第十四話 芽吹くもの
家政評議会を終えたアレクは、中央倉庫で三か月間の試験を動かし始めます。
午後はエリーゼたちと大公都の市場を歩き、それぞれが違う視点から人々の暮らしを見ていることを知ります。
家政評議会が開かれた翌朝、アレクがアルベルトの執務室を訪れると、机の上には昨日より多くの書類が積まれていた。
「……大公都へ戻りたくなかった理由が分かりました」
「何がだ」
「その書類です」
「見るな」
「これだけ積まれていれば、嫌でも見えます」
机の端には三つの山ができている。アルベルトが一枚を読み終える間にも、文官が新しい書類を運び込んできた。
「これで全部ですか?」
「別室にもある」
「ヴァイスブルクへ帰りましょう」
「俺もそうしたい」
「本気だった」
アルベルトは署名した書類を脇へ置き、アレクへ視線を向けた。
「昨日決まった倉の試験について、ハインリヒから聞いているな」
「大公都の軍用倉一棟で、小麦と矢を三か月調べる話ですよね」
「ああ。今日から準備を始める」
「もうですか?」
「評議で決めたことを、書面へ残しただけで終わらせるつもりか」
「そういうわけではありません」
「なら、実際にどう使われるか見てこい」
アルベルトは机の上から一枚の書状を取り、アレクへ差し出した。
「中央倉庫長への書状だ。ハインリヒが倉まで案内する」
「アルベルト様は?」
「ここにいる」
書類の山が指先で示された。
「説得力がありますね」
「余計なことを言っている暇があるなら、早く行け」
「はい」
アレクが書状を受け取ると、アルベルトは再び書類へ目を落とした。
これで話は終わりらしい。
アレクが扉へ向かうと、その背中へ声が掛かった。
「午後はエリーゼと街へ出るそうだな」
振り返ると、アルベルトは書類を読んだままだった。
「どうして知っているんですか?」
「本人が朝から言いに来た」
「随分早いですね」
「楽しみにしているようだったぞ」
「そうなんですか?」
思わず聞き返したアレクを、アルベルトが書類越しに見る。
「嫌なのか?」
「嫌ではありません。ただ、大公家の令嬢が自分で街を案内するのは普通なのかと思っただけです」
「普通ではないな」
「やっぱり」
「だからゲオルクと護衛を付ける」
「俺が気にしているのは、そこではありません」
「では、何を気にしている」
聞かれてみると、自分でもうまく説明できなかった。
エリーゼと街を歩くことが嫌なわけではない。むしろ、アルヴェインブルクを案内してもらえることは楽しみだった。
ただ、そのことをアルベルトに知られているのが、少し落ち着かない。
「……倉へ行ってきます」
「そうしろ」
背後から小さな笑い声が聞こえたが、アレクは振り返らずに執務室を出た。
◇ ◇ ◇
アルヴェインブルクの中央倉庫は、城壁内の北東区画にあった。
高い石壁に囲まれた敷地の中へ、同じような大きさの建物が何棟も並んでいる。穀物を積んだ荷車が門を通り、空になった荷車が別の出口から出ていく。その間を、袋や木箱を抱えた作業員が絶えず行き来していた。
「穀物だけでも六棟ある」
先を歩くハインリヒが説明した。
「軍用、救荒用、城内で消費する分に分けて保管している」
「同じ小麦でも倉を分けるんですね」
「使う目的が違う。すべてを同じ場所へ置けば、必要な時にどれを出してよいか分からなくなる」
ヴァイスブルクの倉とは規模が違った。
量が増えれば、建物を大きくするだけでは済まない。保管する目的、出し入れを許可する者、帳簿をつける者まで分けなければ、人も物も動かなくなる。
ハインリヒは敷地の奥にある建物の前で足を止めた。
「バルドゥル」
呼び掛けに応じ、腰へ鍵束を下げた男が近づいてきた。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、灰褐色の髪には白いものが混じっている。
「議長。そちらが昨日の少年ですか」
「ああ。アレク・ハルトマンだ」
「アレクです。よろしくお願いします」
「バルドゥル・ケラー。ここの倉庫長を任されている」
差し出された手を握ると、硬い感触が返ってきた。帳簿を見るだけではなく、自分でも荷を扱うことがあるのだろう。
アレクはアルベルトから預かった書状を渡した。
バルドゥルは封を確かめてから開き、短い文面へ目を通す。
「昨日のうちに、評議からも書状が届いた。軍用倉の一棟で、小麦と矢を調べると聞いている」
「はい。三か月だけ試します」
「その間、毎月一度、帳簿と現物を照らし合わせる。作業に使った人数と時間も記録する」
「そこまで決まっているなら、俺から新しく説明することはなさそうですね」
「目的までは聞いている。だが、どのような紙へ記録するかは決まっていない」
バルドゥルが巻いた紙を一本、アレクへ渡した。
開いてみると、倉の中へ運び込まれた小麦と、兵や城内の施設へ渡した量が日付ごとに記されている。
「普段使っている帳簿だ。ここへ新しい項目を増やせばよいのか?」
「少し待ってください」
アレクは帳簿と周囲で働く者たちを交互に見た。
大きな帳簿は、倉の出入りを記録するためのものだ。その余白へ確認作業の結果まで書き込めば、普段の記録が読みづらくなるかもしれない。
「別の紙にした方がいいと思います」
「理由は?」
「これは毎日の出入りを残す帳簿ですよね。試験の記録を混ぜると、どちらを見ているのか分かりにくくなります」
「紙が増えるぞ」
