第三話 三つの旗
王家の旗が掲げられた関所で、アルベルト一行は通行を止められます。許可を待つ間、アレクは西へ向かう荷車を調べ、ヴェラー商会とクレーマー商会へつながる新たな手掛かりを見つけます。
西へ進んでから半刻ほどで、街道の先に関所が見えてきた。
道を横切るように太い丸太の柵が設けられ、その中央だけが荷車一台を通せる幅で開いている。街道の両脇には土を詰めた籠が積まれ、その後ろに弓を持った兵が立っていた。簡素ながら見張り台も組まれており、即席の検問所と呼ぶには備えが整いすぎている。
守っている兵は三十人ほどだった。
革鎧だけの者もいるが、半数ほどは胸甲を身につけ、槍と盾を持っている。道を塞ぐだけなら多すぎる人数ではない。それでも、商人や小規模な護衛を止めるには十分だった。
そして、関所の上では一枚の旗が風を受けている。
黒い地に、金の獅子。
グランヴァルト王家の旗だった。
「王家直属の兵で間違いないようですね」
馬上から旗を見上げ、アレクが言った。
「ああ」
隣を進むゲオルクが短く答える。
「レオンハルト殿下の兵ではないのですね」
「違う。同じ王家に連なる方だから、レオンハルト殿下の旗にも獅子が使われている。しかし、王家の旗とは意匠が異なる」
王家の旗だけではない。アレクは、出発前に見せられた地図を思い出した。
その上には三つの駒が置かれていた。
グランヴァルト王家。
第一王弟レオンハルト。
そして、濃紫色の旗を掲げるシュヴァルツ伯。
三者は同じ王国内にありながら、同じ命令で動いているわけではない。
王家の名で設けられた関所が、レオンハルトやシュヴァルツ伯の軍だけを止めるとも限らなかった。誰の兵であろうと、王都から許可を受けていない武装集団は通さない。その意思を示すように、黒地に金の獅子の旗は街道の中央に掲げられている。
「旗を見れば、誰の命令で動いているか分かる」
アレクが呟くと、ゲオルクが横目を向けた。
「ようやく覚えたか」
「主要なものは覚えました」
「以前は、色が違う程度にしか見ていなかったからな」
「あの頃は、旗より向かってくる槍を見る方が大事でした」
「それは今も変わらん。だが、どの旗の下から槍が来るのか分からなければ、戦う相手すら見誤る」
ゲオルクの言葉に、アレクはもう一度王家の旗を見た。
アルヴェイン大公国から来た四十騎の一団も、関所を守る者から見れば、許可なく国境へ近づいてきた他国の武装集団である。先頭にアルベルトがいるからといって、無条件で通してよい相手ではない。
「止まれ!」
関所から鋭い声が飛んだ。
先頭を進んでいた騎士が右手を上げる。
「全騎、停止!」
馬蹄の音が前から順に止まった。
四十頭の馬が鼻を鳴らし、街道に薄い土煙が漂う。騎士たちは剣へ手を掛けてはいない。それでも関所側の兵は槍を握り直し、見張り台の弓兵もこちらの動きを注視していた。
敵意があるわけではない。
だが、双方とも相手が次に何をするか分からない。その緊張が、街道の中央に張り詰めている。
関所から五人の兵が歩いてきた。
先頭の男は四十歳前後に見えた。背丈はそれほど高くないが、肩幅が広い。短く刈られた焦げ茶色の髪には白いものが混じり、右の眉から頬へ細い傷が走っている。
他の兵より上等な胸甲を身につけ、腰には長剣を下げていた。
「所属と目的を伺いたい」
男は一行を見渡してから告げた。
アルベルトが馬を一歩だけ進めた。
「アルヴェイン大公、アルベルト・ヴァレンシュタインだ」
男の表情が僅かに変わる。
すぐに右拳を胸へ当て、深く頭を下げた。
「失礼いたしました。グランヴァルト王家西部街道監察隊、隊長ナーゲルであります」
「ナーゲル隊長か」
「はっ」
「この関所は、いつ設けられた?」
ナーゲル隊長はすぐには答えなかった。
