第十三話 中央に届いた種
ヴァイスブルクで続けてきた、小さな試み。
市場税を見直し、基準容器を置き、橋を架け直し、倉庫の帳簿を確かめる。
どれも国を揺るがすような大改革ではない。
けれど、その一つ一つが少しずつ結果を残し、ついにアルヴェイン大公国の中枢へ届いた。
今度アレクが向かうのは、大公都アルヴェインブルク。
そこには、ヴァイスブルクとは比べものにならないほど多くの人と物が集まり、国全体を動かす者たちがいた。
地方で上手くいったことは、本当に他の土地でも使えるのか。
そして、自分の知らない相手へ、自分の考えをどう伝えるのか。
アレクの世界が、また一つ大きく広がる。
ヴァイスブルクを発ってから数日。俺は馬上から、遠くに見え始めた巨大な城壁を眺めていた。
「……でかい」
思わず、そんな言葉が口から出た。
これまで見てきた町とは、明らかに規模が違う。平原の向こうに長大な城壁が伸び、その内側には無数の屋根が折り重なるように並んでいる。中心部にはひときわ高い城郭がそびえ、その周囲には教会らしい尖塔や石造りの大きな建物がいくつも見えた。
城壁の外にも家々が広がっている。街道には荷車が列を作り、農民や商人、旅人が絶え間なく行き交っていた。
「初めて見るのか?」
隣を進むアルベルトが聞いた。
「はい」
「感想は?」
「人が多そうです」
「見れば分かる」
「では、大きいです」
「それも見れば分かる」
「感想を聞いたのは殿下でしょう」
俺がそう言うと、アルベルトが小さく笑った。
「アルヴェインブルクだ」
アルヴェイン大公国の大公都、アルヴェインブルク。
アルヴェイン大公家の本拠であり、この国の政治、商業、軍事の中心となる都市だ。
俺がこれまで過ごしてきたラーデン村やヴァイスブルクとは、明らかに規模が違う。
「ヴァイスブルクとは全然違いますね」
「比べるな。ヴァイスブルクは西方を守る重要な都市だが、こちらは国の中心だ」
「殿下は普段ここに住んでるんですよね?」
「本来はな」
「本来は?」
「領地を回っていることも多い。戦があれば当然ここにはいない」
「ああ……」
そう考えると、大公というのも思っていたより落ち着かない仕事らしい。
街へ近づくにつれて、城壁の外にある施設まで見えるようになってきた。宿屋や厩舎だけではなく、大きな倉庫や工房まで街道沿いに並んでいる。
城門へ向かう荷車の積荷も様々だった。麦や塩、酒樽、木材、布、鉄製品、陶器などが積まれている。何が入っているのか分からない大きな木箱を載せた荷車まであった。
「商人が多いですね」
「ああ」
「毎日これくらい?」
「日による。もっと多い日もある」
「……管理する人、大変そうですね」
アルベルトが俺を見る。
「着く前から仕事を探すな」
「探してませんよ」
「お前は今、倉庫を見つけた時と同じ顔をしている」
「どんな顔ですか」
「何か数えたそうな顔だ」
「そんな顔ありません」
後ろにいたゲオルクが小さく笑った。
「ゲオルク様まで笑わないでください」
「いや。殿下の言いたいことが少し分かっただけだ」
「納得しないでくださいよ」
俺はため息をつきながら、もう一度アルヴェインブルクを見た。
しかし、確かに気になる。
これだけの人間が暮らし、これだけの物が動けば、当然それを管理する仕組みが必要になる。ヴァイスブルクの市場や倉庫とは規模がまるで違う。
税はどうやって取っているのか。商品はどこから集まり、どこへ流れるのか。大公家はどれだけ把握しているのか。
考え始めると、次々に疑問が浮かんでくる。
「やっぱり何か考えているな」
「顔に出てました?」
「ああ」
「最近そればかり言われるな……」
そんなことを話しているうちに、俺たちは城門へ到着した。
大公家の旗を見た門兵たちが一斉に姿勢を正す。
「大公殿下!」
「門を開けろ!」
ギギギギ……。
巨大な門が重い音を立てながら左右へ開いていく。
門を抜けた瞬間、俺は言葉を失った。
とにかく人が多い。それが最初に浮かんだ感想だった。
