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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第三篇 乱世の潮目

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第八話 自分で選ぶ主

追い続けてきたマティアス・クレーマーと、再び向き合うことになったアレク。

戦場だけではなく、物、金、人、情報まで動かし、戦う前から勝てる形を作ろうとするマティアスの姿を知るほど、アレクの中で一つの思いが強くなっていく。

アルベルトに拾われ、育てられ、居場所を与えられた。

だからこそ、その場所を離れるという選択は簡単ではない。

誰かに命じられたのではなく、自分でこれから進む道を選ぶ時が来る。

 翌日。

 俺はいつもより早く目を覚ました。

 窓の外はまだ薄暗い。

 ベルグハーフェンの河港も、完全には動き始めていなかった。

 それでも遠くから、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。

 俺は寝台から起き上がり、机を見る。

 昨夜書いた紙がそのまま置いてあった。

『明日、マティアスに聞くこと』

 その文字を見ただけで、眠気が消える。

 一つ目。

 何をしようとしているのか。

 二つ目。

 なぜ商人を繋いでいるのか。

 三つ目。

 シュヴァルツ伯軍と関係があるのか。

 四つ目。

 レオンハルト殿下と、どこまで同じ目的なのか。

 五つ目。

 なぜ俺を誘ったのか。

 そして最後。

『俺に何をさせたいのか』

「……」

 昨日までは、聞きたいことを忘れないために書いた。

 でも今見ると。

 少し違う。

 俺は答えを聞きたいだけじゃない。

 自分がどうするのか。

 それを決めるために聞こうとしている。

 前にマティアスから誘われた時。

 俺は断った。

 理由は単純だった。

 知らなかったからだ。

 強そうだった。

 頭も切れた。

 人を惹きつけるものもあった。

 でも、それだけだった。

 俺はアルベルトに仕える時も、一度断った。

 知らない人間へ、自分の人生を預けるのが嫌だった。

 そして後から。

 俺自身がこの人の近くにいたいと思った。

 だから頼んだ。

 今回も。

 同じなのかもしれない。

「アレク」

 扉の向こうから声がした。

「起きてます」

「入るぞ」

 ゲオルクが入ってくる。

 俺の顔を見る。

「寝ていないのか?」

「寝ましたよ」

「その顔で?」

「どんな顔です?」

「考えすぎた顔だ」

「皆、俺の顔分かりすぎじゃないですか?」

「お前が分かりやすすぎる」

「嫌だなぁ」

 ゲオルクが机の紙を見る。

「聞くことは決まったか」

「はい」

「答えは?」

「まだ」

「そうか」

 意外だった。

「聞かないんです?」

「何を」

「仕えるかどうか」

「私が聞いて決まることか?」

「……」

「決めるのはお前だ」

「殿下みたいなこと言いますね」

「それは嫌だな」

「昨日も同じこと言ってた」

 少し笑う。

 でも、ゲオルクはすぐ真面目な顔に戻った。

「一つだけ言っておく」

「はい」

「アルベルト殿下には、自分の口で言え」

「……」

「それだけだ」

「分かってます」

「ならいい」

 ゲオルクが部屋を出ていく。

 俺はもう一度紙を見る。

 マティアスに聞くこと。

 でも。

 その前に。

 俺にはもう一人。

 向き合わなければならない人がいる。


 ◇ ◇ ◇


 正午少し前。

 俺たちはベルグハーフェン南河港へ向かっていた。

 アルベルト。

 俺。

 ゲオルク。

 護衛は四人。

 昨日の書状に指定されていた旧税関は、南河港の端にあった。

 今はほとんど使われていないらしい。

「殿下」

「何だ」

「緊張しません?」

「しない」

「少しはしてくださいよ」

「なぜだ」

「俺だけ緊張してるみたいじゃないですか」

「実際そうだろう」

「ゲオルク様は?」

「していない」

