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『知らない世界で、前世の知識が武器になる』 ~剣と銃で乱世を生き抜く転生領主の成り上がり~  作者: 相田 ソウ
第二篇 乱世に蒔く種

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第十話 正しいだけでは動かない

市場税の減免によって、ヴァイスブルクの市場には活気が戻りました。

しかし、数字の上で成功した施策が、すべての人から歓迎されるとは限りません。

既存の商人たちの訴えを通じて、アレクは人を動かす難しさと向き合います。

 マティアスがヴァイスブルクを発ってから七日後、市場税の減免を始めて一か月が経った。

 アレクは朝から執務室へ呼ばれ、アルベルトとヨハンの前に積まれた帳簿を眺めていた。

「商人の数は、戦が終わった直後と比べて五割ほど増えました。戦前とほぼ同じ水準まで戻っています」

 ヨハンが帳簿を指で押さえながら報告する。

「小麦の値段は?」

「戦前より一割四分ほど下がりました。塩は一割ほど安くなっています。布はほとんど変わっていません」

 アレクは息を吐いた。

 市場税を減らせば商人が戻り、品物が増えれば値段が下がる。その見込みは外れていなかった。

「税収はどうなりましたか」

「戦前より一割ほど増えています」

「税率を三分の二にしたのに?」

「一人から取る額は減りましたが、税を納める商人の数と取引の回数が増えました。門を通る荷車も多くなっています」

 ヨハンは別の帳簿を開いた。

「宿屋と馬小屋の収入も増えました。荷役をする者たちの仕事も戻りつつあります」

「成功したって考えていいんですよね」

 アレクが顔を上げると、アルベルトはすぐには頷かなかった。

「数字だけを見ればな」

「何か問題がありますか」

「問題のない施策などない」

 アルベルトは卓上に置かれた一枚の書付をアレクの前へ滑らせた。

「西から来た商人たちの訴えだ」

 書付には、荷車がヴァイスブルクへ着くまでに支払った通行税が記されていた。

 川を渡る時に一度、丘陵地の道を通る時に一度、その先の小さな領地でさらに一度。わずかな距離の間に二度、場所によっては三度も金を取られている。

「こんなに払うんですか」

「領主ごとに徴収する権利を持っているからです」

 ヨハンが答えた。

「橋を維持するための金、道を直すための金、領内を安全に通すための金。名目はそれぞれ違います」

「でも、これでは遠くから商人が来ません」

「だから訴えているのでしょう」

「通行税を減らすように命じられないんですか」

 アレクの言葉に、アルベルトが片方の眉を上げた。

「誰が命じる」

「アルベルト様が」

「俺が大公だから、昔から認められてきた領主の権利を一方的に奪うのか」

「それは……」

「通行税を収入として兵を養い、道や橋を維持している領主もいる。減らせと命じるなら、失う収入をどう補うかも考えなければならん」

 税を取る側にも事情がある。

 市場へ来る商人だけを見れば、通行税は少ないほうがいい。しかし、小領主から収入を奪えば、その土地の兵や役人、道を直す人間に影響が出る。

「話し合うしかないですか」

「まずはな。ヨハンが使者を出している」

「すぐには変わらないのですね」

「お前が市場税を下げられたのは、ヴァイスブルクが俺の直轄地だからだ。領主が変われば、同じようにはいかん」

 アルベルトは書付を指先で叩いた。

「成果が出れば、それまで見えなかった場所が詰まり始める。商人を呼び込めば、今度は商人が通る道の問題が大きくなる。それだけのことだ」

「終わりがありませんね」

「統治に終わりがあると思っていたのか」

「少しくらいは」

「残念だったな」

 アルベルトが笑った直後、扉が叩かれた。

 入ってきた役人が、商人組合の代表者たちが面会を求めていると伝える。

「例の件か」

「はい。三名が参っております」

 ヨハンの表情がわずかに険しくなった。

「例の件?」

 アレクが尋ねると、アルベルトは面白そうに椅子へ深く座り直した。

「ちょうどいい。お前も聞け」

「何をですか」

「お前の始めたことに対する不満だ」

 思わず背筋が伸びた。

 市場に商人が戻り、税収も増え、食料の値段も下がった。その報告を聞いたばかりだった。

