第六話 王弟の目
ベルグハーフェンに滞在するアレクたちは、第一王弟レオンハルト・フォン・グランヴァルトとの会談へ向かいます。
レオンハルトとは前にも会い、言葉を交わしているアレク。
今回は初対面ではなく、互いをある程度知った上での再会です。
ですが、前に会った時とは周囲の情勢が違います。
シュヴァルツ伯軍は動き、王都も兵を出し始め、各地の領主たちはどちらへ付くべきかを見極めようとしている。
そして、その裏ではマティアス・クレーマーが、商人を通じて物だけではなく、金、人、情報まで動かしているらしい。
今回はレオンハルトとの再会を通して、アレクが「戦場に出る前から始まっている戦」を、さらに深く知っていく回です。
翌日。
俺は朝から落ち着かなかった。
「アレク」
「はい」
「さっきから何度目だ」
「何がです?」
「窓を見るのは」
ゲオルクに言われ、俺は窓から顔を戻した。
「そんなに見てました?」
「七回」
「数えてたんですか?」
「暇だったからな」
「俺より落ち着いてないじゃないですか」
「私は暇だっただけだ」
「同じでしょう」
ベルグハーフェンの宿。
窓の外では朝から荷車が行き交い、遠くから荷運び人たちの怒鳴り声や船の鐘が聞こえている。昨日見た河港も、とっくに動き始めているのだろう。
だが、今日は朝から港へ出る予定ではなかった。
夕刻。
レオンハルト・フォン・グランヴァルトと会う。
前に会って以来の再会だ。
顔も知っているし、かなり話もした。
第一王弟という身分を考えれば気軽に会える相手ではない。それでも、知らない大貴族を相手にするような緊張はなかった。
むしろ、少し楽しみにしている自分までいる。
気になっているのは別のことだった。
「何で今回は、わざわざ俺まで呼んだんだろう」
「昨日から何度言っている」
「だって気になるでしょう」
「前にも会っているだろう」
「だからですよ」
俺は机の上に置かれた書状を見る。
昨日、レオンハルトが送ってきたものだ。
アルベルトとの会談を求める正式な書状。その最後には、俺にも同席してほしいと書かれていた。
それだけならまだ分かる。
前に会っている。
俺のことも覚えている。
だが今回の目的は、昔話をすることではない。
シュヴァルツ伯軍が動き、王都も兵を出し始めた。
その状況で開かれるアルヴェイン大公と第一王弟の会談だ。
そこへ小姓である俺まで呼んでいる。
「『前に話した時は途中になった話もある』か……」
書状に書かれていた一文を思い出す。
「心当たりは?」
ゲオルクが聞く。
「ありすぎて分かりません」
「余計なことまで話すからだ」
「ゲオルク様に言われたくないな」
「私は必要なことしか話さん」
「殿下と同じこと言ってる」
「それは嫌だな」
「そこ否定するんだ」
俺は少し笑った。
ただ、もう一つ気になっていることがある。
マティアス。
昨日、俺がその名前を口にした瞬間、レオンハルトの使者ユリウスが僅かに反応した。
ほんの一瞬だった。
だが見間違いではないと思う。
ハンス・ヴェラー。
クレーマー商会。
ベルグハーフェンの河港。
倉庫。
共通化された荷札。
昨夜から今朝にかけて動いた荷。
シュヴァルツ伯軍。
そしてレオンハルト。
別々に見えていたものの間に、少しずつ線が見え始めている。
「ゲオルク様」
「何だ」
「レオンハルト殿下、前に会った時より変わってると思います?」
「なぜ私に聞く」
「知り合いでしょう?」
「殿下ほどではない」
「じゃあ殿下に聞こう」
「やめておけ」
「何で?」
「本人に聞けと言われる」
「……確かに」
前に会った時から、レオンハルトは印象に残る人物だった。
王族だからというだけではない。
会話をしている時、俺が何を言ったかだけではなく、どうしてそれを言ったのかまで見ようとしていた。
アルベルトとは少し違う。
アルベルトは問いを投げて、俺自身に答えを考えさせる。
レオンハルトは、こちらの答えを聞きながら、その人間自身を観察する。
そんな感じがする。
「でも、話しにくい人じゃないんですよね」
「そうなのか?」
「前に話した時は」
「それで余計なことを言ったのだろう」