「味方がいない」

 アルベルトが少し笑った。

「何を怖がっている」

「怖いというか」

 言葉を探す。

「決めるかもしれないので」

「何を」

「……色々」

 アルベルトはそれ以上聞かなかった。

 たぶん。

 分かっている。

 旧税関が見えてくる。

 石造りの二階建て。

 古い建物だ。

 正面にはクレーマー商会の旗もない。

 護衛らしい兵士も少ない。

「本当にここ?」

「書状にはそうあった」

 入口には昨日の使者、フェリクス・ローナーが立っていた。

「アルヴェイン大公殿下。アレク・ハルトマン殿」

「マティアスは?」

 アルベルトが聞く。

「中でお待ちです」

「一人か」

「護衛はおりますが、会談には同席いたしません」

「分かった」

 俺たちは中へ入る。

 古い税関らしく、内部には大きな受付台と、荷物を調べるために使っていたらしい広い空間が残っている。

 その奥。

 窓際に一人の男が立っていた。

「来たか」

 マティアス・クレーマー。

 前に会った時と、ほとんど変わらない。

 派手ではない服。

 商人らしい上等な生地。

 でも貴族のような装飾はない。

 茶色の髪を後ろへ流し、口元にはいつものような笑み。

 ただ。

 前より少し痩せた気がする。

「久しぶりだな、アレク」

「お久しぶりです」

「随分と私の周りを嗅ぎ回っていたそうだな」

「その言い方やめてもらえません?」

「事実だろう」

「調べてただけです」

「それを嗅ぎ回ると言う」

「殿下」

 俺はアルベルトを見る。

「何だ」

「助けてください」

「私もそう思う」

「裏切られた」

 マティアスが笑う。

「相変わらずだな」

「最近そればっかり言われます」

「そうか」

 でも。

 笑っている。

 前に会った時と同じ。

 何となく。

 安心した。

「座れ」

 小さな机を囲む。

 マティアス。

 アルベルト。

 俺。

 ゲオルクは少し後ろ。

「さて」

 マティアスが俺を見る。

「聞きたいことがある顔だな」

「顔で分かるんです?」

「お前は分かりやすい」

「皆それ言うなぁ」

「なら直せ」

「難しいです」

 俺は昨夜書いた紙を取り出す。

 マティアスが目を細めた。

「紙まで作ったのか」

「忘れそうなので」

「見せろ」

「嫌です」

「なぜ」

「先に答えを作られそうだから」

 マティアスが少し笑った。

「いいだろう」

「聞いていいんです?」

「そのために呼んだ」

「じゃあ」

 俺は一つ目を見る。

「マティアスさん」

「何だ」

「何をしようとしてるんです?」

「随分大きな質問だな」

「一番聞きたいので」

「商売だ」

「それだけじゃないでしょう」

「なぜ」

「ここ数日見ました」

 俺は話す。

 ヴェラー。

 ブラントの倉庫。

 荷札。

 仲買人。

 信用状。

 両替商。

 船。

 南東へ流れた金。

「一つ一つは普通の商売でした」

「ああ」

「でも、繋がってる」

「そう見えたか」

「はい」

「それで?」

「商売だけなら」

 俺はマティアスを見る。

「レオンハルト殿下と組んで、軍が動く前からこんなに広く準備する必要があります?」

 マティアスの笑みが少し薄くなる。

「レオンハルトから何を聞いた」

「商人は物だけ運ばないって」

「あいつらしいな」

「それと」

 少し間を置く。

「戦が始まってから勝つつもりじゃない。始まる前に勝てる形を作ろうとしてるって」

 マティアスがアルベルトを見る。

「随分話したな」

「全部ではない」

「だろうな」

 マティアスが俺へ戻る。

「それで、お前はどう思った」

「俺に聞くんです?」

「ああ」

「聞きに来たのは俺なんですけど」

「答えを知りたければ、先に自分の考えを出せ」

「アルベルト殿下みたいなこと言うなぁ」

「悪いか?」

「二人いると面倒です」

「聞こえているぞ」

 アルベルトが低い声を出す。

 俺は少し笑う。

「俺は」

 地図を思い浮かべる。

「乱世を終わらせたいのかなって思いました」

 マティアスの目が少し変わった。

「なぜそう思う」

