第九話 商人上がりの男
西方で何度もその名を聞いた男、マティアス・クレーマー。
元行商人でありながら黒獅子レオンハルトに取り立てられ、兵站、調略、築城、そして商いまで使って戦を動かす男。
そのやり方に、アレクは自分の知る歴史との奇妙な重なりを感じていた。
そしてついに、マティアス本人がヴァイスブルクを訪れる。
知らない男なのに、どこか知っているような男。
二人の最初の出会いが、アレクの歩む道に小さな変化をもたらす。
マティアス・クレーマーがヴァイスブルクへ来る。
ハイゼンから来た商人にそう聞かされてから、六日が経った。
その間も俺の生活は特に変わらなかった。
朝は倉庫。
昼は市場。
時々アルベルトに呼ばれ、ヨハンに仕事を増やされ、ゲオルクからは「小姓の仕事も忘れるな」と怒られる。
そして夕方になると、商人の数と物価をまとめる。
「……何かおかしくない?」
「何がです?」
俺の目の前でヨハンが帳簿をめくっている。
「俺、小姓ですよね?」
「そうですな」
「最近、小姓らしい仕事より財務官の手伝いの方が多くない?」
「気のせいでしょう」
「絶対違う」
「では、これを」
ドン。
新しい帳簿が置かれた。
「話聞いてました?」
「聞いております」
「だったら仕事を減らしてくださいよ」
「嫌です」
「即答!」
ヨハンは何事もなかったように帳簿を開いた。
「市場税の減免を始めて二十三日。商人の数は戦直後と比べて四割ほど増えています」
「四割?」
「はい。ただし、戦前と比較すればまだ一割ほど少ない」
「麦は?」
「一基準箱あたりで計算すると、戦直後より約一割下がりました」
「塩は?」
「こちらは六分程度です」
「……悪くない?」
「悪くはありません」
ヨハンからその言葉を聞けただけで、少し嬉しくなる。
「じゃあ成功?」
「まだです」
「ですよね」
「分かってきましたな」
「誰かさんが毎回言うからですよ」
俺は帳簿を見る。
市場税を下げたことで、少なくとも商人は増えた。
品物が増えれば、競争によって一部の価格も下がる。
ここまでは俺が予想していた通りだ。
ただ、全部が上手くいったわけではない。
「布はほとんど変わってないんですよね」
「ええ。布については供給元そのものが戦の影響を受けています」
「税だけ下げても意味がない?」
「物がなければ、商人は運べませんからな」
「なるほど……」
前世なら当たり前に聞こえる。
だが、自分でやってみると違う。
一つの制度を変えれば全てが良くなるわけじゃない。
市場税を下げても、作る人間がいなければ商品は増えない。
道が危険なら商人は来ない。
馬が足りなければ荷物を運べない。
税金だけを見ていても駄目だった。
「それともう一つ」
ヨハンが別の紙を出した。
「何です?」
「市場税そのものの収入です」
「減ってます?」
「最初の十日は大きく減りました。しかし現在は、戦前の九割近くまで戻っています」
「税率を下げたのに?」
「商人が増えましたからな」
「……」
少しだけ胸が躍った。
狙っていたことが形になっている。
「やった」
「まだです」
「今くらい喜ばせてくださいよ!」
「一か月経っておりません」
「あと七日でしょう?」
「七日あれば戦も起きます」
「縁起でもない!」
ヨハンは小さく笑った。
「ただし」
今度は少し真面目な顔になる。
「この試みについては、私も継続する価値があると考えています」
「本当に?」
「ええ。ただし三分の二をそのまま維持するかは再検討します」
「どうして?」
「商人が戻った以上、少し税率を戻してもすぐには離れない可能性がある」
「……なるほど」
「逆に戻しすぎれば離れるでしょう」
「その間を探す?」
「そういうことです」
俺は少し感心した。
俺が思いついたのは「税を下げたら商人が来るかもしれない」というところまでだ。
ヨハンはその先を見ている。
どこまで下げるのが最も効果的なのか。
どこまで戻せるのか。
その数字を実際の記録から探そうとしている。
「やっぱり専門家ってすごいな」
「急に何です?」
「いや、俺だったら『上手くいったからこのままでいいや』ってなってたと思う」
「それでは財政を預けられません」
「だから財務官にならなくて良かった」
「誰も任命しません」
「ひどい」
その時だった。
ドタドタドタッ!