「……」
「今日は言うなよ」
「俺、そんなに余計なこと言います?」
「言う」
「即答だ」
「相手は第一王弟だ」
「前に会った時だって知ってましたよ」
「知っていても言っただろう」
「……」
また言い返せない。
その時、扉が開いた。
「何の話だ」
アルベルトが入ってきた。
「殿下」
「アレクに、今日こそ余計なことを言うなと」
「無理だろう」
「殿下まで!?」
「前に会った時も無理だった」
「二人して昔の話を掘り返さないでください」
「それほど昔ではない」
アルベルトが椅子へ座った。
手には一枚の報告書がある。
「何です?」
「今朝の報告だ」
俺も椅子へ座り直した。
「シュヴァルツ伯?」
「ああ」
「どこまで行きました?」
「南東へさらに進んだ」
アルベルトが地図を広げ、昨日の位置から駒を一つ動かす。
「このままなら」
俺は街道を目で追った。
「今日か明日には分岐ですね」
「そうだ」
先には大きな分かれ道がある。
一方は王都方面。
もう一方はレオンハルトの影響力が強い地域へ続いている。
「まだ、どちらへ行くか分からない」
「ああ」
「王都側は?」
「千五百ほどが動き始めた」
「昨日聞いた兵?」
「そうだ」
俺は地図を見る。
シュヴァルツ伯軍。
王都軍。
そして、まだ地図上にははっきり置かれていないレオンハルトの兵。
「殿下」
「何だ」
「レオンハルト殿下も兵を動かしてると思います?」
「今日聞け」
「素直に答えます?」
「答えさせる」
「どうやって?」
「話してな」
「簡単そうに言うなぁ」
アルベルトが俺を見る。
「お前も昨日、聞くと言っていただろう」
「はい」
「シュヴァルツがどこへ向かっているのか」
「はい」
「王都で何が起きているのか」
「はい」
「レオンハルトがどこまで動くつもりなのか」
「はい」
「マティアスとどう繋がっているのか」
「それが一番気になります」
「なら忘れるな」
アルベルトの指が地図を叩く。
「今日は旧交を温めに行くのではない」
「分かってます」
「レオンハルトがお前を呼んだ理由も聞け」
「本人から言ってくれません?」
「期待するな」
「ですよね」
「それから」
「何です?」
「前に会った時と比べろ」
「レオンハルト殿下を?」
「ああ」
「何を?」
「全部だ」
「全部?」
「兵も、立場も、言葉も、人間もだ」
俺は少し考える。
前に会った時のレオンハルト。
その時のグランヴァルト。
そして今。
「同じ人でも、置かれてる状況が違えば変わる?」
「人そのものが変わっていなくても、見せる顔は変わる」
「なるほど」
第二篇――ではない。
ヴァイスブルクで市場や倉庫を見るようになってから、俺は比較することを覚えた。
昨日と今日。
帳簿と現物。
言っていることと実際に起きていること。
それは、人を見る時にも同じなのかもしれない。
「それと能力も使え」
「感情を見る方?」
「ああ」
「期待しすぎないでくださいね」
「分かっている」
神から与えられた能力。
人の感情や意図を普通より読み取りやすい。
だが、心が読めるわけではない。
表情。
視線。
声。
間。
そういった小さな変化を拾いやすいだけだ。
「万能なら楽なんですけどね」
「万能ならもっと働かせている」
「今でも十分働かされてますよ!」
アルベルトが笑った。
◇ ◇ ◇
夕刻。
俺たちはベルグハーフェン東河港へ向かった。
アルベルト。
俺。
ゲオルク。
護衛は六人。
レオンハルト側から、双方とも少人数で来るよう指定されている。
「グラウナー館でしたよね」
「ああ」
「前に会った時とは場所が違いますね」
「今回は正式な会談だからな」
町の中心から離れるにつれ、河港の喧騒が少しずつ遠ざかった。
やがて、小高い場所に白い石造りの館が見えてくる。
グランヴァルト王家が使う迎賓館だ。
正面には二本の旗が掲げられていた。
一つはグランヴァルト王家。
そしてもう一つ。
「レオンハルト殿下の旗」
「ああ」
銀の双頭鳥を基調としているが、王家旗とは意匠が違う。
前にも見た旗だ。
だが。
今見ると、以前とは少し違って見えた。
「……」
