第二話 流れの向かう先
西へ流れる物資の行き先を確かめるため、アルベルトはアレクたちを伴ってヴァイスブルクを出発します。街道へ出れば、帳簿の数字だけでは分からなかった変化が見え始めます。
翌朝、アレクは机に向かい、昨夜届いたエリーゼの手紙をもう一度読んでいた。
『ヴァイスブルクへ戻って、また仕事ばかりしていませんか』
机の上には、市場から持ち帰った記録が積まれている。
麦、塩、干し肉、飼料、鉄、革、粗布、縄、荷車。
どれも西へ向かう量が増えていた。アルベルトからは、早ければ五日以内に西へ向かうとも告げられている。
「してるな……」
仕事ばかりしているという指摘を、アレクは否定できなかった。
返事を書くために新しい紙を置き、羽根ペンを手に取る。
『エリーゼへ。
林檎は途中で全部食べました。ありがとうございました。とても美味しかったです』
そこまで書いたところで、アレクの手が止まった。
「固いな」
仕事の報告書なら、相手へ伝えるべきことを順番に並べればよい。だが、エリーゼが求めているのは、アルベルトへ提出するような報告ではなかった。
叔父から聞いた話ではなく、アレク自身が何を見て、何を考えたのかを知りたいと書かれていた。
アレクは最初の文を消さず、その続きを考えた。
『アルヴェインブルクでは、中央倉庫や市場、取引証明所を見ました。領政会議にも参加させてもらいました。知らないものばかりで面白かったです。
でも、一番分かったのは、自分が知らないことは、思っていたよりずっと多いということでした』
今度は先ほどより自然に書けた気がした。
大公都で見たものをすべて説明しようとすれば、紙一枚では到底足りない。中央倉庫の仕組みや会議で話し合った内容だけでも、何枚必要になるか分からなかった。
それでも、エリーゼへ伝えたいことは数字や制度の詳細ではない。
自分が驚いたことや、面白いと思ったことを書けばよいのだろう。
『ヴァイスブルクへ戻ってからも、相変わらず帳簿を読んだり、市場を歩いたりしています。今度会った時には、大公都で見たものについてもっと話します。
前に約束したことも覚えています。エリーゼが用意してくれるという「来る理由」を楽しみにしています』
そこまで書き、西へ向かう予定について付け加えようとして、アレクは羽根ペンを止めた。
前夜、出発について書いてよいかアルベルトへ確認しなければならないと考えたばかりだった。
行き先や人数を書かなければ問題ないとも思う。しかし、自分だけの判断で決めてよいことではない。
扉が叩かれたのは、その時だった。
「アレク、起きているか」
「はい。どうぞ」
入ってきたのはゲオルクだった。
既に剣を帯びており、手には丸めた書類を持っている。朝の挨拶だけをしに来たようには見えなかった。
「ちょうどよかったです」
「何がだ?」
「エリーゼ様へ返事を書いていました」
アレクが机上の手紙を示すと、ゲオルクは封筒の宛名を見た。
「それを私に届けろと?」
「アルヴェインブルクへ戻る便があれば、乗せてもらおうと思っていました。それと、少し確認したいことがあります」
「何だ」
「仕事でヴァイスブルクを離れるかもしれないと書いてもいいですか?」
ゲオルクの視線が手紙へ落ちる。
「行き先や出発日は?」
「書きません」
「同行する兵数は?」
「それも書きません」
「なら、しばらく町を離れる可能性があるとだけ書け。エリーゼ様を余計に心配させるような書き方はするな」
「分かりました」
「それから、手紙は今日中に封をしろ」
「今日中?」
「出発が決まった」
アレクは羽根ペンを置いた。
「五日以内ではなかったのですか?」
「五日後に出るとは言っていない」
「いつです?」
「明朝だ」
「早すぎませんか?」
