第七話 荷札の向こう側
レオンハルトとの会談で、マティアスが動かしているものは「物」だけではないと知ったアレク。
金、人、そして情報。
翌日、アレクたちはベルグハーフェンの河港を改めて調べ始める。
同じ港でも、見るものが変われば、見えてくる景色も変わっていく。
そしてその先で、追い続けていた男の方から動き始める。
翌朝、俺たちは昨日とほとんど同じ時間に宿を出た。
「昨日も港を一日歩きましたよね」
「ああ」
「今日もですよね」
「ああ」
「同じ場所ですよね」
「ああ」
「殿下」
「何だ」
「飽きません?」
アルベルトが馬上から俺を見る。
「昨日と同じものを見るつもりならな」
「昨日と同じものが置いてあると思いますけど」
「だからお前はまだ甘い」
「朝から厳しいなぁ」
隣を進むゲオルクが小さく笑った。
「昨日、レオンハルト殿下から何を聞いた」
「物だけを見るな、です」
「他には?」
「金と人と情報」
「なら今日は?」
「それを見る」
「分かっているではないか」
「言うのは簡単なんですよ」
本当にそうだった。
麦袋なら見える。荷車も見える。船も見える。だが金そのものが道を歩いているわけではない。人間は見えても、その人間同士がどんな関係にあるのかまでは見ただけでは分からない。まして情報なんて形すらない。
「どうやって見るんです?」
俺が聞くと、アルベルトは前を向いたまま答えた。
「考えろ」
「やっぱりそれか」
「昨日の会談で少しは分かっただろう」
「分かりましたけど」
「なら使え」
「簡単に言うなぁ」
俺はため息をつきながら、昨日レオンハルトから聞いた話を思い出した。
商人は物だけを運ばない。情報を運び、書状を運び、噂を運び、時には人間そのものを繋ぐ。
そしてマティアスは、それらを利用している。
戦が始まってから勝つのではない。
始まる前に、勝てる形を作ろうとしている。
なら今日見るべきなのは、麦袋の数だけではない。
その麦を誰が運んでいるのか。誰が買ったのか。誰が倉庫へ入れたのか。次にどこへ出ていくのか。その間を誰が取り持っているのか。
「殿下」
「何だ」
「今日はクレーマー商会だけを見ない方がいいですよね」
アルベルトがこちらを見た。
「理由は?」
「マティアスが全部を自分の商会だけで動かしているなら、クレーマー商会だけ見ればいい。でも昨日見た仕組みは違いました」
「荷札か」
「はい」
複数の商会で最低限の書式を揃えた荷札。
送り主。
荷物の種類。
数量。
送り先。
それらの書き方をある程度揃えることで、別々の商会や倉庫でも荷物を扱いやすくしている。
「だったら、クレーマー商会から離れたところに何があるかを見た方が、繋がりが分かるかもしれません」
「悪くない」
「珍しくすぐ褒めた」
「取り消すぞ」
「やめてください」
「なら、どこから見る」
「……」
考える。
昨日は大きな倉庫を見た。
なら今日は逆だ。
「小さいところ」
「なぜだ?」
「大きな商会なら、自分の船も荷車も倉庫も持っている。でも小さな商人は全部持ってないですよね」
「そうだな」
「だったら、誰かに頼む」
「誰に?」
「船主とか、倉庫とか、荷運び人とか」
「それから?」
「金を貸す人もいるかもしれない」
アルベルトの口元が僅かに上がった。
「ようやく入口に立ったな」
「まだ入口なんです?」
「当然だ」
「先が長いなぁ……」
でも、何を見るかは決まった。
俺たちは昨日歩いた中央河港ではなく、その少し南側へ向かった。
◇ ◇ ◇
ベルグハーフェン南河港。
中央河港と比べると、明らかに規模が小さい。
大型船よりも中型、小型の川船が多く、石造りの巨大倉庫より木造倉庫が目立つ。荷車も大型の四頭立てより、一頭か二頭で引くものが多かった。
その代わり、人の密度は中央河港より高い気がする。
「どけ! 荷が通るぞ!」
「その樽は三番倉庫だ!」
「違う! 灰色札は六番だ!」
「船頭はどこだ!」
朝から怒鳴り声が飛び交っている。
「こっちの方が混乱してません?」
「扱う商人が多いからな」
ゲオルクが答えた。
「一つの商会が一つの倉庫を使っているわけではない?」
「ああ。倉庫を借りる者もいれば、荷の一部だけ置く者もいる」
「なるほど」
俺は馬を預け、歩き始めた。
昨日なら荷物を見ていた。
今日は人を見る。
最初に気づいたのは、一人の男だった。
三十代くらい。褐色の上着を着て、腰に革袋をいくつも付けている。
荷物を運んでいるわけではない。
でも忙しい。
「五番船、塩十四樽!」
「はい!」
「ローデン商会分は七番倉庫!」
「分かった!」
「ヴァルツの麦は今日中に積め! 船頭には追加で銀貨三枚出す!」
「三枚ですか?」
「遅れて明日になったらもっと損する! 急げ!」
次々と人が男のところへ来る。
船頭。
荷運び人。
商人。
倉庫番。
何人かは紙を渡し、何人かは口頭だけで何かを伝える。
「殿下」