廊下から慌ただしい足音が聞こえてくる。
扉が勢いよく開いた。
「アレク!」
ゲオルクだった。
「はい?」
「殿下のところへ来い」
「また?」
「客だ」
「誰です?」
ゲオルクが一瞬、俺の顔を見る。
「グランヴァルトからだ」
俺の手が止まった。
「……まさか」
「マティアス・クレーマー」
「来たんですか?」
「ああ。今、城門を入った」
「……」
思ったより早かった。
「何をぼんやりしている。行くぞ」
「はい!」
俺は立ち上がった。
「アレク殿」
ヨハンに呼び止められる。
「何です?」
「帳簿は逃げません」
「……帰ってきたら?」
「続きをお願いします」
「やっぱり!」
「当然です」
どこか楽しそうなヨハンを残し、俺はゲオルクと部屋を出た。
◇ ◇ ◇
城館へ向かう途中、俺は何度も西門の方を見てしまった。
「気になるか?」
ゲオルクが聞く。
「まあ……」
「会ったことはないんだろう?」
「ありません」
「なら、なぜそこまで気にする」
「……変な人だって聞いたから」
「お前も十分変だ」
「ゲオルクさんまで言うんですか」
「事実だ」
否定できない。
「どんな人なんです?」
「私に聞くな。私も会ったことはない」
「何人で来たんです?」
「本人を含めて十二人」
「少ない」
「軍使として来たわけではないからな」
「商人として?」
「半分はそうだろう」
「半分?」
「もう半分は、レオンハルト殿下の使者だ」
なるほど。
ただ市場を見に来ただけではないらしい。
「殿下は?」
「既に会っている」
「じゃあ俺は何で呼ばれたんです?」
「知らん」
「ゲオルクさん、最近それ多いですよ」
「アルベルト殿下に聞け」
嫌な予感がした。
アルベルトが俺をわざわざ呼ぶ時は、大体ろくなことにならない。
「……逃げても?」
「捕まえる」
「ですよね」
俺は諦めて城館へ入った。
◇ ◇ ◇
扉の前に二人の見慣れない男が立っていた。
どちらもグランヴァルト軍の紋章を付けている。
兵士というより護衛だろう。
ゲオルクが扉を開く。
「失礼します」
中へ入った。
アルベルト。
オットー。
それから見知らぬ男が二人。
一人は四十歳前後の騎士。
もう一人は――。
「……」
思わず足が止まりそうになった。
想像と違った。
もっと小柄で、どこか猿っぽい顔の男を無意識に想像していたのかもしれない。
前世の豊臣秀吉の肖像画に引っ張られている。
だが、目の前の男は違う。
三十歳前後。
背は俺より少し高い程度で、決して大柄ではない。
茶色の髪を無造作に後ろへ撫でつけている。
服装も貴族らしくない。
上質ではあるが派手ではなく、腰の剣も飾り気がほとんどなかった。
そして何より目が印象的だった。
部屋へ入ってきた俺を見た瞬間から、頭の先から靴まで全部を観察されているような気がする。
「そいつか?」
男がアルベルトへ尋ねた。
「そうだ」
「……普通だな」
「第一声それ!?」
思わず返してしまった。
男の顔が一瞬止まる。
次の瞬間。
「はははははっ!」
大声で笑った。
「いいな!」
「何がです?」
「すぐ言い返した」
「失礼だったからでしょう!」
「そうだな。悪かった」
あっさり謝る。
調子が狂う。
アルベルトが俺を見る。
「アレク。こいつがマティアス・クレーマーだ」
「……」
この男が。
「初めまして。アレク・ハルトマンです」
「ああ。マティアスだ」
右手を出される。
一瞬迷ったが、握る。
「聞いてるぞ」
「何を?」
「色々だ」
「色々じゃ分からないんですけど」
「十五歳。出自不明。剣が強い。戦場で妙なことを考える。それから最近は倉庫と市場を荒らしてる」
「最後、言い方おかしくない?」
マティアスが笑う。
「市場税を下げたんだろ?」
「知ってるんですか?」
「来る途中で聞いた」
「誰に?」
「商人」
「……」
本当に商人へ聞くんだ。
「面白いことするな」
「そっちほどじゃないです」