「どうした?」
ゲオルクが聞く。
「旗です」
「旗?」
「前に見た時は、レオンハルト殿下の旗だなって思っただけだった」
「今は?」
「一つの勢力に見えます」
王家。
レオンハルト。
シュヴァルツ伯。
同じ国の中に、それぞれの旗がある。
前なら、それ以上の意味を考えなかった。
だが今は。
それぞれの旗の下に兵が集まり始めている。
「本人の前では言うなよ」
「分かってます」
本当に。
今日は気をつけよう。
◇ ◇ ◇
館へ入り、二階へ上がる。
扉の前には、昨日書状を届けに来たユリウス・フォン・カレンベルクが立っていた。
「アルヴェイン大公殿下」
「待たせたか」
「いいえ」
ユリウスの目が俺へ向く。
「アレク殿も。殿下がお待ちです」
「昨日ぶりです」
ユリウスが僅かに頭を下げ、扉を開いた。
「来たか」
聞き覚えのある声。
俺は部屋へ入る。
窓際に一人の男が立っていた。
濃い銀色の髪。
灰色の瞳。
背が高く、細身ながら真っ直ぐな姿勢。
前に会った時と見た目はほとんど変わっていない。
当然だ。
それほど長い時間が経ったわけではない。
「久しいな、アルベルト」
「そうでもないだろう」
「私には長かった」
「忙しかったということか?」
「そういうことにしておこう」
レオンハルトが笑った。
そして俺を見る。
灰色の瞳が僅かに細くなる。
「アレク。ちゃんと来たな」
「殿下が呼んだんでしょう」
「そうだったな」
「忘れないでくださいよ」
「忘れてはいない」
レオンハルトが俺を上から下まで見る。
「前に会った時より、少し顔つきが変わった」
「背じゃないんですか?」
「なぜそこを気にする」
「十五歳なので」
「まだ伸びたいのか?」
「できれば」
「そこは知らん」
「役に立たないなぁ」
言った瞬間。
「アレク」
ゲオルクの低い声。
「あ」
第一王弟。
忘れていたわけではない。
でも。
前に話した時の感覚で、つい普通に返してしまった。
レオンハルトは怒るどころか笑った。
「相変わらずだな」
「何がです?」
「そういうところだ」
「前にも言われた気がする」
「なら少しは直せ」
「殿下が笑ってるならいいでしょう」
「よくない」
後ろでゲオルクが即答した。
アルベルトまで笑っている。
「殿下」
「何だ」
「楽しんでますよね」
「ああ」
「否定してください」
レオンハルトが俺を見たまま言った。
「書状にも書いたが、久しぶりに顔を見たかったのは本当だ」
「本当に?」
「ああ」
「何で?」
「前に話した時、お前との話が途中になった」
「どの話です?」
「色々だ」
「それじゃ分からない」
「だから今日続ければいい」
前より。
やっぱり。
少し近い。
俺はそう感じた。
ただ。
「でも今日は、それだけじゃないですよね」
レオンハルトの口元が僅かに上がった。
「その顔になったか」
「何です?」
「前に会った時より、目的を持って来ている顔だ」
「顔でそこまで分かります?」
「お前は分かりやすい」
「最近みんなそれ言うなぁ」
「座れ」
レオンハルトが椅子へ向かう。
「話すことは多い」
空気が変わった。
俺たちも席へつく。
机の上には既に大きな地図が広げられていた。
グランヴァルト西部。
ベルグハーフェン。
王都。
シュヴァルツ伯領。
アルヴェインとの国境。
俺たちが持っている地図よりも多くの駒が置かれている。
「……」
俺は自然と地図を見る。
「気になるか?」
レオンハルトが聞いた。
「はい」
「どこが?」
「全部です」
「欲張りだな」
「知らないまま動く方が怖いので」
「前より慎重になったな」
「色々ありましたから」
「そうか」
レオンハルトの指が一つの黒い駒へ置かれる。
「では、お前たちが一番知りたいところから始めよう」
「シュヴァルツ伯?」
「ああ」
黒い駒。
「現在、三千二百」
「増えてる」
思わず声が出た。
「知っていた数は?」
「昨日まで三千前後だと」
「今朝、二百ほど合流した」
「どこの兵です?」
「地方領主二家だ」
「シュヴァルツ伯側についた?」
「今のところはな」
今のところ。
俺はその言葉に引っ掛かった。
「信用してないんですか?」
