第三話 戦場へ
十二人の兵を選ぶ朝、村人たちが教会前へ集まります。
ヴァイス男爵からの命令が届いた翌朝、ラーデン村の教会前には、まだ朝露が残るうちから大勢の村人が集まっていた。
集められたのは十五歳以上、四十歳以下の男たちと、その家族である。
命令で定められた人数は十二人。
だが、村長は集まった男たちの中から、若くて身体の丈夫な者を順番に選ぼうとはしなかった。
「去年の収穫の時に腰を痛めたと言っていたな」
「今は働けます」
「槍を持って何日も歩けるか」
「それは……」
「無理をして途中で倒れたら、お前だけでなく同じ隊の者まで困る。今回は残れ」
村長は男の名が書かれた木札を脇へ置いた。
教会前に並べられた長机の上には、村で暮らす家々の名前や人数、所有する畑や家畜について記された木札が積まれている。文字を学び始めたばかりのアレクには、そのすべてを読むことはできなかった。
それでも、村長が何を確かめているのかは分かった。
戦へ出せる男がいるか。
その男がいなくなっても、家族は畑を耕せるか。
病人や幼い子供を養っている家ではないか。
以前の兵役で負った傷を抱えていないか。
一人の身体だけを見て決められることではなかった。
「お前の家は、弟が二人いたはずだ」
「下の弟は十二です。上は十四になります」
「今年の収穫は誰がする」
「母と弟たちに頼みます」
「牛は扱えるのか」
「上の弟なら」
村長は男の顔と木札を何度も見比べた末、その名を選ばれた者の側へ移した。
男の母親がうつむく。
代わりに別の家族が、小さく息を吐いた。
誰かが選ばれれば、別の誰かが残れる。
十二人という数は変わらない。
アレクは教会の壁際に立ち、その光景を見ていた。
マルセルからは、選定の場へ出る必要はないと言われている。アレクはラーデン村の住人として記録されておらず、兵役を負う家の者でもない。
昨日、村長もアレクを割当へ含めるべきではないと認めていた。
ここにいる理由はなかった。
それでも、自分が残ることで代わりに誰が選ばれるのか、見ないまま教会へ戻ることはできなかった。
「次、トーマス・ベッカー」
「はい」
赤みがかった髪の少年が前へ出た。
昨日、木剣を交えた時とは違い、その顔に笑みはない。
「家の畑は兄が継ぐのだったな」
「はい」
「母親と二人の暮らしではないのか」
「兄貴の家族が一緒に住んでいます。俺がいなくても畑は耕せます」
「兵役の経験は」
「ありません」
「父親は三度出たな」
トーマスの口元がわずかに強張った。
「はい」
「三度目は帰らなかった」
「知っています」
後ろに立っていた女性が顔を伏せた。
トーマスの父親が戦死していたことを、アレクは初めて知った。
「それでも行くのか」
「行きます」
「理由は」
「兵になって、手柄を立てたいからです」
集まった村人たちの間から、わずかなざわめきが起きた。
村長は黙ってトーマスを見ている。
「手柄を立てて、どうする」
「従士に取り立ててもらいます。いつか騎士になります」
「簡単な道ではないぞ」
「分かっています」
「父親のようになるかもしれない」
「父がなれなかったから、俺がなります」
強がっているだけではないらしい。
トーマスは本気で、自分の将来を戦場に求めている。
村長は長く息を吐き、トーマスの名が書かれた木札を選ばれた者の側へ置いた。
「十人目だ」
その言葉を聞いた女性の肩が揺れた。
だが、トーマスの母親は息子を引き止めなかった。
選定は続いた。
十一人目が決まり、残るのは一人となった。
村長が次の木札を取る。
呼ばれたのは、三十歳を少し過ぎたほどの男だった。
男の隣には妻らしい女性が立ち、その腕には幼い子供が抱かれている。さらに二人の子供が、父親の服を両側から握っていた。
「お前の家には、他に働ける男がいないな」
「父はおります」
「六十を過ぎているだろう」
「畑を見るくらいならできます」