アルベルトの背後に並ぶ騎士たちへ視線を向け、人数と装備を確かめている。相手が大公だと知っても、警戒を解くつもりはないらしい。
「お答えする前に、大公殿下方の目的を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「慎重だな」
「任務ですので」
「グランヴァルト国内の情勢を確かめ、西方の商人と会うためだ。こちらから軍事行動を起こすつもりはない」
「四十騎すべてが護衛ですか」
アルベルトは後ろを振り返った。
「四十騎で城でも攻めるように見えるか?」
「城を落とすには足りません。しかし、街道沿いの村や商隊にとっては十分な脅威になります」
「確かにそうだ」
アルベルトは気分を害するどころか、僅かに笑っていた。
ナーゲル隊長の立場を試すような問いを投げ、その答えを楽しんでいるようにも見える。
「それで、通行は認められるのか?」
「現在、王都の許可なく一定数以上の武装集団を西へ通すことを禁じられております」
「私も含まれるのか?」
「大公殿下であっても例外ではありません」
後方に並ぶ騎士たちの間へ、小さなざわめきが広がった。
アルベルトが片手を上げると、すぐに静まる。
「理由を聞いても?」
「国内の治安維持のため、とだけ申し上げます」
「誰の命令だ?」
「王都からの命令です」
「国王陛下が直接命じたのか?」
「そこから先は、私の立場ではお答えできません」
答えないのか、それともナーゲル隊長自身も知らされていないのか。
表情だけでは判断できなかった。
アルベルトはそれ以上問い詰めず、関所の様子へ視線を移した。
アレクも同じ方向を見る。
一行が止められている間にも、商人の荷車は一台ずつ検査を受けていた。
荷車が柵の前へ進み、兵士が御者へ声を掛ける。
「積み荷は?」
「麦です」
「行き先は?」
「ベルグハーフェン」
「売却先は?」
「ヴェラー商会です」
アレクは思わず荷車を見つめた。
「ヴェラー……」
小さく漏らした声を、ゲオルクが聞きつける。
「知っている名か?」
「昨日、街道で会った商人から聞きました。以前は毛皮や葡萄酒を扱っていたのに、最近になって食料や油、縄まで買い集めている仲買商です」
「我々が会おうとしている男だな」
「同じ人物なら」
「まだ決めるな」
「分かっています」
ヴェラーという名だけなら、同名の商人や親族がいてもおかしくはない。だが、行き先と扱っている品まで一致している。
無関係だと考えるより、少なくとも確かめる価値はあった。
関所兵が荷台へ上がり、麦袋の一つを開く。中へ手を入れて別の品が隠されていないか調べた後、御者の差し出した証書を確認した。
「数量は?」
「二十四袋です」
兵士は帳面へ荷の量と売却先を書き込む。
「通れ」
柵が開き、麦を積んだ荷車が西へ進んだ。
続いて、別の荷車が検査場所へ入る。荷台には布を掛けられた細長い束が積まれていた。
「積み荷は?」
「鉄の棒材です」
「数量は?」
「十二束」
「行き先」
「西南街道を通り、ベルグハーフェンへ」
「売却先は?」
御者が手元の証書を見てから答える。
「クレーマー商会指定倉庫です」
今度はアレクだけではなかった。
アルベルトとゲオルクも同時に荷車を見た。
「クレーマー商会……」
「聞こえている」
アルベルトに言われ、アレクは口を閉じた。
クレーマーという名とベルグハーフェンの倉庫。
マティアス・クレーマーと無関係とは考えにくい。それでも、品物が最終的に誰の手へ渡り、何に使われるのかまでは分からなかった。
関所兵が手を差し出す。
「証書を」
御者から受け取った紙へ目を通した兵士は、すぐに眉を寄せた。
「これは使えない」
「昨日発行されたものです」
「三日前から、鉄材を西へ運ぶ際の書式が変わった。この証書では通せん」
「そんな。ここまで三日掛けて来たのですよ」
「規則だ。発行元へ戻り、新しい証書を受け取れ」