 不満を言われる理由が、すぐには思い浮かばなかった。

 ほどなくして、商人組合の代表者三人が執務室へ通された。

 先頭に立つのは、ヴァイスブルクで長く穀物を扱ってきた商人だった。後ろには布商人と、複数の倉庫を持つ年配の商人が続いている。

 三人とも礼儀正しく頭を下げたが、その顔には明らかな緊張があった。

「それで、何を求める」

 アルベルトが尋ねた。

 穀物商は隣の二人と顔を見合わせてから、一歩前へ出た。

「市場で行われている新たな施策について、お願いがございます」

「市場税を元に戻せと言うのか」

「いいえ。税が下がったこと自体に異を唱えるつもりはございません」

「では何だ」

「私どもにも、先に話を聞いていただきたいのです」

 アレクは首を傾げた。

「何についてですか」

 穀物商の視線がアレクへ向いた。

「今後、市場がどのように変わるのかについてです」

「商人が増えて、取引も増えています。それでは困るんですか」

「困る者もおります」

 予想していなかった答えだった。

「どうしてですか」

「新しく来る商人は、私どもにとって競争相手でもあるからです」

「でも、品物が増えれば値段が下がります。町の人たちは買いやすくなるはずです」

「買う者にとっては、そのとおりです。しかし、売る者の利益は減ることがあります」

 穀物商は感情的に声を荒らげることなく、淡々と続けた。

「私どもにも家族がおります。奉公人を雇い、倉庫を維持し、荷車や馬を持っています。長くこの町で商いを続け、戦の間も可能な限り品物を運びました」

 戦の直後に商人が減った時も、彼らは町へ残った。

 危険を承知で穀物を運び、倉庫を守り、奉公人へ給金を払っていた者もいる。その隣へ、税が安くなったと聞いた新しい商人が現れ、安い値段で品物を売り始めた。

 町にとっては良いことであっても、以前からいる商人が同じように喜ぶとは限らない。

「新しい商人を入れるなということですか」

「そこまでは申しません。それでは、いずれ町そのものが衰えます」

「では、何が問題なんです?」

「分からないことです」

 今度は布商人が答えた。

「市場税がいつまで今の額なのか分かりません。小麦に使われ始めた新しい計量箱が、布や塩にも使われるのか分かりません。ハイゼンから始まる羊毛の取引が、そのうち皮革や葡萄酒へ広がるのかも分かりません」

「広がったら困りますか」

「準備する時間がなければ困ります」

 布商人は膝の上で両手を組んだ。

「羊毛が増えると分かっていれば、保管する場所を空けます。東へ売る先も探します。扱いに慣れた奉公人を雇うこともできます。しかし、何も知らされないまま大量の品が運び込まれれば、外から来た商人にすべての取引を持っていかれます」

 年配の商人も頷いた。

「倉庫を増やすには金が要ります。荷車を買うにも、奉公人を雇うにも金が要ります。来月、税が元へ戻るのか、このままなのか。それすら分からなければ、私どもは決められません」

 アレクは答えられなかった。

 市場税を下げた時、まず一か月試し、結果を見て次を決めるつもりだった。

 状況を確認しながら変える。それが慎重なやり方だと思っていた。

 だが、商人たちにとっては違う。

 一か月後に条件が変わるかもしれない市場へ、新しい倉庫を建てることはできない。商人を増やすための慎重さが、すでにいる商人には先の見えない不安となっていた。

「すみません」

 アレクが頭を下げると、三人の商人が驚いた顔をした。

「アレク殿?」

「皆さんが何を心配するかまで考えていませんでした。品物が増えて、値段が下がって、税収が増えれば、それで上手くいっていると思っていました」

「謝罪していただくために参ったわけではございません」

「分かっています。それでも、聞かせてください」

 アレクは三人を見回した。

「皆さんは、今の施策を止めてほしいのですか。それとも、次に何をするのか先に知らせてほしいのですか」

 三人はすぐには答えなかった。

 アルベルトもヨハンも口を挟まず、商人たちの返事を待っている。

「できることならば、急な変更を止めていただきたい」

 穀物商が慎重に答えた。

「変更を一切しないという意味ですか」

「いいえ。市場を良くするために必要な変更まで拒むつもりはありません。ただ、いつまで現在の決まりが続くのか、変える場合はいつ知らせてもらえるのか。それを定めていただきたいのです」

