第二話 十五歳の剣
ラーデン村での暮らしが、少しずつ始まります。
アレクがラーデン村へ来てから、三日が過ぎた。
教会の裏手には、村人が共同で使う井戸がある。朝のうちは水を汲みに来る者が多いため、アレクは少し時間をずらしてから井戸へ向かった。
村人たちは、森から突然現れた身元不明の少年をまだ警戒している。
教会に住むマルセルが保護しているため、追い出そうとする者はいなかった。道ですれ違えば挨拶を返す者もいる。しかし、アレクが近づくと話をやめる者や、家の中へ子供を呼び戻す者もいた。
それを不当だとは思わなかった。
アレク自身、前世で素性の分からない者が突然近所へ住み始めれば、何の疑いもなく受け入れられたとは思えない。
今は、害を与えるつもりがないと日々の行動で示すしかなかった。
井戸から引き上げた桶の水を、木製の容器へ移す。両手で持ち上げると、予想より軽く感じられた。
三日前なら、それだけで自分の身体能力に驚いていた。
今は重さよりも、力の入れ方に気を配っている。
一度目の水汲みでは、容器を勢いよく持ち上げすぎて半分近くこぼした。二度目は歩く速さを誤り、足を止めた時に水が大きく揺れた。
アレクは容器を胸の前で支え、歩幅を狭くして教会へ戻った。
「遅かったですね」
裏口で待っていたマルセルが言った。
「こぼさないように歩いていました」
「昨日よりは残っています」
「褒めているんですか」
「事実を述べただけです」
アレクが水を厨房へ運ぶと、マルセルは壁際に積まれた薪を指さした。
「次はそれを中へ入れてください。午後から雨になるかもしれません」
「記憶が混乱している病人に、これほど働かせるんですか」
「食事を三杯食べる病人を、寝かせておく理由がありません」
「二杯半です」
「残りの半杯は何です」
「遠慮しました」
「その後、パンを二つ食べたでしょう」
アレクは返す言葉を失った。
マルセルがわずかに笑う。
最初に会った時の厳しい印象は、三日間で少し変わっていた。
口調は穏やかだが、甘やかす人物ではない。アレクが教会の手伝いを申し出ると、翌朝から水汲み、薪運び、掃除を割り当てた。
代わりに、食事と寝床だけでなく、この世界の文字や暮らしについても教えてくれている。
身元の分からないアレクを、完全に信じたわけではない。それでも、何も知らない少年として扱い、知るための機会を与えてくれていた。
「全部運べばよいですか」
「半分で結構です」
「若いのだから働け、と言わないんですか」
「全部運ばせたら、あなたは一度に抱えようとするでしょう」
「さすがに無理です」
「昨日、三束を持ち上げて前が見えなくなったのは誰ですか」
「……二束にします」
アレクは薪を二束抱えた。
太さの揃っていない薪が腕の中でずれたが、重さそのものは苦にならない。三十歳だった頃の身体なら、一束でも教会まで何度か休んだかもしれなかった。
厨房の壁際へ置こうとしたところで、上の一本が転がり落ちた。
「力より先に、崩れない積み方を覚えてください」
「はい」
マルセルに拾われる前に、アレクは薪を取った。
朝の仕事を終えると、マルセルは教会の小さな机へアレクを呼んだ。
机の上には、薄い木板と黒く焼いた細い棒が置かれている。
「昨日の文字を書いてみなさい」
「見本を見ても?」
「見なければ書けないでしょう」
マルセルが紙へ書いた文字を、アレクは木板へ写した。
会話は不思議なほど自然にできる。相手の言葉を聞けば意味が分かり、自分が話したい言葉も口から出る。
しかし、文字は別だった。
書かれた形と、話している言葉が頭の中で結びつかない。前世で読み書きしていた日本語とも、学校で学んだ英語とも違う。
アレクは見本と木板を交互に見ながら、慎重に線を引いた。
「逆です」
「どこがですか」
「最初の線は、上から下へ引きます」
「形が同じならよくありませんか」
「急いで書く時に崩れます。初めから正しい順番で覚えなさい」
マルセルが黒い棒を取り、隣に同じ文字を書いた。
アレクの文字と並べると、確かに線のつながり方が違っている。
「覚えは早いのですが、勝手な書き方をしますね」
