第六話 王弟の目
ベルグハーフェンを訪れたアレクたちは、第一王弟レオンハルトとの会談に臨む。
三つの勢力が兵を動かすなか、戦場へ姿を現す前から勝利の形を作ろうとする者がいた。
翌朝、アレクたちはベルグハーフェンの河港を再び訪れた。
前日に見た中央河港では、早朝から荷車が列を作っていた。船から降ろされた麦袋が倉庫へ運び込まれ、代わりに布や鉄製品を積んだ荷車が船着き場へ向かっている。
前日と同じように見える光景だったが、アレクはクレーマー商会の荷だけを追わなかった。
倉庫の印、荷車の持ち主、船員が受け取る荷札。誰が誰へ指示を出し、異なる商会の荷がどのように一つの船へ積み込まれているのかを見ていく。
「昨日より随分と静かだな」
隣を歩いていたゲオルクが言った。
「港は昨日より騒がしいですよ」
「お前のことだ。昨日は見つけたものを片端から口にしていただろう」
「今日は考えてから話そうとしているんです」
「殊勝な心掛けだ」
「信じてませんね?」
「半分は信じている」
「残りの半分は?」
「いつまで続くか見ている」
アレクは言い返そうとしたが、その前を二台の荷車が通り過ぎた。
一台目にはクレーマー商会の印がある。二台目には別の商会の印があった。それでも二台は同じ倉庫の前で止まり、荷下ろしを始めた。
「同じ倉庫へ入れるんですね」
「ああ」
アルベルトが荷車へ視線を向けた。
「倉庫の持ち主と、荷の持ち主が同じとは限らん」
「昨日も似たようなものを見ました。でも、あの二台は商会が違います」
「だから何だ?」
「荷物を預ける場所が同じなら、帳簿や荷札もある程度は合わせなければならない。船へ積む時も、別々に扱っていたら時間が掛かります」
「それから?」
アルベルトに先を促され、アレクは倉庫の入口を見た。
荷を受け取る男は、二つの商会の者へ異なる指示を出していない。荷札を確かめ、麦袋を同じ場所へ運ばせている。
「クレーマー商会が自分の荷だけを動かしているわけではないということです」
「そうだな」
「でも、どこまで関わっているのかは分かりません。倉庫を貸しているだけなのか、船まで手配しているのか、それとも荷を買った相手まで繋いでいるのか」
「荷を見ただけでは分からんか」
「はい」
アレクは素直に認めた。
荷札を揃え、倉庫を効率よく使う仕組みは見えてきた。だが、その仕組みを通して誰が金を受け取り、誰が情報を得ているのかまでは分からない。
マティアスが何を目的としているのかも、まだ掴めなかった。
「今日はここまでだ」
アルベルトが言った。
「もう戻るんですか?」
「今夜はレオンハルトと会う。昼まで港を歩き回り、疲れた顔で向かうつもりか?」
「それくらいなら平気です」
「お前が平気でも、こちらには準備がある」
ゲオルクがアレクの肩を軽く叩いた。
「大公殿下の小姓として同行するのだから、今夜は見るだけでは済まないかもしれんぞ」
「分かっています」
「本当に分かっている顔には見えんな」
「レオンハルト殿下とは、前にも話していますから」
「以前と今では、殿下を取り巻く状況が違う」
ゲオルクの声から軽さが消えた。
アレクもそれ以上は言い返さなかった。
以前に会った時から、レオンハルト本人の身分は変わっていない。しかし、シュヴァルツ伯が兵を集め、王都軍が動き始めた今、第一王弟であるレオンハルトの言葉は以前より重くなっている。
誰と会い、誰へ何を話したのか。それだけで周囲の諸侯が意味を探る立場になっていた。
アレクたちは河港を離れ、宿へ戻った。
◇ ◇ ◇
宿の一室では、アルベルトが新しく届いた報告書を読んでいた。
窓際の机にはベルグハーフェン周辺の地図が広げられ、その上にいくつかの木片が置かれている。
濃紫に塗られた木片はシュヴァルツ伯軍を表していた。昨日よりも南東へ移され、街道が二つに分かれる場所へ近づいている。
「シュヴァルツ伯軍へ、さらに兵が加わりましたか」
アレクが尋ねると、アルベルトは報告書を机へ置いた。
「二つの小領主家から、それぞれ百人ほどが合流した」