「見えている」
「何者でしょう」
「聞いてこい」
「俺が?」
「ああ」
「またですか」
「お前の方が商人に警戒されにくい」
「十五歳だから?」
「小姓だからだ」
「身分が役立った」
「行け」
「はいはい」
俺は男のところへ歩いていく。
「すみません」
「後にしてくれ!」
「一つだけ聞きたいんですけど」
「荷はどこのだ!」
「荷じゃなくて」
「じゃあ何だ!」
男がようやく俺を見る。
次に少し離れたところにいるアルベルトたちを見る。
服装。
護衛。
そして俺の腰の剣。
表情が少し変わった。
「……役人か?」
「違います」
「じゃあ商人?」
「それも違います」
「何なんだ」
「アレク・ハルトマンです」
「……」
男が止まった。
「何でそこで止まるんです?」
「いや」
「知ってる?」
「名前だけなら」
「またか……」
「ヴァイスブルクの小姓だろう」
「そこまで?」
「商人は噂が早い」
昨日も似たようなことを聞いた。
俺の知らないところで、俺の名前が少しずつ歩き始めているらしい。
あまり嬉しくない。
「それで?」
「あなた、何をしてるんです?」
男が眉を寄せた。
「見て分からんか?」
「忙しそうなのは分かります」
「なら邪魔するな」
「船も持ってない」
「うん?」
「荷車も引いてないし、倉庫番でもない。でも皆あなたのところに来る」
男が俺を見る。
「何が聞きたい」
「あなたが何でお金を稼いでるのか」
「……随分直接だな」
「回りくどく聞いた方がいいです?」
「いや」
男が少し笑った。
「ベルント・クラウスだ」
「よろしくお願いします」
「仲買人だ」
「仲買?」
「商人と船頭を繋ぐ。倉庫を探す。荷車を手配する。必要なら買い手も探す」
「全部?」
「私一人ではない」
周囲を見る。
男の近くには若い者が四人ほど走り回っている。
「弟子?」
「雇い人だ」
「どうやって儲けるんです?」
「話がまとまれば手数料を取る」
「ああ」
なるほど。
自分で麦を買うわけではない。
船も持たない。
倉庫も持たない。
だが、それぞれを繋ぐことで金を取る。
「殿下」
俺は振り返る。
アルベルトが来る。
クラウスの表情が変わった。
「まさか」
「アルヴェイン大公だ」
「……先に言え!」
「聞かれなかったので」
「お前な……」
「アレク」
アルベルト。
「はい」
「余計なことはいい」
「殿下が来るからですよ」
アルベルトはクラウスを見る。
「少し話を聞きたい」
「大公殿下にそう言われて断れる商人がいると思いますか?」
「嫌なら断っていい」
「もっと断れませんよ」
クラウスはため息をついた。
「時間だけください。昼前まで荷が詰まっております」
「なら仕事をしながらでいい」
「……変わった大公様だ」
「よく言われる」
「俺も言われます」
「お前には聞いていない」
クラウスが笑った。
「では、勝手についてきてください。ただし荷に轢かれても責任は取りません」
「分かった」
「本当に付いてくんだ……」
俺たちはそのままクラウスの仕事を見ることになった。
◇ ◇ ◇
一時間ほど見て、ようやく分かった。
クラウスの仕事は、前世で言えば物流の手配に近い。
例えば小さな商人が麦百袋を南の町へ送りたいとする。
だが船一艘を借りるには少ない。
そこでクラウスが別の商人の荷と合わせる。
麦百袋。
塩二十樽。
布十五梱。
鉄具六箱。
それらを合わせて一艘の船を埋める。
逆に、船頭が帰りの船を空で戻したくない時には、帰路の荷を探す。
「空で走らせるより、少し安くても荷を積んだ方がいい」
「そうだ」
「倉庫も?」
「同じだ。半分空いている倉庫があれば、小口の荷を入れる」
「荷車も?」
「ああ」
「……すごいな」
俺が呟くと、クラウスが怪訝そうな顔をする。
「何がだ?」
「無駄を減らしてる」
「当たり前だろう」
「そうなんですけど」
前世なら当たり前に近い考え方だ。
トラック。
倉庫。
積載率。
共同配送。
でも、ここで実際に誰かがやっている。
俺が思いついたわけじゃない。
この世界の人間が必要に迫られて作った仕組みだ。
「アレク」
アルベルト。
「はい」
「その顔はやめろ」
「どの顔です?」
「自分だけが知らなかったと気づいた顔だ」
「分かるんです?」
「何度も見た」
「嫌だなぁ」
クラウスが俺を見る。
「お前、何を期待していた」
「いや」
少し考える。
「もっと全部ばらばらに動いてると思ってました」
「そんなことをすれば金がいくらあっても足りん」
「ですよね」
「商売は利益を出すものだ。空荷の船も、空いた倉庫も、待っている荷車も金を食う」
第二篇で。
ヴァイスブルクで。
ヨハンに散々言われた。
良い案でも金がなければ出来ない。
便利でも維持できなければ意味がない。
ここでも同じだ。
「じゃあ、クレーマー商会が荷札の書式を揃えたのも」
俺が言うと、クラウスの顔が僅かに変わった。