「文字にまで決まりがあるとは思いませんでした」
「あなたがいた場所にもあったはずです」
「そうかもしれません」
記憶が混乱している。
この三日間、アレクはその説明を使い続けていた。
転生や前世について話すわけにはいかない。神から与えられた名であるアレク・ハルトマンを名乗り、遠くから来たことだけは覚えているが、故郷や家族については思い出せないと説明している。
マルセルがすべて信じているとは思えなかった。
それでも、これ以上深く問われたことはない。
「今日は自分の名前を書いてみましょう」
「もうですか」
「名前くらい書けなければ、働く時にも困ります」
「村で働くのに文字が必要なんですか」
「畑を耕すだけなら、なくても困らないかもしれません。しかし、荷を運んだり、誰かの使いとして働いたりするなら、名前と数字くらいは読めた方がよいでしょう」
アレクは見本を頼み、自分の名を一文字ずつ写した。
アレク。
その横へ、ハルトマンと続ける。
前世の名前ではない。それでも、三日間呼ばれ続けたことで、少しずつ自分の名として馴染み始めていた。
「姓まで覚えているのは不思議ですね」
「自分でもそう思います」
「本当に不思議だと思っていますか」
マルセルがアレクの顔を見た。
穏やかな口調だが、視線は鋭い。
アレクは返事を急がなかった。
相手が何を考えているか、心の中まで分かるわけではない。ただ、マルセルが責めようとしているのではなく、どこまで話すつもりがあるのか確かめていることは感じられた。
「すべてを話せないことは、申し訳なく思っています」
「話せないのですか。それとも、覚えていないのですか」
「今は、覚えていないとしか言えません」
マルセルはしばらく黙った後、机の上にある木板へ視線を戻した。
「では、今はそれでよいでしょう」
「怒らないんですか」
「嘘をついていると決めつけるだけの証拠もありません。それに、話せない事情を無理に聞き出したからといって、真実を話すとは限らないでしょう」
「ありがとうございます」
「礼を言う前に、自分の名を書き終えなさい」
アレクは黒い棒を持ち直した。
文字を学び終えるまでには、長い時間が掛かりそうだった。
昼食の後、アレクは教会の前に置かれた長椅子へ座った。
マルセルは乾燥させた薬草を仕分けている。アレクも手伝おうとしたが、種類を見分けられない者が触ると余計に時間が掛かると言われた。
その代わり、前から聞きたかったことを尋ねることにした。
「マルセルさん」
「何です」
「ここは、アルヴェイン大公国なんですよね」
「そうです」
「ラーデン村は、誰が治めているんですか」
「ヴァイス男爵です」
「そのヴァイス男爵が、アルヴェイン大公に仕えている?」
「そうです。戦になれば男爵が兵を出し、大公は男爵の領地を外敵から守ります」
「男爵の兵には、村の人もなるんですか」
「兵役の義務がありますからね。普段は畑を耕している者も、命令が来れば槍を持ちます」
机の上で習った国の名が、急に身近なものになった。
「領主が変わったら、村の人たちはどうなるんですか」
「税を納める相手が変わります」
「それだけですか」
「それだけで済めば幸運です」
マルセルの声が低くなった。
「軍が来れば、食料や家畜を求められます。荷車や馬を出せと言われることもある。敵の軍なら、畑を荒らし、家を焼くかもしれません」
「味方の軍なら安全ですか」
「味方だから、腹を空かせないわけではありません」
マルセルは村の畑へ目を向けた。
「兵糧が足りなければ、守るために来た兵からも食料を求められます。支払いを約束する者もいれば、戦が終わった後に返すと言う者もいる。その約束が守られるとは限りません」
「断ることは?」
「武器を持った兵を前に、村人がどれほど断れると思いますか」
アレクは答えられなかった。
「偉い方々は旗を掲げ、それぞれに正しい理由を語ります。ですが、その下で最初に作物や家を失うのは、ここにいるような者たちです」
アレクは畑を見た。今、目の前で育っている麦も、軍が来れば奪われるかもしれない。
