱う力があれば、困っている人を救えるのだと思っていた。
だが、敵を一人倒せることと、村一つを救えることの間には大きな隔たりがある。
力があっても、救えない者がいる。
自分の無力を認めなければ、さらに多くの者を死なせることになる。
「敵の進路は、まだ分かりません」
「これ以上近づくのは危険だ。人数と装備だけでも持ち帰る」
「分かりました」
二人は静かに後退した。
一歩ずつ、足を置く場所を確かめる。
村から離れ、炎が木々に遮られ始めた。
このまま森の奥へ戻ればいい。
そう思った時、アレクの踵が枯れ枝へ触れた。
乾いた音が夜の森に響いた。
「誰だ!」
村の方から声が上がる。
ハンスが立ち上がった。
「走れ!」
二人は森の中を駆け出した。
「北の林だ!」
「誰かいるぞ!」
「追え!」
複数の足音が背後から近づいてくる。
アレクは枝を腕で払い、木の根を跳び越えた。暗闇に慣れていても、全力で走れば足元を見誤りそうになる。
「何人ですか」
「振り返るな!」
ハンスが先を走りながら答えた。
「私たちの足音に混じっている。三人か四人だ!」
敵の声は近い。
追手は森の地形を知らないはずなのに、迷わず追ってくる。村の炎を背にしているため、二人の姿を見失っていないのだ。
「止まれ!」
背後から怒鳴り声がした。
止まれば殺される。
アレクは息を切らしながら走り続けた。
「アレク、右へ寄れ!」
ハンスの声に従い、身体を右へ投げる。
何かが左肩のそばを通り抜け、前方の木へ突き刺さった。
矢だった。
振り返っていれば避けられなかった。
「弓兵がいます!」
「見れば分かる! 木を盾にして走れ!」
二人は真っすぐ進むのをやめ、太い木の間を縫って走った。
弓を持つ敵は狙いを定めにくくなるが、二人の速度も落ちる。
枝が頬を打ち、革鎧の肩を引っかいた。呼吸をするたび、冷たい空気が喉へ刺さる。
森の先に暗い斜面が見えた。
そこを越えれば、仲間たちの待つ野営地まで遠くない。
「あと少しだ!」
ハンスが叫んだ。
直後、弓弦の鳴る音が聞こえた。
「ぐっ!」
ハンスの身体が傾き、そのまま地面へ倒れた。
「ハンスさん!」
「止まるな、走れ!」
ハンスの左脚に矢が刺さっていた。
ふくらはぎを貫いてはいないが、深く食い込んでいる。立ち上がろうとしても、左脚へ力を入れた瞬間に顔を歪めた。
追手の足音は止まっていない。
「行け!」
「一人で行けるわけがないでしょう!」
アレクはハンスの腕を肩へ回した。
「命令を忘れたのか。どちらか一人でも報告を持ち帰れ!」
「忘れていません」
「なら行け!」
「ハンスさんを連れて帰ります!」
「この脚では追いつかれる。お前まで死ぬぞ」
「死ぬのは嫌です」
「だったら私を置いていけ!」
「それも嫌です!」
ハンスを支え、斜面を進もうとする。
しかし、二人分の重さで足が沈む。枝へ引っかかっただけでも転びそうになった。
これでは野営地までたどり着けない。
敵の足音は三つだった。
一人は弓を持っている。残りの武器までは分からない。
正面から三人を相手にすれば、アレクに勝ち目はなかった。ハンスと木剣を交えたのは訓練だった。相手も本気で殺そうとしてはいなかった。
今度は違う。
相手は剣や槍で命を奪いに来る。
アレクは周囲を見た。
斜面。太い木。深い茂み。炎の明かりはここまで届かず、追手が持つ松明も見えない。
地面にはハンスの血が落ちている。
敵は血痕を追えば二人を見失わないと思っているはずだ。
負傷者を連れて逃げる相手には、すぐ追いつけるとも考えている。
三人の足音には間隔があった。先頭の兵だけが速く、残る二人が少し遅れている。
追う側が、互いを待たずに進んでいる。
「ハンスさん」
「何だ」
「ここに座ってください」
「何を考えている」
アレクはハンスを斜面の上にある大木の陰へ座らせた。茂みが身体を隠してくれる。
「追手を待ち伏せます」
「三人いるんだぞ」
「三人同時には来ていません」
「一人目を倒した音を聞けば、残りもすぐに来る」
「一人目を倒したら、ハンスさんを連れて逃げます。敵が怯んでくれれば、それで十分です」
「倒せなかったら」
「俺一人なら走れます」
「結局、私を置いていくことになるな」
「その時は命令に従います」
ハンスが苦い顔をした。
「随分と遅い返事だ」
