第八話 自分で選ぶ主
マティアスの行動を追い、その目的に疑問を抱いたアレク。問いへの答えを確かめた時、アレクは自らの進む道を選びます。
アレクは、窓の外が明るくなるよりも早く目を覚ました。
枕元には、昨夜まとめた紙が置かれている。
マティアスが何を目指しているのか。なぜ商人や街道を結ぼうとしているのか。そして、自分に何を求めているのか。
聞きたいことは幾つもあった。
だが、紙に書かれた問いを順番に読み上げるだけでは意味がない。マティアスの答えを聞き、その先を考えなければならなかった。
アレクは紙を折り畳み、服の内側へしまった。
胸の奥にあるものは、昨夜から変わっていない。
それでも、マティアスの言葉を聞くまでは、答えを口にしたくなかった。
扉を叩く音がした。
「起きているか」
「はい」
入ってきたゲオルクは、すでに出発できる格好をしていた。
机の上に何も置かれていないのを見て、アレクの胸元へ視線を向ける。
「質問は覚えたのか」
「紙は持っています。ただ、全部をそのまま聞くつもりはありません」
「その方がいい。尋問を受けに来たと思われるぞ」
「マティアスさんなら、尋問されても笑って答えそうです」
「笑いながら、お前の方を調べるだろうな」
アレクも否定できなかった。
マティアスは、自分が何を聞かれているかだけでなく、なぜ相手がそれを聞いたのかまで考える。
今日の面会でも、答えを得るだけでは済まないだろう。
「決めたのか」
ゲオルクが尋ねた。
「まだ、マティアスさんの答えを聞いていません」
「聞けば決められるのか」
「分かりません」
アレクは正直に答えた。
昨夜までなら、分からないと口にすることへ迷いがあったかもしれない。だが、今は分からないことを隠す方が危険だと思える。
ゲオルクは短く息を吐いた。
「それでいい。誰かに言われたから選ぶものではない」
「はい」
「ただし、決めたならアルベルト様へ自分の口で伝えろ。俺から話すことでも、マティアス殿から申し入れることでもない」
「分かっています」
アレクが答えると、ゲオルクは小さくうなずいた。
「なら、食べておけ。何を選ぶにしても、腹が減ったままでは碌な答えは出ない」
その言葉に、張り詰めていた胸が少しだけ軽くなった。
◇ ◇ ◇
旧関税所には、約束の刻限より少し早く着いた。
アルベルトの馬車にアレクとゲオルクが同行し、四人の護衛が後ろを進んでいる。
使われなくなった建物とはいえ、壁も屋根も手入れされていた。表に大きな商会旗は掲げられておらず、荷車の出入りも少ない。人目を避けた話をするには都合のよい場所だった。
入口にはフェリクス・ローナーが立っていた。
「お待ちしておりました」
フェリクスはアルベルトへ一礼し、扉を開けた。
「マティアス様は奥でお待ちです」
「随分と静かな場所を選んだな」
アルベルトが建物の中を見回した。
「静かな場所でなければ話しにくいこともございます」
「それを決めるのは、これからだろう」
「失礼いたしました」
フェリクスは表情を変えなかったが、アルベルトはわずかに笑っていた。
奥の部屋では、マティアスが一人で待っていた。
以前に会った時よりも少し頬が細く見える。机の端には数枚の書状が重ねられ、その隣にはまだ湯気の立つ茶が置かれていた。
「来たか」
マティアスは立ち上がり、最初にアルベルトへ礼をした。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「俺は見届けに来ただけだ。今日はアレクと話したいのだろう」
「はい。そのつもりです」
マティアスの視線がアレクへ移る。
「随分と嗅ぎ回ってくれたようだな」
「勝手に調べたことは謝ります」
「なぜ謝る。見られて困る荷札なら、人目につく場所へは置かん」
「では、気づくか試していたのですか」
「そこまで暇ではない。だが、気づいた者が何を考えるかには興味がある」
マティアスは椅子を示した。
アルベルトとゲオルクは、少し離れた場所に席を取る。二人とも話へ口を挟むつもりはないようだった。