「お前が戻らなければ、どうする」
男は答えなかった。
妻が子供を抱く腕に力を込める。
「ですが、十二人を出さなければ村が罰を受けます」
男が絞り出すように言った。
「分かっている」
「なら、俺が行きます」
「お前だけの話ではない」
「他の家も同じでしょう」
その言葉に答えられる者はいなかった。
村長が木札を置こうとした時、アレクは壁から背を離した。
「待ってください」
集まっていた者たちの視線が一斉に向けられた。
マルセルの表情が険しくなる。
「アレク」
「俺を十二人目にしてください」
村人たちがざわめいた。
村長は木札から手を離し、アレクを見た。
「昨日も言ったが、お前はラーデン村の者ではない」
「分かっています」
「兵役を負う理由もない」
「それも分かっています」
「ならば、なぜ出る」
すぐには答えられなかった。
困っている家族を助けたいからだと言えば、聞こえはよい。
だが、それだけではなかった。
助けてもらうばかりではなく、自分の力で生きていきたい。それに、子供たちが父親の服を握る姿から、目を逸らせなかった。
「何も持たないまま、別の土地へ逃げても生きていけるとは思えません」
アレクは村長へ答えた。
「戦へ出れば生きていけるのか」
「分かりません」
「死ぬかもしれんぞ」
「怖いです」
アレクは否定しなかった。
「木剣を持って、自分に力があることは分かりました。でも、戦場でも通じるかどうかは分かりません」
「そこまで分かっていて行くのか」
「分かっていないから、行くんです」
村長が眉を寄せる。
「この世界で戦が避けられないなら、何も知らないまま逃げ続けることはできません。それに、俺が残れば、その人が十二人目になるんですよね」
アレクは幼い子供たちに囲まれた男へ目を向けた。
「俺には、残していく畑も家族もありません」
「それを理由に、自分の命を軽く扱うつもりか」
マルセルの声だった。
アレクは振り返る。
マルセルは怒っていた。
「家族がいなければ、死んでも構わないとでも言うのですか」
「そうは言っていません」
「同じことです」
「違います」
アレクは一度息を吸った。
「死ぬつもりはありません。生きるために行きます」
「教会を手伝いながら、働き口を探してもよいでしょう。焦る必要はありません」
「それでも、俺が代われるなら、あの家の父親を残したいんです」
アレクはマルセルの目を見た。
「俺はこの村で助けてもらいました。食事も寝る場所も、文字を学ぶ機会ももらいました。その恩を三日や四日で返せるとは思っていません。でも、誰かの代わりに戦へ出られるなら、今の俺にもできることがあります」
「恩を返すために命を差し出す必要はありません」
「差し出しません。持って帰ります」
「簡単に言うな」
「簡単だとは思っていません」
二人の間へ、村長が入った。
「そこまでにしてください」
村長はアレクを見た後、マルセルへ視線を移した。
「神父様。この少年を出せるかどうかは、私にも決められません」
「ならば出さなければよいでしょう」
「村の戸籍にない者を、勝手にヴァイス男爵の兵へ加えることはできません。ですが、本人が志願している以上、迎えに来る騎士へ事情を伝えることはできます」
「村長」
「認めるかどうかは騎士に判断してもらいます。それまでは予備です」
マルセルは納得していなかった。
それでも、村長を責めることはできないようだった。
幼い子供を抱える男の妻が、アレクへ頭を下げようとする。
アレクは慌てて首を振った。
「まだ決まっていません。それに、俺が勝手に決めたことです」
「それでも……」
「頭を下げないでください」
礼を言われれば、自分が正しいことをしたように思ってしまう。
実際には、戦場へ行くことを選んだだけだ。
その選択が正しいかどうかは、生きて帰るまで分からなかった。
◇ ◇ ◇