「アレク」
ゲオルクが小さく呼ぶ。
「いや、構わん」
レオンハルトが止める。
「前もこうだった」
「すみません」
「謝るな。聞いた方が話が早い」
レオンハルトが地図を見る。
「信用という言葉は、今のグランヴァルトでは随分と安くなった」
「安く?」
「昨日まで王家へ忠誠を誓っていた者が、今日はシュヴァルツへ兵を送る。明日には私へ使者を寄越すかもしれん」
「そこまで?」
「そこまでだ」
俺は地図を見る。
前世で知っている戦国時代なら珍しくない。
勝ちそうな側へつく。
家を残すために兄弟で陣営を分ける。
敵だった者が味方になり、味方だった者が敵になる。
知識としては知っていた。
だが、目の前で実際にそれが起きていると思うと印象は違う。
「王都軍は?」
アルベルトが聞いた。
「千八百」
「こちらも増えたか」
「ああ」
「誰が率いる」
「オットー・フォン・ライゼン」
アルベルトの眉が僅かに動く。
「古い男を出したな」
「王都も焦っているのだろう」
「そして」
アルベルトがレオンハルトを見る。
「お前は?」
「何がだ」
「兵だ」
「何のことだ?」
「とぼけるな」
レオンハルトが笑った。
その瞬間。
少し嬉しい。
いや。
面白がっている。
俺にはそう見えた。
アルベルトがそこを聞いてくるのを待っていたのだろう。
「二千四百」
レオンハルトが答えた。
「……」
シュヴァルツ伯、三千二百。
王都、千八百。
レオンハルト、二千四百。
合わせれば七千を超える。
「多い」
俺が呟く。
「少ないくらいだ」
「これから増える?」
「可能性は高い」
「どこまで?」
「分からん」
即答だった。
「意外そうだな」
「少し」
「私なら全て知っていると思ったか?」
「前に会った時より偉くなってそうだったので」
「私の身分は変わっていない」
「そうでした」
「アレク」
ゲオルク。
「冗談です」
レオンハルトが少し笑った。
「だが、本当に分からん」
「誰がどちらにつくか?」
「ああ」
レオンハルトの表情から笑いが消える。
「今は、誰が敵で誰が味方になるのか、それさえ固まっていない」
その言葉を聞いて。
俺は地図へ目を落とした。
大きな戦の前。
前世で何度も読んだ。
まだ陣営そのものが完成していない時期。
誰が動くか。
どちらにつくか。
一つの勝敗で流れが変わる。
「……潮目」
俺は小さく呟いた。
「何だ?」
「いや」
「聞こえたぞ」
「流れが変わる場所みたいだなって」
「流れ?」
「今は、まだどっちへ流れるか分からない。でも一度大きく傾いたら、迷ってる人たちも一気にそっちへ流れそうです」
レオンハルトの目が僅かに細くなる。
「続けろ」
「え?」
「今の話だ」
「思っただけですけど」
「構わん」
俺は地図を見る。
「例えば、シュヴァルツ伯が王都軍に一度大きく勝ったら」
「どうなる?」
「今迷ってる領主がシュヴァルツ伯側へ行くかもしれない」
「逆なら?」
「王都側へ戻る」
「私が勝てば?」
「……」
少し考える。
「レオンハルト殿下へ集まる」
「それだけか?」
「いや」
今は。
シュヴァルツ伯がいる。
「王都とレオンハルト殿下の間の問題が、今よりはっきりするかもしれない」
「なぜだ?」
「今はシュヴァルツ伯っていう、どっちにとっても無視できない相手がいるから」
部屋が静かになった。
言ってから気づく。
「……今の、かなり危ないこと言いました?」
「今さらだ」
レオンハルトが笑った。
「アレク」
ゲオルクが額を押さえる。
「聞かれたから」
「お前はいつもそう言う」
「だって本当です」
レオンハルトが楽しそうに俺を見る。
「前と変わらんな」
「さっき変わったって言ったでしょう」
「変わったところと、変わらんところがある」
「便利な言い方だなぁ」
「だが」
レオンハルトが少しだけ真顔になった。
「今の見方は悪くない」
「本当に?」
「ああ」
「珍しく素直に褒めた」
「前にも褒めただろう」
「そうでした?」
「覚えていないのか」
「都合の悪いことだけ覚えてます」
「それは悪い癖だ」
会話の空気が少し軽くなる。
だが。
アルベルトが再び地図へ視線を戻した。
