第一話 知らない空の下で
佐藤恒一が会社を出た時には、日付が変わろうとしていた。
三十歳の会社員。取引先との調整や納期の遅れに追われ、今日も帰りが遅くなった。
鞄には、昼休みに買った戦国時代の本が入っている。恒一が好きなのは、武将の活躍だけではない。兵糧をどう集め、誰と手を結び、得た領地をどう治めたのか。そうした戦の裏側を読むのが楽しみだった。
もっとも、自分がその時代に生まれたいと思ったことはない。
歴史は本で読むから面白い。
帰ったら少しだけ続きを読もう。そう考え、駅へ足を速めた。
次の瞬間、恒一の意識は途切れた。
目を開けると、何もない場所に立っていた。
床らしきものはある。足の裏には硬い感触があった。だが、どこまで見回しても壁も天井もなく、白い光だけが広がっている。
会社から駅へ向かっていたはずなのに、手にしていた鞄もない。着ていたはずの背広は残っているが、携帯電話も財布も見当たらなかった。
「……どこだ、ここ」
声を出すと、白い空間の中へ不自然なほどよく響いた。
夢かもしれない。
そう考えて頬をつねってみたが、痛みはある。疲れが限界を超えて、道端で倒れたのだろうか。それなら病院で目を覚ますはずで、何もない白い場所にいる理由にはならない。
恒一が周囲を見回していると、少し離れた場所に一人の男が立っていた。
現れた瞬間は見えなかった。気づいた時には、そこにいた。
年齢は分からない。老人のようにも見えれば、三十代ほどにも見える。白い衣を身につけ、長い髪を後ろで束ねていた。いかにも人ではないものを思わせる姿だったが、その表情には威厳よりも気まずさが浮かんでいる。
「あの」
恒一が呼びかけるより先に、男が深く頭を下げた。
「申し訳ない」
「はい?」
「まず、謝らなければならない。本当に申し訳なかった」
何について謝られているのか分からない。恒一が言葉を返せずにいると、男は頭を下げたまま続けた。
「佐藤恒一。三十歳。お前は先ほど、命を失った」
「……死んだ?」
「ああ」
あまりにも簡単に告げられ、意味が頭へ入ってこなかった。
恒一は自分の胸へ手を当てた。鼓動は感じられない。苦しくはなく、身体が冷たいわけでもない。ただ、自分が本当にここに立っているのかさえ、急に分からなくなった。
「なぜ死んだんですか」
男は口を閉じた。その顔を見て、恒一の中に嫌な予感が広がった。
「……私の手違いだ。本来、お前が死ぬ時ではなかった」
恒一はしばらく何も言えなかった。
冗談として笑うには、目の前の男の顔が真剣すぎた。
「元へ戻してください」
「できない」
「間違えたのなら、直せるでしょう」
「失われた命を、同じ場所へ戻すことはできない。お前のいた世界で、お前の身体はすでに死を迎えている」
「それで終わりですか」
「終わりにしないために、私はここへ来た」
恒一は拳を握った。
怒鳴りたい気持ちはあった。けれど、何を言えばよいのか分からない。駅へ向かって歩いていただけで、仕事も、部屋も、これまで築いた人間関係も、すべて失った。
明日になれば、会社では恒一が出勤しないことが問題になる。やがて死を知らされ、机が片づけられる。読みかけの本も、部屋に置いたままの荷物も、恒一が取りに戻ることはない。
それまでの日常が突然、自分の手の届かないものになっていた。
「戻せないなら、どうするつもりですか」
「別の世界で、新たな命を与える」
「前の人生を、そのまま続けることはできないのか」
「できない。申し訳ない」
何度謝られても、納得できるはずがなかった。
「断った場合は?」
「このまま魂が消えるわけではない。いずれ、前の記憶を失い、別の命として生まれることになる」
「記憶を持ったまま、別の世界で生きるか。全部忘れて、いつか別の誰かになるか」
「そうなる」
選択肢と呼ぶには、あまりに一方的だった。
恒一は目を閉じた。
戻れない。その事実だけは変わらないらしい。目の前の存在が本当に神のようなものなら、力ずくで何かをさせることもできない。
