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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第二篇 乱世に蒔く種

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第十四話 芽吹くもの

アルヴェインブルクで、アレクは初めて国の中枢を見ました。


領政会議。

中央倉庫。

大都市の市場。

そして、エリーゼとの再会とクララとの新しい出会い。


ヴァイスブルクで試してきたことが、中央でもそのまま通用するわけではありません。


すでに行われている仕組みもあれば、規模の違いによって使い方を変えなければならないものもあります。


だからこそ、アレクは改めて知ることになります。


知らないことは、知っている人に聞く。

小さく試し、結果を見て、必要なら直す。


そして今日は、会議室や倉庫だけではなく、エリーゼとともにアルヴェインブルクの街そのものを見ていきます。


大公家の令嬢として育ったエリーゼが、なぜ市場へ足を運ぶのか。


アレクとは違う立場から街を見る彼女との時間を通して、アレクもまた一つ、この世界の見方を増やしていきます。


第二篇「乱世に蒔く種」。


ヴァイスブルクで蒔いた小さな種が、どのように芽を出し始めるのか。

 翌朝。

 俺が目を覚ました時には、窓の外から既に街の音が聞こえていた。

 ガラガラガラ……。

 荷車の車輪が石の上を転がる音が続き、遠くでは朝を知らせる鐘が鳴っている。

 窓を開けると、朝の冷たい空気と一緒に、どこかから焼いたパンのような匂いまで入ってきた。

「……大都市だな」

 昨日も思ったが、朝になって改めて実感する。

 ヴァイスブルクとは、街が動き始める時間まで違うように感じた。

 俺が身支度を済ませていると、扉が叩かれた。

「アレク」

「はい」

「起きているか」

 ゲオルクの声だった。

「起きてます」

 扉を開ける。

「殿下がお呼びだ」

「もう?」

「午前は随行だと言っただろう」

「そうでした」

「朝食を食べたら執務室へ来い」

「分かりました」

 ゲオルクが去ろうとする。

「あの」

「何だ」

「午後のこと」

「エリーゼ様との街歩きか」

「やっぱり行くんですよね」

「約束したのはお前だ」

「そうですけど」

「嫌なのか?」

「嫌じゃないです。ただ……」

「ただ?」

「大公家の令嬢が自分で街を案内するって、普通なんですか?」

「普通かどうかで言えば、あまり普通ではないな」

「ですよね」

「だから護衛が付く」

「そこじゃない気がする」

 ゲオルクが少し笑った。

「エリーゼ様は昔から街へ出るのがお好きだ」

「そうなんですか?」

「ああ」

「砦で会った時も旅装だったし、あまり城の中だけにいる人には見えなかったけど」

「それもある。だが、遊びだけで出ているわけではない」

「どういう意味です?」

「本人に聞け」

「またそれですか」

「私は忙しい」

「便利な言葉だなぁ」

 ゲオルクは今度こそ去っていった。

 俺は扉を閉める。

 エリーゼが市場へ行く理由。

 ただ好奇心が強いから、というだけではないらしい。

 少し気になった。


 ◇ ◇ ◇


 アルベルトの執務室へ行くと、既に机の上には大量の書類が積まれていた。

「……帰ってきたくない理由、分かりました」

「何がだ」

「書類」

「見るな」

「見えますよ」

 アルベルトの前には三つほど山ができている。

 昨日見た時より増えている気さえする。

「これ全部?」

「全部ではない」

「もっとあるんですか?」

「別室に」

「ヴァイスブルクへ帰りましょう」

「私もそうしたい」

「本気だった」

 アルベルトは一枚の書状へ署名してから、俺を見る。

「昨日の書面は?」

「書きました」

「持ってきたか」

「はい」

 中央倉庫の試験方法をまとめた紙を渡す。

 アルベルトが目を通した。

「短いな」

「駄目です?」

「いや」

 さらに読む。

「担当役人と相談して基準を定める?」

「はい」

「お前が決めなかったのか」

「倉庫のことは倉庫の人の方が詳しいでしょう」

「そうだな」

「俺が知ってることだけで決めたら、また何か見落とすと思うので」

「成長したな」

「珍しく素直に褒めましたね」

「取り消すぞ」

「すみません」

 アルベルトは紙を机へ置いた。

「午前中、中央倉庫へ行く」

「殿下も?」

「私は行かん」

「え?」

「お前が行け」

「昨日と言ってることが違う!」

「私はここで仕事がある」

 アルベルトが書類の山を指す。

「説得力がすごいな……」

「ハインリヒが案内する」

「議長自ら?」

「最初だけだ。倉庫長へ引き渡したら戻る」

「俺は?」

「残れ」

「やっぱり」

「自分で書いたものが、実際にどう使われるか見てこい」

「今日から試すんですか?」

「準備だけだ」

「なるほど」

 アルベルトが別の書類へ手を伸ばす。

「それから一つ」

「何です?」

「午後、エリーゼと街へ出るらしいな」

「何で知ってるんです?」

「本人が朝から言いに来た」

「早い」

「随分楽しそうだったぞ」

「そうなんですか?」

「ああ」

 アルベルトが俺を見る。

「アレク」

「はい」

「エリーゼは、兄上の一人娘だ」

 少しだけ声の調子が変わった。

「……はい」

「分かっているな?」

「亡き先代大公世子の娘で、殿下の姪ですよね」

「ああ」

 リーデン平原。

 アルベルトを逃がすために戦い、死んだ兄。

 その娘がエリーゼだ。

 砦で本人から聞いた時の、少し寂しそうな笑顔を思い出した。

「何が言いたいんです?」

「別に」

「絶対何かありますよね」

「何もない」

 顔が少し笑っている。

「殿下」

「何だ」

「仕事してください」

「言われなくてもする」

 俺は逃げるように執務室を出た。


 ◇ ◇ ◇


 アルヴェインブルクの中央倉庫は、城の北東区画にあった。

 城の中ではなく、城壁内の一角に大きな石造りの建物が何棟も並んでいる。

「これ全部倉庫?」

「そうだ」

 ハインリヒが答える。

「穀物だけでも六棟ある」

「六棟……」

 ヴァイスブルクとは比べものにならない。

 建物の間では荷車が行き交い、作業員が袋や木箱を運んでいる。

「軍用?」

「軍用、救荒用、城内消費用などに分かれている」

「分けてるんですね」

「当然だ」

「いや、ヴァイスブルクよりずっと細かいから」

「規模が違う」

 昨日アルベルトにも言われた。

 やはり、規模が大きくなるほど管理方法も変わる。

「倉庫長」

 ハインリヒが呼ぶ。

 一人の男がこちらへやってきた。

 四十代後半くらいだろう。

 日に焼けた顔に短い灰褐色の髪があり、体格は大きく、腰にはいくつもの鍵を束ねた鍵束が下がっている。

「議長」

「バルドゥル。昨日話した件だ」

「ああ」

 男が俺を見る。

「この少年か?」

「アレク・ハルトマンです」

「バルドゥル・ケラー。中央倉庫長だ」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 握手すると、これまた手が硬い。

