第十二話 数字が合わない
南橋の完成によって、ヴァイスブルクへ運び込まれる品物も増え始めました。
しかし、三つの帳簿を比較したアレクは、行方の分からない六百二十箱の小麦を見つけます。
南橋が完成してから十日が過ぎた。
ヴァイスブルクの南門へ続く通りには、以前よりも多くの荷車が行き交っている。橋の床板や欄干にはまだ新しい木の色が残っていたが、その上にはすでに車輪の跡が何本も刻まれていた。
橋が広くなったことで、重い荷を積んだ荷車でも、人が通り過ぎるのを待たずに渡れるようになった。すれ違うことはできないものの、橋の手前で長い列ができることは減っている。
その変化は、ヴァイスブルクの市場にも現れていた。
穀物を積んだ荷車だけでなく、塩や布、陶器、干した魚を運ぶ商人も増えている。南門を通る人と荷車の数は、橋を架け替える前より明らかに多かった。
橋が完成した後も、アレクの仕事が減ることはなかった。
むしろ、町へ入ってくる品物が増えたことで、確認しなければならないことも増えている。
「この三つを比べてください」
ヨハンは執務室の机へ三冊の帳簿を置いた。
「何の帳簿ですか」
「南門から町へ入った穀物、市場で売られた穀物、大公家が買い上げた穀物です」
アレクは一番上の帳簿を開いた。
南門を通った荷車の記録には、商人の名前、荷物の種類、おおよその量、町へ入った日が記されている。
その下にある市場の帳簿には、標準箱を使って売買された穀物の量が記されていた。
最後の一冊は、大公家の倉が買い上げた穀物の記録だった。
「前の月の分をすべてですか」
「すべてです」
「今日中に?」
「できるところまでで構いません」
「その言い方は、今日中に終わらせろという意味ですよね」
「私は、そのようなことは言っていません」
ヨハンは自分の机へ戻り、別の書類を開いた。
アレクは三冊の帳簿を見下ろした。
以前の世界なら、数字を同じ表へ並べ、足し引きするだけで済んだのかもしれない。しかし、この世界の帳簿は一冊ずつ書き方が異なる。
南門では荷車一台分、市場では標準箱、大公家の倉では袋の数で記されている箇所があった。
まず、単位を揃える必要がある。
アレクは白紙へ線を引き、帳簿に記された量を標準箱へ直していった。
袋の大きさが記されていないものは印をつけ、後で担当者へ確認する。数字が潰れて読めないところも、勝手に決めずに残した。
正午を過ぎる頃には、首と肩が重くなっていた。
「剣を振るほうが楽かもしれません」
「剣を百回振るだけなら、そうでしょうな」
「帳簿を読むのも、百行くらいなら楽なんですけど」
「まだ半分も終わっていません」
「分かっています」
ヨハンは一度も顔を上げなかった。
アレクは窓の外へ逃げかけた視線を帳簿へ戻し、数字を追い続けた。
日が傾き始める頃、三冊の帳簿から拾った数字がようやく一枚の紙へ収まった。
南門から町へ入った小麦は、標準箱に直して四千七百二十箱。
市場で売られた小麦は三千百八十箱。
大公家が買い上げた小麦は九百二十箱。
市場と大公家の買い上げを合わせても、四千百箱にしかならない。
六百二十箱が足りなかった。
アレクは計算をやり直した。
二度目も同じだった。
三度目は、別の順番で数字を足した。それでも結果は変わらない。
「ヨハンさん」
「終わりましたか」
「終わったというより、分からなくなりました」
アレクはまとめた紙を差し出した。
ヨハンは数字を一つずつ確認し、最後に六百二十という差へ目を止めた。
「計算は合っています」
「では、小麦六百二十箱はどこへ消えたんですか」
「それを調べるのです」
「横流しでしょうか」
「まだ分かりません」
「でも、これだけの量が記録から消えています」
「数字が合わないことと、誰かが盗んだことは同じではありません」
ヨハンは三冊の帳簿へ手を置いた。
「城門の役人は、町へ入った荷を記録しています。市場の役人は、市場で売られたものを記録している。倉の役人は、大公家が買い上げたものを記録します」
「同じ小麦を記録していても、見ているところが違う」
「そのとおりです。この三冊だけでは、記録されていない六百二十箱が、すべて同じ理由で消えたとは言えません」
