第十三話 エルツェンの戦い(下)
南西角塔が崩れ、シュヴァルツ伯軍の総攻撃が始まりました。限界へ近づくエルツェン守備隊に対し、到着したレオンハルト軍は城へ入らず、城外から戦況を動かします。
砲声が重なり、南西角塔の石組みが崩れ落ちた。
巻き上がった土煙が南西壁を覆い、遅れて大量の石材と折れた木材が城内へ降り注ぐ。西壁に立つアレクの足元まで、崩落の震動が伝わってきた。
「南西角塔が崩れたぞ!」
「敵が来る!」
土煙の向こうから、シュヴァルツ伯軍の角笛が響いた。
南西壁へ向かっていた敵歩兵が一斉に走り始める。南門では破城槌が再び動き、西壁の斜面でも約六百人の敵兵が梯子を担いで前進していた。
援軍の黒い旗は見えている。
それでも、レオンハルト軍が到着するまでには、まだ時間が必要だった。
「アレク殿、南西へ行きますか」
隣に立つフェリクスが尋ねた。
アレクも崩れた角塔を見ていた。
カールと工兵長があそこにいる。砲撃が続く間に運ばせた土や瓦礫の袋も、南西壁の内側へ積まれているはずだった。
今すぐ駆けつけたい。
しかし、西壁の外では敵の弓兵が足を止め、矢をつがえていた。
「行けません」
アレクは南西から目を離した。
「こちらを守ります。南西はカール殿たちへ任せます」
「はい」
「正規兵は前へ! 民兵は壁際から離れてください! 槍を持ち上げるのは、敵が梯子を上がってからです!」
西壁に残る兵と民兵が動き始める。
次の瞬間、敵弓兵が一斉に矢を放った。
「盾!」
矢が空を埋め、石壁や盾へ降り注いだ。
盾に隠れ損ねた民兵が頭を抱えてしゃがみ込む。そのすぐ脇へ矢が当たり、石の欠片が散った。
「立たなくていい! 矢が止まるまで伏せていてください!」
敵の狙いは矢だけで守備兵を倒すことではない。
城壁上の兵に頭を上げさせず、その間に梯子を近づけるつもりなのだ。
「梯子が来るぞ!」
城兵の声と同時に、一本目の梯子が西壁へ掛かった。
少し離れた場所へ二本目、三本目が続く。敵兵たちは大型盾を頭上へ掲げ、城壁を上り始めた。
「正規兵は梯子の正面へ! 民兵は三人一組で、その後ろへ!」
アレクも中央の梯子へ向かう。
最初の敵兵が城壁へ手を掛けた。
城兵の槍が伸びたが、大型盾に弾かれる。敵兵は盾を押し上げながら、強引に身体を城壁上へ乗せようとした。
「今です!」
正規兵の肩越しに、民兵三人が槍を突き出した。
一本は盾に当たり、もう一本は鎧の表面を滑った。残る一本が敵兵の腕へ刺さる。
「ぐっ!」
盾が傾いた。
正面に立つ城兵が一歩踏み込み、盾ごと敵兵を押し返した。足場を失った敵兵が梯子から落ち、下にいた兵を巻き込む。
「次が上がってきます! 槍を戻して!」
三人の民兵が慌てて槍を引く。
別の梯子では、既に敵兵の頭が城壁の上へ出ていた。
「右だ!」
「こっちは俺たちでやる!」
声を上げたのは、先ほどまで怯えていた民兵たちだった。
腕の太い年配の男が周囲の者を二組に分け、梯子の左右へ立たせる。
「一人で前へ出るな! 前の兵が敵を受けたら、横から槍を出せ!」
アレクが教えたことを、男が別の民兵へ伝えていた。
戦いへの恐怖が消えたわけではない。槍を握る手は震え、敵が顔を見せるたびに後ずさる者もいる。
それでも、彼らは逃げなかった。
「アレク!」
年配の男が叫んだ。
「中央を見ていろ! 右は俺たちが守る!」
アレクは一瞬だけ迷った。
今ここで自分が右へ走れば、目の前の危険には対処できる。しかし、いつまでも自分の指示がなければ動けない状態では、西壁全体を守れない。
「お願いします! 敵が増えたら知らせてください!」
「任せろ!」
アレクは中央へ視線を戻した。
新たな敵兵が、剣を振り上げながら城壁へ上がってくる。
アレクは正規兵の横へ入り、その剣を受け止めた。
◇ ◇ ◇
崩れた南西角塔の隣では、城壁の石組みに人が通れるほどの裂け目が生じていた。
「入れ! 城内へ入れ!」
シュヴァルツ伯軍の兵が、崩れた石材を乗り越えて殺到する。
「槍兵、前へ! 一度に通すな!」
カールは裂け目の正面に立ち、自ら剣を振るっていた。
大型盾を構えた敵兵が崩れた壁を越える。
