第九話 最初の仕事
マティアスを自らの主君として選んだアレクに、最初の仕事が与えられます。剣や偵察報告ではなく、物、金、人、噂の動きから、まだ姿の見えない敵軍の進路を読み解きます。
翌朝、アレクは扉を叩く音で目を覚ました。
窓の外は明るくなり始めたばかりで、河港から聞こえる荷車の音もまだ少ない。
「アレク・ハルトマン殿」
聞き覚えのある声だった。
「起きています」
そう答えて寝台から下りたところで、自分の言葉が嘘になっていることに気づく。服を整え、剣を腰へ下げてから扉を開けると、廊下にはフェリクス・ローナーが立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。ずいぶん早いですね」
「マティアス様がお呼びです」
「朝食もまだなのですが」
「商館に用意してあります」
「それなら、すぐに行きます」
答えると、フェリクスの口元がわずかに緩んだ。
「食事の有無で返事が変わるのですか」
「空腹のままでは、よい考えも浮かびません」
「一理あります。では参りましょう」
アレクは部屋を出た後、一度だけ閉じた扉を振り返った。
昨日までなら、朝になれば最初にアルベルトのもとへ向かっていた。身支度を手伝い、その日の予定を確かめ、命じられた仕事へ取りかかっていた。
今日からは違う。
自分で選んだことだが、まだ身体の方が新しい立場に慣れていない。
「どうしました?」
フェリクスが足を止める。
「何でもありません。行きましょう」
アレクは廊下の先へ向き直った。
◇ ◇ ◇
フェリクスに案内されたのは、ベルグハーフェンの中央河港に近いクレーマー商会の商館だった。
石造りの三階建てで、隣には二棟の倉が並んでいる。建物の正面に派手な装飾はないが、早朝から多くの人が出入りしていた。
荷運び人が倉へ向かい、書状を抱えた使者が馬を下りる。商人らしい男が受取証を確認し、その隣では書記が荷札の束を受け取っていた。
「ここが、ベルグハーフェンにあるクレーマー商会の中心ですか」
「中心の一つです。河川輸送を扱う商館としては、ここが最も大きいでしょう」
商館へ入ると、外の慌ただしさとは異なる静けさがあった。
人は多い。だが、怒鳴り声はほとんど聞こえない。
一階の広間には長い机が並び、書記たちが売買記録や入出庫の報告を書き写している。別の机では荷札が行き先ごとに分けられ、紐で束ねられていた。
壁に掛けられた大きな板には、文字の書かれた木札が何列にも並んでいる。
「あれは何ですか」
「船の入出港予定です」
フェリクスが足を止めた。
「船名、到着予定、積荷、出港する日、次の行き先が書かれています。予定が変われば木札を移します」
「クレーマー商会に関係する船だけですか」
「はい」
それでも、木札は板を埋め尽くすほど多い。
アレクは上から順に目を動かした。ベルグハーフェンへ入る船だけではなく、ここから上流へ向かう船、支流へ入る船、別の港で荷を積み替える船まで記されている。
「これはマティアス様が考えたのですか」
「似た仕組みは以前からあります」
「そうなのですか」
「マティアス様が優れているからといって、商会にある物すべてをあの方が考えたと思わない方がよろしいでしょう」
「昨日も似たことを教えられました」
「でしたら、すでに一つ学びましたね」
「仕え始めて最初に学んだことが、マティアス様を何でもできる人だと思うな、でよいのでしょうか」
「大切なことだと思います」
フェリクスは真面目な顔で答えたが、その目にはわずかに笑みがあった。
二階へ上がる途中、アレクは隣を歩くフェリクスへ尋ねた。
「フェリクスさんは、普段はどのような仕事をしているのですか」