盗難だと決めつければ、調査は簡単になる。
怪しい者を探し、問い詰めればいい。
だが、最初に答えを決めてしまえば、その答えに合うものしか見えなくなる。
アレクは紙に書いた「六百二十」を丸で囲んだ。
「どこから調べますか」
「大公家の倉です。自分たちの記録も確かめず、商人を疑うわけにはいきません」
翌朝、アレクとヨハンはヴァイスブルク城の北側にある倉へ向かった。
石壁に囲まれた倉は三棟あり、穀物、干し肉、塩などが分けて保管されている。入口には二人の兵が立ち、出入りする者を確認していた。
中へ入ると、乾いた藁と穀物の匂いが鼻をついた。
床へ直接置けば湿気を吸うため、小麦の袋は木組みの台の上へ積まれている。壁との間にも隙間があり、空気が通るようにされていた。
「大公家が買い上げた小麦は、九百二十箱で間違いありませんか」
ヨハンが倉を預かる役人へ尋ねた。
「支払いの記録では、その量です」
「現在の在庫と、ここから出した量は?」
「すぐに帳簿を持ってきます」
役人は棚から一冊の帳簿を取り出した。
アレクたちは、買い上げた量、兵や使用人へ配った量、ほかの倉へ移した量、現在残っている量を順番に確認した。
すべてを合わせると、八百八十箱ほどにしかならない。
「四十箱近く足りません」
アレクが言うと、倉役人は困ったように眉を寄せた。
「そこまで足りないはずはありません」
「一度、実際に残っている量を確認しましょう」
「帳簿には書いてあります」
「その帳簿と合っているかを確かめたいんです」
倉役人は不満そうだったが、ヨハンが黙って見ていることに気づくと、倉番たちへ指示を出した。
積まれた小麦袋を列ごとに数え、標準箱へ換算していく。兵へ渡した記録については、その日の配給記録と照らし合わせた。
作業は昼近くまで掛かった。
数え終えた後も、数字は合わなかった。
「先月、雨が続いた時に傷んだ袋はありませんでしたか」
ヨハンが尋ねた。
「ありました。屋根の端から水が入り、下にあった袋が濡れました」
「どれだけです?」
「二十袋か、もう少しだったと思います」
「その後は?」
「乾かせるものは広げました。臭いが出たものは、人が食べれば腹を壊すかもしれないので、家畜の餌へ回しました」
「記録はどこにありますか」
倉役人は帳簿をめくったが、それに当たる記述は見つからなかった。
「捨てたわけではありません。家畜の餌として使っています」
「使い道を聞いているのではありません。倉から出した記録があるかを聞いています」
「それは……残していません」
倉番の一人が、先月の雨で傷んだ小麦は三十袋ほどだったと話した。正確な量を量る前に、濡れた袋を倉の外へ運び出したため、標準箱でいくつ分だったのかは分からない。
ほかにも、鼠に食われた袋や、運び入れる途中で破れた袋があった。
床へこぼれた小麦は拾えるものだけを戻し、土や藁が混ざったものは捨てている。しかし、その量も記録されていなかった。
「これで四十箱全部ですか」
アレクが尋ねると、倉役人は答えに詰まった。
傷んだ袋の大きさは同じではない。鼠に食われた量も、こぼれた小麦も測っていない。おそらく大半は説明できるが、四十箱すべてだと言い切ることはできなかった。
「今後は、一粒こぼすたびに帳簿へ書けということですか」
倉役人の声には、わずかな反発が混じっていた。
「それをしたら、倉の仕事が止まります」
アレクが答えると、倉役人は意外そうな顔をした。
「ですが、四十箱近い違いを放っておくこともできません」
「では、どうします?」
アレクは積まれた小麦袋を見渡した。
すべての袋を毎日数えれば、正確な数字に近づけるかもしれない。しかし、そのためには何人もの倉番が必要になる。入ってくる荷物と出ていく荷物の処理も遅れる。
以前の世界でも、すべての物を常に数え続けていたわけではない。扱う品や失った時の影響によって、確かめ方を変えていた。
「軍へ渡す食料や、高価な品物を優先して確認しましょう。月に一度、帳簿にある量と実際に残っている量を比べます」
「ほかの品は?」