カールが剣で盾を横へ払い、その隙間へ後ろの城兵が槍を突き出した。敵兵が倒れても、その背後からすぐに次の兵が現れる。
「袋を積め! 裂け目の右を狭めろ!」
工兵長の怒声が飛んだ。
工兵たちは土や細かな瓦礫を詰めた袋を運び、城壁の内側へ積み上げていた。
砲弾を防げるほど強いものではない。敵兵に剣で裂かれれば、中身がこぼれ落ちる。
それでも袋を重ねれば、敵が通れる場所を狭くできた。
「城兵、押し返せ!」
「おおっ!」
槍兵が前へ出る。
敵の先頭が後退した僅かな時間に、工兵二人が袋を抱えて裂け目へ走った。
「そこではない! 右へ積め!」
工兵長が位置を指し示す。
「左は石が残っている! 右を塞げば、一度に入れるのは二人までだ!」
「分かった!」
工兵たちが袋を積み、すぐに身を引く。
直後、敵兵が再び押し寄せた。
裂け目は完全には塞がっていない。
だが、先ほどまで四、五人が横に並べた場所を、一度に二人しか通れなくなっていた。
「先頭の二人だけを狙え! 後ろは見るな!」
カールの命令で、城兵の槍が集中する。
前へ出られない敵兵が裂け目の外側へ溜まり始めた。その頭上を越えて、城壁上から城兵の矢が降る。
「副将!」
伝令が瓦礫を避けながら駆け込んできた。
「南門の外板がさらに破られました! 破城槌が閂へ届き始めています!」
「閂は持っているのか!」
「今は持っています! ですが、補強用の梁が残り一本です!」
南門へ兵を送らなければ、扉を破られる。
しかし、目の前の裂け目から兵を引けば、敵が城内へ流れ込む。
「予備兵は」
「三十人です!」
「二十人を南門へ送れ!」
「残り十人になります!」
「分かっている!」
「西壁にも敵兵が――」
「西はアレクへ任せた!」
カールが一喝した。
「こちらは、この裂け目を守る! 急げ!」
「はっ!」
伝令が走り去る。
工兵長が新たな袋を積みながら、城壁の亀裂を見上げた。
「もう一度まともに砲弾を受ければ、さらに崩れるぞ!」
「敵の砲を止める方法はあるか!」
「城内からでは無理だ!」
「ならば、落ちるまではここで守る!」
「簡単に言うな!」
「ほかに方法があるなら言え!」
工兵長は答えず、次の袋を担いだ。
「ないから、こうしている!」
再び砲声が響く。
「伏せろ!」
城兵と工兵が身を低くした。
砲弾は裂け目ではなく、少し東側の城壁へ当たった。砕けた石が飛び散り、城兵一人が倒れる。
「負傷者を下げろ! 前列、交代!」
朝から戦い続けていた兵が後ろへ下がり、水を飲んでいた兵が槍を持って前へ出る。
短い休憩しか与えられない。
それでも、腕を休ませた兵の槍には、まだ敵を押し返す力が残っていた。
「援軍は見えている!」
カールが剣を掲げる。
「黒い旗がここへ届くまで、この穴を通すな!」
城兵たちが声を上げた。
その声へぶつかるように、裂け目の外から新たな敵兵が迫った。
◇ ◇ ◇
エルツェンの北西へ到着したレオンハルト軍の先頭に、一騎の伝令が戻ってきた。
「レオンハルト殿下!」
「状況を言え」
「南西角塔が崩壊! 隣接する城壁にも裂け目が生じ、敵歩兵が殺到しております!」
「城内へ入られたか」
「守備隊が裂け目を狭め、食い止めています!」
「南門は」
「破城槌による攻撃が継続中です! 西壁にも約六百人が取り付いております!」
レオンハルトは馬上からエルツェンを見渡した。
南西角塔から土煙が上がり、南門の前には破城槌を覆う屋根が見える。西壁の斜面には、梯子を掛けた敵兵が群がっていた。
ユリウスが城の北東へ目を向ける。
「北東門なら、まだ使えます。一部の兵を先行させ、城内へ入れましょう」
「駄目だ」
レオンハルトは即座に退けた。
「なぜでしょう」
「門を通れる人数は限られる。隊列を崩して城へ入り、狭い街路を南西まで移動している間に、シュヴァルツ伯は攻城部隊を下げる」
「では、城外から攻撃を」
「ああ」
レオンハルトは地図を開き、西壁の外側を指した。
「まず、ここだ」
「西壁を攻めている六百人ですか」
「城壁へ張り付いている。こちらへ向き直るにも、退くにも時間が掛かる」
「先鋒で退路を断ちますか」
