第八話 自分で選ぶ主
追い続けてきたマティアス・クレーマーと、再び向き合うことになったアレク。
戦場だけではなく、物、金、人、情報まで動かし、戦う前から勝てる形を作ろうとするマティアスの姿を知るほど、アレクの中で一つの思いが強くなっていく。
アルベルトに拾われ、育てられ、居場所を与えられた。
だからこそ、その場所を離れるという選択は簡単ではない。
誰かに命じられたのではなく、自分でこれから進む道を選ぶ時が来る。
翌日。
俺はいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
ベルグハーフェンの河港も、完全には動き始めていなかった。
それでも遠くから、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。
俺は寝台から起き上がり、机を見る。
昨夜書いた紙がそのまま置いてあった。
『明日、マティアスに聞くこと』
その文字を見ただけで、眠気が消える。
一つ目。
何をしようとしているのか。
二つ目。
なぜ商人を繋いでいるのか。
三つ目。
シュヴァルツ伯軍と関係があるのか。
四つ目。
レオンハルト殿下と、どこまで同じ目的なのか。
五つ目。
なぜ俺を誘ったのか。
そして最後。
『俺に何をさせたいのか』
「……」
昨日までは、聞きたいことを忘れないために書いた。
でも今見ると。
少し違う。
俺は答えを聞きたいだけじゃない。
自分がどうするのか。
それを決めるために聞こうとしている。
前にマティアスから誘われた時。
俺は断った。
理由は単純だった。
知らなかったからだ。
強そうだった。
頭も切れた。
人を惹きつけるものもあった。
でも、それだけだった。
俺はアルベルトに仕える時も、一度断った。
知らない人間へ、自分の人生を預けるのが嫌だった。
そして後から。
俺自身がこの人の近くにいたいと思った。
だから頼んだ。
今回も。
同じなのかもしれない。
「アレク」
扉の向こうから声がした。
「起きてます」
「入るぞ」
ゲオルクが入ってくる。
俺の顔を見る。
「寝ていないのか?」
「寝ましたよ」
「その顔で?」
「どんな顔です?」
「考えすぎた顔だ」
「皆、俺の顔分かりすぎじゃないですか?」
「お前が分かりやすすぎる」
「嫌だなぁ」
ゲオルクが机の紙を見る。
「聞くことは決まったか」
「はい」
「答えは?」
「まだ」
「そうか」
意外だった。
「聞かないんです?」
「何を」
「仕えるかどうか」
「私が聞いて決まることか?」
「……」
「決めるのはお前だ」
「殿下みたいなこと言いますね」
「それは嫌だな」
「昨日も同じこと言ってた」
少し笑う。
でも、ゲオルクはすぐ真面目な顔に戻った。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「アルベルト殿下には、自分の口で言え」
「……」
「それだけだ」
「分かってます」
「ならいい」
ゲオルクが部屋を出ていく。
俺はもう一度紙を見る。
マティアスに聞くこと。
でも。
その前に。
俺にはもう一人。
向き合わなければならない人がいる。
◇ ◇ ◇
正午少し前。
俺たちはベルグハーフェン南河港へ向かっていた。
アルベルト。
俺。
ゲオルク。
護衛は四人。
昨日の書状に指定されていた旧税関は、南河港の端にあった。
今はほとんど使われていないらしい。
「殿下」
「何だ」
「緊張しません?」
「しない」
「少しはしてくださいよ」
「なぜだ」
「俺だけ緊張してるみたいじゃないですか」
「実際そうだろう」
「ゲオルク様は?」
「していない」
「味方がいない」
アルベルトが少し笑った。
「何を怖がっている」
「怖いというか」
