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『知らない世界の知っている物語』 ~剣と知識を授かった平凡な会社員は、異世界の乱世を生き抜く~  作者: 相田 ソウ
第二篇 乱世に蒔く種

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28/65

第十二話 数字が合わない

橋が完成し、市場には商人が戻り、ヴァイスブルクの街は少しずつ活気を取り戻してきた。


そんな中、アレクは一つの違和感に気づく。


城門を通った麦の量。

市場で売られた量。

大公家の倉庫へ入った量。


それらを比べても、数字が合わない。


誰かが盗んでいるのか。

記録が間違っているのか。

それとも、まだ見えていない理由があるのか。


数字は便利です。

けれど、数字だけを見ても分からないこともある。


今回は、アレクが帳簿の向こうにいる人々と、実際に動いている物の流れを追いかける。


そして、その小さな調査の先で、アレクの世界はヴァイスブルクの外へ広がり始める。

 橋が完成してから十日ほどが経った。

 俺は今、ヨハンの執務室で一枚の紙を睨んでいる。

「……合わない」

「何がです?」

 向かいに座っているヨハンが顔を上げた。

「麦です」

「麦?」

「はい」

 俺は三枚の紙を机に並べる。

「先月、ヴァイスブルクへ入った麦の量がこれ」

「城門の記録ですな」

「こっちが市場の記録」

「はい」

「それから、こっちが大公家の倉庫へ入った分」

「それが?」

「足したら合わないんですよ」

 ヨハンが俺の紙を見る。

「どれくらいです?」

「かなり」

「かなりでは分かりません」

「今計算します」

「先に計算してから話してください」

「細かいなぁ」

「財務官ですから」

 最近、この返しにも慣れてきた。

 俺は数字をもう一度確認する。

「城門を通った記録では、麦が基準箱換算で四千七百二十」

「はい」

「市場で売られたのが三千百八十」

「大公家が直接買ったものは?」

「九百二十」

「合計四千百」

「そうです」

「差は六百二十」

「はい」

 ヨハンの表情が少し変わった。

「それは大きいですな」

「でしょう?」

「どこかで数え間違えているのでは?」

「俺も最初そう思いました」

 橋が完成してから、ヴァイスブルクへ入る商人の数はさらに増えていた。

 南から麦。

 東から塩。

 西から羊毛や皮革。

 荷車の数も以前より明らかに多い。

 だから俺たちは、城門を通った商人と商品を簡単に記録するようになった。

 ところが、ヨハンから「市場税を今後どうするか判断するために数字をまとめろ」と言われ、俺が城門、市場、大公家倉庫の記録を並べてみたところ、妙な差が見つかった。

「六百二十箱分の麦が消えた?」

「言い方が物騒ですな」

「でも数字だけならそうなるでしょう?」

「盗まれたと?」

「そこまでは言ってません」

「なら?」

「分からないから気になってるんです」

 前世の会社でも似たようなことはあった。

 在庫表には百個。

 実際に倉庫を数えると九十七個。

 伝票を確認すれば出庫処理を忘れていたり、破損品がそのままだったり、別の部署へ渡したのに記録していなかったりする。

 数字が合わないからといって、即座に誰かが盗んだと決めつけるわけにはいかない。

「ヨハンさん」

「何です?」

「実際に数えましょう」

「何を?」

「倉庫の麦」

「またですか」

「またって何です?」

「あなたは数字が合わないと、すぐ倉庫へ行きたがりますな」

「見ないと分からないでしょう」

「それはそうですが」

 ヨハンはため息をつきながら立ち上がった。

「行きましょう」

「素直」

「私も気になりました」

「やっぱり?」

「六百二十は無視できません」

「ですよね」

「ただし」

「はい?」

「トーマス殿も呼びましょう」

「何で?」

「数える人間は多い方が良い」

「絶対また怒るな」

「それはアレク殿が説明してください」