「私は戻る」

 ハインリヒが言う。

「もう?」

「仕事がある」

「皆それ言うな」

「何か?」

「いえ」

 ハインリヒは俺を見る。

「アレク」

「はい」

「昨日言った通りだ」

「何がです?」

「ここで通用するかは、ここで働く者と決めろ」

「分かりました」

「ではな」

 本当に帰っていった。

 俺とバルドゥルが残る。

「何からしましょう」

「それを聞きたいのはこっちだ」

「ですよね」

 俺は昨日書いた紙を取り出した。

「まず、これを見てもらえますか?」

 バルドゥルが読む。

「帳簿と実数を比べる?」

「はい」

「こんなことならやっている」

「やっぱり」

「年に二度な」

「全部?」

「全部だ」

「どれくらい掛かります?」

「三日」

「倉庫止める?」

「完全には止めんが、出し入れはかなり減らす」

「それは大変だ」

「だから年二回だ」

 なるほど。

 ヴァイスブルクよりずっと進んでいる。

 俺が新しいと思っていることが、ここでは既にやられている。

「じゃあ俺の案、いらない?」

「まだ分からん」

 バルドゥルが紙を指した。

「こっちは?」

「重要な物だけ、もっと短い間隔で見る」

「どれくらい」

「それを決めに来ました」

「お前が決めるんじゃないのか?」

「俺、この倉庫のこと何も知らないので」

 バルドゥルが俺を見る。

「正直だな」

「昨日も言われました」

「なら来い」

「どこへ?」

「見るんだろ」

「はい」

 倉庫の中へ入る。

 最初に感じたのは匂いだった。

 乾いた麦と木、麻袋が混じったような匂いがして、少し埃っぽい。

 左右には袋が何段にも積まれている。

「すごい量」

「第一穀物庫だけで約一万二千袋」

「一万二千……」

「全部数えたいか?」

「絶対嫌です」

「そうだろう」

 バルドゥルが笑った。

「一袋の量は全部同じ?」

「規定上はな」

「規定上?」

「袋が古ければ破れる。湿気れば重くなる。詰める人間によって多少差もある」

「基準容器は?」

「使っている」

「あ、あるんだ」

「大公都を何だと思っている」

「最近それよく言われるな……」

 ヴァイスブルクで導入した基準容器。

 中央では既に似た仕組みがある。

 当然と言えば当然だ。

「じゃあ、ヴァイスブルクでやったこと自体は新しくない」

「何をやった」

 俺は市場へ共通の箱を置き、商人たちがそれを基準に取引できるようにしたことを説明した。

 バルドゥルが頷く。

「中央では昔からある」

「ですよね」

「だが地方ではない場所も多い」

「何で広げないんです?」

「作るだけで済まんからだ」

「……」

「箱を誰が管理する。壊れたら誰が直す。基準と違う箱を使った商人を誰が見る。役人を置けば給金も要る」

「ああ」

 また同じだ。

 制度そのものより、維持する方が難しい。

「ヴァイスブルクでは?」

「市場役人が管理してます」

「元からいたのか?」

「はい」

「なら出来た理由はそこだ」

 俺は少し嬉しくなった。

「何だ?」

「いや」

「笑っているぞ」

「こういうことなんだなって」

「何がだ」

「同じ制度でも、使える場所と使えない場所がある理由」

「今さらか」

「十五なので」

「便利な年齢だな」

「最近自分でもそう思います」

 バルドゥルが笑った。


 ◇ ◇ ◇


 次に案内されたのは矢の保管庫だった。

 壁際に大量の矢束が積まれている。

「これを試験対象にするそうですね」

「ああ」

「何本?」

「数えたくなるぞ」

「嫌な言い方だな」

「約七万」

「……やめましょう」

「何をだ」

「全部数えるの」

「最初からそのつもりはない」

「ですよね」

 俺は矢束を見る。

「束単位?」

「五十本一束が基本だ」

「じゃあ束の数だけ確認?」

「帳簿上はな」

「実際は?」

「抜かれる」

「抜かれる?」

「訓練で急に必要になる。一本折れたから別の束から補う。矢羽を直すために持っていく」

「そのたび記録?」

「本来は」

「本来は」

「現場は忙しい」

「分かる」

 ヴァイスブルクと同じだ。