「新しい商人が来ることは?」

「好ましく思わない者はおります」

 穀物商は正直に認めた。

「ですが、閉め出すことができないのも理解しております。私どもが求めているのは、同じ場所で商いをする者として話を聞く機会です」

 アレクはヨハンを見た。

「市場税を、しばらく今のままにできますか」

「しばらくとは?」

「三か月」

「根拠は」

「倉庫を借りたり、奉公人を雇ったり、売る先を探したりする時間として足りますか」

 問いかけられた商人たちは小声で相談した。

「すべてを整えるには短いですが、何も分からないよりは遥かに良いでしょう」

「では、今から三か月は市場税を現在の額に据え置きます。その後、商人の数、品物の値段、税収を確認して見直します」

 アレクが答えると、ヨハンが小さく咳払いした。

「アレク殿」

「駄目ですか」

「決める前に、大公殿下の許可を得るべきです」

「あ」

 アレクがアルベルトへ顔を向けると、アルベルトは呆れたように額を押さえた。

「俺の前で話していることを忘れたのか」

「すみません」

「市場税については、それでよい。三か月は現在の税率を維持しろ」

「ありがとうございます」

「礼を言うのは商人たちだろう」

 三人が揃って頭を下げる。

 アレクは気を取り直し、次の問題へ目を向けた。

「小麦に使っている計量箱は、しばらく小麦だけにします。別の商品にも使う時は、少なくとも一か月前に知らせます」

「承知しました」

「ハイゼンとの取引については……」

 そこで言葉が止まった。

 羊毛を積んだ荷車を直接東へ送れば、途中で積み替える手間が減る。空荷で戻る荷車を使えば運賃も抑えられる。

 その仕組みにヴァイスブルクの商人を無理に挟めば、せっかく減らした費用が再び増える。

 だからといって、以前からこの町で商いをしてきた者を完全に外せば、反発はさらに大きくなる。

「皆さんなら、ハイゼンから来る羊毛をどう扱いますか」

 アレクは商人たちへ尋ねた。

「私どもへ売っていただけるなら、倉庫へ保管し、東へ向かう商人へ売ります」

 年配の商人が答えた。

「全部ですか」

「できることならば」

「それでは、ハイゼンの商人が直接売ることができません」

「この町の市場を使う以上、地元の商人を通すのは不自然ではないと思いますが」

「外から来た商人は、余計に金を取られると考えませんか」

「私どもも無料で倉庫や人手を用意することはできません」

 どちらの言い分も理解できた。

 アレクは卓上にある白紙へ視線を落とし、マティアスと話した内容を思い返した。

 一度にすべてを決めず、まず羊毛だけを三か月試す。取扱量には上限を設け、品質を三つに分ける。そのためには、運ばれてきた羊毛を見本と照らし合わせ、保管する場所が必要になる。

