第十五話 剣を抜かない戦い
エルツェンを守り切ったレオンハルトのもとへ、王都軍のライゼン将軍から会談の申し入れが届きます。王国内の勢力が揺れ動く中、剣を抜かずに次の戦いへ備えるための交渉が始まります。
エルツェンの城門へ、王都軍の旗を掲げた騎兵が近づいてきたのは、城壁の修復が始まって三日目の昼だった。
騎兵は一人だった。
遠くに護衛らしい兵の姿も見えない。腰には剣を下げているが、右手には白い布を結んだ短い棒を持っている。
城壁の上で見張っていた兵が角笛を吹いた。
門前で騎兵を止め、武器を預かった後、兵が本営へ案内する。
戦いが終わったとはいえ、王都軍が味方になったわけではない。
今は互いに剣を向けていないだけだ。
使者が通された部屋には、レオンハルト、マティアス、ユリウス、アレクが集まっていた。
男は部屋へ入ると、胸へ手を当てて頭を下げた。
「王都軍、ライゼン将軍の副官を務めております、レーゲンと申します」
名乗った男は三十歳前後に見えた。雨で濡れた外套には泥が跳ねている。休まず馬を走らせてきたのだろう。
レオンハルトは椅子へ座ったまま、レーゲンを見た。
「オットー・フォン・ライゼンからか」
「はい。将軍より書状を預かっております」
レーゲンが懐から布に包まれた書状を取り出す。
ユリウスが受け取り、封蝋を確認してからレオンハルトへ渡した。
レオンハルトは封を切り、書状へ目を落とした。
室内に紙を開く音だけが響く。
読み終えたレオンハルトは、書状を机へ置いた。
「明日の正午、エルツェン東の村にある礼拝堂で会いたい、とある」
「間違いございません」
「互いに連れていく兵は五十人まで。礼拝堂の中へ入るのは十人までか」
「ライゼン将軍は、無用な警戒を招かぬために必要な条件だと考えております」
「俺を殺すつもりがないと示したいらしいな」
レオンハルトの口元に薄い笑みが浮かぶ。
レーゲンは表情を変えなかった。
「将軍は、話し合いを望んでおります」
「王兄の命令か」
レーゲンは答えなかった。
否定も肯定もしない。
ただ、わずかに視線を下げた。
その沈黙だけで、部屋にいた者たちには十分だった。
「そうか」
レオンハルトは背もたれへ体を預けた。
「返事は今すぐ必要か」
「日が沈む前に持ち帰るよう命じられております」
「別室で待て。食事と馬の水を用意させる」
「感謝いたします」
レーゲンが一礼し、ユリウスに案内されて部屋を出ていく。
扉が閉じるまで、レオンハルトは何も言わなかった。
「王兄の命令ではありませんね」
最初に口を開いたのはアレクだった。
「おそらくな」
レオンハルトが机の上の書状を指で叩く。
「王兄の命令であれば、先ほどの男はそう答えればよい。答えなかったということは、ライゼン将軍が独自に動いているのでしょう」
マティアスは書状を手に取り、文面を読み始めた。
「それを隠すつもりもないようです」
「隠し通せるとは考えていないのだろう」
戻ってきたユリウスが答えた。
「レーゲンはライゼン将軍の副官です。偽りを述べさせて、それが王兄の耳へ入れば、副官まで失うことになります」
レオンハルトはアレクを見た。
「お前なら行くか」
それは会談へ出向くかという意味ではなかった。
王兄の命令を受けず、敵対する可能性のある相手へ使者を送るかと問われている。
アレクはすぐには答えなかった。
王都軍はエルツェンの戦いへ間に合わなかった。
もしエルツェンが落ちていれば、王都軍が何のために動いていたのかという疑いは、今よりも強く残っていただろう。
だがライゼン将軍は、遅れて到着した後も攻撃してこなかった。
城壁の外へ軍を留め、負傷者の治療や周辺の警戒に兵を出している。
「行きます」
アレクは答えた。
「理由は」
「ライゼン将軍は、王兄よりも王家そのものを重く見ているように思えます。殿下と王都軍が戦えば、得をするのはシュヴァルツ伯です。その状況を避けたいのでしょう」
「俺を信用しているからではないのか」
「殿下を信用しているなら、兵を五十人までという条件は付けないと思います」
レオンハルトが小さく笑った。
「その通りだ。向こうも、俺が何をするか分からないと思っている」