「戦について考えている顔ですね」
マルセルが言った。
「分かりますか」
「難しい顔で畑を見ていますから」
「この国では、戦が多いんですか」
「以前よりは増えました」
「どうしてです?」
「アルベルト殿下が領地を広げています」
「アルベルト殿下?」
「アルヴェイン大公、アルベルト・ヴァレンシュタイン殿下です」
その名を聞くのは初めてだった。
「どのような人ですか」
「知りません」
「大公なのに?」
「大公だからといって、ラーデン村の神父が会えるわけではありません」
「それはそうですね」
「村まで届く噂ならあります」
「聞かせてもらえますか」
マルセルは薬草の仕分けを再開した。
「まだ若い方ですが、戦が上手いそうです。古い身分だけにはこだわらず、商人や職人の話も聞く。役に立つ者なら、低い身分の者でも取り立てることがあるとも聞きます」
「新しいものを好む?」
「そのようですね。道具でも武器でも、役に立つと思えば試すそうです」
アレクは織田信長を思い浮かべた。だが、村へ届いた噂だけで、会ったこともない大公を知ったつもりになるべきではない。
「随分と考え込んでいますね」
「会ったことのない人を、勝手に誰かと似ていると思うのは危険だと考えていました」
「誰と似ていると思ったのです」
「昔、本で読んだ人です」
「その人も大公だったのですか」
「大公ではありません」
「では、違う人でしょう」
「そのとおりですね」
あまりにも簡単な答えに、アレクは笑った。
「新しい武器というのは、どのようなものですか」
「火槍のことでしょうか」
「火槍?」
「火薬を使って、鉄の弾を飛ばす武器です」
アレクの笑みが消えた。
「火薬があるんですか」
「あるそうです。私は見たことがありませんが」
「火槍は、どのように使うんです?」
「詳しくは知りません。槍ほどの長い柄の先に、鉄の筒が付いていると聞きました」
「柄の先に筒?」
「筒はこのくらいだそうです」
マルセルが両手を四十センチほど離した。
「筒へ火薬と弾を詰め、柄の後ろを地面へ置いて支える。筒の横にある穴へ火のついた縄を近づければ、大きな音と煙が出て、弾が飛ぶそうです」
アレクは頭の中で形を組み立てた。
火薬と弾を筒へ入れ、火で発射する。
原理だけを聞けば銃に近い。しかし、槍ほどの柄を地面へ立て、点火孔へ火縄を手で近づけるのであれば、前世で知っている火縄銃とは大きく異なる。
「狙った相手に当たるんですか」
「遠くでは、なかなか当たらないそうです」
「撃った後は?」
「再び火薬と弾を入れなければならないため、時間が掛かると聞きました。重く、雨の日には使いにくいとも」
「それなら、弓や槍の方が使いやすいのでは?」
「だから、好まない兵も多いのでしょう」
「アルベルト殿下は、それでも使っているんですね」
「大きな音と煙で、馬や兵を驚かせることができるそうです。使う場所を選べば役に立つと考えているのかもしれません」
武器そのものが優れているのではなく、役に立つ状況を作って使う。
もし噂が正しいなら、アルベルトは新しいものを無条件に好んでいるわけではないのかもしれない。
撃った後の隙を、別の兵が守れればどうだろう。扱いにくい武器でも、兵の並べ方や使う場面で役割が変わるはずだ。
アレクは、その火槍を実際に見てみたいと思った。
ただし、見るために戦場へ行きたいとは思わなかった。
「今度は火槍について考えていますね」
「顔に出ていますか」
「出ています」
「人の考えを読むのが得意なんですか」
「あなたが分かりやすいだけです」
マルセルは仕分けを終えた薬草の籠を持ち上げた。
「午後は好きにして構いません。ただし、森へは入らないように」
「狼がいるからですか」
「それもありますが、道に迷った者を二度も探しに行きたくありません」
「一度目も探していませんよね」
「では、最初の一度にしないように」
マルセルは籠を抱え、教会の中へ戻った。
午後のラーデン村では、午前より多くの者が外で働いていた。
村の周囲には麦と豆を育てる畑が広がっている。家々の近くでは鶏が歩き、柵の中では山羊が草を食べていた。豚を飼っている家もある。