「知っているのか」
「昨日見ました」
「どこで?」
「ブラントさんの倉庫」
「ああ……」
納得したような顔。
「便利です?」
「かなりな」
「昔は?」
「商会ごとに好き勝手だ」
「今も全部じゃないですよね」
「当然だ。クレーマー式を嫌う奴もいる」
「何で?」
「自分のやり方を変えたくない。クレーマーを儲けさせたくない。単純に面倒だ。理由はいくらでもある」
「それでも使う人が増えてる?」
「ああ」
「便利だから?」
「それもある」
「他には?」
クラウスが俺を見る。
「マティアスが金を出した」
「……」
俺とアルベルトが同時に反応した。
「何に?」
アルベルトが聞く。
「最初の札だ。書き方を変えるには帳簿も変える。倉庫番に教え直す必要もある。小さな商会にはそれだけでも負担だ」
「だから費用を?」
「一部な」
「ただで?」
俺が聞く。
「まさか」
クラウスが笑った。
「最初の三か月だけ手数料を安くした」
「……」
それ。
俺には覚えがある。
市場税を下げて商人を戻した時と、考え方は少し似ている。
最初の負担を下げる。
使う人間を増やす。
便利だと分かれば残る。
「上手い」
「何がだ?」
クラウス。
「いきなり全員に使えって言ってない」
「言ったところで誰も聞かん」
「使った方が得だと思わせた」
「そうだな」
「それで使う人が増えた」
「ああ」
「増えたら」
そこで止まる。
マティアスは何を得る?
手数料。
もちろん金は入る。
でも。
それだけじゃない。
「荷札」
「何だ?」
「クレーマー式で荷物が動くと」
誰が。
何を。
どこから。
どこへ。
運んだか。
記録が残る。
「殿下」
アルベルトも分かっていた。
「ああ」
「マティアス」
俺はクラウスを見る。
「どの荷がどこへ動くか分かる?」
クラウスが黙った。
「全部ではない」
「でも自分たちの仕組みを通った荷なら?」
「記録を集めればな」
ぞくりとした。
便利な仕組み。
皆が少しずつ得をする。
船頭は空荷が減る。
商人は安く運べる。
倉庫は空きを埋められる。
仲買人は手数料を取れる。
そしてマティアスは。
「情報が残る」
俺が呟く。
「物を動かす仕組みそのものが、情報を集める仕組みになってる」
クラウスが少し驚いたように俺を見る。
アルベルトは黙っている。
「昨日レオンハルト殿下が言ってたの、これか」
物だけではない。
金。
人。
情報。
全部繋がっている。
◇ ◇ ◇
「ただし」
クラウスが言った。
「何だ?」
「お前は少しマティアスを大きく見すぎている」
「え?」
「クレーマー式の札を使っている荷が全部、奴のものに見えているだろう」
「……少し」
「違う」
「どれくらい?」
「知らん」
「知らない?」
「だから全部ではないと言っている」
クラウスが一枚の荷札を持ち上げる。
「これを使っているからといって、クレーマー商会が荷主とは限らん。仕組みだけ使う奴もいる」
「あ」
「昨日、お前が見た荷もそうかもしれん」
「……」
危なかった。
クレーマー式の荷札。
大量の荷。
シュヴァルツ伯軍の移動。
時間が近い。
だから。
勝手に繋げかけていた。
「同じ仕組みを使ってるからって、同じ目的とは限らない」
「そういうことだ」
「じゃあ、どうやって区別する?」
「それを知っていたら私ももっと儲けている」
「ですよね」
俺は頭を掻く。
アルベルトが横から言う。
「何を見ればいい」
「……仕組みじゃなくて」
考える。
誰が払った。
誰が頼んだ。
誰が運んだ。
「金?」
「続けろ」
「荷物は誤魔化せても、誰かが運賃を払ってる」
「ああ」
「倉庫代も」
「ああ」
「仲買人の手数料も」
「そうだ」
クラウスを見る。
「誰が払ってるんです?」
「守秘義務という言葉を知っているか?」
「ありますよね、やっぱり」
「商人が客の情報を誰にでも話していたら仕事にならん」
「ですよね」
ここで大公の権力を使って聞くこともできる。
でも。
アルベルトはやらない。
俺も、やるべきではないと思った。
「じゃあ聞き方を変えます」
「何だ」
「最近、同じ人が色んな商人の運賃をまとめて払うことって増えてます?」
クラウスが止まった。
「……なぜそう思う」
「マティアスが複数の商人を繋いでるなら」
それぞれが個別に動いているだけでは、まとまった動きにはならない。
「金をまとめる人がいるんじゃないかと思って」
クラウスがアルベルトを見る。
「大公殿下」
「答えたくなければ答えなくていい」
「それを言われると逆に困るんですよ」
「すまんな」
「全然思ってませんね」
「よく分かったな」
クラウスはため息をついた。
「名前は出さん」
「それでいいです」
「最近、信用状が増えた」
「信用状?」
初めて聞く。
「現金を持ち歩かず、商会が支払いを保証する書状だ」
「ああ」
為替。
完全に同じではないだろうが、考え方は似ている。