「俺が!?」

「言い出した人ですから」

「最近その言葉、便利に使ってません?」

「大変便利です」

 この人、完全に味を占めている。


 ◇ ◇ ◇


「何で俺が麦を数えてるんだよ!」

 予想通り、トーマスは怒った。

「俺に言うなよ」

「お前以外に誰に言うんだ!」

「ヨハンさん」

「怖くて言えるか!」

「俺には言えるの?」

「お前は怖くない」

「それ褒めてないよね」

 俺たちは大公家が管理する穀物倉庫にいた。

 中には大きな麻袋が何列にも積まれている。

 麦。

 大麦。

 豆。

 干した野菜。

 軍用と非常時用の食料だ。

「三百二十一」

「三百二十二」

「いや、それさっき数えた」

「嘘だろ」

「印つけただろ」

「あ」

「最初から?」

「嫌だ!」

 俺たちの少し離れたところでは、倉庫番とヨハンが帳簿を確認していた。

「アレク殿」

「はい?」

「こちらへ」

「助かった」

「逃げるな!」

 トーマスを残してヨハンのところへ行く。

「何か分かりました?」

「この帳簿を見てください」

 差し出された紙を見る。

「麦、九百二十」

「大公家が市場から直接買い入れた数量です」

「合ってますね」

「こちらは実際の入庫記録」

 別の帳簿。

「……八百八十?」

「そうです」

「四十足りない」

「ええ」

「どこ行ったんです?」

「倉庫番」

 ヨハンが男を見る。

「説明を」

「その……」

 五十歳くらいの倉庫番が困ったような顔をした。

「腐っていた麦がありまして」

「どれくらい?」

 俺が聞く。

「三十袋ほど」

「捨てた?」

「家畜の餌に回しました」

「記録は?」

「……」

「してない?」

「昔から、傷んだ分までは細かく書いておりません」

「何で?」

「何でと言われましても……」

 困っている。

 俺はヨハンを見る。

「普通なんですか?」

「珍しくはありません」

「でも数字がずれる」

「ずれますな」

「じゃあ今までどうしてたんです?」

「帳簿というのは、必ずしも実物と完全に一致するものではありません」

「それでいいの?」

「良いとは言いません。しかし、この世界――」

 ヨハンが少し言葉を選ぶ。

「少なくとも我々のやり方では、ある程度の損耗は最初から想定しております」

「損耗?」

「鼠に食われる。湿気で腐る。運ぶ途中でこぼれる。袋が破れる。そういったものです」

「ああ……」

 現代の倉庫でもロスはある。

 でも。

「だったら、その分も書いた方がよくないです?」

「誰が?」

「倉庫番が」

「毎回?」

「……」

 倉庫番を見る。

 この倉庫だけでも大量の袋がある。

 一袋破れた。

 少し鼠に食われた。

 腐った。

 そのたび記録する。

「仕事増えますね」

「増えます」

 ヨハンが即答した。

「人は?」

「増やせません」

「ですよね」

 まただ。

 正しい。

 でも実行するには人が必要。

「じゃあ」

 俺は考える。

「全部細かく書かなくていい」

「では?」

「月に一回だけ、実際に残っている量と帳簿を比べる」

「棚卸しですかな」

「え?」

「商人も似たようなことはします」

「あ、あるんだ」

「当然でしょう」

「ですよね」

 また俺だけがこの世界の人間を甘く見ていた。

「ただ」

 ヨハンが続ける。

「毎月全てを数える商会は多くありません」

「面倒だから?」

「面倒だからです」

「分かる」

「それで、どうします?」

「全部じゃなくて、重要なものだけ」

「重要?」

「麦、塩、火薬、矢とか」

「軍需物資を優先する?」

「はい。あと高い物」

「なるほど」

「月末に帳簿との差を確認して、大きく違ったら原因を調べる」

「どれくらいを大きいとします?」

「……」

 そこまでは考えてなかった。

「ヨハンさん決めて」

「逃げましたな」

「専門家の仕事です」

「最近その言葉も便利に使うようになりましたな」

「ヨハンさんから学びました」

「悪いところばかり覚える」