「先ほどの麦は通したではありませんか」
「鉄材とは扱いが違う」
「なぜです?」
「軍需品へ転用できるからだ」
御者は食い下がったが、関所兵は譲らなかった。
鉄材を積んだ荷車は道の脇へ移される。三日掛けて運んできたという言葉が本当なら、証書を取り直すだけで何日も失うだろう。その間の食料や馬の飼料も必要になる。
商人にとっては大きな損失である。
それでも、王家の兵は規則を変えなかった。
「すべての物資を止めているわけではないのですね」
アレクが呟いた。
「何に気づいた?」
アルベルトが尋ねる。
「麦は中身と証書を確かめ、行き先を記録したうえで通しました。ですが、鉄は新しい証書がなければ通さない」
「それがどうした」
「関所の目的が、西へ向かう物をすべて止めることなら、麦も通さないはずです」
ナーゲル隊長がアレクへ顔を向ける。
「少年」
「はい」
「麦をすべて止めれば、町や村で暮らす者まで飢える」
「そうですね。鉄なら一日止めても、すぐに食べ物がなくなるわけではない。それに、剣や槍、鎧や荷車の金具にも使えます」
「分かっているではないか」
「ですが、麦を自由に通しているわけでもありません」
アレクは関所兵が記入している帳面を示した。
「行き先、数量、売却先まで聞いている。物資を止めるだけではなく、誰がどれほど集めているかを調べているのではありませんか?」
ナーゲル隊長の目が僅かに細くなった。
「随分細かく見ていたな」
「ヴァイスブルクでも、同じような記録を調べていました」
「大公の小姓は、荷車の数まで数えるのか」
「必要なら」
ナーゲル隊長は答えなかった。
肯定も否定もしない。
だが、アレクの推測が全く外れているなら、わざわざ沈黙する必要もないように思えた。
「ナーゲル隊長」
アルベルトが呼び掛ける。
「はっ」
「王都は、西へ向かう物資の量と行き先を調べているのだな?」
「任務の詳細はお答えできません」
「そうか」
アルベルトの口元が僅かに上がった。
「何もお答えしておりませんが」
「答えないことも、時には答えになる」
「厄介なお方ですな」
「よく言われる」
ナーゲル隊長は困ったように息を吐いた。
アレクはゲオルクへ顔を寄せ、周囲に聞こえないよう声を落とす。
「少し似てきたと思いますか?」
「誰にだ」
「アルベルト様に」
「今すぐ考え直せ」
「そこまでですか」
アルベルトの視線が飛んできたため、アレクは姿勢を正した。
◇ ◇ ◇
結局、その場で一行の通行は認められなかった。
「大公殿下の身分と通行目的を王都へ報告し、許可を求めます」
ナーゲル隊長が説明する。
「返事には何日掛かる?」
「早ければ明日。使者の交代が滞れば三日ほど掛かります」
「三日も待っていられん」
「規則です」
「本当に融通が利かんな」
「職務を守っているとお褒めいただいたものと受け取ります」
「その図太さは嫌いではない」
「光栄です」
二人のやり取りを聞いていると、対立しているというより、互いの立場を分かったうえで言葉を投げ合っているように見える。
アレクが馬を寄せた。
「通れないなら、どうするのですか?」
「待つ」
「本当に待つのですか?」
「ああ」
「昨日まで、急がなければならないと言っていたのに」
「急いでいるからといって、他国の王家が設けた関所を破るわけにはいかん」
「それはそうですけど」
四十騎で柵を壊し、三十人の守備兵を押し退けること自体は不可能ではない。
しかし、その瞬間にアルヴェイン大公国とグランヴァルト王家の争いになる。レオンハルトとシュヴァルツ伯の動向を確かめるために来たはずが、新しい戦の原因を作ってしまう。
「それに、通れないからといって、何もできないわけではない」
アルベルトが関所へ目を向けた。
「何をするのですか?」
「お前は、先ほど何を聞いていた」
「荷車の行き先と売却先です」