言葉を探す。
「決めるかもしれないので」
「何を」
「……色々」
アルベルトはそれ以上聞かなかった。
たぶん。
分かっている。
旧税関が見えてくる。
石造りの二階建て。
古い建物だ。
正面にはクレーマー商会の旗もない。
護衛らしい兵士も少ない。
「本当にここ?」
「書状にはそうあった」
入口には昨日の使者、フェリクス・ローナーが立っていた。
「アルヴェイン大公殿下。アレク・ハルトマン殿」
「マティアスは?」
アルベルトが聞く。
「中でお待ちです」
「一人か」
「護衛はおりますが、会談には同席いたしません」
「分かった」
俺たちは中へ入る。
古い税関らしく、内部には大きな受付台と、荷物を調べるために使っていたらしい広い空間が残っている。
その奥。
窓際に一人の男が立っていた。
「来たか」
マティアス・クレーマー。
前に会った時と、ほとんど変わらない。
派手ではない服。
商人らしい上等な生地。
でも貴族のような装飾はない。
茶色の髪を後ろへ流し、口元にはいつものような笑み。
ただ。
前より少し痩せた気がする。
「久しぶりだな、アレク」
「お久しぶりです」
「随分と私の周りを嗅ぎ回っていたそうだな」
「その言い方やめてもらえません?」
「事実だろう」
「調べてただけです」
「それを嗅ぎ回ると言う」
「殿下」
俺はアルベルトを見る。
「何だ」
「助けてください」
「私もそう思う」
「裏切られた」
マティアスが笑う。
「相変わらずだな」
「最近そればっかり言われます」
「そうか」
でも。
笑っている。
前に会った時と同じ。
何となく。
安心した。
「座れ」
小さな机を囲む。
マティアス。
アルベルト。
俺。
ゲオルクは少し後ろ。
「さて」
マティアスが俺を見る。
「聞きたいことがある顔だな」
「顔で分かるんです?」
「お前は分かりやすい」
「皆それ言うなぁ」
「なら直せ」
「難しいです」
俺は昨夜書いた紙を取り出す。
マティアスが目を細めた。
「紙まで作ったのか」
「忘れそうなので」
「見せろ」
「嫌です」
「なぜ」
「先に答えを作られそうだから」
マティアスが少し笑った。
「いいだろう」
「聞いていいんです?」
「そのために呼んだ」
「じゃあ」
俺は一つ目を見る。
「マティアスさん」
「何だ」
「何をしようとしてるんです?」
「随分大きな質問だな」
「一番聞きたいので」
「商売だ」
「それだけじゃないでしょう」
「なぜ」
「ここ数日見ました」
俺は話す。
ヴェラー。
ブラントの倉庫。
荷札。
仲買人。
信用状。
両替商。
船。
南東へ流れた金。
「一つ一つは普通の商売でした」
「ああ」
「でも、繋がってる」
「そう見えたか」
「はい」
「それで?」
「商売だけなら」
俺はマティアスを見る。
「レオンハルト殿下と組んで、軍が動く前からこんなに広く準備する必要があります?」
マティアスの笑みが少し薄くなる。
「レオンハルトから何を聞いた」
「商人は物だけ運ばないって」
「あいつらしいな」
「それと」
少し間を置く。
「戦が始まってから勝つつもりじゃない。始まる前に勝てる形を作ろうとしてるって」
マティアスがアルベルトを見る。
「随分話したな」
「全部ではない」
「だろうな」
マティアスが俺へ戻る。
「それで、お前はどう思った」
「俺に聞くんです?」
「ああ」
「聞きに来たのは俺なんですけど」
「答えを知りたければ、先に自分の考えを出せ」
「アルベルト殿下みたいなこと言うなぁ」
「悪いか?」
「二人いると面倒です」
「聞こえているぞ」
アルベルトが低い声を出す。
俺は少し笑う。
「俺は」
地図を思い浮かべる。
「乱世を終わらせたいのかなって思いました」
マティアスの目が少し変わった。
「なぜそう思う」