「商売だけなら戦争が続いた方が儲かるものもあるでしょう」

「武器商人ならな」

「食糧も売れる」

「ああ」

「馬も、鉄も」

「そうだな」

「でもマティアスさんは」

 街道。

 船。

 倉庫。

 信用。

「戦争で壊れるものを使いやすくしてる」

「……」

「物流を止めるんじゃなくて、動かそうとしてる」

「ああ」

「商人を一つの領主だけに縛らない」

「ああ」

「だから」

 少し迷う。

「もっと大きいものを作りたいのかなって」

「例えば?」

「国を越えて、人と物が動けるようなもの」

「それだけか?」

「分かりません」

 正直に答える。

「そこまでしか見えませんでした」

 マティアスは少し黙った。

 そして。

「悪くない」

「褒めてます?」

「今回はな」

「今回は?」

「前は半分くらいだった」

「いつの話です?」

「初めて会った時だ」

「酷いなぁ」

 マティアスが笑う。

 だがすぐ。

 顔から笑みが消えた。

「私は」

 声が変わる。

「この乱世が嫌いだ」

「……」

「商人だからではない」

 マティアスは窓の外を見る。

 南河港。

 船。

 荷車。

「戦が起きる度に道が閉じる。橋が焼ける。村が潰れる。商人が殺される。兵士も死ぬ。農民も死ぬ」

 俺は黙る。

「そして領主は言う」

 マティアスの声は淡々としていた。

「仕方がない、と」

「……」

「敵がいるから。隣国が悪いから。王が弱いから。諸侯が従わないから」

 一つずつ。

「理由はいくらでもある」

 マティアスが俺を見る。

「だが」

 目が笑っていない。

「誰かが終わらせなければ、永遠に続く」

 俺の胸が少しざわつく。

「だから終わらせる?」

「ああ」

「どうやって?」

「勝つ」

「……」

「最後まで」

 短い。

 でも。

 迷いがない。

「誰に?」

「全部だ」

「全部?」

「乱世そのものに」

 少し。

 大きすぎる言葉だと思った。

 でも。

 マティアスが言うと。

 冗談には聞こえない。

「王になるつもりですか?」

 アルベルトが僅かに動く。

 でもマティアスは笑った。

「お前は本当に遠慮がないな」

「聞きたいので」

「今は違う」

「今は?」

「ああ」

「じゃあ将来は?」

「必要なら考える」

「……」

 否定しない。

 ぞくりとした。

 前世。

 一人の男。

 農民から。

 天下人へ。

 豊臣秀吉。

 頭に浮かぶ。

 でも。

 すぐ消す。

 違う。

 目の前の男は。

 マティアス・クレーマーだ。

「次」

 マティアスが言う。

「紙にまだ書いてあるのだろう」

「はい」

「聞け」

「じゃあ」

 二つ目。

「なんで商人を繋いでるんです?」

「一人で出来ることには限界があるからだ」

「それだけ?」

「それだけで十分だ」

「でもクレーマー商会を大きくすれば」

「遅い」

「遅い?」

「私一人の商会を大きくするのに何年かかる」

「……」

「船を何百艘も買うか? 倉庫を何十個も建てるか? 全ての街に支店を置くか?」

「無理?」

「出来るかもしれん」

「じゃあ」

「間に合わん」

 即答。

「何に?」

「乱世が進む方が早い」

「……」

「なら、既にあるものを使う」

 船は船頭が持っている。

 倉庫は倉庫主が持っている。

 街道は領主が持っている。

 商人は商人の客を持っている。

「全部、自分のものにする必要はない」

「繋げればいい」

「そうだ」

「利益を作って?」

「ああ」

「皆が自分から動くようにする」

「そうだ」

「……」

 やっぱり。

 この人。

 大きい。

 俺がヴァイスブルクでやったこと。

 市場税。

 基準容器。

 橋。

 倉庫。

 考え方は少し似ている。

 でも。

 規模が違う。

「アレク」

 マティアスが言う。

「何だ?」

「自分との差を見て落ち込むな」

「顔に出てました?」

「分かりやすい」

「またか」

「お前が十五の時に何をやっている」

「……」

「私は十五の頃、帳簿を盗み見て親父に殴られていた」

「え?」