「遅らせる理由がない」
ゲオルクは手にしていた書類をアレクへ差し出した。
「昼前に軍議を行う。同行する者と装備を決める。それまでに、自分の荷物をまとめておけ」
「どこまで行くのです?」
「西方だ」
「それは知っています」
「詳しいことは軍議で聞け」
ゲオルクが踵を返す。
「ゲオルク様」
「まだ何かあるのか」
「戦いに行くのですか?」
ゲオルクは扉の前で足を止めた。
「こちらから戦いを始めるためではない」
「向こうから来た場合は?」
「剣は持っていけ」
それだけ答え、ゲオルクは部屋を出ていった。
閉じられた扉を見た後、アレクは壁際に立て掛けた剣へ視線を向けた。
市場と帳簿を調べに行くためだけなら、四十人もの騎兵も剣も必要ない。
「まだ戦ではない、か」
昨日、アルベルトも同じことを言った。
だが、その言葉の後ろには、いつ戦になってもおかしくないという意味が隠れている。
アレクは手紙へ向き直った。
『仕事で、しばらくヴァイスブルクを離れるかもしれません。ただ、危険なことをするためではありません。戻ったら、見てきたことを書きます』
危険なことをするためではない、という一文が本当になるかは分からない。
それでも、余計な心配を掛けたくはなかった。
最後に自分の名前を書き、インクが乾くのを待ってから紙を折る。
封をした手紙を見て、アレクは小さく息を吐いた。
出発準備の最初に終えたのが、剣や着替えではなく、エリーゼへの返事だった。
◇ ◇ ◇
昼前の軍議室には、アルベルト、ゲオルク、ヴァイス男爵、ヨハンが集まっていた。
机の上には、前日と同じ西方の地図が広げられている。ただし、兵や荷車の動きを示す駒と線は、昨日より増えていた。
「座れ」
「はい」
アレクが席へ着くと、アルベルトは地図の北西を指した。
「昨夜から今朝にかけて、情報が増えた。まず、シュヴァルツ伯の兵の招集は確実だ。確認できただけで二千を超えている」
「まだ増えるのですか?」
「近隣の領主へ送った使者が戻っていない。すべてが応じれば、さらに増えるだろう」
「目的は分かりましたか?」
「まだだ。だが、城の守りを固めるだけなら、兵を一か所へ集める必要はない」
シュヴァルツ伯は、自領の複数の城や村から兵を本城の周辺へ集めている。
防衛のためとも考えられるが、大軍を動かす準備とも考えられた。
アルベルトの指が地図の中央寄りへ移る。
「レオンハルトも兵と物資を動かしている。ただし、こちらは一か所へ集めていない。複数の城、町、街道沿いの拠点へ分散させている」
「兵数を隠すためですか?」
「それもあるかもしれん。あるいは、相手がどこから動いても対応できるようにしているのかもしれない」
「レオンハルト殿下から、何か連絡は?」
「ない」
アルベルトとレオンハルトは旧知の間柄だったが、互いの軍事行動をすべて知らせ合う関係ではない。アルヴェイン大公国とグランヴァルト王国の利害が常に一致するわけでもなかった。
「次に、商人だ」
アルベルトが西方の街道へ置かれた駒を示す。
「マティアスと関係している可能性がある商人の居場所が分かった。国境に近い交易路で、食料と油、縄を買い集めている」
「本人は?」
「ベルグハーフェンを離れているという話はあるが、居場所は掴めていない」
「その商人に会えば、分かるでしょうか」
「話す気があればな」
アルベルトは地図上の道を指でなぞった。
「我々は明朝、四十騎でヴァイスブルクを出る。ベルン伯爵領を通り、グランヴァルトとの境に近い宿場まで進む」
「四十騎だけですか?」
「軍を率いて国境へ近づけば、偵察ではなく侵攻になる」
「四十人でも、十分多く見えませんか?」
「大公の護衛としては少ない方だ」