「三か月分だけです。それに、上手くいかなければ試験を終わらせると決めています。終わった後も、使わない記録欄が帳簿へ残るのは邪魔になるでしょう」
バルドゥルは帳簿を見下ろし、近くにいた書記を呼んだ。
「帳簿と同じ大きさの紙を三枚用意しろ」
「三枚だけですか?」
「まず一枚だ。書き方を決めてから残りを作る」
書記が倉の脇にある小部屋へ向かう。
ハインリヒは二人のやり取りを見届けると、踵を返した。
「俺は城へ戻る」
「もうですか?」
「評議は昨日で終わりではない。決まったことを動かすための仕事が残っている」
「皆、同じことを言いますね」
「何の話だ」
「いえ、何でもありません」
ハインリヒはバルドゥルへ試験を任せ、その場を離れた。
残されたアレクは、倉庫長に案内されて建物の中へ入った。
扉の向こうには、乾いた麦と麻袋、古い木材の匂いが満ちていた。窓は小さく、外の光はあまり入らない。壁際には小麦の袋が積まれ、中央には人と荷が通るための空間が空けられている。
「第一穀物庫だけで、一万を超える袋がある」
「それを毎月全部開けて調べるわけではありませんよね」
「そんなことをすれば、確認している間に冬が来る」
バルドゥルは倉の奥へ進み、木で作られた大きな容器を示した。
「一袋へ入れる小麦は、この容器で量る。中央では昔から同じ大きさのものを使っている」
ヴァイスブルクの市場へ置いた標準箱と、役割は似ている。
もっとも、こちらでは売り手と買い手の争いを防ぐためではなく、大公家の倉へ入れる量を揃えるために使われていた。
「ヴァイスブルクでも似たものを作ったそうだな」
「市場で穀物を売買するための箱です。ただ、中央に同じ考え方があるとは知りませんでした」
「大公都を何だと思っていた」
「何でも俺たちより進んでいる場所です」
「間違ってはいない」
バルドゥルは容器の縁へ手を置いた。
「だが、同じ容器を使っても、袋の重さは必ずしも揃わん。湿気を吸うこともあれば、袋が破れて中身がこぼれることもある。鼠に食われることもある」
「帳簿上の袋数だけでは、中身まで分からない」
「そういうことだ」
「では、袋の数と一緒に、いくつか重さも確かめますか?」
「すべて量るのか?」
「それは無理です」
アレクは積まれた袋を見上げた。
一万を超える袋を毎月秤へ載せれば、倉の仕事そのものが止まってしまう。
「場所を分けて、そこから何袋か選んで量るのはどうでしょう」
「どこを選ぶ」
「入口に近い場所と、奥。それから壁際と中央です」
「湿気や鼠の被害が出やすい場所を含めるのか」
「はい。ただ、俺がこの倉を見たのは今日が初めてです。どこを見れば状態の違いが分かるかは、バルドゥルさんが決めてください」
「自分の案を出しておいて、最後は俺へ任せるのか」
「ここで毎日働いている人より、俺の方が正しく選べるとは思えません」
バルドゥルは何も答えず、積まれた袋へ目を向けた。
しばらくして、入口から見て右奥の一角を指す。
「あそこは北側の壁に近い。冬になると湿気が残りやすい」
次に、通路脇の袋を示す。
「こちらは出し入れが多い。袋が破れるとすれば、この周辺だ」
「では、その二か所と、状態が安定している場所を一か所選びましょう」
「悪い場所だけを見れば、倉全体に問題があるように見えるからか」
「はい。逆に、良い場所だけ見ても意味がありません」
バルドゥルは近くにいた倉番を呼び、三か所から五袋ずつ選ぶよう命じた。
全部で十五袋。
それでも、袋を積み直し、秤へ載せ、中身の状態を確かめるには時間が掛かる。
「今回選んだ場所と袋には印をつける」
「次も同じ袋を見るんですか?」
「動かされていなければな。同じものを見た方が、三か月の間に変化したか分かる」
「出庫された場合は?」
「その時は別の袋を選び、替えた理由を記録する」
アレクが思いつかなかった部分を、バルドゥルが補っていく。
やはり、実際の運用は現場を知る者へ任せた方がよい。
小麦の袋を選んだ後、二人は矢を保管している区画へ移った。
棚には、十本ずつ紐で束ねられた矢が並んでいた。矢の種類と納められた時期ごとに置き場が分けられ、棚の端には木札が掛けられている。
「帳簿上は、この木札の数と矢束の数を合わせている」
「実際には違うことがあるんですよね」
「訓練で急に必要になり、後で記録しようとして忘れる。折れた矢の代わりを別の束から抜く。矢羽を直すため、職人へ持っていく。理由はいくらでもある」
「盗まれることも?」
「ないとは言わん。だが、数が合わないからといって、すべて盗難だと決めれば倉番が何も報告しなくなる」
不足を見つけることと、誰かを疑うことは同じではない。
アレクは棚の前へ立ち、木札と束を順に見比べた。
帳簿には百二十束と記されている。一束が十本なら、千二百本だ。
倉番たちが数え始める。
初めのうちは木札と実数が合っていた。しかし、棚の奥にある束を調べると、紐だけが残された場所が一つ見つかった。
「これは?」
バルドゥルが倉番へ尋ねる。
「三日前、訓練場から追加を求められました」
「帳簿にはない」
「戻った後に書くつもりで……」
倉番の声が小さくなる。
バルドゥルは叱責する前に、アレクへ視線を向けた。
「こういうことだ」
「はい」
見つかった不足は十本だった。
盗まれたのではなく、兵へ渡した記録が抜けている。
それでも、記録されていなければ、後から見た者には理由が分からない。
「この試験は、間違えた人を処罰するためのものではありません」