アレクはマティアスの正面へ座った。
「紙を持ってきたのだろう」
「どうして分かるのですか」
「お前は考えがまとまらない時、書いて並べる。以前、兵糧の量を確かめた時もそうしていた」
服の内側にしまった紙を、隠しても仕方がない。
アレクは折り畳んだ紙を取り出したが、机には広げなかった。
「最初に一つだけ、聞かせてください」
「何だ」
「マティアスさんは、何をしようとしているのですか」
マティアスの笑みが消えた。
驚いた様子はない。いつか尋ねられると分かっていたように、アレクを見返している。
「お前はどう考えた」
「商会を大きくしたいだけではないと思いました」
「なぜだ」
「利益だけが目的なら、他の商人へ荷札の形式を教える必要はありません。倉の使い方や荷のまとめ方まで揃えれば、クレーマー商会以外の商人も動きやすくなります」
「その分、こちらを通る荷も増える」
「はい。利益にもなります。でも、それだけではありません」
アレクは一度息を整えた。
「遠くにいる商人同士が同じ方法で荷を扱い、書状や証文を信用できるようになれば、誰か一人が全部を持たなくても品物を動かせます。街道がつながり、倉がつながり、商人がつながる。そこへ兵糧や武具まで加われば、戦の動きにも影響を与えられます」
「続けろ」
「マティアスさんは、商人として金を稼ぐだけではなく、領主や軍が無視できない仕組みを作ろうとしているのではありませんか」
部屋が静かになった。
アルベルトもゲオルクも何も言わない。
マティアスは茶へ手を伸ばしたが、口には運ばなかった。
「半分は当たっている」
「残りの半分は?」
「俺は、この乱世が嫌いだ」
あまりに簡単な答えだった。
アレクは、すぐに次の言葉を返せなかった。
「戦が起きれば街道が閉じる。橋が焼かれ、村が焼かれ、畑が踏み荒らされる。兵は死ぬ。農民も死ぬ。荷を運んでいただけの商人まで殺される」
マティアスは静かに続けた。
「それでも領主たちは、仕方がなかったと言う。敵が攻めたから、味方を守るためだったから、先に動かなければ滅ぼされていたから。理由はいくらでも並べられる」
「すべてが嘘とは限りません」
「分かっている。だから厄介なのだ」
マティアスは茶器から手を離した。
「戦を始める者が全員、血を見るのが好きなわけではない。領地を守るために戦う者もいれば、先代から続く争いを背負わされた者もいる。だが、事情があるからと放っておけば、次の戦が始まる」
「それを終わらせたいのですか」
「ああ」
「商人の力で?」
「商人の力だけでは足りん」
マティアスは即座に答えた。
「金だけでも、兵だけでも、領地だけでも足りない。街道を開かせ、橋を守らせ、契約を守らせるには、それを破った者が損をする仕組みが要る。従わない者を退ける力も要る」
「レオンハルト殿下の力を使って」
「今はな」
その答えには迷いがなかった。
同時に、永遠にそうするとは言っていない。
「最後には、何になるつもりですか」
「随分と先まで聞くな」
「そこが分からなければ、マティアスさんについていってよいのか決められません」
「王になりたいのかと聞きたいのか」
アレクはうなずいた。
アルベルトは何も言わなかった。ゲオルクも表情を変えていない。
口にするだけでも危うい問いだ。それでも、避けたままでは答えを選べなかった。
「今、欲しいのは王冠ではない」
マティアスが答えた。
「欲しいのは、道を閉ざす者に開けと言える力だ。橋を焼こうとする者を止め、交わした約束を守らせる力だ」
「それには、大きな権力が必要になります」
「ああ」
「今より大きな立場を求めることになります」
「必要なら求める」
マティアスはアレクから目をそらさなかった。
「今の秩序で乱世を終わらせられるなら、その中で力を使う。終わらせられないなら、必要なものを手に入れる。まだ持ってもいない冠の名前を決めるつもりはないが、必要な立場から逃げるつもりもない」
王になるとは言わなかった。
ならないとも言わなかった。
アレクは、その答えを紙へ書き留めたい衝動を抑えた。