「ほう?」
マティアスの目が少し細くなった。
「俺のことも聞いてる?」
「少し」
「何を?」
「敵の近くで食料を買い占めた」
「買い占めじゃない。必要な分を先に買った」
「同じじゃ?」
「全然違う」
「あと、敵側の小領主を一人戦わず中立にした」
「説得しただけだ」
「二日で砦を作った」
「兵を働かせた」
「ハイゼンに市場を作った」
「場所を貸しただけ」
「……全部大したことないみたいに言いますね」
「俺一人でやったわけじゃないからな」
その答えに少し驚いた。
俺がエリーゼに話したことと似ている。
「何だ?」
「いや」
「変な顔するな」
「初対面の人に言われたくない」
「それもそうだ」
また笑う。
話しやすい。
異様なくらい。
これがコミュニケーション能力なのか。
それとも、この男自身がそういう人間なのか。
よく分からない。
「座れ、アレク」
アルベルトが言った。
「俺も?」
「そのために呼んだ」
「何の話です?」
「商売だ」
マティアスが答えた。
◇ ◇ ◇
机の上に大きな地図が広げられた。
ヴァイスブルク。
ハイゼン。
その間を結ぶ街道。
さらに東へ続くアルヴェイン領の道。
「簡単に言う」
マティアスが地図を指した。
「ハイゼンとヴァイスブルクの間で商人をもっと動かしたい」
「通商の話ですね」
「ああ」
「書状は見ました」
「なら早い」
指が街道を東西へ動く。
「ハイゼンには今、グランヴァルト兵が一万近く残っている」
「レオンハルト殿下は?」
「さらに西だ。追撃中」
「じゃあ一万は?」
「守備と後続、それから負傷兵」
まだそんなにいるのか。
「一万人いれば、それだけ物を食う」
「そうですね」
「全部をグランヴァルトから運ぶと遠い」
「だからアルヴェイン側からも買いたい?」
「その通り」
マティアスが俺を見る。
「だが問題がある」
「何です?」
「商人はハイゼンまで来るのに、帰りの荷物が少ない」
「帰り?」
「ああ」
俺は少し考える。
ヴァイスブルクから西へ向かう商人。
食料や塩、鉄、布などをハイゼンで売る。
売った後。
荷車が空になる。
「空荷で帰る?」
「そうなる奴が多い」
「……もったいない」
「だろ?」
マティアスが笑った。
「馬も人も使って、行きだけ荷物を運ぶ。帰りは空の荷車。それじゃ片道分しか稼げない」
「だから、ハイゼンから何か持って帰らせる?」
「そうだ」
「何を?」
「それを相談しに来た」
「……俺に?」
「半分はな」
また半分。
「もう半分は?」
「アルベルト殿下とヨハン財務官」
「ヨハンさん、呼ばれてないけど」
「もう話した」
「いつ!?」
「お前が来る前」
「早いな!」
マティアスは地図の横に一枚の紙を置いた。
「今、ハイゼン周辺で余っているのは羊毛、皮革、それから西方産の酒だ」
「食料は?」
「軍が食う」
「ですよね」
「木材もあるが、遠くまで運ぶには重い」
「鉄は?」
「シュヴァルツ側から入っていた鉱山の鉄が少しある。ただし量は多くない」
「なるほど」
俺は紙を見る。
羊毛。
皮革。
酒。
「ヴァイスブルクで売れます?」
「羊毛と皮革なら」
アルベルトが答える。
「東へ流せる」
「じゃあ帰りに積んでもらえばいい」
「それだけでは足りん」
マティアスが言う。
「何が?」
「商人が欲しいと思う値段で買えなければ持って帰らない」
「……」
そりゃそうだ。
「今、ハイゼン側では?」
「羊毛の値段が下がってる」
「何で?」
「戦で東へ出せなくなったから」
「……あ」
「売る相手が減った」
「だから安い」
「そういうことだ」
分かる。
ハイゼン側では余って安くなる。
ヴァイスブルク側では入ってこなくなって高くなる。
「じゃあ」
俺は地図を見る。
「価格差があるなら、その差で商人が儲けられる」
「その言い方は知らんが、そういうことだ」
「だったら勝手に商人が気づくんじゃ?」