指定された集合日までの二日間、選ばれた者たちは村外れの空き地へ集められた。
教えるのは、以前の兵役から生きて帰った者たちだった。
「槍を振り回すな! 前の者の背中を突きたいのか!」
怒鳴られた若者が、慌てて槍を立てる。
槍といっても、先端を布で包んだ練習用の棒である。それでも、勢いよく振れば骨を折ることはある。
アレクも他の者と並び、槍を構えていた。
木剣よりも長く、重心が遠い。
自分一人で使うだけなら、長さを利用して相手へ突き出せばよい。しかし、左右と前後に味方がいれば、好きな方向へ動かすことはできなかった。
「アレク、近い」
隣のトーマスが言った。
「そちらが寄ってきたんでしょう」
「俺はまっすぐ歩いてる」
「地面の線から外れています」
足元には、隊列を崩さず歩くための線が引かれている。見ると、確かにトーマスの右足が線を越えていた。
「少しくらいいいだろ」
「その少しが十二人分重なったら、列が崩れます」
「細かいな」
「槍の穂先がこちらを向いているので、細かくもなります」
「前へ向けてる」
「少し斜めです」
「お前、昨日まで槍を持ったこともなかっただろ」
「だから気をつけています」
言い合っていると、兵役経験者の声が飛んできた。
「口を動かすな! 足を動かせ!」
「はい!」
二人の返事が重なった。
同じ歩幅で進み、号令で止まり、槍を前へ向ける。
単純に見える動きでも、十二人が揃えるのは難しい。誰かが遅れれば、その後ろの者がぶつかる。早く動こうとすれば左右の間隔が乱れる。
アレクは木剣を握った時、自分の身体が相手の動きを読むことに驚いた。
だが、隊列の中で必要なのは、自分の前にいる敵だけを見る力ではない。
左右の味方がどこにいるか。後ろからどのような声が聞こえるか。誰が遅れ、どこに隙間ができたか。
一人で強いことと、兵の一人として戦えることは別だった。
二日目には、村の保管庫から実際の槍や防具が運び出された。
槍の柄には細かな傷があり、鉄の穂先には錆が浮いている。革の胸当ても大きさが揃わず、留め紐が切れかけたものまであった。
選ばれた者たちは、自分が使う装備を磨き、傷んだ紐を交換した。
アレクへ渡される装備は、まだない。
志願が認められなければ、十二人目には別の男が入る。アレクは予備として訓練に加わりながら、他の者の槍を磨く作業を手伝った。
胸当てを並べていたアレクは、交換用の革紐が足りないことに気づいた。
「革紐が足りません。予備も含めて、今日のうちに揃えておきませんか」
傷んだ箇所を数えて伝えると、作業を見ていた男がうなずいた。
「助かる。残りは家から持ってこよう」
必要な物を先に確かめる。会社で繰り返していた仕事が、こんなところでも役に立った。
「また難しい顔をしてるな」
槍の柄を布で拭いていたトーマスが言った。
「これを十二人分揃えるだけでも大変なんだと思っていました」
「村の物だから、金は払わなくていいぞ」
「最初に買った時は誰かが払ったでしょう」
「領主様じゃないのか」
「その金は、どこから出たんですか」
「税だろ」
「なら、村の人たちが払った金です」
トーマスが手の中の槍を見た。
「考えたことなかった」
「俺も今、考えました」
「じゃあ、俺と同じじゃないか」
「少し早く気づいた分だけ、俺の勝ちです」
「何の勝負だよ」
トーマスが呆れた顔をする。
笑い合っていても、翌朝の出立を忘れることはできなかった。
◇ ◇ ◇
集合日の朝、ラーデン村の南を通る街道に三騎の兵が現れた。
先頭の男は三十代後半ほどで、短く切った黒髪と、よく手入れされた胸当てが目を引いた。派手な装飾はないが、馬から降りる動作にも隙がない。
残る二人も武装している。
そのうち一人は、先頭の男より少し若く、肩幅の広い兵士だった。
「ヴァイス男爵家の騎士、ゲオルク・バウマンだ」
先頭の男が名乗った。
「ラーデン村から出る十二人を確認する。名前を呼ばれた者は返事をしろ」