「レオンハルト」
「何だ」
「マティアスは何をしている」
笑いが消えた。
俺もレオンハルトを見る。
ここだ。
俺たちがベルグハーフェンまで来た一番の理由。
レオンハルトはすぐには答えなかった。
ほんの僅か。
間が空いた。
目。
口元。
指。
地図へ落ちた視線。
警戒。
何を言うか選んでいる。
でも。
知らないわけではない。
「知ってるんですね」
俺が言った。
レオンハルトが俺を見る。
「何を?」
「マティアスが何をしてるか」
「なぜそう思う」
「知らない人の考え方じゃなかったので」
「考えただけかもしれん」
「何を答えるかじゃなくて、どこまで答えるか考えてたように見えました」
「……」
少し。
言いすぎたかもしれない。
だがレオンハルトは怒らなかった。
むしろ、俺をじっと見る。
「なるほど」
「何です?」
「前より鋭くなったな」
「褒めてます?」
「半分は」
「残り半分は?」
「面倒になった」
「酷い」
レオンハルトがアルベルトを見る。
「お前がこいつを連れて歩く理由が、前より分かった」
「前から分かっていただろう」
「ここまでとは思わなかった」
「本人の前で分析しないでください」
「アレク」
アルベルトが言う。
「はい」
「少し黙っていろ」
「今度こそ?」
「今度こそだ」
「はい……」
レオンハルトが椅子へ深く腰を下ろす。
「マティアスは動いている」
声が低くなった。
「どこで?」
アルベルトが聞く。
「グランヴァルトだけではない」
俺は思わず顔を上げた。
黙る。
今度はちゃんと黙る。
レオンハルトの指が地図の端へ動く。
グランヴァルト。
アルヴェイン。
ノルディア。
ヴァルデン。
さらにその周囲。
「商人を使っている」
「武器か?」
アルベルト。
「それだけではない」
「食糧?」
「それもある」
「金?」
「ああ」
「他には?」
「人だ」
俺の背筋に僅かな寒気が走った。
「人?」
アルベルトが聞く。
「商人は物だけを運ぶわけではない」
レオンハルトが答える。
「情報を運ぶ。書状を運ぶ。噂を運ぶ。そして時には、人そのものを繋ぐ」
ハンス・ヴェラー。
クレーマー商会。
ベルグハーフェン。
倉庫。
船。
荷札。
別々に見えていたものが少しずつ繋がっていく。
「マティアスは」
アルベルトが低い声で聞く。
「何を作ろうとしている」
レオンハルトは少し黙った。
「私にも、まだ全ては見えていない」
「だが?」
「一つだけ分かる」
灰色の瞳が地図へ落ちる。
「奴は、戦が始まってから勝つつもりではない」
俺は息を止めた。
「始まる前に、勝てる形を作ろうとしている」
その意味は分かる。
戦国時代。
本当に強い者は、戦場だけで勝つわけではない。
戦う前に味方を増やす。
敵を減らす。
兵糧を集める。
街道を押さえる。
商人を味方につける。
情報を集める。
敵の中に内応者を作る。
そうして実際に軍がぶつかる頃には、勝敗の大部分が決まっている。
「……やっぱり」
思わず声が出た。
「何だ?」
レオンハルトが聞く。
今度はアルベルトも止めなかった。
「マティアスらしいなって」
「そう思うか?」
「はい」
俺は地図を見る。
「前に話した時から、あの人って一個のことだけ考えてなかったでしょう」
「例えば?」
「商人一人と話してても、その人だけを見るんじゃなくて、その先に誰がいるかまで考える」
「ああ」
「だから戦争も」
兵だけではなく。
「金も、物も、人も動かしてから始める」
「そういう男だ」
レオンハルトが答えた。
「殿下は」
俺はレオンハルトを見る。
「前から知ってたんですか?」
「何を?」
「マティアスがそういう人だって」
「知っていたから使った」
「……」
使った。
その言葉が引っ掛かる。
「マティアスは殿下の家臣ではないですよね」
「ああ」
レオンハルトはすぐ答えた。
「私の家臣ではない」
「じゃあ?」
「仕事を頼んでいる」
「どんな?」
「色々だ」
「またそれですか」
「答える必要のないところまで教えるつもりはない」
「前より厳しくなってません?」
「前よりお前が聞くようになった」
「ああ……」