「商売だけなら戦争が続いた方が儲かるものもあるでしょう」
「武器商人ならな」
「食糧も売れる」
「ああ」
「馬も、鉄も」
「そうだな」
「でもマティアスさんは」
街道。
船。
倉庫。
信用。
「戦争で壊れるものを使いやすくしてる」
「……」
「物流を止めるんじゃなくて、動かそうとしてる」
「ああ」
「商人を一つの領主だけに縛らない」
「ああ」
「だから」
少し迷う。
「もっと大きいものを作りたいのかなって」
「例えば?」
「国を越えて、人と物が動けるようなもの」
「それだけか?」
「分かりません」
正直に答える。
「そこまでしか見えませんでした」
マティアスは少し黙った。
そして。
「悪くない」
「褒めてます?」
「今回はな」
「今回は?」
「前は半分くらいだった」
「いつの話です?」
「初めて会った時だ」
「酷いなぁ」
マティアスが笑う。
だがすぐ。
顔から笑みが消えた。
「私は」
声が変わる。
「この乱世が嫌いだ」
「……」
「商人だからではない」
マティアスは窓の外を見る。
南河港。
船。
荷車。
「戦が起きる度に道が閉じる。橋が焼ける。村が潰れる。商人が殺される。兵士も死ぬ。農民も死ぬ」
俺は黙る。
「そして領主は言う」
マティアスの声は淡々としていた。
「仕方がない、と」
「……」
「敵がいるから。隣国が悪いから。王が弱いから。諸侯が従わないから」
一つずつ。
「理由はいくらでもある」
マティアスが俺を見る。
「だが」
目が笑っていない。
「誰かが終わらせなければ、永遠に続く」
俺の胸が少しざわつく。
「だから終わらせる?」
「ああ」
「どうやって?」
「勝つ」
「……」
「最後まで」
短い。
でも。
迷いがない。
「誰に?」
「全部だ」
「全部?」
「乱世そのものに」
少し。
大きすぎる言葉だと思った。
でも。
マティアスが言うと。
冗談には聞こえない。
「王になるつもりですか?」
アルベルトが僅かに動く。
でもマティアスは笑った。
「お前は本当に遠慮がないな」
「聞きたいので」
「今は違う」
「今は?」
「ああ」
「じゃあ将来は?」
「必要なら考える」
「……」
否定しない。
ぞくりとした。
前世。
一人の男。
農民から。
天下人へ。
豊臣秀吉。
頭に浮かぶ。
でも。
すぐ消す。
違う。
目の前の男は。
マティアス・クレーマーだ。
「次」
マティアスが言う。
「紙にまだ書いてあるのだろう」
「はい」
「聞け」
「じゃあ」
二つ目。
「なんで商人を繋いでるんです?」
「一人で出来ることには限界があるからだ」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
「でもクレーマー商会を大きくすれば」
「遅い」
「遅い?」
「私一人の商会を大きくするのに何年かかる」
「……」
「船を何百艘も買うか? 倉庫を何十個も建てるか? 全ての街に支店を置くか?」
「無理?」
「出来るかもしれん」
「じゃあ」
「間に合わん」
即答。
「何に?」
「乱世が進む方が早い」
「……」
「なら、既にあるものを使う」
船は船頭が持っている。
倉庫は倉庫主が持っている。
街道は領主が持っている。
商人は商人の客を持っている。
「全部、自分のものにする必要はない」
「繋げればいい」
「そうだ」
「利益を作って?」
「ああ」
「皆が自分から動くようにする」
「そうだ」
「……」
やっぱり。
この人。
大きい。
俺がヴァイスブルクでやったこと。
市場税。
基準容器。
橋。
倉庫。
考え方は少し似ている。
でも。
規模が違う。
「アレク」
マティアスが言う。
「何だ?」
「自分との差を見て落ち込むな」
「顔に出てました?」
「分かりやすい」
「またか」