村長が差し出した名簿を受け取り、ゲオルクは一人ずつ名を読み上げた。
「トーマス・ベッカー」
「はい!」
トーマスが緊張した声で答える。
十一人目まで呼び終えたところで、ゲオルクが名簿から顔を上げた。
「十二人目が書かれていない」
「そのことで、ご相談があります」
村長がアレクを前へ出した。
「この少年が、自ら志願しております」
「名は」
「アレク・ハルトマンです」
ゲオルクの眉がわずかに動いた。
「ハルトマン? この村にそのような家があったか」
「ありません。数日前、森からこの村へ来て、神父様が保護しました」
「素性の分からない者を、兵役へ出すつもりか」
「本人が望んでおります。この少年を加えられれば、幼い子供を抱える家の働き手を残せます」
ゲオルクは村長ではなく、アレクを見た。
「年齢は」
「十五歳です」
「それを証明できる者は」
「いません」
「ハルトマンという姓は覚えているのか」
「はい。ですが、故郷や家族のことは思い出せません」
「都合のよい記憶だな」
「自分でもそう思います」
ゲオルクの目がわずかに細くなった。
「身体に病や傷は」
「ありません」
「武器を使ったことは」
「木剣ならあります」
「誰に習った」
「分かりません。ただ、握れば身体が動きました」
「それを剣が使えるとは言わん」
「はい」
アレクが素直に認めると、ゲオルクは後ろにいた兵士へ顔を向けた。
「ハンス」
「はい」
「木剣を二本持ってこい」
ハンスと呼ばれた兵士が、馬の鞍に結びつけていた荷から木剣を抜いた。
「腕を見るだけだ。打ち倒す必要はない」
「分かりました」
一本がアレクへ渡される。
昨日まで使っていた村の木剣より重く、柄の部分は革で巻かれていた。
「構えろ」
ゲオルクの命令を受け、アレクは木剣を両手で握った。
正面に立ったハンスは、トーマスとは違って剣先を揺らさない。足の置き方にも無理がなく、いつでも前後へ動けるように見えた。
「行くぞ、坊主」
「お願いします」
ハンスが一歩踏み込む。
木剣が右上から振り下ろされた。
アレクには見えていた。
肩と腰が動き、どこへ木剣が落ちるのかも分かる。
それでも、受けた瞬間に両腕へ重い衝撃が走った。
身体の大きさも、剣を振ってきた年月も違う。
力で押し返そうとすれば負ける。
アレクは木剣を傾け、横へ受け流そうとした。しかし足が遅れ、肩へ木剣が触れた。
「痛っ」
「今ので終わりだ」
ハンスが距離を取る。
「相手の剣だけを見るな。自分の足元も見ろ」
ゲオルクが言った。
アレクの右足は、街道脇の柔らかい土へ半分乗っていた。あのまま踏み込めば、足を取られていたかもしれない。
「もう一度お願いします」
ハンスがゲオルクを見る。
「続けろ」
二度目は、ハンスの木剣だけを見なかった。
肩、腰、足。
どこへ踏み込み、どちらへ体重を移しているかを見る。
一撃目を半歩下がって避ける。
二撃目は木剣を合わせたが、また腕がしびれた。
三撃目が横から来る。
アレクは上半身を引いた。
剣先が服の前を通り過ぎる。
そこから前へ出ようとしたが、ハンスはすぐに木剣を引いていた。アレクの踏み込みに合わせ、柄が胸へ突き出される。
避けきれない。
アレクは身体をひねりながら、自分の木剣をハンスの手元へ伸ばした。
二本の木剣が、ほぼ同時に止まる。
ハンスの柄はアレクの脇腹に触れ、アレクの剣先はハンスの喉元からわずかに外れた場所へ向いていた。
「そこまでだ」
ゲオルクの声が飛ぶ。
アレクはすぐに木剣を下ろした。
脇腹が痛む。真剣であれば、厚い防具がない限り傷を負っていただろう。
ハンスは自分の首元に向けられていた木剣を見た。
「危ない坊主だな」
「すみません」
「なぜ謝る」
「喉を狙ったので」
「当てていないなら構わん。俺もお前の脇腹を打った」
ゲオルクが二人の間へ来た。
「剣の動きを読む目はある。反応も速い」