確かに。
レオンハルトが少し笑った。
「だが一つだけ教えてやる」
「何です?」
「私はあいつを使っている」
「はい」
「そして」
レオンハルトが少し間を置く。
「あいつも私を使っている」
「……」
俺はその言葉を考える。
主従ではない。
どちらかが完全に上でもない。
互いに必要だから繋がっている。
「信用してるんですか?」
「ああ」
「でも警戒もしてる?」
「当然だ」
「両立する?」
「する」
レオンハルトは即答した。
「信用とは、相手が絶対に裏切らないと思い込むことではない」
「……」
「こいつなら、こう動くだろうと分かった上で任せることだ」
「難しいなぁ」
「そのうち分かる」
「皆それ言うな」
俺は少し笑った。
だが。
一つ分かった。
マティアスとレオンハルトの関係。
少なくとも今は、主君と家臣ではない。
互いを利用し、互いに利益があるから繋がっている。
そして、その関係が永遠に続く保証もない。
「アレク」
アルベルトが言う。
「はい」
「昨日見た倉庫を思い出せ」
「クレーマー商会?」
「ああ」
「何がです?」
「今日の話を聞いて、見え方は変わったか?」
昨日。
俺は物を見た。
荷札。
船。
荷車。
倉庫。
でも。
「物だけじゃない」
「続けろ」
「荷札を統一すれば、別の商会同士でも荷物を回せる」
「ああ」
「商人同士が繋がる」
「ああ」
「そこを情報も通る?」
レオンハルトが答える。
「当然だ」
「じゃあ」
俺は地図を見る。
「俺たちが追ってるのは荷物だけじゃ足りない」
「そういうことだ」
「金も」
「ああ」
「人も」
「ああ」
「情報も」
「ああ」
難しい。
でも。
面白い。
少しずつ。
一本の線になっていく。
「明日」
アルベルトが言った。
「もう一度河港を見る」
「またですか?」
「嫌か?」
「嫌ではないですけど」
「今日聞いたことを踏まえて、最初から見ろ」
アルベルトの指がベルグハーフェンへ置かれる。
「物だけを見るな」
街道。
「金も」
倉庫。
「人も」
河川。
「情報もだ」
「……難易度上がってません?」
「当然だ」
「俺、まだ十五ですよ?」
「知っている」
「便利な時だけ年齢無視しますよね」
「嫌なら宿で寝ていろ」
「行きます」
「なら決まりだ」
レオンハルトが笑った。
「本当に変わらんな、お前たちは」
「殿下」
俺はレオンハルトを見る。
「何だ?」
「そういえば」
「うん」
「まだ一つ聞いてません」
「何を?」
「俺を今日呼んだ理由」
レオンハルトが笑った。
「まだ気にしていたのか」
「昨日からずっと気にしてますよ」
「書状に書いただろう。久しぶりに話したかった」
「それだけ?」
「それだけでもある」
「でも?」
「お前は本当に面倒だな」
「殿下が途中まで言うからでしょう」
「前に会った時より遠慮がなくなったな」
「悪いです?」
「いや」
レオンハルトは少し楽しそうだった。
「嫌いではない」
「なら良かった」
「だが、理由はもう一つある」
「何です?」
「マティアスだ」
やはり。
俺は姿勢を少し正した。
「前に会った時から、お前は面白いと思っていた」
「ありがとうございます?」
「なぜ疑問形なのだ」
「殿下の面白いは褒め言葉か分からないので」
「そこはアルベルトと同じだな」
「一緒にしないでください」
「おい」
アルベルトが低い声を出す。
レオンハルトが笑った。
「だが、あれからマティアスがお前の話を何度かした」
「何て?」
「色々だ」
「そこ教えてくださいよ」
「本人に聞け」
「結局それ!」
前と同じ。
まただ。
「ただ」
レオンハルトの笑みが少し薄くなる。
「奴が誰かを何度も話題にするのは珍しい」
「……」
「マティアスは人を見る」
「はい」
「使える者を見る。伸びる者を見る。自分にはないものを持つ者を見る」
灰色の瞳が俺を捉える。
「その男がお前を気に掛けている」
「だから?」
「私が前に見たアレクと、今のアレクがどう変わったのか、もう一度見てみたかった」
「……」
「それが二つ目の理由だ」
俺は少し黙った。
「結果は?」
「何が?」
「どうでした?」
「前より面倒になった」