大きな望みだった。成功する保証などない。途中でマティアス自身が、乱世を広げる側へ変わる可能性もある。
それでも、商会の利益だけを見ている人物ではないことは分かった。
「なぜ、他の商人まで結びつけるのですか」
「クレーマー商会だけですべての街道へ人を置き、すべての川へ船を浮かべ、すべての町へ倉を建てていたら、俺が死ぬまで掛かる」
「他の商人が、言うことを聞くでしょうか」
「命令すれば聞かん。儲かるようにすれば動く」
「同じ荷札を使えば荷の間違いが減る。同じ証文を扱えば、遠くまで大量の金を持ち歩かなくて済む。倉を共同で使えば、空の荷車を減らせる」
「よく見ているな」
「見たものを並べただけです」
「並べることができない者は多い」
マティアスは、机に重ねていた書状を一枚持ち上げた。
「一つ一つは珍しい仕組みではない。荷札も、倉も、商人同士の貸し借りも昔からある。だが、町ごと、商人ごとに方法が違う。違うものをつなげれば、それだけで今まで届かなかった場所まで荷を運べる」
「その中心に、クレーマー商会が入る」
「無償で世直しをするつもりはない。俺たちが中心にいなければ、誰かに壊された時に立て直せん」
理想だけではない。
商会が利益を得て、力を持つことも最初から含まれている。
アレクは、それを不快とは思わなかった。利益を得る者がいなければ、仕組みは長く続かない。それは村の備蓄や街道の整備でも同じだった。
「マティアスさんは、いつからそんなことを考えていたのですか」
「最初から今の形が見えていたわけではない」
マティアスが少し笑った。
「若い頃の俺は、父の帳簿を勝手に開いて、数字が合わないと騒いだことがある」
「本当に合わなかったのですか」
「俺が別の月の帳簿を見ていただけだ。父には頭を叩かれた」
アレクは思わずマティアスの顔を見た。
「そんな顔をするな。俺にも何も分からない時期はあった」
「今の姿からは想像できません」
「失敗した話を、わざわざ取引相手へ広めていないだけだ」
マティアスは書状を机へ戻した。
「お前は、今の俺と今のお前を比べている。比べるなら、同じだけ失敗してからにしろ」
「失敗することを勧めているように聞こえます」
「失敗せずに済むなら、その方がいい。ただ、失敗を恐れて何も選ばない者より、失敗した後に理由を探せる者の方が使える」
言い方は厳しいが、責められているとは感じなかった。
アレクは胸元から紙を取り出し、机の上へ置いた。そこに書いた問いの幾つかは、すでに答えを得ている。
だが、避けられない問いが残っていた。
「シュヴァルツ伯側とも取引をしていますね」
「ああ」
マティアスは否定しなかった。
「何を売っていますか」
「主には食料と生活に必要な品だ。農具や荷車の修理に使う鉄も扱う。間に別の商人を挟むこともある」
「武器は?」
「完成した武器は売らん。大量の鉄や、すぐ武具へ変えられる品も避けている」
「それでも、食料があれば兵は動けます」
「そのとおりだ」
あっさり認められ、アレクは言葉に詰まった。
「では、なぜ」
「俺たちが売らなければ、シュヴァルツ伯側の兵は食わなくなると思うか」
「いいえ」
「近くの村から奪う。領主の名で徴発するか、兵が勝手に持っていくかの違いしかない。こちらが売れば、少なくとも代金を取れる。取引した商人にも金が落ちる」
「それだけですか」
「何を、どれだけ、いつまでに、どこへ運べと言われたかが分かる」
マティアスは机の上の一通を指先で叩いた。
「平時より多く麦を集めている。荷車の車輪や馬具の注文が増えた。ある街道沿いの倉へ、干し肉を集めている。その一つだけでは何も分からんが、幾つも重ねれば軍が動く時期と場所を読める」
「その情報を、レオンハルト殿下へ渡しているのですか」
「すべてではない。確かだと判断したものは伝える」
「シュヴァルツ伯側へ売った品の代金を得て、その注文から動きを読み、レオンハルト殿下へ知らせる」
「そうだ」
「危険なやり方です」
「安全な商売なら、俺でなくてもできる」
「そういう意味ではありません」
アレクは首を横に振った。
