第十一話 橋を架ける
話し合いを重ね、ようやく動き始めた橋の架け替え。
しかし、計画を立てることと、実際に形にすることは同じではない。
地面を掘れば、想定していなかった問題が見つかる。
道を動かせば、そこには誰かの土地がある。
人を増やせば、当然その分だけ金も必要になる。
前世の知識を持つアレクにも、橋を造る技術はない。
ならば、知っている者に聞けばいい。
職人、農民、役人、商人。
それぞれが持つ知識と経験を借りながら、アレクは初めて「自分が関わったもの」を形として残そうとする。
橋を架け直す。
言葉にすれば、それだけだった。
だが実際に始めてみると、俺が想像していたより遥かに面倒な仕事だった。
「これ、いつ終わるんです?」
「始まったばかりですぞ」
ヨハンが何でもないことのように答える。
「分かってますけど」
俺たちはリューデン街道の南橋に来ていた。
ヴァイスブルクから南東へ伸びる街道。その途中を流れる川に架けられた木造橋だ。
長さは二十メートルほど。
現代の感覚なら大した橋ではない。
だが、この世界では違う。
重機はない。
クレーンもない。
電動工具もない。
使えるのは人間と馬、それから滑車や縄、斧、鋸、槌といった道具だけだ。
ギィ……ギギギ……。
太い縄が軋む。
「引け!」
「せーの!」
「うおおおっ!」
十数人の男たちが綱を引き、古い橋脚へ結びつけられた木材を持ち上げていく。
ギギギギ……。
「止めろ!」
職人頭の声で全員が動きを止めた。
「固定するぞ!」
「杭を持ってこい!」
カン!
カン!
カン!
槌の音が川辺へ響く。
「……すごいな」
俺が呟く。
「何がです?」
「全部、人の力でやるんだなって」
「橋なのですから、人が造るのは当然でしょう」
「まあ、そうなんですけど」
前世では橋の工事なんて、遠くから大型機械が動いているのを見るくらいだった。
自分がどうやって造られているのか考えたことすらない。
でも、ここでは一つ一つが見える。
木を切る人間。
運ぶ人間。
加工する人間。
縄を作る人間。
石を運ぶ人間。
食事を用意する人間。
一つの橋を造るために、何十人もの仕事が繋がっている。
「アレク殿」
「はい?」
「ぼんやりしているなら、あちらを確認してください」
「何を?」
「木材の数です」
「俺、見学に来たんじゃないの?」
「誰がそのようなことを言いました?」
「……誰も言ってない」
「なら働きなさい」
「はい」
最近、この人に逆らえなくなってきた。
◇ ◇ ◇
「一本、二本、三本……」
俺は木材置き場で数を確認していた。
横ではトーマスが板材を数えている。
「何で俺まで」
「俺に聞くなよ」
「お前が橋なんて言い出したんだろ」
「橋が危ないって言ったのは布商人」
「でも話を大きくしたのはお前」
「……」
否定できない。
「四十二、四十三……」
「おい」
「何?」
「さっき四十三って言わなかったか?」
「……」
「最初からだな」
「嘘だろ!」
「俺は知らん」
「覚えとけよ!」
「何を?」
「数を!」
また最初から数える。
面倒だ。
でも。
こういう仕事も必要なんだろう。
「一本、二本……」
その時、職人たちの方から大きな声が聞こえた。
「止めろ!」
俺とトーマスが同時に振り返る。
「どうした?」
職人たちが川辺に集まっている。
ヨハンもそちらへ向かっていた。
「行くぞ」
「うん」
俺たちも走った。
◇ ◇ ◇
「何があったんです?」
職人頭の男が川の中を指した。
「橋脚を立てる場所の地盤が悪い」
「地盤?」
「ああ」
川岸近くでは、作業員が長い棒を川底へ突き刺している。
ズブッ。
かなり深くまで入った。
「柔らかい?」
「想定よりな」
職人頭が険しい顔をしている。
