第二話 十五歳の剣
異世界で目覚めて三日。
少しずつ新しい世界の仕組みを知り始めたアレクは、自分に与えられた力が本物であることを知る。
そしてその直後、平穏だった村に戦の知らせが届く。
『異世界に転生した』
文字にすれば、たった八文字で終わる。
だが、それを実際に受け入れるとなれば話は別だった。
俺――アレク・ハルトマンがラーデン村の教会で目を覚ましてから、三日が経った。
正確には、日本で佐藤恒一として死んでから三日、と言うべきなのかもしれない。
もっとも、今となっては確かめる方法などない。
鏡に映るのは、三十歳の冴えない会社員ではなかった。
薄い茶色の髪。灰色がかった瞳。日に焼けていない白い肌。まだ少年らしさの残る顔。
十五歳。
神にそう言われたわけではないが、この身体はどうやら本当にそれくらいらしい。
「十五歳、か……」
教会の裏手にある井戸で水を汲みながら、俺は呟いた。
前世の俺からすれば、中学生から高校一年生くらいの年齢だ。子供だ。少なくとも現代日本ならそう扱われる。
だが――。
「アレク!」
後ろから声が飛んできた。
「はい!」
「薪を運んでくれ!」
「分かりました!」
振り返ると、教会の神父――マルセルがこちらへ手を振っている。
六十歳前後。白髪交じりの髪に、痩せた身体。第一印象は気難しそうだったが、三日一緒に過ごしてみると意外に世話焼きな老人だった。
行き倒れていた素性不明の少年を教会に置いている時点で、かなりのお人好しなのだろう。
俺は井戸の桶を置き、薪置き場へ向かった。
「これですか?」
「ああ。厨房まで頼む」
「全部?」
「若いんだから働け」
「記憶喪失の病人なんですけど」
「飯を三杯食う病人がいるか」
「……二杯半です」
「最後の半杯は何だ」
「遠慮です」
「嘘をつけ」
思わず笑った。マルセルも鼻を鳴らす。
こういう会話ができるようになっただけでも、この三日間でかなり進歩したと思う。何しろ最初は、この世界について何も知らなかったのだ。
俺は薪を抱え上げた。
「……軽いな」
思ったよりずっと軽かった。いや、薪が軽いわけではない。この身体が強い。
十五歳の少年とは思えないほど、身体の使い方が自然だった。
神から与えられたという「才能」。
まだ半信半疑ではある。だが少なくとも、身体能力については前世とは比較にならない。
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
薪を厨房へ運ぶ。
戻ってくると、マルセルが教会前の椅子に腰を下ろしていた。
「アレク」
「はい?」
「少し話すか」
「珍しいですね」
「お前が質問したそうな顔をしているからな」
「そんな顔してます?」
「朝からずっと村を見回している」
見抜かれていた。
俺は苦笑して、隣の椅子に座った。
「……じゃあ、聞いてもいいですか?」
「答えられることならな」
「ここは、アルヴェイン大公国なんですよね?」
「そうだ」
「ラーデン村は?」
「ヴァイス男爵領に属している」
「男爵……」
「それも忘れたのか?」
「たぶん」
記憶喪失。便利な言葉だ。
この三日間、俺はほとんどこれで押し通している。
マルセルは顎髭を撫でた。
「どこから説明したものかな」
「できれば、一番最初から」
「一番最初?」
「国とか、領主とか……そういうところから」
「本当に何も覚えていないんだな」
「すみません」
「謝ることではない」
マルセルは少し考えた。
「まず、このラーデン村を治めているのがヴァイス男爵家だ」
「はい」
「ヴァイス男爵はアルヴェイン大公に忠誠を誓っている」
「つまり、ヴァイス男爵は大公の家臣?」
「そう考えていい」
「その下に騎士がいる?」
「いる」
「騎士は領地を持っているんですか?」
「持つ者もいる。持たぬ者もいる」
「なるほど……」
俺は腕を組んだ。
やはり。妙だ。
「何だ?」
「いや……」
「言ってみろ」
「大公から領地を与えられた貴族が、その土地を治めて、代わりに軍役を負う……ということですか?」
マルセルが眉を上げた。
「何も覚えていない割には理解が早いな」
「何となくです」
「まあ、大まかにはそうだ。ただし、すべての土地を大公から与えられたわけではない。代々その土地を持っている家もある」
「その場合は?」
「大公がその支配を認める」
「代わりに戦争の時は兵を出す?」
「そうだ」
「兵士は?」
「領主が抱えている兵もいれば、戦になれば村から男を集めることもある」