「遠方へ大金を運ぶのは危険だ」
「盗賊?」
「それもある。重いし、数えるのも面倒だ」
「銀貨何千枚とか?」
「そういうことだ」
「だから紙?」
「紙だけではない。誰が保証したかが重要だ」
「どこの商会?」
「クレーマーだけではない」
「増えたのは?」
「ここ半年ほどだ」
半年。
レオンハルトが準備を始めた時期とも近い。
「たまたま?」
俺が言う。
アルベルトは答えない。
「まだ繋げるな」
「はい」
昨日なら。
たぶんすぐ繋げていた。
今は一度止める。
時期が同じ。
それだけでは証拠にならない。
「でも記録は?」
俺がクラウスへ聞く。
「ある」
「見られます?」
「無理だ」
「ですよね」
「ただし」
「?」
「どこの商会の信用状がよく使われるかくらいなら、港の両替商へ行けば分かる」
「両替商」
「ああ。最終的に銀貨へ替えるなら、奴らを通る」
俺はアルベルトを見る。
「行きます?」
「そのために来た」
「ですよね」
クラウスが笑った。
「お前たち、本当に大公と小姓なのか?」
「一応」
「一応とは何だ」
アルベルトが俺を見る。
「いや、俺も時々分からなくなるので」
「殺すぞ」
「冗談ですよ」
「大公相手にすごいな、お前」
クラウスが呆れている。
最近、この反応にも慣れてきた。
◇ ◇ ◇
昼前。
俺たちは南河港近くの両替商へ入った。
店は思っていたより小さい。
分厚い扉。
狭い窓。
奥には鉄格子。
当たり前だが、金を扱う場所なので警備は厳しい。
「いらっしゃいま――」
店主がアルベルトを見る。
「……」
止まった。
「今日はこういうの多いな」
俺が言う。
「お前が先に入れ」
アルベルト。
「もう遅いですよ」
店主は五十代ほどの小柄な男だった。
禿げ上がった額。
丸い眼鏡。
指には何本か指輪を付けている。
「アルヴェイン大公殿下とお見受けいたします」
「合っている」
「当店に何か?」
「話を聞きたい」
「税の件でなければ喜んで」
「税ではない」
「では喜んで」
「正直だなぁ」
俺が言うと、店主が俺を見る。
「こちらは?」
「アレクだ」
「アレク・ハルトマンです」
「……ああ」
「また知ってる顔」
「最近ベルグハーフェンで名前を聞きます」
「何で?」
「大公殿下と港を嗅ぎ回っている少年がいる、と」
「嗅ぎ回るって言い方やめてもらえません?」
店主が笑った。
「ハインツ・モーザーです。それで何を?」
「信用状について」
俺が切り出す。
「どこの商会のものが多いです?」
「それを聞いて何を?」
「流れを見たい」
「金の?」
「はい」
モーザーの表情が僅かに変わる。
商人の顔。
警戒している。
「個別の取引はお話しできません」
「名前はいりません」
「では?」
「最近増えたかどうか」
「増えています」
「いつから?」
「半年ほど前からでしょうか」
クラウスと同じ。
「理由は?」
「取引が増えたからです」
「何の?」
「それは色々と」
「遠距離?」
「多いですね」
「どこの商会?」
モーザーが少し考える。
「件数だけならクレーマー商会が多い。ただし金額なら別です」
「別?」
「大口を扱う古参商会はいくつもありますから」
「クレーマー商会が全部支配してるわけじゃない」
「当然です」
少し安心した。
というのも変だが。
マティアス一人で全部を動かせるほど、この世界は単純ではない。
「でも増えてる」
「ええ」
「クレーマー商会の信用状を、別の商会が使うことも?」
「あります」
「何で?」
「信用があるからです」
「信用……」
俺は書状を見るつもりで手を動かす。
紙そのものに価値があるのではない。
この紙を持っていけば、本当に金を払ってもらえる。
そう思われるから価値がある。
「マティアス本人が?」
「本人というより、クレーマー商会ですね」
「違うんです?」
「当然です」
モーザーが少し笑う。
「一人の男が何百件もの支払いを保証して回れると思いますか?」
「あ」
「商会です。帳簿をつける者がいる。金庫を管理する者がいる。各地の支店と連絡する者がいる」
「……」
そうだ。
また俺は人に寄せすぎていた。
マティアスが凄い。
それは間違いない。
でも、マティアス一人でやっているわけではない。
「人を作った」
「何がだ?」
アルベルトが聞く。
「マティアス」
俺は考えながら答える。
「自分で全部やるんじゃなくて、自分がいなくても回る人を集めた?」
モーザーが少し眉を上げる。
「それは商会なら普通では?」
「普通?」
「店主が一日留守にしただけで潰れる店は、大きくなれません」
「……ですよね」
また。
この世界の当たり前に教えられた。
でも。
そこに何かある。
「普通のことを、大きくした?」
俺が呟く。
アルベルトがこちらを見る。
「続けろ」
「一つ一つは普通なんですよ」
仲買。
倉庫。
船。
荷札。
信用状。
どれもマティアスが発明したわけではない。