「名前も聞いただろう」
「ヴェラー商会と、クレーマー商会」
「我々が探している二つの名が、同じ関所を通る荷から出た」
アルベルトは次の検査を受けている荷車を示した。
「ここへいれば、ヴェラーとクレーマー商会が何を集めているのか、もう少し見えるかもしれん」
「通行許可を待つ間も調べるのですね」
「そのために目と耳を持ってきた」
アルベルトは後ろへ振り返った。
「ゲオルク」
「はっ」
「騎士を十人残せ。関所の邪魔にならない場所から、通る荷を記録する」
「承知しました」
「アレクも残れ」
「やはり俺もですか」
「自分から荷車を見始めたのだろう」
「そうでした」
「嫌なら宿へ戻ってもよいぞ」
「後で記録を全部読まされるくらいなら、ここで見ます」
「成長したな」
「喜んでいいのか分かりません」
アルベルトは残りの騎士を率い、前夜に泊まった宿場へ戻っていった。
ゲオルクはナーゲル隊長へ事情を説明し、関所から少し離れた街道脇を借りる。見張りと誤解されないよう、騎士たちは武器を収めたまま馬を下りた。
アレクも木陰へ腰を下ろし、紙と羽根ペンを取り出した。
関所の向こうでは、黒地に金の獅子の旗が風を受け続けている。
その下を、また一台の荷車が西へ向かって進んでいった。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎる頃には、アレクが持っていた紙の大半が文字と数字で埋まっていた。
「麦を積んだ荷車が十二台」
アレクが記録を読み上げる。
「塩が三台」
向かいに座った騎士が自分の紙を確認した。
「干し肉が二台です」
「油は四台」
「縄が二台」
「馬の飼料は五台でした」
別の騎士が答える。
アレクは集めた数字を一枚の紙へ書き直した。
「鉄材は?」
「一台。ただし、証書不備で通行を拒否されています」
「その後に来た蹄鉄の荷も止められたな」
ゲオルクが付け加える。
「あちらは新しい証書を持っていましたが、売却先の確認が取れないと言われていました」
「鉄だけでなく、加工済みの品も厳しく見ているらしい」
「行き先はどうなっています?」
アレクの問いに、騎士たちが記録を比べる。
「ベルグハーフェンと答えた荷車が七台」
「西南街道方面が六台です」
「北西へ向かうものは?」
「二台しかありません。残りは、この先で売却先を決めるか、答えなかった商人です」
ゲオルクが腕を組んだ。
「偏っているな」
「はい」
ヴァイスブルクで調べた時、物資の流れは北西と西南の二方向へ分かれていた。
だが、この関所を通った荷だけを見れば、北西へ向かう物は少ない。西南へ進む荷と、ベルグハーフェンへ運ばれる荷が明らかに多かった。
「北西へ向かう物資は、別の道を使っているのでしょうか」
「可能性は高い」
「昨日、斥候の報告にあったシュヴァルツ伯側の関所は北街道でしたよね」
「ああ」
「北西へ運ばれる物は、そちらを通っているのかもしれません」
「そう考えるのが自然だな。ただし、街道を外れた道や河川を使っている可能性もある」
河川という言葉を聞き、アレクは地図を広げた。
「ベルグハーフェンには、川があるのですか?」
「知らなかったのか」
「交易都市だということは聞いていました。でも、詳しい場所までは」
ゲオルクが地図上を走る青い線へ指を置いた。
「グリュン川沿いの大きな河港がある。南へ流れる本流だけでなく、西へ向かう支流ともつながっている」
「大きな船も使えますか?」
「海船ほどではないが、荷車何台分もの荷を積める川船が出入りしている」
アレクは地図の街道と川を交互に見た。
これまで、ヴァイスブルクから西へ向かう荷車ばかりを追っていた。荷車が街道を進む以上、その先にある城や町へ物資が集まっていると考えていた。
だが、ベルグハーフェンで川船へ積み替えるなら、その先の行き先は街道に縛られない。