「……徴兵か」
「ちょうへい?」
「あ、いや。こっちの話です」
俺は黙り込んだ。
似ている。中世ヨーロッパの封建制にも。そして、日本の中世にも。
そもそも「封建制」という言葉自体、現代の歴史学ではかなり慎重に扱われる。
日本とヨーロッパを単純に同じ制度として括れるものではない。
ヨーロッパの主従関係と土地保有。日本の御恩と奉公。守護。地頭。そして戦国時代になると、さらに事情は変わる。
室町幕府の権威が衰え、守護大名や国人、土豪などが複雑に絡み合い、必ずしも「上から下へ綺麗に命令が流れる社会」ではなくなっていった。
戦国大名も、現代の県知事のように領内を完全に支配していたわけではない。少なくとも初期には、在地領主たちの利害を調整しながら支配する必要があった。
だからこそ家臣の離反も起こる。昨日まで味方だった国人が敵方につく。親子や兄弟ですら陣営が分かれる。
領主と家臣の関係は、現代人が想像するほど絶対的ではない。
目の前の世界も、それに近いのかもしれない。
「……マルセルさん」
「何だ?」
「ヴァイス男爵が大公を裏切ることは?」
老人の表情が変わった。
「なぜそんなことを聞く?」
「例えば、です」
「……ある」
「あるんだ」
「珍しい話ではない」
「罰せられないんですか?」
「負ければな」
その答えに、俺は黙った。
「勝てば?」
マルセルは俺を見る。
「新しい主に忠誠を誓うだけだ」
「……なるほど」
やっぱりだ。
これは思っていたより、ずっと戦国的な社会かもしれない。
「じゃあ、村の人たちは?」
「何がだ?」
「領主が変わったらどうするんです?」
「税を納める相手が変わる」
「それだけ?」
「それだけで済めば幸運だ」
マルセルの声が少し低くなった。
「兵が畑を荒らす。家畜を奪う。食料を持っていく。酷ければ家を焼く」
「……」
「勝った側が必ず善人とは限らん。負けた側が悪人とも限らん」
マルセルは村を見た。
「偉い方々が旗を掲げて戦う。その下で死ぬのは、いつも普通の人間だ」
俺は何も言えなかった。
歴史書なら知っている。
戦国時代の戦争は、武将同士が華々しく一騎討ちをする世界ではない。
軍勢が移動すれば食料が必要になる。兵糧を現地で調達することもある。敵地の収穫物を奪う。焼く。人を捕らえる。村を破壊する。
戦争は城と城の間だけで完結しない。
例えば上杉謙信や武田信玄の関東・信濃での軍事行動を考えても、軍勢が動けば、その地域の農村や流通に巨大な負担がかかる。
織田信長の戦争だってそうだ。豊臣秀吉の大軍勢も同じだ。
数万、十万という兵を動かすということは、それだけの人間に毎日食わせなければならないということだ。
ゲームなら「兵糧」という数字が減っていくだけ。
現実では、その一粒一粒を誰かが作っている。
「……歴史って、数字にすると簡単なんだよな」
「何?」
「何でもないです」
俺は立ち上がった。
「もう一つ聞いていいですか?」
「まだあるのか」
「戦争、多いんですか?」
マルセルは少し黙った。
「増えたな」
「最近?」
「ああ」
「どうして?」
「大公殿下が領土を広げている」
俺の耳が反応した。
「アルヴェイン大公が?」
「今の大公殿下は若い。だが、恐ろしく戦が上手いそうだ」
「名前は?」
マルセルが怪訝な顔をする。
「それまで忘れたのか?」
「……はい」
「アルベルト・ヴァレンシュタイン」
その名前を、俺は頭の中で繰り返した。
アルベルト・ヴァレンシュタイン。
もちろん知らない。前世の歴史上にそんな人物はいない。
「どんな人です?」
「知らん」
「え?」
「会ったこともない人間の性格など分かるものか」
「それはそうですけど」
「噂ならある」
「聞きたいです」
「変わり者だそうだ」
「変わり者?」
「古いしきたりを嫌う。商人を城へ呼ぶ。身分の低い者でも使えるなら取り立てる。新しい武器も好む」
俺の指が止まった。
「……新しい武器?」
「火槍だ」
「火槍?」
「火薬で鉄の玉を飛ばす武器だ」
心臓が、一度強く鳴った。
「……銃?」
「じゅう?」
「その武器、筒の中に火薬と弾を入れて、火をつけて撃つんですか?」
「知っているじゃないか」
「……」
火縄銃に近い。
もちろん火薬兵器が存在するだけで、戦国日本と結びつけるのは早計だ。ヨーロッパでも火器は発達した。むしろ中世末期から近世にかけてのヨーロッパなら、銃も大砲も珍しくない。
問題は――。
「そのアルベルトって人は、火槍をたくさん使ってるんですか?」
「そう聞く」