「合わせて二百人」
「ああ。シュヴァルツ伯軍は、およそ三千二百人になったと見ていい」
シュヴァルツ伯は、グランヴァルト王国内で中央の力が強まることへ反発する地方諸侯を集めている。
だが、集まっている者の全員が同じ目的を持っているわけではない。王家への反発から加わった者もいれば、領地を守るために強い側へつこうとする者もいる。シュヴァルツ伯の勢力が拡大すると見て、遅れて兵を出した者もいるはずだった。
「王都軍は?」
「ライゼン将軍の指揮で動き始めた。兵は千八百ほどだ」
「シュヴァルツ伯軍より少ないですね」
「数だけを比べればな」
「王都軍の方が装備や訓練で勝る可能性はあります。でも、千四百人の差を簡単に埋められるとは思えません」
「レオンハルトがいる」
アルベルトの指が、別の木片へ触れた。
「殿下が王都軍へ加われば、兵数では上回る」
「加わらなければ?」
「王都軍とシュヴァルツ伯軍が戦うのを見ていることもできる」
「そんなことをしますか?」
「それを今夜見極める」
アレクは地図へ目を落とした。
シュヴァルツ伯軍が進んでいる街道は、この先で二つに分かれる。一方は王都方面へ続き、もう一方はレオンハルトの勢力圏へ近づく。
シュヴァルツ伯がどちらへ向かうかによって、レオンハルトが選べる行動も変わる。
「シュヴァルツ伯自身は、まだ行き先を決めていないのでしょうか」
「決めていても、周囲には知らせていないだろう。王都へ向かうと見せてレオンハルトを誘い出すこともできる。レオンハルトの領地を狙うと見せ、王都軍の動きを鈍らせることもできる」
「兵を動かすだけで、相手にも兵を動かさせる」
「それができるだけの数を集めたということだ」
アルベルトは濃紫の木片から手を離した。
「今夜は兵の数だけを見るな」
「他に何を見ればいいですか?」
「立場、言葉、人間だ」
「全部ですか」
「レオンハルトが何を話すかだけではない。何を話さないのかも見ろ」
「相変わらず難しいことを簡単に言いますね」
「簡単なら、お前を連れていく必要はない」
アレクは返事をせず、もう一度地図を見た。
兵数は数字にできる。地図の上へ木片を置けば、位置も目に見える。
だが、人間の思惑には形がない。
それでも表情や言葉の間、問いを受けた時の視線から、何かを読み取れることがある。アレクはこれまでにも、相手が口にしない不安や迷いを感じ取ってきた。
すべてを見抜けるわけではない。思い込みを事実と取り違えれば、かえって判断を誤る。
「分かったことと、考えたことは分けます」
アレクが言うと、アルベルトはわずかに口元を緩めた。
「それでいい」
「最初から、その言い方をしてくれれば分かりやすいんですけど」
「考えた後に聞くから意味がある」
「やっぱり、わざと難しくしてますよね」
「支度をしてこい」
話を終わらされたアレクは、小さく息を吐いて部屋を出た。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めた頃、アルベルトたちはグラウナー館へ向かった。
同行するのはアルベルト、アレク、ゲオルクと六人の護衛だった。街中で大勢の兵を連れれば、ただの会談まで物々しく見えてしまう。
グラウナー館は中央河港から少し離れた高台に建っていた。交易都市に置かれた館らしく、城ほどの防備はない。それでも外壁は高く、正門には武装した兵が並んでいる。
館の上には二本の旗が掲げられていた。
一つは、黒地に金の獅子を描いたグランヴァルト王家の旗だった。
もう一つも黒を基調としているが、金獅子の向きと縁取りが異なる。王家の一員であることを示しながら、レオンハルト個人の旗だと見分けられる意匠だった。
風を受けて並ぶ二本の旗を見上げ、アレクは今のグランヴァルトを思った。
王都には国王と王都軍がいる。地方ではシュヴァルツ伯が濃紫の旗の下へ諸侯を集めている。そしてレオンハルトは、王家の一員でありながら、自らの兵と領地を持って動いていた。
三者は互いに無関係ではない。