「荷車でベルグハーフェンまで運んで、そこから船へ積み替える……」
「その方が、一度に多く運べる」
「荷車は、出発地から目的地までずっと走る必要がないのですね」
「ああ。道が悪い場所を避けられるうえ、馬の飼料も減らせる。ただし、川の流れや水位に左右されるし、船着き場で積み替える人足と倉も必要になる」
「だからベルグハーフェンに指定倉庫がある」
クレーマー商会が集めているのは、物資だけではないのかもしれない。
荷車、倉庫、川船、荷役を行う人足、次の売り手や買い手。
別々の者が持つ力を一か所へ結びつければ、一人の商人がすべてを所有しなくても、大量の物資を運ぶことができる。
「マティアス様が西部と南部の商人を仲介しているという話ともつながります」
「何が見えた?」
「西部で集めた物をベルグハーフェンへ運び、船で南へ送ることができます。反対に、南から運んだ物を川から街道へ載せ替えれば、西や北へも運べる」
「その程度なら、この辺りの商人は誰でも知っている」
「知っていることと、実際に多くの商人を同時に動かせることは別です」
ゲオルクは少し考えてから頷いた。
「確かにな」
「問題は、何のためにこれだけ集めているかです」
麦、塩、干し肉、油、縄、飼料、鉄。
いずれも軍で使える。
だが、大きな都市なら平時にも消費する。商売のために値上がりを見越して集めている可能性も捨てきれない。
「食料だけでは決められない。鉄が増えれば軍需に見えますが、荷車や農具にも使えます」
「答えを急ぐな」
「分かっています」
「今のお前は、マティアスが戦のために物を集めているという答えを先に持っている。それに合うものだけを探せば、いくらでも見つかるぞ」
アレクは紙へ並べた数字を見下ろした。
「反対の証拠も探せ、ということですか」
「軍需ではないとしたら、何に使うのかも考えろ。それでも説明できなければ、初めて軍需である可能性が高くなる」
「難しいですね」
「だから殿下は、お前に見てこいと言った」
アレクは改めて記録を分けた。
戦でしか使わない物。
戦でも平時でも使う物。
平時の商売でも大量に動く物。
しかし、戦でしか使わないと断言できる品は、今のところ見つかっていない。
「マティアス様本人に聞くしかないのかな」
「聞いて答えると思うか?」
「答えなくても、答えない理由を見る」
「殿下の言い方を真似するようになったな」
「やっぱり似てきています?」
「今の言葉だけはな」
アレクが少し嫌そうな顔をすると、ゲオルクは僅かに笑った。
「それほどマティアスが気になるか」
「はい」
「なぜだ?」
問われたアレクは、すぐには答えられなかった。
前世で知っている豊臣秀吉に似ているように思えるからだとは言えない。
マティアスは商人であり、歴史上の秀吉とは出自も年齢も立場も違う。この世界が前世の歴史と同じように進む保証もなかった。
それでも、初めて会った時から、どこか気に掛かっていた。
「俺たちは、命令で人を動かすことが多いですよね」
「殿下や私たちは軍人だからな」
「マティアス様は、命令できる立場ではない相手まで動かします」
「金を払っているのではないか」
「それだけではないと思います」
アレクは、以前マティアスと話した時のことを思い出した。
マティアスは地位を振りかざさなかった。
怒鳴って従わせたわけでもない。
相手が何を欲し、何を恐れ、どのような利益を求めているかを聞いたうえで、その者が自分から動きたくなる条件を差し出していた。
「命令されて動いているというより、相手が自分から動く理由を作っているように見えました」
「それが本当なら、兵を率いるのとは別の力だな」
「剣を持たなくても人を動かせます」
「だからこそ、殿下もマティアスを調べている」
「アルベルト様も、同じように感じたのでしょうか」