「でも、それを繋いだ」
「ああ」
「別々だったものを、同じ方向へ動きやすくした」
モーザーが黙って聞いている。
「マティアスの強みって」
俺は少し考える。
「新しいものを作ることじゃない?」
「では何だ」
アルベルト。
「既にあるものを見つけて、繋ぐこと」
人。
仕組み。
商人。
船頭。
領主。
「それで、今まで出来なかった大きなことを出来るようにする」
アルベルトは答えなかった。
代わりにモーザーが言う。
「クレーマーをよく見ていますね」
「まだそんなに話してないですけど」
「なら、なおさらです」
「合ってる?」
「少なくとも商人としてのマティアス・クレーマーなら」
「……」
商人としての。
その言葉が少し気になった。
「他の顔もある?」
「今の時代、商人一つの顔だけで大きくなる者の方が珍しいですよ」
「どういう意味です?」
「領主と話す。役人と話す。傭兵と話す。職人と話す。時には盗賊とまで話す」
「盗賊?」
「道を安全にするために、盗賊へ金を払う商人だっています」
「……」
善悪だけではない。
商品を届ける。
利益を出す。
そのために使えるものを使う。
マティアス。
また少し。
あの男の輪郭が見えた気がした。
◇ ◇ ◇
「最後に一つ」
アルベルトが言った。
「何でしょう」
モーザーが見る。
「最近、大きな金が南へ流れたか」
俺は黙った。
核心。
モーザーの表情が変わる。
「どの程度を大きいと?」
「三千人の兵を一月食わせられる程度だ」
具体的だ。
モーザーはすぐには答えなかった。
「……現金ではありません」
「では?」
「信用状です」
「どこへ」
「それ以上は」
「名前はいらん」
「……」
モーザーが少し考える。
「南東です」
俺とアルベルトが目を合わせた。
「時期は?」
「ここ十日ほど」
「シュヴァルツ伯軍が動く前」
俺が言う。
「ああ」
アルベルト。
「誰が払ったかは?」
「申し上げられません」
「クレーマー商会か?」
モーザーは黙る。
答えない。
だが。
黙ったから肯定とは限らない。
俺はそれを昨日から学んでいる。
「殿下」
「何だ」
「今のだけじゃ繋げられません」
「ああ」
「金が南東に流れた。でもシュヴァルツ伯のためとは限らない」
「そうだ」
モーザーが俺を見る。
「慎重ですね」
「最近ちょっとだけ」
「殿下に似ましたか?」
「それは嫌だ」
「殺すぞ」
「ほら!」
モーザーが笑った。
「もう一つ教えて差し上げましょう」
「何です?」
「南東へ流れた金とほぼ同じ時期に、北からも金が入っています」
「北?」
「ええ」
「誰から?」
「それは言えません」
「金額は?」
「南東へ出た分より少ない」
「何に使う?」
「分かりません」
「……」
北から入る金。
南東へ出る金。
同じ商会か。
違う商会か。
まだ分からない。
でも。
金も川みたいだ。
入って。
出る。
溜める。
流す。
「殿下」
「何だ」
「物だけ追うより大変ですね」
「今さらか」
「見えないから」
「だから価値がある」
アルベルトはモーザーへ礼を言い、店を出た。
◇ ◇ ◇
外へ出ると、もう昼を過ぎていた。
「腹減った」
「お前は緊張感がないな」
ゲオルク。
「朝から歩いてるんですよ」
「私は食わんでも動ける」
「絶対嘘だ」
「試すか?」
「何を?」
「お前だけ昼飯抜き」
「嫌です」
結局、河港近くの食堂へ入った。
パン。
煮込み。
川魚。
旅の途中で食べるものとしてはかなり豪華だ。
「大都市っていいですね」
「何がだ」
アルベルト。
「食べ物」
「そこか」
「大事ですよ」
煮込みを食べながら、俺は紙を広げた。
「食いながら仕事をするな」
「殿下に言われたくないです」
「私はしたことがない」
「絶対ある」
今日聞いたことを書き出す。
クレーマー式の荷札。
仲買人。
船。
倉庫。
信用状。
北から入った金。
南東へ出た金。
「……分からない」
「何がだ?」
「シュヴァルツ伯と繋がってるか」
「まだな」
「でも何か大きいものが動いてる」
「ああ」
「レオンハルト殿下は知ってる?」
「一部はな」
「マティアスは?」
「本人に聞け」
「皆それ言うなぁ」
俺は紙を見る。
「これ」
「何だ」
「マティアスが本当にシュヴァルツ伯を支援してたら、レオンハルト殿下はあんなに普通に話します?」
「どう思う」
「……しない」
「理由」
「レオンハルト殿下はマティアスを使ってる」
「ああ」
「でもシュヴァルツ伯は今、レオンハルト殿下の敵になるかもしれない」
「ああ」
「その相手をマティアスが本気で支援してたら」
「信用は崩れるな」
「だから違う?」
「それもまだ決めるな」
「ですよね」
考えれば考えるほど、一つの答えに決めたくなる。
だが。
そうすると見たいものだけを見る。
「難しいな」
「何がだ」
「分からないまま置いておくの」
アルベルトが少し笑った。
「大事なことだ」
「殿下でも?」