「完全には塞ぐな。逃げ道を失えば、敵は死ぬまで戦う」
レオンハルトの指が、西壁から南西へ動く。
「側面へ回り、城壁から引き剝がす。歩兵はその後ろから圧力を掛けろ」
「敵本陣へは向かわないのですか」
「向かわん」
「シュヴァルツ伯を逃がすことになります」
「構わない」
ユリウスは南にある敵本陣へ視線を向けた。
「今回の目的は、シュヴァルツ伯を討つことではないと」
「エルツェンを残すことだ」
短く答え、レオンハルトは剣を抜いた。
「先鋒騎兵三百! 西壁を攻める敵部隊の側面へ回れ!」
「はっ!」
「歩兵は騎兵に続け! 敵が退いても追いすぎるな!」
伝令がそれぞれの部隊へ走る。
低く長い角笛が響いた。
風を受けた黒い旗が一斉に西へ傾き、レオンハルト軍が進路を変える。
先頭の騎兵三百が本隊から離れ、土煙を巻き上げながら西壁へ向かった。
◇ ◇ ◇
「北西の騎兵が動いた!」
西壁の城兵が叫んだ。
敵兵と剣を合わせていたアレクは、相手を正規兵と二人で押し返してから城外を見た。
レオンハルト軍の先頭から分かれた騎兵隊が、城門ではなく西壁の外側へ回り込んでいる。
「城へ入るのではないのですね」
フェリクスが黒い旗の動きを追う。
「西壁の敵を狙っています」
騎兵の進路を見れば、狙いは明らかだった。
城壁へ梯子を掛けている敵兵の背後へ向かっている。
シュヴァルツ伯軍も気づいた。
「敵騎兵! 北西から来るぞ!」
「梯子を捨てろ! 隊列を作れ!」
城壁へ上がろうとしていた兵たちが、一斉に後ろを振り返った。
大型盾を持つ兵と槍兵が入れ替わろうとするが、狭い斜面には梯子が残り、前進していた兵と後退する兵がぶつかっている。
「今です! 上がっている敵を押し返してください!」
西壁の守備兵が前へ出た。
城壁へ半身を乗り上げていた敵兵が、槍と盾に押されて落ちる。
「敵が逃げるぞ!」
「城門を開けて追え!」
血の付いた槍を持つ城兵が声を上げた。
「城外へは出ません!」
アレクが止める。
「今なら背後を討てる!」
「斜面の下には、まだ敵の弓兵と槍兵がいます! こちらの民兵を城壁の外へ出せば、隊列を保てません!」
「だが、このまま逃がすのか!」
「外はレオンハルト殿下の軍へ任せます! 俺たちは西壁を守ってください!」
敵が罠を仕掛けている可能性もある。
それ以上に、民兵は城壁と正規兵の助けがあったから戦えていた。平地へ出て、隊列を組んだ敵兵と戦える状態ではない。
「アレクの言うとおりだ!」
年配の男が民兵たちへ叫んだ。
「俺たちが外へ出ても、騎兵の邪魔になるだけだ! 梯子を落として壁を守れ!」
「分かった!」
「梯子を押せ!」
城兵と民兵が長い棒を使い、敵の残した梯子を倒し始めた。
アレクは壁外へ向けて弓を構えている城兵を見る。
「弓兵は後退する敵を狙ってください! 味方の騎兵へ近い場所には射ないで!」
「放て!」
城壁から矢が飛ぶ。
斜面を下る敵兵の間へ矢が落ち、何人かが倒れた。
その外側では、レオンハルト軍の騎兵が急速に距離を詰めている。
「槍兵、外へ向け!」
シュヴァルツ伯軍の指揮官が叫ぶ。
敵兵が斜面の下で槍を並べようとした。
レオンハルト軍の騎兵は、正面から槍列へ突っ込まない。
馬首を僅かに南へ向け、隊列を作りきれていない場所へ殺到した。
「突撃!」
騎兵の槍が敵兵へ突き込まれ、馬体が盾を弾き飛ばす。
敵兵の列が途中から折れ曲がった。
それでも騎兵は奥まで入り込まず、敵槍兵が集まり始めると一度距離を取る。向きを変え、別の崩れた場所へ圧力を掛けた。
「倒すことだけを狙っていない……」
アレクは黒い旗の動きを見つめた。
騎兵が敵の隊列を乱し、その背後からレオンハルト軍の歩兵が進んでくる。
歩兵たちは走っていなかった。
槍と盾の列を崩さず、一定の速さで斜面へ近づいている。
城壁、騎兵、歩兵。
三方向から圧力を受けた敵部隊は、西壁への攻撃を続けられなくなった。
「後退しろ! 南へ下がれ!」
シュヴァルツ伯軍の兵たちが、梯子や負傷者の一部を残して後退を始める。
「西の敵が下がるぞ!」
歓声が上がった。
アレクも胸の奥に安堵が広がるのを感じた。