「ありがとうございます」
「だが、足が動いていない。受け方も悪い。今の最後も相討ちだ。実戦なら、お前が相手を斬った後に自分も倒れている」
「はい」
「剣の筋はよい。だが、お前はまだ剣士でも兵でもない」
アレクは木剣を握った手を見た。
昨日、トーマスに勝ったことで、自分には剣の才能があると思っていた。
それは間違いではない。
同時に、才能だけでは埋められない差があることも分かった。
「それでも行くか」
ゲオルクが尋ねた。
「行きます」
「怖くないのか」
「怖いです」
「なら、なぜだ」
「怖くないふりをして行くより、生き残れると思うからです」
ゲオルクはしばらくアレクを見た後、村長から受け取った名簿へ名前を書き加えた。
「アレク・ハルトマン。十二人目として認める」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは帰ってからにしろ」
村の保管庫から、アレクの分の装備が運ばれてきた。
主武器は他の者と同じ槍である。
ゲオルクはアレクへ剣を持たせるつもりだったようだが、アレクは槍を選んだ。
「集団で戦うなら、他の人と同じ槍の方がよいと思います」
「木剣でハンスの喉を狙った者が言うことか」
「一対一と戦場は違います。剣で一人に勝てても、横から槍で突かれれば終わりです」
「誰に教わった」
「昔、読んだ本に似たことが書いてあった気がします」
「記憶はないのではなかったか」
「ところどころ残っています」
「本当に都合がよいな」
「すみません」
ゲオルクは呆れたように息を吐いた。
「好きにしろ。槍を主に使え」
「はい」
「ただし、これも持っていけ」
渡されたのは、鞘に細かな傷のついた剣だった。
特別な装飾はない。柄の革も一部が擦れている。
「貸与品だ。なくせば代金を払ってもらう」
「俺、金を持っていません」
「なら、なくすな」
「分かりました」
「槍を失った後に、素手で戦うつもりもないだろう」
アレクは剣を腰へ下げた。
神から与えられた特別な武器ではない。
誰かが以前に使い、傷つき、それでも手入れされて残っていた実用品だった。
ほかに支給されたのは、革の胸当てと簡素な兜、水袋、毛布、木椀、数日分の乾燥したパンだった。小さな短剣も渡されたが、戦うためというより、紐や食料を切るための道具に近い。
革の胸当てはアレクの身体よりわずかに大きかった。紐を締めても肩の位置が合わず、動くたびに擦れる。
ハンスが紐を結び直し、余った部分を短くした。
「これで少しはましだ」
「全員に合う大きさを用意しないんですか」
「毎年、同じ者が兵役へ出るわけではない。村にある物を、その時に出る者へ合わせるんだ」
「鉄の鎧は?」
「欲しければ騎士になって、自分で買え」
横で聞いていたトーマスが胸を張った。
「俺はいつか買うぞ」
「その前に、今の革鎧の紐を締めろ」
ハンスに言われ、トーマスが慌てて胸元へ手を伸ばした。
出立の準備が整うと、街道の脇で待っていた家族たちが選ばれた者のもとへ集まった。
幼い子供が父親の脚へしがみつき、妻が何度も荷物の中身を確かめている。言葉を交わさず、息子の肩を強く叩く父親もいた。
トーマスの前には、母親が立っていた。
「行ってくる」
トーマスが言った。
「ええ」
「心配するなよ。ちゃんと帰ってくるから」
「手柄はいりません」
「母ちゃん」
「騎士になれなくても構いません。逃げても、笑われてもいいから帰ってきなさい」
「俺は逃げない」
「お父さんも、同じことを言いました」
トーマスの顔から笑みが消えた。
「今度の戦で騎士になれるとは思ってないよ」
「なら、無理をしないで」
「分かってる」
「本当に?」
「帰ってくる。いつか騎士になるなら、最初の戦で死んでいられないだろ」
母親は答えず、息子を抱きしめた。
トーマスは周囲の目を気にするように身体を硬くしたが、振りほどこうとはしなかった。