すべてを忘れてしまえば、失ったものを悲しむこともないのかもしれない。しかし、それは今ここにいる佐藤恒一が消えることと、ほとんど同じに思えた。
「生きられるんですね」
「ああ」
「必ず幸せになれるとは言いませんか」
「それは約束できない。新しい世界にも、争いと病と飢えがある。お前がどう生きるかによって、得るものも失うものも変わる」
「正直ですね」
「これ以上、お前を偽るわけにはいかない」
恒一は息を吐こうとして、自分が先ほどから呼吸をしていないことに気づいた。
それでも胸の奥にある重苦しさは消えなかった。
「分かりました。行きます」
「よいのか」
「よくはありません。でも、消えるよりは生きたい」
英雄になりたいわけではない。大きな目的があるわけでもない。ただ、まだ終わりたくなかった。
男はゆっくりとうなずいた。
「お前がそう選んでくれたことに感謝する」
「感謝されることではありません。あなたの手違いでしょう」
「そのとおりだ」
恒一が少し強く言っても、男は反論しなかった。
白い空間に短い沈黙が落ちる。
「転生する世界について、説明してもらえますか」
「もちろんだ。お前が向かうのは、前の世界でいえば中世のヨーロッパに近い場所になる。国も歴史も違うが、剣や槍を手にした兵が、領地を巡って争う世界だ」
恒一は眉を寄せた。
「もっと平和な場所は選べないんですか」
「今のお前を、記憶を保ったまま受け入れられるのがその世界だった」
「ずいぶん都合が悪いですね」
「申し訳ない」
また頭を下げようとする男を、恒一は手で制した。何度謝られても、戻れないものは戻らない。
「転生した直後に殺される可能性もあるんですか」
「何も与えずに送り出すつもりはない。私の手違いへの償いとして、いくつかの力を与える」
「不死身にしてくれるとか」
「それはできない」
「言ってみただけです」
男は右手を上げた。
何もなかった空間に、淡い光が集まった。
「まず、剣を扱うための才能を与える。それに耐えられる身体も必要になるため、通常より高い身体能力を持たせる」
「才能があれば、すぐに剣で戦えるんですか」
「身体は動きを覚えやすくなる。だが、経験まで与えるわけではない。初めて握った剣で、長年鍛えた者に必ず勝てるものではない」
「訓練は必要ということですね」
「ああ。力が強くても、間合いを誤れば斬られる。身体が速くても、恐怖で動けなくなることはある」
その説明を聞き、恒一は少しだけ安心した。何の代償もなく最強の力を得るなどと言われるより、よほど信用できた。
「もう一つ、人を見るための力を与える」
「心が読めるということですか」
「違う。顔色、声、視線、手の動きといったものから、相手が何を感じているか察しやすくなる。言葉の通じにくい相手や、立場の異なる相手とも、意思を通わせやすくなるだろう」
「絶対に相手の考えが分かるわけではない」
「もちろんだ。人は見誤る。笑っている者が喜んでいるとは限らず、怒鳴っている者が敵とも限らない。お前が何を見て、どう判断するかは、お前自身に委ねられる」
読心術ではなく、観察力のようなものらしい。
仕事で相手の表情を読み、言葉を選ぶ機会は多かった。それが今までより得意になるのなら、剣よりも役立つ場面は多いかもしれない。
「前の記憶は残るんですよね」
「残す。お前が学んだこと、経験したことは、新しい身体でも思い出せる」
「忘れていることまで思い出せるんですか」
「いや。持っている記憶を残すだけだ。知らないことまで分かるようにはならない」
歴史を読んだだけで、武器や農具まで作れるわけではない。役立てるには、この世界で学ぶ必要がありそうだった。
「転生のことは、人に話しても?」
「信じてもらえるかは分からない。奇妙なことを語る者として恐れられる可能性もある」
「……黙っておきます」
「新しい身体には、元の持ち主がいるんですか」
「いない。お前のために用意する身体だ。十五歳ほどの姿になる」