「それで年二回数えると?」

「ずれる」

「どのくらい?」

「数百本なら珍しくない」

「盗まれてる可能性は?」

「ある」

「でも全部じゃない」

「そうだ」

 俺は考える。

「じゃあ月一回、全部じゃなくて一部だけ見る?」

「一部?」

「例えば場所を決めて、今月はこの区画、来月は隣という感じで毎月違う場所を数える」

 倉庫の棚を指す。

 バルドゥルが棚を見る。

「全部見るのは何か月後だ?」

「六区画なら半年」

「年二回と同じでは?」

「でも一度に三日止めなくていい」

 俺は考えながら説明する。

「それに、毎月どこかを確認していると分かれば、普段の記録も少し丁寧になるかもしれない」

「見張りの意味も持たせるのか」

「そこまで言うと嫌な感じですけど」

「だがそういうことだ」

「はい」

「問題もある」

「何です?」

「区画を跨いで物を動かす」

「あ」

「今月確認した場所へ、来月確認する場所から矢を移せば?」

「数字が分からなくなる」

「そうだ」

「じゃあ移動記録が必要」

「仕事が増える」

「……」

 まただ。

 俺は頭を掻く。

「やっぱり簡単じゃないですね」

「簡単なら、とうに誰かがやっている」

「ですよね」

 でも何か方法はある。

「区画じゃなくて、種類で分けるのは?」

「矢の?」

「普通の矢、火矢用、弩用とか」

「それなら保管場所が元から分かれている」

「じゃあ種類ごと」

「月ごとに?」

「毎月じゃなくてもいい」

「どれくらいだ」

「それこそ、現場で決めてください」

「逃げたな」

「違います。俺より知ってるでしょう」

「まあな」

 バルドゥルはしばらく考えた。

「普通矢は三か月に一度。火矢用は月一回」

「火矢の方が頻繁?」

「火薬や油と一緒に扱う。状態が悪いと危ない」

「なるほど」

「弩矢は使用量が少ないから四か月に一度でいいだろう」

「それで試します?」

「ああ」

「期間三か月なのに弩矢は一回も来ないですね」

 バルドゥルが少し黙った。

「最初の一回だけ数えましょう」

「そうするか」

 少しずつ決まっていく。

 俺が全部考えたわけではない。

 むしろバルドゥルがほとんど決めている。

 でも、それでいいのだと思う。

「なあ」

 バルドゥルが言う。

「はい?」

「お前、本当に十五か?」

「最近それもよく聞かれます」

「若い奴はもっと、自分の考えを通したがるものだ」

「俺も前はそうだったと思います」

「今は?」

「失敗したので」

「何を」

「色々です」

 市場も橋も帳簿も、一度で上手くいったわけではない。

「自分の考えが正しいと思っても、現場で使えなかったら意味ないですから」

 バルドゥルが笑った。

「財務官に鍛えられたか?」

「かなり」

「ヨハン・ケストナーだろう」

「知ってるんですか?」

「中央にいたこともある」

「本当に?」

「若い頃な」

「何でヴァイスブルクへ?」

「本人に聞け」

「皆それ言うなぁ」

 どうやらヨハンにも、まだ知らない過去があるらしい。

 少し気になった。


 ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ。

 俺はアルヴェイン城の正門近くで待っていた。

「遅いな」

「何が?」

 ゲオルクが聞く。

「いや」

「エリーゼ様か」

「違います」

「まだ何も言っていない」

「顔が言ってます」

「誰かに似てきたな」

「殿下ですか?」

「そうかもしれん」

 その時だった。

「アレク!」

 聞き慣れ始めた声が聞こえた。

 振り返ると、エリーゼとクララがこちらへ歩いてくる。

 昨日とは二人とも服装が違っていた。

 エリーゼは淡い水色ではなく、白に近い薄緑色のドレスを着ている。城内で着ていたものより装飾は控えめで、裾も少し短く、街を歩きやすいように仕立てられているようだった。

 肩より少し下まで伸びた淡い金色の髪も、今日は後ろで緩くまとめられている。澄んだ青い瞳や白い肌は昨日と変わらないが、服装が簡素になったことで、砦やヴァイスブルクで会っていた時のエリーゼに少し近く見えた。