アレクは二人から視線を外した。
「アレク」
マルセルが教会から歩いてきた。
手には小さな革袋を持っている。
「これを」
「何ですか」
「傷に使う薬草と、煮沸して乾かした布です。使い方は昨日教えたとおりです」
「ありがとうございます」
「自分だけで使い切らないように」
「怪我をした人がいれば使います」
「まず、自分が怪我をしないようにしなさい」
「努力します」
「努力ではなく、怪我をしないでください」
マルセルはさらに、小さな木製の飾りを差し出した。
簡素な形が彫られ、細い紐が通されている。
「これは?」
「旅の守りです」
「持っていれば助かるんですか」
「そのような力はありません」
「ないんですか」
「ありません。これを見て、帰る場所があることを思い出すためのものです」
アレクは飾りを受け取り、腰箱の奥へ入れた。
「なくさないようにします」
「物をなくす心配より、自分が帰る心配をしなさい」
「必ず帰ってきます」
「もう一度」
マルセルが言った。
「今度は、私の顔を見て言いなさい」
アレクは顔を上げた。
「必ず、ラーデン村へ帰ってきます」
マルセルはしばらくアレクを見た後、軽く頭を叩いた。
「行ってきなさい」
「はい。行ってきます」
この世界へ来てから、まだ数日しか経っていない。
それでも、帰る場所ができていた。
◇ ◇ ◇
十二人の徴集兵とゲオルクたち三人は、朝日が高くなり始める前にラーデン村を出た。
目的地は、ヴァイス男爵家の居城ヴァイスブルクである。
歩いて一日半ほど掛かるという。
先頭を進むのはゲオルクだった。十二人の徴集兵が続き、ハンスともう一人の兵士が最後尾につく。
村を出た直後は、皆の歩調も揃っていた。
だが、一刻ほど進むと、少しずつ間隔が広がり始めた。
槍だけでなく、毛布や水袋、食料まで背負っている。畑仕事で身体を使っている者たちでも、荷物を持って街道を歩き続けることには慣れていない。
身体能力の高いアレクにも、革の胸当てが肩へ擦れる不快感や、腰の剣が歩くたびに脚へ当たる煩わしさはあった。
「もっと速く歩かないんですか」
アレクが尋ねると、近くを歩いていたハンスが前方を指した。
「先頭だけ速く歩けば、後ろが離れる」
「待てば追いつきます」
「追いつくために走らせれば、そいつだけ余計に疲れる。休憩へ着く頃には、また次の者が遅れる」
「全員が歩ける速さに合わせるんですね」
「急ぐ必要がなければな」
やがてゲオルクが手を上げ、一行を止めた。
近くには細い川が流れている。
「水袋を確かめろ。空になっている者はここで補充する。飲みすぎるな」
トーマスが不思議そうな顔をした。
「まだ水は残っています」
「次に安全な水場がある場所は分かるか」
ハンスが尋ねる。
「知りません」
「なら、補充しておけ」
「でも重くなる」
「軽い空袋を持って、水がなくなってから困る方がよいか?」
トーマスは黙って川へ向かった。
アレクも水袋を確かめる。
前世で知っていた「兵站」という言葉が、手に持つ水袋と結びついた。
「何を見ている」
いつの間にか、ゲオルクが近くに立っていた。
「水袋です」
「見れば水が増えるのか」
「兵を戦わせるには、武器以外の物もたくさん必要なんだと思っていました」
「今さら気づいたか」
「以前は、戦争を数字でしか知りませんでした」
「昔読んだ本か」
「はい」
ゲオルクは川辺で水を汲む者たちを見た。
「武器を持たせれば、兵になるわけではない。腹を空かせ、喉が渇き、歩けなくなった者を何人集めても軍にはならん」
「敵と戦う前に負けることもありますか」
「珍しくない」
「では、大きな軍ほど動かすのが難しい?」
「当然だ。千人には千人分の食料が要る。一万人を動かせる者は、一万人を集めた者ではない。一万人を食わせ、同じ場所まで連れていける者だ」
ゲオルクの答えは、アレクが考えていたことと重なった。