「シュヴァルツ伯側へ売った食料で、レオンハルト殿下の兵が殺されるかもしれません。反対に、取引を止めれば村から奪われる。どちらを選んでも、誰かが苦しみます」
「ああ」
「乱世を終わらせるためなら、何をしてもよいのですか」
マティアスは、すぐには答えなかった。
窓の外から、荷車の車輪が石を踏む音が聞こえた。建物の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。
「よくはない」
やがてマティアスが言った。
「俺にも越えないと決めている線はある。武器を直接渡さないことも、その一つだ」
「ですが、その線はマティアスさんが決めたものです」
「そうだ」
「状況が変われば、線も動かしますか」
「動かすかもしれん」
アレクは紙の端を指で押さえた。
「それでは、マティアスさんが間違えた時、誰が止めるのですか」
「止められる者が必要だ」
マティアスの返答は静かだった。
「俺は、自分が何をしているか考えている。だが、考えていることと、正しいことは同じではない。利益が出れば見えなくなるものもある。目的を急げば、切り捨てた者の顔を忘れることもあるだろう」
「それを認めるのですか」
「認めずに正しくなれるなら、誰も苦労はせん」
マティアスは椅子の背にもたれた。
「俺を疑う者が周りにいなければ、俺はいつか大きく間違える」
アレクは、マティアスが言おうとしていることに気づき始めていた。
それでも、先に答えを決めつけず、次の問いを口にする。
「レオンハルト殿下とは、どこまで同じものを目指しているのですか」
「少なくとも今は、シュヴァルツ伯の勢力を抑えるという目的が同じだ」
「その後は?」
「分からん」
「決めていないのですか」
「俺だけで決められることではない。殿下が何を選び、俺がどこまで力を持つかで変わる」
「互いに信用していないように聞こえます」
「信用しているから、何をしても疑わないという関係ではない」
マティアスは、そこで初めて茶を一口飲んだ。
「殿下は俺が利益を求めると知っている。俺も、殿下が自分の兵と立場を優先すると知っている。それを隠して友人のふりをするより、互いに違うと分かったうえで手を組む方がよい」
「利用し合っているのですか」
「そうとも言える」
「いつか敵になる可能性は?」
「ある」
その答えにも迷いはなかった。
「だが、敵になる可能性があるから、今できる協力まで捨てるのは愚かだ。反対に、今協力しているから、将来も同じ道を進むと思い込むのも愚かだ」
アレクは、レオンハルトとマティアスが同じ種類の人間ではないことを知っていた。
レオンハルトは、自ら決断し、兵を率い、敵を押し退ける力を持っている。
マティアスは、人と物と金を結び、戦が始まる前から勝敗を動かそうとする。
二人の目的が重なる間、その力は強く結びつく。だが、向かう先が違えば、その結びつきは簡単に争いへ変わるかもしれない。
それでもマティアスは、その危うさを隠そうとしなかった。
「最後の質問です」
アレクは机へ置いた紙から手を離した。
「なぜ、私を呼んだのですか」
「お前が欲しいからだ」
あまりに直接的な言葉に、アレクは瞬きをした。
少し離れた場所で、ゲオルクが咳払いをする。アルベルトは黙ったまま、マティアスを見ていた。
「護衛としてですか」
「剣の腕だけなら、もっと経験のある者を雇える」
「では、兵糧の計算をするために?」
「計算だけなら商会に何人もいる」
「私に、何をさせたいのですか」
「決めていない」
「決めていないのに、欲しいと言ったのですか」
「ああ」
マティアスは平然としていた。
「お前は戦場を見て、兵の疲れを考えた。村を見れば食料の量を考え、荷札を見れば、その先にある倉と商人を追った。分からないことを分からないと言い、分かったつもりになった時には立ち止まれる」
「止まれなかったこともあります」
「だから使える。自分は間違えないと思っている者ほど扱いにくい」
褒められているのか分からない。
だが、マティアスの言葉は、アレクが自分で強みだと思っていた部分とは少し違っていた。