「すべて同じようにはできません。大量に傷んだ時や、袋ごと失った時には記録を残す。少しこぼれたものまで毎回量る必要はありません」
「境目はどう決めます?」
アレクはヨハンを見た。
「そこはヨハンさんに決めてもらいます」
「考えることを投げましたな」
「俺が勝手に決めるよりいいでしょう」
「それは否定しません」
ヨハンは倉の扱う品物と、一日に出入りする量を倉役人から聞いた。
軍用に備蓄する小麦、塩、干し肉は月に一度、帳簿と現物を照合する。高価な香辛料や薬に使う材料は、受け入れと持ち出しのたびに確認する。日常的に使う薪や藁は細かく数えず、普段と大きく違う量が減った時だけ理由を調べる。
損失についても、倉役人が仕事を止めずに済む基準をヨハンが決めることになった。
「商人の倉では、すでに同じようなことをしているところがあります」
倉を出た後、ヨハンが言った。
「そうなんですか」
「高価な品を扱う商人ほど、帳簿の数字だけを信じません。定期的に倉を開け、実際に残っている品を数えます」
「では、俺が考えなくても、方法はあったんですね」
「方法を知っている者がいても、使わなければ意味はありません。すべての倉へ同じ方法を命じれば、確認するだけで人手が足りなくなります」
「何を確かめるかを選ぶ必要がある」
「そういうことです」
大公家の倉で見つかった違いは、六百二十箱の一部にすぎなかった。
翌日から、アレクたちは市場の記録を調べ始めた。
市場へ小麦を持ち込んだ商人の名前と量を、南門の記録と一人ずつ照らし合わせる。ところが、多くの商人で数字が一致していなかった。
南門では百箱分の小麦を積んでいたのに、市場では八十箱しか売っていない者がいる。別の者は五十箱を持ち込みながら、市場の記録には一度も名前がない。
「こんなに多くの商人が横流しをしているとは思えません」
アレクは市場役人へ言った。
「市場を通さずに売っているのでしょう」
「それは許されているんですか」
「禁じてはいません」
市場役人は当然のように答えた。
「宿屋やパン屋は、顔なじみの商人が来れば直接買います。市場へ並べる前に売れば、場所代も掛かりません」
「では、市場の帳簿だけでは町で売られた量を確かめられない」
「最初から、市場で売られた量しか記録しておりません」
アレクは自分が作った表を見直した。
市場で売られた三千百八十箱という数字を、町の中で売られた小麦の総量として扱っていた。しかし、その数字に直接取引は含まれていない。
帳簿が間違っているのではない。
アレクが、帳簿に書かれている数字の意味を取り違えていた。
「大口の直接取引をした時には、役所へ知らせる決まりはありませんか」
「昔から、大きな取引をした者には知らせるよう頼んでいます。ただ、義務ではありません」
「知らせなかった場合の罰もない?」
「ありません。それに、どれだけ売れば大きな取引なのかも決まっておりません」
商人が悪いわけではなかった。
市場を通さない売買が認められ、届け出る量の基準もなく、知らせなくても罰はない。記録に残らないのは、今の仕組みなら当然だった。
「直接取引を禁止しますか」
市場役人が尋ねる。
「禁止すれば、市場の記録は分かりやすくなります」
アレクが答えると、ヨハンが横から口を挟んだ。
「その代わり、宿屋やパン屋は値段の高い市場で買わなければならなくなります。商人は荷を運ぶ手間が増え、市場の場所も足りなくなるでしょうな」
「分かっています。禁止するつもりはありません」
「では、すべて届け出させますか」
「小さな取引まで届け出させたら、商人も役人も面倒になるだけです」
アレクは市場を見回した。
一袋だけ小麦を買った宿屋と、荷車一台分をまとめて買ったパン屋を、同じように扱う必要はない。
「一定以上の量を直接売った時だけ、知らせてもらうのはどうでしょう」
「商人が素直に知らせますか」
「知らせた者に利点を作ります」
「利点?」
「大公家の倉に空きがある時、通常より安く使えるようにします。売れ残った荷を置く場所があれば、商人も傷む前に無理な値段で売らずに済みます」
市場役人は考え込んだ。
「倉を安く使うために、取引を小さく分けて届け出る者が出るかもしれません」