「覚えておけ。戦場で最初に死ぬのは、敵を侮った者だ」
「はい」
「次に死ぬのは、自分だけは疲れていないと思い込んだ者だ」
「自分の状態も見ろということですか」
「そうだ。今のお前は」
「まだ歩けます」
「聞かれる前に答える者ほど怪しい」
アレクは肩を回した。
胸当ての革が服の上から擦れ、少し痛い。
「肩が痛いです」
「紐を緩めすぎるな。布を一枚挟め」
「分かりました」
「強がらずに言え。それで助かるのはお前だけではない」
アレクが歩けなくなれば、一行全体の足が遅くなる。場合によっては、誰かが荷物を持つことになる。
不調を隠して無理をすることは、勇敢さではなかった。
休憩を終えた一行は、再びヴァイスブルクへ向けて歩き出した。
◇ ◇ ◇
夕暮れが近づく頃、一行は街道から少し離れた野営地へ入った。
以前にも兵や旅人が使った場所らしく、焚き火の跡が残っている。近くには水場があり、周囲からも見つかりにくい。
宿も屋根もない。
乾いた地面へ毛布を広げ、その上で眠るだけだった。
「近くの村に泊めてもらわないんですか」
アレクが聞くと、ハンスが薪を集めながら笑った。
「十五人を泊められる家を探すのか」
「何軒かに分かれれば」
「家ごとに分かれたら、急に動けない。それに金が掛かる」
「やはり金ですか」
「領主の財布が無限だと思うな」
「思っていません」
「兵は一晩寝るだけでも金を食う。宿へ泊めれば宿代が要る。食事を出させれば食費が要る。払わずに使えば、村人が困る」
アレクは乾燥したパンを木椀へ入れた。
湯で柔らかくし、豆と一緒に煮る。塩気は薄かったが、固いままのパンをかじるよりは食べやすい。
トーマスは一口食べ、少しだけ顔をしかめた。
「母ちゃんの飯の方がうまい」
「明日帰れば食べられるかもしれませんよ」
アレクが言うと、トーマスが睨んだ。
「帰らない」
「無理をするなと言われたでしょう」
「逃げろとは言われたけど、出た日に戻れとは言われてない」
「同じようなものでは?」
「全然違う」
向かいに座っていたハンスが笑った。
「今のうちに味が薄い飯へ慣れておけ。兵糧が足りなくなれば、豆が入っているだけでもありがたくなる」
「届かなかったらどうするんです」
アレクが尋ねた。
「食べない」
「何日も?」
「何日も食べなければ戦えん。敵地なら買うか、奪う」
「村からですか」
「他に食料がある場所を知っているか」
アレクは答えられなかった。
マルセルの言葉を思い出した。味方の兵だからといって、腹を空かせないわけではない。
「嫌そうな顔だな」
ハンスが言った。
「好きにはなれません」
「俺も好きではない」
「それでも奪うんですか」
「奪わなければ仲間が死ぬ状況になればな」
「村の人が死ぬかもしれません」
「そうだ」
ハンスは否定しなかった。
「だから、戦は始める前に食料を用意するべきだ。それでも足りなくなることはある。荷車が遅れる。敵に奪われる。雨で道が崩れる。兵が予定より増える」
「最後は、誰かが足りない分を失う」
「そういうことだ」
食事を終えると、見張りの順番が決められた。
アレクたち徴集兵は初日ということもあり、経験のある兵士と組まされる。アレクの番は夜半を過ぎてからだった。
毛布へくるまったものの、なかなか眠れない。
地面は硬く、身体の向きを変えるたびに革の胸当てが音を立てる。外して眠りたかったが、敵が近い可能性があるため許されなかった。
それ以上に、頭から戦のことが離れなかった。
「眠れないのか」
近くから声を掛けられた。
ゲオルクだった。
「少し」
「怖いか」
「はい」
アレクが素直に答えると、ゲオルクがわずかに眉を上げた。
「意外だな」
「何がですか」
「ハンスへ木剣を向けた時は、もう少し肝が据わっているように見えた」
「木剣と戦場は違います」
「それが分かっているなら、まだましだ」
ゲオルクは焚き火の前へ腰を下ろした。