「戦、統治、商い、交渉。多くの者は、それぞれを別の仕事だと思っている。お前は、その間にあるものを見る」
「私は、まだどれも十分にはできません」
「一つを極めた者が必要なら、その道の職人を雇う。俺が欲しいのは、違う力を持つ者の間へ入り、それらを結びつける者だ」
「マティアスさん自身が、それをしているのではありませんか」
「俺と同じものは要らん」
マティアスは身を乗り出した。
「俺の真似をするな。俺が見ていないものを見ろ。俺が間違っていると思ったら止めろ。俺が知らないことを知っているなら、黙らずに言え」
「聞いてもらえますか」
「聞く。従うとは約束しない」
「そこは約束してくれないのですね」
「お前の意見が常に正しいとも限らんからな」
アレクは小さく笑った。
正しいと言われ続けたいわけではない。
考えることを求められ、異なる意見を口にすることを許される。それでも最後には、誰かが決断し、責任を負わなければならない。
マティアスは、その責任から逃げようとしていなかった。
「アレク」
マティアスが名を呼んだ。
「俺の下で働く気はあるか」
胸の奥にあった答えが、はっきりと形を持った。
すぐに口に出したかった。
だが、アレクには先に話さなければならない相手がいる。
「その前に、アルベルト様へお話ししなければなりません」
マティアスの目が細くなった。
「今ここで答えろとは言わん」
「気持ちを決められないからではありません」
「なら、自分の口で話してこい」
「待っていてもらえますか」
「今日は、この後もここにいる」
マティアスは、机の上の書状を指した。
「お前が戻ってこなくても、片づける仕事はいくらでもある」
「戻ります」
アレクは立ち上がり、マティアスへ頭を下げた。
まだ仕えるとは言っていない。
それでも、その言葉を口にするために戻るのだと、すでに分かっていた。
◇ ◇ ◇
宿へ戻ると、アルベルトは護衛とゲオルクを下がらせた。
部屋に残ったのは、アルベルトとアレクだけだった。
「座れ」
「はい」
勧められた椅子へ腰を下ろしたものの、アレクはどこから話すべきか迷った。
旧関税所から戻る間に、何度も言葉を考えた。それでも、アルベルトを前にすると、用意した言葉はどれも借り物のように思える。
「マティアスの下へ行きたいのか」
先に尋ねられ、アレクは顔を上げた。
「はい」
「随分と早く答えが出たな」
「昨日から考えていました」
「その前からだろう」
アルベルトは怒っていなかった。
かといって、笑っているわけでもない。
「お前がマティアスの荷札を調べ、商人の動きを追っている時から分かっていた。俺と話している時より楽しそうだったぞ」
「そんなつもりは」
「自分では気づいていなかったか」
否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
マティアスの仕組みを追っている間、アレクは時間を忘れていた。荷札一枚の先に倉があり、倉の先に街道や商人がいる。ばらばらに見えたものがつながっていくたび、もっと知りたいと思った。
「マティアスが、これから勝つと思ったからか」
「違います」
「大きな力を持つと思ったからでもないのか」
「それだけなら、選びません」
「では、なぜだ」
アレクは膝の上で拳を握った。
「マティアスさんが何を作るのか、近くで見たいと思いました」
「見たいだけか」
「手伝いたいです」
言葉にすると、自分の考えがより明確になった。
「マティアスさんは正しいことだけをしているわけではありません。シュヴァルツ伯側とも取引しています。レオンハルト殿下とも、いつまで同じ道を進むか分かりません。いつか間違えるかもしれないと、本人も認めました」
「それを聞いても仕えたいのか」
「はい」
「なぜだ」
「間違えるかもしれないからです」
アルベルトの眉がわずかに動いた。
「マティアスさんは、自分が間違った時に止める者が必要だと言いました。私に、同じものを見るのではなく、自分が見落としたものを見てほしいと」