 クララは濃紺のドレスを着ていた。こちらも装飾は控えめだが、襟元と袖には細かな銀糸の刺繍が入っている。栗色の髪は片側だけを編み込み、後ろで留めていた。

「お待たせ」

 エリーゼが言う。

「少し待った」

「そこは『待ってない』って言うところじゃないの?」

 エリーゼが呆れたように俺を見る。

「ゲオルク様にも同じこと言われた」

「なら二人の意見が正しいでしょう」

「嘘じゃないですか」

 クララが顔を背けた。

 肩が少し動いている。

「また笑ってます?」

「いいえ」

「絶対笑ってますよね」

「少しだけです」

「クララまで」

 エリーゼが不満そうに言ったが、自分も笑っている。

「では行きましょう」

「どこから?」

「市場」

「やっぱり」

「何で分かったの?」

「昨日もそう言ってたでしょう」

「あ」

「忘れてた?」

「忘れてないわよ」

 少しだけ目を逸らした。

「本当に?」

「アレク」

「はい」

「たまには黙りなさい」

「まだ市場にも着いてないのに」

 クララがまた小さく笑った。

 ゲオルクと護衛四人を連れ、俺たちは城を出た。


 ◇ ◇ ◇


 アルヴェインブルクの中央市場は、昨日通った大通りよりさらに賑やかだった。

「すごい……」

 広場いっぱいに露店が並んでいる。

 野菜や果物、パン、肉、魚だけではない。布、革製品、陶器、装飾品まであり、その中には俺が見たことのない香辛料も並んでいた。

「それは南方から来た香辛料よ」

 エリーゼが説明する。

「高い?」

「かなり」

「どれくらい?」

「私は買ったことがないから分からない」

「大公家の令嬢なのに?」

「大公家の人間なら何でも値段を知っていると思ってる?」

「むしろ値段を見ずに買えるのかと」

「失礼ね」

 エリーゼが少し頬を膨らませる。

 こういう顔を見ると、昨日アルヴェイン城で見せていた大公家の令嬢らしい姿より、砦で最初に話した時の彼女を思い出す。

「エリーゼ様」

 クララが言う。

「そこではありません」

「何?」

「あちらです」

 視線の先には果物屋があった。

「林檎?」

「以前から買いたいと仰っていたでしょう」

 エリーゼの青い瞳が少し輝いた。

 分かりやすい。

「買うの?」

「せっかくだから」

 店へ近づく。

「いらっしゃい!」

 店主が顔を上げ、俺たちの後ろにいる護衛を見て一瞬固まった。

 エリーゼが苦笑する。

「そんなに緊張しなくていいわ」

「は、はい!」

 全然普通になっていない。

「林檎を三つください」

「ただいま!」

 店主が一番綺麗そうな林檎を選び始める。

「三つ?」

 俺が聞く。

「私とクララとアレク」

「俺も?」

「嫌なの?」

「いや」

「なら三つ」

 エリーゼが財布を出そうとした。

 だがクララの方が早かった。

「私が」

「自分で払えるわ」

「昨日、小銭を用意しておくよう申し上げました」

「今日は持ってる」

 エリーゼが財布を見せる。

 クララも中を見る。

「大銀貨しかありません」

「……」

「それで林檎を三つ買えば、店主が釣り銭に困ります」

「あ」

 俺は思わず笑った。

「何よ」

「いや」

「笑ったでしょう」

「少し」

「もう」

 エリーゼは恥ずかしそうに頬を僅かに赤くした。

 クララが代わりに代金を払い、三人分の林檎を受け取る。

「どうぞ」

「ありがとう」

 林檎をかじった。

 シャクッ。

「甘い」

「でしょう?」

「エリーゼが作ったわけじゃないけど」

「私が選んだ店よ」

「選んだのクララさんじゃ」

「アレク」

「はい」

「黙って食べなさい」

「はい」

 クララが横で笑っていた。


 ◇ ◇ ◇


 市場を歩きながら、エリーゼは色々な場所を教えてくれた。

 北方商人が多く集まる区画。

 職人組合の建物。

 肉市場。

 魚市場。

 衣服を扱う店が多い通り。

 意外だったのは、エリーゼが思っていた以上に市場へ詳しいことだった。

「本当によく来るんだね」

「ええ」

「遊びに?」

「それもあるけど」

 エリーゼの口調が少し変わった。

「値段を見るためでもあるわ」

「値段?」

「パンや麦、薪、塩とか」

 俺は横を見る。

「何で?」

「冬に麦が高くなれば、最初に困るのは誰だと思う?」

「金がない人」

「そう」

 エリーゼは市場を見ながら歩く。

「城の中にいると、食事がなくなることなんてほとんどないでしょう?」

「たぶん」

「でも街では違う」

 少し先のパン屋には人が並んでいる。

 エリーゼはそこを見ながら続けた。

「父様が生きていた頃、よく言っていたの」

 声が少しだけ柔らかくなった。

「『民が何を食べ、何に困っているのかを知らない者に、民を治めることはできない』って」

「先代大公世子様が?」

「ええ」

 エリーゼは穏やかに笑った。

 少しだけ寂しさが混じっている。

「だから最初は、父様に連れられて来ていたの。何がいくらで売られているのか、自分で見ろって」

「そうだったんだ」

「父様が亡くなってからも、なるべく見るようにはしてる」

「……」

「何?」

「いや」

 俺は少しだけエリーゼを見る。

 砦で叔父の睡眠を心配していた時もそうだった。

 大公家の娘として育てられている一方で、この子自身も失ったものを抱えたまま前を向いている。

「今は半分くらい楽しいから来てるけど」

「やっぱり」

「悪い?」

「いや。そっちの方がエリーゼらしい」

「どういう意味?」

「褒めてる」

「本当に?」

「たぶん」

「またそれ!」

 エリーゼが頬を膨らませる。

 俺は少し笑った。

「アレクは?」

「何が?」

「市場を見る時、何を見てるの?」

 突然聞かれる。

 俺は周囲を見る。

「値段かな」

「同じ?」

「あと、何がどれくらい入ってきてるか」

「荷物?」

「うん。何が多くて、何が少ないか」

「それで何が分かるの?」

「全部は分からないよ。でも、例えば麦が少なくなって値段が上がってるなら、どこかで収穫が悪かったのかもしれない。道が壊れて運べないのかもしれないし、商人が別の街へ行ってるのかもしれない」