同じ方向を向くこともあれば、それぞれの利益を優先することもある。
正門の前で馬を下りると、ユリウス・フォン・カレンベルクが出迎えた。
「お待ちしておりました、アルベルト大公殿下」
「急な訪問を受け入れてもらい、感謝する」
「レオンハルト殿下も、お会いになるのを楽しみにしておられます」
ユリウスの視線がアレクへ移った。
「アレク殿も、よくお越しくださいました」
「昨日はありがとうございました」
「いいえ。殿下からの書状をお渡ししただけです」
穏やかな返答だった。
昨日、アレクがマティアスの名を口にした時、ユリウスの表情はわずかに変わった。今は、その気配を感じさせない。
「どうかしましたか?」
「いえ。今日はよろしくお願いします」
アレクは問いを飲み込んだ。
会談が始まる前から、使者を問い詰める必要はない。アルベルトも何も言わず、ユリウスの案内に従って館へ入った。
通された部屋には、すでにレオンハルトが待っていた。
銀色の髪と灰色の目は以前と変わらない。しかし、身につけている衣服は華美ではないものの仕立てがよく、腰には剣がある。地図の広げられた机の周囲には数人の側近が控えていた。
「久しいな、アルベルト」
「お前が忙しくしているからだ」
「私のせいにするのか」
「違うのか?」
「半分ほどは認めよう」
レオンハルトはアルベルトと短く言葉を交わした後、アレクを見た。
「アレクも来たか」
「お久しぶりです、レオンハルト殿下」
「ああ。以前より顔つきが変わったな」
アレクは思わず自分の頬へ触れた。
「そんなに変わりましたか?」
「自分では分からんか」
「毎日見ていますから」
「自分の顔を毎日眺めているのか?」
「そういう意味ではありません」
「なら、どういう意味だ」
「朝に水で顔を洗う時くらいは見ます」
「相変わらずだな」
レオンハルトが笑った。
「今度は変わったのか、変わっていないのか、どちらですか」
「顔つきは変わったが、余計なところまで答える癖は変わっていない」
ゲオルクがアレクの背後で小さく息を吐いた。
「お会いになりたかったというのは、アレクの顔つきを確かめるためですか?」
アルベルトが尋ねると、レオンハルトは椅子を示した。
「それもある。だが、立ったまま話すことではない」
一同が席へ着く。
アレクはアルベルトの斜め後ろへ座った。小姓としての位置だが、地図を見ることも会話へ加わることもできるよう席が用意されている。
レオンハルトが視線で合図すると、ユリウスが地図の上へ木片を並べた。
「シュヴァルツ伯軍は現在、この位置です」
置かれたのは濃紫の木片だった。
「二つの領主家から兵が合流し、総数はおよそ三千二百人となりました」
「こちらへ届いた報告と同じだな」
アルベルトが言った。
「王都軍は?」
「オットー・フォン・ライゼン将軍が千八百人を率いて王都を出ました。現在は西の街道を進んでいます」
王都から延びる街道へ、別の木片が置かれる。
ライゼン将軍の率いる王都軍がこのまま進めば、数日後にはシュヴァルツ伯軍の進路へ近づく。しかし、どこで向きを変えるかによって接触する時期も場所も変わる。
「お前の兵は?」
アルベルトが尋ねた。
「二千四百だ」
レオンハルトは迷わず答えた。
シュヴァルツ伯軍が三千二百。王都軍が千八百。レオンハルト軍が二千四百。
三つの軍を合わせれば七千を超える兵が、同じ地域で動こうとしている。
「多いですね」
地図を見ていたアレクが呟いた。
「少ないくらいだ」
レオンハルトが答えた。
「これから、さらに増えるのですか?」
「可能性は高い」
「どこまで増えるか分かりますか?」
「分からん」
予想していなかった即答に、アレクはレオンハルトを見た。
「意外そうだな」
「殿下なら、もう少しは分かっていると思っていました」
「私なら何でも知っていると思ったか?」
「そこまでは思っていません。でも、前にお会いした時より、殿下の周りに集まる人は増えているので」