「一部だけならどうですか」

「一部、とは?」

「ハイゼンから来る羊毛のうち、決めた量を皆さんがまとめて買い取ります。倉庫で保管して、品質を確認し、東へ売る商人へ紹介してください」

「残りは?」

「ハイゼンの商人が直接売ってもいいことにします」

 商人たちの顔には、すぐに納得した様子はなかった。

「私どもが扱える量は、最初から制限されるのですか」

「反対に、ハイゼンの商人へすべて自由に売らせれば、皆さんが扱える保証はありません。決めた量を買えるなら、その分は確実に商いになります」

「しかし、倉庫代と品質を確かめる人手が必要です」

「手数料を取ってください。ただし、額には上限を決めます」

「上限は誰が決めるのでしょう」

「皆さんの希望を聞いたうえで、役人と話し合います」

 アレクはヨハンへ目を向けた。

「月に一度、役人と市場の管理者、それから商人組合の代表が集まる場を作ることはできますか」

「集まるだけならば」

「そこで市場の様子を聞きます。品物が足りない、倉庫が足りない、税の取り方に問題がある。そういう話を、決まりを変える前に聞くんです」

「商人組合に、施策を決める権利を与えるのですか」

 ヨハンの問いに、アレクは考えてから首を振った。

「意見を言うことはできます。でも、決めるのはアルベルト様と役人です」

「自分たちの望みが通らない場合もある、と?」

 穀物商が確認する。

「あります」

 アレクははっきり答えた。

「皆さんの話を聞くための場です。皆さんが反対したら何もできない、という場にはできません」

 三人の商人は再び顔を見合わせた。

 不満が完全に消えたわけではないだろう。それでも、穀物商はしばらく考えた末に頷いた。

「話を聞いていただけるのであれば、私どもも市場を維持するために協力いたします」

「ありがとうございます」

「ただし、手数料の上限については十分にご相談いただきたい」

「ヨハンさんと相談してください」

「なぜ私へ回すのです」

「金額を決める話は、俺よりヨハンさんのほうが得意でしょう」

「最初から他人へ押しつけることを覚えましたな」

「適した人へ任せているんです」

「言い方だけは立派になりました」

 商人たちの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 話し合いはその後も続いた。

 羊毛の品質を誰が確認するか。倉庫で濡れた場合の責任を誰が負うか。商人組合が買い取る量を月ごとに変えられるか。東へ売れずに残った場合はどうするか。

 細かな条件をその場ですべて決めることはできなかった。三日後に役人と商人組合が再び集まり、試験取引が始まる前に書面へまとめることになった。

 三人が退出すると、アレクは椅子の背へ身体を預けた。

「疲れた……」

「戦場よりは安全だ」

 アルベルトが言った。

「剣を向けられないだけで、違う怖さがあります」

「相手の話を聞くだけで済んだのだ。まだ優しいほうだぞ」

「もっと酷くなることもあるんですか」

「自分の暮らしを奪われると思えば、人は何でもする」

 アルベルトは商人たちが出ていった扉を見た。

「税をごまかす者もいれば、役人へ金を渡す者もいる。新しい商人の荷を傷つける者もいるだろう。ここでは商いを続けられないと、町を去る者も出る」

「市場を良くしようとしているのに?」

「お前にとって良いことと、相手にとって良いことが同じとは限らん」

「でも、食料が安くなれば、多くの人が助かります」

「正しい」

 アルベルトは頷いた。

「だからといって、損をする者が笑って従うとは限らない」

 正しいことをすれば、人は納得してくれる。

 どこかでそう思っていた。

 だが、今回の商人たちは施策が間違っていると言いに来たのではない。自分たちの暮らしがどうなるのか分からないと訴えに来た。

「では、反対する人がいたら、毎回その人たちの望みを入れるんですか」

「それでは何も決められん」

「難しいですね」

「だから、何を恐れて反対しているのかを聞け」

 アルベルトは指を一本立てた。

「金を失うことが怖いのか、仕事を失うことが怖いのか、先が見えないことが怖いのか。同じ反対でも理由は違う」

「理由が分かれば、別の方法を考えられる」

「考えられるだけだ。受け入れるかはお前が決めろ」

「全員が納得する方法が見つからなかったら?」

「それでも決めなければならん時がある」

 アルベルトの声に迷いはなかった。

「話を聞くことと、決断を相手へ預けることを混同するな。統治する者が全員の賛成を待てば、声の大きな者だけが得をする」

 ヨハンが帳簿を閉じる。

「今回、商人たちが本当に求めていたのは、改革を止めることではありませんでした」

「先に知らせることですか」