「……」

「一つの数字だけじゃ答えは出ないけど、何か変だって気づくきっかけにはなる」

 エリーゼがじっと俺を見る。

「何?」

「叔父様が言ってた通り」

「また殿下?」

「『あいつは物を見ると、すぐその後ろを考える』って」

「褒めてる?」

「たぶん」

「殿下の『たぶん』は信用できないな」

 エリーゼが笑った。


 ◇ ◇ ◇


 しばらく歩いたところで、俺は一つの行列に気づいた。

「何です、あれ?」

 商人らしい男たちが、役所のような小さな建物の前へ並んでいる。

「取引証明所です」

 クララが答えた。

「取引証明?」

「遠方から来た商人が、大口取引をする際に証明を受ける場所です」

「何を証明するんです?」

「商人の身元、商品、取引相手などですね」

「へえ」

 ヴァイスブルクにはない。

 十数人ほどが並んでいるが、列はなかなか進まない。

「時間かかってますね」

「いつもよ」

 エリーゼが言う。

「いつも?」

「商人からもよく文句が出てる」

「何で直さないの?」

「簡単に直せたら、とっくに直してるでしょう」

 クララが答える。

「それもそうか」

 俺は少し様子を見る。

 一人が建物へ入り、数分してから出てくる。

 次の商人が入り、また数分。

「何してるんだろう」

「見てみる?」

 エリーゼが聞いた。

「いいの?」

「中へ入るくらいなら」

 護衛が先に入って話をする。

 少しして、俺たちも中へ入った。

 机が二つあり、役人も二人いる。

 商人から紙を受け取る。

 帳簿を開く。

 名前を探す。

 見つからなければ別の帳簿。

 また次の帳簿。

 それを繰り返している。

 俺はしばらくその様子を見ていた。

「これ」

「何?」

 エリーゼが聞く。

「毎回、全部の帳簿から探してる?」

 役人がこちらを見る。

「はい?」

「商人の名前です」

「そうですが」

「何冊あります?」

「登録商人のみで十二冊ほど」

「十二……」

 何百、いや何千人分あるのだろう。

「どういう順番で書いてるんです?」

「登録した順です」

「……」

 そりゃ遅い。

「同じ商人が来た時も毎回探す?」

「常連であれば、どの帳簿か覚えております」

「遠方の商人は?」

「探します」

「なるほど」

 前世なら検索すれば終わる。

 データベースなら一瞬だ。

 だが、この世界には紙と手書きの帳簿しかない。

 なら、紙で探しやすくするしかない。

「別の帳簿を一冊作れません?」

「何を記載するのです?」

「名前と、どの帳簿のどこに書いてあるかだけ」

 役人が俺を見る。

「例えば」

 紙を借りる。

『麦商人ベルガー 第四帳 百二十七』

「こんな感じです」

「全員分?」

「名前と場所だけなら、元の記録より短くできます」

「しかし、名前を探す手間そのものは変わらないのでは?」

「並べ方を変えます」

「どうやって?」

 そこで止まる。

 この世界の文字には、この世界の文字の並びがある。

 そこを勝手に俺が決めるわけにはいかない。

「文字を習う時って、決まった順番がありますよね?」

「ございます」

「なら、その順に分ける」

 役人の表情が少し変わった。

「最初の文字ごとに?」

「はい。例えばベルガーなら、最初の文字が同じ名前を集めたところだけ探せばいい」

「しかし同じ頭文字は多い」

「なら、必要になったら二文字目でも分ける。ただ、最初から細かくしすぎると作るのが大変ですよね」

「ええ」

「だったら、最初は一文字だけ」

 話しているうちに、後ろから声がした。

「また始めた」

 クララだった。

「何が?」

 エリーゼが聞く。

「アレクさんです」

「俺?」

「街を案内していたはずなのに、いつの間にか役所の帳簿を直しています」

 エリーゼが俺を見る。

 数秒して。

「……本当だ」

「いや、気になっただけで」

「叔父様の言ってた通りね」

「だから殿下は何て言ってるの?」

「『放っておくと仕事を増やす』」

「酷い!」

 役人まで笑っている。

 俺は紙を返した。

「でも、いきなり全部変えないでくださいね」

「え?」

「試すなら一冊だけ。最近登録された商人だけとか」

「なぜです?」

「作るのが大変だから。それに、本当に速くなるかまだ分からない」

 役人が少し考えてから頷いた。

「上役に相談してみます」

「俺が決める話じゃないですから」

「ところで、あなたは?」

「あ」

 そういえば名乗っていなかった。

「アレク・ハルトマンです」

 役人が少し止まった。

「ヴァイスブルクの?」

「何で知ってるんです?」

「昨日、領政会議に出席した少年の話が既に」

「早くない?」

 エリーゼが楽しそうに笑う。

「有名人ね」

「嫌だなぁ……」


 ◇ ◇ ◇


 取引証明所を出た後、クララに声を掛けられた。

「アレクさん」

「はい?」

「先ほどの方法ですが、以前から知っていたのですか?」

「似たような考え方は」

「どこで?」

 一瞬詰まる。

 前世とは言えない。

「昔、色々読んだので」

「随分変わった本を読むのですね」

「自分でもそう思います」

 クララはそれ以上追及しなかった。

 エリーゼが俺の横へ並ぶ。

「ねえ」

「何?」

「どうして、そういうことにすぐ気づくの?」

「すぐじゃないよ」