「気づく奴もいる」
「じゃあ」
「でも時間がかかる」
マティアスは即答した。
「俺は今欲しい」
「……」
「戦が続いている間に道を作りたい。戦が終わってから商人が集まりましたじゃ遅い」
判断が速い。
この辺りはレオンハルトにも似ている。
「それで何するんです?」
「ヴァイスブルク側で羊毛と皮革の相場を公表してくれ」
「公表?」
「ああ」
「どれくらいで売れるかを?」
「そうだ」
「ハイゼンでも?」
「こちらで買える値段を出す」
「……」
なるほど。
商人が両方の値段を知れば、利益があると分かる。
「でも」
俺は少し考える。
「値段って変わりますよね」
「変わる」
「今日儲かっても、到着した時には下がってるかもしれない」
「そうだ」
「だったら」
俺は口を止めた。
何か方法。
商人が安心して運べる。
「……予約?」
「何だそれ」
「いや」
前世の言葉が出そうになる。
「例えば、ヴァイスブルクの商人と先に約束するんです。ハイゼンで羊毛を百買ってくるから、十日後にこの値段で買ってくれって」
「先に売値を決める?」
「そう」
「だが値段が下がれば買う側が損をする」
「上がれば売る側が損」
「……」
「駄目か」
「いや」
マティアスが考え込んだ。
俺も考える。
現代なら先物取引みたいな話になる。
でも、この世界で複雑な市場制度をそのまま持ち込むのは無理だ。
契約。
信用。
文字を読める人間。
裁判。
問題が多すぎる。
「全部じゃなくて」
俺は言った。
「大口だけなら?」
「大口?」
「信用できる商会だけ。例えばヴァイスブルクの商会が『羊毛百箱なら、この値段で買う』って先に決める」
「ハイゼンでそれを商人に伝える」
「そうです」
「持ってきたら、その値段で売れる」
「少なくとも百箱までは」
「……」
マティアスの表情が変わった。
さっきまで笑っていた目が、完全に考える人間の目になる。
「それ」
しばらくして、マティアスが言った。
「使えるな」
「本当?」
「ただし、先に買い手を作る必要がある」
「ヴァイスブルクの商会と話す?」
「それだけじゃない」
「何が?」
「東でも売れるようにする」
「……」
マティアスは地図のさらに東を指した。
「ヴァイスブルクだけで百売る必要はない。五十はここ、三十は東、二十は別の街。最初から買い手を分ければいい」
「……」
俺は思わず黙った。
まただ。
俺が一つ出す。
この男はすぐに、その先を考える。
「何だ?」
「いや」
「また変な顔だな」
「俺、今ちょっと悔しい」
「何で?」
「俺が考えたことを、すぐ先まで考えるから」
マティアスが一瞬きょとんとする。
そして笑った。
「ならもっと考えろ」
「簡単に言うなぁ」
「考えるの好きなんだろ?」
「嫌いではないです」
「ならいい」
マティアスはアルベルトを見る。
「この小僧、面白いな」
「だから呼んだ」
「殿下」
「何だ」
「俺、見世物?」
「半分な」
「また半分!」
◇ ◇ ◇
話はさらに続いた。
羊毛と皮革だけではない。
ヴァイスブルクからハイゼンへ何を運ぶか。
ハイゼンから何を持ち帰るか。
荷車一台あたりどれくらい積めるのか。
護衛にかかる費用。
街道のどこで馬を休ませるか。
どの村なら宿泊できるのか。
どこに橋があるのか。
俺は途中から、自分が小姓であることを完全に忘れていた。
「ここ」
俺は地図を指す。
「この村で荷車を泊められません?」
「ブレーメン村か」
オットーが答える。
「広場はある。ただし井戸が小さい」
「馬が増えたら水が足りない?」
「おそらく」
「じゃあ駄目か」
「いや」
マティアスが口を挟む。
「井戸を増やせばいい」
「簡単に言いますね」
「井戸一つ掘るのと、毎回遠回りするのはどっちが安い?」
「……」
ヨハンみたいなこと言う。
「計算しないと分からない」
「なら計算する」
マティアスは持っていた紙へ何かを書き始めた。