「アルベルト様が行かなければ、もっと少なくできます」
「私が見たいから行く」
即答され、アレクはアルベルトを見た。
「誰かに任せることはできませんか?」
「情報を持ち帰らせるだけならできる。だが、報告した者が何を見落としたのかまでは、書状では分からん」
アルベルトは、シュヴァルツ伯とレオンハルトの勢力圏へ置いた駒を見比べた。
「戦が始まってから、どちらが優勢かを見て動くのでは遅い。兵がぶつかる前に、人が動き、金が動き、物が動く。その流れがどこへ向かっているのかを自分で確かめる」
「それが、昨日言っていた潮目ですか?」
「ああ。小さな変化が重なり、流れの向きが変わる。その時を見誤れば、後から追いつくために何倍もの兵と金が必要になる」
アレクが市場で見つけた荷車の増加も、その小さな変化の一つなのだろう。
「今回の目的は三つだ」
アルベルトが指を立てる。
「西へ流れる物資の行き先を確かめる。レオンハルトとシュヴァルツ伯の動きを見る。そして、マティアスが誰と誰を結びつけているのかを知る」
「マティアス様に会えた場合は?」
「直接聞く」
「素直に答えますか?」
「答えなければ、答えない理由を見る」
アルベルトらしい言い方だった。
「ヴァイス男爵はヴァイスブルクへ残れ。西へ向かった我々と城の間を空にするわけにはいかん」
「承知しました」
「ヨハンも残る。市場と門の記録を引き続き調べろ。出発後も、変化があれば使者を送れ」
「分かりました」
ヨハンは、既に用意していた分厚い書類の束をアレクの前へ置いた。
「こちらを持っていってください」
「これは?」
「ここ一か月の西方取引記録から、必要と思われる内容を抜き出したものです」
アレクが持ち上げると、見た目以上の重さがあった。
「全部ではないのですよね?」
「すべて持っていけば、その倍以上になります」
「馬に積んでもいいですか?」
「そのためにまとめました」
「俺が読むためでは?」
「馬に読ませるのでなければ、どこへ積んでも構いません」
ヨハンは真顔で答えた。
「出発前から疲れそうです」
「調べ始めたのはアレク殿です」
「分かっています」
「なら、最後まで使ってください」
アルベルトが二人のやり取りを止めるように地図を軽く叩いた。
「我々から剣を抜くことは禁じる。だが、襲われた場合は別だ」
「グランヴァルトへ入るのですか?」
「許可なく国境を越えるつもりはない。まずは境界近くの街道と宿場を見る。関所があるなら、その命令を確認する」
「入国を拒まれた場合は?」
「その理由を聞く」
「それでも通れなければ?」
「無理には通らん。関所を破れば、シュヴァルツ伯を調べに来た我々が王家と戦うことになる」
「それは困りますね」
「だから、お前も勝手に動くな」
「俺だけに言っていませんか?」
「一番勝手に動きそうだからな」
ゲオルクとヴァイス男爵が、否定しなかった。
「少しは信用してください」
「信用しているから連れていく。何もしないと思っているなら、ヴァイスブルクへ残しておく」
アルベルトの答えに、アレクはそれ以上反論できなかった。
「準備を終えた者から休め。明日は日の出前に出る」
軍議が終わり、アレクはヨハンから渡された書類を抱えて立ち上がった。
扉へ向かう途中で振り返る。
「アルベルト様」
「何だ」
「今朝、エリーゼ様へ返事を書きました」
アルベルトの眉が僅かに動いた。
「何を書いた」
「秘密です」
「私はエリーゼの叔父だぞ」
「だから見せません」
ヴァイス男爵が横を向き、ゲオルクは口元を押さえた。
「仕事の話は書いていないだろうな」
「ゲオルク様へ確認しました。しばらく町を離れるかもしれないとだけ書きました」
アルベルトがゲオルクを見る。
「余計なことは書かせておりません」