「随分と都合のいい誘い文句だ」
「そうかもしれません」
「お前を危険な場所へ送り、自分は後ろで金を数える男かもしれんぞ」
「それなら、そうならないように言います」
「聞かなければ?」
「何度でも言います。それでも聞かなければ、その時にまた考えます」
アルベルトはしばらくアレクを見ていた。
試されているのだと思った。
だが、正しい答えを探しているわけではない。アレクが自分の言葉で話しているかを見ている。
「俺の下では、それができなかったか」
静かな問いだった。
アレクはすぐに首を横へ振った。
「違います。アルベルト様の下で学べなければ、マティアスさんがしていることにも気づけませんでした」
「なら、ここに残って学び続ける道もある」
「あります」
「それでも行くのだな」
「はい」
アレクはアルベルトの目を見た。
「私が自分で選びたいと思ったのは、マティアスさんの下です」
言い切った後、胸が痛んだ。
アルベルトへの恩を忘れたわけではない。
ラーデン村を出たばかりで何も知らなかった自分を受け入れ、小姓として側に置き、戦場にも領地にも連れていってくれた。剣だけでなく、領主が何を見て判断するのかを教えてくれた。
その人のもとを離れたいと願っている。
「申し訳ありません」
アレクが頭を下げると、アルベルトは大きく息を吐いた。
「なぜ謝る」
「せっかく小姓として迎えていただいたのに、まだ何もお返しできていません」
「お前を拾ったのは、返礼を受け取るためではない」
「ですが」
「俺は、お前を一生小姓として手元へ置くつもりだったと思うか」
アレクは顔を上げた。
「身元も確かでなく、この世界のこともろくに知らない少年だった」
「それは否定できません」
「剣を持たせれば妙に筋がよく、人の顔を見れば何を考えているのか探ろうとする。ところが、自分がどうしたいかを聞けば、すぐには答えられなかった」
アルベルトの表情がわずかに緩んだ。
「だから小姓にした。側へ置けば、戦も領地も人も見せられる。いつか自分で選ぶために必要なものを与えられると思った」
「私が、ここを離れることも考えていたのですか」
「可能性はな」
「それなら、どうして何も」
「先に言えば、お前は俺が望む答えを探しただろう」
アレクには反論できなかった。
少なくとも、アルベルトの期待を裏切らない道を選ぼうとはしたはずだ。
「俺がマティアスを嫌っていれば、残りましたか」
「……分かりません」
「それでいい。今は、俺が何を望むかではなく、お前が何を選んだかを話している」
アルベルトは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。
外では護衛の兵が馬具を確かめている。その向こうには、この町を行き交う荷車が見えた。
「寂しくないと言えば嘘になる」
背を向けたまま、アルベルトが言った。
「お前が側にいることには慣れた。問いを投げれば、分からないなりに考え、時には俺が思いもしなかった答えを返す。使いやすい小姓だった」
「最後だけ褒められている気がしません」
「褒めている」
アルベルトは振り返った。
「だが、使いやすいからと手元へ縛れば、いずれお前は考えることをやめる。俺の顔色を読み、俺が欲しい答えを返すようになる。それでは、側へ置いた意味がない」
「アルベルト様」
「行け」
短い言葉だった。
アレクは、聞き間違いではないかとアルベルトを見た。
「マティアスの下へ行け。自分で選んだのなら、最後まで自分の目で見ろ」
「お許しいただけるのですか」
「同じことを二度言わせるな」
アルベルトはアレクの前まで戻ってきた。
「ただし、マティアスを物語の英雄だと思うな。あの男も間違える。欲に目が曇ることもあれば、勝つために誰かを切り捨てることもあるだろう」
「はい」
「主君の言葉だからと、すべて正しいと思うな。間違っているなら止めろ。それでも命じられた時は、従うことで何が起きるかまで考えろ」
「分かりました」
「本当に分かっている顔ではないな」
「これから分かるようになります」
「なら、忘れるな」
