第十話 戦場へ続く道
マティアスの配下として、八十台の荷車を任されたアレク。橋の損傷や悪天候へ対処する中で、戦場へ着く前から始まっている兵站の戦いを経験します。
ベルグハーフェンを出発してから、まだ半刻も経っていなかった。
「……遅いですね」
街道の先まで続く荷車の列を見ながら、アレクは思わず呟いた。
「見れば分かる」
隣を進むマティアスが、前を向いたまま答える。
「昨日までは騎馬で動いていたので、余計に遅く感じます」
「今日は騎兵隊ではない。あれだけの荷を運びながら、騎兵と同じ速さで進めると思うな」
「分かっていますけど」
輸送隊の先頭には護衛の騎兵、その後ろには歩兵が続いている。荷車は二十台前後ごとにまとまり、その間にも護衛兵が配置されていた。
麦、塩、乾燥肉、包帯、薬草、医療用の酒、工具、補修用の木材、予備の車輪。そのほかにも、用途の異なる箱や樽が八十台の荷車へ積まれている。
荷車を引く馬だけではない。騎兵の馬、予備の馬、御者、職人、護衛兵もいる。その後方には、ヴァイス男爵が率いるアルヴェイン兵六百が続いていた。
全体を合わせれば、千人近い人間と数百頭の馬が街道を進んでいる。
「この速度でエルツェンまで何日ですか」
「何も起きなければ三日だ」
「何か起きたら?」
「起きた問題による」
「嫌な答えですね」
「正しい答えだ」
ベルグハーフェン周辺の街道は比較的整っている。だが東へ進むほど丘が増え、その先には道幅の狭い場所もある。雨が降れば、土の街道はたちまち泥へ変わる。
何より、シュヴァルツ伯軍はこちらより先を進んでいる。
「敵は、どれくらい先ですか」
「一日半ほどだろう」
「このままでは、エルツェンへの到着は向こうが先になります」
「その可能性が高い」
アレクは前方へ目を向けた。
輸送隊が進む速さを、見つめるだけで変えることはできない。それでも、敵が先にエルツェンへ着くと分かっていれば焦りは生まれる。
「荷を捨てれば速くなるぞ」
マティアスが言った。
「それでは向かう意味がありません」
「ならば、焦るな。焦ったところで車輪が速く回るわけではない」
「マティアス様は、アルベルト様に似てきましたね」
「私が?」
「言っていることが、です」
「それは不愉快だな」
「アルベルト様も同じことを言いそうです」
マティアスは小さく笑った後、街道へ続く荷車を見渡した。
「アレク」
「はい」
「今日のお前の仕事を決めた」
「ようやくですか」
「この荷を、可能な限り一台も失わずエルツェンへ届けろ」
アレクは八十台の荷車へ目を向けた。
「一人で、ですか?」
「お前一人で八十台を動かせるのなら、やってみろ」
「無理です」
「ならば人を使え。フェリクスと輸送隊長につき、何が起きるかを見ろ」
「起きてから対応するのではなく?」
「八十台を三日間動かす。何も起きないと思うか」
「思いません」
「ならば、起きてから慌てるな。問題になる前の兆しを見つけろ」
「何を見ればいいですか」
「それを考えるのがお前の仕事だ」
アレクは不満を込めてマティアスを見た。
「全部教えたら、私がやったほうが早い」
「教育するつもりはありますか」
「あるから、お前にやらせている」
マティアスは前方の護衛兵へ目を向けた。
「嫌なら剣を持ち、先頭へ行ってもいいぞ」
「荷車を見てきます」
「賢明だ」
アレクは馬の向きを変え、荷車の列へ向かった。
◇ ◇ ◇
フェリクスに紹介された輸送隊長は、五十歳を少し越えたように見える大柄な男だった。
日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、右頬から顎へ古い傷が走っている。腰に剣は下げているが、身につけているのは鎧ではなく、雨と寒さに耐えるための厚い革製の上着だった。
「輸送隊を預かっている」
「アレク・ハルトマンです。よろしくお願いします」