「人間は最初から全部出来るわけではない」

 少し。

 意外だった。

「マティアスさんにも出来ない時あったんですね」

「当たり前だ」

「何でも出来そうに見える」

「買い被るな」

 レオンハルトにも言われた。

「皆同じこと言うなぁ」

「それだけお前が人を大きく見すぎるということだ」

「はい……」

「次」

「三つ目」

 紙を見る。

「シュヴァルツ伯軍と関係あります?」

 マティアスの表情が変わる。

「ある」

 即答だった。

「支援してる?」

「一部は」

 アルベルトの目が鋭くなる。

「マティアス」

「待て、アルベルト」

 マティアスが手を上げる。

「最後まで聞け」

「聞こう」

 俺も黙る。

「シュヴァルツ伯へ食糧を売った」

「……」

「武器も?」

「鉄は売った」

「武器になる」

「ああ」

「それって」

「敵を助けているように見えるな」

「はい」

「では聞く」

 また。

「シュヴァルツ伯が食糧を買えなければどうする」

「徴発?」

「ああ」

「村から取る」

「そうだ」

「でも」

「私が売れば金になる」

「……」

 農民から奪うか。

 商人から買うか。

「それだけ?」

「それだけではない」

「他に?」

「何を買ったか分かる」

 俺が止まる。

「どれだけ?」

「分かる」

「どこへ運んだか?」

「分かる」

「いつ?」

「分かる」

「……情報」

「そうだ」

 マティアスは敵に売っている。

 でも。

 ただ儲けているわけではない。

「シュヴァルツ伯の補給を見てる?」

「一部はな」

「レオンハルト殿下に?」

「伝えている」

 アルベルトが小さく息を吐いた。

「なるほどな」

「何です?」

「敵に物を売り、その金で情報まで取る」

「そういうこと」

 俺は少し怖くなる。

「嫌いか?」

 マティアスが聞く。

「……分かりません」

「正直だな」

「だって」

 敵に売る。

 普通なら裏切りに見える。

 でも売らなければ村が焼かれるかもしれない。

 売れば敵の動きが分かる。

「簡単に良い悪いって言えない」

「乱世はそういうものだ」

 その言葉。

 好きじゃない。

「でも」

「何だ」

「それを理由に何でもやっていいとは思わない」

 マティアスが俺を見る。

「そうだな」

「……」

「意外か?」

「少し」

「私も何でもするわけではない」

「線がある?」

「ああ」

「どこ?」

「それは」

 少し間。

「その時にならなければ分からん」

「曖昧ですね」

「人間だからな」

 完璧な答えじゃない。

 でも。

 だから。

 少し信用できる気がした。

 自分は絶対正しいと言わない。

「次は?」

「レオンハルト殿下との関係」

「昨日聞かなかったのか?」

「聞きました」

「なら」

「本人からも聞きたい」

 マティアスが笑う。

「いいだろう」

「同じ目的なんです?」

「一部は」

「どこまで?」

「シュヴァルツを抑えること」

「その後は?」

「分からん」

「王都とレオンハルト殿下が争うかもしれない?」

「ああ」

「その時マティアスさんは?」

「その時決める」

「……」

 やっぱり。

 永遠の味方ではない。

「レオンハルト殿下はそれ知ってます」

「だろうな」

「信用してるって」

「私も信用している」

「警戒も?」

「当然だ」

「二人とも同じこと言うなぁ」

 マティアスが笑う。

「だから組める」

「同じ考えだから?」

「違う」

「じゃあ?」

「互いに、相手が自分と違うと分かっているからだ」

「……」

 少し難しい。

「同じ人間だと思っていた方が、違った時に裏切りと感じる」

「なるほど」

「最初から違うと分かっていれば、話せる」

 俺は頷いた。

「次」

 残る。

 二つ。

 少し。

 緊張する。

「俺を誘った理由」

「前にも言った」

「もう一回聞きたい」

「なぜ」

「今は、前よりマティアスさんを知ってるから」

「……」

「前と同じ答えでも、俺の受け取り方が違うかもしれない」

 マティアスが少し黙った。

 それから。