「それと、準備する時間です。税率を三か月変えないと決めただけでも、彼らは倉庫や荷車へ金を使う判断ができます」

「変えないことにも価値があるんですね」

「少なくとも、次に何が起こるか分からない状態よりは動きやすくなります」

 アレクは市場税の報告書を見た。

 商人の数、品物の値段、税収。そこに書かれた数字は嘘ではない。しかし、その数字だけでは、商人たちが抱えていた不安までは分からなかった。

「正しいだけでは、人は動かない」

 アレクが呟くと、アルベルトが口元を緩めた。

「少しは分かったようだな」

「少しだけです」

「それで十分だ。分かったつもりになられるよりはな」

 執務室を出たアレクは、トーマスを連れて市場へ向かった。

 役人がまとめた報告を読むだけでなく、実際に商いをしている者の話を聞きたくなったからだ。

 市場には、戦の直後にはなかった活気が戻っていた。

 荷車の車輪が石畳を鳴らし、荷役人たちが声を掛け合いながら麻袋を運んでいる。小麦を量る場所には統一された木箱が置かれ、役人が升目の位置を確認していた。

「前より人が増えたな」

 トーマスが周囲を見回す。

「報告では戦前と同じくらいらしい」

「こんなにいたか?」

「戦の前は、俺たちが市場の人数なんて気にしていなかっただけだろ」

「それもそうか」

 二人はまず、小麦を売る露店へ向かった。

 店主は税が下がって客が増えたと喜んでいた。以前より一袋当たりの利益は少ないが、一日に売れる数が増えたため、全体では悪くないという。

 隣の穀物商は別の意見だった。

「安く売る商人が増えたせいで、以前の値段では誰も買わなくなった」

「売れなくなったんですか」

「売れてはいる。だが、今までと同じ儲けを出すには、もっと多く仕入れなければならん」

「多く仕入れるのは難しい?」

「倉庫が小さい。それに、今の値段がいつまで続くか分からん」

 先ほど聞いた話と同じだった。

 統一された計量箱についても意見は分かれた。

「量をごまかしていると疑われなくなった」

 そう喜ぶ者がいる一方で、新しい箱を用意する費用を負担に感じる者もいた。古い升を長く使ってきた商人からは、使い慣れた道具を捨てさせられたという不満も出た。

 正しい量で売買できるようにしたのだから、全員が歓迎すると思っていた。

 だが、一つの仕組みを変えれば、今まで使われていた道具や、それに慣れた人間の経験まで価値を失うことがある。

「市場を歩くだけで、報告書より面倒な話が増えるな」

 トーマスが小声で言った。

「聞こえるぞ」

「聞かせたんだ」

「手伝う気はないのか」

「俺は護衛だ」

「最近、それを便利に使ってない?」

「事実だからな」

 どこかで聞いたような言い方だった。

 二人が布を扱う店の前を通ると、店主がアレクへ声を掛けた。

 商人組合の代表として執務室へ来た男とは別の布商人だった。

「アレク殿、少しよろしいですか」

「はい。何か問題がありましたか」

「市場の中ではありません。南から荷を運ぶ道のことです」

「道?」

「リューデン街道にある橋をご存じでしょうか」

 ヴァイスブルクから南東へ伸びる街道には、町へ入る手前で川を渡る木造橋がある。アレクも何度か通ったことはあったが、橋の状態まで細かく見たことはなかった。

「南橋のことですか」

「はい。床板が傷み、橋脚も傾いています。今は重い荷車を一台ずつ渡らせています」

「修理していないんですか」

「何度か床板を取り替えています。しかし、橋脚そのものが古くなっております」

 布商人は街道の方角を指した。

「商人が増えたことで、橋の手前に荷車が並ぶようになりました。先日は三台が渡るだけで、かなりの時間を取られました」

「危険なんですか」

「すぐに落ちるとは申しません。ただ、このまま重い荷車が増えれば分かりません」

「役人には?」

「以前から修理を願い出ております」

 アレクが横を見ると、トーマスが肩をすくめた。

「俺に聞くな。城の修理なら知ってるが、橋は知らん」

「城へ戻って確認しよう」

「今すぐか?」

「忘れる前に」

「お前、面倒な話を見つけるのが上手くなったな」

「見つけようとしてるわけじゃない」

 税を下げて商人を呼び込んでも、荷車が町へ入る前に橋で止まれば意味がない。

 商人が増えたからこそ、それまで使えていた道や橋が足りなくなる。朝、アルベルトが話していたことが、目の前で形になっていた。

 アレクは布商人へ、橋の状態を調べると約束した。

 城へ戻ると、ヨハンは南橋について記された古い書類をすぐに持ってきた。

「やはり知っていたんですね」

「報告は受けていました」

「それなら、どうして直していないんですか」

「金がないからです」

 予想どおりの答えだった。