「お前が十五の時に何をやっている」
「……」
「私は十五の頃、帳簿を盗み見て親父に殴られていた」
「え?」
「人間は最初から全部出来るわけではない」
少し。
意外だった。
「マティアスさんにも出来ない時あったんですね」
「当たり前だ」
「何でも出来そうに見える」
「買い被るな」
レオンハルトにも言われた。
「皆同じこと言うなぁ」
「それだけお前が人を大きく見すぎるということだ」
「はい……」
「次」
「三つ目」
紙を見る。
「シュヴァルツ伯軍と関係あります?」
マティアスの表情が変わる。
「ある」
即答だった。
「支援してる?」
「一部は」
アルベルトの目が鋭くなる。
「マティアス」
「待て、アルベルト」
マティアスが手を上げる。
「最後まで聞け」
「聞こう」
俺も黙る。
「シュヴァルツ伯へ食糧を売った」
「……」
「武器も?」
「鉄は売った」
「武器になる」
「ああ」
「それって」
「敵を助けているように見えるな」
「はい」
「では聞く」
また。
「シュヴァルツ伯が食糧を買えなければどうする」
「徴発?」
「ああ」
「村から取る」
「そうだ」
「でも」
「私が売れば金になる」
「……」
農民から奪うか。
商人から買うか。
「それだけ?」
「それだけではない」
「他に?」
「何を買ったか分かる」
俺が止まる。
「どれだけ?」
「分かる」
「どこへ運んだか?」
「分かる」
「いつ?」
「分かる」
「……情報」
「そうだ」
マティアスは敵に売っている。
でも。
ただ儲けているわけではない。
「シュヴァルツ伯の補給を見てる?」
「一部はな」
「レオンハルト殿下に?」
「伝えている」
アルベルトが小さく息を吐いた。
「なるほどな」
「何です?」
「敵に物を売り、その金で情報まで取る」
「そういうこと」
俺は少し怖くなる。
「嫌いか?」
マティアスが聞く。
「……分かりません」
「正直だな」
「だって」
敵に売る。
普通なら裏切りに見える。
でも売らなければ村が焼かれるかもしれない。
売れば敵の動きが分かる。
「簡単に良い悪いって言えない」
「乱世はそういうものだ」
その言葉。
好きじゃない。
「でも」
「何だ」
「それを理由に何でもやっていいとは思わない」
マティアスが俺を見る。
「そうだな」
「……」
「意外か?」
「少し」
「私も何でもするわけではない」
「線がある?」
「ああ」
「どこ?」
「それは」
少し間。
「その時にならなければ分からん」
「曖昧ですね」
「人間だからな」
完璧な答えじゃない。
でも。
だから。
少し信用できる気がした。
自分は絶対正しいと言わない。
「次は?」
「レオンハルト殿下との関係」
「昨日聞かなかったのか?」
「聞きました」
「なら」
「本人からも聞きたい」
マティアスが笑う。
「いいだろう」
「同じ目的なんです?」
「一部は」
「どこまで?」
「シュヴァルツを抑えること」
「その後は?」
「分からん」
「王都とレオンハルト殿下が争うかもしれない?」
「ああ」
「その時マティアスさんは?」
「その時決める」
「……」
やっぱり。
永遠の味方ではない。
「レオンハルト殿下はそれ知ってます」
「だろうな」
「信用してるって」
「私も信用している」
「警戒も?」
「当然だ」
「二人とも同じこと言うなぁ」
マティアスが笑う。
「だから組める」
「同じ考えだから?」
「違う」
「じゃあ?」
「互いに、相手が自分と違うと分かっているからだ」
「……」
少し難しい。
「同じ人間だと思っていた方が、違った時に裏切りと感じる」
「なるほど」
「最初から違うと分かっていれば、話せる」
俺は頷いた。
「次」
残る。
二つ。
少し。
緊張する。
「俺を誘った理由」
「前にも言った」