「このまま柱を立てても沈む可能性がある」
「前の橋は?」
「あちらだ」
少し上流。
古い橋脚の跡がある。
「同じ場所に建てないんですか?」
「新しい橋は幅を広げる予定だろう」
「あ」
今回の目的は、単に壊れた橋を元へ戻すことではない。
商人組合が費用を出す代わりに、以前より重い荷車が通れる橋へする。
そのため橋幅を広げ、橋脚の位置も一部変える予定だった。
「別の場所なら?」
俺が聞く。
「調べる必要がある」
「どれくらい?」
「二日か三日」
「それなら調べれば」
「問題はそこだけではありません」
ヨハンが口を挟んだ。
「何です?」
「位置を変えれば、設計も変わります」
「……」
「木材の長さが合わなくなる可能性がある。追加加工が必要になれば工期も費用も増える」
「どれくらい?」
「それを今から調べます」
「……」
嫌な予感。
「アレク殿」
「はい」
「あなたも残ります」
「何で!?」
「勉強です」
「橋の?」
「自分が提案した事業がどうなるか、最後まで見なさい」
「……はい」
また正論だった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
仮設の天幕に、工事関係者が集められた。
職人頭。
大工。
石工。
村長三人。
オットー。
ヨハン。
そして俺。
机の上には簡単な橋の図が広げられている。
「結論から言います」
職人頭が説明を始めた。
「現在予定している位置では、中央橋脚の一つが十分な強度を得られない可能性があります」
「位置を変える場合は?」
オットーが聞く。
「下流へ十二歩ほど動かせば、固い地盤があります」
「ならそこへ」
「ただし」
また、ただし。
最近この言葉が嫌いになってきた。
「橋の向きが変わります」
「向き?」
俺は図を見る。
「現在の街道へ真っ直ぐ繋げるには、橋を斜めに架けなければなりません」
「それだと?」
「全長が長くなる」
「どれくらい?」
「およそ三歩」
「……三歩くらいなら」
「木材が足りません」
「ですよね」
ヨハンが腕を組む。
「追加費用は?」
「木材だけなら八十デナーほど。ただし加工と人足を含めれば百二十前後」
「高い」
「橋全体から見れば大きな額ではありません」
「だからといって湧いて出るわけではありません」
財務官。
通常運転。
「じゃあ」
俺は図を見る。
「今ある木材をつなぐのは?」
職人頭がすぐに首を振る。
「どこを継ぐ?」
「この辺?」
「一番負荷が掛かる場所だ」
「駄目?」
「駄目だ」
「即答」
「橋が落ちてもいいならやる」
「絶対駄目」
当たり前だ。
俺は黙って図を見る。
現代ならコンクリート。
鉄骨。
杭打ち。
色々な方法がある。
でも俺は橋梁技師じゃない。
詳しい構造なんて分からない。
知っている言葉だけ出しても意味がない。
「石で土台作ったら?」
「できます」
「できる?」
「ただし川の流れを一度変える必要があります」
「……」
「工期は一か月以上延びるでしょう」
「駄目か」
「駄目ではない。ただ冬までに完成しない」
「雪解けに間に合わない」
「そういうことです」
俺は頭を掻いた。
「分かんないな」
正直に言った。
誰も笑わなかった。
「俺、こういうの全然知らないです」
「知っていたら怖いですな」
ヨハンが言う。
「十五ですぞ」
「それ最近便利に使ってません?」
「事実です」
職人頭が図を見ながら言った。
「一つ方法はある」
「何です?」
「橋の位置を変える。ただし街道側を曲げる」
「街道を?」
「ああ」
橋を斜めにするのではなく。
橋自体は短い位置へ真っ直ぐ架ける。
その代わり、橋へ入る前の道を少し曲げる。
「それなら木材は?」
「今ある分で足りる」
「強度は?」
「問題ない」