「人が増えれば、入ってくる情報も増える。だが、真偽を確かめなければならない話も増える」
「誰が味方になり、誰が敵になるのかも決まっていない?」
「ああ」
レオンハルトの表情から笑みが消えた。
「今はシュヴァルツ伯へ従うと答えていても、王都軍が勝てば態度を変える者がいる。反対に、王家へ忠誠を誓っていても、シュヴァルツ伯が勝つと見れば兵を出さない者もいるだろう」
「殿下のところへ来る者もいますか?」
「いる。だが、私へ近づいている者が、私に味方すると決めたとは限らん」
「負けそうになった時のために、話だけしておく者もいる」
「そういうことだ」
アレクは三つの木片を順に見た。
兵数はすでに多い。しかし、これから加わるかもしれない領主たちの兵は、まだ地図の上に置かれていない。
前世で読んだ戦国時代の歴史にも、似た状況があった。
大きな勢力同士が争う時、すべての領主が最初から立場を明らかにするとは限らない。両方へ使者を送り、ぎりぎりまで勝ちそうな側を見極めようとする者もいる。
一度どちらかが大きく崩れれば、それまで迷っていた者たちは急速に動き始める。
「潮目みたいですね」
アレクが呟くと、レオンハルトの目がわずかに細くなった。
「潮目?」
「流れが変わる境目です。今は、どちらへ流れるのか分からない。でも、一度大きく傾いたら、迷っている人たちも一斉にそちらへ流れそうです」
「続けろ」
「例えば、シュヴァルツ伯が王都軍へ大きく勝てば、今は迷っている領主もシュヴァルツ伯側へ加わるかもしれません」
「逆なら?」
「王都側へ戻ります」
「私が勝てば、どうなる?」
アレクはすぐには答えなかった。
レオンハルトがシュヴァルツ伯軍を破った場合、シュヴァルツ伯を恐れて従っていた者の一部はレオンハルトへ近づくはずだ。
だが、動くのは彼らだけではない。
「レオンハルト殿下へ人が集まります」
「それだけか?」
「王都と殿下の関係も、今までと同じではいられなくなると思います」
部屋の空気が静かに変わった。
レオンハルトの側近たちは表情を動かさなかったが、アレクへ向けられる視線がわずかに鋭くなった。
「なぜだ?」
レオンハルト自身は、変わらない声で尋ねた。
「今は、シュヴァルツ伯が王家にとっても殿下にとっても無視できない相手だからです。ですが、殿下がシュヴァルツ伯を破れば、地方の領主たちは王都ではなく、殿下の力で勝ったと考えます」
「そうなると?」
「シュヴァルツ伯を恐れていた者だけでなく、王都のやり方に不満を持っている者も殿下へ集まるかもしれません。殿下が望まなくても、周りが一つの勢力として見るようになります」
アレクは言い終えてから、周囲を見回した。
「少し言いすぎましたか?」
「今さらだ」
レオンハルトの口元に笑みが戻った。
「聞いたのは私だ。お前は考えたことを答えただけだろう」
「はい」
「今の見方は悪くない」
「ありがとうございます」
「今日は素直だな」
「褒められた時くらいは素直に受け取ります」
「以前より扱いやすくなったかもしれんな」
「それは、どういう意味ですか?」
「アレク」
ゲオルクが低い声で止めた。
「分かっています。会談中でした」
アレクが口を閉じると、レオンハルトは楽しそうに笑った。
「変わったところもあれば、変わらんところもあるらしい」
場の緊張が少しだけ和らいだ。
しかし、アルベルトは地図から目を離さなかった。
「レオンハルト」
「何だ」
「マティアスは何をしている」
レオンハルトの笑みが消えた。
アレクも姿勢を正した。
ヴェラーから聞いた話、クレーマー商会の倉庫、統一された荷札、南へ流れる荷物。それらを調べるために、アルベルトたちはベルグハーフェンまで来た。
レオンハルトはすぐには答えなかった。
その沈黙は長くない。だが、知らないことを聞かれた人間の反応とは違っていた。
レオンハルトの視線が一度だけ地図へ落ち、指先が机を軽く叩く。
何を答えるべきか迷っているのではない。どこまで答えるかを選んでいる。
「殿下は、マティアスが何をしているのか知っているんですね」