「もう一回聞きたい」
「なぜ」
「今は、前よりマティアスさんを知ってるから」
「……」
「前と同じ答えでも、俺の受け取り方が違うかもしれない」
マティアスが少し黙った。
それから。
「お前が欲しいからだ」
「直球だな」
「遠回りが好きか?」
「いや」
「ならいい」
「何に使いたいんです?」
最後の質問と一緒になった。
マティアスが俺を見る。
「それを聞きたかったか」
「はい」
「戦だ」
「……」
「内政だ」
「はい」
「商売だ」
「はい」
「交渉だ」
「はい」
「全部だ」
「全部?」
「ああ」
マティアスが椅子へ背を預ける。
「お前は兵士だけではない」
「そうですか?」
「剣は使える」
「はい」
「戦場も見た」
「少し」
「市場を触った」
「はい」
「倉庫も」
「はい」
「橋も」
「はい」
「商人とも話す」
「はい」
「そして」
マティアスの目が少し鋭くなる。
「分からない時に、分からないと言う」
「それ」
「大事だ」
「そんなに?」
「ああ」
「何で?」
「上へ行くほど、分からないと言えなくなる奴が多い」
「……」
「知っているふりをする。間違いを認めない。部下が止めても聞かない」
「いますね」
「いる」
「前世にも……」
言いかける。
止める。
「昔読んだ話にも」
「そうか」
「はい」
「お前にはそれが少ない」
「少ないだけ?」
「ないとは言わん」
「酷い」
「それと」
「まだある?」
「人を見る」
「俺が?」
「ああ」
「神様にもらった能力もありますけど」
口に出して。
少しだけ止まる。
神。
当然マティアスには意味が分からない。
「何だ?」
「いや」
「変な奴だな」
「よく言われます」
「私は」
マティアスが続ける。
「お前に、私と同じことをさせたいわけではない」
「じゃあ?」
「私が見ないものを見ろ」
「……」
「私が間違えたら止めろ」
「……」
「私が知らないことを知っているなら言え」
胸が。
少し速くなる。
「それが」
マティアス。
「私がお前を欲しい理由だ」
「……」
これ。
ずるい。
そう思った。
俺が。
一番やりたいことを。
言われた気がする。
俺はマティアスを見る。
前世の知識。
戦国時代。
会社。
数学。
理科。
物流。
帳簿。
全部。
この世界でそのまま使えるわけじゃない。
でも。
使えるところはある。
そして。
俺自身が。
この世界で学び始めている。
「アレク」
マティアスが言う。
「何だ」
「もう一度聞こう」
来る。
そう思った。
「私に仕えるか?」
でも。
その瞬間。
俺の中で。
何かが違うと思った。
「……」
「答えは急がん」
マティアスが言う。
「前と同じでも構わない」
「……」
「自分で決めろ」
俺は。
少しだけ笑った。
「マティアスさん」
「何だ」
「一個だけ違います」
「何が」
「今日は」
俺は椅子から立った。
「あなたに聞かれる前に、俺から言おうと思ってました」
マティアスの表情が変わる。
アルベルトも。
ゲオルクも。
俺を見る。
でも。
まだ。
一つだけ。
順番がある。
「ただ」
「何だ」
「まだ言えません」
「なぜ」
「俺には今、主君がいるから」
俺はアルベルトを見る。
アルベルトは何も言わない。
「先に」
俺は頭を下げた。
「話をさせてください」
マティアスはしばらく俺を見ていた。
そして。
「ああ」
それだけ答えた。
◇ ◇ ◇
旧税関を出た後。
俺たちは宿へ戻った。
道中。
誰も。
あまり喋らなかった。
俺も。
何を言えばいいのか分からなかった。
宿に着く。
アルベルトが部屋へ戻ろうとする。
「殿下」
「何だ」
「少し」
「ああ」
やっぱり。
分かっている。
「部屋へ来い」
「はい」
ゲオルクが俺を見る。
「行け」
「はい」
アルベルトの部屋。