「随分と若くなりますね」
「これから身を立てるには、その方がよいだろう」
「名前はどうなりますか」
「アレク・ハルトマン」
「その名前の家族や故郷は?」
「用意できない。お前は、身元を証明するものを持たずに現れる」
「それはかなり困るのでは?」
「……申し訳ない」
「謝る前に、どうにかできないか考えてください」
「存在しない過去を作れば、それに関わる人々の記憶まで変えなければならない。別の者の子として生まれたことにすれば、その家族の人生を変えてしまう」
恒一は反論しかけて、言葉を止めた。
自分のために無関係な人間の記憶や人生を書き換えろとは言えない。
「言葉は通じますか」
「人と意思を通わせる力に含めてある。少なくとも、日常の会話に困ることはない。ただし文字は別だ。その世界で学ばなければならない」
「身体と会話と、いくらかの力。それ以外は自分でどうにかしろと」
「そうなる」
「お金や食べ物は?」
男は目をそらした。
恒一はその反応だけで答えを察した。
「ないんですね」
「人の暮らす場所から、極端に離れた場所へ送るつもりはない」
「極端に、という言葉が気になります」
「日が暮れる前に歩いて着ける距離だ」
白い光が、少しずつ強くなり始めた。
「時間だ」
「もうですか」
「ああ」
恒一は周囲を見回した。
何もない白い空間に、前の世界へ戻る道は見えなかった。
「佐藤恒一という名前は、どうなるんでしょう」
「お前が覚えている限り、失われない」
「誰にも話せなくても?」
「誰かに知られなければ、存在しないことになるわけではない」
それが慰めになるのかは分からなかった。
恒一は目を閉じた。
元の世界へ別れを告げる時間さえ与えられなかった。思い残したことなら、いくらでもある。けれど、ここで立ち止まっていても戻れない。
「アレク・ハルトマン、でしたね」
「そうだ」
「分かりました。その名前で生きてみます」
光が恒一の身体を包んだ。
「お前の新しい生が、せめて今度は、お前自身の選択によって続くことを願っている」
男の声が遠ざかる。
恒一は最後まで目を閉じたまま、その言葉を聞いていた。
最初に感じたのは、頬へ触れる冷たい風だった。
次に草の匂いと、湿った土の感触が伝わってきた。
アレクが目を開けると、頭上には青い空が広がっていた。
アレクは地面に横たわっていた。
身体を起こそうとしただけで、予想していたより勢いよく上半身が持ち上がる。慌てて手をつくと、見覚えのない細い指が草を押さえた。
手のひらに硬いまめはない。腕は三十歳だった頃より細いが、力がないとは感じなかった。
立ち上がると、視線の高さも変わっていた。着ているのは粗い布で作られた上着とズボンで、足元には革靴がある。背広も、会社へ履いていた靴も、すでになかった。
アレクは両手を開き、ゆっくりと握った。次に足を曲げ、軽く地面を蹴ってみる。少し跳ぶつもりだった身体が予想以上に高く浮き、着地した勢いで数歩よろめいた。
身体は軽く、以前よりも力がある。だが、その力を正確に扱えるわけではなかった。
少し離れた木まで走ってみると、足が考えていた以上の速さで前へ出た。止まるのが遅れ、危うく幹へ肩をぶつけそうになる。
身体能力を与えるという話は本当らしい。
アレクは自分の顔へ触れた。
頬の形も、髪の長さも違う。近くに水場があれば姿を確かめられるが、今は十五歳の少年になったという男の言葉を信じるしかなかった。
「本当に、別の身体なんだな」
声も若い。
高すぎるわけではないが、以前の自分の声とは明らかに違っていた。
佐藤恒一として三十年を生きた記憶は残っている。会社での仕事も、昨日まで読んだ本の内容も思い出せる。一方で、この世界の地名や国の名前は何も知らない。
アレクという名だけを与えられ、身元を証明するものもなく、金も食べ物も武器も持っていない。
空を見上げると、太陽はすでに西へ傾き始めていた。
人の暮らす場所まで、日が暮れる前に歩いて着ける。