炎は見張りに支障が出ないほど小さくされている。
「ゲオルク様は、何度くらい戦場へ出たんですか」
「大きなものだけなら十二度だ。小競り合いまで数えれば、もっと多い」
「慣れますか」
「歩くことには慣れる。野営にも、味の薄い飯にもな」
「人を殺すことには?」
ゲオルクはすぐに答えなかった。
焚き火の中で薪が崩れ、小さな火の粉が舞う。
「慣れる」
「そうですか」
「慣れなければ、次に自分が死ぬ」
アレクは毛布の上で身体を起こした。
「ですが、慣れたことを当たり前だと思うな」
「どういう意味ですか」
「人を斬って何も感じなくなれば、戦が終わっても心だけが戦場へ残る」
ゲオルクは炎から目を離さなかった。
「怖いと思うことを恥じるな。人を殺したくないと思うこともだ。ただし、剣を向けられた時に迷えば死ぬ。戦場へ出れば、その二つを同時に抱えて動かなければならん」
「難しいですね」
「簡単なら、十五歳のお前へこんな話はしない」
「なぜ俺に?」
「十五歳の子供を戦へ連れていく大人には、話す義務がある」
アレクは返す言葉を失った。
「逃げるべき時は逃げろ。命令を待つべき時は勝手に動くな。分からないことがあれば聞け」
「はい」
「そして、剣より先に頭を使え」
「頭を?」
「敵の数、地形、味方の位置、逃げ道。剣を抜いてから考え始める者は長く生きられん」
ゲオルクが立ち上がる。
「明日はヴァイスブルクへ着く。眠れるうちに眠っておけ」
「はい」
アレクは再び毛布へ身体を横たえた。
剣より先に頭を使え。
前世で歴史を読んだ時にも、似たことを考えた。
名将と呼ばれた者たちは、自分一人の武勇だけで勝っていたわけではない。情報を集め、兵を食べさせ、戦う場所を選び、味方を動かしていた。
しかし、今のアレクは十二人の徴集兵の一人にすぎない。
戦う場所も、逃げる道も、自分で決められる立場ではなかった。
それでも、見ることと考えることはできる。
そう思いながら目を閉じた時だった。
「ゲオルク様!」
見張りに立っていた兵士の声が響いた。
アレクは毛布を跳ね上げた。
周囲で眠っていた者たちも次々に起き上がる。
「どうした!」
「西です!」
兵士が指さす先へ視線を向ける。
夜の山の向こう側が、赤く染まっていた。
一か所ではない。
少し離れた場所に三つ目の光が見える。
さらに、その奥にも炎らしき揺らめきがあった。
「火事ですか」
トーマスが呟いた。
ゲオルクの表情が変わる。
「あの位置はグリュン村だ」
「ここから近いんですか」
「街道を歩けば半刻ほどだ」
ハンスがすぐに剣を腰へ下げた。
「ベルン伯爵軍でしょうか」
「本隊がここまで来ているとは考えにくい。先遣隊か、略奪に出た兵かもしれん」
略奪。
夕食の時に聞いたばかりの言葉だった。
食料を奪う。
家畜を奪う。
抵抗する者を殺し、追跡を恐れて家を焼く。
歴史の中では、何度も読んだ。
数行で終わる出来事だった。
だが、今燃えている村にも、人が暮らしている。
「全員起きろ! 火を消し、荷物をまとめろ!」
ゲオルクの命令が飛んだ。
男たちが一斉に動き始める。
アレクも槍を握った。
手が震えた。
昨日まで使っていた練習用の棒ではない。先端には、人の身体を貫くための鉄の穂がついている。
「アレク」
隣に来たトーマスの声も震えていた。
「戦になるのか」
「分かりません」
「お前でも?」
「俺は何でも知っているわけではありません」
答えながら、アレクは燃える村を見た。
戦場へ向かう道を歩いているつもりだった。
ヴァイスブルクへ着き、そこから軍に加わり、やがて敵と戦うのだと思っていた。
だが、戦はアレクたちの準備が整うまで待ってくれない。
アレクが戦場へ向かっているのではなかった。
戦場の方から、こちらへ近づいてきていた。
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