「ですが、話し合える相手だとは考えています」
マティアスは書状を机へ戻した。
「ライゼン将軍が何を差し出し、何を求めるか。それを聞くだけでも価値はあります」
「罠の可能性は」
ユリウスの問いに、マティアスは首を横へ振った。
「低いでしょう。今ここで殿下を害すれば、王都軍はエルツェンを奪えたとしても、アルヴェイン大公国と周辺諸侯を敵に回します。シュヴァルツ伯に王都へ向かう口実まで与えることになる」
「王兄が、それでも命じる可能性はある」
「だからこそ、ライゼン将軍は王兄の命令を受けずに会おうとしているのではありませんか」
部屋に短い沈黙が落ちた。
レオンハルトが書状を畳む。
「会う。返事を書け」
「承知しました」
ユリウスが机へ紙を広げた。
「ただし、こちらも四十四人で行く。礼拝堂へ入るのは俺、マティアス、アレク、ユリウスを含めて八人だ。残りは外で待たせる」
「なぜ四十四人なのですか」
アレクが尋ねると、レオンハルトは当然のように答えた。
「五十人までと言われて五十人を連れていけば、怯えているように見えるだろう」
「四十人ではいけないのですか」
「少なく見える」
「その六人に意味があるのですか」
「今、俺が決めた」
アレクは何も言えなくなった。
隣でマティアスが笑いをこらえている。
「書状には四十四人と書きますか」
ユリウスが真顔で尋ねた。
「書かなくていい。相手が数えれば分かる」
「承知しました」
ユリウスは表情を変えずに返事を書き始めた。
レオンハルトが冗談を言っているのか、本気なのか、アレクには最後まで分からなかった。
だが少なくとも、会談を恐れてはいないことだけは伝わった。
◇ ◇ ◇
王都にいる国王、その兄である王兄、第一王弟のレオンハルト。
同じ王家の血を引く者たちでありながら、三人の周囲には異なる人と利害が集まっていた。
国王は王国の頂点に立っている。
しかし、国王が命じれば、すべての諸侯が同じ速さで動くほど単純な国ではない。
王兄は王都の重臣や官吏に強い影響力を持ち、王家の権限を使って国内を一つにまとめようとしている。
各地の税、軍、裁判を王都の管理下へ置き、諸侯が独自に持ってきた力を削る。
国として一つにまとまるという考え自体は、間違っているとは言えない。
だが変化があまりに速かった。
長く自領を治めてきた諸侯にとって、税を取り上げられることは兵を失うことと同じだった。裁判権を失えば、領民に対する支配も揺らぐ。
王都へ従えば、いつか自分たちは領主ではなく、王都から命令を受けるだけの役人になる。
そう恐れる者たちを集めているのが、シュヴァルツ伯だった。
伯は諸侯の権利を守ると訴えている。
だが本当に守りたいのが諸侯の権利だけなら、あれほど多くの兵と武器を集める必要はない。
王兄が王都へ力を集めようとしているように、シュヴァルツ伯も自分の下へ諸侯を集めようとしている。
どちらが勝っても、そのまま争いが終わるとは限らなかった。
そしてレオンハルトの周囲には、王兄のやり方にも、シュヴァルツ伯の野心にも従いたくない者たちが集まり始めている。
国王を頂点とする一つの国の中に、三つの力が生まれつつあった。
今はまだ、境界がはっきり分かれているわけではない。
王兄に近い諸侯の中にも、その政策へ不満を抱く者がいる。シュヴァルツ伯側にも、領地の位置や血縁を理由に仕方なく従っている者がいる。
レオンハルトを支持していても、王都軍と戦う覚悟まではない者も多い。
誰が味方で、誰が敵なのか。
旗だけでは見分けられない戦いが始まろうとしていた。
翌朝、レオンハルトたちはエルツェンを出発した。
騎兵二十四人、槍兵二十人。
合わせて四十四人だった。
アレクは馬上から北側の城壁を振り返った。
崩れた場所には木組みの足場が作られ、兵と町の職人が石材を運んでいる。完全に修復するには長い時間が掛かるだろうが、応急の防御だけなら数日で形になる。
「北から運ばせている食料は、明後日には着く」
隣を進むマティアスが言った。
「予定より早いですね」
「北へ逃がしていた荷車を、そのまま戻している。商人たちには、エルツェンまで届ければ代金を上乗せすると伝えた」