「置いていかずに済む方法を先に試します」
アレクは腰の剣を抜き、斜面の下側にある別の木へ身を隠した。
剣を握る手が震えている。
先ほど、村人を殴った兵へ斬りかかろうとした時とは違う。
今は、本当に人を殺すことになる。
追手を説得することなどできない。
見つかれば殺される。
剣を抜いた以上、相手より先に斬らなければならない。
逃げたい。
ハンスを置いて走れば、アレクだけは助かるかもしれない。
だが、ハンスは偵察に同行してくれた。矢が飛んできた時にも、先に気づいてアレクを救った。
その男を置き去りにして、一人で帰ることはできなかった。
足音が近づく。
一人目。
「血がある!」
先頭の兵が声を上げた。
後ろから返事が聞こえる。
「近いぞ! 逃がすな!」
まだ距離がある。
先頭の兵は、血痕へ目を落としたまま斜面を登ってくる。右手には剣を持っていた。
アレクの隠れている木のすぐ横を通る。
今しかない。
考えるより先に身体が動いた。
木陰から踏み出し、両手で剣を振る。
「――っ!」
刃が男の首へ食い込んだ。
肉を断つ感触が両手へ伝わる。
男は驚いた顔でアレクを見た。何かを言おうと口を開いたが、声になる前に血が噴き出した。
男が斜面へ崩れ落ちる。
アレクの足が止まった。
斬った。
人を斬った。
倒れた男の身体が痙攣している。
「アレク!」
ハンスの声が飛ぶ。
二人目の敵が目前まで来ていた。
「この野郎!」
敵が剣を振り下ろす。
アレクは辛うじて自分の剣を上げた。二本の刃がぶつかり、甲高い音が森へ響く。
腕が痺れた。
訓練で打ち込まれた時とは重さが違う。相手はアレクの頭を割るつもりで振っている。
敵がもう一度剣を振り上げる。
アレクは後ろへ下がらず、相手の懐へ踏み込んだ。
相手の剣が十分な勢いを得る前に、身体を横へずらす。すれ違いざまに剣を振ると、刃が敵の腹へ入った。
「ぐっ……」
温かい血が手と頬へかかった。
男が腹を押さえ、膝をつく。
アレクは剣を引き抜いたが、次に何をすればいいのか分からなかった。
倒れた二人目の敵が、苦しそうに息をしている。
助けることはできない。
その間にも、三人目が来る。
弓を背負い、短い槍へ持ち替えた男が、斜面の途中で足を止めた。
倒れている二人と、血に濡れた剣を持つアレクを交互に見る。
怯えていた。
アレクと同じだった。
「来るな」
自分でも驚くほど震えた声が出た。
「そのまま戻れ」
男は逃げなかった。
後ろから仲間が来ると思っているのかもしれない。あるいは、二人を斬った少年に背中を見せる方が危険だと考えたのかもしれない。
槍の穂先がアレクへ向けられる。
「来るな!」
「うわあああっ!」
男が叫びながら斜面を駆け上がった。
長い槍が突き出される。
アレクは左へ避けた。穂先が革鎧の脇をかすめる。
男は勢いを止められず、アレクの横を通り過ぎた。
逃げればいい。
一瞬、そう思った。
だが、男の先には、木陰に隠れているハンスがいる。
アレクは振り返り、剣を横へ薙いだ。
刃が男の首へ入る。
止めることはできなかった。
男の手から槍が落ち、身体が斜面を転がった。
森が静かになった。
アレクは剣を下ろせず、その場に立ち尽くしていた。
足元には三人が倒れている。
もう襲ってこない。
それでも、身体は動かなかった。
「アレク」
ハンスの声が聞こえた。
返事をしようとしても、喉から声が出ない。
「アレク。もう終わった」
「……はい」
「他の足音は聞こえない。追手は三人だけだ」
「はい」
アレクは自分の手を見た。
血に濡れている。
自分の血ではない。
「俺が、殺したんですよね」
「ああ」
「三人とも」
「ああ」
「俺が……」
胃の奥から何かが込み上げた。
剣を落とし、その場へ膝をつく。
「うっ……」
昼に食べたものを吐いた。
胃の中が空になっても吐き気は止まらない。涙と鼻水が流れ、血の臭いへ胃液の臭いが混じった。
身体が震えている。
人を殺した。
剣の才能があると聞いた時、その意味を深く考えていなかった。
強くなれる。
自分や誰かを守れる。
そういう都合のいい面だけを見ていた。
剣を扱う才能は、人を殺すためにも使える力だった。
「アレク」
「生きるためだったとしても、俺が殺したことは変わりません」
「変わらん」
ハンスは否定しなかった。