「お前が欲しいからだ」

「直球だな」

「遠回りが好きか?」

「いや」

「ならいい」

「何に使いたいんです?」

 最後の質問と一緒になった。

 マティアスが俺を見る。

「それを聞きたかったか」

「はい」

「戦だ」

「……」

「内政だ」

「はい」

「商売だ」

「はい」

「交渉だ」

「はい」

「全部だ」

「全部?」

「ああ」

 マティアスが椅子へ背を預ける。

「お前は兵士だけではない」

「そうですか?」

「剣は使える」

「はい」

「戦場も見た」

「少し」

「市場を触った」

「はい」

「倉庫も」

「はい」

「橋も」

「はい」

「商人とも話す」

「はい」

「そして」

 マティアスの目が少し鋭くなる。

「分からない時に、分からないと言う」

「それ」

「大事だ」

「そんなに?」

「ああ」

「何で?」

「上へ行くほど、分からないと言えなくなる奴が多い」

「……」

「知っているふりをする。間違いを認めない。部下が止めても聞かない」

「いますね」

「いる」

「前世にも……」

 言いかける。

 止める。

「昔読んだ話にも」

「そうか」

「はい」

「お前にはそれが少ない」

「少ないだけ?」

「ないとは言わん」

「酷い」

「それと」

「まだある?」

「人を見る」

「俺が?」

「ああ」

「神様にもらった能力もありますけど」

 口に出して。

 少しだけ止まる。

 神。

 当然マティアスには意味が分からない。

「何だ?」

「いや」

「変な奴だな」

「よく言われます」

「私は」

 マティアスが続ける。

「お前に、私と同じことをさせたいわけではない」

「じゃあ?」

「私が見ないものを見ろ」

「……」

「私が間違えたら止めろ」

「……」

「私が知らないことを知っているなら言え」

 胸が。

 少し速くなる。

「それが」

 マティアス。

「私がお前を欲しい理由だ」

「……」

 これ。

 ずるい。

 そう思った。

 俺が。

 一番やりたいことを。

 言われた気がする。

 俺はマティアスを見る。

 前世の知識。

 戦国時代。

 会社。

 数学。

 理科。

 物流。

 帳簿。

 全部。

 この世界でそのまま使えるわけじゃない。

 でも。

 使えるところはある。

 そして。

 俺自身が。

 この世界で学び始めている。

「アレク」

 マティアスが言う。

「何だ」

「もう一度聞こう」

 来る。

 そう思った。

「私に仕えるか?」

 でも。

 その瞬間。

 俺の中で。

 何かが違うと思った。

「……」

「答えは急がん」

 マティアスが言う。

「前と同じでも構わない」

「……」

「自分で決めろ」

 俺は。

 少しだけ笑った。

「マティアスさん」

「何だ」

「一個だけ違います」

「何が」

「今日は」

 俺は椅子から立った。

「あなたに聞かれる前に、俺から言おうと思ってました」

 マティアスの表情が変わる。

 アルベルトも。

 ゲオルクも。

 俺を見る。

 でも。

 まだ。

 一つだけ。

 順番がある。

「ただ」

「何だ」

「まだ言えません」

「なぜ」

「俺には今、主君がいるから」

 俺はアルベルトを見る。

 アルベルトは何も言わない。

「先に」

 俺は頭を下げた。

「話をさせてください」

 マティアスはしばらく俺を見ていた。

 そして。

「ああ」

 それだけ答えた。


 ◇ ◇ ◇


 旧税関を出た後。

 俺たちは宿へ戻った。

 道中。

 誰も。

 あまり喋らなかった。

 俺も。

 何を言えばいいのか分からなかった。

 宿に着く。

 アルベルトが部屋へ戻ろうとする。

「殿下」

「何だ」

「少し」

「ああ」

 やっぱり。

 分かっている。

「部屋へ来い」

「はい」

 ゲオルクが俺を見る。

「行け」

「はい」

 アルベルトの部屋。

 扉が閉まる。

 二人。

 机。

 椅子。

 地図。

 いつもなら。

 何か話す。

 でも。

 俺は立ったまま。

 言えない。

「何だ」