「費用は?」
ヨハン。
速い。
「道を整える分、追加で五十から六十デナー」
「半分?」
「橋を伸ばすよりは安い」
「でも」
俺は図を見る。
「荷車、曲がれます?」
全員が少し止まる。
「何だ?」
職人頭。
「橋へ入る直前に急に曲げたら、大きい荷車が曲がれないんじゃ」
「……」
職人頭が図を見る。
オットーも見る。
「確かに」
俺は前世のトラックを思い浮かべた。
長い車ほど小回りが利かない。
荷車も同じだろう。
「なら道の曲がりを緩くする」
職人頭が指で線を引く。
「このくらい」
「畑に入ります」
村長が言った。
「誰の?」
「うちの村のハンスという男です」
「どれくらい?」
「畑の端を少し」
「……」
また人。
また交渉。
ヨハンが俺を見る。
「行ってきなさい」
「俺!?」
「あなたが気づいた問題です」
「それ理由になってます?」
「十分です」
「……」
俺はため息をついた。
◇ ◇ ◇
ハンスは四十代の農民だった。
俺と村長、それからオットーで畑を訪れた。
「畑を削る?」
当然。
嫌そうな顔をされた。
「ほんの端だけです」
俺が説明する。
「ほんの端でも畑は畑だ」
「ですよね」
「そこから毎年麦が取れる」
「はい」
「それを道路にするなら、俺は毎年損をする」
「……」
正しい。
「土地を買い取る?」
俺がオットーを見る。
「可能だ」
「大公家が?」
「金があればな」
また金。
「いくら?」
ハンスが言う。
「売らん」
「え?」
「金の問題じゃない」
「じゃあ」
「親父から継いだ畑だ」
「……」
俺は黙った。
こういうもの。
前世でもあった。
金額だけの問題じゃない土地。
「別の畑と交換?」
俺が聞く。
「どこの」
村長が考える。
「村の東側に、大公家直轄の空き地がある」
「畑にできます?」
「今は牧草地だ」
「土は?」
「悪くない」
ハンスが少し反応する。
「どれくらいある?」
「削る畑より広い」
「……」
俺はハンスを見る。
「交換なら?」
「すぐには決められん」
「ですよね」
「家内と話す」
「もちろん」
そこで俺は口を閉じた。
昔なら。
大公家の事業なんだから。
少しくらい。
そう思っていたかもしれない。
でも。
第十話。
商人たちに言われた。
『先に話を聞いてほしい』
「三日」
ハンスが言った。
「三日待ってくれ」
「分かりました」
俺は頷いた。
「それまで工事は?」
オットーに聞く。
「別の部分を進められる」
「じゃあ待ちましょう」
ハンスが少しだけ意外そうな顔をした。
「いいのか?」
「嫌なのに無理やり決めたら、後で揉めるでしょう」
「……」
「それに」
俺は笑った。
「橋は逃げません」
ヨハンの真似。
少し。
上手くなった気がする。
◇ ◇ ◇
三日後。
ハンスは畑の交換を受け入れた。
ただし条件が一つ付いた。
「最初の一年、税を免除してほしい?」
「新しい畑は、すぐ同じ収穫量にはならん」
確かに。
牧草地だった土地を畑へ変える。
耕す必要がある。
「ヨハンさん」
「一年全部は駄目です」
「早い」
「半分」
「何が?」
「初年度の地租を半額」
「……」
ハンスが考える。
「それなら」
「受ける?」
「ああ」
決まった。
俺はヨハンを見る。
「最近、交渉に慣れてません?」
「二十五年以上やっています」
「俺と比べるのが間違いだった」
「ようやく分かりましたか」
「はい」
◇ ◇ ◇
工事は再開された。
橋の位置を少し下流へ移し、街道側を緩やかに曲げる。
計画変更によって数日の遅れは出た。
だが大きな追加費用は避けられた。
その代わり。
「人が足りない?」
「足りません」
職人頭が言う。
「村から出る人足は予定通りですよ?」
「石運びに使ってる。道路側まで同時にやるなら足りん」