だが、南西からは今も剣戟と怒号が聞こえている。
「まだ終わっていません!」
アレクは南西角塔の跡を見た。
「伝令!」
「はい!」
「西壁の敵約六百が後退! レオンハルト殿下の軍と交戦中です! こちらから南西へ兵を回せるか、カール殿へ確認してください!」
「はっ!」
伝令が城壁の階段を駆け下りる。
西壁の敵が下がったからといって、アレクの判断だけで守備兵をすべて動かすわけにはいかない。敵が再び斜面を上がってくる可能性も残っている。
「勝ったのか」
民兵の一人が息を切らしながら尋ねた。
「西壁は守れました」
アレクは答えた。
「ですが、戦はまだ続いています。座れる人は今のうちに休んでください。敵が戻ったら、もう一度立ってもらいます」
民兵たちはその場へ座り込み、水筒を回し始めた。
喜びの声を上げる力さえ残っていない者も多い。
アレクも壁へ手をつき、荒くなった呼吸を整えた。
傷を負った肩が熱を持ち、巻かれた布へ血が滲んでいる。
「包帯を替えます」
フェリクスが近づいた。
「伝令が戻ってからでは駄目ですか」
「戻ってきたら、また走るのでしょう」
アレクは言い返せず、壁際へ座った。
フェリクスが手早く新しい布を巻いている間にも、南西の戦闘音は続いていた。
やがて伝令が息を切らして戻ってくる。
「カール副将からです!」
アレクはすぐに立ち上がった。
「正規兵六十を南西へ! 民兵と正規兵三十は西壁へ残れとのことです! アレク殿も南西へ来るようにと!」
「分かりました!」
アレクは年配の男を振り返った。
先ほどから呼びかけるたび、名前を知らないことが不便になっている。
「すみません。名前を聞いてもいいですか」
「フーゴだ」
「フーゴさん。民兵の皆さんと西壁をお願いできますか」
「任せろ。敵が戻れば鐘を鳴らす」
「正規兵の指揮に従ってください。無理に城外へは出ないように」
「分かっている。お前は南西へ行け」
「お願いします!」
アレクは集まった正規兵六十人を率い、南西へ走った。
◇ ◇ ◇
西壁の敵部隊を後退させたレオンハルト軍は、そのまま南西へ進路を変えた。
「弓兵、構え!」
ユリウスの命令で、弓兵が矢をつがえる。
レオンハルトは城壁付近の混戦を見て、片手を上げた。
「撃つな」
「敵の後方を狙えます」
「風で逸れれば城兵にも当たる。ここでは使わん」
「では、槍兵を前へ」
「ああ。隊列を保ったまま進め」
先頭へ槍兵と盾兵が並ぶ。
「突撃させないのですか」
「ここで急いで、こちらまで崩れてどうする」
シュヴァルツ伯軍の攻城部隊は、南西の裂け目へ殺到している。
レオンハルト軍が勢いだけで突っ込めば、敵味方が入り乱れ、指揮が届かなくなる。
敵を一度に倒す必要はなかった。
城外から整った隊列を近づけるだけで、攻城部隊は背後を意識せざるを得ない。
「殿下、敵後方が動いています」
ユリウスが南を指した。
シュヴァルツ伯軍の後方部隊が、砲と荷車を守りながら少しずつ南へ下がっている。
「撤退の準備でしょうか」
「そうだろうな」
「今なら騎兵を本陣へ回せます」
「回さん」
「シュヴァルツ伯を討つ機会を失います」
「敵は殿軍を用意している。あれへ騎兵を突っ込ませれば、こちらも血を流す」
「それでも、伯を逃がすよりは」
「王都軍はどこにいる」
ユリウスが口を閉じた。
王都側の兵力は約千八百人。
だが、現在の正確な位置はつかめていない。
シュヴァルツ伯だけを見て全軍を南へ進めれば、今度はレオンハルト軍が王都軍へ背を向けることになる。
「追撃は城から一里までだ」
レオンハルトが命じる。
「敵本隊が退き始めても、それ以上は追うな。砲を一門奪うために百人を失う必要はない」
「承知しました」
「まずは城壁から敵を引き剝がす。前進しろ」
角笛が鳴り、黒い旗が南西へ動いた。
◇ ◇ ◇
アレクが南西壁へ着いた時、裂け目の前では城兵と敵兵が押し合っていた。
積み上げられた袋のいくつかは破れ、土と瓦礫が地面へこぼれている。それでも即席の障害物は通路を狭め、一度に城内へ入れる敵兵を二人ほどに抑えていた。
「西壁から六十人、到着しました!」
アレクが叫ぶ。
血の付いた剣を持つカールが振り返った。