「それなら、同じ相手と同じ日に行った取引は合わせて数えます」
「届け出た量が本当か、誰が確かめるのです?」
「最初から全部を確かめようとは思っていません。城門の記録と市場の記録、それから宿屋やパン屋が買った量を比べて、大きく違うところだけ聞きます」
アレクはヨハンへ顔を向けた。
「どうでしょう」
「最初から町全体へ定めるのは早いでしょうな」
「では、試すだけなら?」
「三か月です」
ヨハンは迷わず期間を決めた。
「三か月の間、大口の直接取引だけを届け出てもらいます。どこからを大口とするかは、市場役人と商人組合の者を交えて決めましょう」
「税は取りますか」
「今は取りません」
「取らないんですか」
「何がどれだけ取引されているのかも分からないうちから、新しい税を決めるべきではありません。まず記録を集めます」
税を取らないと聞けば、届け出る商人も増えるかもしれない。
届け出た商人が利用できる倉の量と日数には上限を設ける。倉が足りなくなれば、軍用の備蓄を優先する。三か月後に記録を見て、制度を続けるか、変えるか、やめるかを決める。
アレクが思いついたのは、大口取引を記録してもらうことだけだった。
それを実際に動かせる形へ整えたのは、ヨハンと市場役人だった。
「まだ、町を出た小麦が残っています」
ヨハンが言った。
「町を出た小麦?」
「南門から入った商人が、すべての荷をヴァイスブルクで売るとは限りません」
アレクたちは、数字の差が大きい商人から順番に調べることにした。
その中でも目立っていたのが、ベルガーという商人だった。
ベルガーは前の月に四度、ヴァイスブルクを訪れている。毎回、南門では百箱前後の小麦を持ち込んだと記録されていた。
しかし、市場で売っているのは七十箱ほどだった。
直接取引をしたという届け出もない。
四度を合わせれば、百箱以上の小麦の行き先が分からなかった。
「四度とも似た量が消えています」
アレクは記録を指でなぞった。
「一度だけなら、数え間違いかもしれません。でも、毎回三十箱ほどです」
「だからといって、盗んだとは限りません」
「分かっています。最初から決めつけません」
「本当に分かっていますか」
「分かっていますよ」
「先ほど、消えたと言いました」
「帳簿から行き先が消えただけです」
「それなら結構です」
ヨハンは市場役人へ、ベルガーが次にヴァイスブルクへ来たら知らせるよう命じた。
三日後、南門から連絡が届いた。
ベルガーは小麦を積んだ二台の荷車とともに、再び町へ入っていた。
アレクたちは市場での売買が一段落するまで待ち、ベルガーを役所へ呼んだ。
四十歳ほどのベルガーは、部屋へ入った時から落ち着かなかった。
「何か問題がありましたでしょうか」
「確認したいことがあります」
アレクは向かいの椅子を勧めた。
「前の月に、四度ヴァイスブルクへ来ていますね」
「はい。南の村々から小麦を買い、こちらへ運んでおります」
「南門の記録では、毎回百箱ほどを運び込んでいます。しかし、市場で売っているのは七十箱前後です」
ベルガーの表情が固くなった。
「残った小麦を、どこへ運びましたか」
「盗んではおりません」
「盗んだとは言っていません」
「ですが、そのような聞き方をされれば」
「申し訳ありません。責めるためではなく、帳簿に残っていない小麦の行き先を知りたいんです」
アレクが言い直すと、ベルガーはヨハンと市場役人の顔を順番に見た。
「本当に、罰するためではないのですか」
「禁止されている取引をしたのでなければ、罰する理由はありません」
ヨハンが答えた。
ベルガーは少し迷った後、ヴァイスブルクへ来た時の商いについて話し始めた。
南の村で買った小麦を市場へ持ち込み、その日のうちに売れるだけ売る。売れ残った小麦は荷車へ戻し、代わりにヴァイスブルクで塩や布を仕入れる。
その後、東門から町を出て、小麦が不足している周辺の村で残りを売っていた。
「では、三十箱は町の中で売ったのではない?」
「はい。東の村では、小麦だけを買いに町まで来られない者もおります。私が塩や布を運ぶついでに持っていけば、そちらでも売れます」
「なぜ、市場の役人へ知らせなかったんですか」