大通りの両側には二階建て、三階建ての建物が立ち並び、その一階には商店が入っている。店先には商品が並べられ、あちこちから商人たちの声が飛んでいた。
「焼きたてのパンだ!」
「北方産の毛皮! 冬支度なら今のうちだ!」
「鉄鍋に包丁! 農具もあるぞ!」
「南から入った葡萄酒だ!」
荷車が通り、その横を職人が歩き、そのさらに隙間を子供たちが走り抜けていく。
ヴァイスブルクも小さな街ではない。それでも、ここは別物だった。
「これ全部、アルヴェインブルク?」
「まだ外郭区だ」
「まだ?」
「城へ近づけば、さらに建物が増える」
「……国の中心ってすごいな」
前世の東京とは比べようもない。建物の高さも人口も交通量も違う。それでも、この世界に来てから見た中では間違いなく一番大きな都市だった。
さらに街を進むうち、俺は道そのものにも目が向いた。
「道、広いですね」
「兵を動かす必要があるからな」
「排水溝もある」
「雨の度に大通りが泥沼になっては困る」
「ヴァイスブルクにも欲しいな」
「金は?」
「それを今言います?」
「必要だろう」
「ヨハンさんに似てきましたね」
「最近それをよく言われる」
アルベルトが少し嫌そうな顔をした。
中央の大通りには側溝が掘られ、場所によっては石板も敷かれている。もちろん完璧ではない。泥が溜まっているところもあれば、排水溝から嫌な臭いがする場所もある。
それでも、大勢の人間が暮らすための工夫が街のあちこちに見えた。
きっと一度に作られたものではない。何十年、何百年と人が暮らし、その度に問題が起き、少しずつ直してきた結果なのだろう。
そう考えると、俺がヴァイスブルクでやってきたことは本当に小さい。
「どうした?」
アルベルトが聞いた。
「俺、まだ知らないことばかりだなって」
「今さらか」
「もう少し優しく言ってください」
「知ったつもりになるよりはいい」
「それはそうですね」
やがてアルヴェイン城が近づいてきた。
街の中心部、高い石壁に囲まれた巨大な城だ。
俺はその城を見上げながら、少しずつ緊張してきた。
ここで一体何が待っているのか。
その答えを知るまで、そう時間はかからなかった。
◇ ◇ ◇
アルヴェイン城へ入って最初に驚いたのは、豪華さではなかった。
ここでも、人の多さだった。
「殿下、お帰りなさいませ」
「西方からの報告書が届いております」
「財務局より確認を求める書状が三通」
「軍務局より――」
「後にしろ」
アルベルトが歩くだけで、次々と役人や従者が声を掛けてくる。
「殿下」
「何だ」
「普段からこんな感じなんですか?」
「もっと多い」
「帰ってきたくなくなる理由が少し分かった気がします」
「聞かなかったことにする」
「聞いてるじゃないですか」
俺たちは城内の客室へ案内された。
正確にはアルベルトは自分の部屋へ戻り、俺とゲオルクには別の部屋が用意された。
そして案の定、休む間もなくゲオルクが一式の服を持ってきた。
「着替えろ」
「やっぱり?」
「領政会議へ出るのだから当然だ」
「この服、俺の?」
「ああ」
「高そう」
「値段を気にするな」
「ヨハンさんなら絶対気にしますよ」
「財務官殿が選んだ」
「じゃあ絶対値段見てる!」
用意されていたのは、普段の小姓服より明らかに上等なものだった。
濃い青の上着に白いシャツ。腰には細い革帯があり、派手な刺繍はないが、生地や仕立てが普段の服とは違う。
貴族のように着飾るためではなく、大公の小姓として正式な場所へ出ても失礼にならないように整えられた服らしい。
着替えて鏡を見る。
「……落ち着かない」
「似合っているぞ」
「本当ですか?」
「ああ」
「ゲオルク様に言われてもあまり嬉しくない」
「なら脱げ」
「そこまで言ってません」
鏡に映っているのは十五歳の少年だった。
まだ完全に大人になりきっていない顔をしている。
それでも、ラーデン村で目覚めたばかりの頃とはどこか違って見えた。