「また?」
「何だ、またとは」
「問題が増えるなって」
「工事なんてそんなもんだ」
そういうものらしい。
「雇う?」
ヨハンを見る。
「金は?」
「ですよね」
「ただし」
「何かある?」
「戦後で仕事を失った者がいます」
「……」
ヨハンの言葉に俺は顔を上げた。
「城壁修理が終わった人?」
「それもいます。ほかにも戦で主人を失った従者、荷役の仕事が減った者など」
「雇える?」
「日当を払えば」
「でも金」
「橋の予算に人足費はあります」
「足りる?」
「使い方次第です」
「……」
何か。
思いつく。
「全部同じ日当?」
「仕事によります」
「じゃあ」
俺は少し考えた。
「早く終わったら、浮いた日数分から少し追加で払うのは?」
「……」
ヨハンが俺を見る。
「何です?」
「なぜ?」
「早く終わらせようって思うかなって」
「手を抜く可能性があります」
「……あ」
速さだけ競わせたら。
雑に造る。
あり得る。
「じゃあ完成後に職人頭が確認して、問題なかったら」
「それなら」
職人頭が口を挟む。
「悪くない」
「本当?」
「ああ。ただし橋脚や梁は俺たち職人の仕事だ。素人に触らせるな」
「もちろん」
「人足に任せるのは土運び、石運び、道作り」
「それなら?」
「使える」
ヨハンが計算を始める。
「予定工期より五日早く終わった場合、人足費の残額から一部を追加報酬として出す」
「できます?」
「上限を決めれば」
「じゃあ」
「待ちなさい」
「何です?」
「まだ私が計算しています」
「はい」
怒られた。
でも。
少し楽しい。
思いつく。
専門家に穴を指摘される。
直す。
実際に使える形にする。
最近。
この流れが好きになってきた。
◇ ◇ ◇
工事開始から二十七日。
ようやく橋の形がはっきりと見えるようになってきた。
川の両岸から太い梁が伸び、その上へ職人たちが一枚ずつ板を並べている。
カン! カン! カン!
朝から絶え間なく響いていた槌の音も、今ではすっかり聞き慣れたものになっていた。
「アレク!」
橋の向こう側からトーマスが叫んだ。
「何?」
「こっち来い!」
「何で?」
「いいから!」
俺は仮設の渡し板を使って反対側へ向かった。
工事用に作られただけの簡単な足場なので、歩くたびに板がギシギシと鳴る。
「これ、怖いな……」
「落ちるなよ」
「言うなよ。余計怖くなるだろ」
思わず下を見ると、足元を川の水が流れていた。高さはそれほどでもないが、だからといって落ちたいとは思わない。
どうにか向こう側まで渡り切り、俺はトーマスの隣へ立った。
「それで、何なんだ?」
「あれを見ろ」
トーマスが指した先には、一台の大きな荷車が止まっていた。
馬が二頭繋がれ、荷台には大量の袋が積まれている。
「試すらしいぞ」
「もう?」
「ああ」
「荷物は?」
「石を詰めてる」
「本当に?」
俺は思わず荷車を二度見した。
以前の橋なら重量制限に引っかかっていた大きさだ。
「もし壊れたらどうするんだよ」
「職人頭が大丈夫だって言ってる」
「それでも怖いな……」
橋の周囲にいた職人たちも作業を止め、荷車を見守っていた。
「行け!」
職人頭の声が響く。
「はいっ!」
御者が手綱を振るうと、二頭の馬がゆっくり歩き始めた。
カラ……カラ……。
車輪が新しい橋板へ乗る。
ギシッ。
橋から音がした瞬間、俺の身体まで固まった。
「大丈夫なのか?」
「俺に聞くなよ」
トーマスも緊張しているらしく、さっきまでの軽い口調ではなかった。
カラカラカラ……。
荷車はゆっくりと橋の中央へ進んでいく。
重みを受けた橋がわずかに沈んだように見えた。
「……」
思わず息を止める。
だが職人頭は慌てていない。