「南西の河港は使わないのですか」
「今はまだ使わない」
マティアスは街道の先へ視線を向けた。
「シュヴァルツ伯の兵が完全に退いたか確認できていない。船着き場で荷を降ろしている時に襲われれば、逃げ場がない」
「斥候が安全を確認してからですか」
「そうだ。川は一度に多くの荷を運べる。だが使える道が一つしかなければ、そこを塞がれた時にすべてが止まる」
戦が終わった後も、兵は食べる。
負傷者には清潔な布と薬が必要であり、崩れた城壁を直すには木材や鉄の道具も要る。
勝ったという知らせだけでは、何一つ運ばれてこない。
「今度の会談が決裂した場合、王都軍はエルツェンへ攻めてくるでしょうか」
「すぐには来ないだろう」
「すぐには、ですか」
「ライゼン将軍にその意思がなくても、王兄が命じる可能性はある。王都から新しい将を送ってくることもできる」
マティアスは声を落とした。
「だから、今日の話し合いで決めなければならないのは、仲良くすることではない」
「互いに、どこまでなら剣を抜かずに済むかですね」
「その境をはっきりさせる。曖昧なまま同じ敵と戦えば、勝った後に争うことになる」
アレクは頷いた。
戦う前に、勝った後のことを決める。
簡単なようで難しい。
共通の敵がいる間は協力できても、その敵がいなくなれば、互いの利害が再び表へ出てくる。
礼拝堂の尖塔が見えてきた。
周囲には刈り取りを終えた畑が広がり、その向こうに小さな村がある。
礼拝堂の前には、すでに王都軍の兵が並んでいた。
数は五十人。
「本当に五十人連れてきましたね」
アレクが言うと、レオンハルトは鼻で笑った。
「ライゼンは真面目だからな」
「殿下が四十四人にした意味は伝わるでしょうか」
「伝わらなくても俺は困らない」
やはり意味はなかったのかもしれない。
双方の兵が礼拝堂から距離を置いて止まる。
王都軍の列から一人の男が進み出た。
年齢は四十代半ばほど。鎧に華美な飾りはなく、外套にも王都軍を示す紋章があるだけだった。
「オットー・フォン・ライゼンです」
「レオンハルト・フォン・グランヴァルトだ」
名乗りを終えた二人は、握手を交わさなかった。
互いに一礼し、決められた人数だけを連れて礼拝堂へ入る。
礼拝堂には長椅子が左右へ並び、奥の祭壇へ朝の光が差していた。
中央の通路を挟んで、レオンハルト側と王都軍側が向かい合う。
ライゼン将軍の隣には、昨日使者として来たレーゲンが立っている。
「会談を受けていただき、感謝します」
ライゼン将軍が先に口を開いた。
「礼を聞くために来たわけではない。何を求めている」
「シュヴァルツ伯と、その下へ集まった諸侯を止めるための協力です」
「俺に王兄へ従えと言うのか」
「申し上げません」
ライゼン将軍は迷わず答えた。
「王都軍へ兵を加えろとも、指揮権を渡せとも申し上げません。互いに別の軍として動きながら、シュヴァルツ伯と戦うための時期、進路、合図を合わせたいと考えております」
「王兄は認めないだろう」
「まだ王兄殿下の了承は得ておりません」
礼拝堂の空気が張り詰めた。
ユリウスの右手が、わずかに腰の剣へ近づく。
王都軍側の者たちにも緊張が走ったが、ライゼン将軍だけは動かなかった。
「王兄の許しを得ず、王都軍を動かすつもりか」
「王都軍は王家を守るための軍です」
「それは答えになっていない」
「では、率直に申し上げます」
ライゼン将軍はレオンハルトを正面から見た。
「王兄殿下の命令すべてが、王家を守ることにつながるとは限りません」
レーゲンが息を止める。
王都軍の将が口にするには、あまりに重い言葉だった。
「王兄殿下は、シュヴァルツ伯を討つ前に、殿下の兵力を削ぐことを望んでおられる。ですが今、王都軍と殿下の軍が争えば、シュヴァルツ伯を利するだけです」
「それを王兄本人に言ったのか」
「申し上げました」
「返事は」
「まず殿下を王都へ戻し、兵を解くべきだと」
レオンハルトの目から笑みが消えた。
「俺が従うと思うか」
「思いません」
「ならば、王都軍を向けるしかない」
「それを避けるために参りました」
ライゼン将軍は一歩も退かなかった。