アレクが言うと、レオンハルトが視線を向けた。
「なぜそう思う?」
「知らないなら、知らないと答えるか、アルベルト様から話を聞こうとすると思います。でも、今はどこまで話すか考えているように見えました」
「表情だけで、そこまで分かるのか?」
「分かったのではなく、そう見えただけです。違っているかもしれません」
レオンハルトはアレクを見つめた後、アルベルトへ顔を向けた。
「以前より慎重になったな」
「間違えた時の怖さを知っただけだ」
「お前が教えたのか?」
「勝手に覚えた」
「本人の前で話を進めないでください」
「では、少し黙っていろ」
アルベルトに言われ、アレクは不満を口にする代わりに頷いた。
レオンハルトは椅子へ深く座り直した。
「マティアスは動いている」
「どこでだ?」
「グランヴァルト国内だけではない」
レオンハルトの指が地図の端をなぞった。
グランヴァルトの周囲にはアルヴェイン大公国、ノルディア王国、ヴァルデン大公国があり、その間を街道と河川が結んでいる。
「武器を集めているのか?」
アルベルトが尋ねた。
「それだけではない」
「食料か」
「それもある」
「金も?」
「ああ」
「他には何だ?」
「人だ」
レオンハルトは地図の上に置かれた街道を指でたどった。
「商人は物だけを運ぶわけではない。情報を運び、書状を運び、噂を運ぶ。離れた土地にいる者同士を繋ぎ、必要なら人そのものを移動させる」
アレクの頭の中で、別々に見えていたものが繋がり始めた。
船、倉庫、荷車、荷札。
それらは物を運ぶためだけに存在しているのではない。
どこで麦が不足しているのか。どの領主が武器を買い集めているのか。誰が兵を雇い、誰が軍資金を借りようとしているのか。
多くの荷と商人が集まる場所には、それだけ多くの情報も集まる。
「マティアスは何を作ろうとしている?」
アルベルトの問いに、レオンハルトはしばらく地図を見つめた。
「私にも、まだすべては見えていない」
「だが、何かは見えているのだろう」
「ああ。あいつは戦が始まってから勝つつもりではない」
灰色の目が濃紫の木片へ向けられる。
「始まる前に、勝てる形を作ろうとしている」
その言葉を聞き、アレクは前世で読んだ多くの戦を思い出した。
戦場で敵を倒すことだけが戦争ではない。
戦う前に味方を増やし、敵を減らす。兵糧を集め、街道を押さえ、必要な場所へ兵と武器を運ぶ。敵の内情を探り、不満を持つ者へ働きかける。
実際に軍がぶつかる頃には、勝敗の大部分が決まっていることもある。
「マティアスらしいです」
アレクが口を開いた。
「そう思うか?」
「以前に話した時も、一人の商人だけを見ていませんでした。その商人が誰と繋がっていて、その先に何があるのかまで考えていました」
「それで?」
「戦でも同じなら、兵だけを動かすのではなく、金も物も人も先に動かすはずです」
「そういう男だ」
レオンハルトは当然のように答えた。
「殿下は、以前から知っていたのですか?」
「知っていたから仕事を任せた」
アレクは、その言葉に引っ掛かるものを感じた。
「マティアスは、殿下の臣下ではありませんよね」
「ああ。私の臣下ではない」
「では、どういう関係なのですか?」
「必要な仕事を頼み、それに見合うものを渡す。今はそれで十分だ」
「信用しているのですか?」
「している」
「警戒もしていますか?」
「当然だ」
レオンハルトは間を置かず答えた。
「両方できるものですか?」
「できる。信用することと、相手が決して自分へ逆らわないと思い込むことは違う」
レオンハルトは地図の上から手を離した。
「マティアスが何を欲し、何を嫌い、どのような時に動くのか。それを考えた上で仕事を任せる。あいつも私に対して同じことをしている」
「殿下も使われている?」
「私はあいつを使っている。そして、あいつも私を使っている」
アレクは二人の関係を考えた。
レオンハルトは王弟としての身分と兵を持つ。マティアスは商人や金、物流の網を持っている。