牛はいたが、食べるためというより畑を耕し、荷車を引かせるために使っているようだった。
村の端を流れる細い水路には水車が一基あり、回転するたびに木の軸が鈍い音を立てている。別の場所からは、鍛冶場で鉄を叩く音が聞こえた。
教会と酒場、収穫物を保管する倉もある。
村の周囲には、人の背丈ほどもない簡素な柵が巡らされていた。軍を防げるようなものではない。獣や少人数の盗賊が入りにくくする程度の役割だろう。
ラーデン村には、およそ三百人が暮らしているらしい。
アレクは村の中を歩きながら、自分が知らなければならないものの多さを実感していた。
畑を見ても、麦に似ているということしか分からない。いつ種をまき、いつ収穫するのか知らない。水車が何に使われているのかは予想できても、壊れた時に直す方法は分からない。
前世では当たり前に使っていた道具も、今のアレクには作れなかった。
それでも、三日前とは変わったこともある。
「こんにちは」
道の端で籠を編んでいた老人へ挨拶すると、相手は手を止めて小さくうなずいた。
「ああ、神父様のところにいる子か」
「はい」
「水をこぼさずに運べるようになったか」
「見られていたんですか」
「村で起きたことは、だいたい誰かが見ている」
老人はそれだけ言うと、籠を編む作業へ戻った。
歓迎されたわけではないが、無視もされなかった。
少しずつでも、村の者に顔を覚えられている。
「おい、アレク!」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると、赤みがかった髪の少年が立っている。年齢は十六、七歳ほど。名はトーマスといい、アレクが村へ来た翌日に知り合った。
「また歩き回っているのか」
「村のことを覚えようと思って」
「三日で何をそんなに覚えるんだ」
「道と、建物と、ここに住んでいる人です」
「本当に変わった奴だな」
「よく言われます」
「誰に?」
アレクは言葉に詰まった。
前世では同僚から何度か言われたことがある。だが、それを説明することはできない。
「マルセルさんにです」
「神父様なら言いそうだ」
トーマスは疑うことなく笑った。
「暇なら来いよ。見せたいものがある」
「何を?」
「お前が村を歩き回っている間に、こっちは訓練しているんだ」
「訓練?」
「兵の訓練だ」
嫌な予感がしたが、アレクはトーマスについていった。
連れていかれたのは、村外れの空き地だった。
五人ほどの若者が集まり、木剣や長い棒を手にしている。木剣といっても、表面を滑らかに削っただけの簡素なものだった。
若者たちは二人一組となり、打ち込む側と受ける側に分かれて動きを繰り返している。
騎士や兵士から正式な訓練を受けているようには見えない。以前、戦へ出た村人から教わった動きを覚え、互いに試しているのだろう。
「これが兵の訓練ですか」
「何だ、その顔は」
「もっと、誰かに教わっているのかと思いました」
「村に騎士がいると思うか?」
「いませんね」
「戦になれば、俺たちも槍を持つ。何もしないよりはましだ」
トーマスが木剣を一本取った。
「今年から、俺も戦へ出られる」
「嬉しそうですね」
「手柄を立てれば金がもらえるかもしれない。領主様の兵に取り立てられることだってある」
「死ぬかもしれませんよ」
「畑に残れば、必ず食えるのか?」
トーマスの返事に、アレクは口を閉じた。
「うちは兄貴が畑を継ぐ。俺が分けてもらえる土地なんて、家の裏の畑くらいだ。雇われて働くか、兵になるか、町へ出るか。何もしなければ、食わせてもらうだけだ」
「戦に出る以外にも道はあるでしょう」
「あるかもしれない。だが、今の俺に見つかっていないなら同じだ」
トーマスは戦争の恐ろしさを理解していないのかもしれない。
しかし、何も考えずに喜んでいるわけでもなかった。
村へ残っても、十分な土地を得られるとは限らない。貧しい家の次男や三男にとって、兵になることは身を立てる方法の一つなのだろう。
前世で安定した仕事に就き、毎月給料を得ていたアレクが、簡単に否定できることではなかった。