「連絡役を務めることが多いですね。商館同士の連絡、使者、情報の収集、必要であれば交渉も行います」
「ずいぶん幅が広いですね」
「アレク殿も似たような立場になるのではありませんか」
「私の役目は、まだ決まっていません」
「役目が決まっていないということは、何でも命じられるということです」
「それを聞くと、急に不安になってきました」
「昨日のうちに気づかなかったのですか」
「マティアス様の下で働くと決めることに精いっぱいでした」
フェリクスは小さく笑い、二階の奥にある扉を開けた。
「お連れしました」
「遅い」
机に向かっていたマティアスが、書状から目を上げた。
「呼ばれた時刻を聞いていません」
「呼ばれたら来い」
「ずいぶん横暴ですね」
「仕えた翌朝から文句を言うのか」
「仕えたからこそ、言えるようになりました」
「なるほど。昨日よりは使えそうだ」
マティアスは向かいの椅子を示した。
机にはパン、チーズ、干し肉と温かなスープが用意されている。
「食べながら聞け」
「ありがとうございます」
アレクが椅子へ座ると、フェリクスはマティアスの横に立った。
スープを一口飲む。豆と刻んだ肉が入っており、朝食としては十分に腹へたまる。
「アレク」
「はい」
「最初の仕事だ」
アレクは持ち上げたパンを皿へ戻した。
「もう始めるのですか」
「そのために呼んだ」
マティアスが机の下から地図を取り出し、食器を脇へ寄せて広げた。
描かれているのはグランヴァルト西部だった。
ベルグハーフェン、王都へ続く道、東方へ伸びる街道、河川、幾つかの城塞都市が記されている。地図の南東部には、シュヴァルツ伯軍を示す駒が置かれていた。
「シュヴァルツ伯軍が動いたのですか」
「夜明け前に新しい報告が届いた。奴の軍は南東へ進み、この分岐へ近づいている」
マティアスが地図上の街道を指で押さえた。
その先で道は二つに分かれている。一方は王都方面へ向かい、もう一方は東へ伸び、レオンハルトの勢力圏へ入る。
「どちらへ進むつもりですか」
「それをお前が考えろ」
「マティアス様は、まだ分からないのですか」
「確定はしていない」
「では、一緒に考えるのですか」
「違う」
マティアスが三つの紙束をアレクの前へ置いた。
一つは各地の商館から届いた報告、次は荷の移動を記録した書類、最後は市場価格の変化をまとめたものだった。
「これを読め」
「すべてですか」
「昼までに結論を出せ」
紙束を持ち上げると、下にも別の書類があった。宿屋や酒場から集めた噂、信用状の支払先、川船の出入りを記した一覧である。
「軍の偵察報告はありませんか」
「あるが、お前には見せん」
「なぜです」
「兵の動きだけから進路を考えるなら、俺のところでなくても学べる」
マティアスは椅子へ深く座った。
「お前は俺の下へ来た。なら、俺の戦い方を覚えろ」
「物と金から軍の動きを読むのですか」
「それだけではない。人と情報も見ろ」
「昨日、似たことを調べたばかりなのですが」
「だから、今日から実際の判断に使える」
「いきなり本物の軍を相手にさせますか」
「練習用の軍を用意できるなら連れてこい」
「無理です」
「なら始めろ」
マティアスは別の書状を手に取り、アレクから目を離した。
本当に教えるつもりはないらしい。
アレクは残っていたパンを口へ運び、紙束の一枚目を開いた。
◇ ◇ ◇
最初に目へ入ったのは麦の記録だった。
ベルグハーフェンから南東方面へ出た量が、この三日で増えている。しかし、麦は軍だけが必要とするものではない。町や村へ運ぶ分も含まれており、量が増えたというだけではシュヴァルツ伯軍との関係を断定できなかった。
次は塩だった。
これも南東方面への出荷が増えている。だが、塩も民間で広く使われる。