「ならよい」
「それと、アルベルト様がきちんと休んでいるか心配していたので、今夜は寝てください」
「それも手紙へ書いたのか?」
「まだ書いていません」
「書くな」
「なら寝てください」
アルベルトは面倒そうに手を振った。
「早く準備へ行け」
「はい」
アレクは笑いを堪えながら軍議室を出た。
◇ ◇ ◇
翌朝、空が白み始める前に、四十騎がヴァイスブルクの西門前へ集まった。
馬の吐く息が白く浮かび、騎士たちは手綱、鞍、荷紐を順番に確認している。アレクも、自分の着替えや食料とともに、ヨハンから渡された取引記録を鞍の後ろへ括り付けた。
「重いです」
「何がだ?」
隣で馬を確認していたゲオルクが尋ねる。
「帳簿です。この分だけ馬が疲れませんか?」
「お前を乗せる方が重い」
「それなら、俺を置いていきます?」
「置いていけばアルベルト様が困る」
「何に?」
「退屈しのぎがいなくなる」
「俺は何のために同行するんですか」
ゲオルクは答えず、荷紐を引いて緩みがないことを確かめた。
やがてアルベルトが馬上から全員を見渡す。
「聞け。今回の目的は戦ではない。こちらから剣を抜くな」
騎士たちの表情が引き締まる。
「街道では商人、旅人、住民の通行を妨げるな。食料と飼料は代金を払って買え。命令なく村や倉へ入ることも禁じる」
「はっ!」
「ただし、周囲への警戒は怠るな。隊列を離れる時は、必ず上官へ報告しろ」
アルベルトの視線がアレクで止まった。
「今のは、お前にも言っている」
「分かっています」
「本当に分かったか?」
「勝手に荷車を追いません」
「ならよい」
騎士たちの間から小さな笑いが漏れた。
西門が開かれる。
その向こうには、ベルン伯爵領を経てグランヴァルトへ続く街道が伸びていた。
「出発する」
アルベルトを先頭に、四十騎はヴァイスブルクを後にした。
城壁の上にはヴァイス男爵とトーマスの姿がある。
「気をつけろよ!」
トーマスの声が飛んできた。
「分かってる!」
「勝手なことするなよ!」
「お前まで言うのか!」
トーマスが笑いながら手を振る。
アレクも片手を上げて応えたが、馬が進むにつれて城壁と声は遠ざかっていった。
街道へ出た一行は、周囲の農地や村に注意を払いながら西へ進んだ。
戦の痕跡はまだ残っている。
焼けた柵を新しい木材へ取り替えている農家があり、補修された橋の欄干には、古い矢傷が残っていた。一方で畑には人が戻り、道端では子供たちが薪を拾っている。
見える範囲に兵の姿はない。
だが、平穏に見える景色の中を、食料を満載した荷車が何台も西へ向かっていた。
◇ ◇ ◇
昼前、一行は小さな橋の手前で速度を落とした。
街道脇には六台の荷車が止まり、御者や商人たちが車輪や荷紐を確認している。
「故障でしょうか」
アレクが尋ねる。
「六台同時に壊れるとは思えん」
アルベルトは、橋の向こうを見た。
幅の狭い橋を、荷車が一台ずつ渡っている。西へ向かう車が途切れず、東へ戻る車は橋の反対側で待たされていた。
「順番を待っているのか」
アルベルトが街道脇の商人へ声を掛けると、男は一行の装備と旗を見て慌てて頭を下げた。
「大公殿下とは存じ上げず、失礼いたしました」
「楽にしろ。いつから待っている?」
「半刻ほどでございます」
「普段から、これほど混むのか?」
「いえ。ここ数日で急に荷車が増えました」
「何を積んでいる?」
「私の荷は油と縄です。ほかは麦、干し肉、塩、馬の飼料が多いようです」
アレクは橋を渡る荷車へ目を向けた。
市場で確認した品と一致している。
「どこまで運ぶのですか?」
「西方の仲買商へ引き渡しましたので、私は空荷で東へ戻るところです」
「その仲買商の名前は?」
アレクが尋ねると、商人は少し警戒したように口を閉じた。