「それより、お前もやってみろ」
トーマスが木剣を差し出した。
「アレクが薪を運んでいるところを見た。力はあるんだろ?」
「力と剣は別です」
「持ってみなければ分からない」
アレクは木剣を受け取った。
その瞬間、手の中へ木の重さが馴染んだ。
柄を強く握りすぎれば、腕の動きが硬くなる。相手へ向ける側を意識しなければ、真剣を持った時に刃の向きがずれる。
足を一直線に並べれば、横から押された時に倒れやすい。
誰かから教わった記憶はない。
それでも、木剣をどう持てばよいのか、身体の奥にある感覚が教えていた。
「使ったことがあるじゃないか」
トーマスが言った。
「覚えていません」
「その言い方、便利だな」
「便利だから使っています」
「正直だな」
トーマスが別の木剣を持ち、アレクの正面へ立った。
「俺は結構強いぞ」
「この中では?」
「村の同じ年頃ではだ」
「範囲が狭くなりましたね」
「うるさい。構えろ」
アレクは木剣を胸の前で持った。
構えてから、足元に小さな窪みがあることへ気づく。慌てて右足をずらすと、身体が傾いた。
「本当に使えるのか?」
「今、少し不安になりました」
周囲の若者たちが笑った。
トーマスも笑いながら木剣を構える。
表情は軽いが、両手には力が入っていた。
「行くぞ」
トーマスの視線が、アレクの左肩へ向いた。
次に腰が動く。
木剣が斜めに振り下ろされた。
アレクは半歩だけ横へ動いた。
身体が思っていたより速く動き、木剣は目の前を通り過ぎた。トーマスの身体が伸びきる。
その首元へ、自分の木剣を近づけた。
当てる直前で腕を止める。
「……え?」
トーマスの動きが止まった。
木剣の先は、首へ触れる少し手前にある。
周囲から声が消えた。
アレク自身も、何が起きたのか理解するまでに時間が掛かった。
相手の視線と腰の動きから、剣が来る方向を予想した。横へ避け、空いた首元へ木剣を向けた。
考えてから動いたはずだった。
しかし、実際に掛かった時間は驚くほど短かった。
「もう一度だ」
トーマスが言った。
「待ってください。今のは、たまたまです」
「なら、もう一度やれば分かる」
今度は笑っていなかった。
トーマスが距離を取り、木剣を構え直す。
先ほどのように勢いだけで踏み込まず、アレクの動きを見ている。
木剣を握る手が痛くなるほど力んでいた。
「トーマス、少し力を抜いた方が」
「お前に言われたくない」
先に動いたのはアレクだった。
右へ踏み込み、木剣を振る。トーマスはそれを受け止めた。
木と木がぶつかり、乾いた音が響く。
腕に衝撃が返ってきた。
次の瞬間、トーマスが木剣を押し返した。
アレクは後ろへ下がろうとしたが、足の位置が合わない。身体が傾き、トーマスの木剣が左腕を打った。
「痛っ」
鋭い痛みが走った。
「ほら、俺の方が強い」
「まだ終わっていません」
アレクは距離を取った。
身体能力が高くても、正しい足運びを身につけているわけではない。相手の動きが分かっても、自分の身体を常に正確な場所へ置けるわけではなかった。
トーマスが再び踏み込む。
今度は視線だけで判断しなかった。
肩と腰、前へ出る足を見る。
木剣が横から振られる。
アレクは受け止めずに上半身を引いた。木剣が服の前をかすめる。
すぐに踏み込もうとして、足元の窪みを思い出した。左側へ回り込み、トーマスの手元へ木剣を当てる。
「痛っ!」
トーマスの指が緩み、木剣が地面へ落ちた。
アレクは追撃しなかった。
二人の荒い息だけが、空き地に響いている。
「今のは、ずるくないか」
トーマスが手首を押さえながら言った。
「何がです?」
「剣ではなく、手を狙った」
「剣を落としたなら、もう斬れません」
「騎士はもっと正面から戦う」
「騎士になったことがないので分かりません」
「お前、本当に何者だ?」
「それを知りたいのは、こちらも同じです」
若者たちから笑いが起きた。
トーマスも悔しそうにしながら、地面の木剣を拾う。
アレクは手の中の木剣を見た。
首元で止めた最初の一撃を思い出す。