「褒めてます?」

「半分」

「またそれ」

 少し笑った。

 だが、これで消えた六百二十のうち四十ほどは説明できる。

 残り五百八十。

 まだ多い。


 ◇ ◇ ◇


 次に向かったのは市場だった。

「麦の記録?」

 市場役人が帳簿を持ってくる。

「はい。これ、本当に全部?」

「市場で取引されたものは」

「市場で?」

 俺はその言葉に引っかかった。

「市場以外で売ったら?」

「記録されません」

「……」

「どうしました?」

「いや」

 商人が城門から入る。

 必ず市場へ来る。

 俺は勝手にそう考えていた。

「直接、宿屋とかパン屋に売ることは?」

「あります」

「多い?」

「それなりに」

「何で市場を通さないんです?」

「手数料が掛かりますから」

「……」

 市場税。

 あ。

「じゃあ」

 俺は帳簿を見る。

「城門で麦を積んで入ってきても、市場へ持ってこない商人がいる?」

「当然おります」

「ヨハンさん」

「はい」

「かなりこれじゃない?」

「可能性は高いですな」

「でも」

 俺は少し考える。

「市場税を払わない?」

「市場で売っていないのですから」

「違法じゃない?」

「現在の規則では」

 市場役人が答える。

「街中で直接取引すること自体は禁止されておりません」

「……」

「ただし大規模な取引については市場へ届け出る慣例があります」

「慣例?」

「法律ではない?」

「明文化はされておりません」

 また。

 曖昧。

「それって」

 俺はヨハンを見る。

「税の抜け道になってません?」

「なっていますな」

「分かってた?」

「昔からです」

「何で放置してたんです?」

「取り締まるために人員を増やすほどの損失ではなかったからです」

「今は?」

 ヨハンが市場を見る。

 荷車。

 商人。

 以前より明らかに多い。

「状況が変わった可能性はあります」

「橋ができたから?」

「市場税を下げたことも大きいでしょう」

「……」

 自分たちで商人を増やした。

 その結果。

 今まで小さかった穴も大きくなった。

「制度を変えると、別の問題が出る」

「ようやく慣れてきましたな」

「嬉しくない」

「私もです」

「どうします?」

「アレク殿は?」

「全部市場を通せってする?」

「商人は嫌がるでしょう」

「ですよね」

「しかも市場が混雑します」

「ああ」

「直接取引を禁止すれば、宿屋やパン屋も不便になります」

「じゃあ」

 考える。

 目的。

 全部を市場へ集めることじゃない。

 取引を把握すること。

 税。

「届け出だけ?」

「何を?」

「一定以上の取引をしたら、市場役人に量だけ届ける」

「税は?」

「少し取る?」

「市場税より安く?」

「そうしないと市場を使う意味がなくなる」

「なるほど」

 ヨハンが少し考える。

「直接取引用の簡易な取引税を設ける」

「難しい?」

「制度を作ること自体は難しくありません」

「じゃあ」

「問題は徴収です」

「誰が確認する?」

「そういうことです」

「また人」

「また人です」

 俺は頭を掻いた。

「だったら」

 市場を見る。

 宿屋。

 パン屋。

 酒場。

「買う側に書かせる?」

「買う側?」

「商人一人一人を追いかけるんじゃなくて、大きな宿屋とかパン屋とかに、月に一回だけ『誰からどれくらい買った』って出してもらう」

「……」

「商人と買った側の両方が書けば」

「比べられる」

「そう」

「しかし嘘を書けば?」

「両方が同じ嘘をついたら分からない」

「そうですな」

「でも」

 俺は考えながら続ける。

「城門には商人が入ってきた記録がある」

「……」

 ヨハンの目が少し変わった。

「門の記録」

「市場」

「それから大口の買い手」

「三つを比べる?」

「はい」

「完全ではありませんな」

「完全じゃなくていい」

「ほう」

「大きく合わなかったら調べる」

 全部を一件ずつ追いかけるのではなく。

 おかしいところだけ見る。