知らない少年へ取引相手を教えたくないのは当然だった。
「答えられる範囲で構わん」
アルベルトが言うと、商人はしばらく迷ってから頷いた。
「ヴェラーという男です。以前は毛皮や葡萄酒を扱っておりましたが、最近は食料や軍で使えそうな品まで買っています」
「本人が使うのですか?」
「いえ、さらに西へ送ると聞きました。ただ、誰から頼まれているのかまでは知りません」
「マティアス・クレーマーの名を聞いたことは?」
商人の表情が僅かに強張った。
「クレーマー商会は西方では大きな商会です。取引したことがない者の方が少ないでしょう」
「ヴェラーと関係がありますか?」
「申し訳ありません。そこまでは私から申し上げられません」
取引相手との関係を不用意に明かせば、商人としての信用を失う。アルベルトも、それ以上は追及しなかった。
「時間を取らせた。協力に感謝する」
「もったいなきお言葉でございます」
商人から離れた後、アレクは橋の往来を観察した。
西へ向かう荷車の荷台には、袋や樽が隙間なく積まれている。一方、東へ戻ってくる荷車の多くは、底板が見えるほど空いていた。
「西へ行く時は満載なのに、戻る時は空ですね」
「ああ」
「西で、それだけ売れている?」
「それだけなら、代わりに西の商品を積んで戻る車があってもよい」
アルベルトに言われ、アレクは東へ向かう荷車を数え直した。
毛皮らしい荷を載せた車が一台あるものの、それ以外はほとんど空だった。
「西から東へ売る品が減っている」
「その可能性がある」
「西側で使うために、外へ出さなくなった?」
「あるいは、出すことを止められている」
物が足りないのではない。
東や南から新しい荷が入り続けているにもかかわらず、それが西へ吸い込まれ、戻ってこない。
ヴァイスブルクの帳簿で見つけた数字の偏りが、目の前の街道で形になっていた。
「戦の準備でしょうか」
「その可能性は昨日より高くなった」
「まだ断定はしない?」
「食料を集めたという理由だけで、他国の領主を敵と決めるつもりか?」
「しません」
「なら見続けろ」
橋を渡る順番が近づき、騎士たちが隊列を整える。
四十騎は荷車を急かすことなく、その後に続いて西へ進んだ。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、一行は街道沿いの小さな宿場で休息を取った。
宿屋が三軒と、厩舎、鍛冶場、小規模な市場がある。普段なら近隣の村人と旅商人が利用する程度の場所だが、この日は荷車と馬で混み合っていた。
騎士たちが馬へ水と飼料を与える間、アレクは厩舎の前に並ぶ売買用の馬を見た。
軍馬ではない。畑を耕し、荷車を引くための、足腰の強い馬が中心だった。
「値段が高い」
「場所が違えば値も変わる」
ゲオルクが答える。
「それでも、ヴァイスブルクよりかなり高いです」
「気になるなら聞け。ただし、遠くへ行くな」
「分かっています」
アレクはゲオルクとともに厩舎の主人へ近づいた。
「最近、荷役用の馬が値上がりしていますか?」
「坊主が馬を買うのか?」
日に焼けた顔の男が、アレクを上から下まで見た。
「買う予定はありません。値段を調べています」
「買わない奴に値切られる心配はないな」
男は笑った後、馬の背を軽く叩いた。
「半月ほど前から上がっている。西へ向かう商人が、使えそうな馬を次々と買っていくからだ」
「西から来る商人は?」
「減った。以前の半分もいないかもしれん」
「理由は分かりますか?」
「関所だろうな」
「関所?」
「西へ入る道も、西から出る道も、検査が厳しくなった。荷物、行き先、売却相手、武器を持っていないかまで調べられる」
「どこの領主が作った関所です?」