戦場へ行き、剣を振った。人を殺し、市場を歩き、橋について考え、今では帳簿まで睨むようになった。
「……色々あったな」
「まだ一年も経っていないぞ」
「言わないでください」
余計に疲れた気がした。
◇ ◇ ◇
領政会議が開かれる部屋は、想像していたより質素だった。
大きな円卓が置かれ、壁にはアルヴェイン大公国の地図が掛けられている。棚には大量の書類が積まれており、目立つ装飾は大公家の紋章くらいしかない。
ただし、そこに集まっている人間は明らかに普通ではなかった。
三十人ほどの出席者の中には、騎士もいれば貴族もいる。文官らしい者もおり、服装から見て商人出身と思われる男までいた。
「何か怖い」
俺が小声で言う。
「何がだ」
隣のアルベルトが聞いた。
「みんな俺より偉そうです」
「実際、ほとんどがお前より偉い」
「そういうこと言わないでくださいよ」
「事実だ」
アルベルトが席へ着き、俺はその後ろへ立った。
小姓なのだから当然だ。
その時、一人の老人がこちらへ歩いてきた。
年齢は六十歳前後だろうか。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、細長い顔に鋭い目をしている。服装は派手ではなく、黒に近い深緑の上着を着て、胸元には銀の鎖が掛かっていた。
背筋は真っ直ぐで、年齢以上に厳格な印象を受ける。
「お帰りなさいませ、大公殿下」
「久しいな、ハインリヒ」
「西方では随分と好き勝手をなされたようですな」
「勝った」
「そういう話ではありません」
「なら後で聞く」
老人が小さくため息をついた。
そして俺を見る。
「その少年が?」
「アレクだ」
「アレク・ハルトマンです」
俺は頭を下げた。
「ハインリヒ・フォン・エーベルハルト。家政評議会の議長を務めている」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
握手をすると、思ったより手が硬かった。
文官一筋というより、昔は剣も握っていたような手だ。
「十五歳と聞いている」
「はい」
「随分と若い」
「よく言われます」
「でしょうな」
表情がほとんど動かない。
ヨハンをさらに偉くして、笑わなくしたような人だ。
「何を考えている?」
「何も」
「顔に出ている」
「最近そればかり言われるな……」
「何か?」
「何でもありません」
アルベルトが横で笑っていた。
「ハインリヒ。いじめるな」
「質問しただけです」
「お前が聞くと尋問になる」
「殿下にだけは言われたくありません」
どうやら、この二人もかなり付き合いが長いらしい。
「始めるぞ」
アルベルトが席へ着き、領政会議が始まった。
◇ ◇ ◇
最初の一時間ほど、俺はほとんど聞いているだけだった。
北部の収穫見込み、軍馬の不足、西方の防備、街道や橋の補修、税収、諸侯からの要望など、知らない地名や名前が次々と出てくる。
それでも、話の内容そのものは少し理解できるようになっていた。
金が足りない。
人が足りない。
物が足りない。
それなのに、必要なことはいくらでもある。
ヴァイスブルクで経験してきたことと根本は変わらない。ただ規模が大きいだけだ。
「次に、西方のヴァイスブルクについて」
ハインリヒが書類を開いた。
俺は自然と姿勢を正した。
「戦後の市場回復について、財務局から報告が上がっている」
別の男が立ち上がる。
五十歳前後の痩せた男で、片目には小さな磨きガラスのレンズを掛けている。
「市場税を三分の二へ減免した結果、商人数は戦前水準まで回復。市場税収についても減免前を上回ったとのことです」
部屋が少しざわついた。
「税率を下げて税収が増えた?」
「一時的なものでは?」
「戦後の反動だろう」
いくつか声が上がる。
ハインリヒが手を上げると、会議室はすぐに静かになった。
「それから基準容器の導入。麦取引について、統一された容器を市場へ設置した」
また少しざわつく。
「さらに街道橋を架け替え、商人組合と周辺村から費用及び労役の一部を拠出させた」