「井戸掘れる人間いる?」
オットー。
「ヴァイスブルクに職人はいる」
「何日?」
「場所次第だが十日から二十日」
「費用は?」
「それも場所による」
「よし。あとで聞く」
早い。
「待って」
「何だ?」
「村人に許可は?」
マティアスが止まった。
「……」
「勝手に井戸掘るわけにいかないでしょう」
「誰の領地だ?」
オットーが答える。
「アルヴェイン大公家直轄です」
マティアスがアルベルトを見る。
「掘っていいですか?」
「軽いな、お前」
「駄目ですか?」
「村長と話せ。村側にも使わせるなら考える」
「それでいい」
「……」
俺は二人を見る。
「何だ?」
マティアスが聞く。
「いや、決まるの早いなって」
「決められることを後回しにして何になる?」
「……」
レオンハルトに似てる。
でも。
違う。
レオンハルトは上から決める。
この男は、周りへ話を振りながら決めていく。
職人。
商人。
村長。
大公。
使える人間を次々つなげていく。
秀吉。
また、その名前が頭に浮かぶ。
でも、まだ違う。
俺の知る豊臣秀吉が本当にこんな人間だったのか。
歴史書に書かれている秀吉しか知らない俺には分からない。
「アレク」
「はい?」
「さっきから俺の顔を見すぎだ」
「ごめんなさい」
「惚れたか?」
「違います!」
「即答か。傷つくな」
「何言ってるんですか」
アルベルトが呆れた顔をしている。
「マティアス」
「はい?」
「こいつをからかうのはその辺にしておけ」
「面白いので」
「返せ」
「借りてないでしょう!」
何なんだ、この人たち。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎても話は終わらなかった。
ようやく休憩になり、俺たちは城館の中庭へ出た。
「疲れた……」
俺は石壁へ背中を預ける。
「十五でそれじゃ先が思いやられるな」
横からマティアスがやって来た。
「あなたが喋りすぎなんですよ」
「そうか?」
「そうです」
「よく言われる」
「でしょうね」
マティアスは持っていた二つの木杯のうち、一つを俺へ差し出した。
「ほら」
「何です?」
「水」
「ありがとうございます」
受け取る。
普通の水。
「酒じゃないんですね」
「昼から飲んだら頭が鈍る」
「真面目」
「商人が酒飲んで値段決めると思うか?」
「飲む人はいそう」
「いる。大体損する」
「経験ある?」
「山ほど見た」
マティアスは俺の隣へ座った。
少しの間、二人とも黙っていた。
「アレク」
「はい」
「どこで覚えた?」
「何を?」
「ああいう考え方だ」
「……」
来た。
「税を下げて商人を増やす。市場の量を揃える。先に買い手を決めて荷を動かす」
「……」
「十五の騎士見習いが普通に考えることじゃない」
「小姓です」
「そこはどうでもいい」
「よくないですよ」
「どこで覚えた?」
俺は木杯を見る。
言えない。
日本。
会社。
現代。
異世界。
「……本で」
「嘘だな」
「早い!」
「本だけで覚えた奴は、最初からあんな考え方をしない」
「じゃあ経験?」
「それも違う」
マティアスが俺を見る。
笑っていない。
「お前には知識がある。でも経験が知識に追いついてない」
「……」
ドキッとした。
レオンハルトにも似たことを言われた。
「変か?」
「いや」
「怖い顔するな」
「してません」
「してる」
マティアスは笑った。
「別に無理に聞かん」
「……」
「誰だって言いたくないことくらいある」
「いいんですか?」
「俺が知りたいのは、お前の昔話じゃない」
「じゃあ何?」
「これから何ができるかだ」
「……」
その言葉。
妙に残った。
「俺もさ」
マティアスが空を見る。
「昔は商人だった」
「聞いてます」
「小さい商売だ。馬一頭と荷車一台。塩運んだり、布運んだり、何でも売った」
「本当に行商人だったんだ」
「ああ」