「街道によって違うらしい。王家の兵を見たという者もいれば、シュヴァルツ伯の旗を見たという者もいる」
アレクとゲオルクが顔を見合わせる。
「西へ入る品も止められるのですか?」
「全部ではない。食料は通る。ただ、鉄や武器は新しい証書が必要だと言われた商人がいる。逆に、西から商品を持ち出そうとして止められた奴もいる」
「何を持ち出そうとしたのです?」
「馬と革だったと思うが、詳しくは知らん」
西へ入る食料と飼料は通す。
軍需品になり得る鉄や武器は厳しく調べる。
西側にある馬や革は、外へ出さない。
それが事実なら、単なる治安維持よりも、戦のための物資管理に近かった。
「ありがとうございます」
アレクが礼を言うと、ゲオルクはすぐアルベルトのもとへ向かった。
報告を聞いたアルベルトは、周囲にいた騎士を二人呼ぶ。
「この先の街道を確認しろ。臨時の関所があれば、位置、兵数、掲げている旗を見て戻れ。無理に近づく必要はない」
「はっ!」
「一人は西方街道、もう一人は北へ分かれる道を見ろ。日暮れまでに戻れない場合は、最寄りの宿場で待て」
二騎が宿場を離れていく。
アルベルトは、アレクが持ってきた取引記録を開いた。
「ヴァイスブルクの門で、西から来る商人が減っていることは分かるか?」
「数は減っています。ただ、戦の後に交易が戻り始めたばかりなので、どこまでが関所の影響かは判断できません」
「では、今日見た数を加えろ」
「はい」
「商人が通る道を変え始めれば、別の門や渡し場にも動きが出る」
「ヨハンさんにも知らせます」
「使者を出せ。西方から来る荷だけでなく、北の街道へ回った荷がないか調べさせろ」
アレクはその場で短い報告を書き、騎士の一人へ託した。
自分たちが西へ進む間も、ヴァイスブルクではヨハンや市場役人が別の情報を集めている。
一人ですべてを見る必要はない。
離れた場所で得た記録を合わせれば、街道の一部しか見ていないアレクたちにも、より大きな流れが見えるはずだった。
◇ ◇ ◇
その夜、四十騎は宿場の三軒の宿へ分かれて泊まった。
アレクはアルベルト、ゲオルク、十人ほどの護衛とともに、一番大きな宿へ入った。
一階の食堂は、商人や御者で埋まっている。煮込み料理と酒の匂いが漂い、皿の音と大きな話し声が重なっていた。
「大公家の旗を隠した方が、話を聞きやすかったのではありませんか?」
奥の席へ着いたアレクが、小声で尋ねる。
「身分を隠した四十騎が宿場へ入れば、余計に警戒される」
「確かに怪しいですね」
「堂々としていた方が、何をしに来たのか勝手に想像してくれる」
「それも利用するのですか?」
「我々が何も言わなくても、明日にはアルヴェイン大公が西へ来たという噂が広がる。止めることはできん」
「なら、利用する?」
「使えるならな」
運ばれてきたのは、固いパンと豆、肉を煮込んだ料理だった。
アレクたちが食べ始めても、周囲の商人は大公の一行を気にしながら、酒の勢いに押されて話を続けていた。
「荷馬がまた上がったぞ」
「今のうちに売れば儲かる」
「売った後、次の馬が買えなくなる」
「西へ持っていけば、もっと高く売れるらしいじゃないか」
「関所を通れればな」
アレクは食事を続けながら耳を傾けた。
「シュヴァルツ伯が兵を集めている」
「第一王弟殿下も動いているだろ」
「どちらが先に攻める?」
「王都が止めるんじゃないのか」
「王都の兵が街道へ出たって話だぞ」
「それならシュヴァルツ伯を討つためだ」
「違う。第一王弟殿下を監視するためだ」
噂の内容は一致していない。
聞いた本人が確かめた話ではなく、別の宿場や市場で耳にした話を重ねているだけのようだった。
「マティアス・クレーマーが、食料を全部買い集めているらしい」