「酷い!」
レオンハルトが笑った。
「だが」
少し間。
「前より使えそうだ」
「それ褒めてます?」
「私は褒めている」
「じゃあありがとうございます」
「素直だな」
「褒められた時くらいは」
アルベルトが横から口を挟む。
「レオンハルト」
「何だ」
「私の小姓を勝手に勧誘するな」
「していない」
「今、使えそうだと言った」
「感想だ」
「怪しいな」
「お前の物ではないのだろう?」
「本人が選ぶ」
レオンハルトが俺を見る。
「そうだったな」
前に。
俺はアルベルトに仕えることを、一度断った。
そして後から。
自分から頼んだ。
レオンハルトもその話を知っている。
「アレク」
「はい」
「今も自分で選ぶつもりか?」
「何を?」
「誰と歩くかだ」
少し。
胸の奥に残る言葉だった。
「……はい」
「そうか」
レオンハルトはそれ以上言わなかった。
でも。
俺は自然とマティアスの顔を思い浮かべた。
まだ。
答えは出ていない。
だから。
見る。
もっと話す。
それから決める。
「そうだ」
レオンハルトが何かを思い出したように言った。
「お前、マティアスを探しているのだったな」
「はい」
「随分と奴の周りを嗅ぎ回っているらしい」
「言い方!」
「ヴェラーにも会った」
「何で知ってるんです?」
「ブラントの倉庫にも入った」
「監視されてません?」
「私の国だ」
「怖いなぁ」
「安心しろ。お前だけではない」
「もっと怖いです」
レオンハルトが笑う。
「マティアスは今、南にいる」
「南?」
俺は身を乗り出した。
「どこです?」
「そこまでは教えん」
「何で!」
「情報はただではない」
「王弟なのに細かい」
「王弟だからだ」
「ヨハンさんみたいなこと言うなぁ」
「誰だ?」
「うちの財務官です」
「今度会ってみたいな」
「絶対気が合いますよ」
アルベルトが嫌そうな顔をした。
「やめろ。面倒が増える」
「殿下が言います?」
「言う」
レオンハルトが笑った。
「近いうちにマティアスは戻る」
「ベルグハーフェンへ?」
「そこまでは知らん」
「会えます?」
「運が良ければな」
少し。
楽しみになった。
たぶん顔に出た。
「随分会いたそうだな」
「気になるので」
「仕える気になったか?」
「それは別です」
「まだか」
「まだです」
「なぜ?」
「まだマティアスを全部知らないから」
「人間を全部知ってから決めるつもりか?」
「それは無理ですけど」
「なら?」
「少なくとも」
少し考える。
「自分で納得してから決めたいです」
レオンハルトの表情が僅かに変わった。
「そうか」
「何です?」
「いや」
「また何か考えてます?」
「考えている」
「教えてください」
「嫌だ」
「即答」
「だが」
レオンハルトが笑う。
「なら会え」
「マティアスに?」
「ああ」
「自分の目で見て、自分で決めろ」
前にも。
似たことを言われた気がする。
アルベルトも黙っている。
俺は頷いた。
「そうします」
◇ ◇ ◇
会談が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
俺たちは席を立つ。
「レオンハルト」
アルベルトが言った。
「何だ」
「次に会う時まで生きていろ」
「お互いにな」
「前にもこんな話してません?」
俺が聞く。
二人が同時に俺を見る。
「何です?」
「お前は最後まで余計なことを言うな」
「だって気になって」
レオンハルトが笑った。
「アレク」
「はい」
「お前も生きていろ」
「急に重いな」
「返事は?」
「……はい」
少しだけ姿勢を正す。
「殿下も」
「ああ」
「今度会う時まで」
「約束はできん」
「そこはしてくださいよ」
「戦が近い」
レオンハルトの声が少しだけ低くなる。
その一言で。
さっきまでの笑いが消えた。
「だが」
灰色の目が俺を見る。
「死ぬつもりもない」
「なら十分です」
「そうか」
俺たちは館を出た。
外には夜のベルグハーフェンが広がっている。
河港には無数の灯りが浮かび、川面で揺れていた。
船が入る。
船が出る。
荷車が走る。
倉庫ではまだ人が働いている。