橋脚や梁の状態を確認しながら、大きな声を上げた。
「そのまま進め!」
御者が再び馬を進ませる。
荷車は中央を越え、そのまま反対側へ向かっていった。
そして最後の車輪が橋を降りる。
一瞬だけ静寂が訪れた。
「渡ったぞ!」
誰かが叫んだ。
「おおおおおっ!」
職人や村人たちから一斉に歓声が上がった。
俺も思わず笑ってしまった。
「できた……」
「ああ」
隣のトーマスも笑っている。
「お前が作ったみたいな顔するなよ」
「してないって」
「してる」
「俺、橋の作り方なんて何も知らなかったんだぞ」
「でも、お前が言い出さなかったら、こんな橋にはなってなかっただろ」
「……」
その言葉を聞いて、改めて完成した橋を見た。
俺一人では絶対に造れなかった。
職人が橋を設計し、商人が金を出し、村人が石や木材を運び、役人が土地を調整し、ヨハンが金を計算した。
その全てが少しずつ繋がって、ようやく一本の橋になった。
「なんかさ」
「何だ?」
「戦で勝った時より嬉しいかもしれない」
「変な奴だな」
「そう?」
「普通は橋より戦功だろ」
「俺はこっちの方がいい」
「……そうか」
俺はもう一度、新しい橋を眺めた。
この橋は明日も誰かが渡る。
来年も、その先も、壊れない限り誰かが使い続ける。
商人が荷車を走らせ、農民が作物を運び、兵士が通り、もしかしたら子供たちも渡るだろう。
いつか俺がヴァイスブルクからいなくなったとしても、この橋はここに残るかもしれない。
「……いいな」
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
◇ ◇ ◇
翌日、橋の完成を祝うような大げさな式典は行われなかった。
アルベルトが現場を訪れ、工事に関わった職人たちへ酒樽を二つ渡しただけだった。
「少なくないですか?」
俺が聞くと、アルベルトが怪訝そうな顔をする。
「何がだ?」
「もっとこう、完成を祝うとかないんですか?」
「橋一本造るたびに式典をしていたら、それだけで金がなくなる」
「最近、ヨハンさんみたいなこと言いますね」
「財政を預かる者の気持ちが少し分かってきた」
「やめてくださいよ」
「なぜだ?」
「殿下まで金に細かくなったら、誰が金を使うんです?」
「お前は私を何だと思っている」
「使う側です」
「正しい」
「認めるんだ……」
アルベルトは小さく笑い、そのまま新しい橋へ足を踏み入れた。
俺もその隣を歩く。
「どうだ?」
「何がです?」
「自分が関わった橋は」
「俺が造ったわけじゃないですよ」
「それくらい知っている」
「でも……」
俺は足元の新しい橋板を見る。
「嬉しいです」
「そうか」
「はい」
アルベルトは少しだけ歩調を緩めた。
「なら覚えておけ」
「何をです?」
「国を治めるというのは、こういうものだ」
「橋を造ること?」
「それもある」
ちょうど向こう側から荷車が一台やって来た。
以前の橋より幅が広くなったため、荷車が通っていても人が端を歩けるだけの余裕がある。
「道を直し、橋を架け、市場を守り、畑を増やす。そして人々の争いを裁く。そういう仕事も全て、国を治めるということだ」
「……はい」
「戦だけが領主の仕事ではない」
「それは最近、少し分かってきました」
「むしろ戦をしていない時間の方が長い」
「そうであってほしいです」
「私もだ」
意外な言葉だった。
「殿下でもそう思うんですね」
「どういう意味だ?」
「戦、嫌いじゃないのかと思ってました」
「誰が好き好んで金のかかる戦などする」
「でも殿下、戦場では楽しそうに見える時ありますよ」
「勝てることと、好きなことは別だ」
「……なるほど」
その言葉は覚えておこうと思った。
俺はまだアルベルトという人間のことを、分かっているようで分かっていない。