「でも私は、あの列を何度も見てた」

「うん」

「遅いとは思ってた。でも帳簿の探し方を変えるなんて考えなかった」

「俺は前に似た方法を知ってただけ」

「それでも」

 エリーゼが少し考える。

「面白い」

「俺が?」

「考え方が」

「それ褒めてる?」

「褒めてるわ」

「なら、ありがとう」

 エリーゼが笑う。

 青い瞳が少し細くなる。

 砦で初めて見た時の、年相応の柔らかい笑顔と同じだった。

「でも」

「何?」

「全部アレクが考えたことにされるのは嫌なんでしょう?」

「……何で?」

「昨日、叔父様から会議の話を聞いたから」

「殿下、本当に何でも話すな」

「全部ではないわよ」

「たぶん?」

「たぶん」

 俺は笑った。

「今のも同じだよ」

「同じ?」

「俺は入口を言っただけ。実際に使う形は、あそこで働いている人が決めた方がいい」

「どうして?」

「毎日使う人が『使いにくい』って思うものを作っても意味ないでしょう」

 エリーゼが静かに頷く。

「そういう考え方、好き」

「え?」

 何となく、胸が一瞬だけ変な感じになった。

 だがエリーゼはそのまま続けた。

「上から命令して終わりにするより、ずっといいと思う」

「ああ、そっち」

「何?」

「いや、何でもない」

「変なアレク」

「今日それ何回目?」

 隣でクララが少しだけ笑っている。

 なぜ笑っているのかは聞かないことにした。


 ◇ ◇ ◇


 夕方。

 俺たちは城へ戻る途中、小高い場所へ寄った。

 そこからはアルヴェインブルクをかなり広く見渡すことができた。

「ここ、好きなの」

 エリーゼが言った。

 城壁の内側に広がる街。

 煙突から昇る煙。

 街道を行き交う荷車。

 さらに向こうには畑が広がっている。

 そのすべてが夕陽に照らされていた。

「綺麗だね」

「でしょう?」

「ヴァイスブルクとは全然違う」

「ヴァイスブルクは好き?」

「うん」

 即答してから、自分でも少し驚いた。

「そんなに?」

「最初はそうでもなかったけど」

「今は?」

 俺は遠い西の方角を見る。

「帰る場所って感じがする」

「……」

「ラーデンもそうだけど」

「ラーデン村」

「覚えてた?」

「当然でしょう。最初にアレクがいた村だって聞いたもの」

「殿下から?」

「叔父様からも聞いたし、前にアレク自身からも少し聞いたわ」

「あ、そうだった」

「忘れてたの?」

「色々ありすぎて」

「もう」

 エリーゼが少し笑う。

「いつ戻るの?」

「ヴァイスブルクに?」

「ええ」

「たぶん数日後」

「そんなに早いの?」

 声がほんの少しだけ変わった。

「仕事が残ってるから」

「市場?」

「それも」

「倉庫?」

「それも」

「橋はもう完成したでしょう?」

「よく覚えてるね」

「アレクから聞いたもの」

「ああ、そうか」

 以前の会話を思い出す。

 エリーゼはヴァイスブルクで、橋や市場について話す俺を何度も見ている。

「中央に残りたいとは思わない?」

「うーん」

 少し考える。

 昨日と今日だけでも、大公都には知らないものがいくらでもあった。

 領政会議。

 中央倉庫。

 市場。

 役所。

 もっと知りたいと思う。

 でも。

「また来たいとは思う」

「残るのではなく?」

「今はね」

 その言葉を口にして、以前エリーゼと似た話をしたことを思い出した。

「今は、ヴァイスブルクに戻りたい」

「どうして?」

「途中だから」

「何が?」

「全部」

 市場も倉庫も、商人との新しい仕組みも、橋を渡る物流も、まだ始めたばかりだ。

 結果を見ていない。

「始めただけで、本当に上手くいったのか分からないものがいっぱいあるんだ」

「だから戻る?」

「うん」

「アレクらしいわね」

「そう?」

「途中で放り出したら、ずっと気にしそう」

「……否定できない」

 エリーゼが笑った。

 少ししてから、街へ視線を戻す。

「また来る?」

「アルヴェインブルクへ?」

「ええ」

「殿下が来いって言えば」

「叔父様が言わなかったら?」

 俺はエリーゼを見る。

 青い瞳が、少し期待するようにこちらを向いていた。

「来る理由があれば」

「理由?」

「うん」

 エリーゼが少し考える。

 やがて、どこか楽しそうに笑った。

「なら、私が作っておく」

「何を?」

「アレクがここへ来る理由」

「何それ」

「秘密」

「今言った時点で、何かするのは分かってるけど」

「中身は秘密でしょう?」

「それはそうだけど」

 後ろでクララがため息をついた。

「エリーゼ様」

「何?」

「余計なことを企まないでください」

「企んでないわ」

「そのお顔は、何か企んでいらっしゃいます」

「ひどい」

 エリーゼがまた頬を少し膨らませた。

 大公家の令嬢らしく振る舞っている時との落差が大きい。

 でも。

 何となく可愛いと思った。

「アレク?」

「何?」

「今、何か失礼なこと考えた?」

「何も」

「顔に出てる」

「もう嫌だ、この世界の人」

 エリーゼとクララが笑った。


 ◇ ◇ ◇


 三日後。

 アルヴェインブルクを発つ朝。

 俺は城門前で荷物を馬へ括りつけていた。

「忘れ物は?」

 ゲオルクが聞く。

「ないです」

「書類は?」

「ある」

「ハインリヒ殿から預かったもの」