「ヴァイスブルクで売っていないものを、なぜ知らせる必要があるのでしょう」
もっともな答えだった。
「東門を出る時に、荷物を調べられませんでしたか」
「通行証は見せました。ですが、町へ入る時のように荷の量を数えられたことはありません」
アレクはヨハンと顔を見合わせた。
町へ入る荷物は、税や市場の管理に必要なため記録される。だが、町から出る荷物については、武器など一部の品を除き、細かい記録を残していなかった。
南門から入って東門から出た小麦は、帳簿の上ではヴァイスブルクへ入ったままになる。
「俺たちの記録が足りなかっただけですね」
アレクが言うと、ベルガーが不安そうに尋ねた。
「私は、これからも同じ商いを続けてよろしいのでしょうか」
「はい。ただ、町を出る時に、何をどれくらい積んでいるかを門の役人へ伝えてください」
「すべての袋を下ろして数えるのですか」
「そこまではしません。荷物の種類と、おおよその量だけで構いません」
「それならば」
ベルガーは安堵したように頷いた。
話を終えた後、アレクたちは東門へ向かった。
東門は南門より狭く、町を出る農民や小さな荷車が絶えず行き交っている。ここですべての荷を止めて調べれば、すぐに長い列ができる。
「荷車を止めるのは、通行証を確認する間だけにしましょう」
アレクは門を預かる役人へ言った。
「その間に、積んでいる品と量を聞いてください。数は十箱単位くらいの大まかなもので構いません」
「虚偽を言う者がいた場合は?」
「不自然な荷車だけを確かめます。見たところ五十箱も積んでいるのに、十箱だと言うような場合です」
「一台ずつ調べなくてもよいのですか」
「門を通る全員を疑ったら、商人も農民も日が暮れるまで町を出られません」
役人は、出ていく荷車の通行証へ、品目とおおよその量を書き添えることになった。
新しい帳簿を一冊増やす案も出たが、書く場所が増えれば確認する手間も増える。まずは既存の通行記録へ短く書き加え、三か月後に続け方を考える。
それから五日間、アレクたちは城門、市場、倉、大口の買い手が持つ記録を照らし合わせた。
六百二十箱すべての行き先を、一箱ずつ突き止めることはできなかった。
宿屋やパン屋などが直接買ったと確認できた小麦が、およそ二百七十箱。
ヴァイスブルクを通り、周辺の村へ運ばれたものが、およそ百八十箱。
湿気や鼠、袋の破損などで失われたと考えられるものが、およそ五十箱。
それでも百二十箱ほどの差が残った。
古い記録には商人の名前が抜けている箇所があり、城門で量を多めに見積もったと思われる荷車もある。市場では、標準箱へ移し替えず、袋のまま売った取引が記録から漏れていた。
理由を確かめられないものも残っている。
「全部、合いませんでした」
アレクは最初に作った紙へ、新たに分かった数字を書き加えた。
「そうですな」
「悔しくないんですか」
「悔しがれば、古い帳簿へ数字が現れるのですか」
「現れませんけど」
「ならば、これから残す記録を整えるほうが先です」
ヨハンは六百二十と書かれた数字を指した。
「最初、この数字を見て、あなたは何を考えました?」
「誰かが小麦を盗んだか、横流ししたのかと思いました」
「実際は?」
「直接取引と、町を通り抜けた荷が大半でした。倉で傷んだ分もありました」
「数字は、何かが起きていることを教えてくれます。しかし、何が起きたかまでは教えてくれません」
「答えではない?」
「帳簿は、答えではありません。調べるべきところを見つけるための道具です」
アレクは三冊の帳簿を見た。
六百二十箱の差がなければ、倉で傷んだ小麦が記録されていないことも、直接取引の量も、町を通り抜ける荷が記録されていないことも分からなかった。
だが、数字だけを見て商人や倉役人を罪人と決めていれば、実際に起きていたことへ辿り着けなかった。
「数字が合わない時は、まず聞くことですね」
「聞き方にも気をつけなさい」
「ベルガーさんには警戒されました」
「いきなり行方を尋ねられれば、誰でも疑われていると思います」
「次からは、もう少し考えます」
「次が来る前に考えてください」
三か月の試験を始めることが決まり、市場と四つの城門へ新しい指示が出された。