こうして一緒にいる間に、少しずつ知っていけばいいのだろう。
◇ ◇ ◇
橋が完成して三日後、俺は再びヨハンの執務室にいた。
「こちらが最終費用です」
「見たくない」
「見なさい」
「はい……」
俺は渋々帳簿を受け取った。
ところが数字を追っていくうちに、あることに気づいた。
「……予定より少ない?」
「二十七デナーほどですが」
「本当に?」
「人足の配置を変更したことと、村側が予定より多く石材運搬を引き受けてくれたことが大きいですな」
「追加報酬は?」
「当然、支払い済みです」
「それでも予算より少なく済んだ?」
「はい」
「やった!」
「ただし」
「またそれですか」
「直轄林から出した木材については、帳簿上の現金支出には含まれておりません」
「……つまり、本当はもっと使ってる?」
「当然です。木材も大公家の資産ですからな」
「ですよね」
そう簡単に大成功とはいかないらしい。
「ですが」
ヨハンが帳簿を閉じた。
「総合的に見れば悪くありません」
「それ、褒めてます?」
「かなり」
「本当に!?」
「騒がないでください」
この人に褒められると、なぜか他の人に褒められるより嬉しい。
散々駄目出しされてきたからだろうか。
「財務官殿」
「何です?」
「俺、少しは成長しました?」
「調子に乗るので答えません」
「そこを何とか」
「まだまだです」
「やっぱり」
「ですが、最初の頃よりは話が通じるようになりました」
「最初どれだけ酷かったんですか、俺」
「知識だけで何でも解決できると思っているところがありましたな」
「……そんなつもりは」
「本人が気づいていないから厄介なのです」
「痛いところ突くなぁ」
ヨハンは少しだけ笑った。
「ですが、それでよいのです」
「何が?」
「知らないことを知らないと言えるようになった。それだけでも大きな進歩です」
「……」
確かに。
橋の地盤の問題が起きた時、俺には何も分からなかった。
前世の知識を探しても、答えなんて出てこなかった。
それでも職人に聞けば、方法が出てきた。
村人に聞けば、この土地の事情が分かった。
ヨハンに聞けば、金の問題が見えた。
「全部、自分で知ってる必要はない?」
「領主や指揮官になるのであれば、むしろ全てを自分でやろうとする方が危険でしょう」
「俺、小姓なんですけど」
「今は、ですな」
「怖い言い方しないでくださいよ」
俺が苦笑すると、ヨハンも小さく笑った。
◇ ◇ ◇
同じ日の午後、西方から新しい報告が届いた。
いつもの軍議室に、アルベルト、ヨハン、オットー、そして俺が集められる。
「グランヴァルト軍ですか?」
俺が聞くと、ゲオルクが頷いた。
「ああ」
「マティアスは?」
「なぜ真っ先にそいつなんだ」
アルベルトが呆れた顔をする。
「気になるので」
「正直だな」
「それで、どうなったんです?」
ゲオルクは報告書へ目を落とした。
「グランヴァルト軍はシュヴァルツ伯領東部の主要街道三本を確保した。現在はハイゼンから前線までの道路補修を進めている」
「三本……」
思わず自分が関わった橋を思い出す。
こちらは橋一本を完成させるのに二十七日もかかった。
それに対して向こうでは、複数の街道を同時に整備している。
単純に比べられるものではないと分かっていても、規模の違いを感じずにはいられなかった。
「マティアス・クレーマーは兵站奉行として工事全体を統括しているそうだ」
「やっぱり」
「さらに、ハイゼン周辺の村に対する物資供給の方法を変更した」
「どう変えたんです?」
「これまでは軍が必要な量を決め、それぞれの村へ供出させていた。それを村ごとの契約制へ変更したそうだ」
「契約?」
俺は顔を上げた。