もし木剣ではなく真剣だったら、止めるのが少し遅れただけでトーマスの首を傷つけていた。
才能がある。
その事実は、喜びよりも恐怖をもたらした。
前世のアレクは、人を殴った経験さえほとんどない。剣で人を傷つける覚悟など、持っているはずがなかった。
「アレク?」
トーマスが顔をのぞき込んだ。
「どうした」
「今日は、もうやめます」
「腕が痛いのか?」
「それもあります」
「俺が勝ったということにしておくか」
「木剣を落としたのはトーマスです」
「急に元気になったな」
トーマスはもう一度戦おうとは言わなかった。
アレクの木剣を受け取りながら、その手元を見る。
「手が震えているぞ」
「慣れていないので」
「剣に?」
「人へ向けることにです」
トーマスは何も言わず、木剣を他の若者へ渡した。
「明日も来るか?」
「考えておきます」
「それは来ない奴の言い方だ」
「必要だと思えば来ます」
「なら、必要になる」
「どうしてです?」
「この辺りは、いつ戦になるか分からないからだ」
トーマスは当然のことのように言った。
アレクは返事をせず、空き地を離れた。
村の外れを歩きながら、左腕を確かめた。
少し赤くなっているが、骨に異常はなさそうだった。
木剣を握ってすぐに勝てた。それでも、打たれた腕は痛む。真剣なら、この程度では済まなかっただろう。
できることなら、剣を持たずに暮らしたい。だが、村にいても戦に巻き込まれる世界だと、マルセルは教えてくれた。
最も安全なのは、戦わないことだ。
戦わずに済む場所と立場を得る。
それができないなら、有利な場所で戦う。情報を集め、味方を増やし、逃げる道を残しておく。
考えていることは、勇敢な武将というより会社員だった頃の仕事に近かった。
問題が起きる前に確認する。必要な人間へ連絡する。一つの方法が失敗した場合に備え、別の手段を用意する。
前世では目立つことのなかった習慣が、この世界では命を守る力になるかもしれない。
その時、村の入口から鐘の音が響いた。
一度や二度ではない。
短く、何度も打ち鳴らされる。
畑にいた者たちが顔を上げた。
「警鐘だ!」
誰かが叫んだ。
村人たちが手を止め、入口へ向かって走り始める。家の外で遊んでいた子供は、親に抱かれて建物の中へ入れられた。
アレクも村へ走った。
入口には、十数騎の兵がいた。
革の防具を身につけ、腰に剣を下げている。槍を持つ者もいた。先頭の男が馬から降り、村長と話している。
やがて、教会から出てきたマルセルも人の輪へ加わった。
「何があったんですか」
アレクが尋ねると、近くにいたトーマスが答えた。
「ヴァイス男爵の兵だ」
先ほどまで空き地にいた時とは違い、その顔には緊張が浮かんでいる。
「戦ですか」
「まだ分からない」
兵の一人が羊皮紙を開いた。
「ヴァイス男爵閣下より、領内の各村へ命令を伝える!」
集まった村人たちが静かになった。
「西方よりベルン伯爵軍が侵攻を開始した。国境沿いの砦が攻撃を受け、ヴァイス男爵閣下は領内の兵を集めている」
小さなどよめきが起きた。
ベルン伯爵が何者なのか、アレクには分からない。
それでも、戦が近づいていることだけは理解できた。
「各村は、これまでに定められた兵役義務に従い、戦える男を出せ。ラーデン村の割当は十二人。三日後の日の出までに、村の南にある街道へ集めよ」
「十二人……」
誰かが呟いた。
アレクは周囲を見た。
三百人ほどが暮らす村から十二人。数字だけを見れば、少なく感じるかもしれない。
だが、実際に村人の顔を見れば違う。
十二人がいなくなれば、その家の畑を耕す者が減る。戻らなければ、家族は働き手を失う。
「選ぶ年齢は、これまでどおり十五歳以上、四十歳以下を目安とする。ただし、村の仕事に必要な者、病や傷を抱える者については、村長と相談して決めよ。過去に兵役を経験した者、武器を扱える者を優先する」
十五歳。
アレクの年齢も範囲に入っている。
だが、ラーデン村へ来てから三日しか経っていない。村の戸数にも、兵役を負う家の記録にも入っていないはずだった。
兵が命令を読み終えると、村人たちは一斉に話し始めた。