革、酒、鉄、薬草、干し肉。アレクは品目ごとに紙へ書き写し、量が増えたものと減ったものを分けた。
一刻ほど経ったところで、マティアスが尋ねた。
「何を見ている」
「全部です」
「それでは終わらん」
「ですが、どれが関係しているか分かりません」
「麦一袋と針一本を、同じ重さで扱うのか」
「いいえ」
「情報も同じだ。軍が動けば大きく変わるものと、平時にも変わるものを分けろ」
アレクは自分が書いた紙を見直した。
すべての品を一つずつ追っていたため、数字が増えただけで、それぞれのつながりが見えなくなっている。
「軍がいなければ、大量には動きにくいもの」
「俺へ聞くな。自分で考えろ」
「教える気はあるのですか」
「あるから、お前にやらせている」
アルベルトも、すぐには答えを教えてくれなかった。
問いかけられ、自分で考え、答えた後に別の見方を示された。教え方が似ていると思ったが、口にすれば二人とも嫌な顔をしそうだった。
アレクは品目を見直した。
まず飼葉を選ぶ。
農村でも家畜の餌として必要だが、短期間に大量の荷馬や騎兵が集まれば、需要は大きく増える。報告では、街道の分岐より東側で飼葉の価格が上がっていた。
同じ地域では、荷馬の取引価格も上がっている。
次に川船の記録を見る。
この数日、上流へ向かう船が増えていた。積荷は麦、塩、干し肉、飼葉。どれも一つだけなら民間向けと考えられるが、同じ方向へまとまって動いている。
アレクは船の数と積載量を確かめた。
「多いな」
小さな商隊へ届ける量ではない。
シュヴァルツ伯軍は、最後に確認された時点で約三千二百人。騎兵だけで四百人ほどおり、荷車を引く馬を加えれば、さらに多くの飼葉を必要とする。
数日分の食料を陸路だけで運べば、大量の荷車が要る。川船を使えば、一度に多くの品を運べる。
その船は王都方面ではなく、東へ向かっている。
アレクは次に信用状の記録を調べた。
大きな金額が一つの商会へ支払われた形跡はない。しかし、東方にある複数の小商会へ、普段より多い金が分散して送られていた。
一件ずつ見れば、不自然とは言い切れない。
だが、複数の商会が同じ時期に食料や馬具を集めれば、軍への供給を目立たなくできる。
アレクは顔を上げ、書状を読んでいるマティアスを見た。
「何だ」
「この支払いは、クレーマー商会の指示ではありませんか」
「なぜそう思う」
「一つの大商会へ金を渡さず、小商会へ分けています。昨日まで見ていた方法と似ています」
「俺を疑ったのか」
「可能性の一つとしてです」
「悪くない。だが、自分で確かめろ」
否定しないところが、余計に判断を難しくしている。
アレクは信用状の名義と、過去の取引記録を見比べた。クレーマー商会と取引のある商人もいるが、今回の金を出したのは別の両替商だった。
少なくとも、目の前にある記録だけではマティアスの指示だと判断できない。
次に、宿屋や酒場で集めた噂へ目を移した。
シュヴァルツ伯軍は王都へ向かう。
東方の城を狙っている。
南へ転進する。
一度北へ戻る。
兵数についても、二千から一万までばらばらだった。
「これでは役に立たない」
アレクは紙を置きかけ、思い直した。
噂の内容が正しいかどうかだけではなく、いつ、どこから広がったのかを見る。
王都へ向かうという噂は、昨日の夕方から急に増えていた。だが、その出所をたどると、同じ商人から聞いた者が多い。
一方で、東進を示す話は船頭、街道商人、村人など複数の出所から集まっていた。
王都へ向かうのなら、その噂を急に広める必要があるだろうか。
反対に、東へ向かうことを隠したいのなら、王都を狙っていると思わせる意味がある。
アレクは地図へ目を向けた。
東では飼葉と荷馬の価格が上がっている。
食料を積んだ船も東へ進んでいる。