 前世で上司が言っていたことを思い出す。

 全部を完璧に確認しようとしたら、確認する仕事だけで一日が終わる。

 だから異常値を見る。

 数字がおかしいところから調べる。

「……例外管理」

「何です?」

「あ」

「また変な言葉ですか」

「忘れてください」

「覚えておきます」

「ヨハンさんまでマティアスみたいになってきた」

「それは褒め言葉でしょうか」

「たぶん」

 ヨハンは帳簿を見ながら言った。

「試しましょう」

「本当に?」

「ただし三か月」

「長い」

「商売は一か月では変動が大きすぎます」

「分かりました」

「大口取引だけを対象にする」

「どれくらい?」

「それはこちらで決めます」

「助かる」

「その代わり」

「嫌な予感」

「アレク殿には、最初の一か月分を比較してもらいます」

「やっぱり!」


 ◇ ◇ ◇


 翌日から、さらに確認を進めた。

 城門の記録。

 市場の記録。

 倉庫。

 宿屋。

 パン屋。

 酒場。

 全部を見る必要はない。

 大きな取引だけを拾う。

 すると、少しずつ数字の行方が見えてきた。

「麦百二十箱分、パン職人組合が直接購入」

「記録なし」

「市場通してないからですね」

「次」

「七十箱分、南区の宿屋五軒」

「これも直接」

「次」

「四十五……これは?」

 市場役人が首を傾げる。

「城門記録だと四十五箱なんですけど、商人本人は三十五って」

「十違う」

 俺は門番の記録を見る。

「商人の名前は?」

「ルドルフ・ハーゼ」

「まだ街にいる?」

「昨日出たはずです」

「どこへ?」

「東へ」

「確認できないか」

「次に来た時ですな」

 ヨハンが言う。

 さらに見ていく。

 十。

 二十。

 三十。

 小さな差がいくつもある。

 そして。

「これ」

 俺はある記録で止まった。

「何です?」

「同じ商人」

 名前。

 ハインツ・ベルガー。

 月に四回ヴァイスブルクへ入っている。

「毎回、城門では麦百箱」

「市場では?」

「七十前後」

「直接取引では?」

「記録なし」

「……」

 四回。

 毎回二十から三十箱ほど消えている。

「百箱くらい合わない」

 ヨハンの顔が少し厳しくなる。

「呼べますか?」

「今、街にいるはずです」

「じゃあ」

「待ちなさい」

「何です?」

「いきなり犯罪者扱いしてはいけません」

「分かってます」

「本当に?」

「そこまで馬鹿じゃないですよ」

「以前なら少し心配でした」

「ひどいな」

「事実です」

 でも。

 ヨハンの言う通りだ。

 数字が合わない。

 だから盗み。

 そう決めるな。

 原因を聞く。


 ◇ ◇ ◇


 ハインツ・ベルガーは三十代半ばくらいの麦商人だった。

「何か問題でも?」

「少し確認したいことがあります」

 ヨハンが淡々と話す。

「あなたは先月、四度ヴァイスブルクへ麦を運んでいますな」

「はい」

「一度につき約百箱」

「そのくらいです」

「市場では七十前後しか取引していない」

「ええ」

「残りは?」

「村へ売りました」

「村?」

 俺が思わず聞いた。

「どこの?」

「東門を出た先です」

「一回街へ入ってから?」

「そうです」

「何で?」

「ヴァイスブルクで塩と布を買って、それから帰り道に村へ寄ります」

「……」

 俺とヨハンが顔を見合わせる。

「じゃあ」

 俺は聞く。

「城門を通る時点では百箱ある」

「はい」

「市場で七十売る」

「はい」

「残り三十を載せたまま東門から出る」

「そうです」

「東門の記録は?」

 市場役人。

「出る荷物までは細かく記録しておりません」

「……」

 俺は天井を見た。

「そういうことか」

 消えてない。

 出ていった。

 俺たちは入ってくる数字だけ見ていた。

 当然だ。

 入口があるなら出口もある。

「何だ?」

 ハインツが不思議そうに聞く。

「いや」

 俺は苦笑した。

「俺たちが勝手に麦を消してました」

「は?」