「ああ」
「全部すぐ決めてるように見えます」
「決める時と、決めない時を決めている」
「……」
「今は?」
「まだ決めない」
俺は頷いた。
「じゃあ午後は?」
「人を見る」
「また?」
「今日まだ見ていないものがある」
「何です?」
「情報だ」
確かに。
物。
金。
人。
人はある程度見た。
情報。
「どうやって?」
「考えろ」
「結局それか!」
◇ ◇ ◇
午後。
俺たちは河港近くの酒場へ入った。
「……ここ?」
「ああ」
「昼から?」
「ああ」
「飲むんです?」
「お前は飲むな」
「飲みませんよ」
この世界では十五歳で成人扱いとはいえ、酒はまだ好きではない。
それより。
「ここで情報を見る?」
「見るのではない。聞く」
「噂?」
「そうだ」
なるほど。
酒場。
船頭。
商人。
荷運び人。
旅人。
色々な人間が集まる。
「でも本当か分からない」
「だから一つだけ信じるな」
「同じ話を何人もしてたら?」
「少し価値が上がる」
「別の場所でも同じなら?」
「さらに上がる」
「でも嘘かもしれない」
「そういうことだ」
情報も帳簿みたいなものなのかもしれない。
一つだけでは信用しない。
別のものと照らし合わせる。
俺たちは店の隅へ座った。
アルベルトは目立つ。
だから外套で服を隠し、護衛も少し離れた席へ座らせている。
それでも完全には隠せないが、少なくとも大公旗を掲げて歩くよりはましだ。
しばらく聞く。
「シュヴァルツ伯が王都へ行くらしいぞ」
「いや、東だ」
「五千いるって話だ」
「三千だろ」
「王都軍が一万集めたらしい」
「そんなにいるわけないだろ」
酷い。
数字がめちゃくちゃだ。
「殿下」
「何だ」
「噂、役に立ちます?」
「そのままならな」
「ですよね」
「だが共通しているものは?」
考える。
「シュヴァルツ伯が動いた」
「ああ」
「王都も兵を集めてる」
「ああ」
「行き先は分かってない」
「そうだ」
細かい数字は違う。
でも大きな部分は共通している。
さらに聞く。
「南の穀物値が上がってる」
「馬もだ」
「飼葉が足りないらしい」
「いや、軍が買ってるんだ」
俺の耳が反応した。
「殿下」
「ああ」
「飼葉」
「聞こえた」
馬がいる。
騎兵。
荷車。
軍隊。
「どこの?」
「聞け」
「普通に?」
「お前が行け」
「また俺?」
仕方ない。
俺は酒を飲んでいた船頭二人のところへ行く。
「すみません」
「何だ坊主」
「今の飼葉の話」
「商人か?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「旅人です」
嘘ではない。
「南で高いんですか?」
「ああ」
「どこ?」
「エーレン川の中流」
「何で?」
「知らん。買ってる奴がいるんだろ」
「大量に?」
「船一艘分運んだ奴もいる」
「どこへ?」
「東岸だ」
「誰が?」
「そこまで知らん」
「荷札は?」
船頭が俺を見る。
「何でそんなこと聞く」
「あ」
まずい。
「知り合いの商人が南にいるので」
「……」
少し疑われた。
でも。
「灰色札だったと思うぞ」
「灰色」
「クレーマー式?」
「いや」
もう一人が言う。
「端が赤かった」
「赤?」
「そうだ」
「どこの?」
「知らん」
俺は礼を言って戻る。
「赤縁」
アルベルト。
「知ってます?」
「いや」
「クレーマーじゃない」
「そうだな」
「じゃあ別の商会も軍需っぽい物を動かしてる」
「ああ」
当たり前だ。
戦争が近づけば。
マティアスだけが商売するわけじゃない。
利益を嗅ぎつけて商人が集まる。
「殿下」
「何だ」
「これ」
少し。
見えてきた。
「マティアスが全部動かしてるんじゃない」
「当然だ」
「でも」
戦争が近い。
物が動く。
金が動く。
商人が集まる。
「最初に動いた人が流れを作れる?」
アルベルトが俺を見る。
「続けろ」
「マティアスが全部買わなくても」
例えば。
南で飼葉が高いという情報が流れる。
商人が運ぶ。
船頭が運ぶ。
倉庫が空く。
別の商品が移動する。
値段が変わる。
「皆、自分の利益で動く」
「ああ」
「でも最初にどこで何が必要になるか知ってたら」
「その動きを利用できる」
「そういうこと?」
「私に聞くな」
「また!」
でも。
たぶん。
近い。
マティアスのやり方。
命令しない。
利益を作る。
理由を作る。
そうすると人が勝手に動く。
第二篇――ではなく、ヴァイスブルクで俺が経験した市場税と少し似ている。
税を下げたから「商人よ、来い」と命令したわけではない。
来た方が儲かると思った商人が来た。
それが市場を動かした。
「……規模が違う」
「何がだ?」
「俺がヴァイスブルクでやったことと」
小さな市場。
一つの街。
それに対して。
マティアスが見ているのは、いくつもの国。
河川。
街道。
何十、何百という商人。
「俺、まだまだだな」
「今さらか」