あの男の言葉を信じるなら、どこかに村か町があるはずだった。
アレクは周囲を観察した。
木々の間には、獣道とは違う細い踏み跡がある。草が何度も踏まれ、土が見えている場所もあった。近くの枝には、刃物で切られたような跡がある。
人が森へ入り、薪か何かを集めているのかもしれない。
アレクは踏み跡に沿って歩き始めた。
傾斜を登っても息は上がらない。だが、枝が折れる音がするたびに足が止まった。獣が潜んでいても、身を守る武器はない。
喉も渇いてきた。アレクは耳を澄ませたが、水の音は聞こえなかった。
しばらく歩くと、木々の間から空が見えるようになった。
森を抜けた先には、緩やかな斜面に沿って畑が広がっている。麦に似た作物が風に揺れ、その向こうには木と土で作られた家々が並んでいた。
十数軒ではない。離れた場所にある家畜小屋まで含めれば、もう少し多い。中央には周囲より高い屋根を持つ建物があり、その先端に簡素な十字の印が掲げられていた。
教会だろうか。
少なくとも、人の住む場所には着いた。
アレクは安心しかけたが、すぐに足を止めた。
自分は、森から突然現れた見知らぬ少年だ。
武器を持っていなくても、村人から見れば安心できる相手ではない。
森から直接近づくより、畑の間を通る道へ出た方がよい。そう考えて少し遠回りすると、籠を背負った女性が畑の向こうから歩いてきた。
女性はアレクの姿を見るなり立ち止まり、籠の肩紐を強く握った。
驚きだけではない。明らかに警戒している。
アレクは両手が見える位置までゆっくりと上げた。
「すみません」
口から出たのは、聞いたことのない言葉だった。
それでも意味は分かる。自分が何を話したのかも理解できた。
女性の返事も、自然に言葉として頭へ入ってきた。
「誰だい、あんた」
「アレクといいます。道に迷いました」
「連れはいないのかい」
「一人です。泊まれるところを探しているのですが、お金もなくて……」
女性はアレクの顔と汚れた靴を見比べた。警戒してはいるが、追い払うかどうか迷っているようだった。
「教会へ行きな。マルセル神父なら、話くらいは聞いてくれる」
「ありがとうございます」
「村の家へ勝手に入るんじゃないよ」
「分かりました」
女性はアレクと十分な距離を取りながら、村の方向を指さした。
教会へ続く道を教えた後も、女性はその場に残っていた。アレクが本当に教会へ向かうか見届けるつもりらしい。
アレクは頭を下げ、言われたとおり村の中央へ向かった。
村へ入ると、何人もの視線が集まった。
家の前で桶を洗っていた者が手を止め、子供を連れた母親が道の端へ避ける。薪を運んでいた男は、見慣れないアレクの姿を確かめるように目で追っていた。
アレクは誰とも目を合わせすぎないようにしながら、教えられた建物まで歩いた。
教会は石造りではなく、太い木材と土壁で作られていた。扉の上に掲げられた印も、近くで見ると二本の木を組み合わせたものだった。
扉を叩くと、しばらくして足音が近づいてきた。
「どなたですか」
扉を開けたのは、灰色の髪を短く切った男だった。
五十歳を過ぎているように見える。黒に近い質素な衣を身につけ、首から小さな木の印を下げていた。
「マルセル神父ですか」
「そうですが、あなたは?」
「アレク・ハルトマンといいます。森で道に迷い、先ほどこの村へ着きました。村の方から、ここで話を聞いてもらえると教えられました」
マルセルはすぐに中へ入れようとはしなかった。
アレクの顔、衣服、汚れた靴を順に見る。その視線は厳しいが、敵意だけではない。
「どこから来たのです」
「それが……うまく説明できません」
「自分の故郷が分からないのですか」
「遠い場所から来たことは覚えています。ただ、ここまでどうやって来たのか、記憶が混乱しています」
完全な嘘ではなかった。
前の世界の故郷を話しても、マルセルには通じない。白い空間を経て森へ現れたことも、説明のしようがなかった。
「家族は?」
「ここにはいません」
「帰る場所はありますか」