「床板の交換だけなら、毎年の維持費で対応できます。しかし、橋脚を含めて架け替えるなら別です」

「いくら掛かります?」

「まだ正確には分かりません。橋幅を以前と同じにするか、重い荷車がすれ違える幅に広げるかでも変わります」

「広いほうがいいでしょう」

「誰が費用を出すのです」

「大公家が」

「市場税を減らしたばかりです」

「でも、税収は増えました」

「一か月増えただけです。来月も同じとは限りません」

 午前中に自分が商人へ言われたことが、そのまま返ってきた。

 先が分からなければ、大きな金は使えない。

「橋を使う商人から取るのは?」

「新しい通行税を作るのですか」

「……それでは、さっきの西方街道と同じですね」

「そうなります」

「商人組合に費用を出してもらうことはできますか」

「利益があると分かれば、一部は出すかもしれません」

「周りの村は?」

「人足を出せるでしょう。ただし、農作業の時期を外す必要があります」

「木材は?」

「近隣の森から用意できますが、伐採、乾燥、加工、運搬に金と人手が要ります」

 橋一つを直すだけで、次々と問題が出てくる。

 費用を誰が負担するのか。木材をどこから運ぶのか。働く者へ何を支払うのか。工事中に荷車をどこへ通すのか。完成した後は誰が維持するのか。

 アレクには橋を造る技術などなかった。

 以前の世界で完成した橋を渡ったことは何度もあるが、どのように橋脚を立て、どの太さの木を使えば荷車の重さに耐えられるのかまでは知らない。

「まず、職人に見てもらえますか」

「できます」

「それから周りの村に、出せる人足と時期を聞いてください。商人組合には、橋が広くなった場合にどれだけ荷車を増やせるか聞きます」

「費用は?」

「調べてから考えます」

「ようやく、分からないうちに金を使うと言わなくなりましたな」

「少しは成長しました」

「今朝、許可を得る前に税率を決めた者の言葉とは思えません」

「それは忘れてください」

「記録には残します」

「何の記録ですか」

 ヨハンは答えず、南橋に関する書類をまとめ始めた。

 その日の夕食で、アレクはエリーゼへ商人たちとの話し合いを語った。

 長い卓にはアルベルトもいたが、食事を終えると書状を読むため先に席を立った。給仕の者が食器を片づけ、残った二人の前へ温かい茶を置く。

「商人たちは、税を元へ戻してほしいわけではなかったのですね」

「うん。次に何が変わるか分からないのが困るって言われた」

「アレクは、すぐに謝ったのでしょう?」

「どうして分かるんだ」

「そういう顔をしています」

 エリーゼが小さく笑う。

「悪いことをしたと思ったから」

「話を聞かなかったのはよくありません。でも、わざと困らせたわけではないでしょう」

「それでも、俺が決めたことで困る人がいる」

「何を決めても、全員が喜ぶことはないと叔父上から教わりました」

「同じことを言われた」

「では、叔父上の教え方が正しかったのですね」

「それを本人の前で言わないで。絶対に得意そうな顔をするから」

 エリーゼは口元へ手を添えた。

「もう手遅れかもしれません。扉の外で聞いているかもしれませんから」

 アレクは思わず扉へ目を向けた。

「冗談です」

「エリーゼがそういう冗談を言うとは思わなかった」

「アレクが叔父上に似てきたからです」

「どこが?」

「人の話を聞きながら、その人に何をさせるか考えているところです」

「そんなことはしてない」

「今日も商人たちへ仕事を任せたのでしょう?」

「羊毛を倉庫で預かって、品質を確認してもらうことにはしたけど」

「それです」

「俺が全部できないから、できる人に頼んだだけだ」

「叔父上も同じことを言います」

 否定しようとして、言葉が出なかった。

 アルベルトは自分一人で税を集め、兵を動かし、橋を直しているわけではない。役人や領主、商人、職人へ任せ、それぞれが動けるように条件を整えている。

 アレクがしていることは、まだその真似事に過ぎなかった。

「それで、今度は橋を架け直すのですか」

「まだ決まってない。まず状態を調べてもらう」

「楽しそうですね」

「そう見える?」

「戦の話をする時より、ずっと」

 アレクは手元の茶を見た。

 橋を直すには金も人も要る。領地を持つ者や商人との話し合いも必要になる。上手くいく保証はない。

 それでも、戦場のことを考える時とは違っていた。

「橋なら、完成すれば残るから」

「残る?」

「大勢の人が何年も使える。荷車が通って、食料や布が運ばれて、村の人も町へ来られる。そういう仕事のほうが、俺は好きなのかもしれない」

「では、橋を造る人になりたいのですか」

「それは無理だよ。俺は橋の造り方を知らない」

「知らなければ、知っている人に聞くのではありませんか」