「私は殿下へ王兄の臣下になっていただきたいのではありません。王家の一員として、王国を割る戦いを避けていただきたい」
「王国を割ろうとしているのはシュヴァルツ伯だ」
「王兄殿下と殿下が争えば、伯が敗れた後も王国は割れたままになります」
「だから俺に退けと?」
「いいえ」
ライゼン将軍は首を横へ振った。
「どちらにも退いていただきたいのです」
「欲張りだな」
「承知しております」
「王兄は退かない」
「殿下も退かれないでしょう」
「分かっているなら、何を話しに来た」
「退けないものと、今は争わずに済むものを分けるためです」
その言葉に、レオンハルトがわずかに目を細めた。
マティアスが初めて口を開く。
「ライゼン将軍は、シュヴァルツ伯との戦いが終わるまで、王都軍とレオンハルト殿下の軍をぶつけたくない。その後のことは、別に話し合うということですか」
「その通りです」
「戦いが終わった直後、王都軍がこちらを包囲しない保証はありますか」
「ありません」
あまりに率直な答えだった。
アレクだけでなく、王都軍側の者までライゼン将軍を見た。
「保証できないことを、できるとは申し上げられません。私が王都軍を指揮している限り、戦いの直後に殿下を攻めるつもりはない。しかし私が解任されれば、新たな将が王兄殿下の命令を受ける可能性があります」
「自分の立場まで危うくする話を、なぜ俺にする」
レオンハルトの問いに、ライゼン将軍は少しだけ視線を落とした。
「王都へ戻る途中で、焼かれた村を見ました」
低い声が礼拝堂へ響いた。
「どちらの兵が焼いたのかは分かりません。王都軍へ食料を渡したためにシュヴァルツ伯側が焼いたのか、伯へ協力したために王都側の者が焼いたのか、それすら分からない。村人たちは、どちらでもよいと言いました」
ライゼン将軍が顔を上げる。
「王家の者同士が争えば、同じ村がさらに増えます。私が忠誠を誓ったのは、それを見るためではありません」
レオンハルトは何も言わなかった。
祭壇近くの窓から入り込んだ風が、古い木の扉を小さく揺らした。
「国王陛下は、この会談をご存じなのですか」
アレクが尋ねた。
ライゼン将軍の視線がアレクへ向く。
「存じておられません」
「では、王兄殿下だけでなく、国王陛下の許可も得ていないのですね」
「そうです」
「この場で決めたことを、誰が保証するのですか」
「私が保証します」
「将軍が解任されれば、その保証もなくなります」
「その通りです」
アレクは黙り込んだ。
相手は嘘をついていない。
だが誠実であることと、約束を守れることは別だった。
「だから、書状だけでなく、動き方を決めたいのですね」
「どういう意味だ」
レオンハルトがアレクを見る。
「互いの善意に任せるのではなく、王都軍とこちらの軍が簡単には争えない配置と手順を先に定めます。兵を混ぜず、進む道を分け、同じ敵を別の方向から攻める。連絡は使者と合図に限る。そうすれば、一方が急に裏切ろうとしても、もう一方が気づけます」
ライゼン将軍が頷いた。
「私も同じように考えております」
「気が合うようだな」
レオンハルトが面白そうに二人を見比べた。
アレクは慌てて首を横へ振った。
「信用するという意味ではありません」
「私も、殿下の軍を無条件に信用しているわけではありません」
ライゼン将軍も同じことを言った。
レオンハルトが声を上げて笑う。
「それでいい。互いに疑っている者同士のほうが、決め事は細かくなる」
マティアスが机代わりに使っている長椅子へ紙を広げた。
「では、条件を決めましょう」
話し合いは昼を過ぎても続いた。
最初に決まったのは、二つの軍を一つにしないことだった。
王都軍の指揮はライゼン将軍が執り、レオンハルトの軍はレオンハルトが動かす。
互いの将が、もう一方の兵へ直接命令することはない。
次に、進軍路と合図を定めた。
王都軍は東側の街道から進み、レオンハルト軍は北西からシュヴァルツ伯側の領地へ圧力を掛ける。
同時に攻撃する必要が生じた場合は、前日までに使者を送り、当日は角笛と旗で確認する。
ただし、合図が届かなければ無理に動かない。
地形や天候によって見えない場合もあるからだ。