「もう少し優しく言ってください」
アルベルトが笑った。
◇ ◇ ◇
夕方。
酒場を出たところで、一人の男が待っていた。
「アレク・ハルトマン殿?」
「……はい?」
二十代後半くらい。
茶色い髪。
商人風の服。
武器は短剣だけ。
「誰です?」
「フェリクス・ローナーと申します」
「商人?」
「今は使いです」
アルベルトが一歩前へ出る。
「誰の」
フェリクスはアルベルトを見る。
すぐに頭を下げた。
「アルヴェイン大公殿下」
「知っているのか」
「もちろんです」
「なら答えろ」
「はい」
男は懐へ手を入れる。
ゲオルクの手が剣へ伸びた。
「ゆっくり」
「承知しております」
出てきたのは封書だった。
黒い蝋。
そこに押された印。
黒い円。
三本の白線を模した刻印。
「クレーマー商会」
俺が呟く。
「はい」
フェリクスが書状を差し出した。
「マティアス・クレーマー様からです」
「俺に?」
「アレク・ハルトマン殿へ」
俺はアルベルトを見る。
「開けろ」
「いいんです?」
「お前宛てだ」
「そうですけど」
封を切る。
中には短い文章。
読む。
『アレクへ。
随分と熱心に私の周りを調べているらしいな。
ヴェラーに会い、ブラントの倉庫を見て、今日はクラウスとモーザーにまで話を聞いたそうだ。
そこまで知りたいのなら、他人に聞くより私に聞いた方が早い。
明日の正午、ベルグハーフェン南河港の旧税関へ来い。
アルベルト殿下も一緒で構わない。
前に聞けなかった答えも、ついでに聞かせてもらおう。
マティアス・クレーマー』
「……」
もう一度読む。
「何て?」
アルベルト。
俺は黙って渡した。
読む。
ゲオルクも横から覗く。
「……」
「何です、その顔」
俺が聞く。
「いや」
ゲオルクが少し笑っている。
「何で笑うんです?」
「ついに捕まったな」
「俺が?」
「探していたのだろう」
「そうですけど」
俺はフェリクスを見る。
「マティアス、ベルグハーフェンにいるんですか?」
「それは申し上げられません」
「明日会うのに?」
「私は書状をお届けするよう言われただけです」
「最近この答えばっかり聞くなぁ」
ユリウスも同じだった。
「それに」
俺は書状を見る。
「今日誰と話したかまで知ってる」
「情報が早いな」
アルベルト。
「怖いんですけど」
「昨日レオンハルトも言っていただろう」
「情報を運ぶ」
「ああ」
まさに。
今日一日。
俺たちはマティアスの仕組みを追っていた。
その間に。
向こうは俺たちを見ていた。
「……負けてる気がする」
「何がだ」
「情報戦」
「最初から向こうの庭だ」
「それ先に言ってくださいよ」
「分かっていただろう」
「分かってましたけど!」
フェリクスが少しだけ笑った。
「返事をお預かりしても?」
俺はアルベルトを見る。
「行くぞ」
即答。
「ですよね」
「嫌か?」
「まさか」
俺は書状をもう一度見る。
ここまで来た目的。
マティアスと関係する商人に会い、何をしているのかを確かめる。
それを追って。
ヴェラーに会った。
倉庫を見た。
船を見た。
金の流れを見た。
人の繋がりを見た。
そして。
ついに本人から来た。
「行きます」
「承知いたしました」
フェリクスが頭を下げる。
立ち去ろうとする。
「待って」
「はい?」
「一つだけ」
「何でしょう」
「前に聞けなかった答えって」
分かっている。
でも確認したい。
フェリクスが少し困ったように笑う。
「私は存じません」
「本当に?」
「はい」
「今、少し笑いましたよね」
「気のせいでは?」
「絶対知ってる」
「アレク」
アルベルト。
「はい」
「使いを困らせるな」
「昨日殿下もやってたでしょう」
「私はいい」
「またそれ!」
フェリクスは今度こそ頭を下げ、去っていった。
◇ ◇ ◇
宿へ戻る途中。
俺はずっと書状を持っていた。
「穴が開くぞ」
ゲオルクが言う。
「紙に?」
「それだけ見ていればな」
「考えてるんです」
「何を」
「明日」
「仕えるかどうかか?」
「……」
やっぱり。
そこだ。
前にマティアスから誘われた時。
俺は断った。
知らないから。
まだ、この人に仕えたいと思えるほど相手を知らなかったから。
それから。
マティアスの周りを少しずつ見てきた。
商人。
倉庫。
船。
金。
情報。
レオンハルトとの関係。
知れば知るほど。
凄いと思う。
同時に。
分からないことも増えている。
「殿下」
「何だ」
「俺、前よりマティアスのこと分かったと思います?」
「私に聞くな」
「自分だと分からないので」
アルベルトは少し考えた。
「知ったことは増えた」
「でも?」
「人間を知ったとは限らん」
「……」
その通りだ。
俺が今日見たのは。
マティアスが作った仕組み。
マティアスと繋がっている人間。
でも。
マティアス本人ではない。
「明日話せ」
「はい」
「聞きたいことを聞け」
「はい」