複数の小商会へ金が流れている。
東進を示す話は、互いに関係の薄い者から出ている。
その一方で、王都へ向かうという噂だけが、不自然なほど急に増えていた。
アレクはシュヴァルツ伯軍を示す駒を、分岐から東へ動かした。
「マティアス様」
「分かったか」
「シュヴァルツ伯軍は、王都ではなく東へ向かう可能性が高いと思います」
「理由を話せ」
アレクは調べた記録を机へ並べた。
「東方で飼葉と荷馬の価格が上がっています。上流へ向かう船にも、麦、塩、干し肉、飼葉が積まれています」
「ああ」
「信用状の金は、東方の小商会へ分散して支払われています。一件ずつでは少額でも、合わせれば軍の補給へ使える量です」
「続けろ」
「王都へ向かうという噂は、昨日から急に増えています。ですが、出所をたどると同じ場所へ行き着くものが多い。東進を示す話は、船頭や村人、別々の街道商人から出ています」
「王都へ向かうという噂は偽りだと?」
「その可能性があります。東進を隠すために、意図的に広めているのかもしれません」
「断定しないのか」
「私たちが把握していない輸送があるかもしれません。報告が間違っている可能性もあります。小商会への支払いも、すべてが軍のためとは限りません」
アレクは地図上の駒へ指を置いた。
「東へ向かう可能性が高いとは思います。ただ、これだけで確定はできません」
マティアスは、並べられた記録を一枚ずつ見た。
「悪くない」
「マティアス様は、最初から東進を疑っていましたね」
「なぜそう思う」
「私へ渡した報告が揃いすぎています」
「揃えたのはフェリクスだ」
部屋の隅にいたフェリクスへ目を向けると、何も答えず一礼した。
「それに、地図を出した時、王都より東側を長く見ていました」
「そこまで見ていたか」
「私に人を見ろと言ったのは、マティアス様です」
マティアスは小さく笑った。
「東進の可能性が高いとは考えていた。だが、俺がそう思っているからこそ、東を示す情報だけを拾っている恐れがある」
「別の者にも同じ情報を見せたかったのですか」
「ああ。お前が王都へ向かうと判断したなら、その理由を聞くつもりだった」
「私の答えが間違っていたら?」
「他の情報と比べる」
「それでも判断が分かれた場合は?」
「最後は俺が決める」
マティアスは迷わず答えた。
「意見を出すのはお前の仕事だ。決断し、その責任を負うのは俺の仕事だ」
アレクが仕えると決めた男は、すべてを知っているわけではない。
だからこそ、自分と異なる目を必要としている。
昨日聞いた言葉が、ようやく実際の仕事として見えた気がした。
その時、廊下を走る足音が近づいた。
扉が開き、フェリクスの部下が息を切らして入ってくる。
「マティアス様、東方から急使が到着しました」
「入れろ」
泥で汚れた外套を着た男が部屋へ入った。馬を乗り継いできたのか、肩で大きく息をしている。
「報告します。シュヴァルツ伯軍は今朝、東進を開始しました」
「進路は」
「ローデン峡道方面です」
アレクは地図を見た。
自分が動かした駒の先に、ローデン峡道がある。そのさらに東には、城塞都市エルツェンが記されていた。
「進軍速度は」
「遅いです。兵の後ろに大量の荷駄隊が続いております。確認できただけでも、荷車は百二十台を超えます」
「砲は」
「十二門です」
アレクは思わずマティアスを見た。
約三千二百の兵と、百二十台を超える荷車。さらに砲十二門。
国境近くへ圧力を掛けるだけなら、そこまで大きな荷駄隊は必要ない。砲を運ぶなら進軍速度も落ちる。
「エルツェンを攻めるつもりでしょうか」
「可能性は高い」
マティアスは急使へ視線を戻した。
「シュヴァルツ伯本人は確認できたか」
「伯の旗は軍の中央にありました。ただし、本人の姿までは確認できておりません」