「ありません」
答えると、マルセルの表情がわずかに変わった。
哀れんだのではない。アレクの言葉が本当か、もう一度考え直したように見えた。
「年はいくつです」
「十五歳です」
「その年で、一人旅を?」
「自分でも、どうしてこうなったのか分かっていません」
マルセルは黙った。
このまま追い返されても責めることはできない。宿代を払えるわけでもなく、身元を保証する者もいない。アレクにできるのは、危害を加えるつもりがないと態度で示すことだけだった。
「荷物も持っていないのですか」
「何もありません」
「森へ入る前に、どこにいたかは?」
「思い出せません」
「名前と年齢は覚えているのに?」
「はい」
マルセルはしばらくアレクを見つめていた。答えに迷ったふりをしているのか、本当に混乱しているのかを見極めようとしているらしい。
アレクは視線をそらさず、返事を待った。
「入りなさい」
「よいのですか」
「今夜だけです。明日になったら、村長にも話を聞いてもらいます。あなたが何者なのか分からないまま、いつまでも置いておくことはできません」
「それで十分です。ありがとうございます」
「礼は食事をしてからにしなさい。ひどい顔をしています」
教会の中は、外から見た印象よりも狭かった。
正面に祈りを捧げるための場所があり、奥がマルセルの生活する部屋になっている。豪華な飾りはなく、木の長椅子も使い込まれていた。
マルセルはアレクへ椅子を勧めた。
「座って待っていなさい」
「何か手伝います」
「立っているのもつらそうな者へ、仕事を頼むほど人手には困っていません」
言われて初めて、アレクは自分の足が震えていることに気づいた。
森を歩いた疲れだけではない。
知らない場所へ放り出され、村人に警戒されながら、ようやく雨風をしのげる場所へ入ることができた。緊張が緩んだ途端、身体が疲れを訴え始めていた。
アレクが椅子へ腰を下ろすと、マルセルは水の入った木杯を持ってきた。
「ゆっくり飲みなさい」
水は冷たかった。
前の世界なら、蛇口をひねるだけで得られたものだ。それが今は、何よりありがたかった。
一気に飲み干しそうになるのを抑え、何度かに分けて口へ含む。
「森のどちら側から来ました」
「畑の裏手にある踏み跡からです」
「北の森ですね。あの辺りには狼も出ます」
アレクの手が止まった。
「狼がいるんですか」
「います。日が高いうちは村の近くまで出ることは少ないですが、運がよかったですね」
「何も持たずに歩いていたので、出会っていたら逃げるしかありませんでした」
「走ることには自信があるのですか」
「今日、自分の足が思っていたより速いことを知りました。でも、狼より速いかは分かりません」
「試さずに済んだことを喜ぶべきでしょうね」
「はい。本当にそう思います」
どこまで信じてもらえたのかは分からない。
マルセルはそれ以上追及せず、鍋に入ったスープを温め始めた。火のそばには黒いパンが置かれている。
しばらくして出された食事は、豆と野菜を煮た薄いスープと、硬いパンだった。肉は入っていない。香辛料もほとんど使われていなかったが、空腹のアレクには十分だった。
パンをスープへ浸し、柔らかくしてから口へ運ぶ。
塩気は薄い。それでも、身体の中へ温かさが広がっていく。
「急いで食べると、胃が驚きますよ」
「はい」
返事をした直後、また大きくパンをちぎり、マルセルに苦笑された。
食べながら、アレクは室内を見回した。
鍋は鉄製に見える。食器の多くは木で、明かりには獣脂か油を使っているらしい。窓に透明なガラスはなく、木戸が取りつけられていた。
壁際の棚には何冊か本がある。
本が存在するなら、文字を学ぶことはできるかもしれない。しかし、紙や本がどれほど高価なのかも分からなかった。
「何を見ているのです」
「本があると思って」
「文字を読めますか」
「……分かりません」
「それも覚えていないのですか」
「話すことはできます。でも、文字を見るまでは何とも言えません」