互いに相手にはないものを必要としている。
どちらかが一方的に命令し、もう一方が従う関係ではない。利益が重なるから手を組み、相手の能力を信用しながらも、その目的まですべて同じだとは思っていない。
「難しい関係ですね」
「そうか?」
「味方か敵かだけで分けられません」
「人間の関係など、大抵はその間にある」
アルベルトが横から答えた。
「アルベルト様とレオンハルト殿下もですか?」
「アレク」
「はい」
「今はマティアスの話をしている」
「分かりました」
レオンハルトが声を立てて笑った。
「お前がこいつを連れて歩く理由が、以前より分かった」
「余計なところへ口を挟む点は直っていないがな」
「そこも含めて使っているのだろう」
「否定はしない」
アレクは二人を見比べた。
「また本人を置いて話していますよ」
「では、お前にも聞こう」
レオンハルトがアレクを見た。
「今日、クレーマー商会の倉庫を改めて見たのだろう?」
「はい。朝に河港も確認しました」
「今の話を聞いて、見え方は変わったか?」
アレクは朝に見た二台の荷車を思い出した。
異なる商会の荷が、同じ倉庫へ入っていった。あの時は、倉庫や荷札の仕組みを見ていただけだった。
「物だけを追っても足りないと思います」
「他に何を見る?」
「金がどこから出ているのか。その荷を運ぶと誰が得をするのか。商人同士を誰が繋いでいるのか。それから、荷物と一緒にどんな情報が動いているのか」
「悪くない」
「でも、情報は荷物のようには見えません」
「見えないなら、痕跡を探せ」
アルベルトが言った。
「誰が急に動いたのか。誰が普段とは違う品を買い始めたのか。誰と誰が同じ場所へ出入りしているのか。情報そのものが見えなくても、受け取った者の行動は変わる」
「明日は、それを探すのですか?」
「ああ。ただし、今日と同じ場所を同じように見るつもりはない」
アルベルトはベルグハーフェンの南側を指した。
「明日は南河港へ行く」
「中央河港より小さい場所ですよね」
「大きな商会の倉庫だけを見ていては、クレーマー商会と他の商人がどう繋がっているか分からん。小さな船主、倉庫を借りる商人、荷車を手配する者も見る」
「物ではなく、人を追う」
「ようやく理解したか」
「最初から、そう言ってくれればよかったのに」
「言われたものを見るだけなら、お前を連れてくる意味はない」
アレクは反論しかけたが、レオンハルトが楽しそうに見ていることに気づいて口を閉じた。
「何ですか?」
「いや。アルベルトが随分と楽しそうにお前を使っていると思ってな」
「楽しんでいるように見えますか?」
「見える」
「俺には見えません」
「まだ人を見る目が足りんな」
「今ちょうど、それを鍛えているところです」
「なら励め」
レオンハルトは笑った後、地図を畳ませた。
話が一区切りしたところで、アレクは最初から気になっていたことを思い出した。
「レオンハルト殿下、一つ聞いてもいいですか?」
「すでにいくつも聞いているだろう」
「それとは別です」
「言ってみろ」
「なぜ、今日の会談へ俺まで呼んだのですか?」
レオンハルトは少し意外そうな顔をした。
「書状に書いただろう。以前に話した時は途中となったこともある。久しぶりに顔を見たいと思った」
「本当に、それだけですか?」
「それだけでも理由にはなる」
「他にもあるんですね」
「前より遠慮がなくなったな」
「途中まで教えられたら、気になります」
レオンハルトはアレクを見つめた。
「理由はマティアスだ」
予想していた名前が出て、アレクは姿勢を正した。
「あいつが、お前の話を何度かした」
「何と言っていましたか?」
「本人に聞け」
「そこまで話しておいて教えてくれないんですか?」
「本人がいない場所で、すべてを話す趣味はない」
それなら仕方がないと、アレクは諦めた。
「マティアスは人を見る」
レオンハルトが続けた。
「使える者、これから伸びる者、自分にはないものを持つ者を探している。だが、誰のことでも繰り返し話題にする男ではない」