「分かった。食事と替えの馬を用意させろ」
「ありがとうございます」
急使が退室すると、アレクは小さく息を吐いた。
「当たりました」
「喜ぶのは後にしろ」
マティアスはすでに新しい紙を取り出している。
「敵の進路を読んだだけでは、何も守れん。次に何をする」
アレクは地図を見た。
シュヴァルツ伯軍は動き始めている。エルツェンへ知らせなければならない。レオンハルトにも、確定した情報を送る必要がある。
「レオンハルト殿下とエルツェンへ急使を送ります」
「それから」
「東へ流れている軍需物資を止める」
「すべてか」
前日のマティアスとの会話を思い出す。
食料まで急に止めれば、軍だけでなく街道沿いの民も困る。取引の変化から、シュヴァルツ伯側に情報が漏れたと気づかれる可能性もある。
「いいえ。鉄、火薬、矢材、馬具など、軍へすぐ転用できる品から減らします」
「減らす理由は」
「船の遅れ、倉での取り違え、荷車不足。自然に見える理由を作る」
「食料は」
「全面的には止めません。民も必要とします。それに、すべてを急に止めれば怪しまれます」
マティアスがうなずいた。
「フェリクス」
「はい」
「レオンハルト殿下へ急使を出せ。シュヴァルツ伯軍、ローデン峡道へ東進。兵力約三千二百、砲十二門、荷車百二十台以上」
「承知しました」
「エルツェンにも同じ内容を送れ。守備隊へ砲撃に備えさせろ」
「はい」
「東へ向かう鉄と火薬は、新たな取引だけ審査を厳しくしろ。すでに契約した荷は、二日から三日遅らせる」
「クレーマー商会の名で止めますか」
「一つの商会だけで止めるな。荷車不足、船の遅れ、倉の混雑に分けろ」
「矢材と馬具は」
「同じだ。ただし、露骨に止めすぎるな」
「承知しました」
フェリクスが指示を書き留める。
「ベルグハーフェンにある輸送船は、何艘空いている」
「五艘です」
「二艘を東へ出せ。麦、塩、包帯、薬草、工具を積め。予備の車輪と車軸もだ」
「武具は積みますか」
「レオンハルト殿下は武具を持っている。戦が始まった後に不足するものを優先しろ」
アレクは、フェリクスとは別の紙へ命令の内容を書き始めた。
商館の外では、まだ剣も槍も交わされていない。
それでも、書状が走り、船の積荷が変わり、東へ向かう品が選別されていく。この命令が数日後の戦場で、兵が食べられるか、負傷者を治療できるか、壊れた荷車を直せるかを決める。
戦は、敵と向き合ってから始まるのではない。
「アレク」
「はい」
「手を止めるな」
「すみません」
考えに沈んでいたアレクは、慌てて筆を動かした。
マティアスの命令は途切れない。
どの商会へ連絡するか。どの倉から荷を出すか。船を動かすために誰へ金を払うか。今ある食料をすべて送らず、ベルグハーフェンへ残す量まで決めていく。
途中から文字が乱れ始めた。
「少し待ってください。書く方が追いつきません」
「必要なものから書け」
「全部必要な命令ではないのですか」
「後で確認できるものと、今すぐ使者へ渡すものを分けろ」
アレクは紙を二つに分けた。
一枚にはすぐに出す命令を書き、もう一枚には倉や船の調整を記していく。
フェリクスが横から紙を確認した。
「これなら、書記へ渡して清書させられます」
「最初から書記に頼めばよかったのでは?」
「あなたの仕事です」
「私の字で読めますか」
「読めない部分は、責任を持ってアレク殿に清書していただきます」
アレクは筆を持つ手へ力を込めた。
◇ ◇ ◇
命令を出し終えた頃には、すでに昼を過ぎていた。
朝食の皿は片づけられ、代わりにアレクが書いた紙が机の上へ並んでいる。
「右手が痛いです」
「剣を振るよりは軽いだろう」
「使う場所が違います」
アレクは指を開いてから握った。