「知っている。昨日からマティアス様の近くにいる若者がいると聞いた」
輸送隊長はアレクを頭から足元まで見た。
「それで、何を命じられた」
「この荷を、可能な限り一台も失わずエルツェンへ届けろと」
「無理だな」
「早くないですか?」
「八十台も動かせば、車輪の一つくらいは壊れる。馬が歩けなくなることもあれば、積荷を縛った縄が切れることもある。道によっては荷車を捨て、荷だけを別の車へ移さねばならん」
「では、マティアス様は最初から無理な命令を?」
「一台も失わないよう考えろ、という意味だろう」
言葉をそのまま実現することと、命令の目的を果たすことは違うらしい。
「何から見ればいいでしょう」
「それを私に聞くのか」
「経験のある方に聞くのも仕事だと思います」
輸送隊長の口元が少し緩んだ。
「ならば荷車ではなく、道を見ろ」
「道ですか」
「荷車は道の上しか走れん。どれだけ丈夫な車を用意しても、橋が落ちていれば進めず、深い泥へ車輪が沈めば止まる。狭い場所で一台が止まれば、後ろの七十九台も止まる」
アレクは馬上から街道を見下ろした。
道の中央は多くの人馬に踏み固められている。今のところ乾いているが、車輪の跡が深く残っている場所もあった。雨が降れば、その溝へ水が溜まるだろう。
「軍の斥候は先へ出ていますよね」
「ああ。敵の位置や周辺の安全を確かめている」
「輸送隊からも人を出せませんか」
「何を見せる」
「道幅、坂、ぬかるみ、橋、倒木。それから、荷車が止まりそうな場所です。軍の斥候ほど遠くへ行かなくても、次の休憩場所まで分かれば対応できます」
輸送隊長がアレクを見る。
「騎馬を三人出そう」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、役に立ってからにしろ」
「やはり、皆さん厳しいですね」
「マティアス様の下で働くなら慣れろ」
三人の騎兵が呼ばれ、確認する項目を伝えられた。敵を発見した場合は近づかず、道に問題があればすぐ戻るよう命じられる。
騎兵が前方へ走り去ると、アレクは荷車へ目を戻した。
「次は馬と車輪を見たいです」
「八十台すべてを、お前が見るのか」
フェリクスに問われ、アレクは車列の長さを改めて見た。
「それでは一日が終わりますね」
「御者頭がいます。二十台前後ごとに一人ずつです」
「では、その人たちに見てもらいます」
「何を報告させますか」
「馬の疲れ、車輪や車軸の傷み、縄の緩み、積荷の崩れ。それから、ほかより遅れている荷車です」
「いつ報告を?」
「休憩のたびに。すぐに対応しなければならない問題があれば、その時点で知らせてもらいます」
「その基準は?」
問われたアレクは、すぐには答えられなかった。
御者だけで直せる小さな問題まで報告されれば、情報を受け取る側が処理できなくなる。反対に、現場だけで抱え込まれても困る。
「輸送隊長は、どのような時に報告が必要だと考えますか」
「一台だけで直せるなら、御者に任せればいい。周囲の車を止める必要がある時、代わりの馬が必要な時、荷を別の車へ移す時は報告させろ。橋や街道そのものに問題があれば最優先だ」
「分かりました」
アレクは教えられた基準を書き留め、御者頭たちへ伝えた。
「アレク殿は、すべて自分で考えるのではなかったのですか」
フェリクスが尋ねる。
「この世界の荷車が、どの程度の悪路を走れるのかも知りません。馬を何刻歩かせれば休ませるべきかも、車軸がどう壊れるかも、輸送隊長のほうが詳しいです」
「では、アレク殿は何をするのです?」
「皆が持っている情報を集めて、全体が止まる前に気づくことだと思います」
道路工事の専門家でも、馬車の職人でもない。前世で得た知識があっても、この世界の道や荷車のすべてを知っているわけではなかった。
自分が知らない部分を、知っている者へ任せる。そのうえで、別々の場所から集まった情報を一つにする。
「地味ですね」