「二十人は壁上へ上げろ! 残り四十人は裂け目へ!」
「はい! 二十人は階段へ! 四十人は十人ずつ交代で前へ出ます!」
西壁から来た兵が二手に分かれる。
裂け目を守っていた兵の何人かは、立っていることさえ難しいほど疲れていた。
「前列、下がれ!」
カールの命令で疲労した兵が後ろへ退き、新たに到着した四十人のうち十人が前へ出る。
槍が並び、裂け目から入ろうとしていた敵兵を押し返した。
「残りは休んでいる兵へ水を! 次の交代に備えてください!」
アレクも剣を構え、前列の脇へ入る。
「肩を負傷しているだろう」
カールが敵から目を離さず言った。
「剣は動かせます」
「無理に前へ出るな」
「カール殿こそ、服に血が付いています」
「腕を少し切られただけだ」
「それなら俺と同じです」
「お前は口を動かさず、周りを見ろ」
「はい!」
裂け目の外で、敵の動きが変わった。
先頭の兵はまだ押し込もうとしているが、後ろに並んでいた部隊が少しずつ距離を取り始めている。
遠くから低い角笛が響いた。
「撤退の合図か?」
城兵の一人が顔を上げる。
「目の前を見ろ!」
カールが叫んだ。
「先頭はまだ戦っている! 気を抜くな!」
撤退を始めた軍ほど危険なこともある。
後方の部隊を逃がすため、前線へ残された兵は必死に戦う。
だが、城壁上から外を見ていた兵が声を上げた。
「黒い旗が南西へ来るぞ!」
裂け目の外で敵兵が振り返る。
西からレオンハルト軍の槍兵が、隊列を保って近づいていた。
「レオンハルト殿下の軍だ!」
守備兵の間から歓声が上がる。
城外からレオンハルト軍が迫り、城内では交代したばかりの兵が槍を並べている。
挟まれることを恐れた敵の後列が下がった。
先頭の兵も、それ以上は裂け目へ入ろうとしない。
「退け!」
敵側の指揮官が叫んだ。
「負傷者を運べ! 隊列を崩すな!」
シュヴァルツ伯軍は背を向けて逃げるのではなく、盾と槍をこちらへ向けたまま少しずつ後退する。
城兵の一人が裂け目を越えようとした。
「追うな!」
カールが止める。
「ここを守れ! 外の敵は殿下へ任せろ!」
アレクも剣を下ろさず、後退する敵を見つめた。
黒い旗が近づくにつれ、敵との距離が広がっていく。
やがて、裂け目の前から敵兵がいなくなった。
残されたのは壊れた盾、折れた槍、そして敵味方の倒れた兵だった。
「……持った」
工兵長が、積み上げた袋へ手をついた。
カールがゆっくり息を吐く。
「ああ。持たせた」
城壁上で歓声が広がった。
抱き合う者もいれば、その場へ座り込む者もいる。
アレクも緊張が解けそうになった。
「終わったのでしょうか」
カールは首を振った。
「戦闘は終わった」
崩れた裂け目と、地面に横たわる兵たちを見る。
「これから死者を数える」
その言葉で、アレクの胸に浮かびかけた喜びが止まった。
城は残った。
だが、そのために失われたものまで戻ったわけではなかった。
◇ ◇ ◇
シュヴァルツ伯軍の本陣では、濃紫色の旗が風に揺れていた。
「西翼は後退しました」
副官の報告を聞き、シュヴァルツ伯はエルツェンを見た。
「南西の攻城部隊も下げろ。前列を一度に退かせるな。二列目から順に下げる」
「南門の破城槌は」
「捨てろ。砲と火薬を優先する」
「まだ南門の閂は壊せます」
「壊した後、誰が城内へ入る」
副官が黙る。
西からレオンハルト軍が迫り、南西壁の裂け目も守備兵に塞がれた。仮に南門を破っても、城内へ突入する前に側面を攻撃される。
「負傷者は運べる者だけ運ぶ。動かせる砲はすべて先に出せ」
「殿軍は」
「南西に五百、西に三百。こちらが二里離れるまで交互に退かせろ」
「はっ!」
副官が命令を伝えるため走り去る。
そこへ別の騎兵が駆け込んできた。
「伯爵! 北東門へ入った輸送隊について報告があります!」
「言え」
「クレーマー商会の者たちです。指揮していたのは、アレク・ハルトマンという若者だと」
シュヴァルツ伯の目が僅かに細くなった。
「カールの配下ではないのか」
「違うようです。輸送隊と護衛を率い、今朝エルツェンへ入ったとのことです」
シュヴァルツ伯は崩れた南西角塔から西壁へ視線を動かした。