「村側に、何をどれだけ出せるのか申告させる。軍は提示された物資を一定価格で買い取る。その代わり、契約した量については期限内の納入を義務付ける」
「……なるほど」
第九話でマティアスが商人たちにしていたことと同じだ。
こちらから一方的に「これを持ってこい」と命じるのではなく、相手に「何なら出せる」と聞く。
それを今度は商人ではなく、村そのものに使っている。
「結果は?」
「まだ始まったばかりだから何とも言えん。ただし、参加を希望する村は予想より多いそうだ」
「どうしてだろう」
「金になるからだ」
アルベルトが答えた。
「軍に勝手に持っていかれるくらいなら、最初から売った方がいい。それに村側も、どれだけ出せばいいのか事前に分かる」
「そうか……」
また一つ、マティアスは俺より先へ進んでいる。
以前なら、それを知っただけで焦っていたかもしれない。
「悔しいか?」
アルベルトが俺の顔を見て聞いた。
「少しは」
「そうか」
「でも、前ほどじゃないです」
「なぜだ?」
俺は少し考えてから答えた。
「俺は俺で、今できることをやればいいのかなって」
橋一本だった。
マティアスが動かしている規模と比べれば小さい。
それでも、俺は橋一つを通して多くのことを知った。
「ようやく分かってきたな」
「何がです?」
「人には順番があるということだ」
「順番?」
「ああ。マティアスにはマティアスが積み上げてきた経験がある。お前にはまだそれがない」
「はい」
「だが、お前にはお前にしかないものもある」
「……」
前世の知識。
俺の頭には真っ先にそれが浮かんだ。
もちろん、口には出さない。
「それが何なのか、私には分からん」
アルベルトは続けた。
「自分で探せ」
「はい」
俺は素直に頷いた。
マティアスと同じことをする必要はない。
あの人に追いつくために、あの人の真似だけをする必要もない。
俺には俺の知っていることがある。
そして、この世界でこれから覚えていくこともある。
その二つをどう使うのか。
まだ答えは出ていない。
◇ ◇ ◇
その日の夜、俺は一人で城壁の上にいた。
夜風は少し冷たく、昼間の熱が残っていた石壁からゆっくりと温度を奪っていく。
俺は城壁に手を置きながら、西の暗闇を眺めていた。
「こんなところにいたの?」
聞き慣れた声がして振り返る。
エリーゼだった。
「また見つかった」
「探したもの」
「俺を?」
「……叔父様が呼んでいるかもしれないと思って」
「それ、嘘っぽい」
「うるさい」
エリーゼは少し頬を膨らませながら、俺の隣へやって来た。
「橋、見たわ」
「本当?」
「ええ」
「どうだった?」
「橋だった」
「感想それだけ!?」
「だって橋でしょう?」
「もう少し何かあるだろ」
「冗談よ」
エリーゼがくすっと笑った。
「立派だったわ」
「俺が造ったわけじゃないけど」
「知ってる」
「今日みんなそれ言うな」
「でも、アレクがいなかったら、ああいう橋にはならなかったんでしょう?」
「……たぶん」
「なら、少しくらい誇ってもいいと思う」
「前にも言ったよね、それ」
「だってアレク、すぐ『自分じゃない』って言うもの」
「本当に俺一人でやったわけじゃないし」
「それは分かってるわ」
「じゃあ」
「それでも、最初に動かした人がいなかったら、誰も動かなかったかもしれないでしょう?」
「……」
その言葉を聞いて、マティアスのことを思い出した。
人と物を動かす。
あの男が得意としていることだ。
俺はまだ、あれほど大きな規模で人を動かすことはできない。
それでも今回、一本の橋を造るために何人もの人が動いた。
俺が全部を動かしたわけではない。
だが、最初のきっかけの一つにはなれたのかもしれない。
「ありがとう」
「どういたしまして」