「戦場で目立つ仕事がしたいのですか」
「それは嫌です」
「ならば良いではありませんか」
「そう言われると、そうですね」
フェリクスと話していると、前方から一騎が駆け戻ってきた。
「輸送隊長! 一里先に小橋があります!」
「状態は!」
「橋板が一部破損しています! 荷車は通せますが、一台ずつです!」
「幅は?」
「大型の荷車でぎりぎりです!」
輸送隊長がアレクへ顔を向けた。
「問題は見つかったぞ。どうする」
橋へ着いてから考えるのでは遅い。
アレクは周囲の街道を確認した。今いる場所は二台の荷車が並べるほど広く、街道脇にも人馬を休ませられる空間がある。
「このまま全車を橋まで進ませれば、橋の前で詰まります」
「ああ」
「敵に見つかれば、荷車が邪魔になって護衛兵も動けません。ここで一度止めます」
「それから?」
「大工と護衛を先に送り、橋を補修します。荷車は二十台ずつ動かし、一つ目の組が渡っている間に、次の組を橋へ近づけます」
「橋の向こう側は誰が守る」
「護衛兵を先に渡します」
「何人だ」
アレクは少し考えたが、数字を口にする前に止めた。
「橋の向こう側の安全を確保できる数を、護衛隊長に決めてもらいます」
輸送隊長が頷いた。
「マティアス様にも伝えろ」
アレクは馬を進め、車列の前方にいるマティアスへ追いついた。
「マティアス様、先に小橋があります。橋板が壊れていて、荷車は一台ずつしか通れません」
「それで?」
「橋の前まで進まず、ここで一度止めます。大工と護衛を先行させて補修し、荷車は二十台ずつ間隔を空けて動かしたいです」
「待っている人馬はどうする」
「休憩と点検をさせます。馬へ水を与え、御者には車輪と縄を見てもらいます」
マティアスは街道の広さと荷車の列を確認した。
「やれ」
「いいのですか?」
「お前が担当だ」
「責任が重いですね」
「今さら気づいたのか」
マティアスはそれだけ言うと、護衛隊長を呼ぶために馬を進めた。
命令を任されたことより、判断を誤った時に何が起きるかのほうが先に浮かぶ。
「怖いか」
輸送隊長が尋ねた。
「はい」
「それでいい。怖くない者は、壊れるまで荷車を走らせる」
アレクは一度息を吐くと、輸送隊へ声を上げた。
「全車停止! 大工四人と護衛は前へ! 一つ目の組以外は、この場で待機してください!」
◇ ◇ ◇
大工が橋板を交換している間、護衛兵は街道の両側へ展開した。
馬には水が与えられ、御者たちは車輪や車軸、積荷を縛る縄を調べている。休憩を兼ねたことで、ただ補修を待つだけの時間にはならなかった。
やがて前方から、補修が終わったという合図が届いた。
「一つ目の組、前進!」
二十台の荷車がゆっくりと動き始める。
橋板は交換されたが、橋そのものが古いことに変わりはない。御者は一台ずつ間隔を取り、慎重に馬を進ませた。
車輪が橋板へ乗るたび、低い軋みが響く。
「大丈夫でしょうか」
「大工が確認した」
輸送隊長は落ち着いている。
「大工だって間違えることはありますよね」
「不安なら、お前が荷車を背負って川を渡れ」
「無理です」
「ならば黙って見ていろ」
一台目が渡り、二台目が続く。一つ目の組の最後尾が橋へ近づく頃には、二つ目の組の先頭も到着していた。
完全に止まる時間を減らしながら、四十台、六十台と橋を越えていく。
アレクが少し息をついた時だった。
乾いた破裂音が車列から響いた。
「止めろ!」
七十三台目の荷車が、橋へ入る直前で傾いている。右の前輪を支える車軸に亀裂が入り、車輪が外側へ開いていた。
「後続を止めてください! 修理出来ますか?」
駆け寄った大工が荷車の下へ潜り、割れた車軸を調べる。
「替えの部材へ交換します。半刻ほどあれば」
「半刻……」
壊れた荷車の後ろには七台が残り、既に七十二台が橋の向こう側へ渡っている。この場で修理を待てば、動けない荷車を中心に再び長い列ができる。
「積荷は何ですか」
「包帯、薬草、医療用の酒です」