「どうしてレオンハルト殿下のところへ?」
「捕まった」
「……は?」
「密輸で」
「ええ!?」
思わず大声が出た。
「密輸してたの!?」
「税が高かったんだよ」
「理由になってない!」
「商人にはなる」
「犯罪でしょう!」
「当時はな」
「今もでしょう!」
マティアスが大笑いする。
「それで処刑されそうになった」
「笑い話じゃない!」
「そこへレオンハルト様が来た」
「何て?」
「『お前、なんでこんな道知ってる』って」
「……」
「密輸で使ってた山道をな」
「あ」
「その三日後には、その道を使って兵糧を運ばされた」
「……」
何だそれ。
「犯罪者を?」
「そう」
「普通処罰するでしょう」
「処罰されたぞ」
「何された?」
「全財産没収」
「重い」
「そのあと給金払って雇われた」
「意味分からない!」
「俺もそう思った」
マティアスは楽しそうに笑う。
「でもな」
少しだけ、その声が変わった。
「初めてだった」
「何が?」
「俺が知ってることを、役に立つと言った奴は」
「……」
「商人なんて貴族から見れば金を持ってくる奴だ。平民から見れば値段を吊り上げる嫌な奴。密輸までしてた俺なんて、なおさらだ」
「……」
「でも、あの人は違った」
レオンハルト。
「『その山道を知っているなら使え』」
マティアスが笑う。
「それだけだった」
「……」
「変だろ?」
「変ですね」
「だろ?」
「でも」
「何だ?」
「少し分かる気がする」
俺も。
アルベルトに拾われた。
出自不明。
何者かも分からない。
それでも。
使えるなら使え。
考えろ。
そう言われた。
「似てるな」
マティアスが言った。
「何が?」
「俺とお前」
「どこが?」
「拾われたところ」
「……」
「それから」
俺を見る。
「使えるものが、剣だけじゃないところ」
「……」
俺は何も言わなかった。
マティアスもそれ以上は言わなかった。
◇ ◇ ◇
午後。
商人たちとの話し合いが始まった。
ヴァイスブルク側から五つの商会。
ハイゼンから来た商人三人。
ヨハン。
市場役人。
マティアス。
そして、なぜか俺。
「何で俺まで?」
「お前が先約の案を出したんだろ」
「先約?」
「先に買値を決める奴」
「ああ」
「なら説明しろ」
「俺が!?」
「言い出した奴が説明する」
「それヨハンさんにも言われた!」
「財務官と気が合いそうだな」
「嫌だなぁ……」
「聞こえております」
「うわっ!」
ヨハンが真後ろにいた。
「アレク殿」
「はい」
「説明を」
「……はい」
逃げられない。
俺は商人たちの前へ出た。
「えっと」
十人以上。
全員。
こっち。
見る。
戦場より緊張する。
「今回考えているのは、ハイゼンから羊毛や皮革を運んでくる前に、ヴァイスブルク側で買う量と値段をある程度決めておく方法です」
一人の商人がすぐに聞く。
「値段を先に?」
「はい」
「なぜ?」
「運んでから値段が下がってたら困るでしょう?」
「当然だ」
「なら、出発する前に『この量なら、この値段で買います』って約束しておけば、少なくともその分は安心して運べる」
「しかし」
別の商人。
「到着時の相場が高ければ、売る側が損をする」
「その通りです」
「なら誰も受けんぞ」
「でも逆に下がってたら買う側が損をする」
「……」
「だから」
俺は少し考えながら続ける。
「絶対に得する方法じゃないです」
商人たちがこちらを見る。
「じゃあ何のためだ?」
「分からないことを一つ減らすため」
「……」
「商人が危険な道を通る時、道の危険、護衛の費用、天気、馬の状態、色々考えるでしょう?」
「ああ」
「それに『着いた時いくらで売れるか分からない』まで入る」
「……」
「その一つだけでも先に決めておく」
部屋が少し静かになる。
「なるほど」
一人が呟いた。
「損をなくすんじゃない」
「はい」
「読めないものを減らす」
「そうです」