「マティアス様」
「何だ」
「私の判断が間違っていたら、どうなっていましたか」
「東へ送る急使が無駄になったかもしれん。動かした船を戻し、止めた荷の代金をこちらで補うことになっただろう」
「それだけですか」
「王都へ向かっていたのに東だけを警戒させれば、もっと大きな損害が出たかもしれん」
マティアスは隠そうとしなかった。
「怖いか」
「はい」
「なら、その怖さを忘れるな」
「意見を言わない方がよいと思う時が来るかもしれません」
「黙った結果、人が死ねば、お前は何の責任もないのか」
アレクは答えられなかった。
間違うのが怖くて黙る。判断を他人へ任せ、自分は関係ないと思う。
それも一つの選択だった。
「分からないことは、分からないと言え」
マティアスが続ける。
「確信がないなら、断定するな。自分の判断に足りないものがあるなら、それも言え」
「はい」
「だが、間違うのが怖いという理由だけで黙るな。お前を俺の近くへ置いた意味がなくなる」
「分かりました」
「それから、俺が東だと思っていると気づいても、それに合わせるな」
「主君の考えに合わせる者の方が、扱いやすくありませんか」
「そのような者は、すでに足りている」
マティアスは机に並んだ記録をまとめた。
「俺と違う答えを出したなら、その理由を話せ。聞いたうえで、俺が決める」
「その結果が間違っていた場合は?」
「責任は俺が取る」
アレクは、はっきりとうなずいた。
意見を出す責任と、最終的に決める責任は同じではない。
それでも、自分の言葉が主君の判断を変え、多くの人の命へ影響することは忘れてはならなかった。
扉が叩かれ、フェリクスが一通の封書を持って入ってきた。
「アルベルト大公からです」
マティアスは封蝋を確認してから開き、素早く目を通した。
「レオンハルト殿下が動く」
「エルツェンへ向かうのですか」
「ああ。千八百を率いて出る」
「残りの兵は?」
「後方の守りと、王都方面への備えだろう」
レオンハルトは、シュヴァルツ伯軍だけを見て全軍を動かすことはできない。王家や王兄、他の諸侯がどう動くか分からない以上、自分の拠点を空にするわけにはいかなかった。
「アルベルト様は?」
「六百の兵を出す。指揮はヴァイス男爵だ」
「アルベルト様ご自身は出陣されないのですね」
「アルヴェイン大公本人が大軍を率いてグランヴァルトへ入れば、援軍だけでは済まない。王都も諸侯も警戒する」
「では、六百人をレオンハルト殿下からの援軍要請に応じる形で出す」
「そういうことだ」
マティアスは書状を机へ置いた。
「こちらも明朝に出る」
「こちらというのは、クレーマー商会ですか」
「ああ」
「何人連れていくのです?」
「護衛、傭兵、レオンハルト殿下から預かっている兵を合わせて三百人。荷車は八十台だ」
「八十台も?」
「麦、塩、干し肉、包帯、薬草、工具、木材、予備の車輪を運ぶ。現地で荷を集めるため、空きを残した車も用意する」
「マティアス様も行くのですか」
「当然だ」
「商会の主人が、戦場の近くまで行くのですね」
「俺が何を運び、どこへ渡すか決める。現地を見ず、ベルグハーフェンから命令するだけでは遅れる」
マティアスはアレクを見た。
「お前も来い」
「私もですか」
「初仕事で敵の進路を読んだ。その先を見ずに終えるつもりか」
「いいえ」
「なら準備しろ」
「戦場での役目は?」
「道中で決める」
「まだ決めていないのですか」
「荷車八十台を動かせば、仕事はいくらでも出る」
嫌な予感がした。
しかし、マティアスのそばで戦うということは、剣を持って敵陣へ飛び込むことだけではない。船、倉、荷車、食料を動かし、その先にいる兵を支えることも含まれている。
「分かりました」