城内で何が行われたのか、外からすべてを知ることはできない。
兵を短時間ずつ休ませたことも、土と瓦礫を詰めた袋で裂け目を狭めたことも、民兵へ役割を絞って与えたことも知らない。
それでも、攻める側だからこそ分かる変化はあった。
崩れるはずの場所で、守備兵が崩れなかった。
疲労が限界へ達する時刻になっても、抵抗が急には弱まらなかった。
西壁へ送った六百人は民兵を破れず、レオンハルト軍に側面を突かれて退いた。
「アレク・ハルトマンか」
「はい」
「名を覚えておけ」
「それほどの者でしょうか」
「まだ分からん」
シュヴァルツ伯は踵を返し、自らの馬へ向かった。
「だから、次に会った時に確かめる」
濃紫色の旗が南へ動き始める。
シュヴァルツ伯軍は敗れた。
しかし、兵のすべてを失ったわけではない。砲の多くも、まだ動かせる状態で残っている。
後方から順に部隊を退かせ、最後に殿軍が城から離れた。
追撃してきたレオンハルト軍も、一里ほど進んだところで足を止める。
シュヴァルツ伯は振り返らなかった。
次に戦うための兵を残したまま、南へ撤退していった。
◇ ◇ ◇
夕方、アレクは南西壁の上から遠ざかる敵軍を見ていた。
レオンハルト軍の追撃部隊が戻り始めている。命令どおり、深追いはしていなかった。
「随分汚れたな」
聞き覚えのある声がした。
アレクが振り返ると、レオンハルトが立っていた。
「レオンハルト殿下」
「久しぶりだな、アレク」
「もう少し早く来ていただきたかったです」
「走ってきた」
「馬で、でしょう」
「馬も走った」
レオンハルトが僅かに笑う。
いつもの調子に、アレクの肩から少し力が抜けた。
「追撃は、あれだけでよかったのですか」
「ああ」
「今なら、もっと敵の砲を奪えたかもしれません」
「代わりに、こちらも多くの兵を失う」
レオンハルトは南へ退く濃紫色の旗を見た。
「シュヴァルツ伯は、殿軍を残している。追えば血を流させるつもりだったのだろう」
「王都軍も、まだ位置が分からないのですね」
「完全にはつかめていない。シュヴァルツ伯を追うことだけを考え、千八百人の王都軍へ背を向けるつもりはない」
「だから、城から一里まで」
「今日の目的は達した。欲を出して勝利を失う必要はない」
アレクは傷ついた南西角塔を見た。
「エルツェンは残りました」
「ああ」
「本当に、残ったんですね」
「ああ。お前たちが残した」
その言葉を聞いた途端、アレクの足から力が抜けそうになった。
「座ってもいいでしょうか」
「なぜ俺に聞く」
「殿下の前なので」
「好きにしろ」
アレクは城壁の内側へ腰を下ろした。
傷を負った肩だけでなく、剣を握っていた指や走り続けた脚まで重い。
レオンハルトは立ったまま、城内へ目を向けた。
「西壁の民兵を動かしたそうだな」
「正規兵が前に立ってくれました。途中からはフーゴさんが民兵をまとめています」
「南西壁の補強には、穀物を移した袋を使ったと聞いた」
「積み方を考えたのは工兵長です。俺は空の袋を用意しただけです」
「守備兵を小分けにして休ませたのは」
「カール殿が南門や裂け目でも使いました」
レオンハルトがアレクを見る。
「何でしょう」
「自分が何もしていないとは言わないのだな」
「俺も働きましたから」
「だが、自分一人の功績だとも言わない」
「一人では城を守れません」
アレクにとっては当然の答えだった。
袋があっても、運ぶ民兵がいなければ役に立たない。狭めた裂け目を守る城兵が必要で、補強の位置を判断したのは工兵長だ。
そして、レオンハルト軍が来なければ、いずれ城兵の体力も尽きていた。
「マティアスがお前を欲しがった理由が、少し分かった」
「もう仕えています」
「知っている」
「アルベルト様から聞いたのですか」
「ああ」
アレクの表情を見て、レオンハルトが続ける。
「自分で送り出したのだから、怒ってはいない」
「分かっています」
「だが、少し寂しそうではあった」
胸の奥が僅かに痛んだ。
戦が終われば、アルベルトへ手紙を書こう。
そう思った時、城壁の下から声が上がった。
「アレク殿!」
フェリクスが北東側を指している。