扉が閉まる。
二人。
机。
椅子。
地図。
いつもなら。
何か話す。
でも。
俺は立ったまま。
言えない。
「何だ」
アルベルトが聞く。
「……殿下」
「何だ」
「俺」
止まる。
「……」
「マティアスのところへ行きたいのか」
顔を上げる。
「何で分かったんです?」
「お前を何年見ていると思っている」
「まだそんなに長くないですよ」
「……そうだったな」
「殿下まで忘れてる」
「細かいことはいい」
いつもの会話。
少し。
気持ちが楽になる。
「それで?」
「……はい」
「行きたいのか」
「はい」
今度は。
止まらなかった。
「理由は」
「俺」
マティアスとの話を思い出す。
「前にあの人から誘われた時、断りました」
「ああ」
「知らなかったから」
「ああ」
「今も全部は知らないです」
「ああ」
「でも」
言葉を探す。
「もっと知りたい」
アルベルトは黙っている。
「あの人が、どこまで行くのか見たい」
「……」
「何を作るのか見たい」
「……」
「乱世を終わらせるって言いました」
「あいつが?」
「はい」
「信じたのか」
「分かりません」
「分からない?」
「本当に出来るかは」
出来ないかもしれない。
失敗するかもしれない。
前世の秀吉を知っているから。
似た未来を想像しているだけかもしれない。
「でも」
俺はアルベルトを見る。
「俺が、あの人についていきたいと思いました」
アルベルトの目が少し変わった。
「マティアスが勝ちそうだからか」
「違います」
「大きな勢力になると思ったからか」
「それも違います」
「前世の知識で、奴が何者か分かったからか」
俺は止まる。
アルベルトには。
前世の話をしていない。
だから。
その言葉は出ない。
代わりに。
「似ている人を知っているからじゃないです」
そう答える。
「何だ?」
「昔読んだ物語に」
「またそれか」
「はい」
俺は少し笑う。
「似た人はいます」
「ああ」
「でも」
マティアスの顔。
「俺が仕えたいと思ったのは、その人じゃない」
「……」
「マティアス・クレーマーです」
言えた。
ちゃんと。
「だから」
俺は姿勢を正す。
そして。
頭を下げる。
「アルベルト殿下」
「ああ」
「俺を」
一瞬。
声が揺れた。
「マティアスのところへ行かせてください」
静かだった。
外。
遠く。
荷車の音。
俺は頭を下げたまま。
待つ。
「遅かったな」
「……え?」
顔を上げる。
アルベルトが少し笑っている。
「何です?」
「もっと早く言うと思っていた」
「いつから?」
「今回の旅に出る前から」
「そんなに?」
「お前、マティアスの話をする時だけ少し違う」
「違う?」
「ああ」
「どんな?」
「面倒だから教えん」
「そこ教えてくださいよ」
「それと」
アルベルトが俺を見る。
「この数日」
「はい」
「奴の痕跡を追っているお前は楽しそうだった」
「楽しそう?」
「気づいていないのか」
「……」
確かに。
大変だった。
でも。
知りたかった。
もっと。
もっと。
「殿下」
「何だ」
「怒らないんです?」
「なぜ」
「俺、殿下の小姓ですよ」
「ああ」
「それなのに」
「いつまでも小姓でいられても困る」
「……」
胸が。
少し。
痛い。
「お前は私の小姓だ」
「はい」
「私が拾った」
「はい」
「剣を振らせた」
「はい」
「戦場へ連れていった」
「はい」
「市場へ放り込んだ」
「それは俺が勝手に」
「似たようなものだ」
「違いますよ」
少し笑う。
でも。
アルベルトの表情は真面目だった。
「だが」
声が低くなる。
「私の側に置いておくために育てたわけではない」
「……」
「お前が、自分で考えて、自分で選べるようになればいいと思っていた」
「殿下……」
「なら」
少し間。
「行け」