「殿下が何を考えているか、私に聞くな」
「長く仕えているのに?」
「長く仕えているから、勝手に分かったつもりにならないようにしている」
その答えは、先ほど自分が注意されたことと同じだった。
マティアスが戦争の準備をしているはずだ。
アルベルトはこう考えているはずだ。
そう決めつけた瞬間に、別の可能性が見えなくなる。
「まだ、見るものがありますね」
「ああ」
関所から次の荷車を呼ぶ声が響いた。
アレクは紙を持ち直し、新しい欄へ積み荷と行き先を書き込む準備をした。
◇ ◇ ◇
午後になり、何十台目か分からない荷車が関所へ近づいてきた。
それまでの荷車とは、積み方が違っていた。
荷台に載っているのは麦袋でも油樽でもない。四つの木箱が厚い布で包まれ、縄でしっかりと固定されている。
箱の大きさに比べ、荷車の車輪が深く沈んでいる様子はない。鉄や硬貨のような重い物ではなさそうだった。
御者の隣には、二十代後半ほどの若い商人が座っている。武装した護衛は二人だけで、ほかの商隊より少ない。
「止まれ」
関所兵が荷車を止めた。
「積み荷は?」
「書類です」
「書類?」
「商業証書、倉庫証券、売買契約書などです」
「行き先は?」
「ベルグハーフェン」
「届け先」
若い商人は一瞬だけ間を置いた。
「クレーマー商会です」
再び、その名前が出た。
ゲオルクも同時に反応し、アレクへ目を向ける。
「箱の中を確認する」
「それは困ります」
若い商人がすぐに答えた。
「なぜだ?」
「取引先との契約内容が入っています。無関係の者に見せれば、商会の信用に関わります」
「中身を隠したまま通すことはできん」
「王都商務局の封印があります」
若い商人は懐から一枚の紙を取り出し、関所兵へ差し出した。
書面を見た兵士の顔つきが変わる。
「隊長!」
呼ばれたナーゲル隊長が歩み寄り、書面と木箱の封を順番に確認した。
それぞれの箱には細い縄が掛けられ、結び目を覆う蝋へ同じ印が押されている。
「封に破損はありません」
若い商人が告げる。
「ベルグハーフェンまで開けないという条件です」
「分かっている」
ナーゲル隊長は部下へ書類を返した。
「通せ。王都商務局の封印がある荷は、免検の対象だ」
「よろしいのですか?」
「ここで封を壊せば、私が王都へ理由を説明することになる」
「はっ」
兵士たちが柵を動かす。
若い商人が御者へ声を掛け、荷車がゆっくり進み始めた。
アレクは立ち上がった。
このまま行かせれば、記録には「クレーマー商会へ書類を運んだ荷車が一台」としか残らない。
それだけでも手掛かりではある。
だが、御者の隣にいる商人は、クレーマー商会と直接関係している可能性が高い。
「待ってください」
アレクが声を上げた。
若い商人が振り返る。
関所兵もアレクを見たが、ナーゲル隊長は止めなかった。
「少しだけ、話を聞いてもいいですか?」
「私にでしょうか」
「はい」
アレクは荷車へ近づいた。
「クレーマー商会のマティアス・クレーマーをご存じですか?」
若い商人の表情に、僅かな警戒が浮かんだ。
すぐに消えたが、アレクは見逃さなかった。
「お知り合いなのですか?」
「以前、一度会いました」
「お名前を伺っても?」
「アレク・ハルトマンです」
今度ははっきりと分かった。
若い商人の目が僅かに見開かれた。
「俺を知っているのですか?」
「いえ。直接お会いするのは初めてです」
「ですが、今、驚きましたよね」
「アレク」
後ろからゲオルクに呼ばれ、アレクは振り返った。
「相手を問い詰めるな」
「問い詰めているつもりはありません」
「お前にそのつもりがなくても、相手がそう感じることはある」
「……すみません」
若い商人へ頭を下げると、相手は困ったように笑った。
「お気になさらず。マティアス様から、お名前だけは伺っております」
「マティアス様から?」