「商人を保護して?」
「ああ」
「身分の低い人間でも能力があれば登用する?」
「だから、そう言っただろう」
「……」
「どうした?」
「いえ」
まだだ。
こんなもの、いくらでも偶然で説明できる。
革新的な君主。商業重視。能力主義。火器の活用。
歴史上、そんな君主は信長だけではない。
「……考えすぎだな」
「何を?」
「こっちの話です」
マルセルが呆れた顔をした。
「お前は独り言が多いな」
「昔からです」
「昔を覚えているのか?」
「……言葉の綾です」
「本当に記憶喪失なのか、お前」
まずい。
俺は笑って誤魔化した。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
俺は村を歩いていた。
この三日間で分かったことがある。
ラーデン村の人口は、おそらく三百人前後。農業が中心。麦。豆。少量の野菜。家畜は鶏、豚、山羊。牛もいるが、食肉用というより農耕用らしい。
水車が一基。鍛冶屋が一軒。酒場が一軒。教会。そして村の周囲には簡単な柵がある。
日本の戦国時代の村とは当然違う。
家屋も違う。服装も違う。宗教も違う。食文化も違う。
それでも、人間の生活そのものは驚くほど変わらない。
「おい、アレク!」
声をかけられた。
振り返る。
十六、七歳くらいの少年が立っていた。赤毛。そばかす。名前はトーマス。この三日間で知り合った村人の一人だ。
「何してる?」
「散歩」
「またか?」
「悪い?」
「お前、本当に変な奴だな」
「よく言われる」
「誰に?」
「……誰だろうな」
トーマスが笑った。
「暇なら来いよ」
「どこへ?」
「見せたいものがある」
嫌な予感がした。
「何?」
「剣」
俺は足を止めた。
「剣?」
「ああ」
◇ ◇ ◇
連れて行かれたのは、村外れの小さな空き地だった。
数人の若者が集まっている。年齢は十五から二十くらい。手にしているのは木剣。
「何してるんだ?」
「訓練」
トーマスが答える。
「何の?」
「兵の」
「……兵?」
「今年から俺も戦に出られる」
嬉しそうに言った。
俺は思わず聞き返した。
「嬉しいの?」
「そりゃそうだろ」
「戦争だぞ?」
「手柄を立てれば金がもらえる」
「死ぬかもしれない」
「畑を耕してても腹は減る」
言葉に詰まった。
トーマスは木剣を一本投げてよこした。
「ほら」
「俺も?」
「十五なら剣くらい使えるだろ」
「いや……」
使ったことはない。前世では。
だが――。
木剣を握った瞬間だった。
「……」
分かる。
握り方。立ち方。距離。相手の肩。腰。視線。足の位置。
全部が見える。
「どうした?」
「いや……」
「構えろよ」
トーマスが笑う。
「俺、結構強いぞ?」
「……そう」
「何だよ、その反応」
「いや」
俺は木剣を構えた。
身体が勝手に動く。
いや、勝手ではない。
俺が「こう動こう」と考えた瞬間、身体が完璧に応えてくれる。
神の言葉を思い出す。
――剣の才能も与えた。
「行くぞ!」
トーマスが踏み込んできた。
遅い。
そう思った。
次の瞬間。
俺は半歩横へ動いていた。
木剣が空を切る。
「え?」
トーマスの声。
俺の剣が、その首筋で止まった。
「……」
静かになった。
「え?」
今度は俺が言った。
トーマスが固まっている。
「お前……」
「ご、ごめん」
「もう一回!」
「いや、待って」
「もう一回だ!」
今度は本気だった。
横薙ぎ。
避ける。
突き。
払う。
踏み込む。
俺の木剣がトーマスの手首を軽く叩いた。
「痛っ!」
木剣が落ちる。
「……」
また静かになる。
周りの若者たちが俺を見ている。
一人が呟いた。
「何だ、こいつ……」
俺も同じことを思っていた。
何だ、これ。
強い。
俺ではない。この身体が。
いや。神から与えられた才能が。
「アレク」
「何?」
「お前、騎士だったのか?」
「違う」
「嘘つけ!」
「本当に違う!」
「じゃあ何でそんなに強いんだよ!」
「俺が聞きたい!」
思わず叫んだ。
周囲から笑いが起きた。
だが、俺だけは笑えなかった。
木剣を見る。
もしこれが真剣だったら。
最初の一撃で、トーマスの首を斬っていた。
その事実に気づいた瞬間、手が少し震えた。
「……アレク?」
「ごめん。今日はやめる」
「どうした?」
「何でもない」
木剣を返した。
俺はその場を離れた。
◇ ◇ ◇
夕方。
村の外れを一人で歩いた。
剣の才能。知識。言語。
神が与えたものは本物だった。
なら、俺はこの世界で何をする?