「……」
「自分で選んだのだろう」
「はい」
「なら行け」
俺は。
何も言えなかった。
嬉しい。
寂しい。
怖い。
全部。
混ざる。
「ただし」
「……はい」
「一つ約束しろ」
「何です?」
「死ぬな」
「……」
思わず。
少し笑った。
「最近それ、よく聞きます」
「誰に言われた」
「レオンハルト殿下」
「あいつもか」
「はい」
「なら二人分だ」
「重いなぁ」
「守れ」
「努力します」
「約束だ」
「……はい」
今度は。
ちゃんと答える。
「約束します」
アルベルトが頷く。
「それでいい」
「殿下」
「何だ」
「俺がいなくなったら寂しいです?」
「殺すぞ」
「それは寂しいってことですよね?」
「今すぐ追い出すぞ」
「もう行くって言ってるでしょう」
「なら早く行け」
「酷いなぁ」
でも。
笑える。
良かった。
本当に。
「アレク」
「はい」
「一つだけ」
「何です?」
「マティアスが間違えた時」
アルベルトが俺を見る。
「止めろ」
「……」
「お前は、あいつを英雄だと思ってついていくな」
「はい」
「主だから正しいと思うな」
「はい」
「自分で選んだなら」
少し間。
「自分で見続けろ」
「……はい」
それ。
覚えておく。
ずっと。
「分かりました」
「なら行け」
「今?」
「話をしに来たのだろう」
「今日中に?」
「奴は待っている」
確かに。
「分かりました」
扉へ向かう。
でも。
開ける前に。
振り返る。
「殿下」
「何だ」
「今まで」
「言うな」
「え?」
「別れの挨拶みたいにするな」
「……」
「お前がマティアスに仕えても、私と縁が切れるわけではない」
「……はい」
「今度会った時も、同じように働かせる」
「それは嫌です」
「なら帰ってくるな」
「どっちなんですか!」
アルベルトが笑った。
俺も笑う。
「行ってきます」
「ああ」
今度こそ。
扉を開けた。
◇ ◇ ◇
旧税関へ戻ったのは、夕方近くだった。
マティアスはまだいた。
俺を見る。
「早かったな」
「待ってたんです?」
「少し」
「帰ると思わなかった?」
「半分は」
「酷い」
「それで?」
マティアスが立つ。
俺も。
ちゃんと。
向き合う。
「話してきました」
「アルベルトは?」
「行けって」
「そうか」
マティアスが少しだけ笑う。
「では」
その言葉を止める。
「待ってください」
「何だ」
「今度は俺から言います」
「……」
マティアスが黙る。
俺は一度。
息を吸う。
前。
アルベルトに。
自分から頼んだ。
今度も。
同じ。
俺自身が。
選ぶ。
「マティアス・クレーマー様」
初めて。
様をつける。
マティアスの目が僅かに変わった。
「俺を」
言葉が。
少しだけ震える。
でも。
止めない。
「あなたの下で働かせてください」
静かだった。
マティアスは。
すぐに答えなかった。
「一度断った男の言葉とは思えんな」
「……あの時とは違います」
「何が違う」
「前は」
俺は答える。
「あなたを知らなかった」
「ああ」
「今も全部は知らない」
「ああ」
「でも」
俺はマティアスを見る。
「知りたいと思いました」
「それだけか」
「それと」
乱世。
商人。
兵。
金。
人。
情報。
「あなたが何をするのか、近くで見たい」
「……」
「出来るなら」
少し笑う。
「俺も、その中で役に立ちたい」
マティアスの表情が少し変わる。
「私は間違えるぞ」
「はい」
「負けるかもしれん」
「はい」
「死ぬかもしれん」
「それは困ります」
「なぜ」
「仕えた直後に死なれたら、俺が困るので」
マティアスが笑った。
「相変わらずだな」
「でも」
俺も少し笑う。
「それでも」
言う。
「俺が、あなたについていきたいと思ったんです」
今度こそ。
自分の言葉。