「はい」
「俺について、何と言っていました?」
「それは、ご本人へお尋ねください」
「皆、同じことを言いますね」
「商人は、本人がいない場所で余計なことを話さない方が長生きできます」
穏やかな返答だったが、それ以上は話さないという意思も感じられた。
アレクは質問を変える。
「マティアス様は、今ベルグハーフェンにいるのですか?」
「ベルグハーフェンにはおられません」
「では、どこに?」
「私から申し上げることはできません」
「それも商人の信用ですか?」
「そのようなものです」
居場所を知らないとは言わなかった。
若い商人は、マティアスがベルグハーフェンにいないことを知っている。そのうえで、現在地だけを伏せている。
「分かりました。引き止めてすみません」
「いいえ」
アレクが道を空けると、若い商人は御者へ出発するよう告げた。
荷車が動き出す。
数歩進んだところで、若い商人が振り返った。
「アレク・ハルトマン殿」
「はい?」
「もしお会いすることがあれば、伝えてほしいと言われていたことがあります」
「誰からです?」
「マティアス様からです」
若い商人は、僅かに笑った。
「『まだ断るつもりなのか、もう一度聞いてみたい』と」
アレクはその場で固まった。
マティアスから誘われた時、自分はアルベルトの小姓だからと断った。
ただし、永遠に行かないと答えたわけではない。
アルベルトのもとで学びたい。
同時に、マティアスがどのように人や物を動かしているのかも知りたい。
アレクの中には、今も二つの思いが残っていた。
「それだけですか?」
「私が預かった言葉は、それだけです」
「そうですか」
「では、失礼します」
荷車は関所を越え、西へ進んでいく。
木箱の中に何人分の契約書があり、どれほどの物資を動かす約束が記されているのかは分からない。
それでも、あの四つの箱もまた、マティアスが作ろうとしている流れの一部なのだろう。
アレクが見送っていると、背後からゲオルクの声がした。
「聞いていた話と少し違うな」
「何がです?」
「お前は、マティアスから一度会っただけの商人だと聞いていた」
「そうですよ」
「一度しか会っていない相手が、部下へお前の名前を伝え、再び誘うための言葉まで預けているのか」
「俺に聞かれても困ります」
「殿下には、お前から説明しろ」
アレクはゆっくりゲオルクを見た。
「ゲオルク様から説明してもらえませんか?」
「断る」
「即答ですか」
「殿下が聞きたいのは、私が見たものではなく、お前がどう考えているかだ」
「アルベルト様と同じことを言いますね」
「長く仕えているからな」
先ほどは、長く仕えているからこそ分かったつもりにならないと言っていたはずだった。
その点を指摘しようとしたが、ゲオルクは既に騎士たちへ記録をまとめるよう命じている。
アレクも諦めて紙を集めた。
空が赤みを帯び始めていた。
関所を通る荷車も減り、王家の兵たちは夜間の警備に備えて持ち場を交代している。
「宿へ戻るぞ」
「はい」
アレクたちは馬へ乗り、来た道を引き返した。
◇ ◇ ◇
宿へ戻ると、アルベルトは食堂の一角に地図を広げて待っていた。
周囲の席は護衛の騎士によって空けられている。宿の客や従業員に聞かせてよい話と、そうでない話を分けるためだった。
「遅かったな」
「日が暮れる前まで荷車を見ていました」
アレクは机へ記録を置いた。
「麦十二台、塩三台、干し肉二台、油四台、縄二台、飼料五台です。そのほかにも布や木材を積んだ荷車がありました」
「鉄は?」
「鉄材一台と蹄鉄を積んだ一台が来ましたが、どちらも関所で止められました」
「王都は鉄を厳しく見ているか」
「はい。食料は売却先と量を記録して通しています。物資を完全に止めるより、誰が集めているかを調べているのだと思います」