アレクが言うと、倉番が顔を上げた。
「記録が抜けた理由を知り、抜けにくい方法を考えるためです。ただ、同じことを繰り返してよいという意味でもありません」
「申し訳ありません」
「俺ではなく、倉庫長へ報告してください」
バルドゥルは倉番へ、訓練場へ渡した日と受け取った者を思い出せる範囲で書くよう命じた。
「渡す時に忙しかったのか」
「訓練場からの使いが、急いでいると言いまして」
「記録する者はいたか」
「その時は、俺一人でした」
荷を渡す者と帳簿を書く者が同じなら、急いでいる時ほど記録が後回しになる。
だが、常に二人を置けば人手が増える。
「渡した数だけ、その場で木札へ線を引くのはどうですか?」
アレクは棚の端に掛けられた札を指した。
「名前や理由まで書くのは後でも、十本出したことだけ残せます」
「線ならすぐに引けるな」
「帳簿へ書いた後、木札の線を消します。線が残っていれば、まだ帳簿へ移していないと分かります」
バルドゥルは木札を手に取り、表と裏を確かめた。
「新しい帳簿を増やすよりはましだ」
「まず、この棚だけで試してください」
「すべての棚で始めないのか」
「使いにくければ、木札と帳簿の両方が間違います」
「慎重だな」
「ヴァイスブルクで、いきなり変えて何度か失敗しましたから」
「何をした」
「色々です」
詳しく話せば長くなる。
バルドゥルも追及せず、書記へ試験用の紙を作らせた。
紙には、帳簿上の数、実際にあった数、差が生じた理由、作業に使った人数と時間を記す欄が設けられた。小麦については、選んだ十五袋の場所と重さ、湿気や破損の有無も残す。
誰が確認するか。
作業中に荷が出入りした場合はどうするか。
差を見つけた時、どの程度まで理由を調べるか。
細かな部分は、アレクではなくバルドゥルと倉番たちが決めた。
昼を知らせる鐘が鳴る頃、ようやく最初の確認が終わった。
「どうでした?」
アレクが尋ねると、バルドゥルは完成した一枚目の記録を見下ろした。
「続けられないほどではない」
「役に立ちそうですか?」
「まだ一度目だ。三か月後に聞け」
「そうですよね」
「だが、矢が十本足りない理由は見つかった」
「それだけでも、やった意味はあったと思います」
「そう判断するには早い」
厳しい答えだったが、バルドゥルは試験用の紙を捨てようとはしなかった。
「次は一か月後だ。それまでに、普段の仕事を止めずに続けられるよう倉番たちと話しておく」
「お願いします」
「お前も来るのか?」
「その頃には、ヴァイスブルクへ戻っていると思います」
「なら、結果は評議を通して送る」
「俺にも?」
「始めた者が、途中で何が起きたか知らずに済ませるつもりか」
「ありません」
「なら読め」
バルドゥルは記録を丸め、書記へ渡した。
アレクが中央へ持ち込んだのは、完成した仕組みではない。
ヴァイスブルクで使った方法をそのまま写したわけでもない。
倉で働く者と話し、大公都で続けられる形へ作り替えた。
それが本当に役立つかは、まだ分からない。
けれど、試すための一歩は動き始めていた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、アレクはアルヴェイン城の正門近くでエリーゼを待っていた。
傍らにはゲオルクが立ち、少し離れた場所では四人の護衛が周囲を見張っている。
「遅いですね」
「まだ約束の時刻にはなっていない」
「そうでしたか?」
「お前が早く来ただけだ」
「倉の仕事が早く終わったので」
「それだけか」
「それだけです」
ゲオルクは何も言わなかったが、わずかに笑っている。
「何です?」
「何も言っていない」
「顔が言っています」
「誰かに似てきたな」
「アルベルト様ですか?」
「そうかもしれん」
その時、城の方から聞き慣れた声がした。
「アレク!」
エリーゼとクララが、こちらへ向かって歩いてくる。
エリーゼは白に近い薄緑色のドレスを着ていた。城内で身につけていたものより装飾が少なく、裾も歩きやすい長さに整えられている。淡い金色の髪は後ろで緩くまとめられていた。
その隣を歩くクララは、襟と袖へ銀糸の刺繍が入った濃紺のドレスを身につけている。栗色の髪は片側を編み込み、後ろで留められていた。
「お待たせしました」
エリーゼがアレクの前で足を止める。
「少し待ちました」
「そこは待っていないと言うところではないのですか?」
「ゲオルク様にも同じことを言われました」
「なら、二人とも同じ意見ですね」
「二人とも嘘を勧めていますよ」
クララが顔を背けた。その肩が僅かに揺れている。
「クララ、笑いましたか?」
「いいえ」
「今、絶対に笑いました」
「少しだけです」
エリーゼは不満そうに言ったが、自分も笑っていた。
「それで、どこへ行くんですか?」
「まずは市場です」
「昨日もそう言っていましたね」
「覚えていたのですね」
「三日前のことまで忘れる人だと思われています?」
「時々、仕事以外のことが抜けていそうに見えます」
「否定しにくいな……」
エリーゼを中心に、クララとアレクが並ぶ。その前後をゲオルクと護衛たちが固め、一行は城を出た。
◇ ◇ ◇
アルヴェインブルクの中央市場は、昨日通った大通りよりも賑わっていた。
広い一角を埋めるように露店が並び、野菜、果物、パン、肉、魚、布、革製品、陶器が売られている。店主の呼び込みと客の声が重なり、荷車の車輪や家畜の鳴き声まで混じっていた。