三つ目は、戦いが終わった後の扱いだった。
「俺の軍を解散させないこと。それが条件だ」
レオンハルトが言った。
「恒久的に認めると、私の一存では決められません」
「ならば話は終わりだ」
「シュヴァルツ伯との戦いが終わった直後に、武装解除を求めないことなら約束できます」
「直後とは、何日だ」
「日数だけでは決められません。伯の残党が残る可能性があります」
「それでは、王都側の都合で残党がいなくなったと言える」
話は何度も止まった。
言葉を曖昧にすれば、後から都合よく解釈できる。
だが細かく決めすぎれば、予想外の事態へ対応できない。
最終的には、シュヴァルツ伯と主だった協力者の軍が解散し、主要な街道と城が王家の管理下へ戻ったと双方が確認するまで、レオンハルト軍へ武装解除を求めないことになった。
一方だけが終戦を宣言しても、条件を満たしたことにはならない。
その後の兵力や領地の扱いは、国王の権威を尊重した上で、改めて話し合う。
会談の場所と双方の安全も、事前に書面で定める。
「王兄と俺だけで決めろ、とは言わないのだな」
「王国の頂点におられるのは国王陛下です」
ライゼン将軍が答えた。
「王兄殿下にも、レオンハルト殿下にも、陛下を差し置いて王国の行く末を決める権限はありません」
「その言葉を王兄の前でも言えるか」
「すでに似たことは申し上げております」
「だからここへ追い出されたのではないか」
「否定はいたしません」
レオンハルトはしばらくライゼン将軍を見た後、差し出された書面へ署名した。
正式な同盟ではない。
レオンハルトが王兄へ従うと誓ったわけでも、王都軍がレオンハルトの指揮下へ入ったわけでもない。
共通の敵と戦う間、互いに剣を向けないための取り決めだった。
それでも、何も決めずに別れるよりはよい。
ライゼン将軍も署名し、同じ内容の書面を二通作る。
それぞれが一通ずつ持ち、レーゲンとユリウスが立会人として名を記した。
礼拝堂を出る頃には、日は西へ傾き始めていた。
「殿下」
ライゼン将軍がレオンハルトを呼び止める。
「まだ何かあるのか」
「王兄殿下は、この取り決めを喜ばれないでしょう」
「知っている」
「私が指揮を外された場合は、必ず使者を送ります。その時は、王都軍の動きを信用しないでください」
「今も信用していない」
「それで構いません」
ライゼン将軍は深く頭を下げた。
レオンハルトは応じず、馬へ向かって歩き始める。
だが数歩進んだところで足を止めた。
「ライゼン」
「はい」
「お前が王都軍を率いている間は、俺から先に剣を向けることはない」
ライゼン将軍が顔を上げる。
「その言葉だけで十分です」
二人が握手を交わすことはなかった。
それでも、朝よりわずかに遠ざかった剣の音を、アレクは感じていた。
◇ ◇ ◇
エルツェンへ戻ったアレクを待っていたのは、アルヴェイン大公国から届いた一通の手紙だった。
封蝋には、アルベルトの印が押されている。
自室へ戻ったアレクは、灯りを机の上へ置いて封を切った。
書き出しには、エルツェンを守り切ったことへの短い祝いが記されていた。
だが次の行には、勝った時ほど自分の判断を疑えとある。
敵が弱かったのか。
味方が予想以上に働いたのか。
天候や地形に助けられたのか。
勝利をすべて自分の力だと思えば、次の戦いで同じ条件が揃わなかった時に敗れる。
アルベルトらしい言葉だった。
褒めるだけで終わらず、必ず次に考えるべきことを残す。
手紙には、エルツェンの城壁を修復するため、アルヴェインから木材の一部を送るとも書かれていた。
無償ではない。
代金は後日、クレーマー商会へ請求するという。
アレクは思わず笑った。
助けはするが、貸し借りは曖昧にしない。
マティアスなら請求書を見て文句を言いながらも、木材の質と量を細かく確かめるだろう。
その先を読み、アレクの手が止まった。
『ところで、お前は戦の最中に十六歳になったはずだが、自分の誕生日を覚えていただろうか』
覚えていなかった。
アレクは手紙の日付を見てから、自分の誕生日を数え直した。
城壁の崩れた場所を確認し、敵の砲撃を受け、土と瓦礫を運ばせていた頃だ。