その名が聞こえた瞬間、アレクは無意識に声の方へ顔を向けかけた。
「見るな」
アルベルトが小さく言う。
アレクは視線を皿へ戻した。
「商人一人に何ができる」
「クレーマー商会を知らないのか。あの男が通った後は、馬も食料も残らないそうだ」
「俺は南にいると聞いたぞ」
「北の領主と会っているらしい」
「ベルグハーフェンに戻ったという話もある」
「全部違うじゃないか」
商人たちの間に笑いが起きる。
「役に立ちませんね」
アレクが小声で言うと、アルベルトは酒杯へ口をつけた。
「噂の内容はな」
「ほかに何が役立つのです?」
「誰の名前が繰り返されている」
アレクは周囲の会話を思い返した。
レオンハルト。
シュヴァルツ伯。
王都。
そして、マティアス。
「同じ名前が、別の商人から何度も出ています」
「ああ。話の内容が間違っていても、その者たちが人や物を動かしていると考えられ始めたことは分かる」
「マティアス様は、以前からここまで有名だったのですか?」
「商人の間では知られていた。だが、兵や領主と並べて噂されるほどではなかった」
「何をしたのでしょう」
「それを見に来た」
アルベルトは周囲を一度見渡した。
「覚えておけ。噂は事実ではない。だが、人間が何を恐れ、何を期待し、何を信じようとしているかは表れる」
「事実ではなくても、人は動く?」
「特に戦が近づけばな。敵の兵が実際より多いという噂だけで、逃げる兵もいる。援軍が来ると信じれば、崩れかけた軍が踏みとどまることもある」
アレクは、初陣で偽の伝令を走らせた時のことを思い出した。
実際には来ていない援軍を、敵にいると思わせた。
事実ではない情報が、人を動かすことは知っている。
「噂も戦の一部になるのですね」
「使う者がいればな」
「面倒です」
「今日だけで何度目だ」
「事実を確かめるだけでも大変なのに、人が何を信じているかまで考えなければならないので」
「それが政治だ」
「剣で戦う方が分かりやすい気がしてきました」
「剣を抜く前に負けていれば、分かりやすい戦場へ立つこともできん」
アレクは返事をせず、残っていた煮込みを口へ運んだ。
味は悪くないはずだが、先ほどより少し重く感じた。
◇ ◇ ◇
夜、アレクはゲオルクと同じ部屋へ入った。
隣室にはアルベルトが泊まっている。
寝台へ向かう前に、アレクはヨハンから渡された取引記録を開き、その日に見聞きしたことを書き加えた。
橋の混雑。
西へ向かう満載の荷車と、東へ戻る空荷の車。
荷役馬の値上がり。
関所での検査。
西からの商品の持ち出し制限。
宿場で繰り返された人名。
「まだ書くのか?」
剣を外していたゲオルクが尋ねる。
「忘れる前に残しておきます」
「朝でもよいだろう」
「朝になると、何を見てそう考えたのか忘れるかもしれません」
「印象ではなく、理由まで残すのか」
「後でヨハンさんの記録と比べるなら、その方がいいと思います」
アレクは、橋で見た荷車の台数を書き終えた。
初めて戦場へ出た時には、敵が近づいてから戦が始まるものだと思っていた。
鐘が鳴り、兵が城壁へ上がり、槍や弓を構える。その時になって、ようやく自分も戦の中にいるのだと知った。
だが、今は違う。
兵がぶつかる前から、食料が集められ、馬が買われ、関所が作られている。
商人の噂さえ、人の判断を変え始めていた。
「戦って、剣を抜く前から始まっているのかもしれませんね」
ゲオルクがアレクを見る。
「何を考えた」
「麦や馬を集めるだけなら、血は流れません。でも、それを相手より早く用意できた方が、戦場では有利になる」
「ああ」
「誰が味方で、誰が敵になるのかも、戦う前に決まっていく」
「ああ」
「だったら、兵同士がぶつかる頃には、勝敗の一部はもう決まっているのかもしれない」