 アルベルトが聞く。

「……殿下」

「何だ」

「俺」

 止まる。

「……」

「マティアスのところへ行きたいのか」

 顔を上げる。

「何で分かったんです?」

「お前を何年見ていると思っている」

「まだそんなに長くないですよ」

「……そうだったな」

「殿下まで忘れてる」

「細かいことはいい」

 いつもの会話。

 少し。

 気持ちが楽になる。

「それで?」

「……はい」

「行きたいのか」

「はい」

 今度は。

 止まらなかった。

「理由は」

「俺」

 マティアスとの話を思い出す。

「前にあの人から誘われた時、断りました」

「ああ」

「知らなかったから」

「ああ」

「今も全部は知らないです」

「ああ」

「でも」

 言葉を探す。

「もっと知りたい」

 アルベルトは黙っている。

「あの人が、どこまで行くのか見たい」

「……」

「何を作るのか見たい」

「……」

「乱世を終わらせるって言いました」

「あいつが?」

「はい」

「信じたのか」

「分かりません」

「分からない?」

「本当に出来るかは」

 出来ないかもしれない。

 失敗するかもしれない。

 前世の秀吉を知っているから。

 似た未来を想像しているだけかもしれない。

「でも」

 俺はアルベルトを見る。

「俺が、あの人についていきたいと思いました」

 アルベルトの目が少し変わった。

「マティアスが勝ちそうだからか」

「違います」

「大きな勢力になると思ったからか」

「それも違います」

「前世の知識で、奴が何者か分かったからか」

 俺は止まる。

 アルベルトには。

 前世の話をしていない。

 だから。

 その言葉は出ない。

 代わりに。

「似ている人を知っているからじゃないです」

 そう答える。

「何だ?」

「昔読んだ物語に」

「またそれか」

「はい」

 俺は少し笑う。

「似た人はいます」

「ああ」

「でも」

 マティアスの顔。

「俺が仕えたいと思ったのは、その人じゃない」

「……」

「マティアス・クレーマーです」

 言えた。

 ちゃんと。

「だから」

 俺は姿勢を正す。

 そして。

 頭を下げる。

「アルベルト殿下」

「ああ」

「俺を」

 一瞬。

 声が揺れた。

「マティアスのところへ行かせてください」

 静かだった。

 外。

 遠く。

 荷車の音。

 俺は頭を下げたまま。

 待つ。

「遅かったな」

「……え?」

 顔を上げる。

 アルベルトが少し笑っている。

「何です?」

「もっと早く言うと思っていた」

「いつから?」

「今回の旅に出る前から」

「そんなに?」

「お前、マティアスの話をする時だけ少し違う」

「違う?」

「ああ」

「どんな?」

「面倒だから教えん」

「そこ教えてくださいよ」

「それと」

 アルベルトが俺を見る。

「この数日」

「はい」

「奴の痕跡を追っているお前は楽しそうだった」

「楽しそう?」

「気づいていないのか」

「……」

 確かに。

 大変だった。

 でも。

 知りたかった。

 もっと。

 もっと。

「殿下」

「何だ」

「怒らないんです?」

「なぜ」

「俺、殿下の小姓ですよ」

「ああ」

「それなのに」

「いつまでも小姓でいられても困る」

「……」

 胸が。

 少し。

 痛い。

「お前は私の小姓だ」

「はい」

「私が拾った」

「はい」

「剣を振らせた」

「はい」

「戦場へ連れていった」

「はい」

「市場へ放り込んだ」

「それは俺が勝手に」

「似たようなものだ」

「違いますよ」

 少し笑う。

 でも。

 アルベルトの表情は真面目だった。

「だが」

 声が低くなる。

「私の側に置いておくために育てたわけではない」

「……」

「お前が、自分で考えて、自分で選べるようになればいいと思っていた」

「殿下……」

「なら」

 少し間。

「行け」

「……」

「自分で選んだのだろう」

「はい」

「なら行け」

 俺は。

 何も言えなかった。

 嬉しい。

 寂しい。

 怖い。

 全部。