人が多いため、アレクたちは歩く速度を落とした。
「ヴァイスブルクの市場とは、扱っている物の種類が違いますね」
「南方から来た香辛料や、北の毛皮もあります」
エリーゼが並んだ店を指しながら説明する。
「エリーゼ様は、店の場所まで覚えているんですね」
「何度も来ていますから」
「一人で?」
「まさか。クララや護衛と一緒です」
「安心しました」
「何を心配していたのですか?」
「大公家の令嬢が、一人で市場を歩いているところを想像しました」
「そこまで無茶はしません」
言葉を聞いたゲオルクが、後ろから小さく咳払いした。
エリーゼは振り返らなかった。
「少なくとも、今日はしません」
「今日は?」
「細かいことを気にしすぎです」
一行が果物を扱う区画へ入ると、クララが一軒の店を示した。
「エリーゼ様。あちらです」
木箱の中に赤い林檎が並んでいた。
それを見た途端、エリーゼの青い瞳が僅かに輝く。
「林檎が好きなんですか?」
「好きです。悪いですか?」
「まだ何も言っていません」
「笑っています」
「分かりやすかったので」
店へ近づくと、店主はエリーゼたちの後ろにいる護衛へ気づき、慌てて背筋を伸ばした。
「い、いらっしゃいませ」
「そんなに緊張しなくても大丈夫です」
「はい!」
エリーゼが声を掛けたものの、店主の緊張は強くなったように見えた。
「林檎を三つください」
店主は木箱の中から、傷の少ない林檎を慎重に選び始めた。
「三つですか?」
「私とクララとアレクの分です」
「俺も頂いていいんですか?」
「一人だけ食べないつもりですか?」
「では、頂きます」
エリーゼが腰へ下げた小さな財布を取り出した。
その様子を見たクララが止めようとしたが、エリーゼは得意そうに財布を開く。
「今日は自分で払えます」
「中を確認してもよろしいですか?」
「もちろんです」
財布の中を見たクララが、静かに息を吐いた。
「大銀貨しか入っていません」
「……これでは駄目ですか?」
「林檎を三つ買うには大きすぎます。店主が釣り銭を用意できません」
店主は困ったように二人を見ている。
アレクが堪えきれず笑うと、エリーゼの頬が赤くなった。
「笑いましたね」
「少しだけです」
「クララと同じことを言わないでください」
「大公家の令嬢なら、値段を見ずに何でも買えるのかと思っていました」
「私だって、自分で買い物くらいできます」
「今日はできていません」
「アレク」
「はい」
「少し黙っていてください」
結局、クララが小銭で代金を払い、三人分の林檎を受け取った。
アレクが一口かじると、硬い果肉から甘酸っぱい汁が広がった。
「おいしいですね」
「この店の林檎は甘いのです」
「エリーゼ様が作ったような言い方ですね」
「私が選んだ店です」
「選んだのはクララさんでは?」
エリーゼは何も答えず、林檎をかじった。
その様子を見ていたクララが、声を立てずに笑っている。
城の中で見せる大公家の令嬢としての姿とは違う。
市場で林檎を買おうとして小銭がなく、クララに助けられる。そんな年相応の姿を見られることが、アレクには少し嬉しかった。
市場を進むうちに、エリーゼが思っていた以上に店のことを知っていると分かった。
北方の商人が集まる場所。
職人組合が管理する建物。
肉を扱う区画と、魚を扱う区画。
日用品を売る店が多い通り。
商品を見るだけではない。エリーゼは店先に掲げられた値札を確かめ、時にはクララへ先月の価格を尋ねていた。
「本当によく来るんですね」
「ええ」
「林檎を買うためだけではなかったんですか?」
「それも楽しみの一つですが、値段を見るためでもあります」
「何の値段です?」
「パン、麦、塩、薪です。暮らすために必要なものを見ます」
アレクは少し意外に思い、エリーゼの横顔を見た。
「どうしてですか?」
「冬を前に麦や薪が高くなれば、最初に困るのは余裕のない人たちでしょう」
エリーゼはパン屋の前へできた列を見ながら歩いている。
「城の中にいれば、食事がなくなることはほとんどありません。でも、町で暮らす人たちは違います」
「誰かに教わったんですか?」
「父様です」
エリーゼの声が少しだけ柔らかくなった。
「父様が生きていた頃、よく市場へ連れてきてもらいました。民が何を食べ、何に困っているかを知らない者に、民を治めることはできないと」
「先代大公世子様が?」
「はい。最初は何を見ればよいのかも分かりませんでした。珍しい布や飾りばかり見て、何度も叱られました」
懐かしむような笑みには、僅かな寂しさが混じっていた。
「父様が亡くなった後も、できるだけ市場へ来ています。今でも、何を見ればよいのか分からなくなることはありますが」
「それでも、見ないよりはいいと思います」
「アレクもそう思いますか?」
「はい。俺もヴァイスブルクへ来た頃は、荷車が何を運んでいるかなんて気にしていませんでした」
「今は?」
「何がどこから来て、どこへ向かうのかを見るようにしています。麦が減ったなら、収穫が悪かったのか、道が壊れたのか、商人が別の町へ向かったのか。見ただけで答えは分かりませんが、何かが変わったことには気づけます」
「叔父様が言っていたとおりですね」
「アルベルト様は、何と言っていたんですか?」
「アレクは物を見ると、その後ろに何があるか考え始める、と」
「褒めています?」
「半分は」
「残りの半分は?」
「考え始めると、周りが見えなくなるそうです」