アルベルトは手を伸ばし、アレクの頭を乱暴に撫でた。
「仕える相手が変わっても、俺との縁まで切れるわけではない。困った時だけ手紙を寄越すのは許さん。何もなくても書け」
「はい」
「それから、勝手に死ぬな」
「努力します」
「そこは必ず守ると言え」
「戦場で必ずとは言えません」
「お前は、こういう時だけ妙に正直だな」
アルベルトが苦笑した。
その表情を見て、アレクの胸に残っていた重さが少し薄れた。
別れではない。
立つ場所が変わるだけだ。
「アルベルト様」
「何だ」
「ありがとうございました」
「礼を言うのは早い。マティアスの下で何をするのかも決まっていないのだろう」
「はい」
「なら、何かを成してから言え。その時は俺も、自分の見る目が正しかったと自慢できる」
「自慢するためだったのですか」
「今決めた」
アレクは笑い、もう一度深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
旧関税所へ戻った時、日はまだ高かった。
フェリクスに案内されて奥の部屋へ入ると、マティアスは先ほどと同じ席にいた。ただし、机の上に積まれていた書状は半分ほどに減っている。
「早かったな」
「待たせると言ったのは、マティアスさんです」
「戻らない可能性も考えていた」
「それでも仕事をしながら待っていたのですね」
「何もしないで待つほど暇ではない」
マティアスは書状を置き、アレクを正面から見た。
「話せたか」
「はい」
「アルベルト大公は何と?」
「自分で選んだのなら行けと」
「そうか」
マティアスの顔から、わずかに緊張が消えた。
拒まれる可能性も考えていたのだろう。
アレクはマティアスの前へ進み、姿勢を正した。
「マティアス様」
呼び方を変えた瞬間、部屋の空気も変わったように感じた。
マティアスは何も言わず、次の言葉を待っている。
「私を、あなたの下で働かせてください」
「理由を聞こう」
「あなたが作ろうとしているものを、近くで見たいからです。そして、私もそこへ加わりたいと思いました」
「俺が間違ってもか」
「間違っていると思えば止めます」
「聞かなければ?」
「何度でも言います」
「それでも聞かなければどうする」
「何が起きるかを考えます。そのうえで、従うかどうかを決めます」
「仕えると言いに来た者の答えとは思えんな」
「マティアス様が、同じものを見る者は要らないと言ったのではありませんか」
マティアスの口元が上がった。
「確かに言った」
「私は、マティアス様のようにはなれません」
「なる必要はない」
「戦も、商いも、統治も、まだ知っていることより知らないことの方が多いです」
「それも知っている」
「役に立てない仕事もあると思います」
「最初から何にでも使える者などいない」
マティアスは椅子から立ち上がった。
「最後に確認する。俺は負けるかもしれん。判断を誤るかもしれん。お前を危険な場所へ送ることもある。俺が途中で死ねば、何も残らない可能性もある」
「分かっています」
「分かっていない。だが、それは俺も同じだ」
マティアスはアレクの前へ立った。
「それでも来るか」
「はい。これは、私が自分で決めたことです」
「なら、今日から俺の下で働け」
差し出された手を、アレクは握った。
剣を握る者とは違う手だった。指には筆や帳簿を扱う者らしい跡がありながら、荷を確かめるため自ら倉へ入る者の硬さもある。
「ただし、小姓にはせん」
「では、私は何になるのですか」
「今は俺の直属だ」
「それは役職ですか」
「役職を決めれば、その仕事しか見なくなる。しばらくは俺の命令で、必要な場所へ行け」
「戦場へも?」
「必要ならな」
「商会の仕事もするのですか」
「当然だ。帳簿、倉、街道、交渉、兵糧、領地。見られるものはすべて見ろ」
「随分と多くありませんか」
「お前が何に使えるのか、俺もまだ決めていない」
「先ほど、私が欲しいと言ったのに」
「欲しい道具を手に入れた後、使い道を考えることもある」
「私は道具ではありません」
「なら、自分で使い道を示せ」