市場を通さない大口取引は、売り手か買い手のどちらかが、品物と量を市場役人へ届け出る。
届け出た商人は、大公家の倉に空きがある場合、一定の日数に限り、通常より安い費用で荷を預けられる。
城門では、町へ入る荷だけでなく、出ていく荷の種類とおおよその量も記す。
ただし、荷車をすべて止めて袋を数えることはしない。記録と見た目が大きく違う時だけ、詳しく確かめる。
大公家の倉では、軍用の食料と高価な品を優先し、帳簿と現物を定期的に照合する。
ヨハンはそれぞれの役人へ、三か月の間に起きた問題も記録するよう命じた。
届け出が多すぎて市場の仕事が止まったなら、対象となる量を引き上げる。倉の利用を求める商人が多すぎたなら、使える日数を短くする。城門へ列ができたなら、記録する内容をさらに減らす。
制度を守らせるだけでなく、その制度が実際に使えるものかどうかも確かめる。
アレクは南橋の工事を思い出した。
橋の位置も、街道の曲げ方も、最初に描いた図のままでは完成しなかった。実際に川底を調べ、長い荷車を動かし、畑を耕す者と話したことで形が変わった。
帳簿や決まりも、紙の上で作れば終わりではない。
動かしてみなければ、どこに無理があるのかは分からなかった。
その日の午後、アレクはエリーゼとともに市場を歩いていた。
二人の少し後ろには、トーマスとエリーゼの侍女がついている。
「今日は帳簿を持っていないのですね」
エリーゼがアレクの両手を見て言った。
「さすがに市場を歩く時まで持ちたくないよ」
「ここ数日、ずっと数字を見ていたと聞きました」
「ヨハンさんから?」
「叔父上からです。アレクが小麦を六百箱以上なくしたような顔をしていると」
「なくしたのは俺じゃない」
「でも、見つからなかったのでしょう?」
「大半は見つかったよ。最初から消えていなかったものも多かった」
「消えていないのに、見つからないのですか」
「市場を通らずに売られたり、町から出ていったりして、帳簿に書かれていなかったんだ」
エリーゼは市場の入口へ並ぶ荷車へ目を向けた。
南橋を渡ってきたらしい荷車には、小麦袋が高く積まれている。橋が広くなったことで、以前より長い荷車も市場まで来られるようになった。
「橋を渡ったことも、帳簿には書かれますか」
「今は書いていない。でも、南門から町へ入れば、荷物は記録される」
「それなら、あの荷車の小麦も、アレクが数えるのですね」
「俺が全部数えるわけじゃないよ」
「少し残念です」
「どうして?」
「アレクが、あれだけの袋を一つずつ数えるところを見てみたかったので」
「絶対に途中で分からなくなる」
「トーマスにも手伝ってもらえばいいではありませんか」
後ろを歩いていたトーマスが顔を上げた。
「俺を巻き込まないでください」
「護衛でしょう?」
「護衛は小麦袋を数える仕事ではありません」
「橋の木材は数えていたと聞きました」
「誰から聞いたんですか」
トーマスがアレクを見る。
「俺じゃない」
「叔父上です」
「大公殿下は、なぜそのようなことまでエリーゼ様に話しているんです」
「面白かったからではありませんか」
エリーゼが笑い、トーマスは諦めたように息を吐いた。
市場の中では、商人の呼び声と荷車の音が絶えず響いている。
パン屋の前には焼き上がったばかりのパンが並び、近くの屋台では干した果物を売っていた。穀物を量る場所では、商人と市場役人が同じ標準箱を使い、取引量を確かめている。
少し前まで、戦の影響で市場に並ぶ品は減り、人の表情も暗かった。
税を下げ、標準箱を作り、橋を架け替えたからといって、すべてが元へ戻ったわけではない。家族を失った者も、畑や店を失った者もいる。
それでも、町は少しずつ動き始めていた。
「楽しそうですね」
隣から言われ、アレクはエリーゼを見た。
「そう見える?」
「はい。帳簿の話をしている時よりも」
「帳簿を見るのが楽しい人は、あまりいないと思う」
「叔父上なら楽しむかもしれません」
「アルベルト様も、ヨハンさんへ任せると思うよ」
二人の前を、塩樽を積んだ荷車が通り過ぎた。
御者が道を空けてもらった礼を言い、馬をゆっくりと市場の奥へ進めていく。