その一つ一つの下で。
物が動く。
金が動く。
人が動く。
情報が動く。
「アレク」
アルベルトが呼ぶ。
「はい」
「どうだった」
「レオンハルト殿下?」
「ああ」
俺は少し考える。
「前と同じでした」
「それだけか?」
「でも」
館を振り返る。
王家の旗。
そして、その横にあるレオンハルトの旗。
「前より大きく見えました」
「本人が?」
「立場が」
「そうか」
「前に会った時は第一王弟だと思って見てた」
「ああ」
「今日は」
王家。
シュヴァルツ伯。
レオンハルト。
三つの旗。
「一つの勢力を率いる人に見えました」
「間違ってはいない」
「でも本人は?」
「何だ」
「そこまで変わってない」
人を見ている。
考えている。
必要なら笑う。
必要なら隠す。
前に話した時と同じ。
「少し安心しました」
「なぜ」
「知ってる人が、全然違う人になってたら嫌なので」
「戦が続けば人は変わる」
「殿下も?」
「ああ」
「俺も?」
「もう変わっている」
「そうですか?」
「自分では分からんものだ」
俺は少し黙った。
そしてもう一つ。
マティアス。
「殿下」
「何だ」
「今日分かったこと」
「言ってみろ」
「マティアスは、やっぱり戦場だけを見てない」
「ああ」
「商人を使って、物を動かして」
「ああ」
「金を動かして、人を繋いで、情報まで動かしてる」
「ああ」
「戦が始まる前に、勝てる形を作ろうとしてる」
「そう見える」
「それと」
「何だ」
「レオンハルト殿下も、かなり前からそれを知ってる」
「ああ」
「二人は家臣と主君じゃない」
「ああ」
「でも互いに使ってる」
「そうだ」
「……面倒ですね」
「何がだ」
「誰が誰の味方なのか、簡単に決められない」
アルベルトが少し笑った。
「ようやく分かってきたな」
「褒めてます?」
「半分は」
「今日それ二回目だ」
俺も少し笑った。
でも。
今までよりはっきり分かった。
戦はまだ始まっていない。
少なくとも、大軍同士が正面からぶつかってはいない。
それでも。
商人が動く。
金が動く。
兵糧が動く。
書状が動く。
人が動く。
それを誰かが繋いでいる。
「マティアス・クレーマー……」
俺は小さく名前を呟いた。
前世で知っている誰かに似ている男。
でも、同じではない。
だから。
もっと見る。
もっと話す。
自分で確かめる。
そして。
その先で。
自分が誰と歩くのか。
自分で決める。
夜の川を眺めながら、俺はそんなことを考えていた。
剣はまだ抜かれていない。
鬨の声も聞こえない。
それでも、もう戦は始まっている。
今度は、昨日までよりはっきりと。
そう思えた。
第六話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、前に一度会っているレオンハルトとアレクの再会を描きました。
二人の距離は、主君であるアルベルトほど近くはありません。
ですが、単なる「第一王弟と小姓」でもありません。
レオンハルトはアレクの考え方そのものを面白がり、アレクもまた、身分を意識しながらも以前より自然に言葉を交わせる相手になっています。
そして今回、グランヴァルトの情勢も少しずつ輪郭を持ち始めました。
シュヴァルツ伯軍。
王都軍。
レオンハルトの兵。
まだ誰が完全な敵で、誰が完全な味方なのかも決まっていません。
一度の勝敗、一人の領主の決断、一つの情報によって、多くの人間が動く可能性があります。
まさに「乱世の潮目」です。
そして、その流れの裏側で動いているマティアス。
彼が動かしているのは、兵だけではありません。
物。
金。
人。
情報。
それらを繋ぎ、戦が始まる前から「勝てる形」を作ろうとしている。
アレクがこれまで市場や倉庫、物流を通して学んできたことが、ここから少しずつ大きな戦へ繋がっていきます。
そして最後に残ったのは、マティアス本人への興味です。
レオンハルトからも「自分の目で見て、自分で決めろ」と言われたアレク。
誰と歩くのか。
誰に仕えるのか。
その答えは、まだ出ていません。
ですが、マティアスとの次の再会は確実に近づいています。