捨てることはできない。戦場へ到着すれば、食料より先に必要になる可能性もある。
「別の荷車へ移せるか」
輸送隊長が御者へ尋ねた。
「一台へまとめる余裕はありません」
「では、橋を渡った荷車へ少量ずつ分けます」
アレクは答えた。
「積みすぎれば車軸を傷めるぞ」
「一台へまとめません。余裕のある車を御者頭に選んでもらい、少しずつ積みます」
「壊れた荷車は?」
「道端へ寄せて修理します。職人と護衛を残し、直ったら本隊を追わせます」
「その間、本隊から人が減る」
「ここへ八十台を止め続けるよりは危険が小さいと思います」
輸送隊長は周囲を見回し、頷いた。
「やれ」
「橋の向こう側にいる御者頭へ伝えてください! 積荷に余裕のある車を十台選びます!」
命令を受け、人が動き始める。
壊れた荷車から箱や樽が降ろされ、橋を渡った荷車へ運ばれていく。御者頭たちは積荷の重さを確かめ、負担が一台へ偏らないよう振り分けた。
医療用の酒が入った樽は割れれば使えなくなるため、縄を増やして荷台の中央へ固定する。
二十分ほどで積み替えが終わり、壊れた荷車が道端へ移された。
「後続七台、前進!」
止まっていた車列が再び動き、すべての積荷が橋を渡った。
ただし、荷車は七十九台しかいない。
「ここで、修理を待ちますか」
アレクが尋ねると、輸送隊長は呆れたように眉を寄せた。
「一台のために七十九台を止めるのか」
「ですが、可能な限り一台も失わず運べと言われました」
「壊れた車には職人と護衛を残した。修理が終われば追いつく」
「それでも、置いていくことになります」
「お前の任務は、荷車を八十台並べてエルツェンへ入ることか」
違う。
届けるべきなのは荷車ではなく、その上にある物資だ。
「荷をエルツェンへ届けることです」
「一台も失わないという目標は、そのための手段だ。壊れた一台を待ち、残る七十九台まで危険へ晒せば、何を守ったことになる」
マティアスから告げられた言葉を、そのまま守ろうとしていた。
「本隊は進めます。修理班には、直り次第追いついてもらいます」
「それでいい」
アレクは後方に残る荷車を振り返った。
「まだ駄目ですね」
「当たり前だ。初めて輸送隊を動かした日に、すべて正しく判断できる者はいない」
「ありがとうございます」
「礼を言う暇があるなら、次に壊れそうな車を探せ」
「やはり厳しいですね」
それでもアレクは笑い、再び前進するよう命じた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎの大休止で、アレクは街道脇の石へ腰を下ろした。
剣を振るっていないにもかかわらず、身体だけでなく頭まで疲れている。
「随分と疲れた顔をしているな」
顔を上げると、ヴァイス男爵が立っていた。
「橋のことは聞いた。七十九台を先へ進ませ、壊れた一台も修理して追わせるそうだな」
「まだ追いついていません」
「荷は失ったのか」
「すべてほかの車へ移しました」
「ならば十分だ」
ヴァイス男爵はアレクの隣へ立ち、街道の先へ目を向けた。
「エルツェンは、どのような城ですか」
「行ったことがなかったな」
「はい」
「グランヴァルト西部では堅い城だ。城壁は二重。北と西は丘、東には川があり、大軍が攻めるなら南が中心になる」
「守備兵は?」
「平時なら八百ほどだ」
「シュヴァルツ伯軍は三千二百。砲が十二門あれば、守れますか」
「守備兵が役目を果たし、城内に食料と水があれば守れる」
「どれくらいです?」
「備蓄と城壁の状態による。一月か、二月か。だが援軍が来ると分かっているなら、そこまで耐える必要はない」
アレクは休憩中の荷車を見た。
麦一袋、包帯一箱、補修用の木材一本。それぞれは小さく見える。
だが、それが届かなければ腹を空かせる兵がいる。傷を縛れずに血を流す者がいる。城門や車輪を直せなくなるかもしれない。