「クレーマー商会の本隊です!」
北東門へ続く街道に、長い荷車の列が見えた。
先発した十台に続く、本隊七十台だった。
「ようやく来た……」
アレクは立ち上がった。
「本人へ言ってこい」
レオンハルトが言う。
「言います」
「本当に言うのか」
「戦が終わってから到着したのですから、少しくらい言わせてください」
アレクは階段へ向かった。
◇ ◇ ◇
北東門へ着くと、マティアスが馬から下りたところだった。
その後ろでは荷車が一台ずつ門を通り、商会の者が積荷と車輪の状態を確認している。
「マティアス様」
「アレクか」
「遅いです」
「八十台の荷車を、騎兵と同じ速さで走らせろと言うのか」
「それは無理です」
「分かっているなら言うな」
マティアスはアレクの姿を上から下まで見た。
服には土と血が付き、肩にはフェリクスが巻いた布がある。
「怪我は」
「肩だけです」
「医師には見せたのか」
「フェリクスさんに手当てしてもらいました」
「もう一度見せろ」
「はい」
「先発の十台は」
「すべて城内へ入りました。一台も失っていません」
「そうか」
マティアスの表情が僅かに緩んだ。
「よくやった」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
「残りの荷車は七十台で間違いありませんか」
「ああ。橋で車輪を壊した一台も修理した」
後ろから入ってくる荷車を数えれば、確かに列から欠けたものはない。
アレクは安堵の息を吐いた。
「荷を届けて終わりではないぞ」
マティアスがエルツェンの城壁を見上げた。
「分かっています」
「今、何が必要だ」
アレクは城内を見回した。
教会へ運ばれる負傷者がいる。
南西へは工兵と民兵が向かい、壊れた城壁の応急修理を始めている。朝から戦っていた兵たちは、水と食事を受け取るため広場へ集まり始めていた。
「最初に医療物資を教会へ。布、酒、清潔な水を優先してください」
「ああ」
「次に食料です。兵だけでなく、城壁の補修や負傷者の運搬をしている住民にも配ります」
「量は」
「城内の残りを確認してから決めます。最初からすべて出すと、明日以降に足りなくなるかもしれません」
「ほかには」
「木材、縄、工具を工兵長へ渡します。ただし、何をどれだけ使うかは工兵長に任せたいです」
「それでいい」
「それから、民家と倉庫の被害を調べます。砲撃でどれだけ壊れたのか分からないので」
「フェリクス」
マティアスが呼ぶと、少し離れた場所にいたフェリクスが近づいた。
「はい」
「アレクと被害を確認しろ。負傷者、死者、壊れた家、失われた食料を分けて記録する」
「承知しました」
「今からですか」
アレクが思わず尋ねる。
「必要だと言ったのはお前だ」
「戦が終わったばかりなのですが」
「先に医師へ行け。その後で構わん」
休めるとは言われなかった。
しかし、必要な仕事であることも分かっている。
「分かりました」
「アレク」
「はい」
「全部を自分で数えるな。区画ごとに人を分け、報告を集めろ」
アレクは少しだけ目を見開いた。
疲れ切った身体で城内を一軒ずつ歩く姿を想像していたことまで、見抜かれたようだった。
「……そうします」
「お前は領主でも、倉庫番でも、大工でもない。人に任せることを覚えろ」
「まだ領主ではありません」
「今はな」
マティアスはそれ以上説明せず、荷車の責任者へ指示を出し始めた。
アレクは意味を尋ねようとしたが、フェリクスに負傷した肩を押さえられる。
「先に医師です」
「分かっています」
「先ほども同じことを言いました」
「今度は本当に行きます」
アレクは肩を押さえながら教会へ向かった。
◇ ◇ ◇
日が沈み始める頃には、エルツェンの各所で戦後の作業が始まっていた。
クレーマー商会が運んだ医療物資は教会へ届けられ、食料は城兵と作業を続ける住民へ配られている。
南西壁では工兵が松明を立て、裂け目の内側へ新たな木材と袋を積んでいた。今夜中に元の城壁へ戻すことはできない。それでも敵が引き返してきた場合に備え、最低限の守りを作らなければならなかった。