「そのマティアスが、俺の話をした」
「ああ。だから、以前に見たお前が今どうなっているのか、もう一度確かめたくなった」
「それで、どうでしたか?」
「前より面倒になった」
「それは褒めていませんよね」
「最後まで聞け。前より面倒になったが、前より多くのものを見ようとしている」
レオンハルトは少し間を置いた。
「使える場所も増えそうだ」
「やはり褒め方がおかしくありませんか?」
「私は褒めている」
「では、ありがとうございます」
「素直なのか、図太いのか分からんな」
アルベルトが静かにレオンハルトを見た。
「私の小姓を勝手に勧誘するな」
「勧誘はしていない。感想を伝えただけだ」
「使える場所が増えたと言っただろう」
「お前の所有物ではないはずだ」
「当然だ」
アルベルトは迷わず答えた。
「誰と歩くかは、こいつ自身が選ぶ」
レオンハルトの視線が再びアレクへ向けられた。
「今も、自分で選ぶつもりか?」
「はい」
「誰に仕えるかをか」
「それだけではありません。どこで何をするかも、自分で考えて決めたいです」
「マティアスに仕えることは考えているのか?」
アレクはすぐには答えなかった。
マティアスの考え方には強く惹かれている。
剣や兵だけではなく、商人、金、物流、人のつながりまで使って乱世を動かそうとしている。その力をもっと近くで見たいという気持ちもあった。
だが、まだマティアスという人間の一部しか知らない。
「まだ決めていません」
「なぜだ?」
「もっと話して、自分の目で確かめたいからです」
「人間のすべてを知ってから決めるつもりか?」
「それは無理です。でも、分からないまま勢いだけで決めたくはありません」
「そうか」
レオンハルトはそれ以上追及せず、短く頷いた。
「なら、会え」
「マティアスに?」
「ああ。自分の目で見て、自分で決めろ」
アルベルトも黙ったまま、反対はしなかった。
「そうします」
アレクが答えると、レオンハルトは何かを思い出したように椅子の背へ寄りかかった。
「マティアスは今、南にいる」
「南のどこですか?」
「そこまでは教えん」
「なぜです?」
「情報には価値がある」
「殿下が商人みたいなことを言いますね」
「商人と仕事をしていれば、多少は学ぶ」
「いつ戻りますか?」
「近いうちに戻るだろう」
「ベルグハーフェンへ?」
「それも確かではない」
アレクが落胆すると、レオンハルトの口元がわずかに緩んだ。
「随分と会いたそうだな」
「気になっていますから」
「仕えると決めてはいないのだろう?」
「決めていないから、会いたいんです」
「なるほど」
レオンハルトは納得したように頷いた。
「マティアスがお前を気に掛ける理由が、少し分かった」
「今度は教えてくれますか?」
「それも本人に聞け」
「結局、何も教えてくれないじゃないですか」
「南にいることは教えただろう」
「広すぎます」
会談の終わりが近づき、側近たちが地図や報告書を片づけ始めた。
アルベルトが席を立つ。
「レオンハルト」
「何だ」
「次に会う時まで生きていろ」
「お互いにな」
二人の声から、それまでの軽さが消えていた。
シュヴァルツ伯軍は動き続けている。王都軍もすでに王都を出た。次に会う時が、戦の前なのか後なのかは分からない。
レオンハルトがアレクを見た。
「お前もだ、アレク」
「はい」
「生き延びて、また私を楽しませろ」
「最後の一言が余計です」
「返事は?」
アレクは居住まいを正した。
「レオンハルト殿下も、どうかご無事で」
「ああ。死ぬつもりはない」
レオンハルトは力強く答えた。
◇ ◇ ◇
グラウナー館を出た時には、辺りはすっかり暗くなっていた。
高台から見下ろすベルグハーフェンには、無数の灯りが浮かんでいる。河港では夜になっても荷の積み下ろしが続き、船の明かりが川面で揺れていた。
朝にも見た光景だった。
それなのに、アレクには少し違って見えた。
船が運んでいるのは、麦や塩、布や鉄だけではない。