「気にしないでください」

 ヨハンが俺を見る。

「アレク殿」

「はい」

「出口も必要ですな」

「はい」

「仕事が増えます」

「……」

「どうします?」

「簡単にしましょう」

「どう簡単に?」

「出る時は、荷車に大きな荷物が残ってるかだけ」

「量は?」

「大体で」

「大体?」

「全部数えたら門が詰まる」

「……」

「入る時は税や市場のために詳しく見る。でも出る時は『麦あり、三十前後』くらい」

「なるほど」

「正確さより、出ていったことが分かればいい」

 ヨハンが頷く。

「それなら門番の負担も大きくありません」

「やります?」

「やりましょう」

 ハインツが俺たちを見る。

「私は帰ってよろしいので?」

「あ」

「はい。すみませんでした」

「何だったんだ……」

 首を傾げながら出ていく。

 扉が閉じる。

「……」

 俺はヨハンを見る。

「恥ずかしい」

「なぜです?」

「泥棒かもしれないって少し思ってた」

「疑うことと、決めつけることは違います」

「……」

「確認したから、違うと分かった」

「はい」

「それで良いのです」

「財務官っぽい」

「財務官です」

「そうでした」

 でも。

 大事だな。

 数字だけを見る。

 怪しい。

 そう思う。

 でも数字の向こうには、実際に人が動いている。

 商人。

 荷車。

 村。

 取引。

 数字が間違っているのではなく。

 俺たちの見方が足りないこともある。


 ◇ ◇ ◇


 それから五日。

 大体の原因が分かった。

 六百二十箱の差。

 直接取引がおよそ二百七十。

 街を通過したものがおよそ百八十。

 腐敗や破損などの損耗が五十前後。

 記録漏れ、単純な数え間違いもある。

 残りはまだ完全には分からない。

 だが、最初に思っていたような「大量の麦が消えている」という話ではなかった。

「結局」

 俺はヨハンの執務室で椅子に座りながら言った。

「数字って信用できない?」

「違います」

「じゃあ?」

「数字だけでは分からないことがある」

「……」

「しかし数字がなければ、今回の違和感そのものに気づかなかったでしょう」

「あ」

 確かに。

「帳簿があったから、おかしいって分かった」

「そうです」

「帳簿が答えじゃなくて」

「質問を見つける道具でもある」

「……」

 俺は少し笑った。

「それ、いい言い方ですね」

「使っても構いませんぞ」

「ヨハンさんの言葉として?」

「当然です」

「自分の手柄にするんだ」

「財務官ですから」

「それ関係ないでしょう」

 ヨハンも少し笑った。

「今後はどうするんです?」

「まず城門記録を少し変えます」

「出口も」

「はい。それから大口の直接取引について、月ごとの届け出を試行します」

「税は?」

「まだ取りません」

「取らない?」

「まず実態を知る」

「……」

「いきなり税を掛ければ、隠す者が増える可能性があります」

「ああ」

「まず三か月、届け出だけをさせる」

「何の得があるんです?」

「届け出た商人については」

 ヨハンが少し考える。

「大公家の倉庫を一定期間、安く利用できるようにしましょう」

「……」

 俺はヨハンを見る。

「それ」

「何です?」

「財務官殿も、相手が得する理由を作るようになりましたね」

 ヨハンが一瞬黙った。

「誰に教わったと思っているのです?」

「俺?」

「半分」

「マティアス?」

「半分」

「合わせて全部じゃないですか」

「そうとも言います」

 少し嬉しかった。

 俺が変わるだけじゃない。

 俺が出した考えが誰かに使われて。

 その人がさらに別の形にする。

 マティアスが俺の案を先へ進めたように。

 ヨハンもそうしている。

 知識は。

 一人の頭の中だけに置いておくものじゃないのかもしれない。


 ◇ ◇ ◇


 午後。

 俺は市場を歩いていた。

 橋ができてから、以前より大きな荷車が増えている。

 ガラガラガラ……。

 車輪が石畳を転がる。