「そちらが本題だった気がします」
エリーゼが楽しそうに笑う。
アレクもつられて笑いながら、再び市場へ視線を向けた。
同じ場所を歩いていても、見ているものは違う。
アレクは荷と人の流れを見ている。
エリーゼは人々が暮らすために必要な物の値段を見ている。
どちらか一方が正しいのではない。
違うものを見る二人が話せば、一人では気づけない変化を知ることができる。
「今度、ヴァイスブルクの市場も見ますか?」
アレクが尋ねると、エリーゼは目を丸くした。
「案内してくれるのですか?」
「アルベルト様の許可が出れば」
「叔父様なら、きっと許してくださいます」
「どうして分かるんです?」
「私がお願いすればよいからです」
「随分自信がありますね」
「叔父様の姪ですから」
胸を張るエリーゼを見て、アレクはまた笑った。
◇ ◇ ◇
市場の一角で、アレクは小さな役所の前にできた行列へ気づいた。
並んでいるのは、大きな鞄や書類入れを持った商人たちだった。
「あれは何ですか?」
「取引証明所です」
クララが答えた。
「遠方から来た商人が大口の取引を行う際、身元や扱う品を確かめてもらう場所です」
建物の中へ一人の商人が入り、しばらくしてから出てくる。次の者が入っても、列はほとんど進まない。
「いつも、あれくらい並ぶんですか?」
「人が多い日は、もっと長くなります」
エリーゼは何度も見ているらしい。
「商人から不満は出ないんですか?」
「出ています。ただ、確認を減らして身元の分からない商人を通すわけにもいきません」
時間が掛かるからといって、必要な手続きをなくすことはできない。
アレクは、商人が入ってから出てくるまでの時間を見ていた。
「中を見てもいいですか?」
「また何か気になったのですか?」
「どうして時間が掛かるのか知りたいだけです」
エリーゼが護衛へ声を掛け、取引証明所の役人へ確認してもらった。
中へ入ると、二人の役人が机に向かっていた。その背後の棚には、分厚い帳簿が何冊も並んでいる。
商人から名前を聞く。
一冊目を開き、記録を探す。
見つからなければ二冊目を開く。
それでも見つからず、さらに別の帳簿を取り出す。
ようやく過去の登録を見つけると、今度は持ち込んだ商品の書類と照らし合わせる。
「登録された商人は、どのような順番で書かれているんですか?」
商人の確認が終わるのを待ち、アレクは役人へ尋ねた。
「登録した順です」
「帳簿は何冊あります?」
「現在使っているものだけで十二冊です」
「同じ商人が来るたびに、十二冊から探すんですか?」
「頻繁に来る商人なら、どの帳簿に載っているか覚えております。初めて担当する者や、何年も訪れていない商人の場合は探します」
前世なら、名前を入力して探せば済む。
だが、この世界にあるのは紙へ手書きされた帳簿だ。それなら、紙の中から探しやすくする方法を考えるしかない。
「名前と帳簿の場所だけを書いた、別の帳簿を作れませんか?」
「同じ記録を二度書くのですか?」
「全部ではありません。名前と、どの帳簿のどこに載っているかだけです」
アレクは紙と筆を借り、簡単な例を書いた。
『麦商人ベルガー 第四帳 百二十七』
「このような形です。先に名前をここで探せば、最初から第四帳だけを開けます」
「しかし、その帳簿から名前を探す時間は変わらないのではありませんか?」
「文字を習う時、決まった順番がありますよね」
「あります」
「その順番に合わせて、最初の文字ごとに名前を分けます。同じ文字で始まる名前が多ければ、二文字目でも分けられます」
役人はアレクが書いた紙を持ち上げ、しばらく眺めた。
「登録した順に書くよりは、探す場所を絞れます」
「ただし、最初から全員分を作るのは大変です」
「数千人分ありますからな」
「新しく登録する商人から始めるか、最近よく来る人だけをまとめて試すのはどうでしょう」
「一冊だけ作るということですか?」
「はい。本当に早くなると分かってから、古い記録も移せばいいと思います」
話していると、後ろからクララの声がした。
「街を案内していたはずなのですが」
振り返ると、クララが呆れたようにアレクを見ている。
「何の話です?」
「市場を歩いていただけなのに、いつの間にか役所の帳簿を増やしています」
エリーゼも机の上の紙とアレクを交互に見た。
「本当ですね」
「増やしたいわけではありません。行列を短くできないか考えただけです」
「叔父様の言っていたとおりです」
「またアルベルト様ですか?」
「放っておくと、どこへ行っても仕事を増やす、と」
「自分の仕事まで増やしているわけではありません」
「後で報告を求められるのではありませんか?」
「……増えていますね」
役人まで笑い始めた。
アレクは紙を机へ戻す。
「俺が決める話ではないので、まず上役と相談してください。試すなら、新しく登録された商人だけで十分です」
「分かりました。記録の移し間違いが起きないかも含め、確かめてみます」
役人が紙を受け取る。
取引証明所を出ると、先ほどより行列が長くなっていた。
「すぐには変わらないでしょうね」
アレクが呟く。
「どうしてです?」
エリーゼが尋ねた。
「新しい帳簿を作るにも人が必要です。作っている間、普段の確認を止めるわけにもいきません。それに、書き間違えれば別の商人の記録を開いてしまいます」
「では、役に立たないのですか?」
「まだ分かりません。あそこで働く人たちが試して、今より早くなるか確かめる必要があります」