「お前が斬らなければ、私たちが死んでいた。それも変わらん」
「……はい」
「それでも苦しいなら、今は吐いておけ。立てるようになるまで待つ」
アレクは地面へ手をついた。
最初に斬った兵の顔が見える。
若かった。二十歳を少し過ぎた程度かもしれない。残りの二人も、父親ほどの年齢には見えなかった。
名前は知らない。
家族がいたのかもしれない。
誰かに徴集され、命令されてグリュン村まで来ただけかもしれない。
村を焼き、食料を奪った敵だった。
アレクとハンスを殺そうとした敵でもある。
それでも、人間だった。
戦の記録なら、三名が死亡したという短い一文で終わる。
しかし、ここには三人が倒れている。
三人分の命が失われた。
「これが、戦なんですね」
アレクの呟きに、ハンスは答えなかった。
やがて震えが少し収まると、アレクは落とした剣を拾った。草で血を拭ったが、刃に残った赤黒い色は完全には落ちなかった。
ハンスのもとへ戻り、左脚を確かめる。
「矢を抜いた方がいいですか」
「今は抜くな。血が増える」
「歩けますか」
「左脚を地面につけなければな」
アレクは再びハンスの腕を肩へ回した。
「今度こそ、一緒に戻りましょう」
「先ほどより顔色が悪いぞ」
「ハンスさんも似たようなものです」
「私は血を流しているからな」
「俺は吐いたからです」
「どちらが先に倒れるか競争だな」
「そんな競争はしたくありません」
二人は互いに支え合いながら斜面を進んだ。
追手が増える気配はない。村へ残った敵は、森の中へさらに人数を割くより、略奪品を守る方を選んだらしい。
森を抜ける頃には、アレクの足もふらついていた。
前方の暗がりから、複数の人影が現れる。
「誰だ」
ゲオルクの声だった。
「アレクです! ハンスさんが負傷しています!」
ゲオルクと二人の兵が駆け寄ってきた。
「ハンス!」
「左脚を射られました」
「矢は」
「そのままです」
「よし。ここでは抜くな」
兵たちがハンスの身体を支える。別の兵が布を使い、矢の周囲を動かないように固定した。
トーマスたちも集まってくる。
「敵はどうした」
ゲオルクが尋ねた。
ハンスは痛みに顔を歪めながらも、すぐに報告を始めた。
「確認できたのは二十九人。家の中まで含めれば、三十人から四十人ほどです。馬は七頭。騎兵ではなく、荷物を運ぶために使っています」
「装備は」
「槍が多く、剣と弓もあります。金属の胸当てを着けた者が数人。火槍は確認できませんでした」
「本隊か」
「装備も行動も揃っていません。グリュン村で食料、酒、家畜を奪っています。ベルン伯軍から分かれた略奪隊だと思われます」
「進む方向は」
「まだ村を出ていません。東へ来るか、西へ戻るかまでは分かりませんでした」
「村人は」
ハンスは一度、アレクを見た。
「死者が出ています。生き残っている者もいますが、助け出すことはできませんでした」
トーマスが拳を握り締める。
「ラーデンへ向かう可能性はあるのか」
「ある」
ゲオルクが答えた。
「だが、まだ決まったわけではない」
「だったら、急いで戻らないと」
「敵は三十人以上だ。正面から戦えば、村へ着く前に我々が全滅する」
「でも、このままにはできないでしょう」
「そのために考える」
ゲオルクはハンスの左脚を確認した後、アレクを見た。
アレクの服にも、顔にも血が付いている。
「追手が来たのか」
「三人です」
「どうした」
「三人とも死にました」
「誰が倒した」
アレクは答えようとしたが、言葉が喉に引っかかった。
代わりにハンスが口を開く。
「アレクです。私は木の陰から励ましていました」
「それだけですか」
アレクが思わず言うと、ハンスはわずかに笑った。
「私が敵の注意を引きつけていたことにしてもいいぞ」
「木の陰に隠れていたでしょう」
「負傷兵に随分厳しいな」
周囲の男たちから小さな笑いが漏れた。
恐怖で固まっていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
ゲオルクは笑わなかった。
血の付いた剣と、アレクの震える手を見ている。
「初めて人を斬ったのか」
「はい」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