「……英雄?」
笑った。
「ないな」
天下を取る?
もっとない。
戦争なんてしたくない。
だが、この世界では戦争から完全に逃げられる保証もない。
むしろ十五歳という年齢なら、いつ兵として連れて行かれてもおかしくない。
日本の戦国時代でも、元服を迎えれば武家の男子は大人として扱われた。
初陣の年齢も様々だ。十五歳前後で戦場に出た武将など珍しくない。
もちろん農民や足軽の実態は地域や時代によって異なるし、現代人が考えるような全国一律の徴兵制度があったわけではない。
それでも、戦争が身近だったことは間違いない。
「十五歳で戦場か……」
現代なら高校生だ。
俺は空を見る。
「冗談じゃない」
だが、もし逃げられないなら。
生き残るために必要なものは何だ?
剣?
違う。
戦場でどれだけ剣が強くても、矢が飛んでくれば死ぬ。銃で撃たれても死ぬ。十人に囲まれれば死ぬ。腹が減っても死ぬ。病気でも死ぬ。
なら――。
「戦わないこと」
まずそれだ。
戦わなくていい状況を作る。
それが無理なら、
「有利な状態で戦う」
さらに、
「負けそうなら逃げる」
俺は苦笑した。
「戦国武将というより、会社員だな」
リスク管理。情報収集。根回し。交渉。
前世では地味だった能力が、この世界では案外重要かもしれない。
その時だった。
遠くから鐘が鳴った。
カン。カン。カン。
教会の鐘ではない。
村の入口にある警鐘。
「……何だ?」
人々が走り始める。
「兵だ!」
誰かが叫んだ。
「兵が来たぞ!」
俺も村へ走った。
入口には十数騎の騎兵。
先頭の男が馬から降りる。
アルヴェイン大公家の紋章。
その男が一枚の羊皮紙を開いた。
「ヴァイス男爵閣下より命令!」
村人たちが集まる。
マルセルもいる。トーマスもいる。
男は読み上げた。
「西方国境において、ベルン伯爵軍が侵攻を開始した!」
ざわめきが広がる。
「各村は兵役義務に基づき、戦闘可能な男子を供出せよ!」
俺の背筋が冷えた。
トーマスを見る。
彼は緊張している。それでも、どこか嬉しそうだった。
俺は違う。
「……早すぎるだろ」
転生して、まだ三日だ。
兵士が続ける。
「十五歳以上、四十歳以下の男子!」
十五歳。
その言葉が耳に残った。
俺は自分の手を見る。
神から与えられた剣の才能。そして、頭の中にある膨大な知識。
使う日が来るとしても、もっと先だと思っていた。
「アレク」
マルセルが俺を見る。
「お前は……」
「分かってます」
俺は小さく息を吐いた。
十五歳。成人。兵役。戦争。
どうやら、この世界は俺にゆっくり考える時間すら与えてくれないらしい。
俺は遠くの山を見た。
その向こうに敵がいる。
顔も知らない。名前も知らない。恨みもない。
それでも、数日後には殺し合うかもしれない。
「……戦国時代なんて、見るだけで十分だったんだけどな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
だが、逃げるにしても、戦うにしても。
まず、この世界を知らなければならない。
敵を知らなければならない。
そして何より――。
俺自身が、この世界でどこまで通用するのか。
知らなければならない。
この日。
アレク・ハルトマン、十五歳。
俺の名が歴史に記されることになる最初の戦いが、静かに始まろうとしていた。
剣の才能が本物だと知ったアレク。
しかし、それを確かめる間もなく、戦の知らせはやってきた。
知識があっても、剣が使えても、実際の戦場で生き残れるとは限らない。
次話、アレクはついに「歴史の中で見るだけだった戦争」へ、自ら足を踏み入れることになる。