「剣より、荷を失うほうが怖くなってきました」
「その感覚は忘れるな」
ヴァイス男爵はそう言った後、腰の剣へ手を置いた。
「ただし、敵と出会った時には剣の使い方を忘れるな。お前は荷運びだけを期待されているわけではない」
「マティアス様にも言われました」
「欲張りな主を選んだものだ」
「アルベルト様も同じではありませんか」
「それは否定しない」
「本人にも言えますか」
「言う必要はない」
即答したヴァイス男爵を見て、アレクは小さく笑った。
午後になると、空を覆う雲が急速に暗くなった。
冷たい風が街道を抜け、やがて大粒の雨が落ち始める。
「荷に覆いを掛けろ! 麦と薬草を先に守れ!」
御者たちが油を染み込ませた布や革を荷車へ広げ、縄で固定していく。
雨脚はすぐに強くなった。
固かった地面は黒く濡れ、車輪の溝へ水が溜まる。坂へ差しかかると、荷車が横へ滑り始めた。
「馬を急かすな! 下りは車間を広げろ!」
輸送隊長の声が飛ぶ。
護衛兵も馬を降り、荷車が道の外へ滑らないよう横から支えた。このまま進めば、予定していた野営地へ着く頃には暗くなる。
アレクはマティアスのもとへ馬を寄せた。
「マティアス様、今夜の野営地を変えられませんか」
「理由は」
「この雨では、本来の場所へ着く前に日が暮れます。暗い坂道を進めば、橋で壊れた一台だけでは済みません」
「手前にある場所を知っているか」
「いいえ」
「二里ほど先にグロース村がある」
「村ですか」
千人近い軍勢が突然現れれば、小さな村には大きな負担となる。
「村の中へ兵を入れず、外で野営します。水と薪、干草を買い、負傷者や弱った馬だけ納屋を借りられないか交渉します」
「敵の斥候に見つかりやすくなるぞ」
「街道脇で野営しても、焚き火を使えば隠しきれません。それなら水場があり、馬を休ませられる場所のほうがいいと思います」
「村の食料をどうする」
「必要な分だけ買います。徴発はしません」
マティアスは雨に煙る街道と、足元を取られている荷車を見比べた。
「私も同じ判断だ。グロース村の外で止まる」
「ありがとうございます」
「礼を言う相手は私ではない。急に千人を受け入れる村人へ言え」
伝令が呼ばれ、野営地の変更が全隊へ伝えられた。別の使者が村へ先行し、水、薪、干草、食料を購入したいと申し入れる。
「価格はどうしますか」
「村が直近で取引した市場の相場を調べろ。その価格で買う」
「少し高く払わなくていいのですか」
「こちらが軍勢であることを利用して安く買うな。だが、村が困っているこちらの足元を見て、相場の何倍もの値を求めることも認めん」
「どちらかだけが得をする取引にしない?」
「今夜だけなら奪ったほうが早い。だが軍は帰りにも道を使う。次の戦でも使うかもしれん」
その時、村から食料も道案内も得られなくなっていれば、目の前の銀貨を惜しんだ以上の損失になる。
「商人は先のことまで考えるのですね」
「今さら気づいたのか」
雨の中でも、マティアスの口元にはわずかな笑みがあった。
◇ ◇ ◇
夕刻前に到着したグロース村は、家が百軒にも満たない小さな村だった。
輸送隊の先頭が見えた途端、道端にいた子供が母親に引かれて家へ入っていく。畑から戻ろうとしていた男たちも、農具を手にしたまま遠巻きに軍勢を見つめていた。
旗がどちらのものであっても、武器を持つ千人近い男たちが現れれば恐れるのは当然だった。
「村人からすれば、味方の軍でも同じですか」
アレクが尋ねると、ヴァイス男爵が頷いた。
「味方を名乗る兵に食料や家畜を奪われた村もある。誰の旗を掲げているかより、実際に何をするかを見るだろう」
村の中央にある小さな礼拝堂の前で、白髪の村長と数人の男たちが待っていた。
「マティアス・クレーマーだ。今夜、村の外へ野営する」
「承知いたしました」
答える村長の手は、はっきり分かるほど震えていた。
「兵士を許可なく村内へ入れない。家屋の接収もしない」
村長が顔を上げる。