「アレクは、すぐに使わせようとはしないのですね」
「昔は、思いついたらすぐに変えた方がいいと思っていました」
「今は違うのですか?」
「使う人が困る方法では、長く続かないと分かってきました」
エリーゼは数歩進んだ後、アレクの顔を見た。
「そういう考え方は、好きです」
「え?」
不意に言われ、アレクは足を止めそうになった。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「いえ。ただ、急だったので」
「上から命じて終わりにせず、使う人の話を聞くところがよいと思っただけです」
「ああ、そちらですか」
「ほかに何があるのです?」
「何もありません」
エリーゼは不思議そうに首を傾げた。
隣にいるクララは、何かに気づいたように口元を緩めている。
理由を尋ねれば余計に困る気がして、アレクは行列へ視線を戻した。
◇ ◇ ◇
日が傾き始める頃、一行は市場から城へ戻る途中にある小高い丘へ立ち寄った。
そこからは、アルヴェインブルクの町を広く見渡すことができた。
城壁の内側には石造りの家々が並び、煙突から夕餉の支度をする煙が昇っている。街道では荷車が列を作り、その向こうには畑や牧草地が広がっていた。
「私は、この場所が好きです」
エリーゼが言った。
「町がよく見えるからですか?」
「それもあります。城の中にいる時より、ここへ来た方が、多くの人が暮らしていることを感じられます」
アレクも町を見下ろした。
大公国の中心であり、ヴァイスブルクより遥かに大きな町だ。
建物も、倉も、商人も多い。
けれど、大きいから何でもできるわけではない。
人と物が多い分、動かすために必要な仕事も増える。
「ヴァイスブルクとは全然違いますね」
「ヴァイスブルクは好きですか?」
「はい」
ほとんど考えずに答えていた。
自分でも少し驚いたが、言い直す必要はないと思った。
「最初から?」
「最初は、そうでもありませんでした」
戦の後に連れていかれ、何をすればよいのかも分からないまま働き始めた。
市場を歩き、帳簿を読み、橋の工事に関わった。
失敗もした。ヨハンに叱られ、職人や商人へ教えられた。
「今は、帰る場所という感じがします」
「ラーデン村ではなく?」
「ラーデン村もです。ただ、ヴァイスブルクには、俺の仕事があります」
「市場や倉ですか?」
「橋もあります」
「橋は、もう完成したのでしょう?」
「完成しても、終わりではありません。どれくらい荷車が通るようになったか、壊れた場所はないか、新しい通行税を取らなくても維持できるか。見なければならないことが残っています」
「やはり仕事の話になるのですね」
「聞いたのはエリーゼ様ですよ」
「そうでした」
エリーゼは小さく笑った。
「いつ、ヴァイスブルクへ戻るのですか?」
「数日後だと思います」
「そんなに早く?」
声が僅かに沈んだ。
アレクが隣を見ると、エリーゼは町へ視線を向けたままだった。
「中央倉庫の試験は、こちらの人たちが進めてくれます。家政評議会へ報告する仕事も終わりましたから」
「アルヴェインブルクに残りたいとは思いませんか?」
知らないものは、まだいくらでもある。
中央倉庫の仕組みも、家政評議会で話し合われていた問題も、アレクが知ったのはほんの一部にすぎない。
ここに残れば、ヴァイスブルクでは関われない大きな仕事もできるかもしれない。
それでも、今すぐ残りたいとは思わなかった。
「また来たいとは思います」
「残るのではなく?」
「今は、ヴァイスブルクへ戻りたいです」
「どうしてです?」
「途中だからです」
「何が?」
「市場も、倉も、橋もです。始めただけで、本当に上手くいったのか分からないことが残っています」
結果を見ずに別の仕事へ移れば、失敗していても気づけない。
アレクが離れた後も続く仕組みにするなら、なおさら見届ける必要がある。
「途中で放り出せば、ずっと気にしていそうですね」
「否定できません」
「アレクらしいです」
エリーゼはそう言ってから、少し間を置いた。
「また来てくれますか?」
「アルヴェインブルクへ?」
「はい」
「アルベルト様に呼ばれれば」
「叔父様が呼ばなかったら?」
青い瞳が、答えを待つようにアレクへ向けられる。
「来る理由があれば」
「理由ですか」
エリーゼは少し考え、やがて楽しそうに笑った。
「では、私が作ります」
「何をです?」
「アレクがここへ来る理由です」
「どんな理由ですか?」
「まだ秘密です」
「何も決まっていないのでは?」
「これから考えます」
正直な答えに、アレクは笑った。
「分かりました。楽しみにしています」
「きっと来たくなる理由を作ります」
少し離れた場所で、クララがため息をついた。
「エリーゼ様。あまり無理なことを企まないでください」
「企んでいません」
「そのお顔は、何かを企んでいる時のお顔です」
「ひどいですね」
頬を膨らませたエリーゼは、大公家の令嬢というより、ごく普通の少女に見えた。
それを可愛いと思ったことは、口にしない方がよい。
「今、何か考えましたね」
「何も考えていません」
「顔に出ています」
「この世界の人は、どうして顔を読むのが上手いんだろう」
「何の話です?」
「何でもありません」
エリーゼとクララが笑う。
夕陽を受けた町を背に、その笑い声が丘の上へ広がった。
◇ ◇ ◇
三日後、アルヴェインブルクを発つ朝が来た。