「退いてくれ!」

「荷車通るぞ!」

 商人の声。

 市場には麦。

 塩。

 布。

 羊毛。

 皮革。

 干し魚。

 色々な物が並んでいた。

「アレク」

 声を掛けられる。

 エリーゼだった。

「何してるの?」

「見てる」

「何を?」

「荷車」

「……楽しい?」

「いや」

「なら何で見てるの」

「最近、入ってくる物と出ていく物を数えてて」

「また変なことしてるのね」

「変じゃない」

「叔父様もそう言ってたわ」

「何を?」

「『あいつは最近、物を数えてばかりいる』って」

「殿下!」

 どこで見てるんだ。

「でも」

 エリーゼが市場を見る。

「前より賑やかになったわね」

「うん」

「戦の後は、もっと静かだったのに」

「そうだね」

 人が歩く。

 商人が値段を叫ぶ。

 子供が走る。

 荷車が通る。

 戦場の音とは違う。

 ガチャガチャという金属音はある。

 でも今鳴っているのは鎧ではなく、鍋や道具だ。

「アレク」

「何?」

「嬉しそう」

「また顔?」

「ええ」

「そんなに分かりやすいかな」

「私には」

「……」

 少しだけ言葉に詰まった。

「何?」

「いや」

「変なの」

「それ言うの好きだね」

「だって変だもの」

 エリーゼが笑う。

 俺も笑った。

 こういう時間が。

 好きだ。

 戦わなくていい時間。

 人が増えて。

 物が動いて。

 街が少しずつ戻っていく。

 その一部に自分が関われている。

 それで十分だと思った。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝。

「大公殿下!」

 城館へ一騎の騎士が入ってきた。

 装備を見る限り、ヴァイスブルクの兵ではない。

 濃紺の外套。

 胸にはアルヴェイン大公家の紋章がある。

「使者?」

 俺がゲオルクに聞く。

「ああ」

「どこから?」

「大公家中枢だ」

「殿下の?」

「正確には家政評議会からだ」

「……」

 初めて聞く名前だった。

「何です、それ」

「アルヴェイン全体の財政、領地、軍事、法務などを取りまとめる者たちだ」

「そんなのあったんだ」

「当たり前だ」

「殿下一人で全部やってるのかと思ってました」

「国を何だと思っている」

「最近それを勉強中です」

「遅い」

「十五なので」

「便利に使うようになったな」

「ヨハンさんから学びました」

 ほどなく、俺もアルベルトの執務室へ呼ばれた。

「また俺?」

「今回は私も理由が分からん」

 ゲオルクが言う。

「怖いな」

 部屋へ入る。

 アルベルト。

 ヨハン。

 オットー。

 使者。

 そして俺。

「来たか」

「はい」

 アルベルトの机には一通の正式な書状が置かれていた。

「何です?」

「読め」

「俺が?」

「いいから読め」

 書状を受け取る。

 内容は堅苦しかった。

 戦後のヴァイスブルクにおける復興。

 市場税減免。

 商取引の増加。

 基準容器の導入。

 街道橋の再整備。

 倉庫帳簿の整理。

 ハイゼン方面との新規交易。

「……」

 俺は途中で顔を上げる。

「これ」

「何だ」

「全部知られてる」

「報告しているからな」

「誰が?」

 俺はヨハンを見る。

「私ですが」

「ヨハンさん!?」

「当然でしょう。大公家の財政に関わる話です」

「何で教えてくれなかったんです?」

「聞かれませんでした」

「それ反則じゃない?」

「何の規則です?」

「……」

 続きを読む。

 最後の方で。

 名前。

 出た。

「アレク・ハルトマン……」

「そうだ」

 アルベルト。

 俺を見る。

「何で俺の名前まで?」

「知らん」

「殿下が書いた?」

「私は書いていない」

「ヨハンさん?」

「私です」

「また!」

「事実を記載しただけです」

「何て?」

「一連の試行において複数の提案を行った、と」

「……」

 俺。

 書状。

 見る。

 違う。

 今回みたいに。

 失敗もしてる。