「剣を忘れるな」
「忘れません」
「紙と筆もだ」
「どちらが大切ですか」
「どちらが欠けても困る」
それがマティアスの答えだった。
◇ ◇ ◇
宿へ戻ったアレクは、寝台の上へ荷物を並べた。
衣服、外套、剣、短剣、紙、筆、地図、水袋。マティアスの商隊には医師も鍛冶職人も同行するというが、自分で持てるものまで人任せにはできない。
予備の服を荷箱へ入れていると、扉を叩く音がした。
「アレク、入るぞ」
「どうぞ」
アルベルトが部屋へ入り、寝台の上を見た。
「聞いた。明朝、エルツェンへ向かうそうだな」
「はい。マティアス様の隊と一緒に出ます」
「準備を見せろ」
アルベルトは返事を待たず、荷物を一つずつ確かめ始めた。
「外套が薄い」
「まだ寒い季節ではありません」
「ローデン峡道は夜になると冷える。厚いものも持て」
「分かりました」
「予備の靴は」
「荷箱に入れました」
「手袋は」
「ありません」
「革のものを持っていけ。手綱にも荷車の修理にも使える」
「はい」
「水袋は一つか」
「商隊にもあります」
「自分のものをもう一つ用意しろ。隊列が崩れた時に商隊の荷へ戻れるとは限らん」
「分かりました」
アルベルトは腰箱を開け、中に入っていた小さな布と薬を確かめた。
「これだけでは足りん」
「マティアス様の隊には医師も薬草もあります」
「医師のところまで歩けない怪我をするかもしれん。最低限は自分で持て」
「アルベルト様」
「何だ」
「母親のようですね」
アルベルトの手が止まった。
「次に同じことを言ったら、その荷物ごと廊下へ出すぞ」
「申し訳ありません」
アレクはすぐに頭を下げた。
だが、アルベルトが自分の荷物を確かめている姿は、昨日までと変わらない。仕える相手が変わっても、それまで築いた関係まで消えたわけではなかった。
「最初の仕事はどうだった」
アルベルトが尋ねた。
「朝から商会の報告を読まされました」
「お前には向いているな」
「途中までは何も分かりませんでした」
「それで?」
「物と金の動きから、シュヴァルツ伯軍が東へ向かうと判断しました。その直後に急使が来て、実際に東進したと分かりました」
「当てたか」
「はい。ただ、間違っていた場合を考えると怖いです」
「その怖さがなくなった時の方が危ない」
「マティアス様にも、似たことを言われました」
「俺とあの男を一緒にするな」
「やはり、そう言うと思いました」
アルベルトがわずかに眉を寄せる。
「それで、後悔したか」
「まだ一日です」
「一日あれば、後悔するには十分だ」
アレクは今日の商館を思い返した。
大量の書類を読み、散らばった情報へ重さを付け、敵軍の進路を考えた。自分の答えが本物の戦へ影響することを知り、怖くなった。
それでも、もう一度同じ仕事を命じられたら、断りたいとは思わない。
「大変ですが、面白いです」
「そうか」
アルベルトはそれだけ答えた。
どこか安心したようにも見えたが、アレクが確かめる前に外套を持ち上げる。
「これではなく、俺の予備を持っていけ」
「ですが、アルベルト様がお使いになるのでは?」
「俺はベルグハーフェンに残る。必要になれば買える」
「ありがとうございます」
「返す時は洗ってからにしろ」
「必ず返せということですね」
「当然だ」
アルベルトは外套を寝台へ置き、扉へ向かった。
「アレク」
「はい」
「帰ってこい」
短い言葉だった。
アレクは迷わず答えた。
「はい。帰ってきます」
アルベルトはうなずき、部屋を出ていった。
扉が閉じた後、アレクは借りた外套を荷物の上へ丁寧に置いた。
◇ ◇ ◇
翌朝、ベルグハーフェンの東門前には、長い隊列ができていた。