マティアスが。
しばらく俺を見る。
そして。
「分かった」
短い。
「アレク・ハルトマン」
「はい」
「今日から、私の下で働け」
「……はい」
「ただし」
「何です?」
「小姓はいらん」
「え?」
「アルベルトの真似をしてどうする」
「じゃあ俺は何を?」
「決めていない」
「決めてない!?」
「お前に何が出来るか見てから決める」
「そこは考えておいてくださいよ!」
「働きながら考える」
「ひどいなぁ」
マティアスが笑う。
俺も。
笑った。
でも。
胸の奥。
確かに。
何かが変わった。
俺は。
マティアス・クレーマーに仕える。
誰かに言われたからではない。
神に決められたからでもない。
アルベルトに命令されたからでもない。
俺自身が。
選んだ。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
宿へ戻ると。
ゲオルクが廊下にいた。
「どうだった」
「決まりました」
「そうか」
「それだけ?」
「何がだ」
「もう少し寂しがってくださいよ」
「お前はまだここにいる」
「明日から違うかも」
「同じ町にいるだろう」
「そうですけど」
ゲオルクが少し笑う。
「アレク」
「はい」
「よく考えたか」
「たぶん」
「たぶんか」
「全部正しいかは分からないです」
「それでいい」
「いいんです?」
「ああ」
ゲオルクが俺の肩を軽く叩く。
「自分で決めたならな」
「……」
「ただ」
「何です?」
「殿下を忘れるな」
「忘れませんよ」
「本当に?」
「絶対」
即答。
それだけは。
迷わない。
「ならいい」
ゲオルクが去る。
俺は自分の部屋へ入った。
机。
昨日の紙。
『明日、マティアスに聞くこと』
全部。
聞いた。
答えも。
全部じゃない。
でも。
十分だった。
俺は紙を裏返す。
新しい面に。
一つだけ書く。
『マティアス・クレーマーに仕える』
「……」
変な感じだ。
前世。
俺は会社員だった。
上司は選べなかった。
仕事も。
全部じゃない。
転生して。
アルベルトに出会った。
最初は断った。
後から。
自分で頼んだ。
そして今。
また。
自分で選んだ。
「主君、か」
少し。
重い。
でも。
悪くない。
窓の外。
ベルグハーフェン。
船。
灯り。
人。
今日も動いている。
マティアスは。
この流れを。
もっと大きくしようとしている。
国を越え。
人を繋ぎ。
最後には。
乱世を終わらせる。
本当に出来るのか。
分からない。
でも。
見たい。
その先を。
そして。
出来るなら。
俺も。
そこにいたい。
「さて」
紙を畳む。
「明日から何させられるんだろう」
少し怖い。
かなり怖い。
でも。
それ以上に。
楽しみだった。
この日。
俺は初めて。
誰かに勧められたからでも。
流されただけでもなく。
自分の意思で。
自分が仕える主を選んだ。
その選択が。
俺の人生を。
そして。
この世界の歴史を。
どこまで変えることになるのか。
この時の俺は。
まだ知らなかった。
ここまでアレクを導いてきたアルベルトのもとを離れ、マティアスに仕える道を選んだアレク。
それはアルベルトを見限ったからでも、これまでの日々を捨てたからでもありません。
むしろアルベルトのもとで戦場を知り、ヴァイスブルクで人々の暮らしを知り、自分で考えて行動することを覚えたからこそ、アレクは自分の意思で次の道を選べるようになりました。
そしてアルベルトもまた、引き留めるのではなく、その選択を認めます。
ここからアレクが見る乱世は、さらに大きくなっていきます。
一つの街を動かすところから、やがて国と国、人と人、そして時代そのものが動く場所へ。
マティアス・クレーマーの傍らで、アレクは新しい一歩を踏み出します。