その日の食事さえ、はっきりと思い出せない。
十五歳でこの世界へ来てから一年が過ぎていた。
長かったようにも、短かったようにも感じる。
ラーデン村で目を覚ました時は、この国の名前も、自分がどこにいるのかも知らなかった。
マルセルに保護され、アルベルトの小姓となり、戦場を知った。
今はマティアスに仕え、レオンハルトの軍と行動している。
自分の周囲にあるものは、一年で大きく変わっていた。
手紙の末尾には、もう一つ忘れていたことが記されている。
『お前が自分の誕生日を忘れていても驚かないが、エリーゼの誕生日まで忘れれば、私は助けられない。もうすぐその日だ。あの子は、お前が無事でいるのか、何を考えているのか知りたがっている』
アレクは椅子から立ち上がりかけ、すぐに座り直した。
エリーゼの誕生日までには、まだ少し日がある。
今から手紙を書いて届ければ間に合うはずだった。
戦が始まってから、何度か書こうと思った。
だが、敵に包囲されるかもしれない町から送る手紙に、何を書けばよいのか分からなかった。
心配させたくない。
だからといって、何も起きていないように装うこともできない。
迷っている間に、日だけが過ぎていた。
アレクは新しい紙を机へ置いた。
羽根筆へインクを含ませる。
最初に、少し早い誕生日の祝いを書いた。
次に、自分も十六歳になっていたことをアルベルトの手紙で知ったと書く。戦の最中で、完全に忘れていたことも隠さなかった。
エルツェンで戦いがあったこと。
城壁が崩れたこと。
肩に傷を負ったが、すでに日常生活には支障がないこと。
何より、生きていること。
戦いの細かな様子は、手紙には書かなかった。
文字だけで伝えれば、必要以上に恐ろしい光景を想像させるかもしれない。
その代わり、次に会えた時には、自分の口から話すと記した。
そこまで書いたところで、筆が止まる。
以前、エリーゼから届いた手紙には、アルベルトにだけ手紙を送り、自分には何も書かなかったことへの不満が記されていた。
アレクの無事や暮らしを知りたい。
それと同じように、アレクは自分のことを知りたくないのか。
あの言葉を思い出す。
アレクは新しい一文を書き加えた。
『エリーゼ様が今、どのように過ごしているのかも教えてください。お変わりがないという一言だけでなく、最近あったことや、楽しかったことも知りたいです』
書いてから、少し踏み込みすぎただろうかと迷った。
だが消さなかった。
最後に、誕生日の贈り物を用意できなかったことを詫び、次に会う時までに必ず考えておくと約束する。
書き終えた手紙を読み返す。
戦いについて書いた部分より、最後の数行を読む時のほうが落ち着かなかった。
それでも書き直さず、インクが乾くのを待って封をした。
翌朝、アルヴェインへ向かう使者へ手紙を預ける。
使者の鞄へ収められた封筒が見えなくなってからも、アレクはしばらくその場に立っていた。
「何か大事な報告ですか」
後ろからマティアスの声がした。
アレクは振り返る。
「個人的な手紙です」
「アルベルト様にか」
「違います」
「では、エリーゼ様か」
アレクは返事をしなかった。
マティアスの口元が上がる。
「朝から随分と丁寧に封を確認していたからな」
「見ていたのですか」
「廊下の真ん中で何度も封筒を裏返していれば、見たくなくても目に入る」
「中身は見ていませんよね」
「俺が人の手紙を勝手に読むような男に見えるか」
「読みはしなくても、誰へ送るのかは聞く人に見えます」
「当たっているではないか」
アレクは答えず、城壁の修復報告を抱えて先へ歩いた。
背後でマティアスが笑っている。
戦が終わった後も、考えることは減らない。
だが戦場にいる間には忘れていたものが、少しずつ戻り始めていた。
◇ ◇ ◇
ライゼン将軍から正式な返答が届いたのは、その日の夕方だった。
王都側は、礼拝堂で定めた条件を受け入れた。
指揮系統は分ける。
兵を混ぜない。
進路と時期、合図だけを合わせる。
シュヴァルツ伯との戦いが終わった直後に、レオンハルト軍へ武装解除を求めない。
その後のことは、国王の権威を尊重し、双方の安全を定めた上で改めて話し合う。