先頭には周辺の安全を確かめる騎兵。その後ろに護衛の歩兵が続き、さらに八十台の荷車が並んでいる。最後尾にも兵が配置され、どこから襲われても荷車だけが取り残されないようにしていた。
隊列に加わるのは兵と御者だけではない。
荷の受け渡しを記録する書記、負傷者を診る医師、車輪や馬具を直す鍛冶職人、橋や荷台を補修する大工もいる。
「これでも商隊なのですか」
馬上から隊列を見たアレクが尋ねると、隣にいたマティアスは当然のように答えた。
「商人が物を運び、代金を受け取る。商隊だ」
「兵が三百人います」
「護衛だ」
「医師や大工まで同行しています」
「荷を届ける前に御者が怪我をし、橋が壊れ、荷車が動かなくなるかもしれん」
「何を言っても商隊になるのですね」
「俺たちが軍だと名乗れば、兵糧を誰から買うつもりだ」
アレクは反論を諦めた。
少し離れた場所では、ヴァイス男爵率いるアルヴェイン軍六百が隊列を整えていた。アルベルト本人の旗はない。大公軍による進軍ではなく、援軍として出された部隊であることを示している。
ヴァイス男爵がアレクに気づき、馬を寄せてきた。
「久しぶりだな、アレク」
「お久しぶりです、ヴァイス男爵」
「主を変えた直後に、また戦場か」
「私も、もう少し商館で働くものだと思っていました」
「戦はお前の都合を待ってくれん」
「マティアス様にも同じことを言われました」
ヴァイス男爵は豪快に笑い、マティアスへ一礼した。
「道中、こいつを借りてもよいか」
「本人に聞いてくれ。昨日から俺の配下だが、荷物ではない」
「それを聞いて安心しました」
アレクが言うと、ヴァイス男爵はさらに笑った。
「必要になれば呼ぶ。剣を鈍らせていないか確かめてやろう」
「できれば、確かめる機会が来ないことを願っています」
「臆病になったか」
「戦わずに荷を届けられるなら、その方がよいでしょう」
「言うようになったな」
ヴァイス男爵は満足したようにうなずき、自軍へ戻っていった。
やがて、東門が開かれた。
先頭の騎兵が街道へ出て、護衛の歩兵が続く。荷車の車輪が一斉に動き始めると、石畳を踏む重い音が門の内側へ響いた。
「アレク」
マティアスが呼ぶ。
「はい」
「剣は持ったか」
「腰にあります」
「紙と筆は」
「鞄の中です」
「地図は」
「濡れないように油紙で包みました」
「なら行くぞ」
「私の役目は、まだ教えてもらえないのですか」
「八十台も荷車があれば、じきに分かる」
「問題が起きることを前提にしていませんか」
「問題が一つも起きないと思っているなら、お前をベルグハーフェンへ置いていく」
「行きます」
アレクは即座に答えた。
街道の先にはエルツェンがあり、そのさらに手前をシュヴァルツ伯軍が進んでいる。
ヴァイスブルクで初めて戦場へ向かった時、アレクが頼れるものは、与えられた剣と自分の身体だけだった。
今は違う。
腰には剣がある。鞄には紙と筆と地図がある。
目の前には八十台の荷車があり、その一台一台が兵の食料や負傷者の薬、壊れた道具を直すための材料を運んでいる。
どれか一つが欠ければ、戦場で失われる命が増えるかもしれない。
マティアスの配下としての最初の戦いは、敵兵へ剣を向けるより先に始まっていた。
アレクは東へ続く街道を見つめ、動き始めた隊列とともにベルグハーフェンを出た。
第三篇第九話を読んでいただき、ありがとうございました。
マティアスの直属となったアレクは、自分の意見が戦の判断へ影響する責任と向き合うことになりました。そして、シュヴァルツ伯軍の東進を受け、クレーマー商会もエルツェンへ向けて動き始めます。
次話では、八十台の荷車を率いるアレクたちの前に、戦場へ到着する以前の問題が立ちはだかります。
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