 エリーゼの答えに、アレクは笑った。

「それもアルベルト様に似てきたんじゃない?」

「私は昔からです」

「そうだった?」

「アレクが気づかなかっただけです」

 少しだけ胸を張る姿は年相応で、アレクはまた笑った。

 戦が終わった後も、考えなければならないことは尽きない。

 だが、誰かを倒す方法ではなく、橋を渡る人や市場で暮らす人のことを考えられる時間は悪くなかった。

 翌朝、アルベルトのもとへ西方から新しい報告が届いた。

 アレクが執務室へ入ると、アルベルトはレオンハルトの印が押された書状を読み終えたところだった。

「シュヴァルツ伯が動いたのですか」

「いや。むしろ動かなくなった」

 アルベルトが書状をアレクへ渡す。

 敗走したシュヴァルツ伯は堅固な拠点まで退き、周辺の兵を集め直していた。

 レオンハルトは追撃を続けていない。

 無理に攻めれば、守りを固めた敵の前で多くの兵を失う。それよりも、ハイゼン周辺の街道と物資の集積地を押さえ、奪い返されない状態を作ることを優先したらしい。

「勝ったのに、攻めないんですね」

「勝ったからこそ、得たものを失わないようにしている」

 レオンハルト軍の兵糧や装備を運んでいるのは、マティアスが率いるクレーマー商会だった。

 書状には、今後クレーマー商会へ任せる仕事についても記されている。

 軍への物資供給だけでなく、傷んだ街道や橋の確認、宿営地へ食料を集める場所の選定、周辺市場との取引まで、より広い範囲を契約に含めるという。

「マティアス様は、戦が終わっても忙しそうですね」

「戦が終わった後のほうが、商人の仕事は増える」

「町や道を直すからですか」

「それだけではない。どの領主から何を買い、どこへ運び、誰に利益を与えるか。それで次の戦までに味方を増やせる」

 アレクは書状へ目を戻した。

 ヴァイスブルクで話した時、マティアスは自分がどこまで行けるのか確かめたいと言っていた。

 すでに軍へ食料を届けるだけの商人ではない。荷車と契約を使い、戦の後に残った土地を結び直そうとしている。

「行ってみたいか」

 不意にアルベルトから尋ねられた。

 アレクは書状から顔を上げた。

「マティアス様のところへですか」

「ほかに誰がいる」

「少し」

「少しだけか」

「……かなり」

 アルベルトが笑った。

「正直でよろしい」

「怒らないんですか」

「なぜ怒る」

「俺はアルベルト様の小姓です。それなのに、ほかの人の仕事を見たいなんて」

「見たいと思うことまで俺に止められるのか」

「止められたら困ります」

「なら、勝手に考えろ」

 アルベルトは南橋の調査を命じた書付を持ち上げた。

「ただし、考えることと、途中で仕事を放り出すことは別だ」

「分かっています」

「市場税の扱いを決め、羊毛を置く倉庫を整え、南橋をどうするか決めろ。お前が口を出した仕事だ」

「はい」

「それを終えたうえで、まだマティアスの仕事を見たいと思うなら、その時に考えればいい」

 アレクは頷いた。

 今すぐヴァイスブルクを離れるつもりはない。

 市場には、始めたばかりの仕組みがある。ハイゼンとの取引も、実際に荷車が動くまでは成功したとは言えない。南橋についても、危険だと知った以上、誰かへ任せたまま忘れることはできなかった。

「では、橋を見に行ってきます」

「まだ職人の調査も終わっていないぞ」

「自分の目でも見ておきます」

「好きにしろ」

 アルベルトはそう答えたが、その顔にはわずかな笑みが残っていた。

 執務室を出ると、廊下で待っていたトーマスが壁から背を離した。

「どこへ行く」

「南橋」

「昨日も市場を歩いたばかりだろ」

「今日は橋を見る」

「忙しいな」

「嫌なら残ってもいいぞ」

「護衛を置いていけるわけないだろ」

「じゃあ行こう」

 二人は城を出て、南東へ伸びるリューデン街道へ向かった。

 西では、マティアスが戦の後に残された街道を結び直そうとしている。

 ヴァイスブルクでは、アレクが一つの古い橋を見に行こうとしていた。

 規模も、動かす金も、人の数も違う。

 それでも、道の先にいる者を考え、途切れた場所をつなごうとしていることだけは同じだった。

第十話を読んでいただき、ありがとうございました。

市場税の減免は成果を上げましたが、急激な変化は、以前から町を支えてきた商人たちへ新たな不安を与えていました。アレクは正しい施策を示すだけでなく、影響を受ける人々の事情を聞き、準備できる時間や役割を用意する必要があると学びます。

市場の次に見つかったのは、商人と品物が通る橋の問題です。次回は、計画を実際の形へ変える難しさに挑みます。


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