「そこです」
一人の男が口を開いた。
四十代ほどで、赤茶色の髪に立派な口髭がある。肩幅も広く、文官というより地方領主らしい体格をしていた。
「ヴァイスブルク一都市で成功した事例を、あまり大きく評価するのはいかがなものか」
ハインリヒが男を見る。
「理由は?」
「条件が違います。西方は戦後で、市場が大きく混乱していた。商人も戻る場所を探していたでしょう。その時期に税を下げれば、一時的に商人が集まることは十分考えられます」
「一理ありますな」
「基準容器についても同様です。ヴァイスブルクでは受け入れられたのかもしれません。しかし各地には昔から使われている単位がある。それを中央から統一すれば、かえって混乱が起こる可能性があります」
俺は黙って聞いていた。
言っていることは正しい。
「橋もそうです。商人組合が費用を負担したとありますが、すべての土地にそれだけの商人がいるわけではない。村から労役を出させるにしても、収穫時期によっては農業へ支障が出る」
これもその通りだった。
「私は、このような地方の成功例を見て、新しい制度を国全体へ一律に広げることには反対です」
何人かが頷いた。
「アレク」
アルベルトに呼ばれた。
「はい?」
「お前が答えろ」
「俺が?」
「お前の話だ」
「いや、でも」
「立て」
「……はい」
俺は立ち上がった。
三十人ほどの視線が一斉に集まる。
戦場とは違う意味で嫌な緊張だった。
「アレク・ハルトマンです」
「それは皆知っている」
アルベルトが横から口を挟む。
「殿下、邪魔しないでください」
会議室に小さな笑いが起きた。
緊張が少しだけ和らぐ。
俺は赤茶色の髪の男を見る。
「俺も、国全体へそのまま広げるのは反対です」
男が少し眉を上げた。
会議室も静かになる。
「自分で提案した制度では?」
「そうです。でもヴァイスブルクでも、全部が上手くいったわけじゃないので」
「例えば?」
「市場税を下げた時、俺は最初、商人が増えて品物が安くなれば皆が喜ぶと思ってました」
「違った?」
「元からヴァイスブルクで商売していた人からすれば、競争相手が増えました」
男は黙って聞いている。
「羊毛の輸入を増やした時も、安く買える側には良かった。でも、それまで羊毛を売っていた商人は値段が下がれば困る」
「それで?」
「話を聞きました」
「それだけか?」
「それだけです」
何人かが少し笑った。
「でも、その当たり前のことを最初にやってなかったんです」
俺は続けた。
「だから後から揉めました。市場税も基準容器も、俺が良いと思うことと、実際にそこで商売している人が良いと思うことは同じじゃなかった」
ハインリヒがこちらを見ている。
「橋もそうです。最初に予定していた場所では地盤が悪くて、そのまま造れませんでした」
「ではどうした」
「職人に聞きました」
「……」
「俺は橋の造り方を知りませんから」
会議室の空気が少し変わった。
俺には前世の知識がある。
だが、だからといって橋梁技術まで詳しいわけではない。知っている言葉だけで橋が完成するわけでもない。
「職人に方法を考えてもらって、俺は土地の調整とか、金をどう出すかとか、そちらを考えました」
「つまり、ヴァイスブルクの方法をそのまま他所へ使うべきではないと?」
「はい」
「なら、何のために報告した?」
「試した結果を残すためです」
「結果?」
「何をやったら上手くいったのか。何をやったら揉めたのか。どのくらい金が掛かったのか。誰が反対したのか。そういう記録があれば、別の場所で似た問題が起きた時に参考にはできます」
「同じことをしろという意味ではない?」
「はい。同じ失敗をしなくて済むかもしれない、という意味です」
言いながら、俺自身も少しずつ考えが整理されていく。
前世でも、一つの場所で成功した方法をそのまま別の場所へ持ち込んで失敗することはあった。
場所も人も規模も違うのなら、方法だけを真似しても同じ結果になるとは限らない。