マルセルは棚から薄い本を一冊取り出し、机の上へ置いた。
開かれたページには、見慣れない文字が並んでいる。
アレクは目を細めた。
記号として形を見ることはできるが、意味は全く分からなかった。
「読めません」
「では、どこかで学ばなければなりませんね」
「教えてもらえるんですか」
「まだ、あなたをここへ置くと決めたわけではありません」
「そうでした」
「ただし、明日の朝までに追い出すとも言っていません」
マルセルは本を閉じた。
「今夜は休みなさい。事情を聞くのは明日でもできます」
「どうして助けてくれるんですか」
「困っている者へ食事と寝床を与えるのに、立派な理由が必要ですか」
「私は、身元の分からない人間です」
「だから今夜だけと言いました。それに、この村へ害を与えようとする者なら、もう少しましな身なりと作り話を用意するでしょう」
「信用されたとは思わない方がよいですね」
「そのとおりです」
マルセルは穏やかに答えた。
「しかし、疑うことと、飢えた少年を外へ追い出すことは別です」
その言葉を聞き、アレクは頭を下げた。
前の世界にいた頃なら、空腹のまま知らない家の扉を叩くことなど考えもしなかった。助けてもらう側へ回って初めて、温かい食事と屋根のある場所がどれほど大きなものか分かった。
食事を終えると、マルセルは教会の奥にある小さな部屋を貸してくれた。
寝台というより、木の台へ藁を詰めた袋を載せたものだった。布団も薄い。会社員だった頃の部屋と比べれば不便だが、森の地面で眠るよりはるかによい。
「夜の間、外へ出ないように。西の国境が騒がしいという話もあります」
「戦ですか」
「まだ、詳しいことは分かりません。しばらくは村から離れないことです」
「分かりました」
「必要なものがあれば、隣の部屋にいます」
「何から何まで、ありがとうございます」
マルセルは小さくうなずき、扉を閉めた。
一人になると、部屋は急に静かになった。
壁の隙間から風の音が聞こえる。窓の木戸を少しだけ開くと、村の家々に灯るわずかな明かりが見えた。
電灯はない。自動車の音も、遠くを走る電車の音も聞こえない。
アレクは寝台へ腰を下ろし、自分の手を見つめた。
十五歳の手だった。
佐藤恒一として働いていた会社も、帰るはずだった部屋も、この世界のどこにも存在しない。明日目を覚ましても、元へ戻っている可能性はないのだろう。
胸の奥に、遅れて悲しみが込み上げてきた。
自分が死んだことを、前の世界の人々はどう知るのだろう。突然いなくなった理由を、誰かが理解してくれることはあるのだろうか。
考えても答えは出ない。
今のアレクには、元の世界へ知らせる手段も、戻る方法もなかった。
剣の才能があっても、明日からの暮らしは決まっていない。文字を学び、働き口を探す。まずは自分で食べていけるようにならなければならなかった。
アレクは窓の木戸をもう少し開いた。
空には、見覚えのない星々が広がっていた。
星の並び方が違う。本当に知らない世界へ来たのだと、白い空間で説明された時よりも強く実感した。
マルセルから聞いた村の名前は、ラーデン村。
この世界で最初に覚えた地名だった。
アレクは木戸を閉め、薄い布を身体へ掛けた。
寝台は硬く、藁が背中に当たる。目を閉じても、すぐには眠れなかった。それでも、森で感じていた恐怖はない。壁の向こうには、自分を完全には信用していなくても、食事と寝床を与えてくれた人がいる。
明日になったら、マルセルへ尋ねよう。
ラーデン村のこと。この土地を治める者のこと。そして、自分が生きることになった世界のことを。
知らない空の下で始まったアレク・ハルトマンの新しい人生には、まだ何一つ道がなかった。
だからこそ、最初の一歩は自分で選ばなければならなかった。
第一話を読んでいただき、ありがとうございました。
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