エリーゼは少し嬉しそうに笑った。
しばらく二人で夜の街を眺めていると、エリーゼが小さな声で言った。
「ねえ」
「何?」
「もし……」
一度言葉を止めてから、こちらを見る。
「マティアスって人に、また誘われたらどうするの?」
「……」
予想していなかった質問だった。
「何でそんなこと聞くの?」
「別に。ただ、少し気になっただけ」
「別にで聞くようなことか?」
「いいから答えて」
俺はもう一度、西の方角を見た。
今の答えなら決まっている。
「行かないよ」
「……本当?」
「ああ。今は行かない」
口にしてから、自分でも気づいた。
今は。
その二文字が余計だった。
当然、エリーゼも気づく。
「今は?」
「……」
俺は少し迷った。
適当に誤魔化すこともできる。
でも、それはしたくなかった。
「先のことまでは分からない」
「……」
「でも今は、ここでやることがある。市場のことも途中だし、倉庫だってヨハンさんから逃げられてない」
「逃げちゃ駄目でしょう」
「そこはヨハンさんと同じこと言うんだな」
「当たり前よ」
二人で少し笑った。
けれど、エリーゼの表情にはどこか寂しそうなものが残っていた。
「エリーゼ?」
「何でもない」
「……」
何と言えばいいのか分からなかった。
だから、今言えることだけを言うことにした。
「もし、いつかここを離れることになっても」
「……何?」
「何も言わずにいなくなったりはしないよ」
エリーゼがこちらを見る。
「本当?」
「ああ」
「約束?」
「約束する」
しばらく俺の顔を見ていたエリーゼは、ようやく少しだけ笑った。
「ならいい」
冷たい夜風が二人の間を通り抜けた。
西の遥か向こうには、今もマティアスがいる。
俺は今、あの人のところへ行くつもりはない。
アルベルトの下で学ぶことがまだあるし、ヴァイスブルクにも途中の仕事がいくつも残っている。
それでも、自分の人生には今いる場所とは違う道もあるのだと、少しずつ意識するようになっていた。
橋は二つの岸を繋ぐ。
今日完成した橋も、これから数え切れないほどの人を向こう岸へ渡していくのだろう。
そして俺の前にも、まだ見えていないだけで、いつか渡ることになる橋があるのかもしれない。
その橋の向こうに何があるのかは、まだ分からなかった。
一本の橋が完成しました。
アレクには橋を設計する知識も、地盤を見極める技術もありません。
今回アレクがしたことは、自分の知識だけで答えを出すことではなく、分からないことを認め、それを知っている人間に聞くことでした。
職人には職人の知識があり、農民にはその土地で暮らしてきた経験があり、商人には商売の事情があり、ヨハンには財務官として積み上げてきた経験があります。
アレクの前世の知識は強力な武器です。
しかし、それだけでこの世界の全てを解決できるわけではありません。
知識を使ってきっかけを作り、この世界の人々が持つ知恵や経験と組み合わせて、一つの形にしていく。
今回完成した橋は、その最初の成果の一つになりました。
そして西方では、マティアスがさらに大きな規模で人と物を動かし始めています。
以前のアレクなら、その差を見て焦っていたかもしれません。
けれど今は、自分には自分の順番があると少しずつ考えられるようになりました。
今はまだ、アルベルトの下で学ぶことがある。
ヴァイスブルクにも、やり残している仕事がある。
だから、今は行かない。
けれどエリーゼとの会話で、アレクは初めて「いつかここを離れるかもしれない」という可能性を言葉にしました。
「何も言わずには行かない」
何気ないようでいて、その約束がいつかどんな意味を持つことになるのか。
一本の橋を渡り終えたアレクの前には、まだ見えていない次の橋が待っています。