褒めることも、慰めることもしない。
ただ、アレクが生きて戻ったことを確かめるように肩へ手を置いた。
「よく情報を持ち帰った」
アレクは小さくうなずいた。
三人を斬ったことではなく、偵察の結果を持ち帰ったことを評価された。その言葉の方が、今はありがたかった。
ゲオルクは全員を集め、改めて状況を伝えた。
「我々は十五人いる。しかし、ハンスはこの脚では戦えない。戦える者は十四人だ」
「すみません」
「謝るな。矢を受けながら戻った者へ文句を言う者はいない」
敵は三十人から四十人。
こちらは十四人。
数だけを比べれば、半分にも届かない。
しかも、ラーデン村から連れてきた者の大半は、実戦経験のない農民や猟師だった。
「ヴァイスブルクへ向かいますか」
一人の男が尋ねた。
ゲオルクは地面へ小枝で図を描いた。
「このまま離れれば、我々は助かる可能性が高い。だが、略奪隊が東へ進めば、ラーデン村が襲われる」
「戻るしかないだろ」
トーマスが言った。
「戻って正面から戦えば負ける」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
誰も答えられなかった。
アレクは地面の図を見た。
敵は三十人以上いる。
だが、敵はこちらの人数を知らない。
追手の三人は戻っていない。敵から見れば、森の中に何人いるのかも、三人が何者に倒されたのかも分からない。
敵は戦うために来た本隊ではなく、物を奪うための略奪隊だ。
目的は敵を全滅させることではない。
ラーデン村へ向かわせなければいい。
「アレク」
ゲオルクが呼んだ。
「お前はどう考える」
「俺ですか」
「敵を見るべきだと言ったのはお前だ。見た上で、どうすべきだと思う」
アレクは炎の見える西の空へ顔を向けた。
夜の森では、遠くにいる兵の姿までは見えない。
聞こえるのは、足音、声、武器の音だ。
見えないものほど、実際より大きく感じる。
「敵を倒す必要はないと思います」
「どういうことだ」
「ラーデン村へ行かせなければいいんです」
「敵に頼むのか?」
トーマスが苛立った声を出す。
「頼んでも聞かない。でも、自分たちより多い兵がいると思えば、略奪隊は戦わずに逃げるかもしれない」
「十四人しかいないのに、どうやって多く見せる」
「姿を見せなければいい」
アレクは地面の図へ手を伸ばした。
グリュン村の周囲には森がある。敵が村に集まっている間に、少人数ずつ別の方向へ回り込める。
「姿を隠したまま、北と東と南から大軍が来たと思わせるんです。敵は追手を三人出しました。その三人が戻らず、別の方向からも兵の声が聞こえれば、森の中を警戒するはずです」
「思わなかったら?」
「戦うことになります」
「勝てるのか」
「正面からは勝てません」
アレクは正直に答えた。
「だから、西側だけは塞ぎません。敵が逃げられる道を残します」
敵を囲んで全滅させようとすれば、敵も死ぬまで戦う。
だが、安全に逃げられそうな道が一つあれば、略奪品を捨ててでもそちらへ向かう可能性がある。
「村を守るために、敵を西へ追い返すのか」
「はい」
ゲオルクは地面の図を見つめた。
「細かい配置と合図は私が決める。お前は、見てきた村の様子をもう一度話せ」
「はい。敵はこちらの人数を知りません。俺たちが十五人しかいないと知られる前に、退かせましょう」
ゲオルクが顔を上げた。
「十五人ではない」
ハンスが木にもたれながら、自分の左脚を指さした。
「戦えるのは十四人です」
「今、それを言う必要がありますか」
「間違った数で策を立てるよりいい」
「お前は戦えなくても、声くらいは出せるだろう」
ゲオルクが言う。
「それなら百人分ほど叫びましょう」
「脚より先に喉を潰すな」
再び、小さな笑いが起きた。
十四人しか戦えない。
それでも、十四人に見える必要はない。
敵が勝手に百人だと思えば、百人の軍勢になる。
アレクは剣に残った血を見た。
もう人を斬りたくなかった。
敵を全滅させる必要もない。
ラーデン村へ向かわせず、これ以上グリュン村の者を殺させなければいい。
「戦わずに追い返しましょう」
アレクは言った。
「戦える十四人で、三十人以上の敵を」
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