商人が持ち込む噂がある。遠くの町から届いた書状がある。荷を買うための金が動き、その金を貸す者がいる。船と倉庫と荷車を繋ぐ人間がいて、彼らのもとへ各地の情報が集まっている。
マティアスは、それらを一つずつ繋いでいる。
「アレク」
隣を歩くアルベルトが呼んだ。
「はい」
「レオンハルトはどう見えた?」
アレクは背後の館を振り返った。
黒地に金獅子の旗が、夜風の中で揺れている。
「本人は以前とあまり変わっていませんでした」
「それだけか?」
「でも、立場は大きくなっています」
「そう見えたか」
「以前に会った時は、第一王弟として見ていました。今は、自分の兵と人を率いる一つの勢力の中心に見えます」
「間違ってはいない」
「殿下が望んでいるかどうかとは関係なく、周りがそう見るようになっている」
「だからこそ、一度の勝敗が持つ意味も大きくなる」
シュヴァルツ伯に勝てば、レオンハルトのもとへ人が集まる。
敗れれば、今近づいている者たちは離れていく。
強いから人が集まり、人が集まることでさらに強くなる。その流れが始まる境目に、レオンハルトは立っている。
「潮目ですね」
「ああ」
「良い方へ流れるとは限らない」
「分かってきたようだな」
アレクは夜の河港へ目を戻した。
「マティアスのことも、少し分かりました」
「何がだ?」
「戦場だけを見ていないことです。物を動かし、金を動かし、人を繋ぎ、情報まで集めている。軍がぶつかる前に、勝てる形を作ろうとしている」
「そう見えるな」
「レオンハルト殿下も、それを知った上でマティアスへ仕事を任せている」
「ああ」
「二人は主君と臣下ではない。でも、互いの力を必要としている」
「それも間違っていない」
「誰が誰の味方なのか、簡単には分けられませんね」
アルベルトが小さく笑った。
「世の中が二つに分けられるなら、争いの多くはもっと簡単に終わっている」
「難しくなった気がします」
「昨日より見えるものが増えたからだ」
「見えるものが増えたのに、分からないことも増えました」
「それでいい。分からないことに気づかない方が危険だ」
宿へ続く道の途中から、中央河港より小さな灯りが集まる一角が見えた。
明日向かう南河港だった。
大商会の巨大な倉庫ではなく、小さな商人や船主、荷車を手配する者が集まる場所だ。
「明日は、物ではなく人を見る」
アレクが言うと、アルベルトが頷いた。
「人だけでも足りん」
「金と情報もですね」
「見えるか?」
「まだ分かりません。でも、誰が動いたかなら探せるかもしれません」
「なら探せ」
「また簡単に言いますね」
「簡単ではないから、お前が考える」
アレクは苦笑しながら歩き続けた。
マティアスは今、南にいる。
何をしているのか、レオンハルトもすべては語らなかった。
それでも、アレクの中ではマティアスという男の輪郭が以前よりはっきりし始めていた。
前世で知る誰かに似た部分はある。
だが、同じ人間ではない。
この世界で生まれ、この世界の商人や街道、河川、人間関係を使って、自分の力を築こうとしている。
だからこそ、もっと話してみたかった。
誰と歩くのか。
どこで何をするのか。
答えはまだ出ていない。
焦って決める必要もない。
自分の目で見て、自分で納得してから選ぶ。そのためにも、今はベルグハーフェンで動いているものを見なければならない。
夜の河港では、まだ多くの人間が働いていた。
剣は抜かれていない。
鬨の声も聞こえない。
それでも、物と金と人と情報は、すでに戦へ向けて動き始めている。
アレクはその流れを見つめながら、アルベルトたちと宿へ戻った。
第六話を読んでいただき、ありがとうございました。
シュヴァルツ伯、王都軍、レオンハルト軍の兵が動き、グランヴァルトは流れが大きく変わる「潮目」を迎えようとしています。
次回、アレクたちは物だけでなく、金、人、情報の動きを探るため、ベルグハーフェンの南河港へ向かいます。
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