 混ざる。

「ただし」

「……はい」

「一つ約束しろ」

「何です?」

「死ぬな」

「……」

 思わず。

 少し笑った。

「最近それ、よく聞きます」

「誰に言われた」

「レオンハルト殿下」

「あいつもか」

「はい」

「なら二人分だ」

「重いなぁ」

「守れ」

「努力します」

「約束だ」

「……はい」

 今度は。

 ちゃんと答える。

「約束します」

 アルベルトが頷く。

「それでいい」

「殿下」

「何だ」

「俺がいなくなったら寂しいです?」

「殺すぞ」

「それは寂しいってことですよね?」

「今すぐ追い出すぞ」

「もう行くって言ってるでしょう」

「なら早く行け」

「酷いなぁ」

 でも。

 笑える。

 良かった。

 本当に。

「アレク」

「はい」

「一つだけ」

「何です?」

「マティアスが間違えた時」

 アルベルトが俺を見る。

「止めろ」

「……」

「お前は、あいつを英雄だと思ってついていくな」

「はい」

「主だから正しいと思うな」

「はい」

「自分で選んだなら」

 少し間。

「自分で見続けろ」

「……はい」

 それ。

 覚えておく。

 ずっと。

「分かりました」

「なら行け」

「今?」

「話をしに来たのだろう」

「今日中に?」

「奴は待っている」

 確かに。

「分かりました」

 扉へ向かう。

 でも。

 開ける前に。

 振り返る。

「殿下」

「何だ」

「今まで」

「言うな」

「え?」

「別れの挨拶みたいにするな」

「……」

「お前がマティアスに仕えても、私と縁が切れるわけではない」

「……はい」

「今度会った時も、同じように働かせる」

「それは嫌です」

「なら帰ってくるな」

「どっちなんですか!」

 アルベルトが笑った。

 俺も笑う。

「行ってきます」

「ああ」

 今度こそ。

 扉を開けた。


 ◇ ◇ ◇


 旧税関へ戻ったのは、夕方近くだった。

 マティアスはまだいた。

 俺を見る。

「早かったな」

「待ってたんです?」

「少し」

「帰ると思わなかった?」

「半分は」

「酷い」

「それで?」

 マティアスが立つ。

 俺も。

 ちゃんと。

 向き合う。

「話してきました」

「アルベルトは?」

「行けって」

「そうか」

 マティアスが少しだけ笑う。

「では」

 その言葉を止める。

「待ってください」

「何だ」

「今度は俺から言います」

「……」

 マティアスが黙る。

 俺は一度。

 息を吸う。

 前。

 アルベルトに。

 自分から頼んだ。

 今度も。

 同じ。

 俺自身が。

 選ぶ。

「マティアス・クレーマー様」

 初めて。

 様をつける。

 マティアスの目が僅かに変わった。

「俺を」

 言葉が。

 少しだけ震える。

 でも。

 止めない。

「あなたの下で働かせてください」

 静かだった。

 マティアスは。

 すぐに答えなかった。

「一度断った男の言葉とは思えんな」

「……あの時とは違います」

「何が違う」

「前は」

 俺は答える。

「あなたを知らなかった」

「ああ」

「今も全部は知らない」

「ああ」

「でも」

 俺はマティアスを見る。

「知りたいと思いました」

「それだけか」

「それと」

 乱世。

 商人。

 兵。

 金。

 人。

 情報。

「あなたが何をするのか、近くで見たい」

「……」

「出来るなら」

 少し笑う。

「俺も、その中で役に立ちたい」

 マティアスの表情が少し変わる。

「私は間違えるぞ」

「はい」

「負けるかもしれん」

「はい」

「死ぬかもしれん」

「それは困ります」

「なぜ」

「仕えた直後に死なれたら、俺が困るので」

 マティアスが笑った。

「相変わらずだな」

「でも」

 俺も少し笑う。

「それでも」

 言う。

「俺が、あなたについていきたいと思ったんです」

 今度こそ。

 自分の言葉。

 マティアスが。

 しばらく俺を見る。

 そして。

「分かった」

 短い。

「アレク・ハルトマン」

「はい」