自分で話していて、少し分かった。
これは現代の制度をそのまま持ってくる話じゃない。
もっと単純でいい。
先に約束する。
ただそれだけ。
「だが、破ったら?」
「……」
そこ。
問題。
「片方が約束を守らなかった場合だ」
商人。
「相場が上がったから別の店へ売った。あるいは相場が下がったから買うのを拒否した。どうする?」
「……」
俺は黙った。
契約。
信用。
ここが現代と違う。
「罰金」
マティアスが横から言った。
「いくら?」
ヨハン。
「契約額の一割」
「高い」
「なら二十分の一」
「安すぎる」
「間を取るか」
「何でそんな早く決めるの」
俺が思わず聞く。
「決めないと進まん」
「でも」
「アレク」
ヨハンが言う。
「ここからは我々の仕事です」
「……」
「あなたは仕組みの入口を出した」
「はい」
「それをこの世界で実際に使える形へするのは、商人と役人が考えればよい」
「……」
なるほど。
全部俺が決めなくてもいい。
むしろ俺には決められない。
「分かりました」
「では」
マティアスが商人たちを見る。
「続けよう」
そこからの話は速かった。
契約できるのは登録された商会同士のみ。
最初は羊毛だけ。
期間は三か月試行。
量の上限を決める。
約束を破った場合の罰金。
争いが起きた場合、ヴァイスブルク側では市場役人、ハイゼン側ではグランヴァルト軍の商務担当が仲裁する。
俺の最初の案とは、かなり違う形になった。
でも。
それでいい。
俺が知っていることを、そのままこの世界へ押しつける必要はない。
使える形に変わればいい。
◇ ◇ ◇
話し合いが終わったのは夕方だった。
「疲れた……」
俺は城館の廊下を歩いていた。
「アレク」
後ろからマティアスに呼ばれた。
「何です?」
「少し来い」
「また仕事?」
「違う」
「ならいいです」
「お前、仕事嫌いだな」
「普通の会社員だったんで」
「カイシャイン?」
「あ」
また。
「いや、普通に働く人って意味です」
「変な言葉だな」
「忘れてください」
「覚えておく」
「やめて!」
マティアスは笑いながら中庭へ向かう。
俺も後を追った。
夕方の中庭にはほとんど人がいなかった。
「アレク」
「はい」
「俺のところに来ないか?」
「……」
一瞬。
本当に何を言われたのか分からなかった。
「何て?」
「俺のところに来い」
「どこ?」
「グランヴァルト軍」
「……」
「俺の補佐をやれ」
「……」
冗談。
ではない。
顔を見れば分かる。
「何で俺?」
「面白いから」
「レオンハルト殿下と同じこと言ってる」
「あの人もお前を気に入ってたぞ」
「聞いてるんですか?」
「ああ」
「……」
「剣も使える。戦場も多少見られる。それなのに市場や倉庫のことまで考える」
「多少って」
「まだ経験不足だろ」
「それはそうですけど」
「何より」
マティアスが笑う。
「俺が考えてないことを言う」
「……」
「そういう奴は近くに置いた方がいい」
「もし俺の考えが間違ってたら?」
「直す」
「失敗したら?」
「怒る」
「ひどい」
「成功したら?」
「もっと働かせる」
「もっとひどい!」
笑ってしまった。
でも。
答えは決まっていた。
「ごめんなさい」
「……」
「行けません」
マティアスは笑わなかった。
ただ静かに俺を見る。
「理由を聞いても?」
「俺を拾ってくれたのはアルベルト殿下です」
「……」
「何も持ってなかった俺をここに置いてくれた。剣を持たせて、仕事をくれて、考えることまで許してくれた」
ヴァイスブルク。
ラーデン。
ゲオルク。
トーマス。
ヨハン。
エリーゼ。
全部。
俺がこの世界に来てからできたものだ。
「今、それを捨てて別の国へ行くのは違うと思う」
「……」
「だから」
俺は頭を下げた。
「申し訳ありません」
少しの沈黙。
そして。
「そうか」
マティアスはそれだけ言った。
怒った?