「戦の話をしている時よりも、楽しそうです」
エリーゼの声が少しだけ小さくなった。
アレクはすぐに答えられなかった。
戦場では、誰かより先に判断しなければ人が死ぬ。勝てば喜ぶ者はいるが、同じだけ何かを失った者も残る。
市場へ荷車が増えれば、商人が品物を売り、町の者が必要なものを買える。橋を渡る人が増えても、それを悲しむ者はいない。
「俺は、こっちのほうが好きだよ」
アレクが答えると、エリーゼは穏やかに頷いた。
「私もです」
戦のない日々が、いつまで続くのかは分からない。
それでも今は、剣や鎧の音ではなく、商人の声と荷車の車輪が町に響いていた。
市場から城へ戻ると、正門の前に見慣れない馬車が止まっていた。
馬車の扉には、アルヴェイン大公家の紋章とは異なる印が刻まれている。御者の隣には護衛が二人座り、長旅で汚れた外套を着ていた。
「誰か来ているみたいだな」
アレクが言うと、トーマスが馬車の印を確かめた。
「家政評議会の使者だ」
「家政評議会?」
「大公殿下の直轄領だけでなく、大公国全体の財政や土地、軍、法に関わる問題を扱う者たちだ。ヴァイスブルクへ来ることは滅多にない」
アレクたちが城内へ入ると、使用人から、アルベルトが執務室で待っていると告げられた。
エリーゼは侍女とともに自室へ戻り、アレクとトーマスはそのまま執務室へ向かった。
部屋にはアルベルト、ゲオルク、ヨハン、ヴァイス男爵が集まっていた。
卓上には、赤い封蝋が押された書状が置かれている。
「来たか」
アルベルトがアレクを見た。
「家政評議会から使者が来たと聞きました」
「ああ。十日後に、領地統治について話し合う評議が開かれる」
「アルベルト様が出席するのですか」
「俺が呼ばれることは珍しくない」
「では、どうして俺まで呼ばれたんでしょう」
「まだ、お前を呼ぶとは言っていない」
「その言い方は、呼ばれているということですよね」
アルベルトは答えず、卓上の書状をアレクの前へ押し出した。
アレクは封を開かず、書状の表へ記された宛名を見た。
アルベルトに同行する者として、アレク・ハルトマンの名が記されている。
「本当に俺の名前があります」
「見れば分かる」
「どうして、家政評議会が俺を知っているんですか」
「ヨハンが、ヴァイスブルクの状況を報告していたからだ」
アレクはヨハンへ顔を向けた。
「俺のことを書いたんですか」
「事実を報告しました」
「どこまで?」
「市場税を一時的に下げたこと、標準箱を導入したこと、南橋を架け替えたこと、倉の記録を見直していることです」
「全部じゃないですか」
「あなた一人の功績として書いたわけではありません」
ヨハンは淡々と答えた。
市場税を下げる判断をしたのはアルベルトであり、実際の税収を計算したのは財務官だった。標準箱を作ったのは職人で、商人へ使わせたのは市場役人である。橋を架けたのも職人や人足であり、費用は大公家、商人組合、周辺の村が負担していた。
ハイゼンとの交易を続けられたのも、マティアスやクレーマー商会との取り決めがあったからだった。
ヨハンの報告には、誰が何を提案し、誰が実際の仕事を担ったのかが分けて記されている。
「それなら、俺を呼ぶ必要はないのでは?」
「提案した者から、直接話を聞きたいのでしょう」
「ヨハンさんが説明したほうが正確です」
「私も同行します」
「そうなんですか」
「当然でしょう。あなた一人へ数字を説明させれば、評議が翌日まで終わりません」
「そこまで酷くないですよ」
「今日の朝まで、六百二十箱の小麦が盗まれた可能性を考えていた者が言いますか」
「もう違うと分かりました」
「調べたからです」
「二人とも、その話は後にしろ」
アルベルトが会話を止めた。
「家政評議会は、ヴァイスブルクで行ったことを、ほかの土地でも使えるか確かめようとしている」
「同じように市場税を下げるんですか」
「それを含めて話し合う。ただし、土地が違えば事情も違う。ヴァイスブルクで上手くいったからといって、そのまま大公国全体へ広げられるとは限らない」
アレクは、町の市場と城門を思い浮かべた。