「だから、もし他の土地で使うなら、小さく試した方がいいと思います」
「小さく?」
「期間を決める。場所も絞る。記録を取る。駄目だったら戻す。いきなり国全部でやったら、失敗した時に戻すのも大変でしょう」
赤茶色の男はしばらく俺を見ていた。
「なるほど」
それだけ言って席へ戻ろうとする。
「反対されないんですか?」
思わず聞いてしまった。
男が少し笑った。
「私は制度を国中へ広げることに反対した」
「はい」
「お前も反対なのだろう?」
「あ」
「なら、今のところ争う理由がない」
「……確かに」
会議室に笑いが起きた。
アルベルトが頭を押さえている。
「アレク」
「はい」
「座れ」
「はい……」
恥ずかしい。
男が改めてこちらを見る。
「ロタール・フォン・ブレヒトだ。北部に領地を持っている」
「アレク・ハルトマンです」
「それも知っている」
「今日それ二回目だ」
「ただし、一つだけ面白いと思った」
「何です?」
「失敗した記録も残すという部分だ」
「普通じゃないんですか?」
「人間は成功した話は残したがる。失敗した話は隠したがるものだ」
「……」
「特に役人と貴族はな」
「聞こえておりますぞ」
ハインリヒが冷たい声を出す。
「あなたも含めてです」
「否定はしません」
また会議室に笑いが起きた。
それでこの話は終わった。
誰かが俺を敵視したわけではない。
ただ立場が違えば、同じものを見ても意見が違う。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
会議はその後も続いた。
俺がもう一度話を振られたのは終盤だった。
「ヴァイスブルクでの倉庫管理について」
ハインリヒが言う。
「帳簿と実際の保管量を定期的に照合する方法を試しているそうだな」
「はい」
「全ての倉庫で毎月行うのか?」
「それは無理です」
「なぜ?」
「人が足りません」
即答すると、何人かが笑った。
「それに、全部を毎月数える必要もないと思います」
「では?」
「なくなると困る物からです。麦、塩、火薬、矢、それから高価な物」
「どの程度の差が出たら調査する?」
「そこはまだ決まってません」
「分からない?」
「はい。どのくらいの差なら普通で、どこからがおかしいのか、まだ試している途中です」
ハインリヒの眉が僅かに動いた。
「十五歳の割に、随分簡単に分からないと言う」
「分からないのに知ってるふりをしたら、後で困るので」
ハインリヒは少しの間黙っていた。
「よろしい」
「え?」
「続けなさい」
「あ、はい」
俺は考えながら説明を続けた。
「今は全部を細かく管理するより、数字が大きくずれたところだけ調べた方がいいと思っています」
「理由は?」
「時間が足りないからです」
「人も?」
「はい」
「金も?」
「もちろんです」
「財務官の影響を受けているな」
「最近かなり」
また小さな笑いが起きる。
ハインリヒは書類へ何かを書き込んだ。
「ヴァイスブルクの方式を、中央倉庫の一部でも試験する」
「え?」
「問題があるか?」
「いえ」
「期間は三か月。対象は軍用穀物と矢とする」
「俺がやるんですか?」
「なぜそうなる」
「最近、言い出したことを全部やらされるので」
アルベルトが吹き出した。
「違う。中央倉庫の役人にやらせる」
「良かった……」
「ただし」
「やっぱり?」
「方法を書面にまとめて提出しろ」
「俺が?」
「お前が説明したのだろう」
「……はい」
結局、仕事は増えた。
どうやら場所が変わっても、そこだけは変わらないらしい。
◇ ◇ ◇
領政会議が終わった頃には、もう夕方が近かった。
「疲れた……」
俺は会議室から出た瞬間、大きく息を吐いた。
「戦場よりか?」
アルベルトが聞く。
「戦場の方が嫌です」
「なら良かったな」
「でも会議も嫌です」
「慣れろ」
「嫌です」
「いずれ必要になる」
「何で?」
「さあな」
「嫌な言い方だなぁ」
アルベルトは笑いながら別の廊下へ歩いていった。