マティアスは手を離し、机の上に残っていた書状をまとめた。
「明日の朝、フェリクスを迎えに行かせる」
「最初の仕事は何ですか」
「明日話す」
「今教えてもらえませんか」
「今日の仕事は、アルベルト大公へ挨拶をし、自分の荷をまとめることだ。それも終わらないうちから次へ手を出すな」
「分かりました」
「それから、今後はアルベルト大公の小姓ではなく、クレーマー商会の人間として見られる」
マティアスの声から笑みが消えた。
「お前の言葉一つが、俺の言葉として受け取られることもある。誰かを怒らせれば、商会の荷が止まる。軽率な約束をすれば、金だけでは済まない」
「はい」
「剣を抜けば、お前個人の喧嘩ではなくなる」
「覚えておきます」
「覚えるだけでは足りん。迷ったら勝手に決めず、聞け。分からないと言えることは、お前の長所だ。仕える相手が決まった途端に捨てるな」
「分かりました」
今度の返事を聞き、マティアスは満足したようにうなずいた。
「今日は戻れ。明日から働いてもらう」
「はい。マティアス様」
アレクは深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
宿へ戻ると、ゲオルクが荷物をまとめるのを手伝ってくれた。
「決めたか」
「はい。マティアス様の下で働きます」
「そうか」
ゲオルクは、それ以上の感想を口にしなかった。
代わりに、アレクが畳んだ服を持ち上げ、皺を伸ばしてから箱へ入れ直す。
「自分で選んだのに、嬉しくないのですか」
「嬉しいかどうかは、明日からのお前を見て決める」
「アルベルト様と同じようなことを言いますね」
「長く仕えていれば似ることもある」
「私も似ていますか」
「妙なところだけはな」
ゲオルクは蓋を閉じ、留め具を確かめた。
「マティアス殿の下へ行っても、剣の鍛錬を怠るな」
「はい」
「書状を読む時に周りが見えなくなる癖も直せ」
「気をつけます」
「食事も忘れるな」
「そこまで忘れていません」
「昨日、昼食が冷めるまで荷札を見ていたのは誰だ」
アレクは答えられなかった。
ゲオルクは呆れたように首を振ったが、荷箱を扱う手つきは最後まで丁寧だった。
夜になり、アレクは一人で机へ向かった。
朝に持っていった紙を広げる。
書かれていた問いのすべてに、明確な答えが出たわけではない。
マティアスが最後にどこへ向かうのかは、本人にも決められない。
レオンハルトとの関係がいつまで続くのかも分からない。
シュヴァルツ伯側との取引が正しいのか、アレクにも判断できなかった。
それでも、分からないことを隠さず、その危うさまで見たうえで選んだ。
紙の一番下へ、アレクは新しい一文を書き加えた。
『マティアス・クレーマーに仕える』
前世では、働く場所を選ぶことはできても、その先で誰が上司になるかまでは選べなかった。
気に入らない命令にも従い、間違っていると思っても黙って頭を下げることがあった。
今度選んだのは、ただの上司ではない。
戦へ向かえと命じられれば、命を懸けなければならない相手だ。その判断が多くの人の暮らしを変え、自分も責任の一端を担うことになる。
正しい選択だったのかは、まだ分からない。
だが、自分で選んだという事実だけは変わらない。
アレクは紙を折り畳み、荷物の中へしまった。
明日の朝には、フェリクスが迎えに来る。
マティアスの下で与えられる最初の仕事が何なのか、まだ聞かされていない。
期待と同じほど不安もある。
それでも、眠れないほどではなかった。
アレクは灯りを消し、自分で選んだ道の最初の日に備えて目を閉じた。
第三篇第八話を読んでいただき、ありがとうございました。
アレクはマティアスの理想だけでなく、危うさや間違う可能性も知ったうえで、自らの主君として選びました。アルベルトとの縁を失うのではなく、その教えを胸に新たな一歩を踏み出します。
次話では、マティアスの直属となったアレクに、最初の仕事が与えられます。
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