 職人。

 商人。

 市場役人。

 ヨハン。

 みんなで。

 やった。

「俺だけじゃないですよ」

「そう書いてあります」

「え?」

 ヨハンが書状を指す。

「『財務官、市場役人、現地商人らとの協議により実施』」

「あ」

「あなた一人の功績だとは報告しておりません」

「……良かった」

「なぜ安心する」

 アルベルトが聞く。

「変に評価されたら困るので」

「もう遅い」

「え?」

 アルベルトが使者を見る。

 使者が口を開く。

「家政評議会より命令です」

「命令?」

「アルベルト殿下」

「うむ」

「次回の領政会議へご出席ください」

「分かった」

「並びに」

 使者。

 俺を見る。

 嫌な予感。

「アレク・ハルトマン殿の同行を求めます」

「……」

「何で?」

 思わず聞いた。

 使者が少し困った顔をする。

「評議会よりの命ですので」

「俺、小姓ですよ?」

「存じております」

「十五です」

「存じております」

「何するんです?」

「それは私には」

「……」

 アルベルト。

 笑ってる。

「殿下」

「何だ」

「絶対楽しんでますよね」

「少しな」

「嫌だなぁ」

「良い機会だ」

「何の?」

 アルベルトが書状を取った。

「お前がヴァイスブルクの外を見る機会だ」

「……」

 ヴァイスブルクの外。

 その言葉で。

 少しだけ。

 胸が動いた。

 今まで。

 俺が知ったこの世界。

 ラーデン。

 ヴァイスブルク。

 周辺の村。

 ベルン。

 グランヴァルト。

 レオンハルト。

 マティアス。

 まだ。

 本当に。

 一部分。

「いつです?」

「十日後」

「早い」

「準備しろ」

「何を?」

「知らん」

「殿下まで!?」

 ヨハンが口を挟む。

「まず服でしょうな」

「服?」

「その格好で評議会へ出るつもりですか?」

 俺は自分を見る。

 いつもの服。

「駄目?」

「駄目です」

「買う?」

「大公家で用意します」

「お金」

「今回は出します」

「珍しい!」

「アレク殿」

「はい」

「今、取り消そうかと思いました」

「すみません!」

 アルベルトが笑う。

 オットーも。

 ゲオルクも。

 俺だけ。

 不安。

 でも。

 少し楽しみ。

 この世界に来た時。

 俺は名前すら持っていなかった。

 教会。

 村。

 小姓。

 戦。

 市場。

 橋。

 倉庫。

 少しずつ。

 見る世界が広がってきた。

 そして今度は。

 ヴァイスブルクの外。

 アルヴェインという国そのものを見ることになる。

「……どうなるんだろう」

 小さく呟いた。

 当然。

 答えは誰も教えてくれなかった。

今回は、帳簿の数字が合わないところから始まりました。


最初は「どこかで麦が消えているのではないか」と疑ったアレクたち。


しかし実際に調べてみると、原因は一つではありませんでした。


市場を通さない直接取引。

街を通過して別の村へ運ばれた麦。

腐敗や破損による損耗。

記録漏れや数え間違い。


数字が間違っているのではなく、そもそも見ている範囲が足りなかった部分もあります。


だからこそ、帳簿は答えそのものではなく、違和感や疑問を見つけるための道具にもなります。


アレクは少しずつ、前世の知識をそのまま当てはめるだけではなく、この世界の実情に合わせて使うことを覚え始めています。


そして、ヴァイスブルクで積み重ねてきた市場、橋、倉庫、交易の試みは、ついにアルヴェイン大公家の中枢にも届きました。


地方の小姓だったアレクの名前が、少しずつ外の世界へ知られ始めています。


次にアレクが見るのは、ヴァイスブルクという一つの街ではなく、アルヴェインという国そのもの。


戦場とも市場とも違う場所で、今度はどんな人間たちと出会うことになるのか。


アレクの世界は、また一つ広がっていきます。

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