城門前では、護衛たちが馬具を確かめ、使用人が荷物を馬車へ積み込んでいる。
アレクは預かった書類を一つずつ確認していた。
「忘れ物はないか」
ゲオルクが尋ねる。
「ありません」
「ハインリヒ殿から預かった書状は?」
「鞄の中です」
「倉庫長からヨハン殿へ渡す記録は?」
「それもあります」
「着替えは?」
「積みました」
「珍しいな」
「普段から忘れていませんよ」
「そうだったか?」
「確認したのに信用していないでしょう」
ゲオルクが笑い、馬のもとへ向かった。
やがてアルベルトが城から出てきた。
「準備はできたか」
「はい」
「なら出るぞ」
その時、城門の内側から声が聞こえた。
「叔父上!」
エリーゼとクララが、こちらへ向かってくる。
「見送りか」
アルベルトが尋ねた。
「はい」
「俺の?」
「もちろんです」
答えるまでに僅かな間があった。
アルベルトは何も言わず、アレクへ視線を向ける。
「何です?」
「何でもない」
昨日まで自分が何度も使った言葉を返され、アレクは黙るしかなかった。
エリーゼはアレクの前まで来ると、小さな布袋を差し出した。
「これを」
「何ですか?」
「旅の途中で食べてください」
袋の中には林檎が入っていた。
「ありがとうございます」
「ヴァイスブルクまで、何日も掛かるのでしょう?」
「四日ほどです」
「気をつけて帰ってください」
「はい」
エリーゼは何かを言いかけ、少し迷った後でアレクを見上げた。
「また来てくださいね」
「来る理由を作ってくれるのでしょう?」
驚いたように目を見開いた後、エリーゼは嬉しそうに笑った。
「覚えていたのですね」
「三日前の話です」
「仕事以外のことも覚えていたので、少し意外でした」
「俺を何だと思っているんですか」
「放っておくと仕事を増やす人です」
「アルベルト様の言葉ですよね」
「私も、そう思うようになりました」
「ひどいな」
「来てくれますか?」
「また来ます」
「約束ですか?」
アレクは少しだけ照れながらも、頷いた。
「約束です」
「はい」
それで十分だったのか、エリーゼは満足そうに笑った。
「アレクさん」
クララが声を掛ける。
「お気をつけて」
「クララさんも」
「私はどこにも行きません」
「そうでした」
「ですが、ありがとうございます」
クララも小さく笑った。
アレクは布袋を鞄へ大切に収めてから、馬へ乗った。
「出発する」
アルベルトの号令で城門が開く。
馬車と騎兵がゆっくり動き始めた。
アレクが振り返ると、エリーゼはまだ城門の前に立っている。
手を上げると、彼女も小さく手を振った。
やがて道が曲がり、城門は建物の陰へ隠れた。
◇ ◇ ◇
ヴァイスブルクへの帰路で、アレクは大公都で見聞きしたことを何度も思い返した。
家政評議会では、同じ大公国のために働く者たちが、それぞれ異なる問題を心配していた。
中央倉庫には、ヴァイスブルクより進んだ仕組みがあった。それでも、規模が大きいからこそ生じる記録の抜けや、作業を止められないという事情がある。
取引証明所では、大勢の商人を記録してきた結果、名前を探すだけでも時間が掛かるようになっていた。
大公都だから、すべてが完成しているわけではない。
ヴァイスブルクの方法が、そのまま通用するわけでもなかった。
土地が違えば、人も、扱う物も、使える金も違う。
知っている仕組みを押しつけるのではなく、その場所で働く者とともに使える形を探さなければならない。
「随分静かだな」
前を進んでいたアルベルトが、馬の速度を落として隣へ並んだ。
「少し考えていました」
「中央へ残ればよかったと思っているのか?」
「それも考えました」
「残りたかったのか」
「今はヴァイスブルクへ戻りたいです」
「なら、それが答えだ」
「そんなに簡単でいいんですか?」
「今はな」
アルベルトは街道の先へ視線を戻した。
「中央へ来れば、大きな仕事ができると思ったか」
「少しだけ」
「間違いではない。大公都で決まったことは、多くの町や村へ影響する」
「はい」
「だが、大きな仕事が、必ず価値の大きな仕事とは限らん」
アレクは意味を考えた。
「橋一本でも、それがなければ困る者にとっては大仕事だ」
「市場に箱を一つ置くことも?」
「必要ならな」
「倉の帳簿を確かめることも?」
「ああ」
アルベルトは僅かに笑った。
「ただし、いつまでも橋一本と箱一つで満足するな」
「大きな仕事だけが価値のある仕事ではないと言ったばかりですよね?」
「目の前の仕事を軽く見るなと言った。小さな成功へしがみつけとは言っていない」
「難しいです」
「だから考えろ」
「またそれですか」
「お前の得意なことだろう」
アレクは少し考え、笑った。
「最近、そうかもしれません」
「なら、戻って続きをやれ」
「はい」
馬は西へ続く街道を進んだ。
大公都で芽を出した試みがどう育つかは、ハインリヒやバルドゥルたちが確かめてくれる。
アレクがすべてを見張る必要はない。
自分がいなくても続く形にしなければ、仕組みとは呼べない。
それでも、結果を知る責任はある。
一か月後に届く報告を忘れないよう、アレクは頭の中へ留めた。
◇ ◇ ◇
数日後、街道の先にヴァイスブルクの城壁が見えた。
アルヴェインブルクより低く、囲まれた町も小さい。
道を行き交う荷車も、大公都とは比べものにならない。
それでも、見慣れた城壁を目にした瞬間、アレクの肩から力が抜けた。
「戻ってきた……」