ゲオルクは僅かに口元を緩めた。
「アルベルト様に似てきたな」
「それは嫌です」
「なぜだ」
「性格まで似たら困ります」
壁の向こうから、アルベルトの声が飛んできた。
「聞こえているぞ」
アレクとゲオルクは顔を見合わせた。
「まだ起きていましたね」
「起きているな」
「アルベルト様、エリーゼ様へ報告しますよ」
「余計なことをするな。さっさと寝ろ」
ゲオルクが声を押し殺して笑う。
アレクも帳簿を閉じた。
灯りを消して寝台へ入った後も、しばらく眠気は訪れなかった。
数日前まで、マティアスはアレクが個人的に気にしていた商人にすぎなかった。
今は違う。
西へ向かう食料の流れに名前が現れ、宿場の商人たちまで噂している。アルベルトも、その動きを自ら確かめようとしている。
マティアスが何をしようとしているのか。
その答えは、さらに西にある。
◇ ◇ ◇
翌朝、一行が宿を出る準備をしていると、街道の西から一騎の馬が駆けてきた。
前日に送り出した斥候だった。
馬は宿の前で速度を落とし、騎士が鞍から飛び降りる。
「アルベルト様、報告いたします」
「言え」
「西方街道の二里ほど先に、臨時の関所を確認しました。兵はおよそ三十。国王直属軍を示す旗を掲げています」
周囲の騎士たちの表情が変わった。
「レオンハルトの兵ではないのだな」
「はい。第一王弟殿下の軍旗ではありません」
「王都から派遣された兵か」
「装備と旗を見る限り、その可能性が高いと思われます」
「北の街道は?」
「そちらへ向かった者も、先ほど戻りました。北街道にも関所があり、シュヴァルツ伯の旗が掲げられていたとのことです」
アレクは、ゲオルクが広げた地図を見た。
西へ続く主要街道には国王直属軍。
北へ分かれる街道にはシュヴァルツ伯の兵。
同じグランヴァルト王国内にありながら、異なる命令で動く兵が別々の道を押さえている。
「どちらへ向かいますか?」
ゲオルクが尋ねた。
「まずは国王直属軍の関所だ」
アルベルトは迷わなかった。
「王都が何を警戒しているのか確かめる。通行を認めるなら、その先へ進む」
「拒まれた場合は?」
「理由を聞き、関所を通る荷を見る。ここまで来た以上、何も得ずに帰るつもりはない」
アルベルトが馬へ乗る。
騎士たちも次々と鞍へ上がり、隊列を整えた。
アレクも馬上から西の街道を見る。
まだ兵同士はぶつかっていない。
開戦を告げる使者も来ていない。
それでも、道には関所が築かれ、物資の出入りが調べられ、領主たちは兵を集めている。
昨日まで商人と荷車しか見えなかった街道に、異なる旗が立ち始めた。
「アレク」
「はい」
「行くぞ」
アルベルトの声に応え、アレクは馬を進めた。
四十騎が西方街道へ入る。
その先で待つ国王直属軍が、アルヴェイン大公の一行を通すかどうかは分からない。
王都がレオンハルトとシュヴァルツ伯のどちらを警戒しているのかも、まだ見えていない。
ただ、ヴァイスブルクで見つけた物の流れを追うほど、戦が近づいていることだけは明らかになっていた。
その流れの先には、王家、レオンハルト、シュヴァルツ伯、そしてマティアスがいる。
誰が何を望み、誰と手を結ぼうとしているのか。
答えを知らないまま、アレクたちは最初の関所へ向かった。
第二話を読んでいただき、ありがとうございました。
満載の荷車は西へ向かい、空になった荷車だけが東へ戻ってきます。馬の値上がりや関所での規制、商人たちの噂から、戦は剣を抜く前から始まっていることをアレクは学びました。
次回、国王直属軍の関所で、同じ王国内に立つ異なる旗の意味を探ります。
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