アレクは被害調査を区画ごとの代表者へ任せ、集まった報告をフェリクスと整理した。
死者の数。
治療が必要な負傷者の数。
砲撃や火災で住めなくなった家。
壊れた倉庫と、失われた食料。
数字が増えるたび、勝利という言葉が遠く感じられた。
報告を終えたアレクは、一人で西壁へ上がった。
夕日に照らされた平原には、シュヴァルツ伯軍が残した梯子や壊れた盾が散らばっている。その向こうには、レオンハルト軍の野営地が作られ始めていた。
城内から鐘が鳴る。
警報ではない。
死者を悼むための、低くゆっくりとした鐘だった。
「勝ったのに……」
アレクは小さく呟いた。
城は残った。
レオンハルト軍は間に合い、シュヴァルツ伯軍は退いた。
先発した十台だけでなく、八十台すべての荷車が到着した。
それでも、素直に喜ぶことができない。
「喜んでもいい」
背後からマティアスの声がした。
アレクが振り返ると、マティアスが城壁の階段を上がってくる。
「聞いていたのですか」
「独り言にしては声が大きい」
マティアスはアレクの隣へ立ち、城内を見た。
「城は残った」
「はい」
「お前たちが届けた物資で、助かった者もいる」
「はい」
「なら、それは喜べ」
「ですが、死んだ人もいます」
「それも忘れるな」
アレクはマティアスを見る。
「どちらか一方だけにするな、ということですか」
「ああ。勝ったことを喜び、死んだ者を悼め」
「難しいですね」
「簡単なら、誰も苦労しない」
鐘がもう一度鳴った。
城壁の下では、布を掛けられた死者が教会の近くへ運ばれている。別の場所では、生き残った者たちが温かい食事を受け取っていた。
悲しむ者と安堵する者が、同じ城内にいる。
どちらも戦の後に残った現実だった。
「シュヴァルツ伯は、また来るでしょうか」
「来る」
マティアスは迷わず答えた。
「今回、負けたのにですか」
「兵のすべてを失ったわけではない。砲も持ち帰った。あの男は、一度退いた程度で諦めない」
アレクは南へ続く街道を見た。
既に濃紫色の旗は見えない。
「王都軍も残っています」
「ああ。千八百人が戦へ間に合わなかった理由も確かめなければならん」
「本当に遅れただけなのか。それとも、どちらが勝つか見ていたのか」
「両方を考えておけ」
戦闘は終わっても、疑うべきことは残っている。
エルツェンの城壁を直し、減った食料を補充し、負傷者を治療しなければならない。捕虜と敵軍の遺体をどう扱うかも決める必要がある。
そして、シュヴァルツ伯と王都軍が次にどう動くのかを調べなければならない。
「戦っている間より、仕事が増えていませんか」
アレクが尋ねる。
「戦は、勝ってからのほうが長い」
マティアスは崩れた南西角塔を見た。
「勝った軍は、次の戦までに立て直さなければならない。負けた軍より遅ければ、今度は自分たちが負ける」
「休んでいる暇はないのですね」
「今夜くらいは眠れ」
「明日は?」
「働け」
「やはり、そうなりますか」
アレクは苦笑した。
夕日が地平線へ沈み、エルツェンを包む光が赤から暗い紫へ変わっていく。
城は残った。
アレクも生き残った。
だが、この一戦で何もかもが終わったわけではない。
南へ退いたシュヴァルツ伯。
エルツェンを救ったレオンハルト。
戦場へ姿を現さなかった王都軍。
戦が始まる前から商人、荷車、食料、情報を動かし続けてきたマティアス。
それぞれが次の一手を考え、既に動き始めている。
エルツェンの戦いは終わった。
同時に、乱世の流れを変える新たな争いが、静かに始まろうとしていた。
第十三話を読んでいただき、ありがとうございました。
アレクたちが城内で持ちこたえ、レオンハルト軍が城外から敵の攻城部隊を引き剝がしたことで、エルツェンは陥落を免れました。しかし、シュヴァルツ伯は兵と砲の多くを残したまま撤退し、所在のつかめない王都軍も残されています。
戦闘が終わったエルツェンでは、死傷者の確認、物資の配分、城壁の修復が始まります。次話では、勝利の後に残された問題と、それぞれの勢力の次の動きを描きます。
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