俺はゲオルクと客室へ戻ろうとした。
その途中だった。
「アレク?」
聞き覚えのある少女の声がした。
俺は足を止めて振り返る。
「……エリーゼ?」
「やっぱりアレクだ」
そこに立っていたのは、エリーゼ・フォン・ヴァレンシュタインだった。
アルベルトの姪であり、亡くなった先代大公世子フリードリヒ・ヴァレンシュタインの娘。
第二篇の最初に砦で出会って以来、ヴァイスブルクでも何度か話をしてきた少女だ。
ただ、今日の姿はいつもと少し違っていた。
肩より少し下まで伸びた淡い金色の髪は丁寧に整えられ、左右の髪の一部だけが後ろで留められている。窓から差し込む夕方の光を受けるたび、柔らかな金色が僅かに輝いて見えた。
澄んだ青い瞳と白い肌、整った顔立ちは大公家の令嬢らしい気品を感じさせる。それでも頬にはまだ年相応の柔らかさが残っていて、大人びた表情をしていても、完全に幼さが消えているわけではない。
今日は淡い水色のドレスを着ていた。
派手に飾り立てたものではないが、袖口や腰回りの仕立てを見るだけでも上等な物だと分かる。
砦で初めて会った時の旅装とも、ヴァイスブルクで見慣れた姿とも違う。
これがアルヴェイン城で過ごす時の、エリーゼ本来の装いなのだろう。
「何?」
エリーゼが少し首を傾げる。
「いや」
「さっきから見てるけど」
「いつもと服が違うなって」
「……それだけ?」
「それだけだけど」
「そう」
なぜか少し不満そうな顔になった。
「何?」
「別に」
「今、何かあっただろ」
「ないわ」
エリーゼがほんの少し頬を膨らませる。
服装は立派になっても、この辺りはいつものエリーゼだった。
「というか、何でここにいるの?」
俺が聞く。
「私の家でもあるのだけれど」
「あ」
「忘れてた?」
「ちょっと」
「もう」
呆れたように言いながらも、エリーゼは少し笑った。
考えてみれば当然だった。
アルヴェイン城はアルベルトの本拠であり、その兄である先代大公世子フリードリヒの娘、エリーゼにとっても縁の深い場所だ。
「叔父様と一緒に来たって聞いたから、探してたの」
「俺を?」
「……領政会議が終わったら会えると思って」
エリーゼが僅かに目を逸らした。
「会議、どうだった?」
「疲れた」
「そこ?」
「本当に疲れたんだよ」
「もっと何かあるでしょう。国の重臣たちと話したとか」
「金がないとか、人が足りないとか、橋を直さないといけないとか、そういう話が多かった」
「……そんな話をしていたの?」
「むしろ、そういう話ばっかりだった」
エリーゼが少し意外そうに目を丸くする。
「叔父様たちって、もっと難しい話ばかりしているのかと思ってた」
「俺もそう思ってた」
「違った?」
「ヴァイスブルクがものすごく大きくなった感じ」
「それを家政評議会の人に言ったら怒られるわよ」
「言わないよ」
その時、エリーゼの少し後ろから小さな笑い声が聞こえた。
そこで初めて、俺は彼女の隣にもう一人少女がいることに気づいた。
十五、六歳ほどだろうか。
栗色の髪を肩の少し下まで伸ばし、毛先は柔らかく内側へ巻いている。片側の髪だけを細く編み込み、後ろで留めていた。
瞳は深い緑色。
エリーゼより僅かに背が高く、細身ながら姿勢が良い。
顔立ちは華やかというより端正で、少し上がった目尻のせいか、黙っていると気の強い印象を受ける。
深い赤色のドレスには細かな金糸の刺繍が施されているが、必要以上に華美ではない。
「ご紹介がまだでしたね」
少女が一歩前へ出た。
「クララ・フォン・ローゼンフェルトと申します」
「アレク・ハルトマンです」
「存じております」
「また?」
思わず口から出た。
「何がです?」
「今日、みんなに『知ってる』って言われるんですよ」
クララが僅かに口元を緩める。
「それだけお名前が知られているということでしょう」
「嬉しくないなぁ」
「どうして?」
エリーゼが聞く。
「変な噂まで広がってそうだから」
「それなら、もう手遅れじゃない?」