「今日から、私の下で働け」

「……はい」

「ただし」

「何です?」

「小姓はいらん」

「え?」

「アルベルトの真似をしてどうする」

「じゃあ俺は何を?」

「決めていない」

「決めてない!?」

「お前に何が出来るか見てから決める」

「そこは考えておいてくださいよ!」

「働きながら考える」

「ひどいなぁ」

 マティアスが笑う。

 俺も。

 笑った。

 でも。

 胸の奥。

 確かに。

 何かが変わった。

 俺は。

 マティアス・クレーマーに仕える。

 誰かに言われたからではない。

 神に決められたからでもない。

 アルベルトに命令されたからでもない。

 俺自身が。

 選んだ。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜。

 宿へ戻ると。

 ゲオルクが廊下にいた。

「どうだった」

「決まりました」

「そうか」

「それだけ?」

「何がだ」

「もう少し寂しがってくださいよ」

「お前はまだここにいる」

「明日から違うかも」

「同じ町にいるだろう」

「そうですけど」

 ゲオルクが少し笑う。

「アレク」

「はい」

「よく考えたか」

「たぶん」

「たぶんか」

「全部正しいかは分からないです」

「それでいい」

「いいんです?」

「ああ」

 ゲオルクが俺の肩を軽く叩く。

「自分で決めたならな」

「……」

「ただ」

「何です?」

「殿下を忘れるな」

「忘れませんよ」

「本当に?」

「絶対」

 即答。

 それだけは。

 迷わない。

「ならいい」

 ゲオルクが去る。

 俺は自分の部屋へ入った。

 机。

 昨日の紙。

『明日、マティアスに聞くこと』

 全部。

 聞いた。

 答えも。

 全部じゃない。

 でも。

 十分だった。

 俺は紙を裏返す。

 新しい面に。

 一つだけ書く。

『マティアス・クレーマーに仕える』

「……」

 変な感じだ。

 前世。

 俺は会社員だった。

 上司は選べなかった。

 仕事も。

 全部じゃない。

 転生して。

 アルベルトに出会った。

 最初は断った。

 後から。

 自分で頼んだ。

 そして今。

 また。

 自分で選んだ。

「主君、か」

 少し。

 重い。

 でも。

 悪くない。

 窓の外。

 ベルグハーフェン。

 船。

 灯り。

 人。

 今日も動いている。

 マティアスは。

 この流れを。

 もっと大きくしようとしている。

 国を越え。

 人を繋ぎ。

 最後には。

 乱世を終わらせる。

 本当に出来るのか。

 分からない。

 でも。

 見たい。

 その先を。

 そして。

 出来るなら。

 俺も。

 そこにいたい。

「さて」

 紙を畳む。

「明日から何させられるんだろう」

 少し怖い。

 かなり怖い。

 でも。

 それ以上に。

 楽しみだった。

 この日。

 俺は初めて。

 誰かに勧められたからでも。

 流されただけでもなく。

 自分の意思で。

 自分が仕える主を選んだ。

 その選択が。

 俺の人生を。

 そして。

 この世界の歴史を。

 どこまで変えることになるのか。

 この時の俺は。

 まだ知らなかった。

ここまでアレクを導いてきたアルベルトのもとを離れ、マティアスに仕える道を選んだアレク。

それはアルベルトを見限ったからでも、これまでの日々を捨てたからでもありません。

むしろアルベルトのもとで戦場を知り、ヴァイスブルクで人々の暮らしを知り、自分で考えて行動することを覚えたからこそ、アレクは自分の意思で次の道を選べるようになりました。

そしてアルベルトもまた、引き留めるのではなく、その選択を認めます。

ここからアレクが見る乱世は、さらに大きくなっていきます。

一つの街を動かすところから、やがて国と国、人と人、そして時代そのものが動く場所へ。

マティアス・クレーマーの傍らで、アレクは新しい一歩を踏み出します。

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