「ある」

「倉庫長からヨハン殿への手紙」

「ある」

「珍しいな」

「何が?」

「忘れていない」

「普段から忘れてませんよ」

「そうだったか?」

「酷い」

 アルベルトが馬へ乗る。

「出るぞ」

「はい」

 その時だった。

「叔父様!」

 声が聞こえた。

 エリーゼとクララが城から出てくる。

「見送りか」

 アルベルトが言う。

「はい」

「私を?」

「……もちろんです」

「間があったな」

「気のせいです」

 俺は笑いそうになった。

 エリーゼがこちらへ来る。

「アレク」

「何?」

「これ」

 小さな布袋を渡された。

「何?」

「林檎」

「また?」

「旅の途中で食べられるでしょう」

「ありがとう」

「それから」

 エリーゼの声が少しだけ小さくなる。

「また来てね」

「うん」

「本当に?」

「来る理由を作ってくれるんでしょう?」

 エリーゼが一瞬驚いた。

 それから、嬉しそうに笑った。

「覚えてたの?」

「三日前の話だよ」

「そうだけど」

「また来るよ」

「約束?」

 昨日まで何度も交わしてきた、エリーゼらしい言葉だった。

「約束」

「うん」

 エリーゼは満足そうに頷いた。

 クララも俺を見る。

「お気をつけて」

「クララさんも」

「私はどこにも行きませんが」

「……そうだった」

 クララが笑う。

「それでは」

 俺は馬へ乗った。

 アルベルトが先頭へ出る。

「出発!」

 城門が開き、俺たちはアルヴェインブルクを後にした。


 ◇ ◇ ◇


 ヴァイスブルクへ戻る道。

 俺は馬上で今回の旅を思い返していた。

 領政会議で出会ったハインリヒとロタール。

 中央倉庫のバルドゥル。

 大都市の市場。

 取引証明所。

 そして、アルヴェインブルクで再会したエリーゼと、新しく出会ったクララ。

 ヴァイスブルクでやったことが中央へ届き、少しだけ評価された。

 だが、中央へ来たことで逆に分かったことも多かった。

 俺が思いついたことの中には、既に誰かがやっているものもある。

 中央では当たり前でも、地方では使われていないものもある。

 逆に、ヴァイスブルクだから出来たこともあった。

 前世の知識は、確かに俺の強みだ。

 だが、知っているだけでは足りない。

 どこで使うのか。

 誰が使うのか。

 維持できるのか。

 金と人を用意できるのか。

 そこまで考えなければ、知識はただの思いつきで終わる。

「アレク」

 アルベルトの声で顔を上げる。

「はい」

「何を考えている」

「今回のことです」

「そうか」

「殿下」

「何だ」

「俺、中央に残った方が良かったですか?」

 アルベルトは少しだけこちらを見る。

「残りたかったのか?」

「今はヴァイスブルクへ帰りたいです」

「なら、それが答えだ」

「そんな簡単でいいんです?」

「今はな」

 アルベルトは前を見る。

「中央へ来れば大きな仕事ができると思ったか?」

「少し」

「間違いではない」

「でも?」

「大きい仕事が、必ず価値の大きい仕事とは限らん」

「……」

「橋一本でも、それがなければ困る者には大仕事だ」

 俺は完成した橋を思い出した。

「市場の箱一つでも?」

「ああ」

「倉庫の帳簿一冊でも?」

「必要ならな」

 アルベルトが少し笑う。

「ただし」

「何です?」

「いつまでも橋一本で満足するな」

「どっちなんですか!」

「必要なものを見ろと言っている」

「難しいなぁ」

「だから考えろ」

「またそれ」

「お前の得意なことだろう」

 俺は少し笑った。

「最近、そうかもしれません」

「ならいい」

 馬が街道を進んでいく。

 東の大公都は少しずつ遠ざかり、俺たちは西へ向かう。

 ヴァイスブルクへ。

 俺がこの世界で初めて、自分の仕事を持った場所へ。


 ◇ ◇ ◇


 数日後。

 見慣れた城壁が見えた。

「ヴァイスブルク!」

 前を進む騎士が声を上げる。

「戻った……」

 アルヴェインブルクより小さい。

 城壁も低い。

 街道を行く荷車も少ない。

 それでも、なぜか安心した。

 城門へ近づく。

「大公殿下!」

 門兵が声を上げる。

 ギギギギ……。

 門が開く。

 その向こうに、見慣れた街が広がった。

「アレク!」

 聞き慣れた声がした。

「トーマス?」

「帰ってきたか!」

「ただいま」

「中央どうだった?」

「でかかった」

「何が?」

「全部」

「分かんないよ」

「俺も最初そう言った」

 二人で笑う。

 少し離れたところにはヨハンもいた。

「アレク殿」

「はい」

「お帰りなさい」

「ただいま」

「中央倉庫の件は?」

「手紙あります」

「領政会議は?」

「色々ありました」

「報告は?」

「……」

「当然あります」

「帰ってきたばかりですよ?」

「今日は休んで構いません」

「本当?」

「明日の朝までに」

「休みじゃない!」

 ヨハンが少し笑う。

 これも懐かしい。

 その向こうには市場があり、荷車が行き交っている。

 さらに先には商人たちがいて、橋へ続く街道が伸びている。

 出発する前と同じように見える。

 でも、少し違って見えた。

 たぶん、変わったのは街だけではない。

 俺自身も、ほんの少しだけ変わったのだろう。


 ◇ ◇ ◇