「水と薪、干草、足りない食料はすべて購入する。怪我人と弱った馬のため、納屋を数棟借りたい。そちらにも代金を払う」
「納屋くらいでしたら、代金は……」
「払う。一度ただで借りれば、次に来る軍も同じことを求める」
「……分かりました」
マティアスはアレクを振り返った。
「借りた物と持ち主、量、支払った金額を記録しろ」
「全部ですか」
「後で、払っていないと言われたくなければな」
アレクは馬から降り、紙と筆記具を取り出した。
「村長、まず普段の薪と干草の値段を教えてください。近くの市場で売る時の価格で買います」
「本当に、いつもの値で?」
「はい。ただし、無理に出してもらう必要はありません。村で使う分まで売れば、皆さんが困ります」
村長が周囲の男たちと顔を見合わせる。
やがて、一人が恐る恐る手を上げた。
「薪なら二十束ほど余っている」
「お名前と、二十束分の価格を教えてください」
「干草も買うのか」
「馬へ与えます。売れる量があればお願いします」
最初は離れていた村人たちも、話を聞いて少しずつ集まってきた。
薪、干草、卵、黒パン。軍が必要とする量に比べれば一軒ごとの品は少ない。それでも持ち主と数量を確認し、その場で銀貨を渡すと、固かった空気がわずかに緩んでいく。
「井戸は、村の者も使います。すべてを軍へ回すことはできません」
村長が慎重に言った。
「村で必要な分を優先してください。軍の使用時間を分けます。一度に兵を集めず、隊ごとに汲ませます」
「それならば」
「井戸の周囲には兵を置きますが、村の方を止めるためではありません。混雑して壊さないためです」
水汲みの順番は輸送隊とアルヴェイン兵で分けられ、馬へ与える水も別の時間に運ぶことになった。
納屋を貸す家には、何人を入れるのか、馬を何頭つなぐのかまで記録する。受け取った側だけでなく、売った村人にも内容を確認させた。
やがて村長の震えは収まり、村人の中から荷運びを手伝う者も現れた。
恐怖が消えたわけではない。それでも少なくとも、この軍勢が今夜すぐ村を荒らすつもりではないとは伝わったらしい。
「アレク殿は、楽しそうですね」
記録を手伝うフェリクスが言った。
「どこがですか。誰にいくら払ったか間違えたら、後で大変なんですよ」
「ですが、人と話している時のほうが表情は明るいです」
アレクは集まった村人たちを見た。
品物の量と値段を決め、必要とする者へ渡す。かつてヴァイスブルクの市場で働いた時と似ている。
ただし今回は、その先に戦場があった。
◇ ◇ ◇
日が沈む頃には雨が弱くなった。
村外れには無数の焚き火が並び、荷車は中央を守るように配置されている。外周には見張りが立ち、馬の近くにも火の番が置かれた。
アレクは焚き火のそばで、村から買った品と支払った金額をまとめていた。
「まだ終わらないのか」
声を掛けたマティアスが隣へ腰を下ろす。
「この仕事を命じたのはマティアス様ですよ」
「それで、今日はどうだった」
アレクは書きかけの紙から顔を上げた。
「疲れました。剣は一度も抜いていませんが、ずっと何かと戦っていた気がします」
「何と戦った」
「橋の狭さ、壊れた車軸、雨、泥、時間でしょうか」
「一つ足りん」
「何です?」
「人だ」
マティアスは焚き火の向こうへ目を向けた。
食事を取る兵、濡れた靴を乾かす者、馬の脚を確かめる御者。皆、朝よりも動きが重くなっている。
「人は疲れる。腹が減る。怖くなれば命令を聞き違え、苛立てば普段ならしない争いを起こす。物は勝手に動かん。最後に運ぶのは人だ」
「兵站は、物を運ぶだけではないのですね」
「それを今日覚えたのなら、連れてきた意味はある」
「なぜ、俺に輸送を任せたのですか。輸送隊長のほうが、俺よりずっと上手く出来ます」
「当然だ。あの男はお前より百倍は上手い」
「そこまでですか」
「もっとかもしれん」
マティアスは笑った後、少しだけ声を低くした。