「それから決めろ」
「決めないかもしれませんよ」
「それもお前の答えだ」
俺はアルベルトを見る。
「殿下」
「何だ」
「俺がマティアスに仕えたいって言ったら、怒ります?」
アルベルトの歩みが僅かに遅くなった。
「……」
「殿下?」
「前にも似た話をしたな」
「しましたっけ」
「お前は忘れるな」
「すみません」
アルベルトは前を見る。
「怒らん」
「本当に?」
「ああ」
「寂しい?」
「殺すぞ」
「それは寂しいってことです?」
「アレク」
ゲオルク。
「はい」
「今日はそのくらいにしておけ」
「分かりました」
少し笑う。
でも。
アルベルトが続けた。
「ただし」
「何です?」
「誰かに仕えるというのは、面白そうだから付いていくというだけの話ではない」
「……」
「その男が勝つ時だけでなく、間違えた時にも側にいることになる」
「はい」
「負ける時もだ」
「……はい」
「自分の人生を、その人間の選択に預ける部分ができる」
俺は黙る。
重い。
当たり前なのかもしれない。
でも。
前にアルベルトへ仕えた時。
そこまで考えていただろうか。
たぶん。
考えていなかった。
「だから」
アルベルト。
「よく見ろ」
「はい」
「マティアスが何を出来る男かではなく」
俺を見る。
「何をしたい男なのかを見ろ」
「……」
その言葉。
胸に残った。
何が出来るか。
それはもう少し見えている。
人を繋ぐ。
金を動かす。
物を動かす。
情報を動かす。
でも。
何のために。
それをやっている。
「分かりました」
「ならいい」
「殿下」
「何だ」
「珍しく師匠みたいでした」
「殺すぞ」
「何で!」
ゲオルクが笑った。
◇ ◇ ◇
その夜。
宿の部屋。
机の上には、今日書いた紙が並んでいる。
仲買人。
共同輸送。
荷札。
信用状。
両替商。
南東へ流れた金。
北から入った金。
飼葉。
船。
噂。
一日で随分増えた。
でも。
今日一番分かったことは、そこではない。
「全部、マティアスが作ったわけじゃない」
俺は小さく呟く。
仲買人は前からいた。
船も前からある。
信用状もマティアスの発明ではない。
倉庫だって。
商人だって。
街道だって。
全部、この世界に前からあった。
マティアスはそれを見つけた。
繋げた。
使いやすくした。
利益を与えた。
そうすると、皆が自分の意思で動き始める。
「……秀吉?」
また。
前世の名前が頭に浮かぶ。
人たらし。
調略。
兵站。
築城。
金。
商人。
相手の欲しいものを見抜き、人を動かす。
似ている。
やっぱり似ている。
でも。
「違う」
声に出した。
マティアスは豊臣秀吉じゃない。
この世界で生まれて。
この世界で育って。
自分の人生を生きている。
俺が知っている歴史に当てはめすぎれば。
見誤る。
レオンハルトもそうだ。
知っている誰かに似ている。
でも。
その人本人ではない。
俺は紙を裏返した。
新しい紙を一枚出す。
上に書く。
『明日、マティアスに聞くこと』
一つ目。
『何をしようとしているのか』
二つ目。
『なぜ商人を繋いでいるのか』
三つ目。
『シュヴァルツ伯軍と関係があるのか』
四つ目。
『レオンハルト殿下と、どこまで同じ目的なのか』
そこで手が止まった。
五つ目。
これは。
少し違う。
『なぜ俺を誘ったのか』
書く。
そして最後。
『俺に何をさせたいのか』
「……」
前に断った時。
俺はマティアスを知らなかった。
今も。
全部は知らない。
でも。
前よりは。
ずっと知りたいと思っている。
それが何を意味するのか。
まだ分からない。
「明日か」
窓の外を見る。
ベルグハーフェンの夜。
河港にはまだ灯りが残っている。
今この瞬間も。
船が動き。
金が動き。
人が動き。
情報が動いている。
その流れの中で。
マティアス・クレーマーが何を見ているのか。
明日。
今度こそ。
本人に聞く。
俺は紙を畳み、机の端へ置いた。
そして最後に、もう一度だけ書状を見る。
『前に聞けなかった答えも、ついでに聞かせてもらおう』
「ついで、ね」
絶対。
ついでじゃない。
少し笑った。
明日。
俺たちは、ようやく追っていた男本人と向き合う。
そして俺も。
前に出せなかった答えを、もう一度考えることになる。
第七話では、マティアスが作りつつある仕組みの一端が、より具体的に見えてきました。
荷札、仲買人、船、倉庫、信用状、そして商人たちの情報網。
一つ一つは以前から存在していたものでも、それらを繋げれば、人や物、金、情報の流れそのものを大きく動かす力になります。
同時にアレクも、マティアスを「何が出来る人物なのか」だけではなく、「何をしようとしている人物なのか」という視点で見るようになりました。
そして最後には、追っていたマティアス本人から届いた書状。
以前は答えを出せなかったアレクが、再びマティアスと向き合います。
次話、二人の再会です。