王兄がすべてを了承したとは書かれていない。
それでも、王都軍が直ちに敵へ回る危険は小さくなった。
その報せと前後して、各地の諸侯が動き始めた。
王都には、およそ六千の兵が集まりつつある。
シュヴァルツ伯の下には、すでに五千ほどがいる。
レオンハルトが今すぐ動かせる兵は約三千。
だが、どの陣営にも属していない諸侯はまだ多い。
彼らが兵を出せば、一方の軍勢が一万五千を超える可能性もあった。
エルツェンを守っただけでは、戦いは終わらない。
むしろ、この勝利によってレオンハルトの名が広まり、態度を決めかねていた者たちが選択を迫られている。
軍議の席で地図を囲みながら、レオンハルトが北部を指した。
「俺は北の諸侯と会う」
続いて西側へ指を移す。
「マティアス、お前は西だ」
「商人を使えということですか」
「シュヴァルツ伯の下へ集まる兵は、領地から持ち出した食料だけでは動かない。武器、飼葉、荷車、替え馬も要る。それを売る者がいる」
「売らないよう説得しろと?」
「売る相手を選ばせろ」
マティアスは地図を見たまま考え込んだ。
「西の商人の中には、長くシュヴァルツ伯と取引している者がいます。単に取引をやめろと言っても従いません」
「ならば、従う理由を作れ」
「簡単に言ってくださいますね」
「難しいことを任せるために、お前を呼んだ」
マティアスが苦笑する。
その視線がアレクへ向いた。
「アレクも連れていきます」
「俺もですか」
「戦場で兵糧がどう使われるかを知っている者が必要だ。それに、エルツェンで何が起きたか、お前の口から話したほうが信じる商人もいる」
「誰に会うのですか」
「シュヴァルツ伯と十年以上取引している商人だ」
マティアスは地図上にある西の町を指した。
「伯の軍へ食料だけでなく、鉄や馬具も売っている。表向きは、どの陣営にも属していない」
「実際は違うのですか」
「商人にとって、旗より支払いの確かな相手が味方だ」
レオンハルトが鼻で笑う。
「お前と同じだな」
「私は支払いだけでは決めません」
「高ければ考えるだろう」
「金額によります」
二人の間に緊張はなかった。
だが、これから向かう先では同じように話せるとは限らない。
シュヴァルツ伯と長く取引する商人に、伯から離れるよう求める。
断られるだけならよい。
交渉へ来たことをシュヴァルツ伯へ知らせられれば、帰り道で兵に襲われる可能性もある。
「兵は何人連れていきますか」
アレクが尋ねた。
「十人だ」
「少なくありませんか」
「兵を五十人連れて商談へ行けば、それは脅迫だ」
「十人でも、受け取る側は脅迫だと思うかもしれません」
「だからお前を連れていく」
マティアスが当然のように言った。
「なぜ私がいれば脅迫ではなくなるのですか」
「十六歳になったばかりの少年を連れた商人が、町を攻めに来たようには見えない」
「その少年が、つい先日まで城壁の上で戦っていたことは知られています」
「ならば、相手は俺たちを軽く見ない。ちょうどいい」
アレクは反論を諦めた。
剣を抜かずに敵の兵を減らす。
食料が届かなければ、兵は集められない。
飼葉がなければ、馬は走れない。
鉄がなければ、折れた武器を直せない。
荷車がなければ、集めた物資も戦場まで運べない。
城壁の上で何人を倒すかだけが戦ではなかった。
商人が誰へ荷を売るか。
荷車がどの道を通るか。
その一つ一つが、次の戦場に並ぶ兵の数を変える。
「出発は明日の朝だ」
マティアスが地図を畳む。
「準備しておけ」
「承知しました」
アレクは返事をしながら、腰の剣へ触れた。
使わずに済むなら、そのほうがいい。
だが次に始まる交渉も、剣を抜かないだけで戦いには違いなかった。
第十五話を読んでいただき、ありがとうございました。
王都軍との限定的な協力関係が成立し、アレクも十六歳を迎えました。エリーゼとの文通を再開した一方、各地の諸侯や商人は次の戦いを見据えて動き始めます。戦場の外で行われる交渉が、やがて集まる兵の数と戦の行方を左右していきます。
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