同じヴァイスブルクの中でさえ、市場と倉と城門では記録するものが違っていた。町が変われば、扱う品も、通る商人の数も、役人の人数も変わる。
南橋と同じ方法で、山の中に橋を架けられるとも限らない。
「俺が評議に呼ばれたのは、何かを決めるためですか」
「違う。お前に決める権限はない」
「安心しました」
「そこで安心するな」
「でも、大公国全体の税を俺に決めろと言われても困ります」
「誰も十五歳の小姓へ、そこまで任せるとは言っていない。何を考え、なぜそうしたのかを聞かれたら答えろ」
「分からないことを聞かれたら?」
「分からないと言え」
「それでいいんですか」
「知ったふりをするよりはな」
アルベルトは椅子の背へ体を預けた。
「それと、評議へ出るための衣服を用意させる」
「今着ているものでは駄目ですか」
「駄目だ」
「どうしてです?」
「お前は大公家の小姓として同行する。ヴァイスブルクの役人と話す時の格好で、家政評議会の前へ出すわけにはいかない」
アレクは自分の服を見下ろした。
市場や倉を歩くことが多いため、動きやすく、汚れても困らない服を選んでいる。今日も裾には倉の床についた麦藁が残っていた。
「新しく作るんですか」
「大公家にあるものを、お前の体に合わせて直す」
「十日で間に合います?」
「針子を、お前と同じ速さで仕事をすると思うな」
「俺だって、十日あれば仕事を終わらせます」
ヨハンが小さく咳払いをした。
「今朝まで掛かった帳簿は、三日前に渡したものです」
「ほかの仕事もあったんですよ」
「針子にも、ほかの仕事はあります」
「ヨハンさんは、どちらの味方なんですか」
「事実の味方です」
ヴァイス男爵が堪えきれずに笑い、ゲオルクも口元を緩めた。
「笑うところではないでしょう」
「いや。中央へ行っても、その調子でいられるかと思ってな」
ヴァイス男爵が言った。
「そんなに怖いところなんですか」
「少なくとも、ここにいる者より面倒な相手は多い」
「帰りたくなってきました」
「まだ出発もしていない」
アルベルトは呆れたように言った。
アレクはもう一度、自分の名前が書かれた書状へ目を落とした。
これまで見てきたのは、ヴァイスブルクという一つの町と、その周囲にある村々だった。
市場の税を下げる時も、橋を架ける時も、目の前にいる商人や農民、職人と話すことができた。困っていることを聞き、実際の場所を見てから考えられた。
だが、大公国全体の話になれば、見たことのない町や村のことまで考えなければならない。
帳簿の数字だけを見て小麦が盗まれたと思いかけたように、遠く離れた土地を記録だけで判断すれば、実際に起きていることを見誤るかもしれない。
「不安そうだな」
アルベルトが尋ねた。
「少しだけです」
「嘘をつけ」
「かなり不安です」
「それでいい」
「いいんですか?」
「何も知らずに自信だけを持つよりはましだ。評議では、他の者の話をよく聞け」
「はい」
「だが、聞かれた時まで黙っている必要はない。お前がヴァイスブルクで見たことは、ここにいなかった者には分からん」
アレクは書状の上に置かれた自分の名前を見つめた。
市場の帳簿に生じた六百二十箱の差から始まった調査は、城門や倉の仕組みを変えることにつながった。
記録されていないものは、存在しないのではない。
見えていないだけだった。
ヴァイスブルクの外にも、帳簿や報告だけでは見えない暮らしがある。そこに住む者が何を作り、何に困り、どのように土地を守っているのか、アレクはまだほとんど知らない。
十日後、アレクはアルベルトとともに、その広さの一端を見ることになる。
不安が消えたわけではなかった。
それでも、知らないままでいるよりは、自分の目で確かめてみたかった。
第十二話を読んでいただき、ありがとうございました。
数字が合わない理由を追う中で、アレクは帳簿が答えそのものではなく、現実を調べるための手掛かりであることを学びました。
ヴァイスブルクで行われた試みは中央にも届き、次回、アレクはアルベルトとともに大公国の統治を話し合う場へ向かいます。
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