「お前は将来、今より多くの人と物を動かすことになる」
「どれくらいです?」
「百か、千か、一万か。それは知らん」
「一万……」
「その時、一人の兵が一日に何を食べるかも知らず、地図の上で兵だけを動かす者になるな。馬一頭に必要な水も、荷車一台が止まった時に何が起きるかも、村から食料を奪った後に何が残るかも忘れるな」
今日見てきたものが、次々と思い浮かぶ。
細い橋、割れた車軸、泥へ沈む車輪、軍勢を見て震えていた村長。
「覚えておきます」
「言葉だけでは忘れる。だから実際にやらせた」
返す言葉を考えていると、野営地の東側から馬蹄の音が聞こえた。
「伝令! 東方より報告!」
兵士が泥を跳ね上げながら駆け込み、馬から飛び降りる。
「言え」
「シュヴァルツ伯軍三千二百、本日午後にエルツェン南方へ到達! 城から一里半の位置で陣地の構築を開始しました!」
「砲は」
「十二門すべてを確認! 南西側へ集中させています!」
ヴァイス男爵と輸送隊長も、報告を聞いて集まってきた。
「レオンハルト殿下の本隊は?」
「エルツェン東方、約一日の距離です!」
急いでも到着は翌日の夕方になる。
「シュヴァルツ伯は、明日の朝から攻めるつもりでしょうか」
アレクが地図を広げると、ヴァイス男爵が南西側を指した。
「エルツェンで最も攻めやすいのは南だ。特に南西の城壁は、以前に崩れた場所を補修している。十二門を集めたなら、そこを砲撃するつもりだろう」
「守備兵だけで半日耐えられますか」
「耐えてもらうしかない」
八十台の荷車を率いて進めば、こちらの到着には一日半ほど必要になる。荷を捨てれば速くなるが、それでは何のために向かっているのか分からない。
「すべての荷車を、一緒に進ませる必要はありません」
アレクが言った。
マティアスが地図から目を上げる。
「続けろ」
「馬と車体の状態が良い荷車を選び、城がすぐに必要とする物だけ先に運びます」
「何を運ぶ」
食料は重要だが、城には備蓄がある。シュヴァルツ伯が明日攻撃を始めるなら、直ちに必要になるものは別にある。
アレクはヴァイス男爵を見た。
「籠城が始まる前に届くなら、何が必要ですか」
「矢は城にもある。食料も数日で尽きることはない」
ヴァイス男爵が地図上の城壁を指で叩く。
「砲撃で城壁や門が壊れる。工具と補修用の木材だ。それから負傷者が出る」
「包帯、薬草、医療用の酒」
「ああ」
「それを積んだ荷車から、速いものを選びます」
「何台だ」
マティアスに問われ、アレクは輸送隊長へ目を向けた。
「夜の悪路を進める荷車は、何台選べますか」
「十台なら、馬も車体も状態の良いものを揃えられる」
「では十台です。護衛をつけ、先にエルツェンへ向かいます」
「誰が率いる」
アレクはマティアスを見返した。
この提案をした者が、誰かに任せて残るわけにはいかない。
「俺が行きます」
「怖くないのか」
「怖いです。それでも、行きます」
「分かった。フェリクスをつける。こちらから護衛を五十人出す」
「アルヴェイン兵からも三十人出そう」
ヴァイス男爵が言った。
「ありがとうございます」
「礼は、荷を届けて戻ってから聞く」
戻るという言葉に、アレクは小さく息を呑んだ。
「出発は夜明けか」
マティアスに問われ、アレクは空を見上げた。
雨は弱くなったが、道は暗く、泥も深い。安全を考えれば夜明けを待つべきだった。
しかし夜明けまで待てば、シュヴァルツ伯軍の攻撃開始と重なるかもしれない。
「今夜、出たいです」
「暗いうえに、雨で道が悪いぞ」
「分かっています。それでも、夜明けまで待つより早く城へ着けます」
「速さだけを求めて十台すべてを失えば、何も届かん」
「無理だと判断したら止まります。道が危険なら、夜が明けるまで待ちます」
マティアスはしばらくアレクを見つめた。
「人を守るために必要なら荷を捨てろ」
「はい」
「荷を守るために人を死なせるな」
「はい」