「誰のせいだと思ってる?」
「叔父様?」
「正解」
エリーゼが笑った。
クララも今度は隠さず少し笑っている。
「クララとは以前から親しくしているの」
エリーゼが言った。
「今はこちらに滞在しているから、よく一緒にいるわ」
「なるほど」
「何、その顔」
「エリーゼにもちゃんと友達いるんだなって」
「どういう意味よ!」
「いや、何となく」
「失礼ね!」
エリーゼが頬を膨らませる。
「アレクさん」
クララが静かに言う。
「はい?」
「エリーゼ様を怒らせるのがお上手なのですね」
「上手くなりたくてなったわけじゃないですよ」
「アレクが余計なことを言うからでしょう!」
「ほら」
「ほらじゃない!」
クララがまた小さく笑った。
落ち着いた少女に見えるが、エリーゼといる時には年相応に笑うこともあるらしい。
「そうだ」
少し話したところで、エリーゼが何かを思い出したように言った。
「明日の午後、時間ある?」
「明日?」
俺はゲオルクを見る。
「午前中は殿下への随行だ。午後なら今のところ予定はない」
「だそうです」
「なら、アルヴェインブルクを案内するわ」
「エリーゼが?」
「何、その反応」
「いや、詳しいのかなって」
「私を誰だと思ってるの?」
「アルベルト殿下の姪」
「それだけ?」
「……アルヴェイン大公家の令嬢」
「最初からそう言いなさい」
エリーゼが少し得意そうに胸を張る。
「昔からここには何度も来てるもの」
「じゃあお願いします」
「最初から素直にそう言えばいいのよ」
「どこ行く?」
「市場」
「やっぱり」
「何で分かったの?」
「何となくエリーゼっぽい」
「それ、どういう意味?」
「悪い意味じゃない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
また、いつもの会話になった。
クララがその横から口を挟む。
「私も同行いたします」
「もちろん」
エリーゼが答える。
「護衛も必要です」
「分かってるわ」
「勝手に離れないでください」
「最近はしてないでしょう?」
「最近は、ですね」
エリーゼが少しだけ目を逸らした。
俺はそれを見逃さなかった。
「何かした?」
「してない」
「絶対しただろ」
「してません」
「クララさん?」
「以前、市場で――」
「クララ!」
エリーゼが慌てて止める。
「何?」
「何でもない!」
「気になる」
「明日教えてあげる」
「今じゃないんだ」
「明日!」
エリーゼの頬が僅かに赤くなる。
大公家の令嬢として落ち着いて振る舞っていても、こういうところは砦で初めて会った時と変わっていなかった。
「じゃあ明日」
「ええ」
エリーゼが嬉しそうに笑う。
「約束ね」
「分かった」
「ちゃんと来てよ」
「逃げないよ」
「アレクなら途中で仕事を見つけて忘れそう」
「何でみんな俺をそういう人間だと思ってるんだ」
「だって叔父様が」
「また殿下か!」
エリーゼとクララが笑った。
俺はアルベルトが消えていった廊下を見る。
今度会ったら、一度どんな説明をしているのか聞いてみようと思った。
「では、また明日」
エリーゼはドレスの裾を軽くつまみ、大公家の令嬢らしい綺麗な礼をした。
さっきまで頬を膨らませていた少女と同じ人物とは思えないほど自然な仕草だった。
「はい」
俺も頭を下げる。
エリーゼとクララが廊下の向こうへ歩いていく。
淡い金色の髪と、その隣に並ぶ栗色の髪。
しばらくその姿を見送っていると、ゲオルクが言った。
「見すぎだ」
「え?」
「エリーゼ様の後ろ姿を」
「違いますよ!」
「何が違う」
「久しぶりに城で会ったから見てただけです」
「そうか」
「その顔やめてください」
ゲオルクが少し笑った。
「ただし」
「何です?」
「エリーゼ様の立場は忘れるな」
「分かってますよ」
「本当にか?」
「アルベルト殿下の姪で、先代大公世子の娘」
「ああ」
「だから?」
「お前は時々、本当に忘れているように見える」
「本人が敬語いらないって言ったんですよ」