 その夜。

 俺は城壁の上からヴァイスブルクを見ていた。

 遠くの市場には、まだいくつか灯りが残っている。

 橋を渡ってきたらしい荷車が城門へ入っていき、倉庫では人影が動いていた。

 アルヴェインブルクと比べれば、本当に小さな街だ。

 それでも、ここで始めたことが中央へ届いた。

 市場税を少し変えた。

 基準容器を置いた。

 商人たちと話した。

 橋を架けた。

 帳簿を見直した。

 どれも世界を一度に変えるようなものではない。

 けれど、それによって少しずつ人が動き、物が動き、考え方まで動き始めた。

 そして中央では、俺がヴァイスブルクで試したやり方を参考に、中央の人たちが自分たちに合った方法を考え始めている。

 俺の考えをそのまま使うのではない。

 中央にいる人間が、中央で使える形へ変える。

 たぶん、それでいい。

「種……か」

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 種を蒔いたからといって、全部が芽を出すわけではない。

 土地が合わないこともあれば、水が足りないこともある。途中で枯れてしまうことだってあるだろう。

 それでも、一つでも芽を出せば、そこからまた何かが変わるかもしれない。

 戦場で剣を振ることだけが、乱世を生きる方法ではない。

 橋を架けることも、市場を整えることも、帳簿を一冊変えることも、誰かの暮らしを守る力になる。

 ヴァイスブルクで領政の仕事に携わるようになって、俺はそれを初めて知った。

 もちろん、乱世が終わったわけではない。

 西にはベルン伯爵がいる。

 さらにその向こうでは、レオンハルト・フォン・グランヴァルトとシュヴァルツ伯の争いも続いている。

 そしてマティアス・クレーマーも、俺より遥かに大きな場所で何かを始めている。

 俺がこのままヴァイスブルクにいられるのかも分からない。

 それでも今は、目の前にあることをやればいい。

 知っていることを使い、知らないことは知っている人に聞く。

 間違えたなら直す。

 それを繰り返せばいい。

「さて」

 俺は城壁から離れた。

「明日、ヨハンさんに何から怒られるかな」

 中央へ行っても。

 領政会議で名前を知られても。

 エリーゼと次の約束を交わしても。

 明日になれば、また帳簿と市場と倉庫が待っている。

 今は、それでいいと思った。

 ヴァイスブルクで蒔いた小さな種は、ようやく芽を出し始めたばかりなのだから。


 第二篇 乱世に蒔く種――了。

第二篇「乱世に蒔く種」、これにて完結です。


第一篇では、アレクは戦場で生き残るために考え、剣を振り、アルベルトのもとで乱世の厳しさを知っていきました。


第二篇で描いたのは、その戦いの先にあるものです。


戦が終われば、壊れた街が残ります。


人が傷つき、商いが止まり、橋が壊れ、倉庫や財政にも負担が残る。


だから、勝っただけでは終わりません。


市場を立て直し、商人を呼び戻し、橋を架け、帳簿を見直し、人と物をもう一度動かしていく。


アレクはこの第二篇で、剣とは違う形でも人を守れることを知りました。


同時に、自分の知識だけですべてを解決できるわけではないことも学びました。


職人には職人の知識がある。

商人には商人の事情がある。

役人には役人の経験がある。


そして中央には、ヴァイスブルクにはない仕組みや積み重ねがあります。


アレクが持つ前世の知識は強みです。


けれど、本当に役立つ形へ変えるには、この世界で生きてきた人たちの知識と経験が必要になります。


今回のアルヴェインブルクでは、そのことを改めて知ることになりました。


そして、エリーゼとの関係にも少し変化がありました。


第二篇第一話で出会った時には、アルベルトを心配する姪としての顔や、大公家の令嬢でありながら年相応に頬を膨らませる姿を見せていたエリーゼ。


今回は、亡き父から教えられたことを胸に、民の暮らしを知ろうと市場へ足を運ぶ一面も描きました。


アレクとエリーゼ。


立場も育った環境も違います。


けれど、二人とも「目の前にいる人々を知ろうとする」という部分では、少し似たところがあるのかもしれません。


アルヴェインブルクを離れる時、二人はまた会う約束を交わしました。


それが今後どのような意味を持つのか。


そして新たに出会ったクララが、これからどのように二人へ関わっていくのか。


それはまだ先の話です。


今のアレクが戻るのは、ヴァイスブルク。


市場も、倉庫も、橋を通る物流も、まだ始めたばかりです。


そこで蒔いた小さな種は、ようやく芽を出し始めました。


けれど、乱世はまだ続いています。


西ではベルン伯爵が動き、その先ではレオンハルト・フォン・グランヴァルトとシュヴァルツ伯の争いが続く。


そしてマティアス・クレーマーもまた、別の場所で大きな流れを作り始めています。


アレクが次に立つ場所は、再び戦場なのか。


政治の場なのか。


それとも、まったく別の場所なのか。


第三篇では、第二篇で蒔いた種を抱えたアレクが、さらに大きな乱世の流れへ踏み込んでいきます。


第二篇「乱世に蒔く種」。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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