「目的は、早く走ることではない」
「物資をエルツェンへ届けることです」
「ならば行け」
輸送隊長が状態の良い荷車を選び、必要な積荷を載せ替える。ヴァイス男爵は騎乗に慣れた兵を中心に三十人を選び、マティアス側の護衛兵五十人と合流させた。
松明、予備の縄、車軸の修理道具、馬の飼料も積まれる。
準備が整うまで、長い時間は掛からなかった。
「行ってきます」
馬へ乗ったアレクへ、マティアスが頷く。
「お前が遅ければ、本隊で追い越す」
「その時は、引っ張ってください」
「自分で進め」
いつもと変わらない返事に、アレクの肩から余計な力が少し抜けた。
「先発輸送隊、出発します!」
十台の荷車が動き始める。
その前後を八十人の護衛が守り、雨上がりの暗い街道へ進み出した。
◇ ◇ ◇
グロース村の灯りが見えなくなった頃、先頭を進んでいた騎兵が戻ってきた。
「アレク殿、この先で道が二つに分かれます」
「それぞれ、どこへ続いていますか」
「右は山を抜ける近道です。左は遠回りになりますが、エルツェンへ続く街道です」
「時間はどれほど違いますか」
「近道なら二刻ほど短くなります」
少しでも早く到着したい。だが雨の後の山道へ、十台の荷車を入れる危険は大きかった。
「山道の状態は分かりますか」
「詳しくは」
「二騎で入口付近だけ確認してください。危険だと思ったら、すぐ戻るように」
二人の騎兵が松明を持ち、山道へ入っていく。
先発隊は分岐の手前で止まり、戻りを待った。五分にも満たない時間だったが、エルツェンへ急いでいる今は長く感じられる。
やがて二騎分の馬蹄が聞こえた。
「道幅が狭く、泥も深くなっています! 奥はさらに急な上りです!」
「街道を進みます」
アレクは迷わず命じた。
「二刻ほど遅れますが、よろしいのですか」
フェリクスに問われ、アレクは山道へ向けられた松明を見た。
「近道へ入って車輪が沈めば、二刻では済みません。届かない近道より、届く街道を選びます」
「承知しました」
先頭の騎兵が左へ向きを変え、荷車が続いた。
遠回りであっても、車輪は確実に前へ進んでいる。
その時、東の空から低い音が響いた。
遠く離れているにもかかわらず、地面の底を伝ってきたような重い音だった。
馬たちが耳を立て、御者が手綱を握り締める。
少し間を置いて、二度目の轟音が聞こえた。
「砲声……」
フェリクスが東を見た。
さらに三度目の音が、暗い空の向こうから届く。
翌朝から始まると考えていた攻撃は、既に始まっていた。
「どうしますか」
護衛兵と御者たちが、アレクの判断を待っている。
急がなければならない。しかし道が悪いことも、荷車を壊せば何も届かないことも、今日一日で嫌というほど学んだ。
「進みます。今の隊列を崩さず、少しだけ速度を上げてください。車間は詰めすぎないように」
「はっ!」
「無理に馬を走らせる必要はありません。それでも止まりません」
アレクは遠く響く砲声を聞きながら、手綱を握り直した。
「必ず届けます」
十台の荷車が、再び動き始める。
工具、木材、包帯、薬草、医療用の酒。
今はまだ荷台へ積まれているだけの物だ。だがエルツェンへ届けば、崩れた城壁を支え、傷ついた兵を救う力になる。
砲声が響くたび、空気がわずかに震えた。
アレクたちはその音から逃げるのではなく、戦場へ続く道を進んでいった。
第十話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、八十台の荷車を運ぶ中で、アレクが目的と手段を取り違えないことや、経験のある者へ仕事を任せる大切さを学びました。
エルツェンでは、予想より早くシュヴァルツ伯軍の砲撃が始まっています。次話では、十台の先発輸送隊を率いるアレクが、戦場となったエルツェンへ向かいます。
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