城門へ近づくと、門兵がアルベルトの旗へ気づいた。
「大公殿下がお戻りだ!」
門が開き、その向こうに見慣れた町並みが現れる。
市場からは商人の声が聞こえ、倉へ向かう荷車が道の端へ寄って一行を通した。
「アレク!」
城門の内側から、トーマスが駆け寄ってくる。
「帰ってきたか」
「ただいま」
「大公都はどうだった?」
「大きかった」
「何がだ?」
「全部」
「それでは分からない」
「俺も最初に同じことを思ったよ」
二人が笑っていると、少し離れた場所にヨハンが立っていることに気づいた。
「お帰りなさい、アレク殿」
「ただいま戻りました」
「家政評議会はいかがでしたか」
「色々とありました」
「中央倉庫の試験は?」
「今日から始めてもらいました。バルドゥルさんからの記録も預かっています」
「後ほど確認しましょう」
「明日でもいいですか?」
「もちろんです」
予想外の答えに、アレクはヨハンの顔を見た。
「今日は休んで構いません」
「本当ですか?」
「ええ。明日の朝までに、大公都で行ったことを報告書へまとめてください」
「やっぱり休みではないですよね」
「夕食までは休めます」
「短いなあ」
ヨハンは僅かに笑い、アルベルトを迎えるため城門へ向かった。
大公都へ出発する前と同じ会話だった。
市場も、倉も、橋へ続く街道も、外から見ただけでは変わっていない。
だが、アレクには少し違って見えた。
この町で始めたことが、中央へ届いた。
その一方で、中央にある仕組みや経験を、ヴァイスブルクへ持ち帰ることもできる。
一方から教えるだけではない。
人と物が行き交うように、知識も土地から土地へ運ばれていく。
「何を見ているんだ?」
トーマスが尋ねた。
「町」
「出発する前と同じだろ」
「そう見える?」
「ああ」
「俺も、前ならそう思ったかもしれない」
「大公都で難しい話を聞きすぎたんじゃないか?」
「たぶん」
「今日は早く寝ろ」
「その前に報告書を書かないと」
「やはり変わっていないな」
トーマスは呆れたように言い、アレクの馬を引いて歩き始めた。
その夜、アレクは城壁の上からヴァイスブルクを眺めていた。
市場にはまだ幾つかの灯りが残っている。
南橋を渡ってきたらしい荷車が城門へ入り、倉では夜番の持つ灯りが動いていた。
アルヴェインブルクと比べれば、小さな町だ。
けれど、ここで蒔いた種は大公都まで届いた。
市場税を一時的に下げた。
穀物を量る標準箱を置いた。
商人や職人と話し、南橋を架け替えた。
倉の帳簿と実際の在庫を比べた。
どれも、一度で世界を変えるようなものではない。
失敗もあった。思いどおりに進まず、途中で方法を変えたこともある。
それでも、人が動き、物が動き、少しずつ町の様子が変わった。
今度は中央倉庫で、大公都の者たちが自分たちに合う方法を探し始めている。
アレクの考えを、そのまま使うわけではない。
中央にいる者が、中央で使える形へ変えていく。
それでよいのだと思う。
「種、か」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
蒔いた種がすべて芽を出すわけではない。
土地が合わないことも、水が足りないこともある。芽を出しても、途中で枯れることがあるだろう。
だから、小さく試し、結果を見て、必要なら方法を変える。
一つでも根づけば、そこから新しい何かが生まれるかもしれない。
戦場で剣を振ることだけが、人を守る方法ではなかった。
橋を架けることも、市場を整えることも、倉に何が残っているか確かめることも、誰かの暮らしを支える力になる。
ヴァイスブルクで領政の仕事へ関わらなければ、アレクはそれを知らないままだった。
しかし、乱世が終わったわけではない。
西にはベルン伯爵がいる。
さらに遠くでは、レオンハルトとシュヴァルツ伯の争いが続いている。
マティアスもまた、ベルグハーフェンを中心に、人と金と物資を動かし始めていた。
アレクがいつまでヴァイスブルクにいられるのかは分からない。
再び戦場へ向かう日が来るかもしれない。
それでも、今は目の前に残っている仕事を進めればよい。
知っていることを使う。
知らないことは、知っている者に聞く。
間違えたなら直す。
そして、自分一人ですべてを抱え込まない。
「さて」
アレクは城壁から離れた。
部屋へ戻れば、ヨハンへ提出する報告書を書かなければならない。
大公都から帰った夜くらい休ませてほしいと思う一方で、何を書けばよいかはすでに考え始めている。
明日になれば、また市場と倉と帳簿が待っている。
今は、それでよかった。
ヴァイスブルクで蒔いた小さな種は、ようやく芽を出し始めたばかりなのだから。
第二篇 乱世に蒔く種――了。
第十四話を読んでいただき、ありがとうございました。
ヴァイスブルクで生まれた考えは、そのまま移されるのではなく、中央で働く人々の手によって新たな形へ変わり始めました。
アレク自身も、知識を与えるだけでなく、現場の経験から学び、仕事を他者へ任せることの大切さを知っていきます。
エリーゼとの再会では、二人が町や人々を見る時の共通点が明らかになり、次に会うための約束も交わされました。
これにて第二篇「乱世に蒔く種」は完結です。次篇では、ヴァイスブルクで芽吹いたものを抱えたアレクが、さらに大きな乱世の流れへ踏み込んでいきます。
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