「前の戦で出た者はどうなる」
「収穫前に十二人も抜かれたら困る」
「うちには男が一人しかいない」
村長が両手を上げ、声を張った。
「静かにしろ! 今ここで決めるわけではない。家族の人数と畑の状況を確認する。兵役の経験がある者は、日が暮れる前に俺の家へ来てくれ」
「若い者は?」
「明日の朝、教会前へ集まってもらう。十二人を決めるのは、それからだ」
アレクの隣で、トーマスが拳を握った。
「俺は行く」
「まだ選ばれたわけではありません」
「木剣なら扱える。兄貴は畑に残る。俺が選ばれるはずだ」
声には強がりが混じっていた。
昼間のような期待だけではない。実際に戦が近づいたことで、トーマスも恐怖を感じている。
それでも、行かないとは言わなかった。
「アレク」
マルセルが近づいてきた。
「教会へ戻りなさい」
「私は集まらなくてよいんですか」
「あなたはラーデン村の住人として記録されていません。兵役を負う家の者でもありません」
「年齢は十五歳です」
「年齢だけで決めるものではありません」
マルセルの声は普段より強かった。
「村長へも、あなたを人数に含めないよう話します」
「ですが、私は教会で食事をもらっています」
「三日分の食事を返すために、命を差し出すつもりですか」
「そういうつもりでは」
「では、教会へ戻りなさい」
アレクは返事をしなかった。
マルセルの言うことは正しい。
アレクには兵役の義務がない。ラーデン村へ来たばかりで、領主へ忠誠を誓った覚えもない。
戦場へ行きたくないのなら、断る理由は十分にある。
しかし、自分が行かなければ、別の誰かが十二人目になる。
家族を養う男かもしれない。畑仕事に欠かせない者かもしれない。身体に傷を抱えていても、割当を満たすために選ばれる者が出る可能性もある。
「おい」
後ろから低い声が聞こえた。
振り返ると、空き地で一緒に訓練していた若者の一人が、村長へ何か話している。
その若者がアレクを指さした。
村長の視線が、アレクの左腕へ向いた。
「お前が、トーマスに剣で勝ったという少年か」
「木剣を使っただけです」
「剣を習ったことがあるのか」
「覚えていません」
「また、それか」
近くにいた村人が呟いた。
村長はアレクをしばらく見た後、マルセルへ向き直った。
「神父様。この少年は本当に村の者ではないのですな」
「三日前に森から来たばかりです」
「ならば、割当へ含めるべきではない」
アレクは胸の奥で息を吐いた。
安心した。
その感情を否定することはできなかった。
戦場へ行かずに済むかもしれない。
だが、村長は続けた。
「ただ、十二人を選ぶのは簡単ではありません。前の兵役で足を痛めた者もいる。熱を出して寝ている者もいる。働ける男が一人しかいない家もあります」
「それでも、この少年を出す理由にはなりません」
「分かっています」
村長は疲れた表情で村人たちを見た。
「明日の朝、事情を一つずつ聞きます。そのうえで決めます」
ヴァイス男爵の兵たちは、次の村へ命令を伝えるため、すぐに出発した。
蹄の音が遠ざかっても、村人たちはその場に残っていた。
誰もが、自分の家から誰が出ることになるのか考えている。
アレクは昼間に握った木剣を思い出した。
剣を扱う才能がある。
身体能力も高い。
だが、それは戦場へ行かなければならない理由ではなかった。
同時に、何の力もない者より生き残れる可能性があるのなら、自分だけが村に残ってよいのかという疑問も消えなかった。
「戻りますよ」
マルセルが言った。
「はい」
アレクは教会へ向かって歩き始めた。
途中で振り返ると、トーマスは家族らしい男と話している。昼間には兵になれば金を得られると笑っていた少年が、今は何度も唇を結んでいた。
明日の朝、ラーデン村から戦へ出る十二人が決まる。
アレクに与えられたのは、剣を扱う才能だった。
その剣を誰のために、どのような場面で使うのかまでは、神も決めてくれなかった。
第二話を読んでいただき、ありがとうございました。
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