「それと身分を忘れることは別だ」
「難しいな」
「だから言っている」
「分かりました」
俺がそう答えると、ゲオルクはようやく頷いた。
ただ、少し離れたところでまだ笑っていた。
何がそんなにおかしいんだろう。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
俺は客室の机に座っていた。
目の前には領政会議で頼まれた書面がある。
中央倉庫で試す、帳簿と実際の保管量を照合する方法をまとめなければならない。
「何から書こう」
前世の専門用語をそのまま使っても意味がない。この世界の役人が読んで、実際に使える形にしなければならない。
俺は紙の一番上へ書いた。
『一、帳簿に記載された量と、実際に保管されている量を比べる』
次に。
『二、毎回すべてを数えるのではなく、重要な物資を決めて確認する』
さらに。
『三、差が大きい場合のみ、その原因を調べる』
そこで手が止まった。
「差が大きいって、どのくらいだ?」
麦と矢では条件が違う。
倉庫の規模によっても違う。
ここを俺が勝手に決めてしまうのは危ない。
「……中央の倉庫役人と決める、でいいか」
俺は追記した。
『許容する差については、物資の種類及び保管量を踏まえ、担当役人と協議して定める』
これならいい。
俺が全部決める必要はない。
むしろ、現場を知る人間に任せた方がいい部分もある。
橋の時に学んだ。
市場でも学んだ。
帳簿でも同じだった。
「……俺、本当に会社みたいなことしてるな」
異世界へ転生した。
剣の才能をもらった。
乱世へ放り込まれた。
それなのに、夜中に書いているのは倉庫管理の手順だ。
「神様」
俺は天井を見る。
「これ、想定してた?」
当然、返事はない。
少し笑ってから、俺は再び紙へ向かった。
窓の外にはアルヴェインブルクの灯りが広がっている。
ヴァイスブルクより遥かに多い。
今日だけでも、知らないものをたくさん見た。
大公都アルヴェインブルク。
アルヴェイン城。
領政会議。
国全体を見て仕事をする役人たち。
自分とは違う立場から意見を出す貴族。
そして、ここで暮らす人々が積み上げてきた仕組み。
俺の知らなかったことばかりだ。
その中で、エリーゼとも再会した。
ヴァイスブルクで見る時とは少し違う、大公家の令嬢としての姿。
きちんとしたドレスを着て、城の中では自然に貴族らしく振る舞っている。
それでも、俺と話しているうちに頬を膨らませたり、笑ったりするところは何も変わっていなかった。
明日はクララも一緒に、この街を案内してくれるらしい。
「……色々あるな」
俺の知っている世界は少しずつ広がっている。
だが、広がれば広がるほど、分からないことも増えていく。
以前なら、それを少し怖いと思っていた。
今は違う。
「分からなかったら、聞けばいいか」
全部を知っている必要はない。
全部を一人でできる必要もない。
俺にできるのは、前世の知識を使って一つの入口を見つけることだ。
そして、その知識をこの世界で使える形へ変えていくには、ここで生きてきた人たちの知識や経験が必要になる。
ヴァイスブルクで蒔いた小さな種は、どうやら俺が思っていたより遠くまで届き始めていた。
そして明日、俺はエリーゼとクララと一緒に、この大公都をもっと知ることになる。
アルヴェインブルクへ到着したアレクは、ヴァイスブルクより遥かに大きな「国」という単位の仕事に触れることになりました。
ヴァイスブルクで始めた小さな試みも、そのまま広げれば上手くいくとは限りません。知らないことは現場の人間に聞き、失敗も含めて記録しながら、この世界に合った形を探していく。アレク自身も少しずつ、自分の知識との付き合い方を学び始めています。
そして、アルヴェイン城ではエリーゼと再会し、新たにクララとも出会いました。
次回は二人とともにアルヴェインブルクの街へ。会議室からでは見えない、大公都で暮らす人々の姿をアレクが見ていきます。