顔を上げる。
マティアスは笑っていた。
「良かった」
「え?」
「そこで即答で『行きます』って言う奴なら、誘ったのを後悔してた」
「……何それ」
「自分を拾ってくれた相手を簡単に捨てる奴が、俺を簡単に捨てない保証があるか?」
「……」
この人。
そこまで。
「でも」
マティアスが続ける。
「誘いは取り消さない」
「断りましたよ?」
「今日はな」
「今日は?」
「気が変わったら来い」
「勝手だな」
「よく言われる」
「レオンハルト殿下に似てますよ」
「やめてくれ。あの人ほど無茶苦茶じゃない」
「似てます」
「似てない」
子供みたいに否定する。
「じゃあ」
マティアスが手を出した。
「今日はこれで終わりだ」
「はい」
俺も手を出す。
握手。
「次に会う時まで」
マティアスが言う。
「もっと面白くなってろ」
「何です、それ」
「俺もそうする」
「……」
少し。
胸が鳴る。
「分かりました」
「それでいい」
手を離す。
マティアスは背を向けて歩き始めた。
「マティアスさん!」
「何だ?」
振り返る。
「一つ聞いていい?」
「いいぞ」
「どうしてそんなに上へ行きたいんです?」
「上?」
「レオンハルト殿下の下で、もっと出世したいんでしょう?」
「当たり前だ」
「何で?」
マティアスは少し考えた。
そして。
「できることが増えるからだ」
「……」
「金があれば商人を動かせる。兵がいれば道を守れる。地位があれば貴族に話を聞かせられる」
夕日に照らされた男の顔から、笑みが消える。
「俺はな、アレク」
「はい」
「できるのに、身分がないからできないっていうのが一番嫌いなんだ」
「……」
「だから上へ行く」
「どこまで?」
聞いた。
マティアスは一瞬だけ俺を見る。
それから。
いつもの笑顔に戻った。
「行けるところまでだ」
「……」
「じゃあな」
手を上げ、今度こそ去っていく。
俺はその背中を見続けた。
できることを増やすために上へ行く。
行けるところまで行く。
知っている。
そんな男を。
いや。
知っている気がする。
「……豊臣秀吉」
小さく名前を口にした。
当然、マティアスには聞こえない。
違う。
まだ決めるな。
出自が違う。
経歴が違う。
性格も、俺が知っている秀吉像とは少し違う。
何より、マティアスはマティアスだ。
歴史上の誰かではない。
それでも。
レオンハルト。
そしてマティアス。
二人が並んだ時、俺の知る物語と似すぎている。
「……」
胸の中に生まれた違和感は、もう無視できるほど小さくなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
マティアスたちはヴァイスブルクを出発した。
西門から六台の荷車と十二人ほどの一行が出ていく。
俺は城壁の上からそれを見送っていた。
「行っちゃったわね」
隣にはエリーゼがいた。
「ああ」
「残念?」
「少し」
「ずいぶん気に入ったのね」
「面白い人だった」
「それだけ?」
「何?」
「別に」
エリーゼが少し不満そうな顔をする。
「何だよ」
「知らない」
「変なの」
「アレクに言われたくありません」
いつものやり取り。
俺は笑った。
その時、エリーゼが何気なく聞いた。
「誘われたんでしょう?」
「……何で知ってるの?」
「叔父様から聞いた」
「あの人!」
「行かないの?」
「断った」
「……」
エリーゼがこちらを見る。
「即答?」
「まあ」
「どうして?」
「俺は今、アルヴェインの人間だから」
「……そう」
エリーゼの表情が少しだけ柔らかくなった。
「何?」
「何でもない」
「絶対何かある」
「ありません」
「じゃあ何で笑ってる?」
「笑ってません」
「笑ってるって」
「うるさい!」
エリーゼがぷいっと顔を背ける。
俺はもう一度西を見る。
マティアスの一行は、もう小さくなっていた。
誘いは断った。
後悔はしていない。
俺には今いる場所がある。
帰る場所も。
守りたい人たちも。
だから今はこれでいい。
そう思っている。
ただ。
『気が変わったら来い』
あの言葉だけが、なぜか頭の片隅に残っていた。
俺はまだ知らなかった。
いつか。
今度は俺の方から。
あの男の背中を追う日が来ることを。
ついにアレクとマティアスが直接顔を合わせました。
アレクが一つの考えを出せば、マティアスはその先を考える。
そしてマティアス自身も、アレクの持つ「知識はあるのに経験が追いついていない」という不自然さに気づき始めています。
似ているところはある。
けれど、同じではない。
アレクの頭に浮かんだのは、豊臣秀吉という名前でした。
しかし出自も経歴も性格も違い、まだ答えを出すことはできません。
そしてマティアスからの最初の誘い。
アレクはそれを断りました。
今のアレクには、アルベルトをはじめ、この世界で得た仲間や帰る場所があります。
それを簡単に捨ててまで、別の主のもとへ向かうことはできませんでした。
けれどマティアスは、誘いそのものを取り消していません。
「気が変わったら来い」
今は断ったその言葉を、いつかアレク自身が思い返す日が来ます。
二人の出会いは、ここから始まります。