アルベルトは記録へ目を通し、ベルグハーフェンと書かれた箇所を指でなぞった。
「西南へ向かう荷が多いな」
「ベルグハーフェンで川船へ積み替えている可能性があります」
「ゲオルクから聞いたか」
「はい。街道だけでなく川まで使えば、物資の行き先はもっと広がります」
「ようやく荷車の先を見るようになったな」
「今までも見ていたつもりです」
「道の先だけだ。荷を降ろした後に何へ積み替えるかまでは見ていなかった」
否定できなかった。
アレクは次の紙をアルベルトの前へ置いた。
「それから、クレーマー商会へ書類を運ぶ荷車が通りました。商業証書や倉庫証券、契約書が木箱四つ分です」
「中身を見たのか?」
「王都商務局の封印があり、関所でも開けませんでした」
「運んでいた者とは話したか?」
「少しだけ」
「何が分かった」
「マティアス様は、今ベルグハーフェンにはいません。ただ、あの商人は居場所を知っているようでした」
「ほかには?」
アレクは一度ゲオルクを見た。
ゲオルクは助けるつもりがないらしく、黙って壁際に立っている。
「マティアス様から、俺に伝言がありました」
アルベルトの眉が僅かに動く。
「何と?」
「まだ断るつもりなのか、もう一度聞いてみたい、と」
「ほう」
短い声に、アレクは身構えた。
「返事はしたのか?」
「伝言を聞いただけです。マティアス様本人にも会っていません」
「会えば何と答える?」
「まだ分かりません」
「ヴァイスブルクで同じことを聞いた時も、そう答えたな」
「状況が変わっていませんから」
「本当に変わっていないか?」
アルベルトが机上の記録を指した。
「数日前まで、お前が見ていたのは市場を出る荷車だけだった。今は関所を越え、ベルグハーフェンの川とクレーマー商会の倉まで見ようとしている」
「それは、仕事で調べたからです」
「マティアスが動かしているかもしれないから、ここまで気になったのではないか?」
アレクは答えられなかった。
否定すれば嘘になる。
だが、だからといってアルベルトのもとを去ると決めたわけでもない。
「今すぐ答えを出せとは言わん」
アルベルトは記録へ視線を戻した。
「ただし、自分が何を見たいのかは考えておけ」
「はい」
「それから、明日の通行許可が届いた」
「もう届いたのですか?」
「王都も、大公を関所の前へ何日も留めておきたくはないらしい」
アルベルトが一枚の書状を見せる。
「ただし、通行を認められたのは二十騎だけだ。残りはこの宿へ置いていく」
「ナーゲル隊長らしい条件ですね」
「命じたのは王都だろう」
「でも、四十騎を二十騎に減らせと報告したのはナーゲル隊長かもしれません」
「本人に聞いてみるか」
「答えないと思います」
「答えない顔を見るのも面白い」
アルベルトが笑い、地図の上へ三つの駒を置いた。
王家。
レオンハルト。
シュヴァルツ伯。
それぞれの旗を掲げた勢力の間を、マティアスは旗を持たずに動いている。
兵を率いているわけでも、領地を支配しているわけでもない。
それでも、商人たちはマティアスのために物を集め、契約を結び、荷車と船を動かしていた。
剣や槍とは異なる力が、西方へ大きな流れを作り始めている。
その流れがどの旗のもとへ向かうのか。
あるいは、どの旗にも属さないまま乱世を変えていくのか。
答えは、関所のさらに西にあった。
第三話を読んでいただき、ありがとうございました。
王家、レオンハルト、シュヴァルツ伯。それぞれが異なる旗のもとで動く一方、マティアスは旗を持たず、商人、倉庫、荷車、河川輸送を結びつけています。アレクは物資の行き先を追う中で、その力の一端を知ることになりました。
次回、王家の関所を越えたアレクたちは、マティアスと関係を持つ商人ヴェラーを訪ねます。
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